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牛込揚場町|東京名所図会

 牛込揚場町では「新撰東京名所図会」第41編(東陽堂、1904年)でこう書いていました。

    ●牛込揚場町
     ◎位 置
牛込揚場町は。東の方神樂河岸に面し。西方は津久戸前町に接し。南は神樂町一二丁目にし。北は下宮比町に鄰せり。地號は一番地より二十番地に至る
     ◎町名の起原幷に沿革
牛込揚場町は。神田川の船寄にして。此河岸より運送し來れる貨物を陸揚するを以て此名あり。明治以前は其の町域僅かに東面の一帶なりしが。明治の初年平岩小之助其の他諸士の邸地を併合して。之を擴張せり。
     ◎景 況
此地の東は河岸通りなれば。茗荷屋丸屋などいへる船宿あり。一番地には。油問屋の小野田。三番地には東京火災保險株式會社の支店。四番地には酒問屋の升本喜兵衛。九番地には石鹸製造業の安永鐵造。二十番地には高陽館といへる旅人宿あり。而して升本家最も盛大にして。其の本宅も同町にありて。庭園など意匠を擬したるものにて。稻荷社なども見ゆ。
大正元年の揚場町。地図資料編纂会『地籍台帳・地籍地図。東京第6巻』東京市区調査会大正元年刊の複製

大正元年の揚場町。地図資料編纂会『地籍台帳・地籍地図。東京第6巻』東京市区調査会大正元年刊の複製。柏書房。1989年。

    ●牛込揚場町
     ◎位 置
 牛込揚場町の東は神楽河岸に面し、西は津久戸前町に接し、南は神楽町1~2丁目の区画で、北は下宮比町に隣り合う。地番は一番地から20番地まで。
     ◎町名の起原と沿革
 牛込揚場町は、神田川の船を寄せる場所であり、この河岸まで運送されて来た貨物を陸揚する。この町名もこれにちなんでいる。明治以前、この町はわずかに東の一帯だったが、明治の初年に、平岩小之助や他の諸士の邸地を併合して、これを拡張させた。
     ◎景 況
 この地の東は河岸通りなので、茗荷屋や丸屋などいう船宿がある。一番地には油問屋の小野田、三番地には東京火災保険株式会社の支店、四番地には酒問屋の升本喜兵衛、九番地には石けん製造業の安永鉄造、20番地には高陽館という旅人宿がある。このうち、升本家は最も盛大で、その本宅も同町にあり、庭園なども意匠をこらしたものだ。稲荷神社も見える。

 かい。空間を分けた区切り。物事のさかい目。範囲を区切った特定の場所。
地号 地番。土地の区画に付けた番号
 りん。隣の異体字。となり。となりあう。
幷に ならびに。並に。并に。前の事柄と後の事柄とが並列の関係にあることを示す。また。および。
船寄 ふなよせ。船を寄せること。その場所
平岩小之助 新宿区地域文化部文化国際課「新宿文化絵図」(2007年)の「江戸・明治・現代重ね地図」の江戸地図(安政3年、1856年)では、揚場町13に平岩七之助が出てきます。これでしょうか。

揚場町。江戸時代。安政3年

江戸時代の揚場町。安政3年。「江戸・明治・現代重ね地図」から。2007年。

景況 けいきょう。経済上の景気の状態。
茗荷屋 歌川広重氏の団扇絵に出ています。
丸屋 同じ地図の「大正元年の揚場町」に出ています。
船宿 江戸時代~明治初期、港町におかれた入港船舶の乗組員のための宿屋。
而して しこうして。そうして。
意匠 美術・工芸・工業製品などで、その形・色・模様・配置などについて加える装飾上の工夫。趣向。デザイン。
稻荷社 稲荷神社。稲荷神を祀る神社。ここでは最上の大正元年の地図で、揚場町12-2にあった神社でしょうか。また昭和12年の『火災保険特殊地図』(都市製図社製)にもありました。

稲荷神社

都市製図社製『火災保険特殊地図』(昭和12年)

