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神楽坂考|野口冨士男

文学と神楽坂

 野口冨士男氏の随筆集『断崖のはての空』の「神楽坂考」の一部です。
 林原耕三氏が書かれた『神楽坂今昔』の川鉄の場所について、困ったものだと書き、また、泉鏡花の住所、牛込会館、毘沙門横丁についても書かれています。

-49・4「群像」
 さいきん広津和郎氏の『年月のあしおと』を再読する機会があったが、には特に最初の部分――氏がそこで生まれて少年時代をすごした牛込矢来町界隈について記しておられるあたりに、懐かしさにたえぬものがあった。
 明治二十四年に生誕した広津さんと私との間には、正確に二十年の年齢差がある。にもかかわらず、牛込は関東大震災に焼亡をまぬがれたので、私の少年期にも広津さんの少年時代の町のたたずまいはさほど変貌をみせずに残存していた。そんな状況の中で私は大正六年の後半から昭和初年まで――年齢でいえば六歳以後の十年内外をやはりあの附近ですごしただけに、忘しがたいものがある。
 そして、広津さんの記憶のたしかさを再確認したのに反して、昨年五月の「青春と読書」に掲載された林原耕三氏の『神楽坂今昔』という短文は、私の記憶とあまりにも大きく違い過ぎていた。が、ご高齢の林原氏は夏目漱石門下で戦前の物理学校――現在の東京理科大学で教職についておられた方だから、神楽坂とはご縁が深い。うろおぼえのいいかげんなことを書いては申訳ないと思ったので、私はこの原稿の〆切が迫った雨天の日の午後、傘をさして神楽坂まで行ってみた。

東京理科大学 地図です。理科大マップ

 坂下の左角はパチンコ店で、その先隣りの花屋について左折すると東京理大があるが、林原氏は鳥屋の川鉄がその小路にあって《毎年、山房の新年宴会に出た合鴨鍋はその店から取寄せたのであった》と記している。それは明治何年ごろのことなのだろうか。私は昭和十二年十月に牛込三業会が発行した『牛込華街読本』という書物を架蔵しているが、巻末の『牛込華街附近の変遷史』はそのかなりな部分が「風俗画報」から取られているようだが、なかなか精確な記録である。
 それによれば明治三十七年頃の川鉄は肴町二十二番地にあって、私が知っていた川鉄も肴町の電車停留所より一つ手前の左側の路地の左側にあった。そして、その店の四角い蓋つきの塗物に入った親子は独特の製法で、少年時代の私の大好物であった。林原文は前掲の文章につづけて《今はお座敷の蒲焼が専門の芝金があり、椅子で食ふ蒲どんの簡易易食堂を通に面した所に出してゐる》と記しているから、川鉄はそこから坂上に引っ越したのだろうか。但し芝金は誤記か誤植で志満金が正しい。私が学生時代に学友と小宴を張ったとき、その店には芸者がきた。

パチンコ店 パチンコニューパリーでした。今はスターバックスコーヒー神楽坂下店です。
肴町二十二番地 明治28年では、肴町22番地は右図のように大久保通りを超えた坂上になります。明治28年には川鉄は坂上にあったのです。『新撰東京名所図会 第41編』(東陽堂、明治37年、1904年)では「鳥料理には川鐵(22番地)」と書いています。『牛込華街読本』(昭和12年)でも同様です。一方、現在の我々が川鉄跡として記録する場所は27番地です。途中で場所が変わったのでしょう。
明治28年の肴町22番地
引っ越し 川鉄はこんな引っ越しはしません。ただの間違いです。
正しい 芝金の書き方も正しいのです。明治大正年間は芝金としていました。

