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東京の路地を歩く|笹口幸男③

文学と神楽坂


 さらにこの路地の東側に、枝路地を二本もつ、より変化に富んだ迷路的な路地が走っている。お座敷てんぷら〈天孝〉をはじめ、〈高藤〉〈金升〉〈さがみ〉〈なが峰〉〈和光〉などの料亭や旅館、酒房などが占拠する、いかにも「花街」らしい一画だ。さっき、京都の町並みのようであると言ったが、ここもまさに伝統に富む京都に一脈通ずる品のよい都市空間を保っている。よそで見たならば、なんの変哲のない、犬を連れた老人の散歩ですら、ここでは絵になる、といったあんばいである。

路地 現在、かくれんぼ横丁と呼んでいます。

神楽坂の地図

神楽坂の地図

天孝 天孝、高藤、金升、さがみ、なが峰、和光のうち天孝だけが同じ店として生き延びています。他は全て閉店しました。右は1985年の「神楽坂まっぷ」で、この頃は全部が開店しています。また2007年には「わかまつ」で出火し、右隣りの「志のだ」に延焼しました。
かくれんぼ横丁
高藤金升さがみなが峰和光 全て閉店

 町並みのよさに加えて、私にとっての神楽坂のもう一つの魅力といえば、食の名店が多いことである。JR飯田橋駅に近いほうから思いつくままに挙げれば、甘味どころの〈紀の善〉。戦前は寿司屋だったこの店、あんもミツもともに自家製という。その横丁を入った左側には、手打ち蕎麦の〈志な乃〉がある。昼飯どきには、店の外まで人があふれている。量の多い太打ちの田舎そばは、ややヘビーに感じる向きもあるようだ。坂の右手途中には、ジャンボ肉まんで有名な中華料理の〈五十番〉、毘沙門天の先にある洋食の〈田原屋〉、牛肉ステーキが自慢の酒場〈河庄〉などなど、店に事欠かない。

紀の善 「ぜん」は文久・慶応年間(1861-1868年)に口入れ屋、つまり職業周旋業者として創業しました。建物は第二次世界大戦で焼失し、甘味処「紀の善」に変わりました。最後の名前の変更は戦後の昭和23年(1948)のこと。
紀の善
志な乃 現在も同じ場所の神楽小路で営業中。
志な乃
五十番 創業は昭和32年(1957年)。肉まんや中華料理が有名です。肉まんはほかのと比べて生地が厚くて、肉はちょっと少ない。2016年3月には本多横丁に向かって右側だったのが、左側になりました。
五十番

田原屋 19世紀末ごろ牛鍋屋として開業。その後、洋食屋とフルーツの店に変わりました。2002年2月に閉店。
田原屋
河庄 場所は不明です。と書きましたが、下の通信欄によれば、本多横丁にありました。

住宅地図。1984年

住宅地図。1984年

さらにこの路地の東側に、枝路地を二本もつ、より変化に富んだ迷路的な路地が走っている。お座敷てんぷら〈天孝〉をはじめなかでも〈田原屋〉は歴史を秘めた洋食屋である。一階が果物店で、レストランは二階。明治の中期、神楽坂のなかほどに牛鍋屋として創業されたこの店が、現在地に移ったのは大正三年だという。客のなかには、夏目漱石菊池寛佐藤春夫サトウハチローがいたようだ。さらに島村抱月松井須磨子も来たようだし、永井荷風の『断腸亭日乗』のなかにも、たびたび田原屋へ出かけたという記述が見られる。昼飯どきでも、この店には静かな落ち着きかあり、ゆったりと食事を楽しむ年配の客を多く見かける。

路地
明治の中期 19世紀末ごろ牛鍋屋として開業。その後、洋食屋とフルーツの店に変わりました。2002年2月に閉店。
断腸亭日乗 だんちょうていにちじょう。永井荷風の日記で、1917年(大正6年)9月16日から、死の前日の1959年(昭和34年)4月29日まで、激動期の世相と批判をつづったもの。

文学と神楽坂

東京の路地を歩く|笹口幸男④

文学と神楽坂

毘沙門天と三菱銀行の間にあるのが毘沙門横丁で、そこを入った裏手に一本ちょっとした路地が残っている。飲み屋、料亭、会員制スナックなどがある行き止りの路地だが、ちょうど歩いたときが晴天で、太陽が家の植木鉢や緑にさんさんと降り注ぎ、いかにものどかな午後を演出していた。永井荷風の『夏姿』という小説に「神楽坂の大通りを挟んで其の左右に幾筋となく入乱れている横丁といふ横丁、路地といふ路地」という文章があるが、そのわずかばかりの名残りといえよう。野口冨士男によれば、『夏姿』の主人公慶三が下谷お化横丁の芸者千代香を落籍して一戸を構えさせるのは、この横丁にまちがいないと言っている。(『私のなかの東京』)
毘沙門天 大きな毘沙門天はここです。毘沙門本尊1
毘沙門横丁 毘沙門横丁は神楽坂通りから垂直にでています。明治地図
行き止りの路地 毘沙門横丁4「行き止まりの路地」は考えられる路地の一つです。上図の「行き止まりの路地」を「ひぐらし小路」と名付けた人もありました(『ここは牛込、神楽坂』第13号。「神楽坂を歩く。路地・横丁に愛称をつけてしまった」)。小さいながら石畳です。毘沙門横丁とひぐらし小路に顔を出す高村ビルに懐石・会席料理「神楽坂 石かわ」があります。
夏姿 『夏すがた』は大正3年(1914年)、35歳に書いた永井荷風氏の小説です。次のように始まります

