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昭和を走ったチンチン電車|うゑださと士

文学と神楽坂

 うゑださと氏の「昭和を走ったチンチン電車」(新日本出版社、2014)から2作品「飯田橋の交差点をゆきかう15系統」と「牛込うしごめやなぎちょうの坂を上る13系統」をとっています。うゑだ氏は昭和23年に生まれ、25歳の時、漫画原作者の小池一夫らの編集プロダクションに入り、現在は水彩で日々の暮らし、街並み、祭り、童謡や歌謡曲の景観などを描いています。
 同書でうゑだ氏は「『昭和』の風景ですから、資料が頼りです。参考にさせていただいた資料を、巻末に参考文献として収録いたしました」。参考文献には「わが街わが都電」「都電が走った昭和の東京」「よみがえる東京」「都電が走っていた懐かしの東京」「都電」「都電の消えた街」「東京都電の時代」「都電春秋」と、名称と出版社だけが載っています。

『飯田橋の交差点をゆきかう15系統』国鉄のプラットフォームから見たアングル。右奥にはふな河原かわらばし
「右奥には船河原橋」とありますが、正しくは右奥に伸びる道は目白通り。その手前で赤や青の車が並んでいるのが船河原橋で、左右は外堀通り、見えない大久保通りが交わって飯田橋交差点をつくります。

飯田橋の交差点をゆきかう15系統

J・ウォーリー・ヒギンズ『秘蔵カラー写真で味わう60年前の東京・日本』光文社新書 2018年

 参考文献はわかりませんでしたが、似たような写真がJ・ウォーリー・ヒギンズの撮影でありました。
 ただヒギンズの写真は1964年。うゑだ氏の風景画は、都電の塗装が1950年代までの通称「金太郎塗装」で、少し時代が違います。オート三輪も時代を感じさせます。「つる」は正確には「つるやコーヒー」。
 そこで図書館で調べました。吉川文夫氏の「東京都電の時代」(大正出版、1997)はどうでしょうか。この写真は1960年に撮られて、横書きの「つる」、オート三輪もよく似ています。都電だけが違っています。

吉川文夫「東京都電の時代」(大正出版、1997)。国鉄飯田橋駅ホームから見た飯田橋交差点 手前の停留場のある橋が飯田橋 右奥は船河原町 (飯田橋 15系統 815号 昭和35年9月23日)

 飯田橋の都電としては3路線、つまり3系統、13系統、15系統がありましたが、15系統だけが描かれています。15系統の都電は飯田橋停留所から、右奥の目白通りにつながっています。左右の外堀通り(船河原橋)や大久保通りにも路線がありましたが、15系統とはつながっていませんでした。

吉川文夫「東京都電の時代」(大正出版、1997)

『牛込柳町の坂を上る13系統』自転車の若者が歯を食いしぼり力走

牛込柳町の坂を上る13系統

 これはわかりました。三好好三氏の「よみがえる東京ー都電が走った昭和の街角」(学研パブリッシング、2010年)でしょう。

よみがえる東京ー都電が走った昭和の街角

 前後の道路は大久保通りで、左右は外苑東通り。柳町交差点は大久保通りの前後より標高が低く、凹になっているのですが、この水彩画ではわかりません。
 アカカンバンはスーパーで、倒産後に売却されて、現在「よしや SainE 柳町店」です。さらに神楽坂六丁目「よしや SainE 神楽坂店」でも同じで、当時はアカカンバンの店舗でした。その前の「パチンコたま◯」の◯はこの写真では分かりません。「パーマ」はその通り、水彩画の「ショールーム」は不明です。

焼餅坂

文学と神楽坂

 焼餅坂やきもちざかは新宿区山伏町と甲良町の間を西に下って、柳町に至る、大久保通りの坂です。場所はここ

 焼餅坂について区の標柱はなく、代わりに巨大な道標があります。ちょうど坂上にあがる直前です。大久保通りは都道(都道25号飯田橋石神井新座線)なので、区ではなく都が作ったものでしょう。そこにはあまりよく読めない説明も書いてあります。

