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大正期の神楽坂通り(写真)

文学と神楽坂

 1枚の写真があります。大正に撮られたものですが、店舗などは全くわかりません。インターネットではこの写真を2人があげていますが、出典を書く人ではない人もいて、結局わかりませんでした。不明のまま来たのですが、しかし、見つけました。新宿区教育委員会「新宿と文化」(昭和43年)の5頁です。

 しかし、これでは解像度は悪い。原典を探しましょう。で、探しました。原典は野沢寛著「写真・東京の今昔」(昭和30年、再建社)でした(と最初は思っていました)。中古でも綺麗な本で、60年以上経っているとは考えられない本です。
 しかし、この写真の右端は切れています。「写真・東京の今昔」の写真は全く小さくなってはいないので、どうもこの原典の原典があり、「新宿と文化」の原典と「写真・東京の今昔」の原典はわずかに違っているようです。しかし、この原典の原典は国立国会図書館のコピーしかなく、解像度は悪いと予想され、ここで諦めました。ところが……

 私は諦めましたが、地元の方は違います。東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖. 第二輯(大正12年)国立国会図書館デジタルコレクション コマ番号71を教えてもらいました(下図)。当時の東京市役所公園課が発行した写真集で、これが本当の原典の原典です。

 キャプションは「牛込見附より神樂町に通ずる坂路で、その阪上には、高田の穴八幡社の旅所ありて神輿此に渡御して神樂を奏するより名くと云ふ。坂路往来織るが如く、殷賑極むること他に多し観ざる所である」。なお、旅所たびしょは祭礼で、かつぎ出した みこし(神輿)をしばらく泊める所。るはいろいろなものを組みあわせて作ること。いんはさかん、しんはにぎやかで、賑は非常ににぎやかで活気があること。

 では、写真の詳細を見ましょう。最初は「名産 支那 甘栗」「一粒撰 風味絶佳」「々軒」「中華名産甘栗 来々軒」。
 現代でも「天津甘栗」と言いますが、来々軒という中華甘栗の専門店でした。「絶佳」は「ぜっか」で、「すぐれていて、形が整い美しいこと」。ちなみに牛込区史編纂会編「牛込町誌、第1巻」(大正10年)コマ番号89には山岸商店の写真がでていて、甘栗店が当時ポピュラーだったことが想像できます。

 古老の記憶による関東大震災前の形「神楽坂界隈の変遷」(昭和45年、新宿区教育委員会)には「来々軒」も甘栗店も書かれていません。一方、新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市 神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」では、昭和5年頃として「松末軒中華」と「山本甘栗店」が出てきます。「甘栗 来々軒」と関係がありそうです。

 写真を坂上に見ていくと 次は「西洋御料理 松月亭」です。次の店名は縦に「神楽園」、その次は「圖書雑誌」店です。「圖」は「図」の旧字です。

 さらに奥に行くと「金〇製造/諸金物類」と書かれているようです。また靴のようなイラストがあり、と「陳列」もあります。
 では反対側は「〇〇歯科〇〇」と「タングス電球」が見えます。

 以上で手がかりは全てです。野沢寛著「写真・東京の今昔」では大正12年3月にこの写真は出たと書かれています。これから神楽坂2丁目にあるとしか考えられません。登っている場所は神楽坂2丁目か3丁目でしかなく、まず2丁目です。甘栗は昭和5年でしか売られていません。また、雑誌と金物が2つ並んで売っているのは大正11年から昭和5年ぐらい。
 こういったことを考えて、2丁目でも最も急になった坂道の直前にカメラをおいて撮ったものだと思います。

昭和5年は岡崎公一「神楽坂と縁日市」新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)から。大正11年は古老の記憶による関東大震災前の形『神楽坂界隈の変遷』(昭和45年)から

神楽坂2丁目(2021/5/14)

神楽坂通り(2丁目北西部、360°)

