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神楽坂5丁目(写真)神楽坂百年写真展 昭和43年 ID 8018

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 8018を見ましょう。撮影は1968年(昭和43年)です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8018 目で見る神楽坂百年写真展 会場

 これは「目で見る神楽坂百年写真展」で、主催は「神楽坂通り商店会」、後援は「新宿区教育委員会」、10月15日~10月25日まででした。なぜ神楽坂百年なのか不明ですが、この写真の1968年には明治改元100年の記念式典が10月に日本武道館で開催されました。それにあやかったイベントでしょう。また「目で見る…」の「目」にかぶっている提灯は「神楽坂百年」と書いていそうです。
 場所は左上の看板の「組合」だけが分かります。日本勧業信用組合(勧信、現在は第一勧業信用組合)は昭和40年5月に神楽坂5-3に本店を置きました。この写真は、それから間もない頃の日本勧業信用組合本店前の様子です。
 向かって左側の入り口に、不二家のペコちゃん人形のようなマスコットが立っています。勧信と縁の深い旧・日本勧業銀行(勧銀)のマスコットだった「のばらチャン」のようです。「のばらチャン」は中身が空洞になるソフト塩化ビニール(ソフビ人形)の貯金箱としてノベルティに使われました。勧銀が合併して第一勧業銀行になってからもマスコットを継続し、ソフビ貯金箱は非常に多くの種類が残っているそうです。

旧日本勧業銀行 貯金箱 のばらチャン http://is-and-is.jugem.jp/?eid=206

 左の看板の柱の陰に四角いブースが見えます。宝くじ売り場です。宝くじの販売は勧銀が独占的に受託していて、その縁で勧信にも売り場があります。信用組合としては特殊なケースで、この関係は今日まで続いています。
 写真展は万国旗を飾っていて賑やかです。正面ガラスケースに掲示されている写真の右側は「現在の神楽坂」(1937年、昭和12年ID1)、左側は「大正時代の神楽坂通り」のようです。
 会場は店舗前の空きスペースですが、歩道の縁石の切り下げを見ると駐車場を想定していたようです。実際には「勧銀が建つ前には、お祭りの御神酒所や商店街のセール時の福引所などに使われていた」と地元の方。写真左の看板には「正面右側駐車場をご利用下さい」と書いてあり、図もついています。地図でも分かるように、2軒ほど隣に別に駐車場があったのでした。
 写真の左は写っていませんが「相馬屋」。右は玩具店「かやの木」で、万国旗に隠れた看板は割れているようですが、ショーウインドウに箱入りのおもちゃが並んでいるのが分かります。この家並みは昭和38-39年のID 12910で確認できます。ID 12910の中央、相馬屋とかやの木の間の石造りの古いビルを建て直して、勧信の本店が建ちました。

 ここで勧信についてまとめておきます。

第一勧業信用組合 神楽坂 ウィキメディアから 創業時の場所からは移転している

 勧信はもともと、勧銀の職域信用組合(産業組合法に基づく保証責任信用購買利用組合互援会)、つまり勧銀の行員のための社内金融組織でした。それを東京の地域信用組合に転換し、昭和40年(1965年)5月、日本勧業信用組合が神楽坂で再スタートしました。発足当初は信用獲得のために伝統ある勧銀との共通性を前面に出していて、社名のロゴタイプは勧銀そっくりでした。
 勧信が本店を置いた場所には戦前、東京貯蓄銀行の神楽坂支店がありました。石造りの立派な外郭で、三菱銀行神楽坂支店と同様に戦災で焼け残りました。ただ三菱銀行が戦後、営業を再開したのとは違い、東京貯蓄銀行は終戦間際に合併で日本貯蓄銀行になって消滅しました。
 日本貯蓄銀行は協和銀行を経て現在のりそな銀行になるので、勧銀や勧信との直接のつながりはありません。東京貯蓄銀行の神楽坂支店跡は戦後、倉庫などに使われていたようです。それが勧信の本店として再び金融機関になったのは何かの縁でしょう。
 勧信は昭和46年(1971年)10月、第一勧業銀行(略称・DKB)の発足に伴って第一勧業信用組合(略称・DKC)に改称。DKBと同じハートのマークをシンボルに使っていました。昭和57年(1982年)11月には四谷に本店を移しました。神楽坂は支店に降格されましたが、現在も店番号は001です。第一勧銀が合併により「みずほ銀行」になった時には名称やロゴマークを追随せず、別の路線をとっています。

