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神楽坂の中心

文学と神楽坂

 地元の方から「神楽坂の中心」というエッセイを頂きました。

 大正から昭和初期の神楽坂が最も栄えた時代、その中心は毘沙門さま周辺の3丁目から4丁目(旧・上宮比町)、5丁目(旧・肴町)にかけてだったそうです。表通りに石造りの立派な店が多く、裏にキメ細かな路地と賑やかな花町が広がっていました。

 当時の坂の中腹から下は、通り沿いこそ店が並んでいたものの、裏通りは住宅や倉庫、学校などが主だったようです。「古老の記憶による震災前の形」で1-2丁目の裏道の路地が描かれていないのも、坂下の「紀の善」が昔は職人相手の店だったのも、「田原屋」毘沙門天の隣で大いに栄え、兄弟店が少し離れた場所にあったのも、こうした表れのように感じます。


古老の記憶による震災前の形 新宿区立図書館資料室紀要4「神楽坂界隈の変遷」昭和45年に出ています。インターネットでみることも可。
職人相手の店 牛込倶楽部の「ここは牛込、神楽坂」第17号の冨田冨江氏の「神楽坂昔がたり」「紀の善と牡丹屋敷」では
 神楽坂の上り口の左角に、旗本屋敷直属の牡丹屋敷というのがありました。そこで牡丹を栽培していたといわれていますが、栽培していたのは主に薬草で、それを江戸城の本丸に届けていたのだとか。
 紀の善は、その牡丹屋敷の専属で、お屋敷から使いがきて、きょうは30人頼むとか、さようは雨だから5人でいいとかいってくると、それに合わせて若い者を出して、薬草の手入れをやっていたそうです。
 浅草では、幡随院長兵衛がそういうのを仕切っていましたが、神楽坂では代々紀の善がやってきたのだとか。それで、紀の善は、親分以下、若い者みんなに、桜と蝶の彫り物……そう、入れ墨をさせていたんです。絵柄を牡丹にしてはお屋敷に失礼にあたるからと、桜と蝶にしたとかで。

 江戸時代の商売は江戸城に薬草を届け、明治から戦前までは寿司、戦後は甘味処です。職人相手の店といえないと思います。
田原屋 毘沙門天の側は5丁目で長男、兄弟店は3丁目で3男がやっていました。牛込倶楽部の「ここは牛込、神楽坂」第17号「お便り投稿交差点」の奥田卯吉氏の「おれも江戸っ子、神楽坂」では
 神楽坂三丁目五番地に三兄弟たる高須宇平、梅田清吉と、父の奥田定吉が、明治末期に、当時のパイオニアとしての牛鍋屋を始めた(中略)
 時代の先端をゆく父たちは、五丁目の魚屋の店が売り物に出たので、長男はそこでレストランを始め、当時、個人のレストランとしては珍しいフランス料理のコースを出していた。次男は通寺町(現神楽坂6丁目)の成金横丁で小さな洋食屋を出した。特定の有名人等を相手にした凝った味で知られる店だった。
 末弟の父は、そのまま残って高級果物とフルーツパーラーの元祖ともいわれる近代的なセンス溢れる店舗を出現させた。

 戦後も毘沙門さまが中心だという意識は残っていました。神楽坂の夜店は「5の日の縁日」として限定的に復活し、昭和50年頃まで続いたと記憶します。しかし露店が並んだのは藁店から見番ぐらいがせいぜいで、坂下に賑わいは及びませんでした。1丁目の商店会会員は、そのことが不満だったそうです。

 様相が変わったのはビルが建ち、多くの貸店舗ができはじめた頃でしょう。飯田橋駅に近い坂下と、地下鉄東西線の神楽坂駅に近い6丁目(旧・通寺町)の店や事務所の家賃が、毘沙門さま周辺より高くなる「逆転現象」がおきました。

「神楽坂上」の位置づけが戦前・戦後で変わったことも影響していると思います。現在の神楽坂上の交差点から牛込北町にかけては戦前、牛込区役所(現・箪笥町特別出張所)を中心としたビジネス街で、牛込の中心と目されていたそうです。しかし戦後、区役所が新宿に移り、さらに地域交通の大動脈だった大久保通りの都電が撤去されると、一転して「不便な場所」「陸の孤島」になってしまいました。相対的に、飯田橋駅に近い坂下の価値が上がったのです。

