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白鳥橋

文学と神楽坂

 石川悌二著「東京の橋 生きている江戸の歴史」(新人物往来社、昭和52年)です。白鳥橋がテーマですが、もう1つ、大曲橋が出てきます。石川氏によれば、1代目は大曲橋、2代目で白鳥橋になったと主張します。しかし文献上では、大曲橋も西大曲橋も「大下水」を渡る橋で、江戸川(現在の神田川)の橋ではありません。
 現在の白鳥橋の竣工は昭和11年ですが、令和6年に架け替え工事が始まりました。

 白鳥橋(しらとりばし) 文京区後楽二丁目と水道一丁目のさかいを新宿区新小川町二丁目観世会館の前に渡した江戸川の橋で、この地点で川流が大きく屈曲しているため通称大曲おおまがりといわれて大曲橋が架されていたし、さらにその上流中之橋との間には西大曲橋とよぶ橋もあったが道路および河川改修によって撤去され、大曲橋のあとに架設された新橋白鳥橋と称する。大曲橋は明治十九年橋梁明細表には「大曲り橋 江戸川町十七番地に架す。長五尺五寸、幅二十六尺 石造」とあり、現在の白鳥橋は昭和十一年の竣工で長二九・八メートル、幅二〇メートルの鋼鈑橋である。橋名は白鳥池からとったもので、南向茶話に「江戸川中之橋の下水曲流の処は、往古大なる池にて白鳥池と号す。今埋れてその余池、南の方久永氏邸地内に残れり。」とあり、また新撰東京名所図会も「白鳥橋 江戸川中之橋の下流にて、隆慶橋の方に屈曲し居る淵を大曲おおまがりという。此処最も深く、かの有名なる紫鯉むらさきこいは今なお此辺に残り居れり。又今の二丁目(新小川町)十番地内に池あり。これぞ白鳥池の名残りという。」と記す。

観世会館 観世能楽堂。1900年の観世会の創立時に建設。観世流の活動拠点。1972年、新宿区新小川町(大曲)から渋谷区松涛に移転。 さらに銀座に再移転。

1970年 住宅地図

江戸川 神田川中流。文京区水道関口の大洗堰おおあらいぜきから飯田橋に近いふなわらばしまでの神田川を昭和40年以前に江戸川と呼びます。
白鳥橋 「新撰東京名所図会」が発行された明治37年には白鳥橋は全くありません。その後、新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』(昭和57年)を調べると、白鳥橋は明治40年にはあり(328頁)、明治43年になくなり(330頁)、大正11年にまた出てきます(332頁)。 また、明治29年の東京郵便電信局編の東京市小石川区全図、明治40年の東京郵便局の番地入東京市小石川区全図、大正10年の東京逓信局編の東京市小石川区 です。この明治40年の地図は橋と電車線路が道路のない場所に描かれ、建設計画を先取りしたものでしょう。

 一方、小石川新聞社編『礫川要覧』(小石川新聞社、明治43年)で白鳥橋は「明治42年の落成にて電車線路たり」と記録しています。
 また、古い白鳥橋の写真が2枚出て来ました。この2枚、かなり違っていて、一方は石橋、もう一方は木造橋で路面電車が渡っています。どちらかが間違えている可能性が大きいようです。

白鳥橋。東京市小石川区「小石川区史」(1935年)から

「江戸川」の「白鳥橋」と「大曲」三井住友トラスト不動産

大曲橋 昭和10年「小石川区史」によれば、昭和6年9月末日、小石川区内橋梁表(市土水局橋梁課調)では「橋名、大曲橋。河川名、大下水。架設位置、江戸川町17。橋種、石造。橋長、1,818米。巾員、20,909米。面積、8,93平米。工費・着手年月・竣功年月は不明」。つまり、大曲橋は1.8メートルしかない短い橋でした。下の地図で、左右の大下水が神田川に流れ込んでいます。大曲橋は江戸川(神田川)ではなく、この大下水に架かっていた橋です。また、江戸川町17に架設してあるようで、右側の青い円でしょう。