第一勧信店内の8番と9番の向かって左に ❤マークが見える。(テレビ番組 「気まぐれ本格派」1977年から)

 

大正期の神楽坂通り(写真)

文学と神楽坂

 1枚の写真があります。大正に撮られたものですが、店舗などは全くわかりません。インターネットではこの写真を2人があげていますが、出典を書く人ではない人もいて、結局わかりませんでした。不明のまま来たのですが、しかし、見つけました。新宿区教育委員会「新宿と文化」(昭和43年)の5頁です。

 しかし、これでは解像度は悪い。原典を探しましょう。で、探しました。原典は野沢寛著「写真・東京の今昔」(昭和30年、再建社)でした(と最初は思っていました)。中古でも綺麗な本で、60年以上経っているとは考えられない本です。
 しかし、この写真の右端は切れています。「写真・東京の今昔」の写真は全く小さくなってはいないので、どうもこの原典の原典があり、「新宿と文化」の原典と「写真・東京の今昔」の原典はわずかに違っているようです。しかし、この原典の原典は国立国会図書館のコピーしかなく、解像度は悪いと予想され、ここで諦めました。ところが……

 私は諦めましたが、地元の方は違います。東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖. 第二輯(大正12年)国立国会図書館デジタルコレクション コマ番号71を教えてもらいました(下図)。当時の東京市役所公園課が発行した写真集で、これが本当の原典の原典です。

 キャプションは「牛込見附より神樂町に通ずる坂路で、その阪上には、高田の穴八幡社の旅所ありて神輿此に渡御して神樂を奏するより名くと云ふ。坂路往来織るが如く、殷賑極むること他に多し観ざる所である」。なお、旅所たびしょは祭礼で、かつぎ出した みこし(神輿)をしばらく泊める所。るはいろいろなものを組みあわせて作ること。いんはさかん、しんはにぎやかで、賑は非常ににぎやかで活気があること。

 では、写真の詳細を見ましょう。最初は「名産 支那 甘栗」「一粒撰 風味絶佳」「々軒」「中華名産甘栗 来々軒」。
 現代でも「天津甘栗」と言いますが、来々軒という中華甘栗の専門店でした。「絶佳」は「ぜっか」で、「すぐれていて、形が整い美しいこと」。ちなみに牛込区史編纂会編「牛込町誌、第1巻」(大正10年)コマ番号89には山岸商店の写真がでていて、甘栗店が当時ポピュラーだったことが想像できます。

 古老の記憶による関東大震災前の形「神楽坂界隈の変遷」(昭和45年、新宿区教育委員会)には「来々軒」も甘栗店も書かれていません。一方、新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市 神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」では、昭和5年頃として「松末軒中華」と「山本甘栗店」が出てきます。「甘栗 来々軒」と関係がありそうです。

 写真を坂上に見ていくと 次は「西洋御料理 松月亭」です。次の店名は縦に「神楽園」、その次は「圖書雑誌」店です。「圖」は「図」の旧字です。

 さらに奥に行くと「金〇製造/諸金物類」と書かれているようです。また靴のようなイラストがあり、と「陳列」もあります。
 では反対側は「〇〇歯科〇〇」と「タングス電球」が見えます。

 以上で手がかりは全てです。野沢寛著「写真・東京の今昔」では大正12年3月にこの写真は出たと書かれています。これから神楽坂2丁目にあるとしか考えられません。登っている場所は神楽坂2丁目か3丁目でしかなく、まず2丁目です。甘栗は昭和5年でしか売られていません。また、雑誌と金物が2つ並んで売っているのは大正11年から昭和5年ぐらい。
 こういったことを考えて、2丁目でも最も急になった坂道の直前にカメラをおいて撮ったものだと思います。

昭和5年は岡崎公一「神楽坂と縁日市」新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)から。大正11年は古老の記憶による関東大震災前の形『神楽坂界隈の変遷』(昭和45年)から

神楽坂2丁目(2021/5/14)