外濠線にそって|野口冨士男②

文学と神楽坂

 野口冨士男氏の随筆『私のなかの東京』のなかの「外濠線にそって」は昭和51年10月に発表されました。その2です。

 早稲田方面から流れてきた江戸川飯田橋と直角をなしながら、後楽園の前から水道橋お茶の水方向に通じている船河原橋の橋下で左折して、神田川となったのちに万世橋から浅草橋を経て、柳橋の橋下で隅田川に合する。反対に飯田橋の橋下から牛込見附に至る、現在の飯田橋駅ホームの直下にある、ホームとほぽ同長の短かい掘割が飯田堀で、その新宿区側が神楽河岸である。堀はげんざい埋め立て中だから、早晩まったく面影をうしなう運命にある。
 飯田橋を出た市電は、牛込見附まで神楽河岸にそって走った。その河岸の牛込見附寄りの一角が揚場(あげば)とよばれた地点で、揚場町と軽子坂という地名もいまのところ残存するように、隅田川から神田川をさかのぼってくる荷足船の積荷の揚陸場であった。幕末のことだが、夏目漱石の姉たちは、牛込馬場下の自宅から夜明け前にここまで下男に送られてきて屋根船で神田川をくだったのち、柳橋から隅田川の山谷堀口にあたる今戸までいって、猿若町の芝居見物をしたということが『硝子戸の(うち)』に書かれている。
 むろん、私の少年時代には、すでにそんな光景など夢物語になっていたが、それでもその辺には揚陸された瓦や土管がうずたかく積まれてあって、その荷をはこぶ荷馬車が何台もとまっていた。そして、柳の樹の下には、露店の焼大福などを食べている馬方の姿がみられたものであった。

神田川
江戸川 神田川中流のこと。文京区水道関口の大洗堰おおあらいぜきから船河原ふながわら橋までの神田川を昭和40年以前には江戸川と呼びました。
飯田橋 「江戸川は飯田橋と直角をなしながら」というのは「江戸川はJR駅の飯田橋駅と直角をなしながら」という意味なのでしょう。
後楽園、水道橋、お茶の水、万世橋、浅草橋、柳橋。神田川。隅田川。 上図で
船河原橋 本来は江戸川(現、神田川)西岸と東岸を結ぶ橋だった。その後、飯田町東南岸と西北岸を結ぶ飯田橋ができ、また船河原橋から飯田町に行く南向き一方通行の橋(これも船河原橋の一部)もできた。
飯田橋 本来は外濠の外部と内部を結ぶ橋。
飯田堀 牛込堀と神田川を結ぶ堀。1970年代に飯田堀は暗渠化。現在はわずかな堀割を除いて飯田橋セントラルプラザが建っています。%e3%81%ab%e3%81%9f%e3%82%8a%e8%88%b9
神楽河岸 かぐらがし。現在の地域は左下の地図で。過去の地図は右下の図で
揚場 あげば。 船荷を陸揚げする場所。 転じてその町。
荷足船 にたりぶね。小型の和船で、主として荷船として利用しました。
揚場と神楽河岸
 その電車通りからいえば、神楽坂は牛込見附の右手にあたっていて、神楽坂を書いた作品はすくなくない。坂をのぼりかける左側の最初の横丁、志満金という鰻屋のちょっと手前の角に花屋のある横丁を入っていくと、まもなく物理学校――現在の東京理大の前へ出る。そのすぐ手前にあたる神楽町二丁目二十三番地には新婚当時の泉鏡花が住んでいて、徳田秋声の『』 には、その家の内部と鏡花の挙措などが簡潔な筆致で描叙されている。
 また、永井荷風の『夏姿』の主舞台も神楽坂で、佐多稲子の『私の東京地図』のなかの『』という章でも、彼女が納戸町に住んでいたころの神楽坂が回想されている。

大地震のすぐあと、それまで住んでいた寺島の長屋が崩れてしまったので、私は母と二人でこの近くに間借りの暮しをしていた。

 と佐多は書いているが、その作中の固有名詞にかぎっていえば、神楽坂演芸場神楽坂倶楽部牛込会館や菓子屋の紅谷もなくなってしまって、戦災で焼火した相馬屋紙店、履物屋の助六、果物屋の奥がレストランだった田原屋というようななつかしい店は復興している。
 私はつい先日も少年時代の思い出をもつ田原屋の二階のレストランで、女房と二人で満六十五歳の誕生日の前夜祭をしたが、震災で東京中の盛り場が罹災して東京一の繁華をほこった昔日の威勢は、いまの神楽坂にはない。


寺島 墨田区(昔は向島区)曳舟の寺島町
 『黴』は明治44年(1911年)8―11月、徳田秋声氏が「東京朝日新聞」に発表した小説です。実際には「その家(泉鏡花の家)の内部と鏡花の挙措」を書いたものは、この下の文章以外にはなさそうです。氏は泉鏡花氏、0氏は小栗風葉氏、笹村氏は徳田秋声氏をモデルにしています。

