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神楽坂1丁目(写真)昭和29年 ID 14048

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」ID 14048を見ましょう。撮影時期は1953年(昭和28年)頃と書いてあります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14048 神楽坂

 本当に28年に撮影したのでしょうか。メトロ映画で上映中だったのは「燃える上海」と「謎の黄金島」という映画で、ともに公開日は昭和29年ですので、昭和28年というのはありえません。この写真は「新宿區史」(新宿區役所、昭和30年、784頁)でも出ています。また「区成立30周年記念 新宿区史」(新宿区役所、昭和53年)でも同じものを使っていて、これは「昭和29年ころ」と書いてあります。おそらく昭和29年が正しいのでしょう。
 写真はプリントではなく、「新宿区史」(新宿區役所、昭和30年、784頁)から複写したものでしょう。また、ID 5190ID 21は昭和28年、ID 23はさらに昔です。

新宿区史・昭和30年

新宿區史(昭和30年)784頁

神楽坂1~2丁目(昭和29年)
  1. 外堀通りと都電の軌道
  2. 標識ポール「神楽坂」
  3. ゼブラ柄の背面板の信号機
  4. 街灯は鈴蘭灯
  5. (伊藤菓子店)
  6. (植木洋服店)
  7. 清(水衣)裳店
  1. 信号機の裏側。
  2. 看板「水野外科」
  3. 看板「産婦人科 加藤医院
  4. 外堀通りと都電の軌道
  5. フチを2色縞で強調した看板
  6. 赤井商店)(下の菓子屋は多分間違い。足袋が専門で、シャツは戦後)
  7. (その右側)「さ(くらや靴店)」
  8. 看板「茶」(東京円茶)
  9. 屋上看板「メトロ映画(燃える上海と謎の黄金島)」

都市製図社『火災保険特殊地図』昭和27年

神楽坂5丁目(写真)昭和20年代後半 ID 24-27

文学と神楽坂

 昭和20年代後半の神楽坂5丁目で写真4枚で、新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 24~27を見ていきます。歩道には濃淡の2色があり、縁石があっても歩道と車道はほぼ同じ高さになるようです。
 なお、地元の方に多大な助言をもらいました。この半分以上は地元の方の言葉です。

神楽坂上付近 。新宿歴史博物館 ID 24

神楽坂上付近 。新宿歴史博物館 ID 24

 坂上の神楽坂5丁目です。右側には文房具屋の「相馬屋」があります。さらに空き地をはさんで「万長酒店」。左から差し込む一条の光は「地蔵坂」(あるいは「藁店」)を通ってやってきました。「電燈電力工事」は「火災保険特殊地図」だと「中河電機」です。街灯は神楽坂1丁目(写真)昭和20年代後半 ID 21, 23と同じ簡素なものです。電柱看板「歯科川島」は藁店にありました。

昭和27年 火災保険特殊地図

神楽坂上付近 。新宿歴史博物館。ID 25

神楽坂上付近 。新宿歴史博物館 ID 25

 これも同じですが、右端に石積みがあります。これは空襲で焼け落ちた東京貯蓄銀行の外壁と思われます。住宅地図などによると、倉庫として使われた後に日本勧業信用組合(現・第一勧業信用組合)の本店に建て替えられました。現在は神楽坂TNヒルズです。


神楽坂上付近 。新宿歴史博物館。ID 26

新宿歴史博物館 ID 26 神楽坂上付近

「ノーブル 西澤商店」がはっきり見えます。藁店の東側の「西沢菓子」が「ノーブル」という昔風の菓子を売っています。左から光る道は地蔵坂(藁店)です。神楽坂通りの右側で、最初に出てくる2階建ての店舗は万長酒店でしょう。その奥の1階建ての建物は倉庫。それから肉の恵比寿亭につながります。


神楽坂上付近 。新宿歴史博物館。ID 27

 道路の左側の「ナカガワ」は「中河電機」。別の看板「電燈電力工事」もあります。その奥の店舗は近江屋ですが、これは見てもわかりません。道路の右側は「万長酒店」と倉庫。「牛豚肉」の下に恵比寿亭が書いています。パチンコがさらに奥にあります。

