土手公園」タグアーカイブ

外濠(写真)新見附橋から ID 6898 昭和27年?

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 6898では、カメラを新見附橋に置き、牛込濠や新宿区側の建物などを撮影しました。撮影日は不明です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 6898 外堀飯田橋付近 日仏学院、東京理科大学

 このID 6898とID 14743や14744とを比べてください。よく似ています。どちらも日仏学院と研究社、東京理科大学が目立ちます。逆に1959年(昭和34年)に竣工した家の光会館は見えません。
 国電の高圧電線の碍子や、桜樹が裸木になっている様子もそっくりです。左側の焼却炉の煙突も同じように確認できます。
 おそらく同一(昭和27年9月)か、あるいはよく似た時期に写真を撮ったものでしょう。
 建物の名称はID 14743や14744と同じです。それ以外では向こう正面に神楽坂下のボート乗り場があり、左に神楽坂警察署の切妻屋根が、右には牛込橋や中央・総武線の線路が見えています。
 さらに奥の高台の建物は、文京区の中央大学富坂校舎でしょう。
 写真右の千代田区側は土手公園(現・外濠公園)です。東京逓信病院などがありますが、土手越しなので見えません。

神楽坂、坂と路地の変化40年(1)|三沢浩

文学と神楽坂

 建築家の三沢浩氏の「神楽坂まちの手帖」第9号(2005年)の随筆「神楽坂、坂と路地の変化40年(1)」を、半分以下の分量に限って、引用します。氏は1955年、東京芸術大学建築科を卒業し、レーモンド建築設計事務所に勤務。1963年、カリフォルニア大学バークレー校講師。1966年、三沢浩研究室を設立、1991年、三沢建築研究所を設立しました。なお、(2)(3)も引用可能の分量に限って引用します。また、茶色のコメントは地元の方のものです。

外堀通りの桜は今年で30年目
 4月初頭、今年もみごとなソメイヨシノが、外堀通りを飾った。新たな柵が、厚いコンクリートの基礎にのり、ライオンズクラブの石の標識が、木柱ペンキ塗りにとって代わった。ライオンざくらと命名されているが、この桜は、1976年にクラブ認証十周年記念の植樹であった。つまり30年目の枝振りは、大きく濠に向けて土手を覆い、ボートに代わる水上の張り出し店に多くの客を呼んで、席待ちの列までできた。
 この植樹以前には、一間毎の柱を貫き、誰もが気軽に水面に降りられた。まだ鮒がよく釣れたころのことだ。土手公園の向こうに、名建築だった「逓信病院」の瀟洒な白亜の姿が見え、そろそろ巨大な警察病院の建て方が始まる頃。神楽坂側には三階建の物理学校時代を示す、理科大学校舎と、小さな研究社の本社が並んでいた。
 くねる都電の線路はなぜか濠側にあって、それに沿って歩くと、春の浅い3月初めには、鼻をくすぐる濠の匂いが漂った。毎年その香を感ずると、春の到来を知ったものだ。何のかおりか、不思議な燻りの匂いだったが、都電が無くなる頃には、車も増え、いつしか消えてしまった。
ライオンズクラブ 東京飯田橋ライオンズクラブ。場所は不明。
張り出し はりだし。建物などの外側へ出っ張らせてつくること、またはその部分。
一間 いっけん。ひとま。尺貫法の長さの単位で、1.81818m
水面に降りられた 実はお堀の柵は低かったのです。

外堀通り。TV。気まぐれ本格派全編(1977年)

土手公園 現在は外濠そとぼり公園と名前が変わっています。JR中央線飯田橋駅付近から四ツ谷駅までの約2kmにわたって細く長く続きます。
逓信病院 東京逓信病院。千代田区富士見ニ丁目14番23号。総合病院。

東京逓信病院

警察病院 東京警察病院。総合病院。千代田区富士見町。沿革によれば全館竣工は1970年(昭和45年)3月。2008年(平成20年)4月に中野区中野4丁目に移転しました。