 ついでに記しておくと、明治三十六年に泉鏡花が伊藤すゞを妻にむかえた家がこの横にあったことは私も知っていたが、『華街読本』によれば神楽町二丁目二十二番地で、明治三十八年版「牛込区全図」をみると東京理大の手前、志満金の先隣りに相当する。村松定孝氏が作製した筑摩書房版「明治文学全集」の「泉鏡花集」年譜には、この地番がない。
 坂の中途右側には水谷八重子東屋三郎が舞台をふんだ牛込会館があって一時白木屋になっていたが、現在ではマーサ美容室のある場所(左隣りのレコード商とジョン・ブル喫茶店あたりまで)がそのである。また、神楽坂演芸場という寄席は、坂をのぼりきった左側のカナン洋装店宮坂金物店の間を入った左側にあった。さらにカナン洋装店の左隣りの位置には、昭和になってからだが盛文堂書店があって、当時の文学者の大部分はその店の原稿用紙を使っていたものである。武田麟太郎氏なども、その一人であった。
 毘沙門様で知られる善国寺はすぐその先のやはり左側にあって、現在は地下が毘沙門ホールという寄席で、毎月五の日に開演されている。その毘沙門様と三菱銀行の間には何軒かの料亭の建ちならんでいるのが大通りからでも見えるが、永井荷風の『夏すがた』にノゾキの場面が出てくる家の背景はこの毘沙門横丁である。

 読み方は「シ」か「あと」。ほかに「跡」「痕」「迹」も。以前に何かが存在したしるし。建築物は「址」が多い。
ノゾキ 『夏すがた』にノゾキの場面がやって来ます。

 慶三(けいざう)はどんな藝者(げいしや)とお(きやく)だか見えるものなら見てやらうと、何心(なにごころ)なく立上つて窓の外へ顏を出すと、鼻の先に隣の裹窓の目隱(めかくし)(つき)出てゐたが、此方(こちら)真暗(まつくら)向うには(あかり)がついてゐるので、目隠の板に拇指ほどの大さの節穴(ふしあな)が丁度ニツあいてゐるのがよく分った。慶三はこれ屈強(くつきやう)と、(のぞき)機關(からくり)でも見るやうに片目を押當(おしあ)てたが、すると(たちま)ち声を立てる程にびつくりして慌忙(あわ)てゝ口を(おほ)ひ、
 「お干代/\大變だぜ。鳥渡(ちよつと)來て見ろ。」
四邊(あたり)(はゞか)る小聾に、お千代も何事かと教へられた目隱の節穴から同じやうに片目をつぶつて隣の二階を覗いた。
 隣の話聾(はなしごゑ)先刻(さつき)からぱつたりと途絶(とだ)えたまゝ今は(ひと)なき如く(しん)としてゐるのである。お千代は(しばら)く覗いてゐたが次第に息使(いきづか)(せは)しく胸をはずませて来て
「あなた。罪だからもう止しませうよ。」
()(まゝ)黙つて隙見(すきま)をするのはもう氣の毒で(たま)らないといふやうに、そつと慶三の手を引いたが、慶三はもうそんな事には耳をも貸さず節穴へぴつたり顏を押當てたまゝ息を(こら)して身動き一ツしない。お千代も仕方なしに()一ツの節穴へ再び顏を押付けたが、兎角(とかく)する中に慶三もお千代も何方(どつち)からが手を出すとも知れず、二人は眞暗(まつくら)な中に(たがひ)に手と手をさぐり()ふかと思ふと、相方(そうほう)ともに狂氣のやうに猛烈な力で抱合(だきあ)つた。

福島安正|矢来町

文学と神楽坂

 広津和郎氏が『年月のあしおと』(1963年)に書いた単騎でシベリアを横断した福島安正中佐が住んだ場所はどこにあるのでしょうか。まず『年月のあしおと』ではこう書いてあります。

 これは泉鏡花さんに抱かれたよりも前のことと思うが、福島中佐がシベリヤ横断から帰って来て、馬に乗って自宅の門に入って行くところを、私は女中の背におぶわれて見たという記憶がある。
 福島安正中佐と云っても、今の多くの読者には知られていないことと思うが、日清戦争前に、シベリヤを馬に乗って単騎横断したというので、当時いわゆる「勇名」を天下に馳せた人であった。後には大将になった。
 矢来の表通から私の家のあった横町へ曲って来ると、だらだら登りの途中の左側に福島中佐の屋敷はあった。その後数年経って、私は中佐の息子たちと知合になって、よく屋敷に遊びに行ったが、あの頃は陸軍中佐があんな家に住むことができたのかと、今考えると不思議なほど、立派な広い屋敷であった。
 門の両側が堤になり、門は往来から少し引っ込んでいたが、その門前に近所の人々が人々を作っている前を、馬に乗った中佐が、軽く挙手の礼で人々の歓呼にこたえながら、しずかに門の内に入って行った光景を私は思えている…

