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三百人の作家③|間宮茂輔

文学と神楽坂

 間宮茂輔氏の『三百人の作家』(五月書房、1959年)から「神楽坂生活序曲」です。

 そのいっぽう神楽館では、広津を中心に、片岡長田島田、わたしなどが一室に膳をならべて食事をとるような一種の共同生活がつづいていた。食事や雑談にはいろんな雑誌の編集者をはじめ、それぞれの友人たちが絶えずくわわった。たとえば片岡鉄兵のところへは横光川端なども訪ねて来たが、彼等の往来はのちに新感覚主義の運動が展開される土台づくりであったのかも知れない。
 当時の神楽坂はまだ旧東京のおちつきと、花柳界的な色彩とが、自然に溶け合い、一筋の坂みちながら独特の雰囲気があった。フルーツ・パーラーの田原屋や、坂下のコーヒー店に坐っていると、初々しいほど頬のあかい水谷八重子が兄夫婦に守られながら通って行く。初々しい八重子はせいぜい二十一か二であったろう。そうかとおもうと、新劇俳優の東屋三郎が歩いている。後に三宅艶子と結婚した画家の阿部金剛が、パラヒン・ノイズだとわたしたちが蔭で綽名をつけた愛人とならんで散歩している。同じく画家の上野山清貢が、水野仙子との仲に出来た赤ん坊を半纒ぐるみにおぶって通って行く。貧乏で、牛ばかり描いていたこの画家は、作家でもあった愛妻と死別したあとの哀しみを文字どおりの蓬頭垢面にかくしているようにみえた。(上野山かあのころおンぶしていた赤ん坊も、健在ならばすでに四十近いのではあるまいか)
 神楽坂はまた矢来の新潮社へいく道すじでもあって、「文士」の往来が絶えなかった。雑誌「新潮」の編集者として、「中央公論」の滝田檽蔭としばしばならび称された中村武羅夫や、同じく「新潮」の編集者であった水守亀之助‥‥一名「ドロ亀さん」などが、よく通った。容貌魁偉の中村武羅夫がわたしにはひどくこわいものにみえてならなかった。
 矢来に住んでいる谷崎精二が、夕方になると、細身のステッキを腕にひっかけて、そろりそろりと神楽坂に現われる。同じく矢来在住の加能作次郎もおじさん風の姿をみせた。佐々木茂索はその頃まだ時事新報の文芸部にいたが、これも矢来に住んでおり、渋い和服の着流しに、やはりステッキを持ち、草履ばきという粋なかっこうであさに晩に通って行く。色白なメガネの顔に短い囗ひげを立てた佐々木茂索には、神楽坂の芸者で血みちをあげているのがいた。
矢来に住んでいる 谷崎精二氏や加能作次郎氏、佐々木茂索氏は矢来町に住んでいたのでしょうか。現在、わかる限り、谷崎精二氏や加能作次郎氏は確かに矢来町の近傍に住んでいましたが、矢来町には住んでいないようです。浅見淵氏の『昭和文壇側面史』を読むと、佐々木茂索氏では若いときに「矢来町の洋館に住んでいた」と書かれていますが、ここも天神町でした。

長田重男 芸術社の幹部。鎌倉の旅館「海月」の息子。英語が巧く、久米正雄や里見弴を知っていた。
島田 芸術社の番頭。他は不明。
三宅艶子 小説家、評論家。三宅恒方の長女。画家阿部金剛と結婚、阿部艶子名で執筆し、離婚後は三宅姓。昭和33年随筆集「男性飼育法」を発表、ユニークなタイトルで女性の人気をよんだ。生年は大正元年11月23日、没年は平成6年1月17日。享年は満81歳。
阿部金剛 あべこんごう。洋画家。阿部浩の長男。岡田三郎助にまなぶ。フランスでビシエールに師事し、藤田嗣治らの影響をうける。以後、超現実主義的な作品を発表。生年は明治33年6月26日、没年は昭和43年11月20日。享年は68歳。
パラヒン・ノイズ パラヒンはParaffin。現在のパラフィン。蝋紙とも。パラフィン紙とは、紙にパラフィンを塗り、耐水性を付与した紙。甲高い声なのでしょうか。
新感覚主義 横光利一、川端康成、片岡鉄兵、中河与一、稲垣足穂らの、大正末~昭和初期の文学流派。自然主義リアリズムから解放し、新しい感覚と表現技法、翻訳小説と似た新奇な文体が特徴。
蓬頭垢面 ほうとうこうめん。乱れた髪とあかで汚れた顔。身だしなみに無頓着なこと。
 