 そこから遠くもない氏を訪ねると、ちょうど二階に来客があった。笹村はいつも入りつけている階下したの部屋へ入ると、そこには綺麗なすだれのかかった縁ののきに、岐阜提灯ぎふぢょうちんなどがともされて、青い竹の垣根際にははぎの軟かい枝が、友染ゆうぜん模様のようにたわんでいた。しばらく来ぬまに、庭の花園もすっかり手入れをされてあった。机のうえにうずたかく積んである校正刷りも、氏の作物が近ごろ世間で一層気受けのよいことを思わせた。
     三十
 客が帰ってしまうと、瀟洒しょうしゃな浴衣に薄鼠の兵児帯へこおびをぐるぐるきにして主が降りて来たが、何となく顔がえしていた。昔の作者を思わせるようなこの人の扮装なりの好みや部屋の装飾つくりは、周囲の空気とかけ離れたその心持に相応したものであった。笹村はここへ来るたびに、お門違いの世界へでも踏み込むような気がしていた。
 奥にはなまめいた女の声などが聞えていた。草双紙くさぞうしの絵にでもありそうな花園に灯影が青白く映って、夜風がしめやかに動いていた。
「一日これにかかりきっているんです。あっちへ植えて見たり、こっちへ移して見たりね。もういじりだすと際限がない。秋になるとまた虫が鳴きやす。」と、氏は刻み莨をつまみながら、健かな呼吸いきの音をさせて吸っていた。緊張したその調子にも創作の気分が張りきっているようで、話していると笹村は自分の空虚を感じずにはいられなかった。
 そこを出て、O氏と一緒に歩いている笹村の姿が、人足のようやく減って来た、縁日の神楽坂かぐらざかに見えたのは、大分たってからであった。

漱石と『硝子戸の中』21

文学と神楽坂

二十一

私の家に関する私の記憶は、そうじてこういう風にひなびている。そうしてどこかに薄ら寒いあわれな影を宿している。だから今生き残っている兄から、つい此間こないだ、うちの姉達が芝居に行った当時の様子を聴いた時には驚ろいたのである。そんな派出はでな暮しをした昔もあったのかと思うと、私はいよいよ夢のような心持になるよりほかはない。
 その頃の芝居小屋はみんな猿若町さるわかちょうにあった。電車もくるまもない時分に、高田の馬場の下から浅草の観音様の先まで朝早く行き着こうと云うのだから、たいていの事ではなかったらしい。姉達はみんな夜半よなかに起きて支度したくをした。途中が物騒ぶっそうだというので、用心のため、下男がきっとともをして行ったそうである。
 彼らは筑土つくどを下りて、柿の木横町から揚場あげばへ出て、かねてそこの船宿にあつらえておいた屋根船に乗るのである。私は彼らがいかに予期にちた心をもって、のろのろ砲兵工厰ほうへいこうしょうの前から御茶の水を通り越して柳橋までがれつつ行っただろうと想像する。しかも彼らの道中はけっしてそこで終りを告げる訳に行かないのだから、時間に制限をおかなかったその昔がなおさら回顧の種になる。

猿若町 江戸末期の芝居町。現在の東京都台東区浅草6丁目。ここには江戸三座(中村座、市村座、森田座)を初めとして常設の芝居小屋がありました。しかし明治政府は三座に移転を勧告し、関東大震災でほぼなくなります。
浅草の観音様 東京都台東区にある浅草寺(せんそうじ)の通称
きっと 屹度、急度。話し手の決意や強い要望などを表す。確かに。必ず。
明治8年の揚場 筑土 東京都新宿区にある地名。津久戸(つくど)町なのか、または筑土(つくど)八幡町なのか、明治8年の地図のように「つく土前丁」なのか、はたまた、大まかにここいら全体を指すのでしょうか。おそらく全体を指すのでしょう。
柿の木横町 『新宿区町名誌』では「(揚場町と)下宮比町との間を俗に柿の木横町といった。この横町の外堀通りとの角に、明治時代まで柿の大樹があった。幹の周囲一メートル、高さ十メートルの巨木で、神木としてしめ繩が張ってあった。三代将軍家光が、この柿の木に赤く実る柿の美しいのを遠くからみて、賞讃したので有名になり、そのことから名づいた」
揚場 船荷を陸揚げする場所。以上を明治8年の地図を使って書いています。
砲兵工厰 陸軍造兵廠の旧称。陸軍の兵器・弾薬・器具・材料などを製造・修理した軍需工場。東京砲兵工厰は広大な土地を所有し、高速道路の飯田橋を越えたところから、白山通りの水道橋交差点まで川から見えるものはすべて砲兵工厰でした。このなかには小石川後楽園もはいっていました。しかし一般には公開されず、国家的な慶事の場合や、公的な園遊会の場合にのみ使っていました。1935年(昭和10年)10月、東京工廠は小倉工廠へ移転し、跡地は後楽園球場となりました。 砲兵工厰
御茶の水 東京都千代田区北部(神田駿河台)から文京区南東部(湯島)にかけての地名。行政名ではありません
柳橋 東京都台東区南東部の地名。柳橋はAで書いてあります。ようやく船の中間地点になったのです。柳橋は船宿があり、芸者町でもありました。
全行程

