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牛込の文士達➆|神垣とり子

 泰三は文士のだれ彼を辛辣に評していた。よくまああんな毒舌があの小男の口から出るかと思うくらいだ。葛西善蔵さえも「田舎っぺい」とやっつけたらしい。それにしてはよく若い者が集った。お節句には文学青年が集って泰三が郷里から持って来た獅子噛み火鉢にさざえを入れて、めいめい具を足して壷焼きにして食べた。お酒は茅場町白雪の支配人の池田みのるが2升ぶら下げてきた。この連中は集れば銀座をのすより京橋の裏通りや横町のうまいもんやを歩き、甚兵衛で「くさや」の干物を買ってきたり「酒盗」を買ってきてくれた。その頃猫が7匹もいて、くさやは、赤いけどあべこべの名をつけた「くろ」には大好物のものであった。「ちび」というのは一番大きくてアスパラガスの鍵をあけると一目散に飛んでくるので不思議だった。味淋ぼしを、それもよくかんでごはんにまぜてやる役に早稲田の学生で、泰三の隣村の村長の次男坊があたった。はじめて横寺町の家を訪れた時、「ちまき」をうんとこさともってきた坊主頭の男の子で「どうもう児」と名をつけた。それが近所の下宿から泰三の所へころがりこんで猫の食事係となった。「みりんぼしを噛んでいてよく食べたもんですよ、とてもうまかった」と何十年かたってから聞いて思わず苦笑した。

郷里 相馬泰三氏は現在の地域で、新潟県新潟市南区の生まれです。
獅子噛み火鉢 「獅噛火鉢」が正しい。しかみひばち。獅噛みを足や把手にとりつけた金属製の丸火鉢。
茅場町 東京都中央区の地名。日本橋茅場町一丁目から日本橋茅場町三丁目まで。
白雪 おそらく兵庫県伊丹市の小西酒造では? 「山は富士 酒は白雪」がそのキャッチフレーズ。
池田みのる 名前があまりにも普通なので探すことはできません。
のす 勢いや力を伸ばす。発展させる。
京橋 明治11年から昭和22年までの東京市京橋区。現在は中央区南部。

1878年東京15区

甚兵衛 不明。現在、新橋駅にある甚兵衛の開店は3~40年前。ここでは約100年前に開店していたので、違います。
くさや 魚からつくる塩干しの一種。伊豆七島の特産物。特有の臭みがある。
酒盗 しゅとう。魚の内臓を原料とする塩辛
くろ 猫の名前です
 いわし。マイワシ、ウルメイワシ、カタクチイワシの海水魚の総称
味淋ぼし 味醂干。みりんぼし。魚の干物の一種。魚を開き醤油や砂糖、みりんなどを合わせたタレに漬け込んで味付けし、乾燥する。
ちまき 餅菓子の一種。笹や竹の皮などで巻き、い草で三角形に縛ってつくる。

 バスケットに原稿を入れて島田清次郎の向うを張るつもりらしい新潟の質屋の伜が上京して横寺町の泰三のところへおちついた。同郷のよしみでたずねてきたおとなしい少年で「豚児をよろしく」と親から添え手紙をもってきたのでみんなが「質やのトントン」ということにして、今もって「トントン」で通っている。
 神楽坂で現金の一番あるのが坂の途中の焼芋やだといわれていた。一番月給の多いのは牛込郵便局長さんだというので折があった時きいたら「95円」だというので少いと思った。うちではいくら人の出入りが多いとはいえ、家賃は17円の二階だが北町の岩瀬肉店へ15円、出入りの魚やが10円、八百やが10円、映画、寄席、芝居が7円くらい、ほかにオザワ水文紀の善など。横寺町に新居をもった年の暮に残金2円50銭で大笑いをした。佐倉炭が1俵2円の頃だったかしら。「今日は帝劇、明日は三越」の頃で、帝劇の入場料が最高4円で牛込駅から坂を上って横寺町までの入力車が50銭だった。