焼餅坂の標識 この辺りに焼餅を売る店があったのでこの名がつけられたものと思われる。別名赤根坂ともいわれている。新撰東京名所図会に「市谷山伏町と同甲良町との間を上る。西の方柳町に下る坂あり、焼餅坂という。即ち、岩戸町箪笥町上り通ずる区市改正の大通りなり」とある。また、「続江戸砂子」 「御付内備考」にも、 焼餅坂の名が述べられている。

 石川悌二氏が書いた『東京の坂道』(新人物往来社、昭和46年、1971年)によれば

焼餅坂(やきもちざか)

赤根坂ともいう。市谷山伏町と市谷甲良町の境、旧都電通りを東から西へ下る。「続江戸砂子」に「やき餅坂 本名赤根坂、此所にやき餅をひさぐ店あり」と記し、「府内備考」の町書上には「一坂 高凡四十間、巾四間程、右坂の儀は町内北の方往還にこれあり、焼餅坂と相唱候へ共、何故焼餅坂と申候哉、申伝等御座なく候」とある。坂辺に焼餅を売っていたのはよほどむかしのことらしい。明治時代中期における市区改正で、坂の道幅をひろげ傾斜をゆるくしたので現今のような道になったが、近年、都電が撤廃されて自動車の交通量が激増したために、坂下の柳町は排気ガス公害の多発地域として注目を集めるに至った。


旧都電通り 現在、名前は大久保通りに変わりました。
排気ガス公害の多発地域 牛込柳町鉛害事件のこと。昭和45年5月、民間の医療団体が新宿区牛込柳町の交差点付近の住民について健康診断を行い、多くが鉛中毒にかかっている疑いがあり、その鉛は排ガスに由来していると発表しました。その後、都の調査で、ほとんど心配はいらないと判明し、しかし、ここから、ガソリンの無鉛化、鉛の環境基準、大気汚染防止法の常時鉛排出の規制、自動車排出ガスの鉛の許容限度を設定。

柳町の交差点

かつてあった交差点上の信号機

 また住宅地の中のそれほど広くない道路(大久保通りと外苑東通り)の交差点で、排気ガスが溜まりやすく、そのため信号機を大久保通りの南北の坂上に1台ずつ新たに配置。ウィキペディアでは「市谷柳町交差点へ向かう手前数百メートル離れた場所に信号機が設置された。これは大気汚染を防ぐため、市谷柳町交差点で停止する自動車などを減らすために設置された、まれな信号機」で、近くに横断歩道はなく、信号機しかなかった。しかし、2015年9月、この信号機は廃止、翌月撤去。外苑東通りの拡張予定と、柳町交差点も大きくする予定があり、これに関係する可能性も。

 昭和51(1976)年の新宿区教育委員会の「新宿区町名誌 地名の由来と変遷」では

 市谷甲良町との境で、市谷柳町交差点に下る坂を俗に焼餅(やきもち)といった。焼きもちを売る店があったからである。「江戸砂子」には、もと赤根坂といったとある。赤根とはのことで、染料植物である。これを裁培していたので名づいたという。田山花袋は、その近くの市谷甲良町に住んでいたので、その作品「東京の三十年」の中には、このあたりのようすが出ている。

 あかね。アカネ科のつる性多年生植物で、根は乾燥すると赤黄色から橙色となり、赤い根なのでアカネに。根を煮た汁にアリザリンがあり、これで古くから草木染め(茜染)を行っています。その色は茜色に。
東京の三十年 田山花袋の大正6年の作品。詳しくはここで。実はやきもち阪と麹坂についてあっさり書いているだけです。

