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日本新劇史

文学と神楽坂

 松本克平氏の「日本新劇史」(筑摩書房、1966年)から芸術倶楽部の誕生を見ていきます。新劇では一元論「金銭だけ」ではなく、二元論「研究所」も大事だとして、島村抱月は「芸術座研究所」、改名して「芸術倶楽部」を作りました。

 まず抱月が彼の牙城とたのんだ芸術倶楽部建築のいきさつ、、、、から紹介してゆきたい。
 大正4年10月号創刊の芸術座の機関誌「演劇」には、「芸術座の創立当時からの根本計画だつた芸術座研究所は今回愈々竣成を告げて名称も芸術倶楽部と改め8月20日芸術座全部移転した」という知らせと演劇学校開校の記事を掲げている。これまでの事務所は牛込区西五軒町34番地の貸席清風亭であった。
 すでにたびたび述べたように大正3年7月18日より24日まで、大正博覧会の演芸館に『復活』を一日二回、50銭の奉仕料金で出演して大好評をうけた関係で、博覧会終了後の解体に際し、安い値段で木材の払下げを受けて改築したものであった。設計図が出来上がったのは『クレオパトラ』『剃刀』の帝劇公演が終わった同年10月末のことであった。はじめ神楽坂肴町停留場付近の土堤の上の展望のきく高台に柱を組み立てたが、4年2月4日の暴風雨のために倒壊してしまったので、工事中止のやむなきにいたり、さらに牛込横寺町9番地に敷地を改めて、7ヵ月目に完成したのであった。「幾多の困難を排して予定を実現するに到つたのは当事者一同密かに誇りとするところである」と控え目に喜びを語っているだけである(払下げの入札価格と建築費その他でだいたい7000円と推定される)。抱月はこの倶楽部を文化人の憩いの場、会合の場にしようと夢みていた以外に、ここでやる研究劇に精魂を注ぎ、俳優の再教育を目ざして、須磨子中心のスターシステムに代るべき新しい俳優を育て上げる学校にしようと考えていたのであった。だが工事の挫折は予算の膨脹を招き、危機はさらに危機を生んで芸術座を窮地へ追い込んでいった。建物が完成した時、いちばん最初に訪れてきたのは恐ろしい債鬼であった。そしてこの債鬼に追い立てられて台湾へ、朝鮮、大連へ、さらに浅草常盤座へと矢つぎばやの活動を余儀なくされたのであった(中村吉蔵筆「芸術座の幕の閉るまで」より)。自分の小劇場を完成しながらそこで念願の研究劇をやる時間と経済の余裕を芸術座は当分の間持てなかったのである。
牙城 がじょう。「牙」は大将の旗。城内で大将のいる所。城の本丸。根拠地。ねじろ。
西五軒町34番地の貸席清風亭 西五軒町の北部は目白通り、首都高速と神田川に、東は新宿区東五軒町に、南は赤城元町に、西は水道町と築地町に接する。清風亭は北にあった。地図は

東京市及接続郡部地籍地図https://dl.ndl.go.jp/pid/966079/1/454

肴町停留場 現在は「牛込神楽坂駅前停留所」
9番地 9番地のほかに、8番地や10番地があります。詳細は別項で。
文化人の憩いの場 これはフランス語の客間(サロン)を意味するもので、貴族やブルジョアが日を定めて客間を開放し、文化人、学者、作家らを招いて、知的な会話を楽しむ場。
債鬼 さいき。借金や掛金をきびしく取り立てに来る人。借金とり。
浅草常盤座 ときわざ。明治17年、浅草公園六区で初の劇場として始まる。歌舞伎、新派劇、連鎖劇等を興行し、映画を上映した。ほかに大正6年「浅草オペラ」の発祥の場、昭和23年には「浅草ストリップ」の発祥の場である。1991年、閉鎖。
矢つぎばや 物事を続けざまに手ばやくすること。