大川へ出た船は、流をさかのぼって吾妻橋あずまばしを通り抜けて、今戸いまど有明楼ゆうめいろうそばに着けたものだという。姉達はそこからあがって芝居茶屋まで歩いて、それからようやく設けの席につくべく、小屋へ送られて行く。設けの席というのは必ず高土間たかどまに限られていた。これは彼らの服装なりなり顔なり、髪飾なりが、一般の眼によく着く便利のいい場所なので、派出を好む人達が、争って手に入れたがるからであった。

大川 東京都を流れる隅田川で吾妻橋から下流の通称
吾妻橋 隅田川に架かる橋のひとつ
今戸 東京都台東区北東部の地名。隅田川西岸の船着き場として栄えました。
浅草猿若町有明楼 今戸橋のたもとにありました。成島柳北『柳橋新誌』では

 江戸の開府以来、都下の名妓で容色は絶倫、技芸にも通ぜざるなく、名を草紙紙に伝え、跡を芝居に残すものは数知れぬほど多い。しかし、現今はしからず、一統みな拮抗して、一人として群を越えて抜きんでた女人がいない。 強いて一人を挙げてみれば、両国橋東のお菊といえようか。かれに傾国の容色、絶世の技芸があるわけではない。かよわい女手で隅田川の西に宏大な料亭を営み、扁額をあげて有明楼という。有明楼の名は都下に鳴り響いている。豪興の士も風流の客も、この楼閣に遊ばぬものはない。

芝居茶屋 江戸から明治・大正期まで劇場付近で観劇客に各種の便宜を供した施設。江戸の芝居見物は早朝から夜までかかり幕間も長く、快適な観劇を望む客は多く茶屋を利用しました。また桟敷などで観劇するためには茶屋を通すほかなかったといいます。芝居茶屋の構造は2階建て。軒にのれん,提灯がかかり,内部の座敷が表から見える造りになっています。観劇のため早朝芝居茶屋に到着した客は休憩後茶屋の草履をはき劇場の桟敷席に案内しました。
高土間 観客席が(ます)形式の時代の劇場では1階の東西桟敷の前通りに、土間より一段高く設けられた席。

幕の間には役者にいている男が、どうぞ楽屋へお遊びにいらっしゃいましと云って案内に来る。すると姉達はこの縮緬ちりめんの模様のある着物の上にはかま穿いた男のあといて、田之助たのすけとか訥升とっしょうとかいう贔屓ひいきの役者の部屋へ行って、扇子せんすなどをいて貰って帰ってくる。これが彼らの見栄みえだったのだろう。そうしてその見栄は金の力でなければ買えなかったのである。
 帰りにはもと来た路を同じ舟で揚場まで漕ぎ戻す。無要心ぶようじんだからと云って、下男がまた提灯ちょうちんけてむかえに行く。うちへ着くのは今の時計で十二時くらいにはなるのだろう。だから夜半よなかから夜半までかかって彼らはようやく芝居を見る事ができたのである。……
 こんな華麗はなやかな話を聞くと、私ははたしてそれが自分の宅に起った事か知らんと疑いたくなる。どこか下町の富裕な町家の昔を語られたような気もする。
 もっとも私の家も侍分さむらいぶんではなかった。派出はで付合つきあいをしなければならない名主なぬしという町人であった。私の知っている父は、禿頭はげあたまじいさんであったが、若い時分には、一中節いっちゅうぶしを習ったり、馴染なじみの女に縮緬ちりめん積夜具つみやぐをしてやったりしたのだそうである。青山に田地でんちがあって、そこから上って来る米だけでも、うちのものが食うには不足がなかったとか聞いた。現に今生き残っている三番目の兄などは、その米をく音を始終しじゅう聞いたと云っている。私の記憶によると、町内のものがみんなして私の家を呼んで、玄関げんか玄関ととなえていた。その時分の私には、どういう意味か解らなかったが、今考えると、式台のついたいかめしい玄関付の家は、町内にたった一軒しかなかったからだろうと思う。その式台を上った所に、突棒つくぼうや、袖搦そでがらみ刺股さつまたや、また古ぼけた馬上ばじょう提灯などが、並んでけてあった昔なら、私でもまだ覚えている。

