尾沢薬局」タグアーカイブ

尾澤薬局(昔)神楽坂4丁目

文学と神楽坂

『かぐらむら』(サザンカンパニー、1998~2018年)の「記憶の中の神楽坂」で尾澤薬局が取り上げられたことがあります。

(『大正初期の神楽坂上、尾澤薬舖 尾澤豊太郎翁追想録』昭和7年) 筑土八幡9番地にあった尾澤良甫の薬舖は、江戸市中で高名な薬種店であり、脈をとらせても当代一と謳われた。明治8年、良甫の甥、豊太郎が神楽坂上宮比町1番地に尾澤分店を開業した。商売の傍ら外国人から物理、化学、調剤学を学び、薬舖開業免状(薬剤師の資格)を取得すると、経営だけでなく、実業家としての才能を発揮した豊太郎は、小石川に工場を建て、エーテル、蒸留水、杏仁水、ギプス、炭酸カリなどを、日本人として初めて製造した。販売も戦略的で、イボ、ホクロ取りという、その頃としては珍奇な売薬を扱うことで「神楽坂尾澤薬舖に行けばどんな薬もある」との評判を得、薬局といえば「山の手では尾澤、下町では遠山」と呼ばれる様になった。大正2年、独立させていた店員、親族の店を、チェーンストアに組織化し、東京医薬商会を設立する。自社工場で大量生産したものを各店に配る方式は、当時においては大変に斬新であった。大正7 b年夏、拡大した事業の整理を行い神楽坂店を譲渡し、払方町19番地に移転後は薬業に専念した。

尾澤薬局 店内(『大正初期の神楽坂上、尾澤薬舖 尾澤豊太郎翁追想録』昭和7年)
 日露戦争後は、長壽丹全治水が売れに売れて、30人の店員が、店先にずらりと並んで後から後からと黒山の様に押しながら立て込んで来るお客を捌いたそうだ。大きな銭函にお金を放り込むチャリンチャリンの音と「いらっしゃいまし」「ありがとうございます」と、挨拶する声は、神楽坂の名物に数えられていた。

 尾澤のもう一つの名物は、中元歳末の七日間に行われる「売り出し」であった。明治41年頃に、日本新聞社主催の神楽坂商店の総合売り出しで好成績だったことに端を発して、単独で行われる様になったという。豊富で実用的な景品(鏡台、反物、火鉢、薬缶、ちり取りなど)を店頭に積み上げ、くじは紅白モナカに入れ、蓄音機で興を添えた。景品が出る度に、伊三さんという店員が見振りおかしく鈴を打ち振って「大当たり、大当たり」と踊るのも売り出しの一風景だった。売り出しが始まると、かなり遠方の店まで薬や化粧品の売り上げが減ったという。
長壽丹 長寿丹。寿命と関係する薬
全治水 皮膚病の薬。効能は「にきび・ぜにかさ・そばかす・しもやけ・ふきでもの・毒虫刺され・いんきん田虫・水虫」

 私は「尾澤豊太郎翁追想録」を引用できると考えて新宿区歴史博物館に行きました。ところが引用はできないものでした。「尾澤豊太郎翁追想録」の中身は「記憶の中の神楽坂」とは無関係でした。おそらく話した人は多分いたと思いますが、普通この本は引用元とはいえません。
 さらに驚く理由がもうひとつ。「記憶の中の神楽坂」のほうが生き生きして、逸話も精彩をだしていたのです。

神楽坂3, 4, 5丁目(写真)昭和47年秋~48年春 ID13188-98

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 13152からID 13198までは神楽坂1~5丁目で歩行者天国の様子を連続で撮影したものです。うちID 13188からID 13198までは神楽坂3丁目に立地点を置き、神楽坂4-5丁目方向を撮っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13188 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13189 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13190 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13191 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13192 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13193 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13194 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13195 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13196 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13197 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13198 神楽坂歩行者天国

 車道と歩道はアスファルト舗装。歩道の縁石は一定間隔で色が違い、黄色と無彩色です。また巨大な標識ポール「神楽坂通り/美観街」がありました。
 街灯は円盤形の大型蛍光灯です。街灯の柱はモノクロ写真では薄い色が多いのですが、この一連の写真は黒く写っています。ID 9781など他にも黒く写っているので、時代によって色が違いました。
 電柱は左側だけで、上には大きな柱上変圧器があります。
 歩行者の大半がコートや外套を着ており、寒い季節ですが、年代の詳細はここで話しています。また、歩行者天国(車道に車を禁止して歩行者に開放した地域)は日曜日・祝日の実施なので、営業していない店が目立ちます。

神楽坂3丁目→4丁目( 昭和47年秋~48年春)
  1. ▶防火水そう (丸)岡陶苑 ここ
  2. (ヤマ)ダヤ (洋傘、帽子)
  3. ▶突き出し看板と電柱看板「洋傘 ショール 帽子 ヤマダヤ
  4. ジャウトーヤ フルーツ パーラー喫茶。テントは「パーラー喫茶 フルーツ ジャウトーヤ」手前が果物店、奥がフルーツパーラー
  5. (店舗)
  6. 神楽坂通り/美観街
  7. (車両通行止め)三つ叉通りへの入口
  8. 宮坂金物店
  9. (歩行者横断禁止)
  10. ▶電柱看板「 フクヤ 袋町 12」「川島歯科
  11. ▶街灯は円盤形の大型蛍光灯。「神楽坂通り」。黒の主柱。中央に(横断歩道)
  12. テントは「〇’S SHOP SAMURAIDO」(サムライ堂洋品店)ばぁ侍(2階)DC
  13. 三菱銀行。閉店中のシャッター前に切り花の露天商
  14. 消火栓。広告「カメラのミヨシ」(本多横丁)
  15. ▶電柱看板「中河電気」「 倉庫完備 買入 大久保
  16. (車両進入禁止)毘沙門横丁に。(ここから5丁目)
  17. 善國寺
  18. (駐車禁止)
  19. ▶立て看板「こどもの(飛び出し多し/徐行)」
  20. ▶電柱看板「小野眼科」「鮨 割烹 八千(代鮨)
  21. レストラン (フルー)ツ 田原屋
  22. ▶電柱看板「松ヶ枝
  23. 五十鈴
  24. やきとり殿堂(鮒忠
  25. タイヨウ(時計店)
  26. ヒグチ(薬局)
  27. 遠くに協和銀行
  28. ジャノメミシン
  1. 京都 。看板「 堂々オープン 960円〇〇 浪費させない店 コンパ エアプレイ/新装開店 神楽坂名物日本髪の京都/7時までオール3割引 お気軽にどうぞ/バー京都
  2. 酒豪 ひな鳥 丸むし焼 とりちゅう
  3. たばこ(中西タバコ?)
  4. 看板「家のマーク ショーケース 〇〇」(坂本ガラス店?)
  5. (日)邦工(計や記、試?)(宮坂ビル)
  6. 中国料理 五十(番)
  7. (一方通行入口)。本多横丁
  8. 仐と(はきもの)(近江屋)
  9. スゴ(オ)(洋菓子店)
  10. 大佐和 神楽坂店(現・楽山
  11. ▶電柱看板「宝楽」(旅館)
  12. (毘沙門せ)んべ(い) 福屋本舗
  13. (尾沢)薬(局) カネボウ(化粧品)
  14. 第一勧業信用組合

