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都電が走った昭和の東京

文学と神楽坂

 荻原二郎氏の「都電が走った昭和の東京」(東京生活情報センター、2006年)です。場所は神楽坂上交差点から大久保通りにかけての一帯、時は昭和45年3月14日。なお、都電13系統の廃止は約2週間後の昭和45年3月27日でした。

昭和45年3月14日 萩原二郎氏

昭和45年 住宅地図

 右から左に……

  1. 看板「神楽坂」(石川燃料店)
  2. 路面電車停留場。看板「神楽坂」。駅名「神楽坂」
  3. 千代田工業株式会社。前面「建築資材」。側面「建築資材」
  4. 坂本歯科。看板「南光社」。スタンド看板「坂本」
  5. 路面電車。4051/13/新宿駅/週刊文春
  6. 切妻屋根(西勘金物)
  7. おそ(ば)(増田屋そば)(下記の写真で「おそば」と記載)
  8. 路地
  9. 黒い屋根。麻雀(ひよこ)。「む」か「変体仮名」?
  10. 店舗2軒(灰屋根と白屋根)
  11. 神楽坂派出所
  12. 神楽坂交差点(現・神楽坂上交差点)
  13. 河合陶(器店)

牛込停留場と停車場

 停留場と停車場、簡単には駅。でもこの2つ、どう違うの。

停留場は路面電車、市電、都電

 現在も都電が停車し、客が乗降する場所は停留場と呼びます。バスではバスの停留になります。

停車場は鉄道(省鉄、国鉄、JR線など)

 こちらは停車場。簡単に言えば、駅。しかし、昔は停留所と停車場、この2つを正確に言わないと分からなかったのです。

ちなみに見附は

 なお、見附とは江戸城の外郭に構築された城門のこと。牛込見附も江戸城の城門の1つで、この名称は城門に番所を置き、門を出入りする者を見張ったことに由来します。外郭は全て土塁で造られており、城門の付近だけが石垣造りでした。

 しかし、この牛込見附という言葉は、市電(都電)外濠線の「牛込見附」停留所ができるとその駅(停留所)も指し、さらにこの一帯も牛込見附と呼びました。大正時代や昭和初期には「牛込見附」は飯田駅に近い所にあった「城門」ではなく、神楽坂通りと外堀通りの4つ角で、市電(都電)の「牛込見附」停留所の周辺辺りを「牛込見附」と呼んだほうが多かったと思います。

鉄道

昔の「牛込駅」。線路が変に曲がっていますが、牛込駅があったため


わが自然と人生|中村武羅夫

文学と神楽坂

中村武羅夫 昭和10年、中村武羅夫(むらお)氏の随筆『わが自然と人生』が出版されました。過去10年ほどの文章をまとめたものです。氏の生年は1886年(明治19年)10月4日。没年は1949年(昭和24年)5月13日で、この出版は49歳のことです。
『文章世界』の投稿から文学活動を始め、小栗風葉に師事。『新潮』の編集に参加。1925年には『不同調』を創刊。大正末の私小説論争、29年の『誰だ? 花園を荒す者は!』でマルクス主義文学批判など新興芸術派運動の中心的人物でした。

   神樂坂
 都會の散歩街としては、銀座などよりも、私に取つて、遙かに牛込の神樂坂の方が、親しみがある。
 神樂坂は、私に取つて長い間の馴染みのある町だ。私が東京へ出て來たのは、今から殆んど二十年近くも以前のことである。私は、最初、その頃麹町の三番町に住んで居た伯母の家に一先づ落着いた。私の上京したのは、故郷の北海道の山野も、畑も、村も、町も、まだ、深々と雪に埋まつて居る三月のことだつた……
 私が、初めて神樂坂を知つたのは、その年の六月、ちやうど梅雨晴れの苛ら苛らしたやうな日の光りが、かつ(、、)と眩しく照りつけた眞晝時のことだつた。私は、大町桂月の紹介狀を持つて、その頃矢來の奥の方に居た小栗風葉を訪ねて行つたのであつたが、その時通つた神樂坂の印象を忘れるととが出来ない。
 江戸名所圖繪を見ると、江戸時代の神樂坂には、一段々々の段々が附いて居る。今から約二十年ぱかり前は、まさか段々こそ附いては居なかつたけれども、勿論、今のやうな完全なアスハルトの道ではなかつたし、道幅なども、もう少し狹かつたやうに覺えて居る。