文学と神楽坂

 神楽坂通りの2丁目北西部です。まず場所を確認します。


 神楽坂通りを、路地角に建つ「俺流塩ラーメン神楽坂店」(関東大震災前は「かもじ屋」)から、神楽坂仲通りの「さわやビル」(以前は「佐和屋」)まで行きましょう。1927年➊「古老の記憶による関東大震災前の形」(神楽坂界隈の変遷。昭和45年新宿区教育委員会)では、店舗は計11軒ありました。

1927年 ➊ 古老の記憶による関東大震災前の形。神楽坂クラブは明治44年2月、大逆事件の合同茶話会を行った場所。

 一方、➋2017年にはここには6軒しかありません。この11軒のうち1927年と同じ軒は1軒のみで、神楽坂仲通りに接する佐和屋(さわやビル)でした。

2017年➋ 住宅地図

 では、2017年から時計を逆に回し、33年前、つまり➌1984年ではどうでしょうか。

1984年➌ 住宅地図

 上図を見る限り、➋とはほとんど変わりません。変わった点では➌の「さわや」から➋の「さわやビル」に変化しました。1990年に「さわやビル」ができています。あと➌の「ニューイトウ靴店」から➋「食道楽」と「第83東京ビル」に変わっています。

 では、➍1970年(2017年から43年前)はどうでしょうか。さすがに変化が出ます。

1970年➍ 住宅地図。

1番目は「さわや化粧品」のお隣に「亀井寿司」があったこと。2番目は「ヴェラハイツ神楽坂」はまだなく、かわって1970年には「喫茶クラウン」と奥の「旅館 かやの木」があった点です。
 また「コーヒー坂」と「イトウ靴店」➍から「ニューイトウ靴店」➌になり、それから「食道楽」と「第83東京ビル」➋になりました。しかし、地元の人によれば、おそらく「コーヒー坂」と「イトウ靴店」は2つのままだったといいます。つまり、1984年➌の「ニューイトウ靴店」が間違いで、正しくは「ニューイトウ靴店」と何か他の店舗があったというのです。なお「第83東京ビル」は1990年にできています。

 さらに昔に行くと、➎1963年では…

1963年➎ 住宅地図。

「神楽坂ビル」が「ポーラ化粧品」と「ルナ美容室」の2つに別れています。また「旅館 かやの木」は「旅館 かぐら苑」になっています。

 では、戦後すぐの地図はどうでしょうか。➏1952年です。

1952年➏ 昭和27年、火災保険特殊地図

「ポーラ化粧品」と「ルナ美容室」が「(料)かほる」になっています。

 つまり、第2次世界大戦後の6軒などは、あまり大きな変化はしていません。名前とその建物は色々変わりますが、所有した土地になるとおそらく変化していません。

 戦前の地図はあまり多くはありません。まず➐1937年の火災保険特殊地図です。

1937年➐ 火災保険特殊地図

 1937年➐の「スシヤ」と1970年➍や1963年➎の「亀井寿司」は同じでしょう。1937年➐に戦後➎を重ねてみると…(赤字は戦後)

 次は➑1930年です。うち下が昭和5年頃です。ちなみに上は平成8年です。

1930年❽新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)

 昭和5年の地図を1937年の地図に加えて、下図になります(赤字は戦前)。なお、大内理髪店は上図❽と同じで、幅は大きくしてあります。また「神楽坂クラブ」は正式には奥まった場所なので、ここではそこに行く道を2本の線で表しています。なお、この路地は戦前と戦後で、路地の場所が違います。そもそもこの路地が続く建物は、➐は都館、➎はかぐら苑で、その建物の大きさも違っています。土地の所有が変わっている可能性もあると地元の方。