▶は車道寄りの歩道上に広告がある
▶がない場合は直接店舗に

住宅地図。1973年。出版は1972年2月

神楽坂4, 5丁目(写真)昭和47年秋~48年春 ID13165~66, ID13171

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 13152からは神楽坂1~5丁目で歩行者天国の様子を連続で撮影したものです。うちID 13165-66とID 13171-73はカメラを神楽坂4、5丁目に置き、3丁目など東向きに撮っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13171 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13165 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13166 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13172 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13173 神楽坂歩行者天国

 車道と歩道はアスファルト舗装。歩道の縁石は一定間隔で色が違い、黄色と無彩色に塗り分けていました(よく見ると現在も2色塗りです)。遠くに「神楽坂通り/美観街」が見えます。
 街灯は円盤形の大型蛍光灯で、その柱は他のカラー写真では銀灰色、モノクロ写真では薄い色が多そうです。しかし、この一連の写真は黒く写っています。ID 9781など他にも黒く写っているので、時代によって色が違ったと思います。
 電柱は右側だけで、上には大きな柱上変圧器があります。
 善國寺は本堂の再建後で、石囲いも一新されています。
 歩行者の大半がコートや外套を着ており、寒い季節ですが、年代の詳細はここで話しています。また、歩行者天国(車道に車を禁止して歩行者に開放した地域)は日曜日・祝日の実施なので、営業していない店が目立ちます。
 ID 13166の写真では花輪が少なくとも7輪ほど出ています。「祝開店 おおとり 〇〇」と読めます。パチンコ「おおとり」の開店祝いに見えます。
「おおとり」を経営する鳳企業株式会社の会社沿革では

1964年(昭和39年) 神楽坂にパチンコ店『おおとり』オープン
1969年(昭和44年) 鳳企業株式会社設立
1970年(昭和45年) 新宿西口にパチンコ店『アラジン』オープン
アラジン新宿店2階に焼肉店オープン
1971年(昭和46年) 『北京料理 西口飯店』オープン
1977年(昭和52年) 『アラジン池袋店』オープン
1980年(昭和55年) NASA ビル建設

 地元の方によれば

「1964年(昭和39年) 神楽坂にパチンコ店『おおとり』オープン」とあります。昭和41年のID 12280にも「おおとり」の看板が写っています。
 パチンコ店では新台入れ替えなどを機に「新装開店」で出玉サービスをうたうことがあったので、この花輪はその種のものと想像されます。5丁目に新たに開店した「山水林」に対抗したものかも知れません。

 ID 12280の写真と住宅地図とは全く違います。住宅地図では昭和47年までは「おおとり」はなく、あるのは「フードセンター」です。しかし、地元の方によれば

ID 12272-7312280、12282の縁日(夜店)の写真について念のため撮影年代を再検討しました。
・毘沙門堂の石囲いは再建前のもので、昭和45年以前
・易占の看板は池田信「1960年代の東京」(昭和40年)に酷似
・歩道は文様のない角石で昭和45年より前(ID 8299など)
・「オバケのQ太郎」などのブーム
昭和41年(1966年)という記録に無理はないと思います。

 では、どうして「フードセンター」が住宅地図に昭和39年から昭和47年まで、何年も残ったのでしょう。多分、今のように精密さや正確さは求めていなかったのでしょうか? でも住宅地図の最後に「航空写真一図化一測量修正一調査-トレス一筆耕一仕上。氏名・番地・職種すべて実態調査(足で調べる)。年一回現行維持」と書いてある。う~ん。わかりません。

神楽坂4,5丁目→3丁目(昭和47年秋~48年春)
  1. (カネボ)ウ化粧(品)。尾沢薬局「化粧品/カメラ・材料 尾沢」「
    ――ごくぼその路地
  2. オシャレ洋品(阿波屋アワヤ
  3. ▶たばこ
  4. 福屋不動産 毘沙門せんべい 福屋本舗
  5. お茶のり老舗 大佐和 神楽坂(店舗)
  6. 「店」
  7. 仐(近江屋)
  8. ▶通学路(本多横丁
  9. (駐車禁止)(区間内)
  10. 酒豪 ひな鳥 丸蒸し 焼き 鳥忠
  1. .花輪 祝開店 おおとり ロッテ商事(パチンコ)
  2. テント(田原屋
  3. 善國寺
  4. ▶公衆電話ボックス
  5. ▶電柱看板「 質入 丸越質店
    ――毘沙門横丁
  6. ▶電柱看板「料亭 松ヶ枝
  7. 三菱銀行
  8. ▶電柱看板「小野眼科
  9. ▶電柱看板「ハ千代鮨」
  10. (ジャウ)トーヤ(果物店)
  11. 遠くに(横断歩道)と「神楽坂通り/美観街

▶は歩道上で車道寄りに看板がある
▶がない場合は直接店舗に

住宅地図。1973年

神楽坂3, 4, 5丁目(写真) 昭和47年秋~48年春 ID13152-53,13159-60

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 13152からは神楽坂1~5丁目で歩行者天国の様子を連続で撮影したものです。うちID 13152とID 13153、ID 13159、ID 13160は神楽坂3丁目に立地点を置き、神楽坂4-5丁目方向を撮っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13152 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13153 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13159 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13160 神楽坂歩行者天国

