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つゆのあとさき|永井荷風(1)

文学と神楽坂

 永井荷風永井荷風氏の「つゆのあとさき」です。昭和6年5月に脱稿し、同年「中央公論」10月号に一挙に掲載しました。青空文庫が今回の底本です。
 主人公は銀座のカッフェーで働く女給の君江さんで、対する男性には色々な人物が出てきますが、ここでは自動車輸入商会の支配人のヤアさんを中心にしています。

 表梯子おもてばしごの方から蝶子ちょうこという三十越したでっぷりした大年増おおどしま拾円じゅうえん紙幣を手にして、「お会計を願います。」と帳場の前へ立ち、壁の鏡にうつる自分の姿を見て半襟はんえりを合せ直しながら、
「君江さん。二階にヤアさんがいてよ。行っておあげなさいよ。うるさいから。」
「さっき見掛けたけれど、わたしの番じゃないから降りて来たのよ。あの人、せん辰子たつこさんのパトロンだって、ほんとうなの。」
「そうよ。日活にっかつヨウさんに取られてしまったのよ。」とはなし出した時会計の女が伝票と剰銭つりせんとを出す。その時この店の持主池田何某なにがしという男に事務員の竹下というのが附きしたがい、コック場へ通う帳場のわきの戸口から出て来る姿が、酒場の鏡に映った。蝶子と君江とは挨拶あいさつするのが面倒なので、さっさと知らぬふりで二階の方へ行く。池田というのは五十年配の歯の出た貧相ひんそうな男で、震災当時、南米の植民地から帰って来て、多年の蓄財を資本にして東京大阪神戸の三都にカッフェーを開き、まず今のところでは相応に利益を得ているという噂である。
 表梯子から二階へ上った蝶子は壁際のボックスにすわっている二人連れの客のところへ剰銭を持って行き、君江は銀座通を見下みおろす窓際のテーブルを占めたヤアさんというお客の方へと歩みを運びながら、
「いらっしゃいまし。この頃はすっかりお見かぎりね。」
「そう先廻りをしちゃアずるいよ。先日はどうも、すっかり見せつけられまして。あんなひどい目にった事は御在ございません。」
ヤアさん。たまにゃア仕方がないことよ。」と愛嬌あいきょうを作って君江は膝頭ひざがしらの触れ合うほどに椅子を引寄せて男のそばに坐り、いかにも懇意らしく卓テーブルの上に置いてある敷島しきしまの袋から一本抜取って口にくわえた。
 ヤアさんというのは赤阪あかさか溜池ためいけの自動車輸入商会の支配人だという触込ふれこみで、一時ひとしきりは毎日のように女給のひまな昼過ぎを目掛けて遊びに来たばかりか、折々店員四、五人をつれて晩餐ばんさん振舞ふるまう。時々これ見よがしに芸者をつれて来る事もある。年は四十前後、二ツはめているダイヤの指環ゆびわを抜いて見せて、女たちに品質の鑑定法や相場などを長々と説明するというような、万事思切って歯の浮くような事をする男であるが、相応に金をつかうので女給れんは寄ってたかって下にも置かないようにしている。君江は既に二、三度芝居の切符を買ってもらったこともあるし、休暇時間に松屋へ行って羽織と半襟を買ってもらったこともあるので、この次どこかへ御飯ごはんでも食べに行こうと誘われれば、その先は何を言われても、そうすげなく振切ってしまうわけにも行かない位の義理合いにはなっている。それ故ヤアさんからひやかされたのを、なまじ胡麻化ごまかすよりもあからさまに打明けてしまった方が、結句面倒でなくてよいと思ったのである。