福島中佐 福島安正。ふくしま やすまさ。生年は1852年10月27日(嘉永5年9月15日)。没年は1919年(大正8年)2月19日。陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。
単騎横断 ただひとり馬に乗って横断すること。福島安正氏は1892年(明治25年)にシベリア単騎行を行い、ポーランドからロシアのペテルブルク、外蒙古、イルクーツク、東シベリアまでの約1万8千キロを1年4ヶ月をかけて馬で横断し、実地調査しています。この旅行が「シベリア単騎横断」と呼ばれています。
広い屋敷 豊田穣氏の『情報将校の先駆福島安正-ユーラシア大陸単騎横断』(1993年)では「明治九年、安正が石黒と同行して、アメリカから帰国して、安正が月四円の家賃の家に住んでいると聞くと、石黒は(安正が)神楽坂にある陸軍軍医寮の空家を無料で借りられるよう世話をしてくれた」と書いてあります。ですから、この安正氏の家は軍医寮の1つで、たぶん広い屋敷だったのでしょう。なお、石黒忠悳(ただのり)は安正氏より七歳年上で、西洋医学を修め、大学東校(のちの東大医学部)の教師になり、その後、陸軍本病院長、東京大学医学部綜理心得、軍医総監、貴族院議員になりました。
挙手の礼 右手を開いて指をそろえ、帽子のひさしの右端にあげて、相手に注目する敬礼。

福島中佐

新宿区地域文化部文化国際課『新宿文化絵図』(新宿区、2007年)

「矢来の表通から私の家のあった横町へ曲って来ると、だらだら登りの途中の左側に福島中佐の屋敷はあった。」を考えてみます。

 まず、広津和郎氏の家はこの濃青の四角の一部か全部です。「曲って」は、橙色の矢印を通って行き、「だらだら」は灰青色で書きました。

 なお、消防署が淡水色の場所にはありました。したがって、たぶん赤で書いた場所の1つが福島中佐の屋敷でしょう。

 また、明治37(1904)年の「新撰東京名所図会」によれば、福島中佐の住所は矢来町3丁目3の「中の丸24号」でした。

 以上おしまい……ではありません。福島中佐の屋敷を描いた地図が出てきました。これは地図資料編纂会編『地籍台帳・地籍地図』(東京市区調査会大正元年刊の複製、柏書房)です。これによれば、福島中佐の屋敷は矢来町8丁目で、その場所もはっきりと赤く書いてあります。なお、今までのここで推論したものは青色で書いてあります。矢来町1

 しかし、明治37年の「中の丸24号」は矢来町3丁目3にある(あざ)です。明治25年に単騎横断を行った時の住所は矢来町3丁目3(あざ)中の丸24号でした。矢来町8丁目ではありません。大正元年には福島中佐の住宅は矢来町8丁目に移りました。結局、広津和郎が覚えていることは正しかったと思います。以上これで本当に終わりです。

手の字|神楽坂6丁目

文学と神楽坂

 広津和郎氏が『年月のあしおと』(1963年)に書いた「手の字」の場所はどこにあるのでしょうか。まず『年月のあしおと』ではこう書いてあります。

 が散歩から帰って来て、
「今手の字に寄ったら、尾崎が若い連中をつれて来ていた」など書生に話しているのを聞いたことがあった。
 手の字というのは、肴町の方から通寺町に入って直ぐ左手の路地に屋台を出していた寿司屋で、硯友社の人達はこの寿司屋を贔屓にしてよく出かけて行ったものらしい。
 この手の字はずっと後まであって、近松秋江氏などもよくそこに立寄って、おやじから紅葉の思い出話などを聞いたらしい。私が早稲田を卒業したのは大正二年であったが、その頃もその寿司屋はまだそこに出ていた。