 車道と歩道はアスファルト舗装。歩道の縁石は一定間隔で色が違い、おそらく黄色と無彩色に塗り分けていたでしょう。道路標示「駐車禁止」が立っています。また巨大な標識ポール「神楽坂通り/美観街」があります。
 街灯は円盤形の大型蛍光灯です。街灯の柱は他のカラー写真では銀灰色、モノクロ写真では薄い色が多いです。しかし、この一連の写真は黒く写っています。ID 9781など他にも黒く写っているので、時代によって色が違ったでしょう。
 電柱は左側だけで、上には大きな柱上変圧器があります。例外としてID 13160では右側にも電柱があり、路地の奥に電線をつなぐためのものでしょう。
 歩行者の大半がコートや外套を着ており、寒い季節と思われます。歩行者天国(車道に車を禁止して歩行者に開放した地域)は日曜日の実施なので、銀行をはじめ営業していない店が目立ちます。
 ID 13152-13153の三菱銀行は昭和47年(1972)ごろ5丁目の仮店舗から建て直した新店舗に移りました。仮店舗の後に「パチンコ山水林」(現在はシュエット神楽坂)が開業しています。ところが昭和47年や昭和48年の住宅地図では「パチンコ山水林」はまだありません。
 一方、ID 13159-13160の「毘沙門せんべい 福屋本舗」は写真では2階屋ですが、昭和48年(1973)9月に5階建ての現ビルに建て替えられました。従ってこの写真の撮影時期は昭和47年の秋から、遅くとも昭和48年の春先と推定されます。

神楽坂3丁目→4丁目( 昭和47年秋~48年春)
  1. 電柱看板「洋傘 ショール 帽子 ヤマダヤ
  2. ジャウトーヤ (喫)茶 フルーツ。手前が果物店、奥がフルーツパーラーでした。
  3. (店舗)
  4. 神楽坂通り/美観街
  5. (車両通行止め)三つ叉通りへの入口
  6. 宮坂金物店
  7. (歩行者横断禁止)
  8. フクヤ。電柱看板「川島歯科
  9. 街灯は円盤形の大型蛍光灯。「神楽坂通り」。黒の主柱。中央に(横断歩道)
  10. DC JCB。サムライ堂洋品店 ばぁ侍(2階)
  11. 三菱銀行。閉店中のシャッター前に切り花の露天商
  12. FIRE HY(DRANT) 消火栓。広告「カメラのミヨシ」本多横丁にあった。角から4軒目くらい(下の右図)
  13. 電柱看板「中河電気」「 倉庫完備 買入 大久保
  14. 毘沙門横丁に。(ここから5丁目)
  15. 善國寺。子どもが石囲いに登っている。本堂再建時に石囲いは一新したので滑り台はなく、この写真はただのワンパク坊主。
  16. (駐車禁止)
  17. 立て看板「こどもの飛び出し多し/徐行」
  18. レストラン (フルー)ツ 田原屋
  19. 電柱看板「小野眼科」「鮨 割烹 八千(代鮨)
  20. おおとり(パチンコ)
  21. やきとり殿堂 鮒忠
  22. 中河電気
  23. パチンコ(山水林)。現在はシュエット神楽坂、築年月は2007年6月
  24. タイヨウ(時計・メガネ)
  25. 神楽坂通り/美観街
  26. 薬ヒグチ
  27. 遠くに協和銀行
  1. 京都。看板「オープン 浪費させない店 コンパ 〇〇プレイ/新装開店 神楽坂名物日本髪の京都/7時までオール3割引 お気軽にどうぞ/バー京都
  2. (一方通行入口)。本多横丁へ(ここから4丁目)
    (数店おいて)
  3. (大佐和)神楽坂店(現・楽山
  4. (バー)鼓 この先突き当たり右 (「紅小路」へ)(下図)
  5. 電柱看板「 フクヤ」「旅館 宝楽」
  6. (店舗としもた屋)
  7. 毘沙門せんべい 福屋本舗 福屋不動産
  8. (店舗)
  9. オシャレ洋品 アワヤ
    ―――「ごくぼそ」へ
  10. 紳士服 テーラー 島田
  11. 尾沢薬局 (くす)り尾崎 カネボウ化(粧品)
  12. (店舗) (ここから5丁目)
  13. 第一勧業信用組合(駐車場)
  14. (店舗)
  15. かやの木(玩具店)
  16. (消火栓)
  17. 第一勧業信用(組合)。昭和46年(1971年)10月に改称

住宅地図。1980年。つづみとミヨシ

住宅地図。1976年。

神楽坂3丁目(写真)三つ叉通り 昭和44年 ID 101

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 101は、昭和44年(1969年)、カメラを神楽坂3丁目に置き、神楽坂上の交差点方向を撮ったものです。写真の右側は4丁目、奥の方は5丁目になります。
 街灯は円盤形の大型蛍光灯で、「神楽坂通り」と花の木をモチーフにした造花があります。消火栓標識と消火栓広告がありますが、広告は空欄のようです。電柱の上には柱上変圧器があり、電柱看板も見えます。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 101 三丁目

 すぐに左に回る路地は「三つ叉通り」という名前が付いています。牛込倶楽部の『ここは牛込、神楽坂』第13号の「路地・横丁に愛称をつけてしまった」(平成10年夏、1998年)では…… なお、井上元氏はインタラクション社長、林功幸氏は「巴有吾有」オーナーでした。

 するとさっきの検番通りに出る。
井上 そこは、道が三つに分かれているので『三つ叉通り』と名付けた。安易だったか。

 地元の方に意見を聞きました。

 撮影時期としてはID 64の神楽坂下(昭和45年3月)や、ID 7430の神楽坂上(昭和45年11月)と近いのですが、違いがいくつかあります。
 第一に、歩道です。このID 101は正方形の石を敷き詰めたもので、昭和40年代の神楽坂の「坂のある街」(昭和41年)と同じです。昭和45年はアスファルト舗装に変わっています。
 第二に、「神楽坂通り/美観街」という大きな標識ポールが、この写真で確認できないことです。「美観街」の標識は昭和42年の写真(田口氏 05-14-37-1 a b c)にはなく、昭和45年はあります。歩道の舗装と同時工事だったかも知れません。
 もう1点、この写真ではほとんど見えませんが、三菱銀行は建て替え前の旧店舗だったはずです。昭和45年には5丁目の仮店舗で営業していました。
 以下に、田口氏05-02-32-2などの他の写真で分かることも含めて解説します。

    1. 見切れているのは大佐和商店(現・楽山)。3階建てでした。看板は「○○○○銘茶研究会○○」と読めます。大佐和が4丁目に移転してきたのは昭和43年でした。
    2. 電柱広告「川島歯科」 ※袋町
    3. 「(福屋不)動産部/(毘沙門)せんべい福屋本店」
    4. 立看板「こどもの飛び出し多し」
    5. 尾沢薬局/富士フィルム」 ※DPE店を兼業していました。
    6. 日本勧業(信用組合) ※勧信の車庫
    7. かやの木 玩具店
    8. 電柱広告「中河電気」 ※5丁目
    9. 消火栓広告 空欄
    10. 電柱広告「 大久保
    11. (遠くに)協和銀行  ※6丁目
    12. 電柱広告「小野眼科」 ※新小川町
    13. サントリーバー さむらい ※洋品サムライ堂が2階で並営していました。
    14. 看板「(三菱銀)行」
    15. KEYS MADE。(合鍵作成)  ※宮坂金物店

