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善国寺(写真)昭和44年 ID 8245

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 8245を見ましょう。撮影は1969年(昭和44年)頃で、毘沙門堂の善国寺です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8245 善国寺

 ここで見られる一代昔の善国寺ですが、蓮秀寺(市谷薬王寺町)に移築され、今も健在です。
 賽銭箱には「奉納 神楽坂振興会」と書かれています。神楽坂振興会は後の神楽坂通り商店会です。
 右上に屋外灯があり、手前にもポールが立っています。下の1965年の写真(池田信「1960年代の東京」毎日新聞社、2008年)を見ると、堂の前に向かい合わせに鈴蘭すずらん灯が立っているのが分かります。

池田信「1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶」(毎日新聞社、2008年)

池田信「1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶」(毎日新聞社、2008年)

 ID 5189ID 5190の神楽坂通りの街灯と比べると、照明部分の形状、柱のすその広がり具合や途中の飾り金物の位置が酷似しており、おそらく同じものでしょう。
 この写真の撮影当時の街灯は大型蛍光灯に更新されています。鈴蘭灯の使用期間は昭和28年(1953)~37年(1962)と短かったので、あるいは更新時に程度のいい鈴蘭棟を毘沙門天の屋外灯に再利用したものかもしれません。

 善國寺住職も「昭和20年の東京大空襲は、当山も灰燼に帰するところとなった。 しかし、同26年には毘沙門堂を再建、46年には威容を誇る本堂・毘沙門堂が完成し、戦災後の復興が果たされたのである」と書いていました。

 さらにその前の、戦前の善國寺です。

新撰東京名所図会第四十一編(明37)善国寺毘沙門堂縁日の図 明治35年

(A)毘沙門天(B)善国寺
善国寺は池上本門寺で同宗宗録所であった。毘沙門天はその本尊で殊に賽者が多い。「牛込区史」昭和5年

中村武志氏『神楽坂の今昔』(毎日新聞社刊「大学シリーズ法政大学」、昭和46年)

毘沙門さま あれこれ

文学と神楽坂

 地元の方が毘沙門さまについてのあれこれです。

 毘沙門天は神楽坂の象徴的存在で、こちらのブログでも詳しく述べられています。それらに語られていないことを、落ち穂拾いのように綴ってみます。

【1】児童遊園
 戦前の毘沙門さまの敷地内には、いろいろな出店があったそうです。戦後、そのスペースは区の児童遊園になりました。

 写真集「1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶」の「早稲田通り。善国寺(毘沙門天)。神楽坂5丁目(1965年4月)」や 田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」05-02-32-1毘沙門天遠景 1968-07-13に、当時の様子が写っています。撮影日に3年の違いがありますが、その間にブロック塀が出来たようです。

 門脇にある小高い四角いものは石造の滑り台で、近所の子どもが「お山の大将」を競いました。余った敷地をこういう形で区に貸すと、寺は固定資産税の減免や補助を受けられ、区は子どもの遊び場や避難場所を確保できるという政策なのだそうです。同様の児童遊園は近隣だけでも筑土八幡の階段脇(歴史博物館ID:7451)若宮八幡の境内など多くの例があり、現在の毘沙門さまにも一部が残っています。

早稲田通り。善国寺(毘沙門天)。神楽坂5丁目(1965年4月)

池田信「1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶」(毎日新聞社、2008年)

池田信「1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶」(毎日新聞社、2008年)

毘沙門天遠景 1968-07-13

田口政典氏。毘沙門天遠景。1968-07-13。http://masanori1919.web.fc2.com/05_Shinjuku/05-02/05-02.htm#09_Bishamonten

筑土八幡の階段脇(歴史博物館 ID:7451 昭和41年12月15日。学校帰りに筑土八幡神社で遊ぶ子ども達

歴史博物館 7451 筑土八幡境内の遊び場開設

若宮八幡の境内 以前の若宮八幡神社。ブランコがわかります

田口政典氏。若宮神社入口遠景。1977-08-27。http://masanori1919.web.fc2.com/05_Shinjuku/05-01/05-01.htm#03_WakamiyaJinja

若宮八幡神社。雑誌「Mr. DANDY」(中央出版、昭和49年)「キミが一生に一度も行かない所 牛込神楽坂」

【2】石囲いの寄進者
 神社の玉垣にあたる毘沙門さまの石囲い。多くの場合、地元に奉加帳を回し、寄進者の名を石柱に1本ずつ掘ります。角の太い柱は時の顔役が名を残すのです。
 1960年代の写真の石囲いは戦前の焼け残りです。その後、毘沙門堂を建て直した1971年(昭和46年)に一新しました。政財界の黒幕と呼ばれた児玉誉士夫氏がひとりで寄進したそうなので、石柱に他の名前がありません。後にこの石囲いを少し削り、地元の寄付で現在の赤い山門を建てました