東京実測図。明治20年 新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』昭和57年

西大曲橋 昭和10年「小石川区史」で、明治19年の橋梁明細調(東京府文献叢書乙集18)を調べてみると、この橋は「西江戸川町1番地先に架す」る橋。地先じさきとは所有地等と地続きの地で、反別や石高がなく、自由に使える土地。また、昭和6年の「小石川区内橋架表」(市土水局橋梁課調)では大下水に架かった橋でした(昭和10年「小石川区史」)。「西江戸川町1番地先」ということから、上の地図の楕円の左側部分の細い流れに架かっていた橋です。
大曲橋のあとに架設された新橋 大曲橋は大下水の橋、白鳥橋は神田川の橋です。大正10年の東京逓信局編の地図では、白鳥橋の開通後も大下水が江戸川に流れ込んでいる様子が描かれています。おそらく大曲橋も、道路の一部として働いていました。
橋梁明細表 昭和10年の「小石川区史」によれば、この表は東京府文献叢書乙集18にあります。
江戸川町十七番地 現在、江戸川町がありませんが、明治20年では江戸川町があり、17番地は上図の文字「川 17」にあたる範囲です。実際は「戸」と「川」の中間地点から江戸川に向かって流れています。これが大下水の一部です。
長五尺五寸、幅二十六尺 1尺は約30.3cm。したがって長1m66cm、幅8m18cm。
鋼鈑 こうはん。鋼板。圧延機で板状に延ばした鋼鉄。鉄板てっぱんとほぼ同じ。純粋な「鉄」に炭素やマンガン等の成分を加えて強度や靭性じんせいを増したものを「鋼」
南向茶話 なんこうちゃわ。酒井忠昌著。寛延四年(1749)~明和二年(1765)。江戸の地誌を問答形式で記したもの。
久永氏 小日向小石川牛込北辺絵図の「久永」氏は中央に

小日向小石川牛込北辺絵図 嘉永2年(1849)

新撰東京名所図会 雑誌「風俗画報」の臨時増刊として、東京の東陽堂から刊行。明治29年から明治42年にかけて東京の地誌を書き、全64編、近郊17編。地名由来や寺社などが記載。
紫鯉 十方庵敬順氏の「遊歴雑記初編」(嘉永4年)「紫鯉」では「中の橋の水中はホトンド深くして、ぎょ夥し、大いなるは橋の上より見る処、弐尺四五寸又は三尺に及ぶもあり、邂逅タマサカには、三尺余と覚しき緋鯉ヒゴイも見ゆ、中の橋の前後殊に夥しく、水中只壱面に黒く光り、キラ/\とヲヨぐものは皆鯉魚なり、おの/\肥太コエフトりたる事、丸くして丈みじかきが如し、これをむらさきゴイと称し、風味鯉魚の第一、豊嶋荒川又利根川トネガワの鯉、これにツグべしとなん」(「中の橋」の大部分は深くて、鯉も数多くいる。橋の上から見ると、大きな鯉では90~110センチに及び、たまには、110センチ強と思える緋鯉も見える。「中の橋」の前後は鯉は殊に多く、水中でただ一面に黒く光り、キラキラと泳ぐものはみんな鯉だ。どれも肥えて太っている。一匹一匹は丸くて丈は短いように見える。これをむらさき鯉と称し、風味で見ると、このむらさき鯉が一番良く、豊島荒川の鯉や利根川の鯉はこれよりも劣る
名残りという。 新撰東京名所図会では続けて「この久永の邸は即ち今の川田邸にて、此池現存し中島あり丹頂の鶴を飼へり」で終わっています。下図は大正11年の川田男爵邸です。