70年。住宅地図。

神楽坂5丁目(写真)昭和37-39年頃 ID 20/12910, ID 22/12908, ID 12909

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 20とID 12910、ID 22とID 12908、ID 12909を見ていきましょう。撮影の方向は、神楽坂5丁目から3-4丁目の方を向いています。降雨でも、半袖の女性もいます。街灯は1本につき一つだけで、これは昭和36(1961)年以降です。車道は平坦で、凸凹もありませんが、一方、ID 22やID 12908の歩道は痛んで、ぼろぼろです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 20 神楽坂上から坂下方向

新宿歴史博物館 ID 12910

新宿歴史博物館 ID 22 神楽坂入口から坂上方向。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12908 神楽坂

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 12909 神楽坂

神楽坂5丁目→3、4丁目(昭和37-39年頃)
  1. 手焼きせんべい(福屋)
  2. (間に3軒 福田屋文具/あわや洋品/テーラー島田)
  3. 富士フイルム(尾沢写真材料)
  4. 尾澤薬局
    ——————–以上は4丁目
  5. (サンエス洋裁店)
  6. 東莫会館(パチンコ)
  7. (牛込水産)
  8. かやの木
  9. (後の日本勧業信用組合)
    ※建て替え後、開店は昭和40年5月。
  10. 相馬屋
  11. 大関 万長 (酒店と倉庫)
  12. 寺内横丁へ
  13. 牛豚肉 恵比寿亭
  14. 来々軒
  15. 洋品 タカミ
  16. Toshiba ステレオは東芝 ビクター ステレオレコード(リード商会
  17. 大和田(うなぎ)
  1. 三菱銀行
  2. 看板「キンシ正宗」
  3. 電柱看板「加藤産婦人科
  4. 電柱看板「質 丸越」「松〇産婦人科」
  5. 麻雀
  6. 三(笠屋 家具)洋装呉服
  7. 美濃屋 足袋)
  8. 伊勢屋 乾物)
  9. 電柱看板「質は〇値の丸越」「質 買入 丸越」
  10. 街灯「神楽坂」

 なお、ID 20とID 12910はほぼ同じで、 「新宿区の民俗 (5) 牛込地区篇」(新宿歴史博物館、平成13年)54頁では「昭和30年前後の神楽坂5丁目付近」という見出しが付いています。街灯から見ると、実際は「昭和36(1961)年前後の神楽坂5丁目付近」でしょう。またID 22は寺田弘発行「神楽坂アーカイブズチーム第2集」(NPO法人粋なまちづくり倶楽部、2008年)で「昭和35年頃の神楽坂5丁目付近」となっています。ちなみに昭和40年後半に出てくる「美観街」の大きな標識ポールはありません。
 ID3とよく似ています。1963年(昭和38年)、住宅地図では「洋菓子ハマムラ」でしたが、1964年からは「かやの木」に変わりました。また、日本勧業信用組合の建設前には取り壊し期間が必要でしょう。したがって、写真の時期は昭和38~39年(37年も可能)と推定できます。

Paul神楽坂店以前|神楽坂5丁目

文学と神楽坂

 現在の神楽坂5丁目のPaul神楽坂店ができるまでの、波瀾万丈で、人間味が一杯の物語です。そして、ポール神楽坂ができました。なお、以下の図はすべて住宅地図から取っています。

➊ 昭和38年(1963年)

 最初は昭和38年(1963年)➊。東側から尾沢薬局(ここは神楽坂4丁目の最後です)、サンエス洋裁店(ここから神楽坂5丁目が始まります)、パチンコの東莫会館、KK牛込水産、洋菓子のハマムラ、倉庫、文房具の相馬屋、万長酒店、倉庫と並んでいます。

➋ 昭和42年(1967年)

 次は昭和42年(1967年)➋です。1つだけが変わっています。倉庫だったのが、日本勧業信用組合に変わっているのです。実際に、昭和40年、日本勧業信用組合の本店が新宿区神楽坂5-3に移ってきました。

➌ 昭和45年(1970年)

 昭和45年(1970年)➌、地元の人は、東莫会館は「模型自動車のコース」や「遊戯場になってい」たようですが、そこを「勧信が買収し、駐車場にしました」といいます。実際、名前も「日本勧業信用組合〇〇」に変わっています。どうして離れた場所にしたの? 場所がなかったのです。隣同士がいいとわかっていました。

 昭和46年(1971年)、日本勧業銀行と第一銀行が合併し、第一勧業銀行が誕生し、この組合の名称も第一勧業信用組合に変更しました。

➍ 昭和55年(1980年)

 昭和55年(1980年)➍、さらに第一勧業信用組合の駐車場になります。まだ、牛込水産とかやの木はまだなくなりません。勧信はじーっと見ている以外に方法はありません。
 昭和57年(1982年)、勧信本店を四谷に移して、神楽坂は支店に格下げになっています。

➎ 平成2年(1999年)

 平成2年(1990年)➎には、やっと牛込水産とかやの木はなくなりました。30年前から、大きな土地になる、と第一勧業信用組合は思っていたはずなのですが…… が、この「2店舗(牛込水産、かやの木)を地上げした業者が、勧信に高値の買い取りを迫り、『買わなきゃビル建てるぞ』って。大もめに揉めて、駐車場というより空き地のまま数年間」時間だけが過ぎていったと、地元の人はいいます。

➏ 平成22年(2010年)

 平成22年(2010年)➏、第一勧業信用組合は、あきらめたのか、相馬屋の西(万長酒店と同じ場所)に店舗を建てています。一方、「ゴネた業者は旧勧信本店の土地の一部をあわせる形で、今のPaulのビル(仮称、野本ビル)を建て」ましたと、地元の人。

 最終的に令和2年(2020年)➐になりました。「土地の区切りも変わっているんです。旧勧信は、今のうお匠のビルより間口が広かったと記憶しています」。おそらく憶測すると、勧信が元の場所は要らなくなって、土地を買った人の間で話しあって、今のビルが建ったのではないかと、地元の人。

「商店街ならではの揉め事ですね」と、地元の人。

➐ 令和2年(2020年)