住宅地図。1978年

理科大学 東京理科大学。神楽坂キャンパスは新宿区神楽坂1-3。
研究社 昭和40年3月から昭和57年まで、研究社(辞典部門)と研究社出版(書籍・雑誌)は神楽坂に同居しました
燻り いぶり。くすぶり。物がよく燃えないで、煙ばかりを出す

歩行者天国の日曜日、神楽坂通りさわや前 1971年5月 筆者撮影

坂のすべり止めは一升瓶の底だったか
 都電の停留所は牛込見附、今のマクドナルドの隣の公衆便所が最寄りだったが、見附から佳作座を越えるあたりで大きくカーブして、その神楽河岸には材木屋、土砂屋、都のごみ船寄りつきなど、一列の家並みが、ややくねった濠を遮っていた。
 見附からパチンコのニューパリと、洋品のアカイの間を入ると神楽坂が始まる。40年前の坂は、今とくらべると随分と静かだった。高い建物は坂上の菱屋の6階、大きな建物は、今のカグラヒルズの位置にあった、キャバレー「軽い心」で、あとは坂を越え、今も変わらぬ三菱銀行神楽坂支店だったろう。そのほかはほぼ木造の2階建、それら商店の間口は、今とほとんど変わることなく、昔の敷地割りを、その店構えに残していた。おおむね3間、5.4m、奥行きは背後の路地や崖で変わる。上り坂右の裏は路地が通り、左の裏は次第に崖となっているから、大体同じような敷地面積だと思われる。
 1960年代のこの坂には、今の街路樹のけやきは無い。昨年新しい街路灯になる前は、ガス灯型だったが、それも無く、UFO型が曲げた鉄パイプに吊られていた。林立する電柱は家並みを圧倒し、くもの巣のように電線が走り、坂をまたいでいた。歩道はアスファルト、車道はコンクリートで、坂部分は自動車のすべり止めのために、内径で10cm位の輪型が30cm間隔で、びっしり堀り込まれていた。セメントが生乾きのうちに、一升瓶の底を押しつけて輪型をつくったと、冗談交じりの話を聞かされた。
 このコンクリート床がはがされて、アスファルトになり、歩道はインターロッキングという、互いに噛み合ってずれない、小型ブロックに変わる。1980年代初頭に、東京都が都内で22商店街を選び、モデル商店街としたが、その選に入ったからであった。
牛込見附 以下の通り。

牛込神楽坂警察署管内全図(昭和7年)(「牛込警察署の歩み」牛込警察署、1976年から)

マクドナルド 現在はカナルカフェブティックで、お菓子などを販売します。
公衆便所 位置は変わりません。
佳作座 現在はパチンコ店「オアシス飯田橋店」です。
材木屋、土砂屋、都のごみ船 現在は100%なくなりました。細かくは「神楽坂と神楽河岸」で。
寄りつく よりつく。 そばへ近づく。
ニューパリ 正確にはニューパリー
ほかはほぼ木造の2階建 実際には菱屋がビルになった昭和42年(1967年)頃に、大島ビル(1959年竣工)、五条ビル(1967年竣工)、神楽坂ビル(1969年竣工)など同程度の高さのビルがいくつも建っています。
街路樹 昭和48年までは街路樹は全くなく、牛込橋は桜の木でした。昭和49年、神楽坂1~5丁目はけやきになっています。
ガス灯型 昭和54年、神楽坂1~5丁目はUFO型でした。昭和59年(田口氏「歩いて見ました東京の街」05-10-33-2神楽坂標柱 1984-10-02)、ガス灯型になっています。

田口氏「歩いて見ました東京の街」05-10-33-02 昭和59年1984-10-02

UFO型 大きな電灯で、昭和36年2月に「鈴蘭灯」から変わりました。
輪型 Oリングです。
冗談交じり 多分、冗談。
インターロッキング インターロッキング(interlocking)は、かみ合わせる。ブロックを互いにかみ合うような形状にして舗装する。荷重が掛かったとき、ブロック間の目地に充填した砂がブロック相互のかみ合わせ効果(荷重分散効果)が得られる。
その選に入った 神楽坂6丁目だけです。

牛込駅リターンズ

文学と神楽坂

 2020年7月12日、JR飯田橋駅が新しい駅に生まれ変わります。駅の西口も新しいものにかわる予定です。さて、地元にお住まいの協力者の方から、こんなメールを頂きました。