石囲い 石で作った塀
奉加帳 ほうがちょう。神仏に奉加する金品の目録や寄進者の氏名などを記した帳簿。寄進きしん帳とも。
児玉誉士夫 昭和時代の右翼運動家。外務省や参謀本部の嘱託として中国で活動。16年、海軍航空本部の依頼で「児玉機関」を上海につくり物資調達に。20年、A級戦犯。釈放後、政財界の黒幕となり、51年ロッキード事件では脱税容疑で起訴。病気で判決は無期延期。公訴は棄却。生年は明治44年2月18日。没年は昭和59年1月17日で、死亡は72歳。
赤い山門を建てました 平成6年です。渡辺功一氏の「神楽坂がまるごとわかる本」(展望社、2007)では「平成6年(1994)開創400年を迎えた毘沙門天は、本堂と唐破風造りの山門の建立を無事すませ、開創400年記念事業『落慶式』が、10月14日しめやかに執りおこなわれた。街の明るいイメージに合わせて、山門、本堂ともに、伝統色である朱色にしている」
 

【3】今も残る毘沙門堂
 毘沙門堂は今のコンクリート造に建て替えられましたが、1951年(昭和26年)に再建した旧堂は近くの蓮秀寺(市谷薬王寺町)に移築され、今も残っているのだそうです。これについては風聞だけで、確認を取っていません。ただ同じ日蓮宗ですし、写真を見るとよく似た建物ではあります。
※ 蓮秀寺
https://www.aiemu.co.jp/graveyard/temple_detail.php?tid=57
http://tokyoshinjuku.blog.shinobi.jp/市谷薬王寺町/蓮秀寺
蓮秀寺 新宿区市谷薬王寺町にある日蓮宗の蓮秀寺。山号は久栄山。

確認を取っていません いいえ。確認はあるようです。昭和26年建立の毘沙門堂は実際に今も蓮秀寺に移築され、祭っています。

昭和26年建立の毘沙門堂がなつかしい
昭和26年から45年頃まで神楽坂通りに建っていた毘沙門堂は、実は今もその姿のまま拝観することができる。市谷薬王寺にある同じ宗派の蓮秀寺に移築されているからだ。戦後間もなく建てられた毘沙門堂は、当時の姿のまま時間が止まったように建っている。嶋田住職は、いまでも同じ宗派のお寺なので訪れることがあり、その度になつかしいと語る。
神楽坂deかぐらむら 神楽坂・声のライブラリー 第5弾
毘沙門様と神楽坂の発展」毘沙門天善國寺嶋田尭嗣住職



田山花袋|転居

文学と神楽坂

新宿区郷土研究会の『神楽坂界隈』(1997年)「神楽坂と文学」で飯野二朗氏はこう書いています。

 花袋は牛込で二十年間を過ごした。明治十九年、十六歳で上京してから貧困時代、苦学時代、尾崎紅葉を訪ねて文学修業を積む習作時代を経て、自然主義文学の金字塔を建てる「蒲団」完成の前年三九年まで、十一回の転居を牛込区内でくり返した。そして牛込を異常になつかしく思い浮かべて「東京の三十年――山の手の空気」を書いている。「」内は原文。

 「その時分には、段々開けて行くと言ってもまだ山手はさびしい野山で、林があり、森があり、ある邸宅の中に人知れず埋れた池があったりして、牛込の奥には、狐や狸などが夜ごとに来た。永井荷風氏の「狐」という小説に見るような光景や感じが到るところにあった」(明治19年に)、という頃に上京し①牛込区市谷冨久町120番地に住んだ。次に②納戸町12③甲良町12④内藤町1⑤喜久井町20⑥納戸町40⑦原町2-68⑧若松町137⑨市谷薬王寺町55⑩弁天町42⑪北山伏町38番地と移り、明治39年12月8日に渋谷村代々木山谷132番地に新居を建て、昭和5年5月13日59歳の生涯を終えた作家である。
 日本文学史の一時代を面する自然主義文学は、本当の意味では花袋が出発点である。そして、独歩藤村秋声白鳥、そして岩野治明真山青果小杉天外中村星湖も、その上に島村抱月長谷川天渓片上伸ら早稲田文学の人々が自然主義の理論的バックアップをして一世を風靡したといわれる。

岩野治明 正しくは岩野泡嗚でしょう。また本名は美衛(よしえ)でした。

では、牛込区のどこに転居したのでしょうか。④の内藤町以外は1つの地図に落とせます。牛込区といってもかなり転居したんだと思います。

明治28年②

明治28年、東京実測図(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年から)

明治39年12月8日、渋谷村代々木山谷132番地に新居を建てたことについては、中村武羅夫氏は『明治大正の文学者』(留女書房1949年、ITmedia名作文庫2014年)にこう書いています。

田山花袋が「蒲団」を書いて大いに人気を得たその少し後で、代々木に住宅を建てたり、柳川春葉が「生さぬ仲」(大正二年―三年)という通俗小説で大いに当てて、夫人の郷里の宇都宮に借家を二戸とか建てた時など、両方ともずいぶん評判で、ゴシップをにぎわしたものである。文士が家を建てるくらいのことは、今では当たり前のことでも、大正の初めのころまでは文壇ゴシップで騒がれるほど、とにかく希有のことだったのだ。

「蒲団」は「新小説」明治40年(1907年)9月号に掲載されました。つまり、実際には「蒲団」よりも早く、明治39年12月に新居を建てていたのです。これについては同じく『明治大正の文学者』では

 すなわち文学者としての稼ぎによって建ったものではなく、「蒲団」のモデルとして取り扱った女弟子の実家が金持ちで、そこから借金して建てた家であるというのが、ウルさいゴシップに対する田山花袋の弁解であり、抗議であった。