 これを1927年➊の「古老の記憶による関東大震災前の形」と比べてみます(下図)。いろいろな点で同じです。

➊1927年

 左から見ていくと、「佐和屋」は「さわや」に漢字からひらがなに変換し、「靴屋」は「川口下駄」と「堀田洋服店」になり(靴屋=川口下駄)、「ハンコ屋 西山」は「愛両堂印店」(ともにハンコ屋)、「幸煎餅店」は「神楽せんべい」(2店ともせんべい)、「大内理髪店」は同じで、「はき物 脇坂」は「瀧上靴店」「近江屋下駄」になり、「小林金物店」と「金物・小林」はまず同じで、「遠藤書店」は「文泉堂書店」になり、「かもじ屋」(女性が日本髪を結うとき頭髪に補い添えるための髪)から「えり庄」(衣服のえりの店舗)になりました。

 戦前の「貸席 神楽坂クラブ」は「ハンコ屋 西山」の左側の路地、あるいは「靴屋」の右側の路地に入っていきました。戦後はこの「ハンコ屋 西山」は「喫茶 クラウン」に、「靴屋」は「神楽坂ビル」と名前が変わります。その中にあった「旅館 かぐら苑」は「ハンコ屋 西山」の右側にでてきます。つまり、戦前は「神楽坂ビル」と「ヴェラハイツ神楽坂」の間に路地があり、戦後は「ヴェラハイツ神楽坂」と「陶柿園」の間にあったのです。

本多横丁|近江屋ビル~宮崎ビル

文学と神楽坂

 本多横丁の近江屋ビルから宮崎ビルまでを眺めてみます。

(左)Google地図(右)商店街マップ

(左)Google地図(右)商店街マップ



 最初は新宿区教育委員会から『神楽坂界隈の変遷』「古老の記憶による関東大震災前の形」(新宿区教育委員会、昭和45年)➊です。

➊古老の記憶による関東大震災前の形
本多横丁

 ここでは神楽坂通りから本多横丁に入って、左側(北側)の店舗をみていきます。「竹川靴」から「豆フ・米沢」までの8店舗あります。

 次は戦前の形➋です。牛込倶楽部の「ここは牛込、神楽坂」第5号「戦前の本多横丁」(平成7年)では神楽坂通りから紅小路までの店舗は4店舗(竹川靴店、山本コーヒー、中村屋、そば・海老屋)でした。ここで➊で「朋月堂」は紅小路の下に、➋で「せんべい明月堂」は紅小路の上になっています。また「豆フ・米沢」と「豆腐屋」も同じです。

➋戦前の本多横丁

 ❸も戦前で、都市製図社製『火災保険特殊地図』(昭和12年)です。紅小路を見てみると、その直下に「ソバヤ」があります。この上➋でも同様で、「そば・海老屋」があります。「ソバヤ」から3店舗離れて「床ヤ」がありますが、❶では「大内トコヤ」は紅小路のすぐ上にあります。どうも、この❶の「紅小路」は真の「紅小路」(赤)ではなく、「紅小路裏」(橙)ではないか、と考えています。

➌戦前

 次は戦後で、都市製図社製『火災保険特殊地図』(昭和27年)➍です。「海老屋そば」は同じですが、その上は「松月堂菓子」となり、➋の「明月堂」や➊の「朋月堂」とも違っています。どれが正しいのでしょうか。「ここは牛込、神楽坂」第5号のインタービューで女将は「明月堂」だと答えましたので、正しくは「明月堂」でしょう。
「たつみや」は戦後に出てきたものです。さらに、紅小路はこの時期、通れないようになっています。

➍戦後

 次は「住宅地図」の昭和35年➎です。「たつみや」と「竜見」は同じ店舗を指しているのでしょう。海老そば、明月堂パンも出てきます。

➎1960年

 では、1990年➏に飛びます。近江屋だけは近くの一軒を飲み込み、大きくなりましたが、その他は何も変化しません。宮崎氏の宮崎ビルは「明月堂」と同様に、氏が創設し、今でもオーナーとして子孫が働いています。1世紀以上に渡ってこの地域では同じオーナーたちが同じ場所を占めているのです。(まあ、普通)。ただし、テナントの多くは新しいものになっていますが。