 まことに超人的な巡業ぶりであった。
 まず大正4年早々信州をふり出しに、九州博多、長崎、鹿児島の旅に出た。その間工事は進められていた。8月20日、事務所移転の時ちょっと帰京して、8月24日には早くも出発、秋田、山形を巡り、そのまま北海道へ渡り函館、小樽、札幌、旭川を打って9月末一旦帰京、その月のうちに台湾へ渡っている。左に芸術座記録よりその長期興行を略記する。(略)
 まことに凄じい巡業である。留守中の工事は相馬御風、中村星湖、片上伸、石橋湛山、尾後家省一の諸氏が協力、学校と雑誌の方は中村吉蔵、田中介二が協力して意外に早く竣成開校の運びとなったのであった(上山草人との『復活』をめぐる訴訟事件は、九州巡業中のことであることはすでに述べた)。
 新劇の堕落、新派以下の新劇と小山内たちから罵倒されながら、抱月は建築費のためにこうして苦闘していたのであった。
 泥まみれのこの頃の抱月について水守亀之助は「読むことも書くことも止めてしまつたといふ荒廃時代」と言っている(『わが文壇紀行』より)。抱月には寸暇もなかったのである。後世に金玉の文字を残すことを念願としている個人芸術家の眼には、集団のために自分を拠げ出している演劇人の自己犠牲は、荒廃としか映じなかったのである。そしてただ「実行の人」として、その文才を惜しまれただけで、その行動の底に燃えていた夢と理想は演劇人にも文壇人にも理解されなかったのである。作家と演劇人の世界の隔り、批評と行動の溝は、全然食い違っていたのであった。この乖離は昭和の現在にまで尾をひいている。

上山草人との『復活』をめぐる訴訟事件 「日本新劇史」によれば…
 当時九州を巡業していた上山草人は鹿児島で須磨子の『復活』大当りの評判をきいたのであった。そして土地の記者団や興行師から懇望され、ついに千秋楽の夜は一夜稽古の「そのカチューシャを演出しなければならなかった」と言っている。以後、草人は朝鮮、支那、満州、台湾にかけて十六ヵ所で、山川浦路のカチューシャでこの『復活』を売り物にして巡業したのであった。やるに到ったその言いわけがまた振っている。「砂糖入りのロシヤパンが流行るのなら普通のパン屋でも精々甘い所を焼出さなければなるまい」
「これでは芸術座が渡鮮する時の利害に対する影響は頗る重大です」として抱月も鈴木弁護士に依頼して上山草人を相手取って興行権侵害の告訴をおこした。早稲田の師弟はこうして法廷で相見えることになったのである。
 草人は大陸巡業の帰り、四国の宇和島に来てはじめて自分が抱月に訴えられていることを大阪朝日新聞の特派員から知らされた。草人はこの事件を義侠的に引き受げてくれた鈴木弁護士の一団に一任した。その後さまざまな曲折を見せたが、結局、裁判長がものわかりのいい人で、法廷から抱月と草人を会議室に呼び入れ、法服をぬいでから、「貴君方は社会の先覚者でいらっしゃるのだから、こんな感情問題はさらりと水にお流しになったらいいでしょう」(草人著『煉獄』より)と物柔らかに和解を勧めたので至極簡単にけりがついた。つまり示談になったのだった。原作がトルストイで、脚色がアンリ・バタイユで、それを抱月が翻案したのでは著作権、上演権問題は曖昧になってくる。だが作曲の著作権があるので、中山晋平も原告の仲間に加えられ、新聞のはやし立てるなかで、審理がつづけられた結果、唄の著作権だけは侵害の事実が明白となった。晋平はこの事件の結末についてこう書いている。判決言渡しの直前、裁判長が法服をぬぎ捨てて、島村、上山の原被告に面接、「文化人同志の間で余り黒白を明白にすることも望むところではあるまいから、近代劇協会は今後この唄を使わぬということを条件に和解してはどうか」と勧告、両氏とも異議なくこれを諒として、告訴はとり下げられ、新聞は両氏の笑って握手している写真を掲げて社会面を賑わしたと。

小山内 小山内薫、おさないかおる。明治、大正で劇作家、演出家、小説家。東京帝国大学を卒業し、同人誌『新思潮』(第1次)を創刊。松竹撮影所長から、大正13年、土方与志らとともに築地小劇場を設立。生年は明治14年7月26日、没年は昭和3年12月25日。享年は48歳。

 写真は芸術倶楽部の全景。二階正面の三つの窓の上に横に並んだ五つの○の中には、右から芸術倶楽部という浮彫りの字が一つずつはめこまれている。その上の大型の○の中には芸術座のマークである仮面(マスク)の浮彫りがはめこまれている。一階正面中央の窓の左側が事務所と応接室であったという。

芸術倶楽部の全景。松本克平「日本新劇史」(筑摩書房、1966年)から

 二階正面の突き出た窓の処は個室(二室とも三室ともいう)であり、個室の裏側は二階廊下を隔てて二階の客席があったという。二階の個室は脚本の読み合わせや、外部の人々の小集会にも貸したという。空いている時は劇団員の寝泊りにも使っていた。
 一階正面左手の黒い処は玄関であり試演場への入口であった。客席の両脇と後方は廊下であり、通路であった。入口のさらに左の突出た横板の一階建の部屋らしいものは手洗所であり、その奥は台所になっていた。座員は手洗所の外側を廻って台所の脇の内玄関から稽古場その他へ(下手廊下奥)出入りしていた。(次頁は筆者の想像による見取図)