Yahoo!地図から

北西南東
大正11年前相馬屋宮尾仏具S額縁屋(ブロマイド)尾沢薬局
大正11年頃東京貯蓄銀行小谷野モスリン神楽屋メリンス大和屋漆器店上州屋履物
戦後つくし堂(お菓子)藪そば
1930年巴屋モスリン松葉屋メリンス山本コーヒー
1937年3222ソバヤ
1952年空ビル宮尾仏具牛込水産東莫会館パチンコサンエス洋装店
1960年空地喫茶浜村魚金
1963年倉庫洋菓子ハマムラ牛込水産
1965年かやの木(玩具店)魚金
1976年第一勧業信用組合第一勧業信用組合
駐車場
第一勧業信用組合
駐車場
1980年サンエス洋装店
1984年(空地)寿司かなめ等
1990年駐車場駐車場郵便局
1999年ナカノビルコアビル(とんかつなど)
2010年空き地ベローチェ
2020年相馬屋神楽坂TNヒルズ
(焼肉、うを匠など)
神楽坂テラス
(Paulなど)
コアビル
(とんかつ)

私のなかの東京|野口冨士男|1978年➆

文学と神楽坂

 また、毘沙門前の🏠毘沙門せんべいと右角の囲碁神楽坂倶楽部とのあいだにある横丁の正面にはもと大門湯という風呂屋があったが、読者には🏠本多横丁🏠大久保通りや🏠軽子坂通りへぬける幾つかの屈折をもつ、その裏側一帯逍遥してみることをぜひすすめたい。神楽坂へ行ってそのへんを歩かなくてはうそだと、私は断言してはばからない。そのへんも花柳界だし、白山などとは違って戦災も受けているのだが、🏠毘沙門横丁などより通路もずっとせまいかわり――あるいはそれゆえに、ちょっと行くとすぐ道がまがって石段があり、またちょっと行くと曲り角があって石段のある風情は捨てがたい。神楽坂は道玄坂をもつ渋谷とともに立体的な繁華街だが、このあたりの地勢はそのキメがさらにこまかくて、東京では類をみない一帯である。すくなくとも坂のない下町ではぜったいに遭遇することのない山ノ手固有の町なみと、花柳界独特の情趣がそこにはある。

田原屋 せんべい 毘沙門横丁 尾沢薬局 相馬屋紙店 藁店 武田芳進堂 鮒忠 大久保通り

4.5丁目

逍遥 しょうよう。気ままにあちこちを歩き回る。
白山 はくさん。文京区白山。山の手の花柳界の1つ
遭遇 そうぐう。不意に出あう。偶然にめぐりあう

 神楽坂通りにもどると、善国寺の先隣りは階下が果実店で階上がレストランの🏠田原屋である。戦前には平屋だったのだろうか、果実店の奥がレストランであったし、大正時代にはカツレツやカレーライスですら一般家庭ではつくらなかったから、私の家でもそういうものやオムレツ、コキールからアイスクリームにいたるまで田原屋から取り寄せていた。例によって『神楽坂通りの図』をみると、つぎのような書きこみがなされている。

(略)開店後は世界大戦の好況で幸運でした。当時のお客様には観世元玆夏目漱石長田秀雄幹彦吉井勇菊池寛、震災後では15代目羽左ヱ門六代目先々代歌右ヱ門松永和風水谷八重子サトー・ハチロー加藤ムラオ(野口註=加藤武雄と中村武羅夫?)永井荷風今東光日出海の各先生。ある先生が京都の芸者万竜をおつれになってご来店下さいました。この当時は芸者の全盛時代でしたからこの上もない宣伝になりました。(梅川清吉氏の“手紙”から)


 麻布の龍土軒国木田独歩田山花袋らの龍土会で高名だが、顔ぶれの多彩さにおいては田原屋のほうがまさっている面があると言えるかもしれない。夏目漱石が、ここで令息にテーブル・マナーを教えたという話ものこっている。


観世元滋 戦前の観世流能楽師。生年は1895年(明治28年)12月18日。没年は1939年(昭和14年)3月21日。
羽左ヱ門 市村羽左衛門。いちむら うざえもん。歌舞伎役者。十五代目の生年は1874年(明治7年)11月5日、没年は1945年(昭和20年)5月6日。
六代目 六代目の中村歌右衛門でしょう。なかむらうたえもん。歌舞伎役者。生年は大正6年1月20日。没年は2001年3月31日。
歌右ヱ門 五代目の中村歌右衛門。歌舞伎役者。生年は1866年2月14日(慶応元年12月29日。没年は1940年(昭和15年)9月12日。
松永和風 まつながわふう。長唄の名跡。
加藤ムラオ 加藤武雄中村武羅夫の2人は年齢も一歳しか違わず、どちらも新潮社の訪問記者を経て、作家になりました。
万竜 まんりゅう。京都ではなく東京の芸妓。明治40年代には「日本一の美人」の芸妓と呼ばれたことも。生年は1894年7月。没年は1973年12月。
龍土軒 明治33年、麻布にあるフランス料理。田山花袋、国木田独歩などが使い、自然主義の文学談を交わした龍土会が有名。
 いまも田原屋の前にある🏠尾沢薬局が、その左隣りの位置にカフェー・オザワを開店したのは、震災後ではなかったろうか。『古老の記憶による震災()の形』と副題されている『神楽坂通りの図』にもカフェー・オザワが図示されているので、震災前か後か自信をぐらつかせられるが、その店はげんざい🏠駐車場になっているあたりにあって、いわゆる鰻の寝床のように奥行きの深い店であったが、いつもガラス戸の内側に白いレースのさがっていたのが記憶に残っている。
 記憶といえば、昭和二年の金融恐慌による取附け騒ぎで、尾沢薬局の四軒先にあった東京貯蓄銀行の前に大変な人だかりがしていた光景も忘れがたい。その先隣りが紙屋から文房具商になった🏠相馬屋で目下改築中だが、人いちばい書き損じの多い私は消費がはげしいので、すこし大量に原稿用紙を購入するときにはこの店から届けてもらっている。