神楽坂1丁目(写真)昭和20年代後半 ID 21, 23

文学と神楽坂

 昭和20年代後半の神楽坂1丁目で写真3枚を見ていきます。どれも新宿歴史博物館にあり、牛込橋からの写真です。なお、地元の方に多大な助言をもらいました。この半分以上は地元の方の言葉です。

[A]新宿区史。新宿区役所。昭和29年

新宿区史・昭和30年

[A]新宿區史(昭和30年)

 最初の[A]の1枚は、「新宿區史」(新宿區役所、昭和30年、784頁)に出ていますが、何年に撮影したのかはこれではわかりません。メトロ映画で上映中だったのは「燃える上海」と「謎の黄金島」という映画で、ともに公開日は昭和29年です。この写真は「区成立30周年記念 新宿区史」(新宿区役所、昭和53年)でも同じものを使っていて、これは「昭和29年ころ」と書いてあります。一応、これは昭和29年ごろだとしましょう。ちなみにメトロ映画は現在はドラッグストア「マツモトキヨシ」にかわっています。なお、街灯は鈴蘭灯で、信号機はゼブラ柄の背面板があります。


[B]神楽坂入口から坂上方向。新宿歴史博物館 ID 21

[B]神楽坂入口から坂上方向。新宿歴史博物館 ID 21

[B]については、神楽坂の左側の大きな「神楽坂」の標識ポールがあります。街灯は上にひとつ、下に2つの電球があり、鈴蘭灯です。メトロ映画の「肉体の冠」の日本の公開は昭和28年。併映はおそらく「奇襲作戦命令」で、日本の公開は昭和26年。これから昭和28年には鈴蘭灯があったと考えます。右端に電柱看板があり、拡大しないとわかりませんが、5丁目の「リード商会」の広告があります。リード商会の場所は道路拡幅のため多くはなくなり、一部はセブンイレブンになりました。神楽坂の右側の壁に「茶」と書いてあり、これは昭和27年の「火災保険特殊地図」(都市製図社)では「東京圓茶」(新字体では「東京円茶」)になっています(現在は不二家)。現在のモスバーガーの場所には「清水衣裳店」(現在の千代田区の「清水衣裳店」)がでています。なお、IDは新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID(identification、証明番号)です。


[C]神楽坂入口から坂上方向。新宿歴史博物館 ID 23

[C]神楽坂入口から坂上方向。新宿歴史博物館 ID 23

[C]同じく神楽坂入口から坂上を見ています。標識ポールは同じですが、信号機はありません。おそらく[B]よりさらに昔の時代でしょう。ポールの下に『塵に咲く花』の広告が見えます。昭和26年11月、日本公開です。右側の電柱広告「ナカノ」は坂上の中野ボタン店(現・ブロンクス)。この広告の下に電球ひとつの簡素な街灯が見えます。左側の看板は「あなたは/右側を/通って下さい」「この道路は歩行者の/模範右側交通路/であ〇〇〇/交通事故を〇〇〇/皆様の御協力を願います」

新宿区史・昭和30年

新宿区史・昭和30年

新宿区史・昭和30年

文学と神楽坂

 新宿区史という名前の本があります。この区史、最も古くは昭和30年に編纂され、以降、40周年、50周年、新宿時物語(60周年)、新宿彩物語(70周年)と並んでいます。

 戦後に初めて世に出た「新宿区史」(昭和30年)は新宿区の地理、歴史、現勢を3章でまとめ、特に歴史は詳細です。そのうち「市街の概観」を見ると、「神楽坂」として写真4枚が出ています(右図。拡大可)。では、この4枚を撮った場所はわかりますか。正解を書いてしまいますが、1枚目では牛込橋近くに立って、神楽坂下交差点を見下ろした写真。さらに坂上も見えています。2枚目は神楽坂上から坂下に下る写真、と、ここまでは簡単ですが、3枚目は地元の人に助けてもらってようやくわかりました。これは巨大料亭の松ヶ枝の通用門なのです。4枚目は小栗横丁の中央部だと思っています。さらに10数か所は地元の人に教えてもらいました。

