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牛込の文士達➁|神垣とり子

文学と神楽坂


 与謝野鉄幹晶子の二人がお堀向こうの五番からきて夜店で買った植木を抱えて歩いているのを見た。宇野浩二も昔の「浪花腕なし芸者」の尼姿の年寄りをつれて歩いていた。菊池寛がだらしのないかっこうをして兵児帯がほどけて地べたにぶら下っていたので「帯がほどけていますよ」と注意された。翌年のお正月に芸者が出の着物丸帯猫ぢゃらしにしめた姿をみて菊池寛が「姐さん、帯がほどけていますよ」と注意して「いけ好かない野暮天」とどなりつけられたエピソードもこの頃のことだ。
 珍らしく銀座の御常連の豊島与志雄が若い弟子をつれて肴町の方へゆくので挨拶したら、北町手島医院へゆくという。手島医院は私もかかりつけなので先生に聞くと「甥が小説家になるというんですよ」といっていたが、それが中戸川吉二だった。

五番町 大正4年から大正12年の間、与謝野鉄幹・昌子氏は麹町区富士見町五丁目に住んでいました。おそらく五番町ではなく、五丁目が正しいと思います。

浪花 大阪市付近の古称。一般に、大阪のこと。さらに浪速区は大阪市中部の区名
腕なし 実行力や技量、腕力のない者。口先だけで実際には何もできない人
尼姿の年寄り 宇野浩二と関係がある死亡したきみ子は4歳年下、「ゆめ子」モデルの原とみは8歳年下でした。母でしょうか。
兵児帯 へこおび。和服用帯の一種。並幅または広幅の布で胴を二回りし、後ろで結んで締める簡単な帯。
出の着物 芸者さんの礼装である黒の「」(裾を引いた着物)。お正月、初めてお座敷へ出るときに着る。


秋田魁新報
時代を語る・浅利京子(16)「出の着物」彩る正月


丸帯 礼装用の女帯。丈は約4m。幅約68cmの広幅の帯地を二つ折りにして仕立てる。
猫ぢゃらし 男帯の結び方。結んだ帯の両端を長さを違えて下げたもの。帯の掛けと垂れの長さを不均等に結び垂らしたもの。揺れて猫をじゃらすように見えるところからいう。
野暮天 きわめて野暮な人。
豊島与志雄 とよしまよしお。小説家、翻訳家。東京大学仏文科に入学。久米正雄、菊池寛、芥川龍之介らと第3次『新思潮』を創刊。心理小説を多く発表。35年東京大学講師、晩年まで教職に。生年は明治23年11月27日、没年は昭和30年6月18日。享年は満64歳。
手島医院 東京交通社「大日本職業別明細図」(昭和12年)によれば、確かにありました。当時は北町でしたが、現在はおそらく新宿区箪笥町44です。

手島医院。東京交通社「大日本職業別明細図」(昭和12年)


 肴町の鳥料理やに伊東六郎がよく見えた。伊東六郎は帝大生の時、西鶴の「好色一代女」「男色大鏡」を出してその筋の忌諱にふれて騒がれた男で、あとでキネマ旬報に関係したり、妻三郎を主演にして一立商会を起した猛者だった。プロデューサーの滝村和男も学生の頃は神楽坂党の一人だった。
 矢来消防署のそばのキリスト教会の牧師に村山鳥経という童話を話す男がいた。ほうぼうの少女雑誌の読者大会で、巌谷小波久留島武彦岸辺福雄の向うを張って人気があった。そして童謡を歌う可愛い女の子がいてそれが後のダン道子になった。その弟は映画の助監督になったが、色がとても黒いので「エチオピア」といわれていた。

伊東六郎 帝国大学中からチェーホフの翻訳や詩を発表する。自から高踏書房を経営。大正11年7月、松竹本社営業部の外国部長に入社。キネマ旬報の出資者。生年は明治21年7月18日。没年は不詳。
伊東英子 小説數篇の作がある。旧『処女地』同人。のち六郎とは離婚した。生年は明治23年1月15日
好色一代女 井原西鶴作。1686年刊。恋にやつれた若者2人が山中に庵を訪れ、庵主から懺悔話を聞く。没落貴族の娘は不義の恋で宮中を追われ、踊り子、国守の妾、島原の遊女、腰元、茶屋女、湯女などを経て夜鷹にまで落ちる。60歳過ぎに解脱し。庵を結ぶ話。
男色大鏡 なんしょくおおかがみ。井原西鶴作の浮世草子。8巻40章の短編小説集。前4巻は武家、後4巻は歌舞伎役者に関する男色説話。
忌諱 きい。忌み嫌うこと。おそれはばかること
キネマ旬報 映画雑誌。現存する日本の映画雑誌の中では最古。1919年7月に創刊。
妻三郎 阪東妻三郎。ばんどうつまさぶろう。映画俳優。歌舞伎界から1922年映画界に入り『鮮血の手型』 (1923) などでチャンバラ時代劇の大スターに。生年は明治34年12月14日。没年は昭和28年7月7日。享年は満51歳。
一立商会 配給会社のひとつ。東亜キネマから独立した立花良介が、独立して一立商会を設立した(足立巻一「大衆芸術の伏流」理論社、1967)。
滝村和男 東宝のプロデューサー。
消防署 明治44年、第三消防署矢来町出張所が矢来町一丁目にでき、昭和元年、牛込消防署に昇格。昭和2年、地番改正のため、108番になりました。現在は「高齢者福祉施設 神楽坂」が建っています。