震災前 関東大震災が起きたときには神楽坂は全く無傷でした。なかには震災後の場所もありえると思います。
鰻の寝床 うなぎのねどこ。間口が狭くて奥行の深い家のたとえ
駐車場 カフェー・オザワは、4丁目にある店舗です。1978年の住宅地図ではカフェー・オザワはタオボー化粧品に変わています。その左側の「第1勧信用組合駐車場」ではありません。
 相馬屋の前にある坂の正式名称は🏠地蔵坂で、坂上の光照寺地蔵尊があるところから名づけられたとのことだが、一般には🏠藁店(わらだな)と俗称されている。そのへんに藁を売る店があったからだといわれるが、戦前右角にあった洋品店の増田屋がなくなって、現在ではその先隣りにあった🏠武田芳進堂書店になっている。また、左角に焼鳥の🏠鮒忠がある場所はもと浅井という小間物屋で、藁店をのぼりつめたあたりが袋町だから、矢田津世子の短篇『神楽坂』はそのへんにヒントを得たかとも考えられるが、それについてはもうすこしあとで書くほうが読者には地理的に納得しやすいだろう。
 藁店をのぼりかけると、すぐ右側に色物講談の和良店亭という小さな寄席があった。映画館の🎬牛込館はその二、三軒先の坂上にあって、徳川夢声山野一郎松井翠声などの人気弁士を擁したために、特に震災後は遠くからも客が集まった。昭和五十年九月三十日発行の「週刊朝日」増刊号には、≪明治三十九年の「風俗画報」を見ると、今も残る地蔵坂の右手に寄席があり、その向うに平屋の牛込館が見える。だから、大正年代にできた牛込館は、古いものを建てかえたわけである。≫とされていて、グラビア頁には≪内装を帝国劇場にまねて神楽坂の上に≫出来たのは≪大正9年ごろ≫だと記してある。早川雪洲の主演作や、岡田嘉子山田隆哉と共演した『髑髏(どくろ)の舞』というひどく怖ろしい日本映画のほか、多くの洋画を私はここでみている。映画好きだった私が、恐らく東京中でもいちばん多く入場したのは、この映画館であったろう。その先隣りに、たしか都館といった木造三階建ての大きな下宿屋があったが、広津和郎が自伝的随想『年月のあしおと』のなかで≪社員を四人程置≫いて出版社を主宰していたとき関東大震災に≪出遭った≫と書いているのは、この下宿屋ではなかったろうか。そのなかには、片岡鉄兵もいたと記されている。

色物 色物寄席。落謡、手踊、百面相、手品、音曲などの混合席。色物寄席がそのまま現在の寄席になりました。
風俗画報 風俗画報の「新撰東京名所絵図」第42編(東陽堂、明治39年)では「袋町ふくろまちと肴町の間の通路を藁店わらだなと稱す。以前此邊にわらを賣る店ありしかば、俚俗りぞくの呼名とはなれり」と書き、「藁店」を出しています。
早川雪洲早川雪洲 はやかわ せっしゅう。映画俳優。 1909年渡米、『タイフーン』 (1914) の主役に。以後米国を中心に、『戦場にかける橋』など多くの映画や舞台に出演。生年は明治19年6月10日。没年は昭和48年11月23日。87歳。
山田隆哉 文芸協会の坪内逍遥に師事、演劇研究所の第1期生。松井須磨子と同期に。岡田嘉子と共演の「出家とその弟子」が評判に。昭和11年、劇団「すわらじ劇園」に参加。生年は明治23年7月31日。没年は昭和53年6月8日。87歳。
髑髏の舞 1923年(大正12年)製作・公開。田中栄三監督のサイレント映画

大震災①|昭和文壇側面史|浅見淵

文学と神楽坂


 関東大震災の神楽坂の様子です。浅見(ふかし)氏は昭和時代の小説家、評論家で、私小説風の作品や作家論、作品論などを発表しました。『昭和文壇側面史』は昭和43年に発表し、浅見淵は69歳のときです。

 大正12年9月1日の関東大賞災を知ったのは、大阪においてであった。夏休みで神戸へ帰省していたが、その朝たまたま大阪天満橋の伯父の家を訪ねていたところ、昼時分になり、暑いから川船へいこうと、川船料理屋へ連れていかれた。そして、川魚料理で一杯やっていると、グラグラとやって来て船が大きく揺れ、川波が激しく騒いだ。大きな地震だネと、伯父は呟いたが、それでも、二、三度、揺れ戻しがあると、その儘おさまった。で、ふたたび盃を平にしていると、まもなくジャンジャン号外の鈴の音がし、それが東京潰滅という第一報だったので驚いたのだった。
(中略)当時ぼくは牛込弁天町の下宿屋にいたので、下宿屋はもちろんのこと、神楽坂を中心とする牛込の山の手界隈はほとんど被害らしい被害は無かった。神楽坂の中ほどに、巌谷一六書の金看坂を掲げた、いまでも残っている老舗の尾沢薬局が、そのころ、隣りにレストランを経営していた。このレストランの二階が潰れていたくらいである。(中略)

田原屋・川鉄・赤瓢箪

 戦災で焼け、近年やっと復活して昔のように客を集めているらしい洋食屋の田原屋は、大震災のころ既に山の手の高級レストランとして有名だったが、この田原屋。肴町の路地の奥にあった、尾崎紅葉をはじめ硯友社一派がよく通ったといわれる川鉄という鳥屋。それから、質蔵を改造して座敷にしていた、肥っちょのしっかり者の吉原のおいらんあがりのおかみがいた、赤瓢箪という大きな赤提灯をつるしていた小料理屋。これらの店には、文壇、画壇、劇壇を問わず、あらゆる有名人が目白押しに詰めかけていた。白木屋がいち早く神楽坂の中途に特売所を設けたが、一応物資が出まわると、これが牛込会館という俄か劇場に早変わりし、水谷竹紫水谷八重子たちの芸術座アンドレーフの「殴られるあいつ」を上演したりしていた。この劇団に、のちに築地に小劇場のスターとなった、東屋三郎汐見洋田村秋子たちが客演していたが、この連中の顔がとくに赤瓢箪ででよく見受けられた。


