南京豆売り」タグアーカイブ

神楽坂をはさんで|都筑道夫②

文学と神楽坂

 この文章は『色川武大 阿佐田哲也全集・13』の月報➁から取っています。

 この月報の読者は、すでにでた第一巻に、『怪しい来客簿』が入っているから、お読みになっているだろう。だから、昭和ひとけたの夜店明細表は、ここに引用はしない。赤城神社あたりから、夜店がはじまって、大久保通りを越してからは、両側になる、と書いてある。それが、昭和十年代になると、大久保通りから、飯田橋の手前まで、右がわだけになっていたように、私はおぼえている。
 リストのなかの帽子洗いは、私の好きな店だった。古ぼけたパナマ帽ソフト帽が、きれいになるのを、うっとりと眺めていた。そのくせ、洗う手順はわすれているのだから、記憶はおかしなものだ。口絵とあるのは、雑誌の色刷の口絵だけを切りとって、売っていたのだろう。風景画、美人画と分類して、茣蓙の上にならべていた。
 有名だった熊公焼のことは、色川さんも書いているが、毘沙門さまのむかって左角に、いつも出ていたように思う。父といっしょに行くと、これを買ってくれるので、楽しみにしていたものだ。音譜売りが、舌の裏に入れていた笛というのは、小さなブリ片を、ふたつ折りにしたものだろう。あいだに、薄いかんな屑かなにかを挾んで、ブリキ片の上から、いくえにも糸を巻きつける。それを、舌の裏に入れたのでは、吹きようがない。舌の先にのせて、上顎に押しつけながら、口笛の要領で吹くのである。
 食べあわせの薬売り、というのは、見たことがない。台などはおかずに、立つたまわりに人をあつめて、口上を長ながとのべる薬売り、睡眠術や記憶術の本をうる連中は、じめ、、という。靖国神社の例祭には、いつも二、三人、これが出ていた。明治の大盗、官員小僧のなれのはて、と称して、防犯心得の本をうる老人もいた。稽古着に袴という恰好で、八の字髭をはやして、気合術の本をうる男もいた。
 そうした露天商の紹介につづいて、色川さんは戦後、その人びとがどうなったかを、書こうとする。安田銀行のすじむこうの映画館の焼跡から、南京豆売りのお婆さんが、出てくるのを書く。
 私はその映画館が、神楽坂東宝ではなかろうか、と考える。同時に神楽坂を書いて、牛込館田原屋に筆がおよばないのに、ひそかな不満を持つ。色川さんは戦後、三十年もたってから、当時の無名の人びとを回想して、書こうとする。人びとのその後を、知ろうとする。
 色川さんのえがく神楽坂を読んで、私が尊敬のまなざしをむけるようになったわけは、わかっていただけるだろう。矢来の通りと神楽坂をはさんで、おなじ少年期を送った色川さんを、私はいまも、なつかしく思う。色川さんは、からだが大きく、私は小さい。子どものころ、青瓢箪と呼ばれた虚弱児だった。どうして、大きな色川さんが、先に死んでしまったのだろう。
リストのなかの帽子洗い 『露店研究』では「帽子洗ひ」、『怪しい来客簿』では「帽子洗い」で出ています。
パナマ帽 パナマ草の若葉を細く裂いて編んだひもで作った夏帽子。
ソフト帽 フェルトなどの柔らかい生地で作った男性用の帽子。山の中央部に溝を作ってかぶる。
口絵 図書の巻頭に入れる絵や図の類。和書では標題紙の次に、洋書では標題紙の対向面に入れるのが一般的。
茣蓙 ござ。イグサを編んだ敷物。
音譜売り 「音譜」は「①レコード盤のこと。日本で作られはじめた明治末ころの呼び方。②楽曲を一定の記号で書き表したもの。楽譜」。「音譜売り」は当時のレコード盤は高価なので、やはり、楽譜を売っていたのでしょう。
食べあわせの薬売り たとえば「鰻と梅干を同時に食べると消化不良になる」と食材の取り合わせが悪いといい、薬を売る人。
官員小僧 講談師、落語が語る登場人物。懺悔談のあと、高座から盗犯防止のリーフレットを売った。
大じめ 広い場所を占領して、黒山の如き群衆を集めて長口舌を振い、商品を売る人
安田銀行  大久保通りの西側でも5丁目があります。昔の5丁目の安田銀行は大久保通りの西側で、現在の薬のココカラファインです。
映画館の焼跡 鶴扇亭、柳水亭、勝岡演芸場、東宝映画館は同じ場所を占めていた建物で、現在はおそらく神楽坂5丁目13です。しかし、大久保通りに拡張計画があり、すべては巨大な大久保通りの下になる予定です。
南京豆売り 南京豆とはピーナッツのこと
神楽坂東宝 はい、そうです。