駅舎完成イメージ

 神楽坂の住民にとって、もちろん飯田橋駅はなじみ深い駅なんですが、飯田橋という地名は千代田区のものだし、駅舎も東口に「みどりの窓口」があるなど飯田橋側がメーンなんです。神楽坂に近い西口は、どうしても裏口的な感じがありました。
 この東口と西口の競争みたいな感情は多分、旧牛込駅旧飯田町駅の時代から続くものなんでしょう。地下鉄の有楽町線のができる時、地元商店会は「駅名を『神楽坂』に」と運動したんです。東西線に『神楽坂』駅があるので無理だと分かっていても、目の前の駅が別の名前であることは納得しがたかったんでしょう。
 もう立ち消えになったようですが、東口に近い新宿区側の下宮比町に町名変更の話があって、その候補名が「西飯田橋」だという。そりゃないだろと思いました。今も「飯田橋駅東口郵便局」が下宮比町にあるんてすが、おかしいですよね。けど地方の人からしたら、飯田橋の方が分かりやすいんでしょう。駅名って、とても大事だと思います。
 昔の国電の飯田橋駅西口は、改札を入ってから長い傾斜路でホームに降りていくので、電車が見えているのにドアが閉まって発車してしまう。そんな時に東口との距離を感じました。
 今のJR飯田橋は普通の各駅停車の駅ですが、昔はちょっと違ったんです。総武線と中央線の線路の脇に、隣接する飯田町貨物駅引き上げ線があって、狭い場所ながら貨物列車の入れ替えがあった。この引き上げ線の跡地は、新しい西口を作るまでの仮駅舎になりました。
 それと千葉方面から来る総武線の各駅停車は何本かに1本、飯田橋が終点でした。市ヶ谷の方にあった折り返し線に入ってから、向きを変えてホームに入ってきて、今度は飯田橋始発になる。ちょっとターミナル駅みたいな感じがありました。大人が「昔の甲武鉄道は、ここが始発駅だったんだよ」と言っているのを聞いて、なるほどなと思ったものです。
 各駅停車の飯田橋始発着がなくなったのは1990年ごろかな。折り返し線も撤去されました。ちょうどそのころ、地元の商店会にJR側から「いずれ、あの折り返しの線の場所にホームを移したい」という意向が伝えられました。曲線ホームが危険だということは、ずっと前から認識されていましたからね。この話に地元は大いに期待しました。けど実現するまで30年かかった。
 新しい西口の駅舎には「みどりの窓口」も出来て、今度は西口がメーンになります。東口からは古いホームを歩いてこないと電車に乗れない。ちょうど昔と反対の立場です。
 ほかに西口の旧駅舎で、思い出話がふたつあります。ひとつは、いまラムラに入るみやこ橋のところにあった古い神楽坂警察署の木造の建物。1970年頃、もう警察は移転していたんですが、剣道場が残っていて人が出入りしていました。機動隊も一緒に使っていたんじゃないかな。
 もうひとつは桜の木です。駅から牛込見附の交差点まで下りる坂に大きな桜が2本ありました。花の季節は綺麗なんですが、桜って毛虫がつくんですよ。初夏になると頭の上からポロポロ落ちてきて、そこを通勤通学の人が歩くものだから、もうグチャグチャで大変。苦情が出たんでしょうね、いつの間にか伐採されました。
 お堀の脇の土手公園も、昔はもっと桜が生えていたと思います。けど同じ苦情で、通路の部分の木を減らしたようです。今も桜の名所ですが、毛虫が話題にならないのはなぜなんでしょうね。