麹町 こうじまち。東京都千代田区の地名。旧麹町区の三番町は赤い太線で示しました。三番町1
その年 中村武羅夫氏は上京したのは明治40年(1907年)の21歳の時です。
奥の方 小栗風葉はこの時牛込矢来町3にいました。矢来町3は巨大な住所であり、どこに住んでいたのかわかりません。
江戸名所図絵 確かに階段ができていました。

御旅所 江戸名所図絵

江戸名所図会

アスハルト 炭化水素を主成分とする黒色の固体~半固体。ほとんどは石油精製過程で得られます。道路舗装のほか絶縁材・塗料などに利用。昭和10年、坂上はアスファルト舗装になっていました。

 狹い往來には、兩側の店のが、蔽ひかぶさるやうに突き出て居る。濡れた地べたからは苛ら苛ら暑い日光に照らされるので、むつ(、、)と暑苦しい水蒸氣が立ち昇り、狹い往來を、大勢の人々が右往左往して居る……そこへ一疋の痩犬が、ひよろひよろしながらやつて來た。私は、その時の神樂坂の息苦しいやうに狹い、しかも雜沓した光景に、よぼよぼの惨めな痩犬を點出して「痩犬」といふ文章を書いた。田山花袋氏は、その文章を讀んで、「作者のデカダン的苦悶の影が、よく出てゐる。」と批評してくれた。私が、デカダンといふ言葉を初めて知つたのは、その時だつた。
 その時分から見ると、神樂坂の面目も、なかなか變つて來た。今から約二十年以前の神樂坂は、もつと日本的な、古風な感じがあつたやうに思ふ。十四五年來、いろんな生活樣式の上に、俗悪なアメリカ文化が、非常な勢ひで取り入れられるやうになつてから、まだ、いくらかは古風な感じを持つて居た神樂坂も、西洋館の銀行などが幾軒となく出來たり、安つぽい西洋館まがひの店舗が出來たりして、大分變つて來た。道路の幅なども廣くなり、アスハルトを敷き詰めて、だんだん文化的になつて來た。
 さういふ點に厭味があると言へば、厭味がないこともないが、私は、そゞろ歩きなどする場合に、銀座などよりは、どうしても神樂坂の方が好ましい氣がする。これは何も私が、神樂坂を初めて見て以來、私の生活が、神樂坂に深い緣故がつゞいて來たからといふわけではない。一面には、さういふ親しみもあるかも知れないけれども、肴町の停留場から坂下までの間は、町幅と言ひ、家並の工合と言ひ、往来の適度なくねり(、、、)方、波打つやうな起伏――さういふ點に趣きがあつて、私は神樂坂の通りを大へん氣持のいい町だと思ふ。
 銀座のやうに電車の走る町、ちつとも曲線を持たない、真直ぐな町、あゝいふ町よりも、神樂坂の方が、遙かに私に取つては風情がある。
 ひさし。建物の窓・出入り口・縁側などの上部に張り出す片流れの小屋根。(のき)
点出 画面に目立つように描き出すこと。
痩犬 国立国会図書館で調べましたが、残念ながら中村武羅夫氏の『痩犬』という文章はありませんでした。
デカダン 「衰退」を意味するフランス語から、退廃的な態度をとること
そぞろ歩き 当てもなく、気の向くままにぶらぶら歩き回ること
肴町の停留場 市営電車(チンチン電車)の停留場で、現在の四つ角「神楽坂上」(昔は「肴町」)よりも大久保寄りの場所にたっていました。現在の都営バスの停留所に近い場所です。
肴町