都市製図社『火災保険特殊地図』 1935年と1927年の消防署(牛込消防署『牛込消防署 70年のあゆみ』1996年)


村山鳥経 正しくは村山鳥逕(ちょうけい)。小説家、牧師。硯友社の藻社周辺作家としてデビュー。また角筈教会の牧師。生年は明治10年、没年は不明。
久留島武彦 くるしまたけひこ。児童文学者。関西学院神学部。明治39年、子どものお伽噺を中心とする団体「お伽倶楽部」を創設、日本最初の児童演劇「お伽芝居」を企画・演出。生年は明治7年6月19日、没年は昭和35年6月27日。
岸辺福雄 明治から昭和への幼児教育者。明治36年東京に東洋幼稚園を、のち岸辺幼稚園を創設。巌谷小波と久留島武彦と並んで、昔話や児童文学の作品を子供たちに話して聞かせる口演童話(story telling)の三羽烏と呼ばれた。
ダン道子 ダンミチコ。大正・昭和期の声楽家、童謡歌。山田耕筰に習い、村山道子の名前で童謡歌手として活躍。15年ピアニストのジェームズ・ダンと結婚し、ダン・道子と改名。ダン音楽教室室長。生年は明治37年9月16日、没年は平成2年3月7日。
 絵かきの鍋井克之は「ねずみ」の仇名のようにチョコマカしていた。矢来酒井伯爵お邸近くに女房子供と住んでいた。「生れ故郷の大阪を偲んで長女は澪子とつけたんや、澪つくしの澪や」 榎町お釈迦様のそばには硲伊之助がいた。鍋井克之とちがって紺がすりがよく似合った。
 ガランスをぬり奉れとよくいっていた村山槐多狂気してから母親が長唄の師匠をしていて、弟が信州の大町で「農民美術」の旗上げをした。白樺細エがおもで、朴訥というより田舎臭くて飾り物にはならなかった。妹の名が「有(あり)」というのでおかしかった。鍋井克之や永瀬義郎根岸興行部のお婿さんの高田保がてつだっていた。

鍋井克之 なべいかつゆき。大阪出身。東京美術学校卒。大正4年「秋の連山」で二科賞。ヨーロッパに留学。大正12年二科会会員。13年小出楢重らと大阪に信濃橋洋画研究所を設立。昭和22年、第二紀会の結成に加わる。昭和39年、浪速芸大教授。生年は明治21年8月18日。没年は昭和44年1月11日。享年は満80歳。
酒井伯爵 日本の華族。貴族院伯爵議員。旧小浜藩主、場所は酒井家矢来屋敷で。矢来町のほとんどを占めている。
お邸近く 住所は不明です。
澪つくし みおは河川や海で船が航行する水路。澪つくしは澪にくいを並べて立て、船が往来するときの目印にするもの。
お釈迦様 新宿区榎町57にある日蓮宗の一樹山宗柏寺。院号はない。寛永8年(1631)当地に創建。
硲伊之助 はざま いのすけ。洋画家。陶芸家。大正3年「女の習作」で二科賞。大正10年~昭和4年、フランスに留学。昭和8年から10年まで、再渡仏してマチスに師事。昭和11年、二科会を退会し、一水会を創立。戦後は日本美術会委員長。東京芸術大学助教授。晩年は陶芸に転じた。生年は明治28年11月14日。没年は昭和52年8月16日。享年は満81歳。
紺がすり 紺飛白。紺絣。紺地に白い絣模様のある織物。
ガランス 茜色。やや沈んだ赤色。     
村山槐多 むらやまかいた。画家。詩人。いとこの山本鼎の影響で画家を志し、日本美術院の研究所に行く。フォービスム風の作品を発表、異色作家として注目されるが、若くして結核で死亡。生年は明治29年9月15日、没年は大正8年2月20日。享年は満24歳。
狂気 結核だったという。Wikipediaでは「槐多は当時猛威を振るっていたスペイン風邪に罹って寝込んでしまう。2月19日夜9時頃、槐多はみぞれ混じりの嵐の中を外に飛び出し、日の改まった20日午前2時頃、畑で倒れているのを発見された。槐多は失恋した女性の名などしきりにうわごとを言っていたが、午前2時30分に息を引き取った。まだ22歳の若さであった」 内因性の精神病ではなく、外因性の精神異常でしょう。
農民美術 農民が制作した工芸・美術品。民具や陶磁器類など、素朴で郷土色に富み、生活に密接したもの。
白樺細エ 白樺の樹皮や根っこを使って細かい器物などを作ること。
永瀬義郎 大正-昭和時代の版画家。独学で版画をはじめ、文芸雑誌「聖盃」、のち「仮面」の表紙の木版画を制作。大正5年、日本版画倶楽部を創設、7年日本創作版画協会の結成に参加。生年は明治24年1月5日、没年は昭和53年3月8日。享年は満87歳。
根岸興行部 明治20年、茨城県出身の根岸浜吉が浅草に常盤座を建てた。「浅草オペラ」発祥の劇場である。大正12年の関東大震災で、根岸興行部も瓦解する。
高田保 劇作家,随筆家。 1917年、早稲田大学英文科卒業。1924年戯曲『天の岩戸』で認められて以来、劇作、脚色、演出などに活躍。戦後は「東京日日新聞」に随筆「ブラリひょうたん」を連載して好評を博した。生年は明治28年3月27日、没年は昭和27年2月20日。享年は満56歳歳。