旧飯田町駅 甲武鉄道で牛込駅の東で、次の駅。飯田町駅開業当初は始発駅。1928年(昭和3年)に牛込駅と同時に廃止、両駅の中間の曲線部分に飯田橋駅が開業。その後、飯田町駅は荷物や貨物の専用駅になり、1999年(平成11年)飯田町駅は廃止。
 営団地下鉄有楽町線の飯田橋駅です。1974年開業。
運動 駅名が正式決定する前の段階なので、開業の1-2年前でしょう。商店会から営団地下鉄に要望しました。
東西線に『神楽坂』駅 1964年開業。有楽町線に比べて東西線神楽坂駅の開設は10年早い。
下宮比町に町名変更の話 噂として聞こえてきた話です。神楽坂は住居表示「未実施」で、下宮比町は昭和63年2月15日に「実施」しえいます。おそらく、その前の「候補」か「構想」の段階だと思います。
飯田橋駅東口郵便局 新宿区下宮比町3-2で、大久保通りに面しています。
飯田町貨物駅 アイランズ著『東京の戦前昔恋しい散歩地図』(草思社、2004年)で、飯田橋貨物駅は

飯田橋貨物駅

また、アルビオ・ザ・タワー千代田飯田橋では

飯田橋貨物駅(旧飯田町駅・昭和63年)毎日新聞社

引き上げ線 停車場において、列車や車両の方向転換や入れ換えを行うために、一時的に本線から列車(車両)を引き上げるための側線。
折り返し線 あきぼうのブログ(https://ameblo.jp/akif4914/entry-12194311099.html)に「折り返し用引き上げ線があった」として「この線路と線路の間の土地は、かつて飯田橋駅で折り返していた千葉方面への折り返し列車を引き上げていた線路跡なのです。現在折り返し運転が亡くなったため線路は撤去されています。そこで、この線路跡の土地を利用して飯田橋駅の改良工事が進められています。」と書かれています。下の図「飯田町駅牛込間新停車場」の1番奥の線路は折り返し用引き上げ線です。

飯田橋駅と牛込見附と橋

https://ameblo.jp/akif4914/entry-12194311099.html

西口の駅舎 新西口駅舎は、鉄骨造・2階建て。延床面積は約2200㎡。多機能トイレ1カ所、1人乗りエレベーター1基が設置。一階は駅施設と店舗(3店舗)、二階は店舗(2店舗)。

https://www.jreast.co.jp/press/2020/tokyo/20200616_to02.pdf

ラムラ 昭和59年、飯田橋のセントラルプラザビル(店舗、事務所、住宅機能をもった大規模複合ビル)が完成。うち、セントラルプラザビルの1、2、20階を占めるショッピングセンターは「ラムラ」と呼ぶ。(https://www.kansa.metro.tokyo.lg.jp/PDF/03zaien/22zaien/22zaien411.pdf)

https://chikatoku.enjoytokyo.jp/spot/ramla.html

みやこ橋 牛込橋の周縁道路と総合ショッピングセンター・ラムラをつなぐ橋

http://ramla.jp/type_a1/pc/images/facilities/facilities_map.jpg

みやこばし

毛虫が話題にならない 自治体の人が桜が咲き始める前に大量の殺虫剤をまくらしいと、あるブロガー



堀見坂(360°カメラ)

文学と神楽坂

「堀見坂」ってどこにあるのでしょう。神楽坂通りから神楽坂仲通りの反対の坂を小栗横丁に向かって下り(この坂の仮称は神楽坂仲坂)、四つ角に立ちます。この四つ角を起点として、南に上る神楽坂2丁目の坂道です。

堀見坂

堀見坂

『ここは牛込、神楽坂』第13号「路地・横丁に愛称をつけてしまった」(平成10年夏、1998年)では「堀見坂」が始めて出てきます。なお、坂崎重盛氏はエッセイストで波乗社代表、井上元氏はインタラクション社長、林功幸氏は「巴有吾有」オーナーでした。

坂崎 この「小栗横丁」の「渡津海」の先を左に曲がって……。
井上 あれは意外な発見でした。「若宮八幡」に向かうところですが。
林  あの坂の途中から、昔はお堀が見下ろせた。土手公園や電車が走っているのも見えましたから。
坂崎 で、『堀見坂』とした。
井上 ちょっと安易だったんじゃないですか。今は見えないし。
坂崎 いや、今は見えなくても昔の地形を思い出すためにもいいじゃないですか。
井上 富士見坂というのはいっぱいある。今では富士山は見えないけれど、昔はここから富士山が見えたということで。その伝ですな。