肴町 現在の神楽坂五丁目です
通寺町 現在の神楽坂六丁目です
路地 ろじ。狭い道。「横丁」にも同じようなニュアンスがありますが、「路地」では更に狭く隣接する建物の関係者以外はほとんど利用しない道です。

手の字 東亰市牛込區全圖 明治29年8月調査

 これからは全くの空想ですが、次の場所が正しいと思っています。まず図を見てください。明治29年の東京市牛込区全図の1部です。赤い丸を見ると、ここに道路3本が集まっています。赤丸から西北西に出るのが「通寺町通り」、反対側の東南東にずっと行くと「神楽坂通り」になります。南西南に行くのは江戸時代では「川喜田屋横丁」と呼ばれ、明治時代には無名の路地でした。その中に寿司屋「手の字」(赤棒)があったのでしょう。

 ちなみに昭和6年、横井弘三氏が書いた『露店研究』を読むと、

 まづ牛込郵便局から出発して坂を下らう。右側に寿司、おでん、左側にある、古本、八百屋、ミカン、古本、表札、古本、XX、古着、眼鏡、電気、靴墨、洋服直し、古本、靴、ブラッシュ、古本、名刺刷り、古本、柳コリ(略。ここから愈々露店は両側になる)

 当時の牛込郵便局は現在の「音楽の友社」(神楽坂6-30)にありました。そこから下を向いて右側には露店2店、左側には19店が並びます。この左側の19店は恐らく等間隔に近い形で並んでいたのでしょう。では右側の2店はどう並んでいたのでしょう。しかも右側の1店は寿司が出てきます。これは「手の字」であったのか、違ったのでしょうか。
 明治時代には、この地図で見られるように赤丸から西北西に進む通寺町通りは急に狭くなりました。明治29年の上の東京市牛込区全図ではそうなっています。露店も同じです。赤城神社から出発しても、初めは道路は狭く、当然、露店用の面積も狭く、そのため、露店は一方向だけ、つまり北側だけにできたのではなかったのでしょうか。道路が広くなる赤丸を超えてから、初めて露店は両側にできたのです。つまり、赤城神社から神楽坂の方に来る場合、最初は北側の露店だけがあり、しかし、南側は何もなく、南側にできるのは川喜田屋横丁を超えた所からで、そこに寿司とおでんの2つがあったと考えます。この場合はこの寿司と「手の字」は同じでしょう。
 なお、邦枝完二作の「恋あやめ」(1953年、朝日新聞社)の「新世帯」には「郵便局前の屋台ずし『ての字』ののれんに首を突っ込んで」と書いています。これは少なくとも広津和郎氏が描いた「手の字」ではないと思います。

神楽館|広津和郎

文学と神楽坂

 広津和郎広津(ひろつ)和郎(かずお)氏は作家、文芸評論家、翻訳家です。『年月のあしおと』(講談社、昭和44年、1969年)に大正12(1923)年9月1日に起こった関東大震災のことが書かれています。そのとき、広津氏は31歳、神楽坂の下宿にはいっていました。
 では、この神楽坂の下宿はどこなのでしょうか。 まず『年月のあしおと』ではこう書いてあります。

 私は牛込神楽坂に近い下宿屋社員を四人程置き、自分も鎌倉――当時鎌倉小町に私は両親と一緒に暮していたが、始終東京に出て、その同じ下宿にいることが多かった。その外に社員ではなかったが、片岡鉄兵が家からの仕送りがなくなったので、そこに置いておいた。それから後に麻雀で有名になった川崎備寛なども置いておいた。どうせ一人や二人、人数がふえたところで大した違いはないという気持で、これらの人達の下宿代を一緒に払ったわけであるが、銀行の手形交換の時刻の迫る前に原稿を書き、雑誌社にかけつけて、原稿料を受取ると、銀行にとんで行って、やっと手形を落すというようなことも、今思い出すと何か愉快な思い出になっている。(中略)
 関東の大震災も、私はその下宿屋の三階で出遭った。私はその前夜原稿を書いていたので、地震の時間の正午一寸前には、まだ寝ていた。ひどい震動で眼がさめたが、ふと見ると、部屋の隅の鴨居の合せ目がぱくぱくと拡がっては又つぽまり、拡がっては又つぼまりしている。あれが拡がり切ったら、天井が落ちるのではないかと思ったので、私は寝床から起き上って、箪笥の側に行き、箪笥が倒れないようにと、それを押えながら、その蔭に身を寄せた。