➏1990年

 まとめ。「古老の記憶による関東大震災前の形」に大きく違いはなかった。しかし2つだけは間違いで、1つ目は「紅小路」は真の「紅小路」(赤)ではなく、「紅小路裏」(橙)でした。2つ目。松月堂菓子や朋月堂ではなく、明月堂でした。

住所3-23-23-53-63-73-8
建物近江ビルたつみや神楽坂Tkビル海老屋ビル紅小路宮崎ビル
大震災前竹川靴貴金属岡本山本コーヒー洋服屋/洗い貼り唐物朋月堂
戦前竹川靴店染物・中村屋そば・海老屋せんべい明月堂
1952近江屋ハキモノ3蒲焼・たつみ家京染 そば・海老屋松月堂・菓子
1960酒やかた明月堂パン
1963
1990近江屋ハキモノ栗原宮崎ビル

 なお、コロナウイルスのために飲食店に路上利用を緩和するという動きが始まっています。これって、神楽坂ではできるのでしょうか。

 牛込倶楽部の「ここは牛込、神楽坂」第5号「本多横丁のお年寄りが語ってくれました」では

●竹内小学校は結構な学校でした。
おせんべの「明月堂」宮崎なおさん96歳
  私はここで生まれたんです。明月堂つていうおせんべ屋の一人娘で。学校は竹内小学校というところに通ってました。うなぎの志満金さんの横を入りまして、ちょっと行きますと結構な校舎がございましてね。幼稚園もありました。運動会や遠足も盛んで、鎌倉に行ったのを覚えています。でも、そのうちさびれてしまって、津久戸小学校と一緒になりました。
 若い頃はあらゆるお稽古をしたものです。お友達もたくさんいて、神楽坂に何か食ぺに行ったり。とくに本多横丁の「若松」はこじんまりしたいいお店で、お友達と「若松」行こう、行こうって。
 昔は、いまの「ほてや」さんとこが検番で、それは賑やかでした。夕方になると検番は忙しくなって。芸者衆はみんな縁起をかついでお水を汲んだりしてお座敷を待つんです。待合や料亭さんは、なめつけたようにきれいに掃除して。このへんは芸者屋さんや料亭さんも多くてそれはたいへんなものでした。
 もっといろいろ覚えているといいんですけど、もう96ですからね。みんな忘れてしまって、お返ししちゃったことが多いんですよ。
●ジョン・レノンがオノ・ヨーコさんと。
うなぎ「たつみや」高橋たまさん75歳
 ここは戦前、山本コーヒー店がドーナツをつくっていたところなんです。私は戦前、新見附にいて、娘の頃は毎日神楽坂に遊びにきていました。それで、戦後店を持つとき、ぜひ大好きな神楽坂でと、ここへ来たんです。
 お店は23年の丑の日に始めました。そのときは向かい側で、料亭への出前が中心でした。お父さんは料亭さんの旦那にかわいがっていただきましてね。戦後の神楽坂も芸者さんが多くて、新内流しなども来て、よかったですよ。
 ジョン・レノン? ええ、オノ・ヨーコさんと見えました。週刊誌にうちのことが出たので、それを見て来てくれたようで。亡くなったのはあれからじきでしたね。
 週刊誌に書いてくださったのは作家の森敦さんで、以前は近くの印刷会社で経理をなさっていました。お父さんを聶厦にしてくださって、芥川賞をとられた後もよく来てくださいました。
 それから常盤新平さんが直木賞をとられたときは、うちで報せを待ってたんですよ。大勢の方とご一緒に。
 写真家の荒木(経惟)さん、山田洋二さん、久米宏さんなどもご聶厦にしてくださって。松平健さんが見えたときはサインをいただきました。お父さんも私も「暴れん坊将軍」のファンなものですから。お父さんは軽い脳卒中をやりましたが、ええ、もういいんですよ。