芸術倶楽部

芸術倶楽部館|神楽坂

文学と神楽坂

 芸術倶楽部の館は大正4年(1915年)8月に完成し、大正7年まで、横寺町9番地で開いていました。佐渡谷重信氏の『抱月島村滝太郎論』(明治書院、昭和55年)では

『復活』の地方巡業によって資金の調達が可能になり、芸術倶楽部の建設を抱月は具体化し始めた。もっともこの計画は前年の大正三年三月二十二日、抱月、中村吉蔵、相馬御風、原田某、尾後家省一、石橋湛山らが夜十一時迄相談し具体案を立てたものである。(石橋湛山の日記に拠る。)これは『復活』公演前のことであり、抱月は政界、財界に強く働きかけていたのであろう。それから一年後、芸術倶楽部の建設が実行に移されることになった。場所は牛込横寺町九番地に決り、二階建の白い洋館。一階には間口七間に奥行四間の舞台を設け、一階と二階の観客席の総数は三〇〇。総工費七千円。建築費の大口寄附者(五百円)に田川大吉郎、足立欽一、田中問四郎左衛門の名があり、残りは巡業からの収入を充てる。抱月はこの芸術倶楽部で俳優の再教育(養成主任は田中介二)を行い、将来、俳優学校を、さらに演劇大学のようなものに発展させたいという遠大な夢を抱いていた。そのために抱月は演劇研究に尽力し、若き俳優を外国に留学させて演技力を身につけさせる必要があると思い、さしずめ、須磨子をヨーロッパに留学させることを抱月は秘かにかつ、真剣に考えていたのである。
 巡業中に着工した芸術倶楽部は大正四年八月に完成した。この倶楽部の二階の奥の間には抱月と須磨子が移り住み、芸術座の運命を共にすることになった。

 芸術倶楽部の見取り図は、左は籠谷典子氏の『東京10000歩ウォーキング』の図です。右は抱月須磨子の2人がなくなり、大正8年(1919年)に改修して、木造3階建ての建物(小林アパート)に変わった後の図です。

芸術倶楽部の2プラン

 また松本克平氏の『日本新劇史-新劇貧乏物語』(理想社、昭和46年)では

日本新劇史186頁

牛込芸術倶楽部

日本新劇史200頁

 次は新宿区郷土研究会の『神楽坂界隈』(新宿区郷土研究会、平成9年)にある図です。

芸術倶楽部の場所

 また今昔史編集委員会の『よこてらまち今昔史』(新宿区横寺町交友会、2000年)に書いてある図ではこうなっています。

芸術倶楽部2

 高橋春人氏の「ここは牛込、神楽坂」第6号の『牛込さんぽみち』では想像図と地図が載っています。

芸術倶楽部の想像図 芸術倶楽部の想像図

高橋春人氏の芸術倶楽部

 高橋春人氏は…

芸術倶楽部 これを描くときに参考にしたのが印刷物の写真版である。これは、芸術座・芸術倶楽部用の封筒の裏に刷られたもので(宣伝用?)、ここにあげたものは、抱月(滝太郎)が、大正6年12月に使ったものである(早大、演劇博物館、蔵。なお、筆者が見た芸術倶楽部の写真はこのワンカットだけ)

 昭和12年の「火災保険特殊地図」(都市製図社)では

小林アパート(芸術倶楽部)

 野田宇太郎氏の『アルバム 東京文學散歩』(創元社、1954年)では「芸術倶楽部の跡」の写真が載っています。これはどこだか正確にはわかりません。おそらく上図の「小林 9」と上から2番目の「11」の間にカメラを置いて撮影したのでしょう。

芸術倶楽部の跡。1954年

 田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」の「芸術倶楽部跡 <新宿区横寺町 11>」では

1984-09-01。写真05-05-35-2で芸術倶楽部跡案内板が写真左端に見える。

 この中央の空地が以前の芸術倶楽部の跡でした。

 毘沙門せんべい福屋の福井 清一郎氏は「商売人どうし協力して 街を盛り上げていきたいよね。」(東京平版株式会社)の中で

 神楽坂は早稲田文学の発祥の地とも言われていまして、松井須磨子さんと島村抱月さんがやっていた芸術座の劇場も神楽坂の横寺町にあったんですよ。今はなくなりましたけどとっても前衛的な造りで、真ん中に舞台があって上から360度見下ろせる形が当時とても斬新でしたね。

魚浅 一水寮 矢来町 朝日坂の名前 朝日坂 Caffè Triestino 新内横丁