 日頃(ひごろ)懇意(こんい)仲買(なかがひ)にすゝめられて()はゞ義理(ぎり)づくで半口(はんくち)()つた地所(ぢしよ)賣買(ばいばい)意外(いぐわい)大當(おほあた)り、慶三(けいざう)はその(もうけ)半分(はんぶん)手堅(てがた)會社(くわいしや)株券(かぶけん)()ひ、(のこ)半分(はんぶん)馴染(なじみ)藝者(げいしや)()かした。
慶三(けいざう)(ふる)くから小川町(をがわまち)(へん)()()られた唐物屋(たうぶつや)の二代目(だいめ)主人(しゆじん)(とし)はもう四十に(ちか)い。商業(しやうげふ)學校(がくかう)出身(しゆつしん)(ちゝ)()きてゐた時分(じぶん)には(うち)にばかり()るよりも(すこ)しは世間(せけん)()るが肝腎(かんじん)と一()横濱(よこはま)外國(ぐわいこく)商館(しやうくわん)月給(げつきふ)多寡(たくわ)()はず實地(じつち)見習(みならひ)にと使(つか)はれてゐた(こと)もある。そのせいか(いま)だに處嫌(ところきら)はず西洋料理(せいようれうり)(つう)振廻(ふりまわ)し、二言目(ことめ)には英語(えいご)會話(くわいわ)(はな)にかけるハイカラであるが、(さけ)もさしては()まず、(あそ)びも(おほ)()景氣(けいき)よく(さわ)ぐよりは、こつそり一人(ひとり)不見點(みずてん)()ひでもする(ほう)結句(けつく)物費(ものい)りが(すくな)世間(せけん)體裁(ていさい)もよいと()流義(りうぎ)萬事(ばんじ)(はなは)抜目(ぬけめ)のない當世風(たうせいふう)(をとこ)であつた。

不見転(みずてん)とは、金次第でどんな相手とも肉体関係を結ぶ芸者のこと。

神楽坂… 『夏すがた』には次のような文章が残っています。

 神樂坂(かぐらざか)大通(おほどほり)(はさ)んで()左右(さいう)幾筋(いくすぢ)となく入亂(いりみだ)れてゐる横町(よこちやう)といふ横町(よこちやう)路地(ろぢ)といふ路地(ろぢ)をば大方(おほから)(ある)(まは)つてしまつたので、二人(ふたり)(あし)(うら)(いた)くなるほどくたぶれた。(しか)しそのかひあつて、毘沙門樣(びしやもんさま)裏門前(うらもんまへ)から奧深(おくふか)(まが)つて()横町(よこちやう)()ある片側(かたかは)(あた)つて、()入口(いりぐち)左右(さいう)から建込(たてこ)待合(まちあひ)竹垣(たけがき)にかくされた()(しづか)人目(ひとめ)にかゝらぬ路地(ろぢ)突當(つきあた)りに、(あつらへ)(むき)の二階家(かいや)をさがし()てた。
下谷 この場合は下谷区と考えた方がいいのでしょう。下谷区は浅草区と一緒になって台東区になりました。
お化横丁 お化横丁は下谷区のなかではおそらくありません。あるのは本郷区湯島の「お化け横丁」です。春日通りの1本南側のとても細い道をこう呼びました。図では「お化け横丁」を青い線で描いてあります。 おばけ横丁 池之端寄りにあるのが下谷区の「下谷花柳界」、湯島寄りには本郷区の「天神下花柳界」があり、実際は2つは同じ花街として成長してきました。たぶん永井荷風氏もほかの人と同じように名前を間違えたのでしょう。なお、「お化け横丁」とは芸者衆も昼間はスッピンで、でも夕方になると化粧をして顔が変わることから。
落籍 らくせき。抱え主への前借金などを払り、芸者の稼業から身をひかせること。身請け。
この横丁に 下に引用していますが、野口冨士男氏は「毘沙門横丁」と「この横丁」は同じだと言っているようです。一方、笹口幸男氏は「この横丁」は行き止りの路地なので、「ひぐらし小路」と同じものと考えているようです。
私のなかの東京 『私のなかの東京』には次のような文章があります。

 三菱銀行と善国寺のあいだにあるのが毘沙門横丁で、永井荷風の『夏姿』の主人公慶二が下谷のお化横丁の芸者千代香を落籍して一戸を構えさせるのは、恐らくこの横丁にまちかいないが、ここから裏つづきで前述の神楽坂演芸場のあったあたりにかけては現在でも料亭が軒をつらねている。

裏つづきで神楽坂演芸場があった場所にもちろんいけます(2つ前の図を参照)が、「料亭が軒をつらねている」よりは現在は「料亭も2、3軒ある」と書いた方がよさそうです。
これから千代香との関係はどう変わっていくのか、慶三はどうして「充分に安心し且つ充分に期待して」千代香と関係していくのか、自然主義では絶対にこうはいかないと思いました。

 

文学と神楽坂