渡津海 わたつみ。小料理を食べる割烹でした。2000年にはあったのですが、2010年までには閉店しました。
土手公園 現在は外濠(そとぼり)公園と名前が変わっています。JR中央線飯田橋駅付近から四ツ谷駅までの約2kmにわたって細く長く続きます。

 明治28年の「東京実測図」(新宿区教育委員会「地図で見る新宿区の移り変わり」昭和57年)では、小栗横丁はありますが、お蔵坂と堀見坂はまだありません。

明治28年、東京実測図

 ここで青色の坂にも名前はなさそうです。坂そのものは寛政年間(1789~1801年)ではまだありませんが、文政年間(1818~1831年)になると出てきます。名前が不明の坂なのですが、名前がないのも不憫です。神楽坂仲坂はどうでしょうか。

 明治29年の「東京市牛込区全図」(新宿区教育委員会「地図で見る新宿区の移り変わり」昭和57年)では、堀見坂と一部のお蔵坂がありました。

明治29年、神楽坂二丁目

明治29年、東京市牛込区全図



外濠線にそって|野口冨士男④

 牛込見附を境界にして、飯田堀の反対側の外濠は市ケ谷堀とよばれる。
 ここから赤坂見附弁慶堀に至る外濠は明治五年ごろまでいちめんの蓮池であったらしく、魚釣りも禁じられていた様子だが、私の少年昨代の市ケ谷堀には、禁漁どころか大正十年前後には貸ボート屋まで開業して、その直後に私も乗った。照明をして、夜間営業をしていた一時期もあったように記憶している。それにくらべれば、赤坂の弁慶堀や皇居の内濠の千鳥ヶ淵の貸ボートはずっとあとになってからはじまったもので、城濠のボートに関するかぎり牛込見附の開業はずばぬけて早かった。
 車体の小さな外濠線の市電は、外濠づたいに、運転台と車掌台をシーソーのように交互に上下させながら走っていた。
 運転台と車掌台について一言しておけば、ドアのしまるのは客席だけで、前後の乗務員は雨や雪の日も、ドアのない吹きさらしの運転台と車掌台に立ちつくしていた。だから飛び乗り、飛び降りも可能だったのである。そして、その車内には「煙草すふべからず」「痰唾はくべからず」「ふともも出すべからず」などと書いた印刷物が掲額されていた。

飯田堀(濠) いいだぼり。下図で。外濠を橋でさらに分割し、「○○濠」としました。
市ケ谷堀(濠) いちがやぼり。下図で。現在の名称は牛込濠。
赤坂見附 千代田区紀尾井町と平河町との間にあります。下図で。%e5%a4%96%e6%bf%a0%e3%83%9e%e3%83%83%e3%83%972
牛込見附 見附とは江戸時代、城門の外側の門で、見張りの者が置かれ通行人を監視した所。牛込見附は外濠が完成した寛永13(1636)年に、阿波徳島藩主蜂須賀忠英によって建設されたもの。
貸ボート屋 牛込壕のボート屋は大正7年(1918年)に東京水上倶楽部ができました。弁慶橋ボート場は戦後すぐに創業します。千鳥ヶ淵のボート場はいつできたか不明です。
ドアのしまるのは客席だけ 明治・大正時代にはオープンデッキ式の車が一般的で、運転士と車掌は車内ではなく、デッキに立っていました(写真)。東京でも昭和初期まではオープンデッキ式の市電がごく当たり前のように都心部を走り回っていました。この場合、運転士と車掌は横から風や雨、水滴がはいってきます。

電気鉄道会社

大正時代の東京電気鉄道会社、

ふともも… 獅子文六氏の『ちんちん電車』(朝日新聞社)では

“ふともも出すべからず″
 というのが、今の人の腑に落ちないらしい。私は、そのことを、若い人に語ったら、
「明治の女は、キモノを着てたから、裾を乱しやすかったのですね」
 と、早合点された。
 いくら、明治の女だって、電車に乗って、フトモモを露わすほど、未開ではなかった。それは、男性専門の注意である。当時の職人や魚屋さんなぞ、勇み肌であって、紺の香の高い腹がけ(旧式の水泳着みたいなもの)を一着に及んだだけで、乗車する者が多かった。これは胸部は隠すが、下部は六尺フンドシとか、日本式サルマタも、隠見するくらいだから、無論、フトモモ全部を、露わす仕掛けになってる。それでは外国人に対して不体裁であるというところから、禁令が出たのだろう。