 毘沙門さまの場所は飯田橋駅と神楽坂駅の中間で、ある意味「中途半端」です。坂下に比べると人通りも少ない。中心とは言いにくくなってしまいました。

 とはいえ新たな変化も芽生えています。近年、神楽坂がメディア等で紹介されて人気が高まった結果として、昔より広い範囲が「神楽坂」と認識されるようになりました。都営大江戸線の牛込神楽坂駅が坂上に開業したことも、それを後押ししています。今日、神楽坂として括られる範囲には、矢来町筑土八幡町中町南町まで含まれることがあります。しかし、さすがに区が違う千代田区富士見町は入りません。

 新しい広域の神楽坂の中心は、やはり毘沙門さまになるのではないでしようか。

限定的に復活 渡辺功一氏の「神楽坂がまるごとわかる本」(展望社、2007年)では「戦後は、縁日の出店がままならずにしばらくその火が消えていたが、昭和33年7月に、商店街の尽力で毘沙門の境内と門前に縁日がめでたく復活し、毎月5の日に開かれている」
地下鉄東西線の神楽坂駅 現在、地下鉄の飯田橋駅、神楽坂駅、牛込神楽坂駅があります。

千代田区富士見町 千代田の北西部に位置し、富士見一丁目と二丁目になる。


神楽坂文芸地図|中町

文学と神楽坂

中町の最東部に手作り肉まん「フル オン ザ ヒル」があります。肉まんの大きさは五十番の半分弱ですが、実は神楽坂一番の美味しさ。そこの壁に「神楽坂文芸地図」があります。小さい文章で、一枚にぎっしり書き込んであります。

では、文芸地図をどうぞ。拡大できます。十分、読めます。

文芸地図

神楽坂文芸地図


安田武|天国に結ぶ恋1

文学と神楽坂

安田武安田武氏が書いた『昭和 東京 私史』(昭和57年、1982年)のなかの「天国に結ぶ恋」の初めの部分です。

 氏の生年は大正11年11月14日。没年は昭和61年10月15日。上智大在学中の昭和18年、学徒出陣。戦後、戦争体験の継承を訴え、日本戦没学生記念会「わだつみ会」の再建につくして常任理事にも。著作に「戦争体験」「芸と美の伝承」など。

 冬場になると、神楽坂の「田原屋」へカキのコキールを食べに出掛ける。戦争前から往きつけの店というのは、もう数えるほどになったが、田原屋がその数少ない一軒だ。
 神楽坂は「その山の手式の気分と下町式の色調とが、何等の矛盾も隔絶もなしに、あの一筋の街上に不思議にしっくりと調和し融合して」いる、と加能(かのう)作次郎(さくじろう)が書いたのは昭和のはじめだが、半世紀余を経た今も、やはりそのとおりだと思う。
 表通りには、昔ながらの(うま)いもの店や、乾物屋とか漬け物屋とか日用の便があって、一筋入ると柳暗花明の色めいた路地、そしてその奥が、がらりと変わって閑静で気品のある住宅街。巨万の富があって、どこにでも好きに住める身だったら、袋町若宮町でなければ、北町中町南町、あの辺りに小ぢんまりした家がもちたい。
Coquilleコキール フランス語のコキーユcoquilleの英語読み。本来は貝や貝殻のこと。エビ・カニ・魚などを下調理してクリームソースなどであえ、貝殻そのものや貝殻形の器に盛り、天火で表面を焼いた料理。
その山の手… 『大東京繁昌記』「早稲田神楽坂」の「独特の魅力」に書いてあります。ここで
柳暗花明 りゅうあんかめい。柳の葉が茂って暗く,花が明るく咲きにおっていること。美しい春の景色。転じて花柳街。色町。
袋町 牛込袋町、光照寺、近隣の旧武家地などが集まって袋町。昔は風光明媚なところでした。袋町の桜に書いてあります。
若宮町 武家地と町屋。『牛込神楽坂若宮町小史』(若宮会、若宮町自治会、1997年)には「かつて武家屋敷であった若松町は、時代の移り変わりとともに一般住宅、料亭、商店、飲食店などが入り混じって、独特な雰囲気があります」
北町、中町、南町 江戸時代には幕府徒町の大縄(おおなわ)地でした。大縄とは同じ組に属する武士がまとまって一区画の屋敷地をもらうこと。この屋敷地を大縄地といいました。この御徒組大縄地は牛込御徒町と呼ばれ、北御徒町・中御徒町・南御徒町に分かれ、組頭2名と(かち)、あるいは御徒(おかち)28名~30名が住んでいました。徒とは江戸城や将軍の護衛を行う騎馬を許されぬ軽輩の下級武士です。