「とにかくうらやましかったな。罪なことをするやつだよ。」とテーブルの周囲に集っているおたみ、春江、定子さだこなど三、四人の女給へわざとらしく冗談に事寄せて、「お二人でおそろいのところをうしろからすっかり話をきいてしまったんだからな。人中なのに手も握っていた。」
「あら。まさか。そんなにいちゃいちゃしたければ芝居なんぞ見に行きゃアしないわ。わきへ行くわよ。」
「こいつ。ひどいぞ。」とヤアさんはつまねをするはずみにテーブルのふちにあったサイダアのびんを倒す。四、五人の女給は一度に声を揚げて椅子から飛び退き、長いたもとをかかえるばかりか、テーブルからゆかしたた飛沫とばしりをよける用心にとすそまでつまみ上げるものもある。君江は自分の事から起った騒ぎに拠所よんどころなく雑巾ぞうきんを持って来て袂の先を口にくわえながら、テーブルを拭いているうち、新しく上って来た二、三人連づれの客。いらっしゃいましと大年増の蝶子が出迎えて「番先ばんさきはどなた。」と客の注文をきくより先に当番の女給を呼ぶ金切声かなきりごえ。「君江さんでしょう。」と誰やらの返事に君江は雑巾を植木鉢の土の上に投付けて「はアい。」と言いながら、新来のお客の方へと小走りにかけて行った。
カッフェー 本来のカフェの定義はフランス語でコーヒー(豆)。コーヒー・紅茶などの飲物、菓子、果物や軽食を客に供する飲食店
女給 じょきゅう。カフェ・バー・キャバレーなどで、客の接待に当たった女性。ホステス
表梯子 表に面した方にある階段。玄関の近くにある梯子段。
大年増 年増の中でも年のいった中年の婦人。40歳ぐらいの婦人。今日では芸者などについていうことが多い。古くは娘盛りをかなり過ぎた年頃の女性で、30歳前後からいったか。
半襟 和服用の下着の襦袢に縫い付ける替え衿。当然安い。
 せん。時間的に早い方。ある時点より前。最初
先廻り 相手より先に物事をしたり、考えたりすること。「先回りした言い方」
懇意 親しく交際している。仲よくつきあう
敷島 巻きたばこの銘柄。大蔵省専売局が明治37年6月29日から昭和18年12月下旬まで製造・販売していた。
赤阪溜池 赤坂溜池町。大きな溜池があったから。明治21年から昭和41年6月30日まで、港区赤坂一丁目1~5、9番の一部、二丁目1~5番。
女給 カフェ・バー・キャバレーなどで、客の接待に当たった女性。ホステス
思切って おもいきって。かたく心を決めて、大胆に。極端に。非常に。
歯の浮く 軽はずみで気障きざな言行を見たり聞いたりして、不快な気持になる。
羽織 和装で、長着の上に着る丈の短い衣服。
義理合い  義理にからんだつきあい。交際上の関係。
わき 目ざすものからずれた方向。よそ。横。すぐそば。かたわら。
 和服の袖付けから下の、袋のように垂れた部分。
 衣服の下方のふち
拠所ない よんどころない。そうするよりしかたがない。やむをえない。
番先 先にする順番になる。また、その順番