ちりめん田之助 三代目沢村田之助。歌舞伎俳優。1845~78年。人気役者でした。
訥升 三代目沢村訥升。歌舞伎俳優。1838~86年。
侍分 武士階級
名主 領主の下で村政を担当した村の長。身分は百姓だが、在地有力者が多い
一中節 三味線の一流派。浄瑠璃節の一種。
縮緬 表面に細かいしぼ(凹凸)のある絹織物
式台1積夜具 遊郭で、馴染(なじみ)客から遊女に贈られた新調の夜具を店先に積んで飾ったもの
三番目の兄 直矩(なおたか)です。9歳年上。捕具
式台 玄関先に設けた板敷きの部分
玄関付の家 江戸時代、町人階級では名主だけが玄関を作ることを許されていた。
突棒、袖搦、刺股 捕手(とりて)が下手人を捕らえるために使った3つ道具。捕具
馬上提灯上提灯 乗馬で使う提灯。丸形で、腰に差すように長い柄がある

矢来屋敷 矢来公園 石畳と赤城坂[昔] 駒坂 瓢箪坂 白銀公園 一水寮 相生坂 成金横丁の店 魚浅 朝日坂 Caffè Triestino 清閑院 牛込亭 川喜田屋横丁 三光院と養善院の横丁 寺内公園 神楽坂5丁目 4丁目 3丁目
神楽坂の通りと坂に戻る

夏目漱石と神楽坂

文学と神楽坂

『吾輩は猫である』

      10
 元禄で思い出したからついでに喋舌しゃべってしまうが、この子供の言葉ちがいをやる事はおびただしいもので、折々人を馬鹿にしたような間違を云ってる。火事できのこが飛んで来たり、御茶おちゃ味噌みその女学校へ行ったり、恵比寿えびす台所だいどこと並べたり、或る時などは「わたしゃ藁店わらだなの子じゃないわ」と云うから、よくよく聞きただして見ると裏店うらだなと藁店を混同していたりする。主人はこんな間違を聞くたびに笑っているが、自分が学校へ出て英語を教える時などは、これよりも滑稽な誤謬ごびゅうを真面目になって、生徒に聞かせるのだろう。

 正しくは「火の粉」。燃え上がる火から粉のように飛び散る火片のこと
御茶の味噌の女学校 正しくは「お茶の水の女学校」。本郷区湯島三丁目(現、文京区湯島一丁目)の女子高等師範学校附属高等女学校。戦後はお茶の水女子大学の母体。
台所 正しくは「恵比寿、大黒だいこく」。恵比寿と大黒は財福の神で、民家で並べてまつることが多かった。
藁店 わらだな。藁を売る店。店を「たな」と呼ぶ場合は「見せ棚」の略で、商品を陳列しておく場所や商店のこと。現在は固有名詞として使う場合も多く、新宿区袋町では「地蔵坂」の商店を指す。
裏店 裏通りにある家。商家の裏側や路地などにある粗末な家。