豚児 自分の子供をへりくだっていう語。豚の子。
坂の途中の焼芋や 焼芋屋は、新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏「神楽坂と縁日市」「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」ではなく、『露店研究』でもありません。
岩瀬肉店 昭和12年の火災保険特殊地図では、新宿区北町に同じ名前はありませんでした。
佐倉炭 千葉県佐倉地方に産するクヌギからつくる炭。上質で、茶の湯などに用いられる。

 無一物主義で通していた泰三も、結婚したらお宗旨を変えてしまった。というより私の浪費癖がそうさせたのだろう。「クルイロフ」の「乞食の財布」を捨てなければならない時が来た。長谷川時雨女史が経営している鶴見の旅館「花香苑」に原稿を書きに出かけたり、越後寺泊りに冬の日本海の荒波を見に行ったりするのに疲れて来た。泰三は誰にも相談しないで郷里に帰った。広津和郎葛西善蔵は鎌倉へ住みつき、秋庭俊彦等々力に農園を始めてメロンを作ったりしていた。その秋に関東大震災があったが焼けなかった神楽坂は前にも増して賑やかになった。その賑わいに文士たちが一役買っていたことも事実だった。

無一物 むいちもつ。何もないこと。何も持っていないこと。
主義 常にいだく主張、考えや行動の指針
宗旨 しゅうし。自分の主義・主張・趣味。好みのやり方や考え方。
クルイロフ イワン・クルイロフ。Иван Андреевич Крылов。19世紀ロシアの劇作家、文学者。庶民の日常語を用いて、不道徳、社会悪、農奴制による罪悪を風刺した。生年は1769年2月13日、没年は1844年11月21日。
乞食の財布 豊島与志雄、高倉輝訳「世界童話集」(アルス、昭和3年)ではコマ番号110-111が「不思議な財布」として出ています。この財布、1日に1枚ずつ中で金貨を生んでくる。でも、使えない。財布を川でなくすと、はじめて金貨を使える。主人公は900枚金貨を持っていて、使わずに、死亡しました。
花香苑 はなかえん。大正14年、横浜市鶴見区に長谷川時雨氏が田舎料理の旅館「花香苑」を開いた。
越後 佐渡を除いて新潟県の全域にあたる地域
寺泊り 固有名詞として、新潟県長岡市の地名。日本海に面し、漁業が盛んで、古くは佐渡へ渡る重要な港として栄えた。他寺の僧や参詣人が泊まる、寺の宿舎は宿坊(しゅくぼう)といいます。おそらく固有名詞のほうでしょう。
等々力 とどろき。東京都世田谷区と神奈川県川崎市中原区の地名
関東大震災 大正12年(1923年)9月1日11時58分頃に発生。

牛込の文士達➀|神垣とり子

文学と神楽坂

「牛込の文士達」(新宿区立図書館資料室紀要4神楽坂界隈の変遷、新宿区立図書館、 昭和45年)を書いた神垣とり子氏は1899年(明治32年)に新宿の貸座敷「住吉楼」の娘として生まれた江戸っ子で、美貌であっても、気性は激しく、浪費家で、しかも、相馬泰三氏の元妻。この2人、大正9年に結婚して、しばらくして横寺町の小住宅を借りていました。しかし、この結婚は長続きできず、大正12年頃、離婚します。ただし、相馬氏が死亡した直前の昭和27年に再会し、亡くなるまで神垣とり子氏は傍にいました。
 これは大正10~12年頃の世界です。