大正11年 新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり』(昭和57年0

隆慶橋|東京の橋

文学と神楽坂

 石川悌二氏が書いた『東京の橋』(昭和52年、新人物往来社)の「隆慶橋」についてです。「隆慶橋」の名前は大橋龍慶氏に由来し、また、龍慶氏は書道の大橋流開祖の大橋重政氏の父になります。
 なお、父・大橋龍慶氏と息子・大橋重政氏の筆がしばしば似ていて混乱する原因になっています。

 隆慶橋(りゅうけいばし) 立慶橋、龍慶橋ともかかれている。新宿区新小川町一丁目より文京区後楽二丁目へ江戸川に架された橋で、創架年月は不詳だが、正保図にはなくて寛文図になって無名橋がこの位置に記されている。船河原橋の上流の橋で、むかし大橋龍慶なる者がこのあたりに屋敷を賜わって住んでいたのが橋名の起りで、龍慶は長左衛門、源重保といい、甲州の人で大奥側近の御祐筆で、いわゆる御家流書法の元祖だといわれている。
 府内備考は「立慶橋は中の橋の次なり、川のほとりにむかし大橋立慶の邸宅ありしゆえにかく橋の名となれりという。案ずるに正保年中(1644-1648)江戸図といえるものに、この橋のほとりに龍慶寺といえる寺見ゆ。恐らくはこの寺のほとりの橋なればかくいいしならん、されど今江戸の内にかかる寺あることをきかず、疑うべし。又『紫の一本』に、立慶橋というあり、されば町ありての名なりや。一説にりゅうけい橋と称す。」と記す。
 また、「新編若葉の梢」はこれを「(穴八幡)社地を寄進した大橋龍慶は長左衛門源重保といい甲斐の人で、大奥側近の御祐筆であった。老年に及び職を辞し、台命あって剃髪し、龍慶の号を賜った。式部卿法印に叙せられ、老体の采地として牛込の郷三十余町を賜り、その屋敷附近の江戸川に架された橋を龍慶橋と名附け、今にその名を残している。龍慶の書は徳川家の御家の書体として採択され、御家流と称して永く伝わるに至った。茶を小堀正一に学ぶ。寛文十一年六月三十日歿、五十五歳」とする。
 なお、校合雑記、不聞秘録などの誌す伝説では、旗本水野十郎左衛門に殺害された侠客幡随院長兵衛の遺体が、この隆慶橋の下に流れついたという。そのころ水野の屋敷は小石川牛天神祠干坂に在ったというが、しかし水野屋敷の位置については、牛込の築土下、麻布六本木、西神田一丁目などと諸説が多い。

   隆慶橋を衰る頃、空しきりに曇りければ、家路急ぎて橋をはしる、そも/\此橋の古えを聞くに、大橋長左衛門立慶と云いたる人、此所に家有りければ、此橋の名に呼付けり。
雪洞「東都紀行」

 明治十九年の調査だとこの橋は長さ十六間、幅十四尺五寸の木橋とあるが、現在は鋼鈑橋である。

東洋文化協会編「幕末・明治・大正回顧八十年史」第5輯。昭和10年。赤丸が「隆慶橋」。前は「船河原橋」

江戸川 神田川中流。文京区水道関口の大洗堰おおあらいぜきから船河原橋ふながわらばしまでの神田川を昭和40年以前には江戸川と呼んだ。
正保図 正保年中江戸絵図。正保元年か2年(1644-45)の江戸の町の様子。国立公文書館デジタルアーカイブから。ただし、正保図でも隆慶橋はありそうだ。