昭和56年

昭和56年の地図から。今の目で見ると違うことになっている場所もあります。

ちなみに固定資産税路線価情報を使って、各価格を調べてみました。平成26年の袋町6番13の値段は550,000円/㎡、若宮町29番1は599,000円/㎡、中町32番1は539,000円/㎡です。まあ、関係はないんですが、神楽坂2丁目12番18は1,350,000円/㎡でした。
 で、80㎡の土地を買うと、袋町で4400万円、若宮町は4792万円、中町4312万円、神楽坂2丁目は1億800万円がかかります。実際には2倍かかるのではないでしょうか。


東京の三十年|田山花袋

文学と神楽坂

『東京の三十年』は田山花袋の回想集で、1917(大正6)年、博文館から書きおろしました。ここでは『東京の三十年』の1節「山の手の空気」の1部を紹介します。

山の手の空氣

牛込市谷の空氣もかなりにこまかく深く私の氣分と一致している。私は初めに納戸町、それから甲良町、それから喜久井町原町といふ風に移つて住んだ。
 今でも其處に行くと、所謂やまの空氣が私をたまらなくなつかしく思はせる。子供を負つた束髮の若い細君、毎日毎日惓まずに役所や會社へ出て行く若い人達、何うしても山の手だ。下町等したまちなどでは味はひたくても味ふとの出来ない氣分だ。

納戸町、甲良町、喜久井町、原町 新宿区教育委員会生涯学習振興課文化財係の『区内に在住した文学者たち』によれば、満17歳で納戸町12に住み、18歳で甲良町12、22歳で四谷内藤町1、24歳で喜久井町20、30歳で納戸町40、31歳で原町3-68に住んでいました。ここで細かく書いています、
束髮 そくはつ。明治初期から流行した婦人の西洋風の髪の結い方。形は比較的自由でした。

牛込で一番先に目に立つのは、又は誰でもの頭に殘つて印象されてゐるだらうと思はれるのは、例の沙門しやもん緣日であつた。今でも賑やかださうだが、昔は一層賑やかであつたやうに思ふ。何故なら、電車がないから、山の手に住んだ人達は、大抵は神樂(かぐら)(ざか)の通へと出かけて行つたから……。
 私は人込みが餘り好きでなかつたから、さう度々は出かけて行かなかつたけれど、兄や弟は緣日毎にきまつて其處に出かけて行つた。その時分の話をすると、弟は今でも「沙門しやもん緣日えんにちにはよく行つたもんだな……母さんをせびつて、一銭か二銭貰つて出かけて行つたんだが、その一銭、二銭を母さんがまた容易よういに呉れないんだ」かう言つて笑つた。兄はまた植木が好きで、ありもしない月給の中の小遣ひで、よく出かけて行っては――躑躅、薔薇、木犀海棠花、朝顔などをその節々につれて買つて来ては、緣や庭に置いて楽んだ。今。私の庭にある大きな木犀もくせいは、実に兄がその緣日に行つて買って来て置いたものであった。
 神樂阪の通に面したあの毘沙門の堂宇だうゝ、それは依然として昔のまゝである。大蛇の()(もの)がかゝつたり何かした時の毘沙門と少しも違つていない。今でも矢張、賑やかな緣日が立つて、若い夫婦づれや書生や勤人つとめにんなどがぞろぞろと通つて行つた。露肆や植木屋の店も矢張昔と同じに出てゐた。
 さうした光景と時と私の幻影に殘つてゐるさまとが常に一緒になつて私にその山の手の空氣をなつかしく思はせた。私の空想、私の藝術、私の半生、それがそこらの垣や路や邸の栽込うゑこみや、乃至は日影や光線や空氣の中にちやんとまじり込んで織り込まれているような氣がした。