 下記のあいりょうそう氏は鉄工所重役として働きながら、永井荷風氏の側近中の側近として、親密な交遊を続けました。氏の「荷風余話」(岩波書店、2010)で「つゆのあとさき」について昭和31年にこう書いています。

 昭和6年1月15日、短篇小説「紫陽花」を脱稿した先生は、中一週間置いて1月22日、この小説「つゆのあとさき」を起稿された。爾来熱心に執筆を続けられ、3月に入って感興著しく起り、執筆五更に至ると言う日が幾日も続いた。4月、世間はお花見気分に浮立ったが、依然家に引龍って執筆の日が多く「5月22日、遂に小説の稿を脱す、仮に夏の草と題す。」と「断腸亭日乗」に記載された。5月26日、小説「夏の草」を改めて「つゆのあとさき」と改題された。大正6年、新橋の花柳界を背景に芸者の風俗を描いた小説「腕くらべ」の名作を世に問い、江湖絶讃を博した先生は、今度は昭和の特異な産物女給の生態を描写しようと大正の末年頃から銀座のカフェータイガーに足繁く通い始めた。大正15年12月25日、改元されて昭和となったが、明けて昭和2年の正月、元旦から早々はやばやとタイガーの楼上に在り、「二更の後帰る」と日乗に記され、その熱心の程が窺われる。
 タイガーに行かれた帰りには、必ず四、五人の女給を連れて、しるこ屋、すし屋、小料理屋等で彼女等の御機嫌をとり結び、たわいのない馬鹿話に打興じながら、半面作家として犀利な観察眼を働かせ彼女等の生態を完膚なきまで研究し尽した。尤も此間いささ研究の度が過ぎてタイガーの女給お久と言う莫連ばくれんに引っ掛り、果ては偏奇館に坐り込まれ「女房にするか、財産を半分よこすか、二つに一つの返答しろ」と凄まれて、びっくり仰天、交番の巡査を頼んで鳥居坂警察の厄介となり、女は豚箱へ、先生は大眼玉を喰うと言う飛んだ余興の一幕を演じたこともあった。或る時、私は先生に小説のモデルに就いて伺ったことがあった。其時先生のお話では、「小説の主人公とするモデルには、決してI人の特定の人物は使わない。四人とか五人とか色々な人から各々その人の特徴を剔出して一つにまとめ一人の人間を創り上げる」とのことであった。「つゆのあとさき」の主人公女給君江も先生が永い年月としつきをかけて、大勢の女給の中から苦心惨憺、遂に一人の君江と言う意中の人物を創り上げたものと見える。この小説が昭和6年10月1日発行の「中央公論」第46年第10号に発表されるや、俄然、文壇注目の的となり、各方面に異常な反響を与えた。谷崎潤一郎氏は翌11月「改造」誌上に「永井荷風氏の近業」と題して「つゆのあとさき」に対する長い評論を掲載した。
爾来 じらい。それより後。それ以後
五更 ごこう。古代中国の時刻制度で、ほぼ午後七時から二時間ずつに区分した。五更は春は午前三時頃から五時頃まで、夏は午前二時頃から四時頃まで、秋は午前二時半すぎから五時頃まで、冬は午前三時二〇分すぎから六時頃まで。
江湖 こうこ。川と湖。特に、揚子江と洞庭湖。世の中。世間。天下
絶讃 ぜっさん。絶賛。口をきわめてほめること。この上ない称賛。
カフェータイガー かつて銀座にあった飲食店。カフェー・ライオンの斜向かいの焼けビルを修復して開業。ライオンは品行が悪い女給はすぐクビにしていたため、タイガーはライオンをクビになった女給をどんどん雇用。
楼上 ろうじょう。高い建物の上。二階。階上
二更 にこう。昔の時間の単位で、五更の一つ。二更は大体午後9時から11時頃。
聊か いささか。ほんの少し。わずか。
莫連 主として女についていい、世間ずれしていて悪がしこいこと。すれっからし。ばくれんおんな。
偏奇館 麻布にあった永井荷風の住居。木造2階建ての洋館。大正9年から居住。昭和20年、東京大空襲で焼失。
鳥居坂警察 明治14年、麻布警察署として開設。明治43年、麻布鳥居坂警察署と改称。大正二年以降、麻布区は同署と霞町警察署(大正四年以降は麻布六本木警察署)の所轄に分割。
豚箱 俗称で、警察署の留置場を指す
剔出 てきしゅつ。ほじくり出す。あばき出す。
俄然 がぜん。にわかに。だしぬけに。突然に。
長い評論 これは「『つゆのあとさき』を読む」に変わっています。一部を抜粋します。
今度の「つゆのあとさき」にも、古めかしいところは可なり眼につく。否、文章の体裁、場面々々の変化配置の工合など、古いと云へば此れが一番古いかも知れない。たとへば篇中至る所に偶然の出會ひがあり、その出會ひを利用して筋を運んで行くやり方など、一と昔前の小説や戯曲に慣用された手段である。しかしそれにも拘はらず、その古い形式が題材の持つ近代的色彩と微妙なコントラストを成して、一種の風韻を添へてゐる。作者は表面緊張した素振りを現はさず、いかにも大儀さうに古めかしさうにかいてゐながら、その無愛想な筆の跡が最後迄辿って読んで行くと、女主人公の君江と云ふ女性があざやかに浮き上って来るのに気がつく。のみならず、こゝには夜の銀座を中心とする昭和時代の風俗史がある。震災後に於ける東京人の慌しく浅ましい生活の種々相がある。これはたしかに紅葉山人の世界でも為永春水の世界でもない。「腕くらべ」は作者の過去の業績の總決算に過ぎなかったが、「つゆのあとさき」は齢五十を越えてからの作者の飛躍を示してゐる。私は何よりも先づ我が敬愛する荷風先生の健在を喜びたい。
為永春水 ためながしゅんすい。江戸時代後期の戯作者。人情本で有名。生年は寛政2年。死亡は天保14年12月23日。享年54。