  牛込の文士達
火事はとこだい
「牛込だい」
「牛込のきん玉丸焼けだい!」
 牛込というと明治、大正時代の東京の子供達は、こういって噺し立てるほど、牛込の牛宿は芝の高輪車町辺の牛宿と共に有名だった。そして両方とも近所に飲み屋や小料理屋があり賑わったものだ。牛込の神楽坂は表通りが商店、裏通りは花柳界で、昔の牛込駅から入力車にのるとかなりの坂道なので車力が泣いたといわれた。「東雲のストライキ節」をもじって
「牛込の神楽坂、車力はつらいねってなことおっしゃいましたかね」と替唄が出来た。
 毘沙門さまの本堂の鈴が鳴り出し、お百度道の石だたみに芸者の下駄の音が一段と冴えてくると毘沙門横丁の角のそばやの春月で「イラッシャイ」  ふらりっとはいるお客が気がつくと一羽のオームがよく馴らされていていうのだ。「もり」「かけ」 5銭とかいてあるので、もりかけを注文して10銭とられた上、もりの上からおつゆをかけて袴を汚した早稲田の学生の逸話もあった。その学生達にとりまかれて着流しのいわゆる「文士」連がいた。

火事はとこだい 昭和一桁に生まれた人はよく唄った「かけあい」言葉、「ハヤシ」言葉、地口じぐち歌、ざれ歌。地口とはしゃれで、諺や俗語などに同音や発音の似た語を使って、意味の違った文句を作ること。たとえば〈舌切り雀〉を〈着た切り雀〉という。
牛宿 牛の牧場のこと。神楽坂には大宝律令で牛の牧場が開けて以来の歴史があります。701年(大宝元年)、大宝律令により武蔵国に「神崎牛牧ぎゅうまき」という牧場が設置、飼育舎「乳牛院」が建てられたという。古代の馬牧が今日都内に「駒込」「馬込」の地名で残されているが、古代の牛牧では「牛込」に当てはまるという。
高輪車町 高輪牛町。たかなわうしまち。牛町。市ヶ谷見附の石垣普請の時、重量運搬機の牛車が大量に必要となり、幕府が京都四条車町の牛屋木村清兵衛を中心とする牛持人足を呼び寄せて材木や石類の運搬に当たらせた。工事終了後、この町での定住を認め、牛車を使っての荷物運搬の独占権も与えた。「車町」(通称牛町)とよぶ。
車力 大八車などで荷物を運ぶのを職業とする人や荷車
東雲のストライキ節 東雲節、しののめ節、ストライキ節。明治後期の1900年ころから流行した流行歌はやりうたのひとつ。代表的な歌詞は「何をくよくよ川端柳/焦がるるなんとしょ/水の流れを見て暮らす/東雲のストライキ/さりとはつらいね/てなこと仰いましたかね」
お百度 病気平癒や念願成就のため社寺に参りて、その境内の一定の距離をはだしなどで100回往復し、そのたびに拝する軽い苦行
もり 従来のつゆに浸して食べること。一説には高く盛りあげるから。
かけ 「おそばにつゆをぶっかけて食べ始める」から「ぶっかけそば」転じて「かけ」
着流し はかまや羽織をつけない男子和装の略装。くだけた身なり。

 大正の初めから神楽坂は「文士の街」になった。そうして山の手随一のさかり場だった。肴町を中心にして文なし文士は「ヤマモト」で5銭のコーヒーと、ドーナツで2時間もねばりおかみさんの大丸まげにみとれていた。
 雑司ヶ谷の森から木菟みたいに毎晩やってくるのは秋田雨雀で、雨が降ると見えないのは雨傘がないからだろうなんていわれていた。秋田雨雀は小柄な人なつっこい童顔でだれかれに愛想よく挨拶をしてゆく。「土瓶面なあど精二」とは、印度の詩入ラビンドラナート・タゴールが来朝して若い男女が話題にしたのをもじってつけた名で、谷崎精二潤一郎の弟でいい男だと己惚れていたが履物が江戸っ子のわりには安ものらしくすりへって、そり上げた額の青さとは似ても似つかぬものだった。矢来町を通って弁天町からやってくるのだから下駄もへってしまうのだろう。「」(このしろ)みたいに妙に青っぼい着物ばかり着ている細田民樹が五分刈りの頭でヒョコヒョコと歩いていた。