和泉屋横町|白銀町

文学と神楽坂

 和泉屋横町ってどこ? 「町方書上」で牛込白銀町には

町内東横町、里俗和泉屋横町申候、以前和泉屋と申酒屋住居仕候故申習候

 つまり、和泉屋横町は白銀町内の東にあり、酒屋の和泉屋があったといいます。また東陽堂の『東京名所図会』第41編(1904)では…

     ◎町名の起原幷に沿革
牛込白銀町は慶長年間の開創にして。田安の地に居住したりしもの移したる所なりといふ。町内に和泉長屋と稱する所あり

 東京都新宿区教育委員会の「新宿区町名誌 地名の由来と変遷」(昭和51年)では津久戸町について

白銀町との間を俗に和泉屋横町といった

 なるほど白銀町と津久戸町を分ける場所だったんだ。つまり灰色の場所だったんだ。

 さらに新宿歴史博物館『新修新宿区町名誌』(平成22年、新宿歴史博物館)によれば…

牛込白銀町 起立の年など詳細は不明。一説には慶長年間(1596~1615)の江戸城修築の際、田安(現千代田区)の住人を移して町を開いたともいう(町名誌)。町内の東側のあたりは、かつて和泉屋という酒屋があったことから和泉屋横丁と呼ばれていた(町方書上)
 明治4年(1871)6月、常陸松岡藩中山家(水戸藩付家老)上屋敷ほか近隣の武家地と合併(市史稿市街篇53)。明治44年、「牛込」が省略され白銀町となり、現在に至る。

 江戸時代、「牛込白銀町」は2つありました。2つとも「牛込白銀町年貢町屋」でした(青色)。「年貢町屋」とは年貢を納める農家がある町。明治4年、白銀町は拡張し、拡張した町は黄緑色で描いています。巨大な場所です。

 2つのうち中央下のほうの牛込白銀町に「和泉屋横町」があったのでしょう(赤色)。現在はマンションになっています。なお、明治時代には「和泉長屋横丁」と呼ばれたようです。


魁雲堂[昔]|神楽坂3丁目

文学と神楽坂

 久保たかし(大久保孝)氏は神楽坂のことを書き、平成2年から新宿区の図書館に自費出版の書籍を数冊寄付しています。過去のことを探すにはこれらの本は結構面白く、たとえばお店については、あっ、わかるね、となりますが、しかし、それでもわからない場面もあります。

 たとえば、この魁雲堂。昭和45年新宿区教育委員会の「神楽坂界隈の変遷」で「古老の記憶による関東大震災前の形」を見ても、魁雲堂はでてきません。氏の『坂・神楽坂』(平成2年、1990年)では

 さて、木村屋の左に亀さんの家、「魁雲堂」があった。亀さんこと川村君は弱々しい子供だから皆でいたわった。オカッパの可愛いい子だから誰からも好かれた。それが今やフランス文学の大家で、酒は呑む、豪快な男に変身し、あれが亀さんかと云われてもビックリするような成長ぶり、あれは亀ではなく、(さか)(かめ)と云った方が良い。
 このお宅は古い木造の2階建で、大きな木の看板に墨痕あざやかに魁雲堂と横に書いてあり、墨、筆、すずりの商いをしていた。亀さんの兄さんは私の兄と小学校同級生。
 この家の裏が待合で、亀さんは夜になるとはなやかな芸者の姿を見、踊りをながめ、唄を子守唄として育ったせいか、シャンソンが得意である。

川村 川村克己。かわむらかつみ。1922年 – 2007年。フランス文学者、立教大学名誉教授。東京神楽坂生まれ。1945年東京帝国大学仏文科卒、立教大学教授、88年定年、名誉教授。

 川村教授も東大出身でした。神楽坂には意外と東大出身の人が多いのです。特に色恋の町では多いなあと思っています。この川村氏が書いた文章もあります。雑誌『ここは牛込、神楽坂』第4号で

 神楽坂をのぼりつめると右側に、木村屋というパン屋さんかある。その先は細い路地をへだてて、太白飴を名代とする宮城屋があり、その次が古めかしい作りの筆墨を商う魁雲堂という店があった。この筆屋が僕の育った家である。
 その頃、折れそうに痩せこけた少年の僕は、いつも遅刻しそうになりながら、パン屋飴屋の間の路地に駆け込み、突き当たって右に折れる。置屋の並ぶその道が、やがてゆるやかに下る石段となる。いつもはくすんだ色のその石段が、雨に濡れると装いを凝らしたグリーンの色となり、この僕になにかわからない言葉で、語りかけてくるのだった。
 段をおりきって、これもさして広くない道へ出る。そこを左に折れて、真っすぐに、だらだらと下ると、われらが津久戸小学校の門に行き着く。
魁雲堂→津久戸小