『それから』

 大抵は伝通院前から電車へつて本郷迄買物かひものるんだが、ひとに聞いて見ると、本郷の方は神楽坂かぐらざかくらべて、うしても一割か二割ものたかいと云ふので、此間このあひだから一二度此方こつちの方へて見た。此前このまへはづであつたが、ついおそくなつたのでいそいでかへつた。今日けふは其つもりはやうちた。が、御息おやすちうだつたので、又とほり迄行つて買物かひものましてかへけにる事にした。ところが天気模様がわるくなつて、藁店わらだながりけるとぽつ/\した。かさつてなかつたので、れまいと思つて、ついいそぎたものだから、すぐ身体からださわつて、いきくるしくなつて困つた。――「けれども、れつこになつてるんだから、おどろきやしません」と云つて、代助を見てさみしいわらかたをした。「心臓のほうは、まだ悉皆すつかりくないんですか」と代助は気の毒さうなかほで尋ねた。
平岡がたら、すぐかへるからつて、すこたして置いて呉れ」と門野かどのに云ひいて表へた。強い日が正面から射竦ゐすくめる様な勢で、代助のかほつた。代助はあるきながらえずまゆうごかした。牛込見附を這入つて、飯田町をけて、九段坂下ざかしたて、昨日きのふつた古本屋ふるほんやて、昨日きのふ不要のほんを取りにて呉れとたのんで置いたが、少し都合があつて見合せる事にしたから、其積で」と断つた。帰りには、暑さが余りひどかつたので、電車で飯田橋へまはつて、それから揚場あげば筋違すぢかひ毘沙門びしやもんまへた。
 うちの前には車が一台いちだいりてゐた。玄関にはくつが揃へてあつた。代助は門野かどのの注意を待たないで、平岡のてゐる事を悟つた。あせいて、着物きものあらての浴衣ゆかたに改めて、座敷へた。

毘沙門 毘沙門天。仏法を守護する天部の神。四天王の一人。

『坊っちゃん』

 学問は生来しょうらいどれもこれも好きでない。ことに語学とか文学とか云うものは真平まっぴらめんだ。新体詩などと来ては二十行あるうちで一行も分らない。どうせ嫌いなものなら何をやっても同じ事だと思ったが、幸い物理学校の前を通りかかったら生徒募集の広告が出ていたから、何も縁だと思って規則書をもらってすぐ入学の手続きをしてしまった。今考えるとこれも親譲りの無鉄砲からおこった失策だ。
 君りに行きませんかと赤シャツがおれに聞いた。赤シャツは気味のるいように優しい声を出す男である。まるで男だか女だかわかりゃしない。男なら男らしい声を出すもんだ。ことに大学卒業生じゃないか。物理学校でさえおれくらいな声が出るのに、文学士がこれじゃ見っともない。
 おれはそうですなあと少し進まない返事をしたら、君釣をした事がありますかと失敬な事を聞く。あんまりないが、子供の時、小梅こうめ釣堀つりぼりふなを三びき釣った事がある。それから神楽坂かぐらざか毘沙門びしゃもん縁日えんにちで八寸ばかりのこいを針で引っかけて、しめたと思ったら、ぽちゃりと落としてしまったがこれは今考えてもしいとったら、赤シャツはあごを前の方へき出してホホホホと笑った。何もそう気取って笑わなくっても、よさそうな者だ。「それじゃ、まだ釣りの味は分らんですな。お望みならちと伝授しましょう」とすこぶる得意である。だれがご伝授をうけるものか。一体釣やりょうをする連中はみんな不人情な人間ばかりだ。不人情でなくって、殺生せっしょうをして喜ぶ訳がない。魚だって、鳥だって殺されるより生きてる方が楽にまってる。釣や猟をしなくっちゃ活計かっけいがたたないなら格別だが、何不足なくくらしている上に、生き物を殺さなくっちゃ寝られないなんて贅沢ぜいたくな話だ。

『野分』

百円をふところにしてへやのなかを二度三度廻る。気分もさわやかに胸も涼しい。たちまち思い切ったように帽を取って師走しわすいちに飛び出した。黄昏たそがれ神楽坂かぐらざかあがると、もう五時に近い。気の早い店では、はや瓦斯ガスを点じている。
 毘沙門びしゃもん提灯ちょうちんは年内に張りかえぬつもりか、色がめて暗いなかで揺れている。門前の屋台で職人が手拭てぬぐい半襷はんだすきにとって、しきりに寿司すしを握っている。露店の三馬さんまは光るほどに色が寒い。黒足袋くろたびを往来へ並べて、頬被ほおかぶりに懐手ふところでをしたのがある。あれでも足袋は売れるかしらん。今川焼は一銭に三つで婆さんの自製にかかる。六銭五厘の万年筆まんねんふでは安過ぎると思う。

『僕の昔』

落語はなしか。落語はすきで、よく牛込の肴町さかなまち和良店わらだなへ聞きにでかけたもんだ。僕はどちらかといえば子供の時分には講釈がすきで、東京中の講釈の寄席よせはたいてい聞きに回った。なにぶん兄らがそろって遊び好きだから、自然と僕も落語や講釈なんぞが好きになってしまったのだ。