下宿屋 この下宿に入り、関東大震災の時もこの下宿に入っていました。場所は「牛込神楽坂に近」く、片岡鉄兵と川崎備寛も一緒に住んでいた場所だといいます。

 更に読んでいると『広津和郎全集 第13巻』の「先ずペエシェンスから」(初発は昭和3年10月。底本は『新潮』)にその下宿が出ていました。

 片岡鉄兵君とは暫く会わない。(省略)
 例の震災前及び震災後の牛込の神楽館時代には毎日互に顔を合わせていた。それから急に顔を合わせなくなって、そして彼が結婚するので彼から招待されたその時まで、約二年間位は、彼に対する記憶が殆んどない。どうも会う機会がなかったらしい。

 神楽館だという場所でした。場所はここです。 サトウハチロー氏の『僕の東京地図』(春陽堂文庫、昭和11年)も同じことが出ています。

 二十一、二の時分に神楽館という下宿にいた。白木屋の前の横丁を這人ったところだ。片岡鐵兵ことアイアンソルジャー、麻雀八段川崎備寛、間宮茂輔、僕などたむろしていたのだ。僕はマダム間宮の着物を着て(自分のはまげてしまったので)たもとをひるがえして赤びょうたんへ行く、田原屋でサンドウィッチを食べた。払いは鐵兵さんがした。

白木屋 白木屋は百貨店で、神楽坂の中腹で、神楽坂2丁目が終わり、代わって3丁目に始まった場所にありました。現在、白木屋はなく、1階には「サークルK」,2階には「Royal Host」がはいっています。下から右に向かうと「神楽坂仲通り」に入っていきます。
間宮茂輔 小説家。まだこのころは広津和郎氏が社長だった渋谷の『藝術社』の一社員でした。
まげる 品物を質に入れる。
赤びょうたん これは神楽坂仲通りの近く、神楽坂3丁目にあったようです。今和次郎編纂『新版大東京案内』では

おでん屋では小料理を上手に食はせる赤びようたん

と書き、浅見淵著『昭和文壇側面史』では

質蔵を改造して座敷にしていた、肥っちょのしっかり者の吉原のおいらんあがりのおかみがいた、赤瓢箪という大きな赤提灯をつるしていた小料理屋

 関東大震災でも潰れなかったようです。また昭和10年の安井笛二編の 『大東京うまいもの食べある記』では

赤瓢箪 白木屋前横町の左側に在り、此の町では二十年も營業を続け此の邉での古顔です。現在は此の店の人氣者マサ子ちゃんが居なくなって大分悲觀した人もある樣です、とは女主人の涙物語りです。こゝの酒の甘味いのと海苔茶漬は自慢のものです。

と書いてあります。もし「白木屋前横町の左側」が正しいとするとこの場所は神楽坂3丁目になります。

 間宮茂輔の親戚、間宮武氏が書いた『六頭目の馬・間宮茂輔の生涯』で関東大震災はこう書いています。

 神楽坂は矢来の新潮社に通じる道筋にあたっていたから、文士の往来も繁く、矢来に住んでいた谷崎精二加納作次郎、それに佐々木茂索といった人たちはよく神楽館に立ち寄っていった。
 その年の九月一日、関東大震災が起こる。
 その日出社していたのは、茂輔と番頭役の島田という男の二人だった。
 地鳴りを伴いながら、激しい振動が襲い、木造の社は音を立てて崩れ落ちた。
 縁先の太い樹木によじ登り、茂輔は辛うじて難を避けた。
 黒煙と土くれが巻き上る空の下を、めくリ上げるように続く余震に脅えながら神楽館に辿り着いた。建物は無事だったが、部屋の壁は崩れ、広津をはじめ同宿の片岡鉄兵の姿もみえなかった。
 夕方になって、広津たちが避難先から次々と帰って来た。

 以上、広津和郎氏が大震災にあった下宿は「神楽館」でした。