弁天町 場所は新宿区の北部に。巨大な町ですが、明治5年から変わっていません。大部分が宗参寺の境内で、元禄十一年以降次第に町皿みができ門前町となりました。
弁天町
尾澤薬局尾沢薬局 神楽坂の情報誌「かぐらむら」の「記憶の中の神楽坂」では「明治8年、良甫の甥、豊太郎が神楽坂上宮比町1番地に尾澤分店を開業した。商売の傍ら外国人から物理、化学、調剤学を学び、薬舖開業免状(薬剤師の資格)を取得すると、経営だけでなく、実業家としての才能を発揮した豊太郎は、小石川に工場を建て、エーテル、蒸留水、杏仁水、ギプス、炭酸カリなどを、日本人として初めて製造した」と書いています。
レストラン 尾沢薬局の隣りは、カフェー・オザワといいました。加能作次郎氏の『大東京繁昌記 山手篇』「早稲田神楽坂」(昭和2年)によれば「薬屋の尾沢で、場所も場所田原屋の丁度真向うに同じようなカッフェを始めた時には、私たち神楽坂党の間に一種のセンセーションを起したものだった。つまり神楽坂にも段々高級ないゝカッフェが出来、それで益〻土地が開け且その繁栄を増すように思われたからだった。」
赤瓢箪 これは神楽坂仲通りの近く、神楽坂3丁目にあったようです。今和次郎編纂『新版大東京案内』では「おでん屋では小料理を上手に食はせる赤びようたん」と書き、昭和10年の安井笛二編の 『大東京うまいもの食べある記』では「赤瓢箪 白木屋前横町の左側に在り、此の町では二十年も營業を続け此の邉での古顔です。現在は此の店の人氣者マサ子ちゃんが居なくなって大分悲觀した人もある樣です、とは女主人の涙物語りです。こゝの酒の甘味いのと海苔茶漬は自慢のものです。」と書いてあります。もし「白木屋前横町の左側」が正しいとするとこの場所は神楽坂3丁目になります。関東大震災でも潰れなかったようです。
白木屋 しろきや。東京都中央区日本橋一丁目にあった江戸三大呉服店の一つ。かつて日本を代表した百貨店の一つ。法人自体は現在の株式会社東急百貨店として存続。1930年(昭和5年)、錦糸堀や神楽坂に分店を出しています。
牛込会館 神楽坂の2丁目から3丁目に入ってすぐ右側で、現在は「サークルK」です。関東大震災の数日後、水谷竹紫と水谷八重子は牛込会館の屋上に上っています。牛込会館は現在はサークルKに変わっています。
芸術座 第二次芸術座。第一次芸術座は、1913年、島村抱月、松井須磨子などが結成し、1919年、解散。第二次芸術座は、水谷竹紫、水谷八重子が名前を受け継ぎ、同名の劇団を起こしました。
アンドレーフ Леонид Николаевич Андреев。Leonid Nikolaevich Andreev。レオニード・ニコラーエヴィチ・アンドレーエフ。20世紀はじめのロシアの作家。生年は1871年8月21日(ユリウス暦8月9日)。没年は1919年9月12日。ロシア第一革命の高揚とその後の反動の時代に生きた知識人の苦悩を描き、当時、世界的に有名な作家に。
田村秋子 たむら あきこ。新劇女優。生年は明治38年(1905年)10月8日、没年は昭和58年(1983年)2月3日。1924年築地小劇場の第1回研究生として入所、創立公演『休みの日』に出演。29年、夫の友田恭助と築地座を結成、戦後は文学座に出演。



盛り場文壇盛衰記|川崎備寛

文学と神楽坂

 川崎備寛氏が書いた「盛り場文壇盛衰記」(小説新潮。1957年、11巻9号)です。「山の手の銀座」は関東大震災から2、3年の間、神楽坂を指して使いました。神楽坂が「山の手の銀座」になった始まりと終わりとを書いています。

 たしか漱石の「坊つちやん」の中に、毘沙門さまの縁日に金魚を釣る話がでていたとおもうが、後半ぼくが神樂坂に下宿するようになつた頃でも毘沙門天の縁日は神樂坂の風物詩として残つていて、その日になるとあちらの横町、こちらの路地から、藝者たちが着飾つた姿でお詣りに来たものである。その毘沙門天と花柳街とを中心とした商店街、それが盛り場としての神樂坂だつたのだが、山ノ手ローカル・カラーというのであろうか、何となく「近代」とは縁遠い一郭を成している感じで、表通りはもちろんのこと、横町にはいってもどことなく明治時代からの匂いが漂つているようであつた。銀座のような派手な色彩や、刺戟的な空氣はどこにも見られなかつた。

 と一歩遅れた神楽坂の光景が出てきます。神楽坂が「山の手の銀座」になるのは、まだまだ先のことです。

坊っちゃん 夏目漱石の小説。 1906年『ホトトギス』に発表。歯切れのよい文体とわかりやすい筋立て。現在でも多くの読者がいます。
毘沙門 善国(ぜんこく)()は新宿区神楽坂の日蓮宗の寺院。本尊の()沙門(しゃもん)(てん)は江戸時代より新宿山之手七福神の一つで「神楽坂の毘沙門さま」として信仰を集めました。正確には山号は鎮護山、寺号は善国寺、院号はありません。
縁日 神仏との有縁(うえん)の日。神仏の降誕・示現・誓願などの(ゆかり)のある日を選んで、祭祀や供養が行われる日
風物詩 その季節の感じをよく表しているもの
藝者 宴席に招かれ、歌や踊りで客をもてなす者
花柳界 芸者や遊女の社会。遊里。花柳の(ちまた)
盛り場 人が寄り集まるにぎやかな場所。繁華街<
山ノ手 市街地のうち高台の地区。東京では東京湾岸の低地が隆起し始める武蔵野台地の東縁以西のこと。四谷・青山・市ヶ谷・小石川・本郷あたりです。
ローカル・カラー その地方に特有の言語・人情・風習・自然など。地方色。郷土色
一郭 同じものがまとまっている地域

 ところが、少し大袈裟だがこの街に突如として新しい文化的な空気が(誇張的にいえば)押し寄せるという事件がおこつた。それは大正十二年の関東大震災だつた。銀座が焼けたので、いわゆる文化人がどつとこの街に集まつて來たからである。文壇的にいえば震災前までは、神樂坂の住人といえばわずかに袋町都館という下宿に宇野浩二氏がおり、赤城神社の裏に三上於莵吉氏が長谷川時雨さんと一戸をもつているほかは、神樂館という下宿に廣津和郎氏や片岡鐡兵氏などがいた程度だつたが、震災を契機に、それまでは銀座を唯一の散歩または憩いの場所としていた常連は一時に神樂坂へ河岸を替えることになつたのだ。しかし何といつても銀座に比べると神樂坂は地域が狭い。だから表通りを散歩していると、きつと誰か彼かに出会う。立話しているとそこへまた誰かが來合わせて一緒にお茶でものむか一杯やろうということになる。そんなことはしよつちゆうあつた。郊外に住んでいるものも、午後から夕方にかけて足がしぜんと神樂坂に向くといつた工合で、言って見れば神樂坂はにわかに銀座の文化をすっかり奪つたかたちだつたのだ。