わが自然と人生|中村武羅夫

文学と神楽坂

中村武羅夫 昭和10年、中村武羅夫(むらお)氏の随筆『わが自然と人生』が出版されました。過去10年ほどの文章をまとめたものです。氏の生年は1886年(明治19年)10月4日。没年は1949年(昭和24年)5月13日で、この出版は49歳のことです。
『文章世界』の投稿から文学活動を始め、小栗風葉に師事。『新潮』の編集に参加。1925年には『不同調』を創刊。大正末の私小説論争、29年の『誰だ? 花園を荒す者は!』でマルクス主義文学批判など新興芸術派運動の中心的人物でした。

   神樂坂
 都會の散歩街としては、銀座などよりも、私に取つて、遙かに牛込の神樂坂の方が、親しみがある。
 神樂坂は、私に取つて長い間の馴染みのある町だ。私が東京へ出て來たのは、今から殆んど二十年近くも以前のことである。私は、最初、その頃麹町の三番町に住んで居た伯母の家に一先づ落着いた。私の上京したのは、故郷の北海道の山野も、畑も、村も、町も、まだ、深々と雪に埋まつて居る三月のことだつた……
 私が、初めて神樂坂を知つたのは、その年の六月、ちやうど梅雨晴れの苛ら苛らしたやうな日の光りが、かつ(、、)と眩しく照りつけた眞晝時のことだつた。私は、大町桂月の紹介狀を持つて、その頃矢來の奥の方に居た小栗風葉を訪ねて行つたのであつたが、その時通つた神樂坂の印象を忘れるととが出来ない。
 江戸名所圖繪を見ると、江戸時代の神樂坂には、一段々々の段々が附いて居る。今から約二十年ぱかり前は、まさか段々こそ附いては居なかつたけれども、勿論、今のやうな完全なアスハルトの道ではなかつたし、道幅なども、もう少し狹かつたやうに覺えて居る。

麹町 こうじまち。東京都千代田区の地名。旧麹町区の三番町は赤い太線で示しました。三番町1
その年 中村武羅夫氏は上京したのは明治40年(1907年)の21歳の時です。
奥の方 小栗風葉はこの時牛込矢来町3にいました。矢来町3は巨大な住所であり、どこに住んでいたのかわかりません。
江戸名所図絵 確かに階段ができていました。

御旅所 江戸名所図絵

江戸名所図会

アスハルト 炭化水素を主成分とする黒色の固体~半固体。ほとんどは石油精製過程で得られます。道路舗装のほか絶縁材・塗料などに利用。昭和10年、坂上はアスファルト舗装になっていました。

 狹い往來には、兩側の店のが、蔽ひかぶさるやうに突き出て居る。濡れた地べたからは苛ら苛ら暑い日光に照らされるので、むつ(、、)と暑苦しい水蒸氣が立ち昇り、狹い往來を、大勢の人々が右往左往して居る……そこへ一疋の痩犬が、ひよろひよろしながらやつて來た。私は、その時の神樂坂の息苦しいやうに狹い、しかも雜沓した光景に、よぼよぼの惨めな痩犬を點出して「痩犬」といふ文章を書いた。田山花袋氏は、その文章を讀んで、「作者のデカダン的苦悶の影が、よく出てゐる。」と批評してくれた。私が、デカダンといふ言葉を初めて知つたのは、その時だつた。
 その時分から見ると、神樂坂の面目も、なかなか變つて來た。今から約二十年以前の神樂坂は、もつと日本的な、古風な感じがあつたやうに思ふ。十四五年來、いろんな生活樣式の上に、俗悪なアメリカ文化が、非常な勢ひで取り入れられるやうになつてから、まだ、いくらかは古風な感じを持つて居た神樂坂も、西洋館の銀行などが幾軒となく出來たり、安つぽい西洋館まがひの店舗が出來たりして、大分變つて來た。道路の幅なども廣くなり、アスハルトを敷き詰めて、だんだん文化的になつて來た。
 さういふ點に厭味があると言へば、厭味がないこともないが、私は、そゞろ歩きなどする場合に、銀座などよりは、どうしても神樂坂の方が好ましい氣がする。これは何も私が、神樂坂を初めて見て以來、私の生活が、神樂坂に深い緣故がつゞいて來たからといふわけではない。一面には、さういふ親しみもあるかも知れないけれども、肴町の停留場から坂下までの間は、町幅と言ひ、家並の工合と言ひ、往来の適度なくねり(、、、)方、波打つやうな起伏――さういふ點に趣きがあつて、私は神樂坂の通りを大へん氣持のいい町だと思ふ。
 銀座のやうに電車の走る町、ちつとも曲線を持たない、真直ぐな町、あゝいふ町よりも、神樂坂の方が、遙かに私に取つては風情がある。
 ひさし。建物の窓・出入り口・縁側などの上部に張り出す片流れの小屋根。(のき)
点出 画面に目立つように描き出すこと。
痩犬 国立国会図書館で調べましたが、残念ながら中村武羅夫氏の『痩犬』という文章はありませんでした。
デカダン 「衰退」を意味するフランス語から、退廃的な態度をとること
そぞろ歩き 当てもなく、気の向くままにぶらぶら歩き回ること
肴町の停留場 市営電車(チンチン電車)の停留場で、現在の四つ角「神楽坂上」(昔は「肴町」)よりも大久保寄りの場所にたっていました。現在の都営バスの停留所に近い場所です。
肴町