 直木三十五三十三といった時冬夏社」で全集ものをやり出したが資金を使いはたして、債鬼に追われて大きな家にも帰れず「植木や」旅館の牛込支店にかくれていた。高台なので町を眺めるよい景色だった。お堀の向うに「番町の大銀杏」が夏になると北側に枝をのばして「お化け銀杏」といわれていた。
 肴町の上の消防署の近くの下宿に文士の卵がいて、その一人に富沢有為男がいた。うす紫のヘヤーネットを被ってキザな姿で、いろいろな切り紙をきざんで紙にはりつけて新しい画だといっていた。正岡容もいた。「鷲の巣」という同人雑誌をやっていた。有為男はそのうち海外へゆき「地中海」なんて小説をかき、「白い壁」も映画になった。
 坂を下りて揚場大溝を店の入口にして桝本酒店があり、そばに「葬儀や」がでかい看板をかけていたがそこが川路柳虹の細君の家だったらしい。
 竹久夢二もよくきたが何をしに来たかはよく知らない。岩野泡鳴が新しい女房の遠藤清子をつれてよく神楽坂を歩いていた。

三十三といった時 大正10年、ペンネームは直木三十一。大正12年には、直木三十二に変え、大正13年(1924)に直木三十三に変えています。
冬夏社 植村宗一(後の直木三十五)氏と鷲尾雨工氏は早稲田大学を卒業後、大正7年、冬夏社を創設しましたが、翌年、彼は手を離しています。
全集もの 「トルストイ全集」「ユーゴー全集」などです。
債鬼 さいき。相手の難儀や苦しみにおかまいなく貸した金をとりたてる人を鬼にたとえた語
資金 資金は春秋社が二万円。冬夏社は五万円。合併するつもりで名づけた名称だったし、十人たらずの株主も共通だった。
「植木や」旅館 東京旅館組合本部編「東京旅館下宿名簿」(大正11年)によれば植木屋は筑土八幡町24にありました。
富沢有為男 とみさわういお。小説家・画家。東京美術学校中退後、新愛知新聞の漫画記者となる。昭和2年、絵画を学ぶためフランスに一年間留学。佐藤春夫に師事し、昭和12年「地中海」で芥川賞受賞。生年は明治35年3月29日。没年は昭和45年1月15日。享年は満67歳。
正岡容 まさおかいるる。作家。演芸評論家。日本大学芸術科中退。 1924年『影絵は踊る』を発表。吉井勇に師事。落語や講談などの演芸にしたしみ、多くの研究書や台本をかいた。生年は明治37年12月20日。没年は昭和33年12月7日。享年は53歳
鷲の巣 大正14年(1925年)10月創刊。同人は佐々木弘之、小林理一、坪田譲二、井伏鱒二らが参加。一年足らずで廃刊
海外 フランスに一年間留学。絵画を学んだ。
地中海 昭和11年(1936年)8月号の『東陽』で発表。第4回の芥川賞受賞。フランスで起きた日本人同士の決闘。
白い壁 おそらく『白い壁画』が正しい。小説と映画化した『白い壁画』があります。
大溝 おそらく大下水。絵では青色。