 歴史・文化のまちづくり研究会編『歩いてみたい東京の坂』(地人書館、1998年)ではさらに細かく説明しています。

焼餅坂(やきもちざか、赤根坂)
(1)所在地
 この坂の形は少し変わっており、大ざっぱには「大久保通り」を柳町から、山伏町と甲良町の間を東に上がる。
 坂下は「大久保通り」と「外苑東通り」の交差点から「外苑東通り」を北へ数十歩のところにある。
 そこから「大久保通り」に向かい東に少し上がったところが坂上である。
(2)特徴
 坂上から、坂下の途中までは広い幅員の道路で、両側にはゆったりと歩ける歩道が設けられている。
 一般的には、「大久保通り」をそのまま素直に下りきって「外苑東通り」にぶっかるところが坂下になるのだろうが、どういう訳か途中から狭くて暗い路地のようなところを行かなければならない。
 なぜこのような形になってしまったのだろう?道路の拡幅などと関連があるのだろうか?
 昔は、もっと急な坂だったようで、明治の市区改正で坂の道幅を拡げ、傾斜を緩くしたそうだ。とはいえ、自転車を押しながら坂を上る人を見るにつけ、あなどれないぞと思ってしまう。
 大通りの歩道には、緑豊かな街路樹、特に坂の北側の歩道には石垣もあり、なんとなく由緒ある坂に思えてくるのが不思議である。また車が多いにもかかわらず心地よい坂である。
(3)由来
「続江戸砂子」には、「やき餅坂 本名赤根坂 此所にやき餅をひさぐ店あり。」と記されていることから、「焼き餅」が名前の由来らしい。
「府内備考」の町書上にも焼餅坂の名称は出てくるが、そのなかで名前の由来については「…申伝等御座なく候」とあり、焼き餅屋さんがあったのは、かなり昔に遡るらしい。
 坂に名前がつくほど評判の店だったのか、辺りには何もなく焼き餅屋さんが、ランドマークの役割を果たしていたのかは定かではないが、当時の庶民の間では、よく知られていたのだろう。
(4)周辺の状況
 坂上にある「大蔵省柳町寮」の建物のデザインが、歴史を感じさせる。坂を少し下ると、擬洋風(明治や大正の時代に、西洋館のモチーフを模倣して建てられた建築を「擬洋風建築」と呼んでいる。)の建物が見えてくる。「新・浪漫亭」という居酒屋である。
 坂を挟んで両側にはマンションが立ち並んでいるが、そのなかにあってユニークな建物が、違和感なく町並みにとけ込んでいるところが実に良い。
【街路樹かオブジェか】歩道の街路樹は珍しい樹種で、案内板には「ウバメガシ」とあるが、緑の量に驚いてしまう。低木の茂みの間から、こんもりした高木が突き出るようにして、巨大な緑の固まりが一定間隔に配置されている。いっそのこと、ウサギや犬の形に剪定して、オブジェにしたらもっと楽しくなるのに。
 しかし、この街路樹が、夏には涼しい木陰を提供してくれる。

暗い路地 明治20年の東京実測図で以前の柳町の地図と、赤で描いた現在の柳町の地図を出しました。現在の柳町の交差点は新道なのです。暗い路地のほうが旧道でした。市電(都電)の「柳町」ができるときに新道になりました。 0321 では昭和5年の『牛込区全図』を見てください。市電(都電)が走っている新道(青)があり、その北に昔ながらの旧道(赤)があります。 0335-2
大蔵省柳町寮 大蔵省印刷局柳町寮。2005年秋ごろに取り壊され、一時は駐車場に。現在は建築中。
新浪漫亭 大正14年、第一信用金庫本店として建設したもの。居酒屋「新浪漫亭」から、「かがり火」(下図)。現在は「セブンイレブン」とマンションに。
かがり火