毘沙門 仏教における天部の仏神。持国天、増長天、広目天と共に四天王の一尊に数えられる武神
縁日 神仏との有縁うえんの日。神仏の降誕・示現・誓願などのゆかりのある日を選んで、祭祀や供養が行われる日にしました。
電車 市電(都電)のことです。もちろん、この時代(明治20年代頃)、鉄道は一部を除いてありません。
躑躅 つつじ。ツツジ科の植物の総称。中国で毒ツツジを羊が誤って食べたところ、もがき、うずくまったといいます。これを漢字の躑躅(てきちょく)で表し、以来、中国ではツツジの名に躑躅を当てました。
木犀 もくせい。モクセイ科モクセイ属の常緑小高木
海棠花 かいどうはな。中国原産の落葉小高木。花期は4-5月頃。淡紅色の花。
堂宇 どうう。堂の軒。堂の建物
露肆 ほしみせ。ろし。路上にごさを敷き、いろいろな物を並べて売る店

中町の通――そこは納戸町に住んでゐる時分によく通つた。北町、南町、中町、かう三筋の通りがあるが、中でも中町が一番私に印象が深かつた。他の通に比べて、邸の大きなのがあつたり、栽込(うゑこみ)綺麗(きれい)なのがあつたりした。そこからは、富士の積雪が冬は目もさめるばかりに美しく眺められた。
 それに、其通には、若い美しい娘が多かつた。今、少將になつてゐるIといふ人の家などには、殊にその色彩が多かつた。瀟洒(せうしや)な二階屋、其處から玲瓏(れいろう)と玉を(まろば)たやうにきこえて來る琴の音、それをかき鳴らすために運ぶ美しい白い手、そればかりではない、運が好いと、其の娘逹が表に出てゐるのを見ることが出來た。

瀟洒 俗っぽくなくしゃれているさま
玲瓏 玉などの触れ合って美しく鳴るさま。また、音声の澄んで響くさま
轉ぶ まろぶ。まろぶ。くるくる回る。ころがる。ころがす

納戸町の私の家は、その仲町の略々盡きやうとする處にあつた。私の借りてゐる大家の家の娘、大蔵省の屬官をつとめてゐる人の娘、その娘の姿は長い長い間、私が私の妻を持つまで常に私の頭に(から)みついて殘つてゐた。その父親といふ人は、毎年見事に菊をつくるのを樂みにしてゐた。確かその娘も菊子と呼ばれた。『わが庭の菊見るたびに牛込のかきねこひしくおもほゆるかな』『なつかしき人のかきねのきくの花それさへ霜にうつろひにけり』かういふ歌を私は私の『(うた)日記(につき)』にしるした。
 その娘は後に琴を習ひに番町まで行った。私は度々その(あと)をつけた。納戸町の通を浄瑠璃阪の方へ、それから濠端へ出て、市谷見附を入つて、三番町のある琴の師匠(しゝやう)の家へと娘は入つて行った。私は往きにあとをつけて、歸りに叉その姿を見たい爲めに、今はなくなつたが、市谷の見附内の土手(どて)の涼しい木の蔭に詩集などを手にしながら、その歸るのを待つた。水色の蝙蝠傘、それを見ると、私はすぐそこからかけ下りて行つた。白茶の繻子の帶、その帶の間から見ると白い柔かな肘、若い頃の情痴(じやうち)のさまが思ひやらるゝではないか。『今でも逢つて見たい。否、何處かで逢つてゐるかも知れない。しかし、もうすつかりお互に變つてゐて、名乘りでもしなければわからない』不思議な人生だ。