魁雲堂→津久戸小

パン屋 木村屋です。
飴屋 宮城屋です。
置屋 芸者や遊女などを抱えて、求めに応じて茶屋・料亭などに差し向けることを業とする店。

 久保たかし氏の『ふるさと神楽坂』(平成6年、1994年)では

 「魁雲堂」
 墨、筆、すずりのお店。古い木造2階建で、大きな木の看板に墨痕あざやかに魁雲堂と横に書かれ、1階の瓦屋根におかれている。
 ここの次男坊、川村克己君は小学校の同級生。アダナは亀さん。オカッパ姿の可愛いい子だった。しかし、60年たった今は、豪快な男に変身、立教大学でフランス文学を教え、今や新潟県の新しい大学の副学長となり、忙しく働いている。あれは亀ではない、酒(かめ)だと云った方が良い酒仙である。

新しい大学 新潟産業大学です。

「魁」について。 かしら、首領、堂々として大きいさま(例は魁偉・魁傑)を表し、音はカイ、訓はさきがけです。かいうんどう、と読むのでしょう。

「 さて、もう一度、「古老の記憶による関東大震災前の形」を見ると、なんと「筆カイ雲堂」となっていました。初めからあったのですね。

魁雲堂

 右図では昭和12年の「火災保険特殊地図」ですが、すでに「加藤商店」に替わっています。魁雲堂1

 現在の建物です。「摩耶ビル」といい、美容室の摩耶などが入っています。摩耶

『新宿区町名誌』と『新修新宿区町名誌』

文学と神楽坂

『新宿区町名誌』は昭和51(1976)年、新宿区教育委員会が発行し、『新修新宿区町名誌』は平成22(2010)年、新宿歴史博物館が発行したものです。『新修新宿区町名誌』によれば、2つの違いは

一、本書は、昭和51年(1976)に新宿区教育委員会から刊行された『新宿区町名誌』の内容を再調査し、全面改訂を行ったものである。
一、地域区分は『新宿区町名誌』を踏襲し、古い村を単位とした十区域(①牛込東部、②牛込西部、③牛込北部、④市谷、⑤四谷、⑥新宿と周囲、⑦大久保・百人町、⑧西早稲田・高田馬場、⑨落合・中井、⑩北新宿・西新宿)に分けた。項目は原則として現在の町名を立項し、その町域内にあった過去の町名は小項目として立項している。項目の配列も原則として前書を踏襲したが、読みやすさを考慮し、広域の地名解説を各章の最初に記述した部分もある。

 たとえば、神楽坂1丁目を『新宿区町名誌』では

 神楽坂一丁目は、牡丹(ぼたん)屋敷跡とその周辺の武家地跡である。八代将軍吉宗は、享保14年(1729)11月、紀州からお供をしてきた岡本彦右衛門を、武士に取り立てようとしたが、町屋を望んだので外堀通りに屋敷を与えた。岡本氏はそこにボタンを栽培し、将軍吉宗に献上したので、岡本氏屋敷を牡丹屋敷と呼んだのである。岡本氏は、また牡丹屋彦右衛門と呼ばれた。
 宝暦11年(1761)9月、岡本氏はとがめを受けることがあって家財没収され、屋敷はなくなった。その跡、翌12月老女(大奥勤務の退職者)飛鳥(あすか)井、花園等の受領地となって町屋ができた。

『新修新宿区町名誌』では

 牛込御門に近い外堀端沿いの地域で、江戸時代には武家地と、牛込(うしごめ)牡丹(ぼたん)屋敷(やしき)という拝領町屋があった。
牛込牡丹屋敷 豊島郡野方領牛込村内にあったが、武家屋敷になった。八代将軍吉宗の時代、岡本彦右衛門が吉宗に供して紀伊国(現和歌山県)から出てきた際、武士に取りたてようと言われたが、町屋が良いと答えこの町を拝領した。屋敷内に牡丹を作り献上したため牡丹屋敷と唱えた。その後上り屋敷となり、宝暦12年(1762)12月24目に地所を三分割し、そのうち一ケ所が拝領町屋となった(町方書上)。

 一番正確な町名誌でしょうか。