新宿区立図書館の『神楽坂界隈の変遷』(1970年)

新宿区立図書館の『神楽坂界隈の変遷』(1970年)

葬儀や 都市製図社『火災保険特殊地図』(昭和12年)では、葬儀屋があるのかないのか、不明です。
川路柳虹 かわじりゅうこう。詩人。美術評論家。東京美術学校日本画科卒。『詩人』に発表した「塵溜」は、口語自由詩の先駆となる。生年は明治21年7月9日、没年は昭和34年4月17日。享年は満70歳。
遠藤清子 明治~大正時代の婦人運動家、小説家。英語教師、新聞記者などをつとめ、婦人参政権運動に参加。明治44年青鞜せいとう社に参加。大正2年、岩野泡鳴と結婚したが、大正6年、離婚。大正9年新婦人協会に加入。生年は明治15年2月11日、没年は大正9年12月18日。享年は満39歳。

再開発と神楽坂

文学と神楽坂

 神楽坂の交差点「神楽坂上」周辺で再開発していますが、これで終わりでしょうか。それともまだあれこれと起こりうるのでしょうか。何も起こらない場合、どうして起こらなかったのでしょうか。地元の人は概略します。

  再開発と神楽坂

 東京は皇居を中心に同心円状の構造をしています。環状1号線内堀通り環状2号線外堀通り。環3と環4は、いまだ建設中。環5は明治通りといった具合です。
 神楽坂は環2の外に位置します。同じ環2の外の街をぐるりと見ていくと、神田日本橋銀座虎ノ門赤坂四谷神楽坂を経て文京区の後楽本郷湯島という感じです。いずれも有名ではありますが、街の「ブランド力」を比べると、神楽坂から湯島にかけては、他の街より落ちる感じがしませんか。土地の値段やオフィスビルの賃料を比べても、神楽坂は日本橋や銀座、赤坂などより、かなり安いのが現実です。後楽よりは高いかも知れませんが。
 これは、神楽坂一帯が都心の中でも「開発の遅れた地域」であることを意味します。昔の風情を残しているとも言えるし、再開発圧力にさらされているという見方も出来る。歴史と現代が融和する神楽坂の魅力は、この「開発の遅れ」という現実の上に成り立っています。

環状1号線 東京では「千代田区日比谷公園(日比谷交差点)を起終点とし、皇居外苑を周回する総延長約6.5kmの環状道路」
内堀通り 皇居のまわりを一周する4~10車線の幅員の広い延長7kmの道路。内堀通りと環状1号線はわずかに違う(https://ja.wikipedia.org/wiki/内堀通り
環状2号線 江東区有明から中央区、港区などを経て千代田区神田佐久間町の間を結ぶ、全長約14kmの幹線道路
外堀通り 外堀に沿って作られた環状道路。環状2号線と外堀通りは現在は別々の道路です。外堀通りと環状2号線で同じ場所は赤、環状2号線のみは紫。外堀通りのみは橙。

環状1号線と2号線と外堀通り

神田、日本橋、銀座、虎ノ門、赤坂、四谷、神楽坂、後楽、本郷、湯島 2020年で簡単にm2あたりの公示地価(https://tochidai.info/tokyo/shinjuku/)を見ると、本郷を除いて、神楽坂は低価でした。

地価

神田千代田区神田須田町一丁目26番2513万
日本橋中央区日本橋3-11-1817万
銀座中央区銀座4-5-65770万
虎ノ門港区虎ノ門1-15-161050万
赤坂港区赤坂4-1-30540万
四谷新宿区四谷1丁目9番2外554万
神楽坂新宿区神楽坂2丁目12番18287万
後楽文京区後楽1-4-18305万
本郷 文京区本郷3-39-4220万
湯島文京区湯島3-39-10413万