納戸町 納戸町は新宿区の東部で、その東部は中町や南町と、南東部は払方町と市谷鷹匠町と、南部は市谷左内町と、西部は二十騎町と市谷加賀町と、北西部は南山伏町・細工町に接する。町域内を牛込中央通りが通っている。田山花袋退いた場所は中町に続く場所だった。
属官 ぞっかん。ぞくかん。下役の官吏。属吏
明治28年番町 ばんちょう。千代田区の西部で、元祖お屋敷街。東側は内堀通り、北側は靖国通り、南部は新宿通り、西部は外堀通りで囲まれた場所。
浄瑠璃坂 じょうるりざか。新宿区の市谷砂土原町一丁目と同二丁目の境を、西北方の払方はらいかた町に向かって上る坂。
濠端 ほりばた。濠は水がたまった状態のお堀。濠のほとり。濠の岸
市谷見附 江戸城の外郭に構築された城門を「見附」といいます。お堀の周りにある門。見附という名称は、城門に番所を置き、門を出入りする者を見張った事に由来します。外郭は全て土塁で造られており、城門の付近だけが石垣造りでした。市ヶ谷見附ではJR中央線が走っています。
三番町 千代田区の町名。北部は九段北に、東部は千鳥ヶ淵に、南部は一番町に、西部は四番町に接する。
250px-Satin_weave_in_silk繻子 しゅす。繻子織りにした織物。通常経糸たていとが多く表に出ていて、美しい光沢が出るが、比較的摩擦には弱い。

こんなことを考へるかと思ふと、今度は病後の體を母親につれられて、運動にそこ此處(ここ)と歩いたことが思ひ出される。やきもち阪はその頃は狹い通であつた。家もごたごたと汚く並んでゐた。阪の中ほどに名代(なだい)鰻屋があつた。
 病後の私は、そこからそれに隣つた麹阪の方をよく散歩した。母親に手をひかれながら……。小さな溝を跨がうとして、意氣地(いきぢ)なくハタリと倒れたりなどした。母親もまだあの頃は若かつた。
 柳町の裏には、竹藪(たけやぶ)などがあつて、夕日が靜かにさした。否そればかりか、それから段々奥に、早稲田の方に入つて行くと、梅の林があつたり、畠がつゞいたり、昔の御家人(ごけにん)零落(れいらく)して昔のまゝに殘つて住んでゐるかくれたさびしい一區劃があつたりした。其時分はまだ山の手はさびしかつた。早稲田近くに行くと、雪の夜には(きつね)などが鳴いた。『早稲田町こゝも都の中なれど雪のふる夜は狐しばなく』かう私は咏んだ。

やきもち阪 やきもち坂。焼餅坂は新宿区山伏町と甲良町の間を西に下って、柳町に至る、大久保通りの坂です
鰻屋 場所は不明
麹阪 麹坂。こうじざかでしょうか。東京に麹坂という坂は聞いたことはありません。それでも探す場合には「それに隣つた麹阪の方をよく散歩した」という文章だけです。明治20年の地図では、焼餅坂や大久保通りと隣り合わせにある坂は1本南にある坂だけです。他にもありえますが、これを麹坂だとしておきます。0321
跨ぐ またぐ、またがる。またを広げて両足で挟むようにして乗る
意氣地 ()()。事をやりとげようとする気力や意気地がない。やりとげようとがんばる気力がない。
柳町 市谷柳町は新宿区の東部に位置し、町内を南北に外苑東通り、東西に大久保通りが通り、市谷柳町交差点で交差している。
御家人 将軍直属の家臣で、御目見以下の者。将軍に直接謁見できない。
零落 おちぶれること

宮城道雄記念館|中町

文学と神楽坂

 昭和53年(1978)12月6日、宮城道雄氏が晩年まで住んでいた敷地に建設された日本で最初の音楽家の記念館です。目で見る展示のほか、耳で聴く設備などがあります。
 まず右手の奥に「宮城道雄氏略伝」があります。