怪しい来客簿④|色川武大

 しかし、私にとって一番印象に残っているのは、毘沙門天の石塀のあたりに立っていた南京豆売りのお婆さんであった。
 南京豆ばかりとに限らない。季節によって、玉蜀黍を焼いたり、焼き栗、浅蜊若布など売物が変わる。しかしいつも一品で、他の露天のように三寸と称する陳列台を持たず、ミカン箱二つに板きれをわたし、そのうえに売物を投げだすようにおくだけ。
 コードを頭上に張り、各店いくらかずつ出しあって、裸電球をつけているが、この婆さんのところだけは電球もない。
 乞食同然のまっくろい顔で、夏も冬も紺のに商店の名入りの前かけ、着たきり雀じゃなかったかと思う。
「キッタないねえ――」と私の母親などはその前を通るたびにいった。
「食べものをあっかっていてあれじゃ、売れやしないよ」
 婆さんの方は恬淡としたもので、似たような意味のことを夜店の仲間が注意すると、きまってこういったという。
「儲けなくてもいいンだよ」
 露店には場所割りがあって、多少の変動はありがちだったが、みすぼらしさでNO・1のくせに、婆さんの毘沙門天前の位置は終始不動だった。そこは通りのほぼ中央部で大変にいい場所だったのである。その理由は誰にきいてもはっきりしない。

南京豆 ピーナッツのこと。
浅蜊 あさり。マルスダレガイ科の二枚貝。淡水の混じる浅海の砂泥地にすむ。
若布 わかめ。褐藻綱コンブ目ワカメ属の海藻。
三寸 昔、露店は6尺3寸の大きさだった。この当時には、露店の広さは横2メートル、縦1メートルだった。
 あわせ。裏をつけて仕立てたきもの。表と裏との布地の間に空気層をつくり保温効果を高め、初夏と初秋に着た。
着たきり雀 着たきりの人
恬淡 てんたん。無欲であっさりしていること。

 突然、戦争が終って、焼けたところと焼けないところが、くっきり差がついた。神楽坂は、見渡すかぎりの焼野原であった。一時期、歩く人もまったくなかった。(中略)
 安田銀行の筋向かいに小さな映画館があり、焼失して映写室の外郭だけになっていたが、その中から、根強く生き残ったきのこのように、南京豆の婆さんが現われたのには驚いた。
 おそらく、誰にもことわらずに入りこんでしまったのだろう。が、そんなことはどうでもよい。私は祝盃しゆくはいをあげたいような気分になった。そうしてまた、生きていたと知ると、なんだかまがまがしいものがそこに居るような、気がかりな気分になる。
 不気味なものというものはやはりこの世にあるのであり、それどころか、人間が本当に生きようとすると、恰好が整わなくなって化け物のようにならざるをえない。大仰であろうか。
 婆さんは、あいかわらずぶあいそな顔つきで、苦行僧のような感じだった。私はその映写室をのぞいたことはないが、フィルムを映写する小さないくつかの穴以外、窓もなく、夏は風呂ぶろのようであり、冬は冷蔵庫のように冷えただろう。婆さんの持物はコンクリートのゆかの上に敷く茣蓙ござと、玉蜀黍時代からの七輪一個だけで、電気もなかった。
 そんなに条件が悪くても、この新居が気に入っていたようで、夜店仲間の近藤さんなどと顔を合わせると、
「遊びにおいでよ――」
 と誘ったという。
 うんざりするほど長年月の時、係累けいるいを作らず、ペットすらなしですごしてきたこの人物が、ときにつぶやく「遊びにおいでよ――」というセリフは、ぜひ一度私もきいておきたかった気がする。
 婆さんはかつぎ屋などして細い生計をたてていたようだが、焼跡が旧に復し、映写室もとりこわされる頃、忽然こつぜんと姿を消した。方面委員の手で養老院に送られ、そこではじめてせきを切ったようにがっくりとおとろえ、まもなく板橋の病院に廻されたという。今度の調べで、やっと彼女のせいだけはわかったが、わざとここには記さない。

安田銀行 現在薬屋さんが入っている神楽坂上交差点の西端。下図を参照。
映画館 神楽坂上交差点の東端に東宝映画館があった。

祝盃 祝いの酒を飲むさかずき。
まがまがしい 禍禍しい。不吉な。悪いことが起こりそうだ。
気がかり どうなるかと不安で、心から離れない様子
苦行僧 悟りを開くために厳しい修行をする人。山野を歩いて修験道を修める行者。
蒸し風呂 四方を密閉し湯気を出して体を温める風呂。
七輪 土製のこんろ。煮るのに炭の単価が七厘ですむことから。
玉蜀黍 とうもろこしのこと
係累 心身を拘束するわずらわしい事柄。面倒を見なければならない親・妻子など。
かつぎ屋 食料を生産地から運んできて売る人。第二次世界大戦中~戦後は特に闇物資を運ぶ人
忽然 にわかに。突然
方面委員 ほうめんいいん。民生委員の前身。生活困窮者救護のため、昭和11年、制度化。
養老院 老人を収容救護する施設。公的機関としては1932年施行の救護法に基づいて設置、65歳以上の生活困窮者を収容救護した。おそらく東京都立養育院(現在は老人総合研究所から東京都健康長寿医療センター)に入院したのでしょう。
堰を切る 川の流れが堰を壊してあふれでる。転じて、おさえられていたものが、こらえきれずにどっとあふれでる。
板橋の病院 都立豊島病院(現在は東京都保健医療公社豊島病院)に転院したのでしょう。
 同じく『怪しい来客簿』の「ふうふう、ふうふう」では宇佐美のお婆さんとして登場します。