正保年中江戸絵図

寛文図 寛文江戸大絵図。裏表紙題箋は、新板江戸外絵図。寛文12年6月に刊行。

大橋龍慶 江戸初期の能書家。通称長左衛門、いみな(死後にその人をたたえてつけられる称号)は重保。初め豊臣秀頼の右筆。1617年(元和3)能筆のゆえ、徳川秀忠の幕府右筆となり、采地500石を賜る。生没年は1582年〜1645年(天正10年〜正保2年)
甲州 甲斐国。現在の山梨県に相当する。
御祐筆 江戸幕府の職名。組頭の下で、機密の文書を作成、記録する役
御家流書法 おいえりゅう。小野道風、藤原行成の書法に宋風を加えた、穏和で、流麗な感じの書体。室町時代に盛んとなり、江戸時代には朝廷、幕府などの公用文書に用いられた。
府内備考 ふないびこう。幕府の地誌編纂事業。大学頭林述斎が総裁となり、昌平坂学問所の地誌調所で幕臣の間宮士信ら多数が編纂を担った。『新編御府内風土記』編纂の際に、参考資料として収集した資料を編録し、文政12年(1829)に完成、正編は「江戸総記」から始まり、地勢、町割り、屋敷割りなどが、続編は寺社関係の資料を収めている。古記録、古文書や町名主、旧家、寺社の書上げなどが主に収録されている。「御府内風土記」は明治5年(1872)の皇居火災で焼失した。
紫の一本 江戸時代の地誌。天和2年(1682)成立。2巻。戸田茂睡作。江戸の名所旧跡を山・坂・川・池などに分類し、遺世とんせい者と侍の二人が訪ね歩くという趣向で記述。
若葉の梢 「若葉の梢」は金子直徳著で、上下2巻(寛政10年、1798年)。新編が付いた「新編若葉の梢」では、昭和33年に刊行した「新編若葉の梢刊行会」の本。
台命 たいめい。だいめい。将軍などの命令。
式部卿法印 式部卿とは式部省の長官。法印は僧に準じて医師・絵師・儒者・仏師・連歌師などに対して与えられた称号。大橋式部卿法印は戦国時代末期に右筆として活躍した大橋重保のこと。
小堀正一 安土桃山時代〜江戸時代前期の大名。生年は天正7年(1579年)。没年は正保4年2月6日(1647年3月12日)。約400回茶会を開き、招いた客は延べ2,000人に及んだという。
寛文十一年 大橋龍慶の死亡は1645(正保2)年2月4日。子の大橋重政は1672(寛文12)年6月30日。
五十五歳 大橋龍慶は63歳で死亡。子の重政は55歳。どうも「寛文十一年六月三十日歿、五十五歳」の少なくとも1文は、子の重政のことを間違えて書いたのでしょう。
雪洞『東都紀行』 『燕石えんせき十種じっしゅ』は江戸末期の写本の叢書。明治40年、国書刊行会が三巻本を刊行。続編として『続燕石十種』(2巻)、『新燕石十種』(5巻)が新たに編集、刊行。辻雪洞氏の『東都紀行』は『新燕石十種』(明治45年)で刊行。
長さ十六間、幅十四尺五寸 長さは約29m。幅は約4.4m。

新坂橋(しんざかばし)|神楽坂1丁目

文学と神楽坂

 石川悌二氏の「東京の橋」(昭和52年、新人物往来社)によれば

 新宿区神楽坂一丁目と船河原町のさかいを北西へ若宮八幡神社の方へ上る坂を新坂または幽霊坂というが、新坂橋はこの坂下の大下水に架されていたもので、明治28年版東京15区区分図によれば、この構渠は市谷御門橋の方から飯田橋へかけて外濠ぞいの道端に通じている。新撰東京名所図会は「新坂橋 市谷船河原町と牛込神楽町一丁目の間、大下水に架す。木橋、新坂下、若宮町に通ず。」と記している。
新坂または幽霊坂 現在は庾嶺ゆれいと呼んでいます。

神楽坂付近の地名。新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4』から

 現在、大下水はなく、当然、新坂橋もありません。下部の左はGoogleで、右は明治16年、参謀本部陸軍部測量局の「五千分一東京図測量原図」(複製は日本地図センター、2011年)です。これから、左の緑の円は新坂橋はあったと思う場所です。
 おそらく横断歩道のあるところに新坂橋があったのでしょう。

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