 では、1枚目から見ていきます。

新宿区史・昭和30年

新宿区史・昭和30年


①神楽坂 大きな地名のビルボード。
③看板 おそらく「三菱銀行」
③トラック 向こう向きのトラック
④自動車 こちら向きの自動車。昭和30年は対面通行でした。
⑤茶 昭和27年には「東京円茶」、昭和35年から昭和42年までは「神楽堂パン」、同年「不二家」になりました。
メトロ映画 昭和27年から昭和42年まで存在しました。メトロはメトロポリスの略で、首都や大都市のこと。その後、数店に変わり、平成28年(2016年)以降はドラッグストア「マツモトキヨシ」です。なお、写真を撮った日に上映中だったのは「燃える上海」と「謎の黄金島」(ともに公開日は1954年)。
⑦加藤医院 袋町7番地の産科。旧出版クラブ隣の西側。以前は診察していましたが、現在はなにも出ていません。

昭和37年 加藤医院

⑧さくらや靴店 昭和27年は焼け野原。さくらや靴店は昭和37年から少なくとも昭和59年まではあり、平成2年までに東京トラベルセンタ-に。
神楽坂警察 明治26年、ここ神楽河岸に移転。昭和35年(1960年)、牛込早稲田警察署と合併し、牛込警察署に改称し、南山伏町に新築移転。
➉桜の木 悪いことも起こしました。細かくは牛込駅リターンズで。

 2枚目の写真です。


①富士見町教会 堀の向こうには富士見町教会。その手前は牛込門の石垣。
②時計 エスヤ時計店。昭和27年の火災保険特殊地図でも時計屋。昭和12年は煙草店。昭和40年は大川時計。現在は大川ビル
③増田 増田屋肉店。昭和27年と昭和40年も精肉屋。昭和12年は不明。現在は「肉のますだや
④せともの セト物 太陽堂。昭和27年と昭和40年でも陶器屋。昭和12年は小料理。現在も太陽堂
⑤薬店 山本薬店。昭和27年と昭和40年でも同じ。昭和12年では丸山薬店。現在は「神楽坂山本ビル」
⑥ヒデ美容室 ヒデ・パーマ。昭和27年と昭和40年でも同じ。昭和12年では日原屋果物店。現在は「神楽坂センタービル」
⑦太鼓(山車だし 沢山の子供が太鼓を引いています。お祭りでしょう。
⑧猫診療所 電柱広告の一種ですが、袋町20番地にあった「山本犬猫病院」。

 3枚目です。

新宿区史・昭和30年3

新宿区史・昭和30年3

松ヶ枝まつがえ かつて若宮町にあった大料亭。広さは「駐車場も含めて400坪」。「自民党が出来た場所」という。現在はマンションの「クレアシティ神楽坂若宮町」
通用門 通用門は正門から北西に6~7メートル離れてあった。御用聞きは通用門から入った。
壁を削る この角が狭くて車が曲がれない。壁を少し削りとって、へこませた。
寿司作 一番奥のチラリと人が見えているのが寿司作。
秋祭りの飾り 若宮八幡の秋祭りの飾りが2つ。季節は9月ごろ。この飾りは今も全く同じデザイン。
芸妓置屋 芸妓を抱えて、料亭・茶屋などへ芸妓の斡旋をする店。
駐車場 黒塗りの木戸から大きく開く構造になっていた。

 4枚目です。


 何も手がかりがありませんが、西條医院は小栗横丁の西端にあって、内科、小児科、不明な科、歯科の病院でした。現在は「西條歯科」。さらに、この右前端にもまだ道があるようで、T字路のように見えます。他にも「カーブが始まり、先の方の道が細くなるのは熱海湯のあたりから」、「看板は道の角に置くタイプなので、路地があるように思われる」と地元の人。つまり「お蔵坂」が始まるあたりではといいます。

 昭和30年はどぶをおおう板、つまり、どぶ板がどこにもあります。洗い物や野菜を洗って流すだけで、その他は何も流してはいけません。現在は下水用のモノならなんでも受けます。なお、3枚目を見ると、板はなく、どぶだけがそのまま見えています。