 かぐらむらの「記憶の中の神楽坂」神楽坂1丁目~2丁目辺りで

海老屋(そば屋)
 お店の前の自転車がすごかった。年季の入ったボディは鈍い光を放ち、フレームにぶら下がったぼろぼろの看板には海老屋の文字がかすかに見える。革のサドルはひびわれておじいちゃんの手みたいになっていた。この自転車がお店の味だった。


魁雲堂[昔]|神楽坂3丁目

文学と神楽坂

 久保たかし(大久保孝)氏は神楽坂のことを書き、平成2年から新宿区の図書館に自費出版の書籍を数冊寄付しています。過去のことを探すにはこれらの本は結構面白く、たとえばお店については、あっ、わかるね、となりますが、しかし、それでもわからない場面もあります。

 たとえば、この魁雲堂。昭和45年新宿区教育委員会の「神楽坂界隈の変遷」で「古老の記憶による関東大震災前の形」を見ても、魁雲堂はでてきません。氏の『坂・神楽坂』(平成2年、1990年)では

 さて、木村屋の左に亀さんの家、「魁雲堂」があった。亀さんこと川村君は弱々しい子供だから皆でいたわった。オカッパの可愛いい子だから誰からも好かれた。それが今やフランス文学の大家で、酒は呑む、豪快な男に変身し、あれが亀さんかと云われてもビックリするような成長ぶり、あれは亀ではなく、(さか)(かめ)と云った方が良い。
 このお宅は古い木造の2階建で、大きな木の看板に墨痕あざやかに魁雲堂と横に書いてあり、墨、筆、すずりの商いをしていた。亀さんの兄さんは私の兄と小学校同級生。
 この家の裏が待合で、亀さんは夜になるとはなやかな芸者の姿を見、踊りをながめ、唄を子守唄として育ったせいか、シャンソンが得意である。

川村 川村克己。かわむらかつみ。1922年 – 2007年。フランス文学者、立教大学名誉教授。東京神楽坂生まれ。1945年東京帝国大学仏文科卒、立教大学教授、88年定年、名誉教授。

 川村教授も東大出身でした。神楽坂には意外と東大出身の人が多いのです。特に色恋の町では多いなあと思っています。この川村氏が書いた文章もあります。雑誌『ここは牛込、神楽坂』第4号で

 神楽坂をのぼりつめると右側に、木村屋というパン屋さんかある。その先は細い路地をへだてて、太白飴を名代とする宮城屋があり、その次が古めかしい作りの筆墨を商う魁雲堂という店があった。この筆屋が僕の育った家である。
 その頃、折れそうに痩せこけた少年の僕は、いつも遅刻しそうになりながら、パン屋飴屋の間の路地に駆け込み、突き当たって右に折れる。置屋の並ぶその道が、やがてゆるやかに下る石段となる。いつもはくすんだ色のその石段が、雨に濡れると装いを凝らしたグリーンの色となり、この僕になにかわからない言葉で、語りかけてくるのだった。
 段をおりきって、これもさして広くない道へ出る。そこを左に折れて、真っすぐに、だらだらと下ると、われらが津久戸小学校の門に行き着く。
魁雲堂→津久戸小

魁雲堂→津久戸小

パン屋 木村屋です。
飴屋 宮城屋です。
置屋 芸者や遊女などを抱えて、求めに応じて茶屋・料亭などに差し向けることを業とする店。

 久保たかし氏の『ふるさと神楽坂』(平成6年、1994年)では

 「魁雲堂」
 墨、筆、すずりのお店。古い木造2階建で、大きな木の看板に墨痕あざやかに魁雲堂と横に書かれ、1階の瓦屋根におかれている。
 ここの次男坊、川村克己君は小学校の同級生。アダナは亀さん。オカッパ姿の可愛いい子だった。しかし、60年たった今は、豪快な男に変身、立教大学でフランス文学を教え、今や新潟県の新しい大学の副学長となり、忙しく働いている。あれは亀ではない、酒(かめ)だと云った方が良い酒仙である。