 つまり「山の手の銀座」はここででてくるのです。「山の手の銀座」は関東大震災の直後に生まれたのですが、繁栄の中心地は2~3年後には新宿になっていきます。

関東大震災 大正12年(1923)9月1日午前11時58分に、相模(さがみ)湾を震源として発生した大地震により、関東一円に被害を及ぼした災害。
銀座 東京都中央区の地名。京橋の南から新橋の北に至る中央通りの東西に沿う地域で、日本を代表する繁華街
文化人 文化的教養を身につけている人
袋町 行き止まりで通り抜けできない町。昔はそうだが、今では通り抜けできる。
都館 みやこかん。宇野浩二氏が大正八(1919)年三月末、牛込神楽坂の下宿「神楽館」を借り始め、九年四月には、袋町の下宿「都館」から撤去し、上野桜木町に家を、本郷区菊坂町に仕事場を設けました。いつ「神楽館」から「都館」に変わったのは不明です。関東大震災になったときに宇野浩二氏はこの辺りにはいませんでした。
赤城神社 新宿区赤城元町にある神社。上野国赤城山の赤城神社の分霊を早稲田弦巻町の森中に勧請、寛正元年(1461)牛込へ遷座。「赤城大明神」として総鎮守。昭和二十年四月の大空襲により焼失。
三上於莵吉 『区内に在住した文学者たち』では、大正8年に赤城下町4。大正8年~大正10年は矢来町3山里21号。大正12年は中町24。昭和2年~昭和6年3月は市谷左内町31です。下の図では一番上の赤い図は赤城下町4、左の巨大な赤い場所は矢来町3番地字山里、一番下の赤が中町24です。
赤城下町
神楽館 昔、神楽坂2丁目21にあった下宿。細かくは神楽館で。
河岸 川の岸。特に、船から荷を上げ下ろしする所。転じて飲食や遊びをする場所<

 もっと話を聞きたい。残念ながらこれ以上は神楽坂は出てきません。話は宇野浩二氏になっていきます。ここであとは簡単に。

 ぼくは震災前は鎌倉に住んでいたが、その頃でも一週間に一度や二度は上京していた。葛西善藏氏は建長寺にいたので、葛西氏に誘われて上京したり、自分の用事で上京したりした。葛西氏の上京はたいてい原稿ができたときか、または前借の用事のことだつたようだ。そういう上京のあるとき、葛西氏が用事をすました後、宇野浩二氏を訪問しようというので、ぼくがついて行つたことがある。それは前に書いた袋町の都館である。宇野氏はその頃すでに處女作「藏の中」以後「苦の世界」など一連の作品で文壇的に押しも押されもせぬ流行作家になつていたので、畏敬に似た氣持をもつて訪ねたのは言うまでもなかつた。行つて見ると、ありふれた古い安普請の下宿で、宇野氏の部屋は二階の隅つこにあつたが、六疉の典型的な下宿の一室であるに過ぎず、これが一代の流行作家の住居であるかと一種の感慨に打たれたことであつた。しかもその部屋には机もなく、たしか座蒲團もなくて、ただ壁の隅つこに一梃の三味線が立てかけてあるだけであつた。葛西氏はそれでもなんら奇異の念ももたないらしく暫らくのあいだ二人でポソポソと話をしていたが、傍で聞いていたとこでは、何でもその日は宇野氏の新夫人が長野縣から到着する日だとかで、新夫人というのは宇野氏の小説に夢子という名前で出ている諏訪の人だということを、後で葛西氏から聞いたが、そのとき見た一梃の三味線が、いまでもはっきりとぼくの印象に残つている。

建長寺 鎌倉市山ノ内にある禅宗の寺院。葛西氏は大正8年から4年間塔頭宝珠院の庫裏の一室に寄宿し、『おせい』などの代表作を書きました。
安普請 あまり金をかけずに家を建てること。そうして建てた上等でない家。
新夫人 大正9(1920)年、芸者である小竹(村田キヌ)が下諏訪から押しかけてきて宇野浩二氏と結婚しました。
夢子 大正8(1919)年、上諏訪で知り合った田舎芸者の原とみを指しています。無口で小さい声で唄を歌い、幽霊のようにすっと帰っていきました。夢子と新夫人とは違った人です。

 後は省略し、最後の結末を書いておきます。

 いずれにしても、すべては遠い昔の想い出として今に残る。『不同調』の廢刊と前後して、廣津氏の藝術社も解散していたが、廣津氏は武者小路全集の負債だけを背負つて間もなく大森に移つて行つた。もうその頃は佐佐木茂索氏もふさ子さんとの結婚生活にはいって矢来から上野の音樂學校の裏のあたりに新居を構えていたし、都館のぬしのように思われていた宇野浩二氏も、とうの昔に神樂坂から足を洗って上野櫻木町の家に引越してしまつていた。有り觸れた言葉でいえば「一人去り、二人去り」したのである。こうして神樂坂は再び、明治以来の神樂坂にかえつたのであつたが、それが今回の戦災で跡方も無くなろうとは、その當時誰が豫想し得たであろうか。
 先日ほくは久しぶりに神樂坂をとおつてみたが、田原屋は僅かに街の果物やとして残り、足袋の「みのや」、下駄の「助六」、「龜井鮓」、おしるこの「紀の善」、尾澤藥局、またぼくたちがよく原稿用紙を買った相馬屋山田屋など懷しい老舗が、今もなお神樂坂の土地にしがみついて、飽くまで「現代」のケバケバしい騷音に抵抗しているのを見たのである。

(了)

田原屋など 昔からの店舗が出ています。一応その地図です。赤い場所です。クリックすると大きくなりますが、あまり大きくはなりません。右からは山田屋、紀の善、亀井(すし)、助六、尾沢薬局、田原屋、相馬屋、みのやです。地図は都市製図社の『火災保険特殊地図』(昭和27年)です。

P

不同調 大正14年7月に創刊。新潮社系の文学雑誌で、「文藝春秋」に対抗しました。中村武羅夫、尾崎士郎、岡田三郎、間宮茂輔、青野季吉、嘉村磯多、井伏鱒二らが参加。嘉村の出世作『業苦』や、間宮の『坂の上』などが掲載。昭和4年終刊。
藝術社 1923年(大正12年)32歳。広津和郎氏は上村益郎らと出版社・芸術社を作り、『武者小路実篤全集』を出版。しかし極端に凝った造本で採算が合わなくなり、また上村益郎は使い込みをして大穴を開け、出版は失敗。借金を抱えましたが、円本ブームの波に乗り、無事返済。
武者小路全集 武者小路実篤全集は第1-12巻 (1923年、大正十二年)で、箱入天金革装、装丁は岸田劉生、刊行の奥付には「非売品」で予約会員制出版でした。
戦災 戦争による災害。第2次世界大戦の後です。