『粋なまち 神楽坂の遺伝子』では

かがり火
 空襲を免れ、戦後は「柳町病院」として使用され、平成元(1989)年に飲食店に用途が変わった。店舗の入れ替わりはあるものの、80年以上にわたり商業施設として活用され続けているという、近傍では貴重な近代建築のひとつである。
 大久保通りと外苑東通りの交差点に近い斜面地に、南側短辺方向をファサードとして建つ。木造2階建て、一部地階である。1階は標記のレストランおよび同系列の菓子店が店舗と厨房を据え、2階は事務室・パントリー・店員控室等として利用されている。屋根は寄棟板金瓦棒葺きであるが、南・東・西面はパラペットを回し陸屋根様の意匠とする。特異なそのファサードには、房付きレリーフのある唐破風様のペディメントを頂点に、3本の半円形ピラスターが並ぶ。分割された壁面に縦長の窓が付く。非対称の塔部が内側に取り付き、5個のメダリヨンと花弁をあしらったレリーフが配される。窓の一部には、当初と思われる上げ下げ窓がそのまま残る。古典的な様式を大胆かつ自由に引用しながら、金融機関の旗艦店としての威厳と、大正ロマンを感じさせる美しさを醸し出した個性的な作品といえよう。
 室内は、水廻りや厨房に関連して大きく改装されているが、2階大食堂の型押しされた塗装鉄板天井や卵鏃飾りが彫り出された木製廻縁、数段に面取りがされた幅広の窓枠等、擬洋風の意匠が散見される。また2階事務室の天井は折り上げ格天井に竿縁網代張り合板を組み入れたユニークな造りとなっている。
 最初に飲食店に模様替えされた時に内外部ともに改変が加えられているが、外観の改修は西側のサイディング部が中心であり、文化財としての価値を減ずるものではないといえる。
 かがり火は、設計者は不詳ながら大正末明の自由な建築思潮を体現した貴重な遺構であるとともに、一貫して活用され続けてきた地域のランドマーク的な建築物のひとつということができる」

ファサード 建築物の正面
菓子店 Füssenです
パントリー 食料品や食器類を収納・貯蔵する小室。pantry
寄棟 よせむね。屋根の形式。四つの面から構成
板金 ばんこん。薄くのばした金属の板
瓦棒葺き かわらぼうぶき。金属板を用いて屋根を葺くときの1方法
パラペット 建物の屋上や吹抜廊下などの端の部分に立ち上げられた小壁や手摺壁
陸屋根 ろくやね。フラットな屋根
レリーフ 浮き彫り
唐破風 からはふ。曲線状の破風で、中央部は弓形で,左右両端が反りかえった形
ペディメント 切り妻屋根で、妻側屋根下部と水平材に囲まれた三角形の部分
ピラスター 壁面より浮き出した装飾用の柱
メダリヨン メダリオンとも。肖像や紋章、銘文などで浮き彫りがある大型のメダル
卵鏃飾り らんぞくかざり。卵とやじりを交互に連続させた模様
廻縁 まわりぶち。壁と天井の取り合い部に用いられる見切部材
擬洋風 明治時代初期に西洋の建築を日本の職人が見よう見まねで建てたもの
竿縁 さおぶち。天井板を竿と称する部材で押さえて天井を張るやり方
網代張り あじろばり。縁を反り返らせた赤塗りの陣笠を張ること
サイディング 建物の外壁に使用する,耐水・耐天候性に富む板。下見板
ランドマーク 山や高層建築物など,ある特定地域の景観を特徴づける目印