 宮城道雄氏略伝

宮城道雄氏略伝

 宮城道雄は明治二十七年四月七日神戸市に生る 生後二百日にして悪質の眼病あり九歳遂に失明し2代目神戸中嶋検校の門に入る その芸術的天分は夙に音楽に発現し十六歳にして処女作「水の変態」を成し 爾来「春の海」「秋の調」「落葉の踊」「桜変奏曲」等幾多の名曲あり独自の妙音は一代を風靡して盛世の新日本音楽と称せらる
 昭和五年東京音楽学校に迎えられて講師となり同十二年には同校教授たり 十九年高等官三等正五位に任せられ 昭和24年には東京芸術大学講師たり 三十一年六月正四位勲四等に叙せられ 旭日小綬章の授興を受く その間芸術院会員の拝命放送文化賞の受賞 世界民族音楽舞踏祭に日本代表として渡欧などの栄譽ありしを 昭和三十一年六月二十四日関西交響楽団との競演のため大阪市に向う途上列車銀河より東海道刈谷駅付近の鉄路に転落せるを発見 手当中翌二十五日光輝ある六十二年の生涯を終りぬ
 口述及び点字写字機に依る「雨の念仏」「騒音」「垣隣」の詩趣多き随筆の類を收めたる全集三巻の遺著あり 亦その詞藻を見るに足る

  右  七周忌に当り属により
       遺友 佐藤春夫 撰


宮城道雄記念館

 入場料は400円、入って上がった所が1階になっています。1階の第一展示室は箏などの楽器などを中心にまとめ、第二展示室はDVDの映像資料です。左側に行き、部屋の外からスロープを下に行くと「検校の間」にでます。これは国登録有形文化財になっています。

文化財愛護シンボルマーク国登録有形文化財(建造物)
宮城(みやぎ)道雄(みちお)記念館(きねんかん)   (けん)(ぎょう)()

所 在 地 新宿区中町三十五番地  
登録年月日 平成二十三年七月二十五日

 検校の間は、昭和二十三年(一九四八)、宮城道雄が戦災で焼失した中町の住宅を再建する際に建てた書斎である。木造平屋建て、(かわら)()き、内部は(とこ)()床脇(とこわき)を備えた六畳の和室と二畳弱の次の二間からなる。
 宮城の希望で茶室風の意匠(いしょう)をもち、庭に面した丸窓の曲線を多用した竹の格子(こうし)など、随所(ずいしょ)に高度な大工技術が()らされている。昭和二十五年(一九五〇)と昭和三十年(一九五五)に敷地内で()()を行い、現在の位置に固定した。
平成二十五年三月

新宿区教育委員会


検校の間

 また「検校の間」「録音室」「石の達磨大師」についても説明があります。

 宮城道雄の書斎。昭和23年(1948)12月に完成し、「(けん)(ぎょう)()」と名づけられた。最後の7年間はほとんどここで作曲された。はじめは、自宅母屋から廊下づたいの離れとして、現在の録音室の東寄りに建てられたが、録音室建築のために現在地に移され、独立の一棟となった。間口3杯、奥行2間。南に6畳、襖を隔てて北に2畳。6畳には向かって右から床棚・床・付書院が設けられ、床柱は竹の角が用いられている。天井は、付書院側の1.5畳分が簾張、他の4.5畳分が竿縁。全体として茶室風の趣になっている。

 録音室
 鉄筋コンクリート平屋造り、防音設備を施した一室。目の不自由な宮城が自宅で録音することを目的として、昭和30年(1955)に着工されたが、翌年の竣工の直前に彼は不帰の客となり、自身はこの録音室を用いずに終った。

 石の達磨大師
 ちょうどこの春早々でありましたが、いつも来る植木屋さんが、石の達磨(だるま)大師(だいし)を持ってまいりました。私はその顔を撫でてみましたところが、これは石屋さんが彫ったんで、別に有名な方の作ではないんでありますが、なかなかデコボコした手触りが非常に面白いと思いました。ことに、この石像の顔を撫でるときに、いちばんに眼を撫でてみます。ところが、眼が彫ってありまして、眼がなかなかよく出来ているように思いました。 宮城道雄談・昭和30年(1955)2月ラジオ

 さらに宮城道雄記念館の別館、宮城喜代子記念室もあります。検校3