永井荷風氏とノエル・ヌエット氏

文学と神楽坂

 永井荷風氏が書いた『断腸亭日乗』を読むと、ノヱル・ヌーエー氏に会ったと書いています。昭和八年のことです。ヌーエー氏はフランス読みで、英語読み、あるいは筆名ではノエル・ヌエット氏になります。このとき、堀口大学氏も加わり、永井荷風氏は52歳、ヌエット氏は48歳、堀口大学氏は41歳でした。実は3人が3人とも同じ挿話を書いているのです。では、最初に永井荷風氏が書いた『断腸亭日乗』です。

 三月十六日。夜来の風雨午後に至りて霽る。夕陽燦然たり。銀座オリンピク徃き飰する時、高橋君の来るに会ふ。街上にて堀口大学君及夫人に会ふ。又始めて仏蘭西人ノヱルヌーエー氏に会ふ。一同相携へて珈琲店耕一路に至りて憩ふ。ヌーヱ氏は仏蘭西の詩壇に名ある人の由。既に詩集二三巻を刊行すと云ふ。数年前日本に来り目下外国語学校教師なる由。氏はまた絵事を善くす。東京市街の景をペンにて描ける絵葉書二三十種を刊行すと云ふ。
霽る はる【晴る/霽る】は晴れるの文語
燦然 さんぜん。きらきらと光り輝く様子
オリンピク 銀座通り東にあった米国風洋食堂。 現在はティファニー。
徃き 往く(新字体)。どんどんと前進する。いってしまう
飰する はんする【飯する/飰する】。食事する
 適を辞書でみると「たまたま」と書いてありました。「(たまたま)」を「適適」とか「適々」と書くこともあるようです。
高橋君 高橋 邦太郎(たかはし くにたろう)。生年は1898年9月5日。没年は1984年2月25日。フランス文学の翻訳家、NHK職員、共立女子大学教授、日仏文化交流史の研究家。
耕一路 コウイチロ。創業70年の歴史あるカフェ。喫茶店とワインバー。東京都丸の内3-1-1国際ビルB1
憩ふ いこう。【憩う/息う】。ゆったりとくつろぐ。休息する。
絵事 かいじ。絵をかくこと。

 では、ヌエット氏は同じことを書くとどうなるのでしょう? 以下は『三田文学』1959年49巻5号「永井さんのこと」です。この4月30日、永井荷風氏がなくなり、この『三田文学』の5号は追悼文をあつめたものにかわってしまいました。

 私は、パリにいたころ、セルジュ・エリセイエフ氏の仏訳した「牡丹の客」によってはじめて永井荷風さんの名を知りました。永井さんの作品で仏訳されたものは、これがただひとつではないでしょうか。もっとも、その道の人の話によれば、永井さんの作品を完全に外国語に移すことは至難のわざであるということであります。
 日本に来てから、私はいろいろ同氏のことを耳にしました。しかし、永井さんについてのはっきりした印象を持ったのは、昭和十一年、同氏と銀座でお会いしてからのことと言えるでしょう。そのとき私は、堀口大学、高橋邦太郎の両氏と一しょでした。そして、両氏から永井さんに紹介され、みんなは連れ立って近くのカフェーへ行ったのでした。
  私はそのころ、東京のスケッチを思い立って、それを画葉書に作らせていました。永井さんは、すでにそれを買っておいでだったということで、それについてのお褒めの言葉をいただきました。その折のお話から、私は、永井さんがフランス文学を高く評価しておいでになること、また江戸時代をしのばせるあらゆるものに深い愛着をもっておいでになることを知ったのでした。
 その後、お目にかかったことがあるかどうか記憶しませんが、私の目には、そのときの永井さんのことが、今もありありと思い浮かびます。上ぜいのある、痩せぎすな、頭にはベレーをのせ、下唇の突きだし加減なところ、そこには肉感と同時に、世の中を冷眼に見下すといった感じが受けとれました。
牡丹の客 小品をまとめて明治44(1911)年に出した本です。この「牡丹の客」という小品では本所の牡丹を見にいくため芸者と一緒に両国から舟に乗り、行くと全然面白くない光景が目の前に広がります。で最後は「『本所の牡丹てたった此れだけの事なの。』『名物に甘いものなしさ。』『歸りませう。』『あゝ。歸らう』」で終わります。
昭和十一年 間違いで、正しくは昭和八年です。
東京のスケッチ 1928年、スケッチは白水社の月刊誌『フランス』に掲載され、次いで、絵葉書に。おそらく「東京のスケッチ」はこの部分でしょう。ちなみに、1931(昭和6)年、『ジャパンタイムス』にスケッチの連載を開始、1934(昭和9)年、ジャパンタイムス社は五〇枚を集め、『Tokyo vu par un etranger (東京-一外国人の見た印象)』として出版しています。
しのぶ 偲ぶ。過ぎ去った物事や遠く離れている人や所などを懐かしい気持ちで思い出す。

