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矢来町(写真)矢来公園 昭和45年 ID 115, 116

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 115と116は、昭和45年3月、矢来町のある一部を撮ったものです。以前は矢来町3番地あざ山里といいました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 115 矢来山里

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 116 矢来山里

 ID 115の右側とID 116の左側は矢来公園です。昭和44年に開園しています。小浜藩邸跡、杉田玄白生誕地で、後に園内に碑が建てられました。
 また令和2年には、ID 116の公園の奥にあった鏑木清方氏の旧居跡を新宿区の史跡として指定しました。案内板は公園入り口付近にあります。

       新宿区指定 史跡

かぶら清方きよかたきゅうきょあと
所 在 地 新宿区矢来町三十八番地三
 指定年月日     令和元年六月三日
 日本画家・鏑木清方(1878~1972)は、大正15年(1926)9月から昭和19年(1944)まで、現在の新宿区矢来町38番地3に暮らした。ここ新宿区矢来公園の東に隣接する一帯である。
 清方は、本名を健一といい、明治11年(1978)に東京神田に生まれた。13歳の時に、浮世絵の流れを汲む水野みずの年方としかたへ弟子入りし、美人画を得意とする画家として地位を固めていった。
 矢来町の家は、大正15年(1926)9月より賃借ちんしゃくし、のちに購入して、懇意の建築家・吉田よしだ五十八いそやへ依頼し、応接間や玄関を改築して制作環境を整えた。清方はこの家を「夜蕾やらいてい」と称した。
 代表作となる「築地つきじ明石町あかしちょう」(昭和2年)のほか「三遊亭さんゆうてい圓朝えんちょうぞう」(昭和5年、重要文化財)など絵画史に名を残す名作をこの地で多く制作した。
 なお、鎌倉に移転後の昭和29年(1954)には文化勲章を受章した。
   令和2年2月28日
新宿区教育委員会

鏑木清方旧居跡

矢来町(昭和45年)
  • ID 115
  • 電柱広告 牛込台さこむら診療所
  • 電柱広告 神楽坂ゴルフ
  • ID 116
  • 交通標識 自転車を除く 一方通行路 
  • 広告 東京ガス 牛込サービス店
  • 広告 土地家屋アパー(ト) 有限会社 神楽坂商事

矢来公園付近(全国地価マップ

矢来町|江戸、明治、現在(360°全天球VRカメラ)

文学と神楽坂

 矢来町の大部分は旧酒井若狭守の下屋敷でした。

 矢来(やらい)という言葉は、竹や丸太を組み、人が通れない程度に粗く作った柵のことです。正保元年(1644年)、江戸城本丸が火災になったときに、第3代江戸将軍の家光はこの下屋敷に逃げだし、御家人衆は抜き身の槍を持って昼夜警護したといいます。以来、酒井忠勝は垣を作らず、竹矢来を組んだままにしておきます。矢来は紫の紐、朱の房があり、やりを交差した名残りといわれました。

 江戸時代での酒井家矢来屋敷を示します。なお、酒井家屋敷北の早稲田通りから天神町に下る一帯を、俗に矢来下(やらいした)といっています。

矢来屋敷

 明治5年、早稲田通りの北部、つまり12番地から63番地までの先手組、持筒組屋敷などの士地と、1番地から11番地までの酒井家の下屋敷を合併し、牛込矢来町になりました。下図は明治16年、参謀本部陸軍部測量局の「五千分一東京図測量原図」(複製は日本地図センター、2011年。インターネットでは農研機構)。酒井累代墓なども細かく書いています。

五千分一東京図測量原図(農研機構)
https://www.arcgis.com/home/item.html?id=c864ac7332e1423f81b154bc56105c23

 明治18年ごろは下図。池があるので、かろうじて同じ場所だと分かります。何もない荒れた土地でした。なお、以下の地図は『地図で見る新宿区の移り変わり』(新宿区教育委員会、昭和57年)を使っています。

矢来町 明治

 明治28年頃(↓)になると、番号が出てきて、新興住宅らしくなっていきます。1番地は古くからの宅地(黄)、3番地は昔は畑地。7番地(水色)は長安寺の墓地だったところ。8、9番地(赤とピンク)は山林や竹藪、11番地は池でした。それが新しく宅地になります。

矢来町color

 3番地には(あざ)として旧殿、中の丸、山里の3つができます。旧殿は御殿の跡(右下の薄紫)、中の丸は中の丸御殿の跡(右上の濃紫)、山里は庭園の跡(左の青)でした。

矢来町の3個の字

矢来町の3個の字

 11番地は庭園で、ひたるがいけ(日下ヶ池)を囲んで、岸の茶屋、牛山書院、富士見台、沓懸櫻、一里塚などの由緒ある建物や、古跡などがありました。将軍家の御成も多かった名園でした。 矢来倶楽部は9番地(ピンク)にあり、明治二十五年頃に設立しました。

矢来倶楽部。東陽堂編『東京名所図会』第41編(1904、明治37年)

 最後に現代です。矢来町ハイツは日本興業銀行の寮からみずほ銀行社宅になっていきます。

矢来町 現在

 牛込中央通りを見た360°写真。上下左右を自由に動かすこともできます。正面が矢来ハイツ。