 ⚫ 再開発のパターン

 専門の方は先刻ご承知と思いますが、都市部の再開発には、ふたつのパターンがあります。ひとつは広い道に面していること。建築法制では前面道路の幅で建物の高さや容積率を決めています。広い道沿いほど大きな建物が建てられます。
 神楽坂の場合、「広い道沿い」の再開発の典型例が「アインスタワー」です。5丁目の寺内地区には低層の木造住宅が密集していました。それを大久保通りとつなげることで大きな利益が生み出せる。積極的な地上げで、たくさんの人が立ち退きました。他にも、昭和40年代の津久戸町熊谷組の本社ビル建設なども、広い道型の再開発です。
 都市部の再開発のもうひとつのパターンは、広い土地を持つ地権者がいることです。地上げの手間もコストもかからないので、再開発を軌道に乗せやすい。
 神楽坂の場合、「広い土地」型の再開発の典型例は、通称「軽子坂プロジェクト」で完成した一連のビル群です。外堀通り沿いの揚場町から、軽子坂を登って本多横丁の手前まで、いくつもの大きなビルが連続的に建てられました。軽子坂は決して広い道ではないので、あまり高いビルは建てられません。しかし沿道の土地の大半を升本酒店が持っていたことから、スムーズに再開発が進みました。これよりかなり前になりますが、昭和30年代の揚場町のセントラルコーポラス建設も、広大な邸の跡地を利用した「広い土地」型の再開発と言えます。
 他にも神楽坂周辺ではラムラという大型の再開発の事例があります。これは江戸城の外堀という公有水面を東京都が埋め立てて、その土地を外堀通りにつなげることで大きなビルを建てたわけです。「広い道」と「広い土地」の両方の特徴を持っています。

アインスタワー 神楽坂アインスタワー(Eins Tower)で、26階建て、竣工は2003年。借地権付きマンションです。

アインスタワー。1967年。住宅地図。

地上げ 建築用地を確保するため、地主や借地・借家人と交渉して土地を買収すること
熊谷組 1974年3月、熊谷組の新本社完成。

1974年3月、熊谷組の新本社完成。1970年、1973年、1976年の住宅地図。

1974年3月、熊谷組の新本社完成。1970年、1973年、1976年の住宅地図。

地権者 その土地を所有し、処分する権利をもつ者
軽子坂プロジェクト 1937年、1980年、1990年と今(2020年)。現在、小規模な住宅は極めて少ない。
セントラルコーポラス 上の中央の赤丸

 ⚫ 神楽坂の強さ

 ただ神楽坂の場合、街の中心である神楽坂通り沿いには再開発の波は及びませんでした。通りの幅が広くないことと、土地が細切れになっていることが理由です。
 神楽坂通りの商店は戦前、明治以来の地主が広い土地を持ち、店に貸していたそうです。みんな店子ですから、地主の都合や家賃によって場所を移すことが珍しくなかったようです。それを大きく変えたのが第2次大戦後の「財産税」です。財産税の効果は農地解放がよく知られますが、商店街でも地主が土地を手放しました。神楽坂の場合、多くは店子がそのまま自分の店の土地を買ったと言われます。
 こうして細切れの土地に「一国一城の主」が立ち並ぶ構造が出来ました。これが神楽坂の再開発を妨げ、昔の風情を残すことに大きな役割を果たしています。古い店がつぶれれば再開発になりやすい。けれど神楽坂では多くの場合、店主が自前の低層ビルを建てて、貸しビル業や貸しマンション業に転業するわけです。店はなくてもオーナーは同じで、小さなビルの上に住んでいる。
 それだけではありません。最近の新型コロナウイルス感染症で、商店街は全国的に大きな打撃を受けています。ただ神楽坂の古くからある店は比較的、被害が小さいようです。それは土地を自分で持っていて、家賃を払わないですむからです。これも神楽坂の強さのひとつでしょう。
 例外的に、神楽坂通りの再開発事例として「ポルタ神楽坂」があります。10数軒の店が立ち退いてビルが建ったのですが、あの店の多くは升本酒店が地主だったのだそうです。戦後の財産税をくぐり抜けて、それだけの土地を持っていたわけです。だから同じような再開発が今後、続くとは考えにくいです。

店子 家主,大屋に対する借家人、借り主。テナント
財産税 財産を所有しているという事実に対して課される租税。ここで言っているのは戦後1度だけ、占領軍総司令部が発令した臨時税
農地解放 農地改革。第2次世界大戦後,占領軍の強力な指導によって日本で行われた農地制度の改革。