 では最後に堀口大学氏はどう書いているのでしょう。随想をまとめた『季節と詩心』のなかで『自画像』の「日記」でこう書いています。

1933年3月16日。(省略)
 再び銀座の通へ出る。「ゑり治」の角にて、荷風先生の御散歩姿を拝す。高橋邦太郎君を伴わる。先生は何時お目にかかっても若々し。「変な珈琲()があるからつきあい給へ」とのたまふままに、細君を引き合せなどして從う。途中佛国の詩人ノエル・ヌエット氏も加わり、「耕一路」という先生近頃御贔屓の店へ行く。珈琲うまし。ジイドはよろし、ヴァレリイは如何なぞ仰せらる。家大人はすこやかなりや、今年は幾歳にやなど、いとねんごろなり。エリセイフ氏の近い來朝のことより、「牡丹の客」の佛譯のこと、さては小生がかつてルウマニアよりお送りせしとかいふ先生を評論した巴里新聞の記事の切抜き、とんで二十年も前にポオランドの野を走る汽車の中より小生が差上げし繪はがきの事なぞ、先生の強記驚くべし。
ゑり治 岸田劉生氏の『新古細句銀座通』(青空文庫)では「ゑり治は、ゑりえんと共に私の姉などのよく親しんだ店の一つで東都の半襟の大頭の一つである」と書いてありました。半襟とは和服の下着の襦袢に縫い付ける替え衿のことです。
ジイド アンドレ・ポール・ギヨーム・ジッド(André Paul Guillaume Gide, 1869年11月22日 – 1951年2月19日)は、フランスの小説家。
ヴァレリイ アンブロワズ=ポール=トゥサン=ジュール・ヴァレリー(仏: Ambroise Paul Toussaint Jules Valéry, 1871年10月30日 – 1945年7月20日)は、フランスの作家、詩人、小説家、評論家
ねんごろ 親身であるさま。親しいさま。
強記 記憶力の強いこと

 ヌエット氏と永井荷風氏が会ったのいうことはもう出てきません。会ったのは1回だけなんでしょうね。以下は『断腸亭日乗』でヌエット氏のことを書かれた文章です。

 五月十二日。晴。高橋邦太郎氏よりNouet氏の詩集Le Parfum des Troènesを借りてよむ。

Parfum パルファン。香料。香水
Troènes トロエーヌ。イボタノキ属。生垣として使いました。

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昭和23年1月26日 陰。山内義雄氏ヌヱツト氏著宮城環景1巻を贈らる
昭和25年十月初八 日曜日。晴。陰。山内義雄氏よりヌヱツト氏著巴里寄贈
昭和26年4月27日 晴。山内義雄氏ヌヱツト氏新著眠れる蝶(Nouët: Papillons endormis)を贈らる。

山内義雄 やまのうち よしお。生年は1894年3月22日、没年は1973年12月17日。フランス文学者。30歳、アテネ・フランセ教授となり、34歳、早稲田大学の教職に