夏目漱石と中村武羅夫

文学と神楽坂

 中村武羅夫(むらお)氏が書いた「文壇随筆」(感想小品叢書、第10編、新潮社、大正14年) の一節です。ちなみに中村氏(1886(明治19)/10/4~1949(昭和24年)/5/13)は明治から大正にかけて活躍した編集者、評論家で、『新潮』訪問記者を振り出しに「新潮」の中心的編集者となりました。大衆小説も量産しますが、現在はほとんど残っていません。

 私が、湯の中で小便して、漱石に顏をあらはせて、大いに漱石をおこらしたといふやうなゴシツプが、つたへられたことがある。が、これはまちがひである。私だつて、まさか自分の小便で、人に顏をあらはせるやうな、そんな人の惡いまねをする筈はない。
 それは多分、次ぎのやうな話しが、誤傳されたものだと思ふ。
 その當時、漱石の家に、湯殿があつたかどうかを、私は知らない。漱石の家は、やつぱり現在の、早稻田南町だつたが、今のやうな堂々たる邸宅ではなく、確に家賃は四十五圓とかと漱石自身の口から聞いたことがあると思ふが、借家だつた。勿論、湯殿はあつたことだらう。が、直き前の錢湯に、よく出かけて來た。大抵、一番()いた十時ごろから二時ごろまでの間だつた。私もよくその錢湯に行つたので、時々湯の中で出逢ふことがあつて、「やあ」「やあ」と、裸で挨拶するのであつた。
「先生、湯に入ると、自然に小便が出たくなりませんか?」
 或時、私が、風呂の中で聞いた。
「湯の中でか?」
 漱石は、やつぱり湯に浸りながら、斯う反問した。
「さうです。」
「ないね。――君は、そんなことがあるか?」
「ぢや、僕だけですかね。僕は湯に入ると、自然に小便がしたくなるんです。」
「汚いね。」漱石は口尻をしかめて苦笑したが、急に立ち上がつて、「そんなことをいつて、君は今、したんぢやないか?」と詰問した。
「そんなことがあるもんですか。」と私は笑つた。
「どうだか、怪しいものだ。君が小便したんだと、僕は、君の小便で顏をあらつたことになる。汚いね。」
 漱石は、もう一度顏をしかめて、苦笑した。
 そんなことが、私が、自分の小便で、漱石に顏をあらはせたなどゝいふゴシツプに、誤りつたへられたのであらう。お蔭で私は、その後時々、德田秋聲氏と一緒に旅行などして、風呂には入つたり、溫泉に浸つたりする度に、「君、小便をしはしまいね。」などゝ、念を押されるのである。「僕と一緒の時には、それつだけは、一つ勘辨してくれたまへ。」と秋聲は、私をからかふのである。

 ここで徳田秋声氏の話が入っているのがうまく、最後で笑ってしまいます。徳田秋声氏も自然主義の小説家で、1872年2月1日(明治4年12月23日)に生まれました。ちなみに漱石氏は、徳田秋声氏よりも5年早く生まれ、1867年2月9日(慶応3年1月5日)でした。中村武羅夫氏は漱石氏よりも約20年も若い人でした。



[硝子戸]