 ⚫ これからの再開発

 それでも、神楽坂に対する再開発圧力は次第に高まっているように感じます。とくに周辺部です。
 大久保通りの拡幅工事完成間近です。沿道のいくつもの店が取り壊され、神楽坂の出口のランドマークであった「昔も今も角のせとものや」こと河合陶器店がなくなりました。拡幅によって、大久保通り沿いには今まで以上に高いビルが建てられるようになります。地上げを企画する業者も出てくることでしょう。
 一時期、街作りの立場から大久保通りの拡幅を批判する人がいましたが、感情論だと思います。拡幅計画ははるか昔からあるし、退去する店には前もっての通知と補償金がある。店主は、それを前提に店をどうするかの腹を決めます。補償金がもらえるから「早く着工して欲しい」と思っている店主だって多いんです。
 大久保通りの逆側、神楽坂下の外堀通りにも拡幅計画があります。昔の神楽坂の入り口のランドマークである赤井さんのところは、坂上の河合さん同様に全部、道路になってしまう場所です。パチンコ「オアシス」も、みちくさ横丁の主であるトウホウビルも、外堀通りが広がれば半分は道路にとられる。地主はそれが分かっているから、古い建物のまま我慢している。拡幅が動き出せば、一気に再開発が進みます。その時には神楽坂の入り口は、昔の山田紙店の跡、今の地下鉄入口になるはずです。
 もうひとつ、忘れてならないのは神楽坂6丁目の再開発です。6丁目は現在の12メートルの道が20メートルに広がる計画です。そうなると、例えば角に近い五十番の店は半分は道路にとられる。道が広がれば、再開発が起きやすくなる。大きな変化があることでしょう。もっとも、さすがにそれには時間がかかりそうです。
 神楽坂1-5丁目の神楽坂通りには拡幅計画はありません。通り沿いの中小ビルの多くは自社ビルで、オーナーは簡単には手放さない。再開発がなければ路地も残るし、町並みも維持できる。神楽坂の中心部は、周辺部の高いビル群に囲まれたまま、ずっと残るのではないかと思っています。

完成間近 完成は不明です。
外堀通りにも拡幅計画 1967年の住宅地図を示します。もともとは黒い点線で書いているのですが、赤い実線に変えています。

1967年。住宅地図

 東京都都市整備局Web(https://www2.wagmap.jp/tokyo_tokeizu/Portal)を開き、掲載マップから「都市計画情報」を開き、一番下の「同意する」を選択、「新宿区」を選び、「表示切替」から「都市計画道路」だけに変えると、下図がでてきます。

都市計画道路

神楽坂通りには拡幅計画はありません 1967年の住宅地図にまた別の点線があります。実現しなかった神楽坂通りなのですね。

1967年。住宅地図。



山の手と下町の同居-軽子坂と揚場町

文学と神楽坂

 揚場町って、どんな町なんでしょうか。そこで、津久戸小学校PTA広報委員会の「つくどがみてきた、まちのふうけい」(新宿区立津久戸小学校、2015年)をまず広げてみました。これはPTA制作の簡単にわかる小冊子で、揚場町もこの学区なのです。「まちの風景」を開き、「津久戸町」はこの学校があるところ、揚場町はその隣町です。次は「牛込見附・飯田橋」。あれっ、でない。さらに次を見ましょう。「新小川町」「東五軒町、西五軒町」「神楽坂」「赤城元町・赤城下町」「白銀町」「矢来町・横寺町」「袋町」「若宮町・岩戸町」「市谷船河原町」、これで終わり。揚場町はどこでもない。なぜ、でないの?
 2017年、ウィキペディアで揚場町の世帯数と人口は54世帯と105人。こんな小ささだったんだ。ちなみに、津久戸町のほうが小さくて98人。揚場町にはマンションがあるから、津久戸町に人口的には勝っている。しかし、揚場町には本当に大きな地域で、沢山の人がいるはずなのに、どうして少ないの? 標高が低い揚場町は倉庫と職場だけで、標高が高い地域では第一流の豪邸だけ、どちらも人口密度は低い。
 つまり、揚場町の中に「山の手と下町」が同居していると、地元の方。以下は地元の方の説明です。

 神楽坂は、よく「山の手の下町」と言われます。かつては城西地区で唯一の花街だったし、台地の上の住宅街に隣接して下町の賑やかさがあるからでしょう。それとは別の意味で山の手と下町の同居を感じさせるのが、神楽坂通りの裏手の軽子坂と揚場町です。
 昭和50年ごろまで、牛込見附の交差点から飯田橋にかけての外堀通り沿いは地味な場所でした。地名で言うと西側は神楽坂一丁目と揚場町、東側は神楽河岸です。名画の佳作座の前を過ぎると人の往来がぐっと減り、あとは、いま「飯田橋升本ビル」になっている升本酒店の本店とか、反対側の材木商とか、自動車の整備工場とか、役所の管理用の建物とか。そのほか普通の人にはなじみがない建材や産業材の会社兼倉庫みたいなものが立ち並んでいました。そういえば一時期、大相撲の佐渡ケ嶽部屋が古い建物に入居していたこともありました。都心の大通りなのにオフィス街でも商店街でもなく、倉庫街みたいな感じでした。
 神楽坂通りでは昭和40年代から、4-5階建てのビルがドンドンできていたんですが、外堀通り沿いは平屋か2階建てばかり。だから「メトロ映画」とか「軽い心」が飯田橋駅からよく見えたと言います。神楽小路の出口のギンレイホール大きな看板がついたのも、前にある建物が低かったからです。
 揚場町をちょっと入ったところの升本さんの倉庫は広場みたいになっていて、近所の子どもの遊び場でした。その先の路地の奥には生花市場がありました。割と早くに他の市場に統合されたのですが、もし今も残っていたら「市場横丁」なんて呼ばれたかも知れません。こういう場所でしたから、江戸時代に荷揚げ場があって、人夫が荷を担いでいたという歴史が納得できました。

