東京逓信病院」タグアーカイブ

庾嶺坂下(写真)昭和43年 ID 8016

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8016では、昭和43年10月に外堀通りの「逢坂下」を撮影したとのこと。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8016 飯田橋付近 外堀通り(逢坂下)

 左手前で道が外堀通りにつながっています。歩道に沿って店がいくつかあります。手前から

  1. 看板「〇〇店」看板
  2. 「麻雀 大三元」
  3. コカコーラと読めない店名看板
  4. 看板「研究社」

 歩道には公衆電話ボックス。「丹頂形」と呼ばれる古い形です。手前の消火栓標識は「東京消防庁/Fire Hydrant/消火栓/火事は119」。
 右側の外堀の向こうには千代田区の東京警察病院といくつかのビルが見えています。警察病院の左に顔を出しているのは富士見町教会です。
 では本当にここは「逢坂下」でしょうか。もし逢坂下なら、少し先に「家の光会館」の高いビルが見えているはずです。
 「逢坂下」の北側の三叉路は「笹尾」と「〇〇〇〇〇」「〇木三史」です。1本北側の「庾嶺坂下」は、昭和43年の地図では「事務所」「〇業KK」「研究社」です。写真の3軒目の建物は「研究社」です。よく見ると、その向こうの石造りの建物も研究社の旧社屋のように見えます。
 東京警察病院の距離感も庾嶺坂のほうがいいのではないでしょうか。

昭和43年 地図 逢坂+庾嶺坂

外濠(写真)新見附橋から ID 6898 昭和27年?

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 6898では、カメラを新見附橋に置き、牛込濠や新宿区側の建物などを撮影しました。撮影日は不明です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 6898 外堀飯田橋付近 日仏学院、東京理科大学

 このID 6898とID 14743や14744とを比べてください。よく似ています。どちらも日仏学院と研究社、東京理科大学が目立ちます。逆に1959年(昭和34年)に竣工した家の光会館は見えません。
 国電の高圧電線の碍子や、桜樹が裸木になっている様子もそっくりです。左側の焼却炉の煙突も同じように確認できます。
 おそらく同一(昭和27年9月)か、あるいはよく似た時期に写真を撮ったものでしょう。
 建物の名称はID 14743や14744と同じです。それ以外では向こう正面に神楽坂下のボート乗り場があり、左に神楽坂警察署の切妻屋根が、右には牛込橋や中央・総武線の線路が見えています。
 さらに奥の高台の建物は、文京区の中央大学富坂校舎でしょう。
 写真右の千代田区側は土手公園(現・外濠公園)です。東京逓信病院などがありますが、土手越しなので見えません。

新丸ノ内ビルヂング(写真) 昭和27年 ID 4743

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 4743は、昭和27年9月、東京逓信病院を撮影したといっています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 4743 飯田橋 東京逓信病院

三井住友トラスト不動産」によれば

1929(昭和4)年まで「陸軍軍医学校」があった富士見町の土地には、1938(昭和13)年に「東京逓信病院」が開院した。病院の建物は、山田守の設計によるモダニズム建築で、「太平洋戦争」中の空襲で被災するも、改修の上、1972(昭和47)年まで使用された。」 【画像は1938(昭和13)年】

 設計した山田守氏の写真も2葉残っています。

 したがって、昭和13年の病院は4~5階建てで、ID 4743と全く違っています。では病院・病棟が昭和27年までに変化したのでしょうか。
 以下は「病院の沿革・歴史」によれば

年月歴史
昭和12年10月建物竣工(本館、第一病棟、第二病棟)
昭和13年2月診療開始(内科、小児科、外科、整形外科、耳鼻咽喉科、眼科、歯科、産婦人科、皮膚泌尿器科、物療科)
昭和13年4月看護婦養成業務開始
昭和20年5月戦災により本館外来の一部及び院内郵便局焼失
昭和20年12月東京逓信病院看護婦養成所の承認受ける
昭和22年9月結核科設置
昭和22年12月皮膚泌尿器科を皮膚科と泌尿器科に分科
昭和23年4月東京逓信病院高等看護学院を開設
昭和24年6月逓信省が郵政省に改正
昭和24年6月副院長、健康管理科、臨床検査科設置
昭和27年7月中央手術室、中央材料室設置