なお、隠見(いんけん)とは「みえがくれ。みえたりかくれたりすること」。

 震災後もあったとおもうが、牛込見附と新見附との中間にあった逢坂下という停留所が廃止されたのは、いつごろだったろうか。その対岸の土手が遊歩道に開放されて公園になったのは、昭和三年のことである。
 永井荷風の『つゆのあとさき』が発表されたのは昭和六年十月で、女主人公の君江が友人のかつてのパトロンであった川島に久しぶりで再会するのがその土手公園だが、私の少年時代には将棋の駒を短かく切りつめたような形の白ペンキを塗った立札が立っていて、「この土手に登るべからず 警視庁」という川柳調の文字が黒く記されていたばかりか、棒杭に太い針金を張った柵があった。が、その禁札はほとんど無視されていた。私もしばしば禁を犯した一人だが、土手にあがってみると、雑草のあいだには人間が足で踏みかためた小径がくっきり出来上っていた。
 零落してひそかに自裁を決意している『つゆのあとさき』の川島は君江にむかって、《あすこの、明いところが神楽阪だな。さうすると、あすこが安藤阪で、樹の茂ったところが牛天神になるわけだな。》と思い出ふかい小石川大曲方面を眺望しながらつぷやくが、戦前の対岸は暗くて、ビルの櫛比している現在でも正面にみえる牛込の高台の緑は美しい。土手公園も松根油の採取が目的であったかとおもうが、戦時中には松の巨木が次々と伐り倒されて一時は見るかげもなくなっていたが、戦後三十年を経過した現在ではだいぶん景観を取り戻している。ただし、桜が多くなったのはあまり感心できない。土手には、松の緑のほうがふさわしい。

廃止 新宿区教育委員会の「地図で見る新宿区の移り変わり」(昭和57年)によれば、昭和15年には「逢坂下」停留場は確かにありました(右図。348頁)が、7年後の昭和22年にはなくなっています(380頁)。一方、東京都交通局の『わが町 わが都電』(アドクリエーツ、平成3年)では昭和15年の『電車運転系統図』(76-77頁)では逢坂下停留場はもうなくなっています。つまり昭和15年に逢坂下停留場はある場合とない場合の2つがあり、これから廃止は昭和15年なのでしょう。
逢坂下停留場、昭和15年公園 結局、外濠公園になりました。下の図を参照。
つゆのあとさき 銀座のカフェーを舞台にして、たくましく生きる女給・君江と男たちの様子を描く永井荷風氏の作品。『つゆのあとさき』の最後は、会社の金を使い込んで刑務所にいっていた川島に君江は出会い、酒を飲み、朝起きると、君江への感謝を書いた遺書が置いてあり、これが終わりです。何か、もやもやが残る結末です。
土手公園 現在は外濠(そとぼり)公園と名前が変わっています。JR中央線飯田橋駅付近から四ツ谷駅までの約2kmにわたって細く長く続きます。
外濠公園
弁慶堀(濠) 右図で。
千鳥ヶ淵 ちどりがふち。皇居の北西側にある堀。右図で。零落 れいらく。おちぶれること
自裁 じさい。自ら生命を絶つこと。
安藤阪 本来の安藤坂は春日通りの「伝通院前」から南に下る坂道。明治時代になって路面電車の開通のため新坂ができ、西に曲がって大曲(おおまがり)まで行くようになりました。
安藤坂
牛天神 うしてんじん。牛天神北野神社は、寿永元年(1182)、源頼朝が東国経営の際、牛に乗った菅神(道真)が現れ、2つの幸福を与えると神託があり、 同年の秋には、長男頼家が誕生し、翌年、平家を西海に追はらうことができました。そこで、元暦元年(1184)源頼朝がこの地に社殿を創建しました。
櫛比 しっぴ。(くし)の歯のようにすきまなく並んでいること。
松根油 しょうこんゆ。松の根株や枝を乾留して得られる油