城西地区 江戸城、現在の皇居を中心にして、西側の方角にある地域。6区があり、新宿区、世田谷区、渋谷区、中野区、杉並区、練馬区。
花街 遊女屋・芸者屋などの集まっている地域。遊郭。花柳街。いろまち。はなまち。
軽子坂と揚場町 下図参照。

1912年、地籍台帳・地籍地図

牛込見附の交差点 現在は「神楽坂下」交差点
神楽河岸 下図参照。新宿区の町名で、丁目の設定がない単独町名。飯田橋駅の西側に位置する小さな町域があり、駅ビル「飯田橋セントラルプラザ」の建設のため、神楽河岸の形やその区境は変更している。

昭和58年「住宅地図」、区境などを変更

升本酒店の本店 酒問屋の升本総本店です。図の左側の「本店」は升本総本店のことです。

加藤嶺夫著。 川本三郎と泉麻人監修「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」。デコ。2013年

反対側の材木商 「大郷材木店」はラムラ建設で津久戸町に移転しました。「材木横丁」と呼んでいる場所です。

大郷材木店。https://blog.goo.ne.jp/kagurazakaisan/e/873ba776487429d0e755425fc61ee9ce

自動車の整備工場 神楽河岸の大郷材木店の北(右隣)にあって、1980年代には「ボルボ」という喫茶店を併設していました。残念ながら1965年の地図には載っていません。
役所の管理用の建物 地図を参照

1965年「住宅地図」

佐渡ケ嶽部屋 おそらく部屋の建て替え中に、佳作座の先の「三和計器」の跡に仮住まいしていたようです。「三和計器」は、1985年9月、飯田橋駅前地区再開発で、千葉県船橋市に工場を移転し、「三和計器」のあとには、1988年に「神楽坂1丁目ビル」が完成しました。その間に佐渡ケ嶽部屋ができました。部屋は現在、千葉県松戸市で、それ以前は墨田区太平で稽古していました。
生花市場 飯田生花市場です。花市場は建物の隣の何もないところが本来の場所で、そこに切花の入った大きな箱を並べて取引します。

 そんな倉庫街が、軽子坂を上りはじめると一変します。坂の左側に佐久間さんのお屋敷。右には升本さんの広大な本宅。坂の上の、いまノービィビルが建っているところには石造りの立派な洋館がありました。ここが誰の持ち物か忘れられていて、あまりに生活感がないので、失礼ながら「お化け屋敷」と呼ばれていました。その周辺も50坪、100坪といった庭付き一戸建てばかりで、今ほど土地が高くなかったにせよ、庶民には高嶺の花でした。
 少し大げさかも知れませんが、現場労働の「下町」と名声・財力の「山の手」が鮮やかに隣接していた。それが軽子坂であり、揚場町だと思うのです。今は再開発が進みましたが、それでも揚場町の「山の手」部分のお屋敷町の面影が、わずかに残っています。

升本さんの広大な本宅 下図を参照。

軽子坂。1963年(昭和38年)「住宅地図」

石造りの立派な洋館 これは鈴木氏の邸宅だといいます。安居判事の邸宅とも。「住宅地図」では1970年、更地になり、1973年、駐車場になっています。「神楽坂まちの手帖」12号の「神楽坂30年代地図」では

 津久戸小学校から仲通りに向かう左側の「セントラルコーポラス」。初期の分譲住宅で、中庭と半地下の広い駐車場のあるぜいたくなつくりは、マンション(豪邸)という呼ぶにふさわしい。当時、ここに住むこと自体にステータスがありました。もともとは石黒忠悳石黒忠篤という名士の豪邸だったようです。
 神楽坂に縁の深い政治家に田中角栄がいます。その生涯の盟友であった二階堂進は、セントラルコーポラスにずっと住んでいました。入り口にポリスボックスがあり、警備の巡査が常駐していました。二階堂さんは自宅のほかにマスコミ用の部屋を借りていたそうで、政治部の記者が常時、出入りしていたと聞きます。そうした記者が神楽小路の「みちくさ横丁」あたりでヒマつぶしをしていたので、こんな話が地元に伝わるのです。
 セントラルコーポラスの並びには警察の官舎があるのですが、ここには署長クラスでないと住めないのだとウワサで聞いています。やはり高級住宅の名残りなんでしょう。
 揚場町の「下町」部分、外堀通り沿いは、すっかりビルが建ち並びました。ただ神楽坂の入り口に近い一丁目にはパチンコ「オアシス」はじめ、低層の建物が残っています。そこも再開発の計画が動き出したと聞きます。いずれ高い建物が建てば、裏通りになる神楽小路みちくさ横丁も大きく姿を変えるでしょう。