 大きな病棟の変更はなさそうです。つまりID 4743はおそらく当時の東京逓信病院ではないといえます。
 これ以上は私は何もできません。しかし、地元の人はその先に行きました。以下はその考えです。

 違う角度で分析してみます。ID 4743の左のビルは7-8階建てで、かなり大きなものです。右手の鉄道の奥にも4ー5階建て以上のビルが多数あります。終戦間もない時代ということを考えると、場所は東京都心でしょう。
 昭和27年に竣工した都心のビルを調べると『新丸ノ内ビルヂング』が出てきます。当時の写真は、ID 4743に非常によく似ています。

 新丸ビルを鉄道を背景に写真に収めるには、通りの向かいの丸ビルからの撮影が好適です。この角度の写真は、鉄道の向こうが日本橋になります。写真中央の華やかなビルは、塔屋の形状からしても日本橋の三越百貨店のようです。

日本橋の三越百貨店

1961年(昭和36)東京駅付近(今昔マップ)

 なぜID 4743が誤認されたのかは分かりません。建築家の山田守の代表作のひとつである新宿区津久戸町の東京厚生年金病院は昭和27年10月の開設で、新丸ビルと同時期です。何かの取り違えがあったことも考えられます。
 なお、ID 4743では建物の右手を列車が走っていますが、堀端の国鉄中央線は土手のやや下にあります。仮に列車が東京逓信病院のそばを走る場合、この角度では列車は全く見えません。


神楽坂、坂と路地の変化40年(1)|三沢浩

文学と神楽坂

 建築家の三沢浩氏の「神楽坂まちの手帖」第9号(2005年)の随筆「神楽坂、坂と路地の変化40年(1)」を、半分以下の分量に限って、引用します。氏は1955年、東京芸術大学建築科を卒業し、レーモンド建築設計事務所に勤務。1963年、カリフォルニア大学バークレー校講師。1966年、三沢浩研究室を設立、1991年、三沢建築研究所を設立しました。なお、(2)(3)も引用可能の分量に限って引用します。また、茶色のコメントは地元の方のものです。

外堀通りの桜は今年で30年目
 4月初頭、今年もみごとなソメイヨシノが、外堀通りを飾った。新たな柵が、厚いコンクリートの基礎にのり、ライオンズクラブの石の標識が、木柱ペンキ塗りにとって代わった。ライオンざくらと命名されているが、この桜は、1976年にクラブ認証十周年記念の植樹であった。つまり30年目の枝振りは、大きく濠に向けて土手を覆い、ボートに代わる水上の張り出し店に多くの客を呼んで、席待ちの列までできた。
 この植樹以前には、一間毎の柱を貫き、誰もが気軽に水面に降りられた。まだ鮒がよく釣れたころのことだ。土手公園の向こうに、名建築だった「逓信病院」の瀟洒な白亜の姿が見え、そろそろ巨大な警察病院の建て方が始まる頃。神楽坂側には三階建の物理学校時代を示す、理科大学校舎と、小さな研究社の本社が並んでいた。
 くねる都電の線路はなぜか濠側にあって、それに沿って歩くと、春の浅い3月初めには、鼻をくすぐる濠の匂いが漂った。毎年その香を感ずると、春の到来を知ったものだ。何のかおりか、不思議な燻りの匂いだったが、都電が無くなる頃には、車も増え、いつしか消えてしまった。
ライオンズクラブ 東京飯田橋ライオンズクラブ。場所は不明。
張り出し はりだし。建物などの外側へ出っ張らせてつくること、またはその部分。
一間 いっけん。ひとま。尺貫法の長さの単位で、1.81818m
水面に降りられた 実はお堀の柵は低かったのです。

外堀通り。TV。気まぐれ本格派全編(1977年)

土手公園 現在は外濠そとぼり公園と名前が変わっています。JR中央線飯田橋駅付近から四ツ谷駅までの約2kmにわたって細く長く続きます。
逓信病院 東京逓信病院。千代田区富士見ニ丁目14番23号。総合病院。

東京逓信病院

警察病院 東京警察病院。総合病院。千代田区富士見町。沿革によれば全館竣工は1970年(昭和45年)3月。2008年(平成20年)4月に中野区中野4丁目に移転しました。