新しい大学 新潟産業大学です。

「魁」について。 かしら、首領、堂々として大きいさま(例は魁偉・魁傑)を表し、音はカイ、訓はさきがけです。かいうんどう、と読むのでしょう。

「 さて、もう一度、「古老の記憶による関東大震災前の形」を見ると、なんと「筆カイ雲堂」となっていました。初めからあったのですね。

魁雲堂

 右図では昭和12年の「火災保険特殊地図」ですが、すでに「加藤商店」に替わっています。魁雲堂1

 現在の建物です。「摩耶ビル」といい、美容室の摩耶などが入っています。摩耶

かくてありけり②|野口冨士夫

文学と神楽坂

 野口冨士夫氏の『かくてありけり』(昭和53年)は自伝ですが、子供の時、母親と父親は別々に住んでいました。では、冨士夫氏と一緒に住んだ母親は、神楽坂のどこにいたのでしょうか。最初に『かくてありけり』です。

金鱗堂版の江戸切絵図にも行願寺と記されている行元寺は明治三十九年に西大崎へ転移したが、「寺内」という呼び方だけはのこっていて、母の家は一軒の例外もなく待合と芸者屋だけになってしまっていた「寺内」の、ほそい路地を幾まがりかしたいちばんどんづまりの位置にあった。そして、数えでもまだ二十五歳でしかなかった母は、平池という姓から一字取った池本という芸者屋の主人でありながら、自分もふみという名で(ひだり)(づま)を取っていた。

金鱗堂 きんりんどう。金鱗堂板や尾張屋板とも。金鱗堂板の江戸切絵図はもっとも有名。江戸の市街や近郊地域を地図に分割して編纂した絵地図集。尾張屋(金鱗堂)板は、嘉永2年(1849年)刊行開始、同7年(1854)26枚揃、安政12年(1856年)28枚揃、文久3年(1863年)30枚揃を完成、作者は景山致恭と戸木昌訓。武家地が白、町家が灰、神社仏閣が赤、川や堀は青、道路が黄、土手や田畑や原が緑と色分けしています。
切絵図 きりえず。地域別に区切って作った絵図、つまり区分図。
行願寺 きょうがんじ。正しくは「牛頭山千手院行元寺」。天台宗東叡山に属するお寺。明治40年(1907年)の区画整理で品川区西大崎(現・品川西五反田4-9-1)に移転。現在の大久保通りができたのも、この年。ただし、大きな移転で、引っ越しは二~三年前から行われていました。
寺内 じない。かつて行元寺があり牛込肴町と呼ばれた地域。現在の神楽坂5丁目。
待合 まちあい。貸席業。待ち合わせや会合のための場所を提供します。
左褄 ひだりづま。芸者の異名。左手で着物の褄を持って歩くことから

 では母の家は? 最初に昭和45年新宿区教育委員会の「神楽坂界隈の変遷」の「古老の記憶による関東大震災前の形」ではこうなっています。なにもわかりません。
古老の記憶
籠谷(かごたに)典子氏の『東京10000歩ウォーキング No 13. 新宿区 神楽坂・弁天町コース』(平成18年)では

大正六年より牛込区肴町53番地で、芸妓屋『池本』を営む母のもとで暮らすことになった

と書いてあります。また、東京都近代文学博物館の『野口冨士男と昭和の時代』(平成8年)でも

大正六年 牛込区肴町五十三番地に居住の生母のもとへ引き取られる

と記載しています。

 では肴町53番地はどこにあるのでしょう。昭和12年の「火災保険特殊地図」で53番地には2軒の家があるとわかります。行元寺
上の家は「山喜」で、待合なので、違います。下の家は(妓)と書いてあり、まずここでしょう。現在、この一帯はマンション「神楽坂アインスタワー」に完全に覆われてしまいました。