仲通り 正確には神楽坂仲通り。

1984年「住宅地図」

セントラルコーポラス マンション。築年月は1962年10月。地上6階。面積帯は80㎡~109㎡台。
石黒忠悳ただのり 子爵・医学博士・陸軍軍医総監。西洋医学を修め、大学東校(のちの東大医学部)の教師。その後、陸軍本病院長、東京大学医学部綜理心得、軍医総監、貴族院議員。生年は弘化2年。没年は昭和16年。享年は97歳。シベリアを単騎横断した福島安正氏が陸軍軍医寮の空家を無料で借りられるよう世話をしたことがあるという。
石黒忠篤 忠悳の長男。農林官僚、政治家。東京帝大卒。15年農相。農業団体の要職を歴任。戦後、農地改革を推進。「農政の神様」といわれた。生年は明治17年。没年は昭和35年。享年は76歳。
名士の豪邸 最初の地図で「石黒邸」

二階堂進

二階堂進 昭和21年、衆議院自民党議員。田中角栄の腹心。昭和47年、第1次田中内閣で官房長官。のち党の副総裁などを歴任。昭和51年のロッキード事件では灰色高官。生年は明治42年10月16日。没年は平成12年2月3日。享年は90歳。
警察の官舎 警視庁神楽坂荘。築年月は1978年2月。4階建。


酒問屋升本|揚場町

文学と神楽坂

 西村和夫氏の『雑学 神楽坂』第一章「神楽坂今昔」(17頁から)では

 神田川の船運が盛んだった時代、小石川橋から牛込橋までの土手上に、荷揚げ場が続き飯田河岸と呼ばれていた。(中略)
 濠端には船宿や旅館が並び、酒、油など問屋筋が店を構え、特に、幾棟もの酒問屋「升本」の蔵が目を引いた。(中略)
 特に酒問屋升本はその繁盛ぶりを「升本家最も盛大にして。其の本宅も同町にありて。庭園など意匠を凝したるものにて。稲荷社なども見ゆ」と明治に出版された『東京名所図会』に書かれている。
 松田幸次郎は幕末、「升本屋」を創業、千駄ケ谷大番町に店を出す。升本喜兵衛の代に揚場町に移転し酒類の販売から不動産業まで手広く事業を拡大して成功した。酒類の販売においても多くの使用人に暖簾分けをしたので 市内の酒屋には「升本」屋号を名乗るものが多い。

 初代升本ますもと喜兵衛は文政5年(1822)8月25日に生まれ、酒問屋になりました。明治維新を迎えると場所を牛込揚場町に移り、升本を創立します。喜兵衛は明治3年(1870年)、町年寄となり、のちに三大区(のちの牛込区)の役職を歴任し、明治12年(1879年)、牛込区会議員に当選。土地事業を手懸け、旧旗本地を買占め、不動産業も着手したことで巨万の富を得ました。明治40年(1907)死亡。

 二代目の升本ますもと喜兵衛は嘉永(かえい)2年1月5日生まれ。升本の養子となり、酒問屋をつぎます。中央貯蓄銀行取締役、東京府会議員などをつとめました。労働者に草鞋(わらじ)を、困窮者には金をあたえ、その額は毎月数百円にのぼったといいます。大正3年12月22日死去。66歳。江戸出身。旧姓は松本。

升本喜兵衛。酒造りの様子

 明治45年、喜兵衛氏は牛込神楽坂で37筆という多くの土地を所有していました。ただし、神楽坂よりは若宮町、揚場町のほうが多くの土地をもっています。神楽坂1丁目が多いようです。

 1984年、揚場町に巨大な土地を持っていました。

1984年、住宅地図

 さらに四代目の喜兵衛は明治30年1月1日生まれ。弁護士。母校中央大の教授となり、昭和36年学長。のち総長、理事長をつとめます。43年学園紛争で退任。酒問屋升本総本店社長。弟に民社党委員長佐々木良作。昭和55年11月28日死去。83歳。

 飯田濠の再開発は昭和47年に登場します。四代目喜兵衛の三男は、升本達夫氏でした。当時は国の都市局長で、再開発の本締めでした。利権もからみ、あれこれの末、昭和59年、遊歩公園ができました。

升本総本店

加藤嶺夫著。 川本三郎と泉麻人監修「加藤嶺夫写真全集 昭和の東京1」。デコ。2013年。再開発前の飯田堀。