住宅地図。1978年

理科大学 東京理科大学。神楽坂キャンパスは新宿区神楽坂1-3。
研究社 昭和40年3月から昭和57年まで、研究社(辞典部門)と研究社出版(書籍・雑誌)は神楽坂に同居しました
燻り いぶり。くすぶり。物がよく燃えないで、煙ばかりを出す

歩行者天国の日曜日、神楽坂通りさわや前 1971年5月 筆者撮影

坂のすべり止めは一升瓶の底だったか
 都電の停留所は牛込見附、今のマクドナルドの隣の公衆便所が最寄りだったが、見附から佳作座を越えるあたりで大きくカーブして、その神楽河岸には材木屋、土砂屋、都のごみ船寄りつきなど、一列の家並みが、ややくねった濠を遮っていた。
 見附からパチンコのニューパリと、洋品のアカイの間を入ると神楽坂が始まる。40年前の坂は、今とくらべると随分と静かだった。高い建物は坂上の菱屋の6階、大きな建物は、今のカグラヒルズの位置にあった、キャバレー「軽い心」で、あとは坂を越え、今も変わらぬ三菱銀行神楽坂支店だったろう。そのほかはほぼ木造の2階建、それら商店の間口は、今とほとんど変わることなく、昔の敷地割りを、その店構えに残していた。おおむね3間、5.4m、奥行きは背後の路地や崖で変わる。上り坂右の裏は路地が通り、左の裏は次第に崖となっているから、大体同じような敷地面積だと思われる。
 1960年代のこの坂には、今の街路樹のけやきは無い。昨年新しい街路灯になる前は、ガス灯型だったが、それも無く、UFO型が曲げた鉄パイプに吊られていた。林立する電柱は家並みを圧倒し、くもの巣のように電線が走り、坂をまたいでいた。歩道はアスファルト、車道はコンクリートで、坂部分は自動車のすべり止めのために、内径で10cm位の輪型が30cm間隔で、びっしり堀り込まれていた。セメントが生乾きのうちに、一升瓶の底を押しつけて輪型をつくったと、冗談交じりの話を聞かされた。
 このコンクリート床がはがされて、アスファルトになり、歩道はインターロッキングという、互いに噛み合ってずれない、小型ブロックに変わる。1980年代初頭に、東京都が都内で22商店街を選び、モデル商店街としたが、その選に入ったからであった。
牛込見附 以下の通り。

牛込神楽坂警察署管内全図(昭和7年)(「牛込警察署の歩み」牛込警察署、1976年から)

マクドナルド 現在はカナルカフェブティックで、お菓子などを販売します。
公衆便所 位置は変わりません。
佳作座 現在はパチンコ店「オアシス飯田橋店」です。
材木屋、土砂屋、都のごみ船 現在は100%なくなりました。細かくは「神楽坂と神楽河岸」で。
寄りつく よりつく。 そばへ近づく。
ニューパリ 正確にはニューパリー
ほかはほぼ木造の2階建 実際には菱屋がビルになった昭和42年(1967年)頃に、大島ビル(1959年竣工)、五条ビル(1967年竣工)、神楽坂ビル(1969年竣工)など同程度の高さのビルがいくつも建っています。
街路樹 昭和48年までは街路樹は全くなく、牛込橋は桜の木でした。昭和49年、神楽坂1~5丁目はけやきになっています。
ガス灯型 昭和54年、神楽坂1~5丁目はUFO型でした。昭和59年(田口氏「歩いて見ました東京の街」05-10-33-2神楽坂標柱 1984-10-02)、ガス灯型になっています。

田口氏「歩いて見ました東京の街」05-10-33-02 昭和59年1984-10-02

UFO型 大きな電灯で、昭和36年2月に「鈴蘭灯」から変わりました。
輪型 Oリングです。
冗談交じり 多分、冗談。
インターロッキング インターロッキング(interlocking)は、かみ合わせる。ブロックを互いにかみ合うような形状にして舗装する。荷重が掛かったとき、ブロック間の目地に充填した砂がブロック相互のかみ合わせ効果(荷重分散効果)が得られる。
その選に入った 神楽坂6丁目だけです。