大丸まげ  既婚女性の代表的な髪型。丸髷の大きいもの。

大丸髷

雑司ヶ谷 東京都豊島区の町名。池袋から南に位置する。
木菟 みみずく。フクロウ科のうち羽角(うかく、いわゆる「耳」)がある種の総称。
土瓶面なあど精二 「ドビンメンナード・精二」と名前をつけたわけです。
ラビンドラナート・タゴール インドの詩人、思想家、作曲家。1913年、ノーベル文学賞を受賞。1916年から1924年まで5回来日。生年は1861年5月7日、没年は1941年8月7日。
弁天町 谷崎精二は大正8年頃から昭和元年頃までは弁天町6に住んでいました。
 このしろ。ニシン科の海水魚。全長約25センチ。約10センチのものをコハダという。
細田民樹 早稲田大学英文科卒。大正2年「泥焔」を「早稲田文学」に発表。島村抱月らの称賛をえ、早稲田派の新人に。兵役の体験を大正13年に「或兵卒の記録」、昭和5年「真理の春」として発表。プロレタリア文学の一翼を担った。大正10年から12年頃まで北町41の大正館。生年は明治25年1月27日、没年は昭和47年10月5日。

 都館という下宿やの三階に広津和郎が女房と暮していた。くたびれているが栗梅色縫紋の羽織着てソロリとしていた。親爺の柳浪お下りだといっていたがシャレタ裏がついていたっけ。ルドルフ・バレンチノにどこか似ているといわれていたが、本物が聞いたら泣きべそをかくだろうけど文士の中ではともかくいい男だった。宇野浩二葛西善蔵と歩いていると贅六や田舎っぺと違っていた。
 詩人の生田春月白銀町豆腐やの露地裏のみすぼらしい、二階に住んでいた。名とはあべこべの花世女史とー緒にいた。この花世女史が、油揚げを買ってる姿をよく見た。女弟子らしいデパートの女店員が二階にいた。これもだらしのない姿で、裾まわしがきれて綿が出ていても平気で神楽坂を散歩していた。「帯のお太鼓だけが歩いている」なんて背のひくい花世女史の陰口を長谷川時雨をとりまく女たちがいっていたが、花世はむしろ媚をうって男の詩人仲間を娼婦的に泳ぎまわる彼女らを見くだしていた。

栗梅色 くりうめいろ。栗色を帯びた濃い赤茶色。#8e3d22。#8e3d22
縫紋 ぬいもん。刺繍ししゅうをして表した紋。
ソロリ 静かにゆっくりと動作が行われるさま。そろそろ。すべるようになめらかに動く。するり
お下り おさがり。客に出した食物の残り。年長者や目上の人からもらった使い古しの品物。お古。
ルドルフ・バレンチノ サイレント映画時代のハリウッドで活躍したイタリア出身の俳優。生年は1895年5月6日.没年は1926年8月23日。
贅六 ぜいろく。関東の人が上方かみがたの人をあざけっていう語]
豆腐や 『神楽坂まちの手帖 第3号』(2003年)の「新宿・神楽坂暮らし80年②」で水野正雄氏は白銀町を描き、豆腐屋は現在の交番に当たるといいます。

白銀町・豆腐屋

花世 生田花世。いくたはなよ。大正から昭和時代の小説家。大正2年、平塚らいてうの「青鞜せいとう」同人となり、昭和3年「女人芸術」誌の創刊に参画した。夫の生田春月の死後「詩と人生」を主宰。生年は明治21年10月15日。没年は昭和45年12月8日。享年は満82歳。
裾まわし 裾回し。すそまわし。着物の裾部分の裏布をいう。
お太鼓 おたいこ。女帯の結び方の一種。年齢,未婚既婚を問わず最も一般的な結び方

[名所名店]