大東京繁昌記|早稲田神楽坂04|神楽坂気分

文学と神楽坂

神楽坂気分
 私は()めかけた紅茶をすすりながら更に話を継いだ。
「僕は時々四谷の通りなどへ、家から近いので散歩に出かけて見るが、まだ親しみが少いせいか何となくごた/\していて、あたりの空気にも統一がないようで、ゆったりと落著いた散歩気分で、ぶら/\夜店などを見て歩く気になれることが少い。それに四谷でも新宿附近でも、まだ何となく新開地らしい気分が取れず、用足し場又は通り抜けという感じも多い、又電車や自動車などの往来が頻繁ひんぱんだからということもあろうが、妙にあわただしい。それが神楽坂になると、全く純粋に暢気のんきな散歩気分になれるんだ。それは僕一人の感じでもなさそうだ。それというのも、晩にあすこへ出て来る人達は、男でも女でも大抵矢張り僕なんかと同じように純粋に散歩にとか、散歩かた/″\ちょっととかいう風な軽い気分で出て来るらしいんだ。だからそういう人達の集合の上に、自然に外のどこにも見られないような一種独特の雰囲気がかもされるんだ。誰もかれもみんな散歩しているという気分なり空気なりが濃厚なんだ。それがまあ僕のいわゆる神楽坂気分なんだが、その気分なり、空気なりが僕は好きだ。これが銀座とか浅草とかいう所になると、幾らか見物場だとか遊び場だとかいう意識にとらわれて、多少改まった気持にならせられるけれど神楽坂では全く暢気な軽い散歩気分になって、片っ端しから夜店などを覗いて歩くことも出来るんだ。少し範囲の狭いのが物足りないけれど、その代り二度も三度も同じ場所を行ったり来たりしながら、それこそ面白くもないバナナのたたき売を面白そうに立ち止って見ていたり、珍しくもない蝮屋まむしや(の講釈や救世軍の説教などを物珍しそうに聞いたり、標札屋が標札を書いているのを感心しながらいつまでもぼんやり眺めていたり、馬鹿々々しいと思いながらも五目並べ屋の前にかがんで一寸悪戯いたずらをやって見たりすることも出来るといったようなわけだ。僕は時とすると今川焼屋が暑いのに汗を垂らしながら今川焼を焼いているのを、じっと感心しながら見ていることさえあるよ。まあ、そう笑い給うな、兎に角そんな風なな、殆ど無我的な気分になれる所は、神楽坂の外にはそう沢山ないよ。外の場所では兎に角、神楽坂ではそんなことをやっていても、ちょっとも不調和な感じがしないんだ。そしてその間には、友達にも出会ったり、ちょっと美しい女も見られるというものだ。アハヽヽ」

神楽坂気分

新開地 新しく開墾した土地。新しく開けた市街地やその地域
用足し場 用事を済ませること。大小便をすること
かたがた 「…をかねて」「…のついでに」などの意味があります。「…がてら」
見物場 見世物小屋。普段は見られない品や芸、獣や人間を売りにして見せる小屋。例えば口上として「山から山、谷から谷を渡り歩いた姉妹が、何故、人が忌み嫌う長虫(蛇)を食わなければならなかったのか?これから。お目にかけまする姉妹は「サンカ」の子に生まれた因果で、哀れ、今もその悲しさを伝えてくれますよ。さあ、見てやってください。見てください」。実際に生きた蛇を引き裂いて食べる人もでたようです。
バナナのたたき売 「ここは牛込、神楽坂」第3号の「語らい広場」で友田康子氏の「三〇年前、毘沙門様で」という投稿が載っています。そして口上は「『さあ表も裏もバナナだよ。握り具合は丁度いいよ。千、八百、五百、三百…、三百円だ。買った買った。早い者勝ちだよ。どうだ!』威勢のいい口上のバナナの叩き売りの周りには黒山の人だかり」と書いています。
蝮屋 商品になるのはニホンマムシの蒸し焼きかその粉末です。毒蛇の強靭な生命力にあやかり、食べると心身の強壮に効果があるとされていました。
標札 屋標札は戸籍法との関連性が高く、明治5~11年頃、各戸に標札を備えつける布達がなされたようです。当時は筆を使って書きました。
無我的 無心。我意がないこと

「あゝそれ/\」と友達も一緒に笑った。「ところで色々とお説教を聞かされたが、これから一つ実地にその神楽坂気分を味わいに出かけるかね」
「よかろう」
 そこで私達は早速出かけた。少し廻り道だったが、どうせ電車だと思ったので、幾らか案内気分も手伝って、家の行くの柳町の通りの方へ出た。すると、それまで気がつかなかったのだが、丁度その晩は柳町の縁日(えんにち)で、まだ日の暮れたばかりだったが、子供達が沢山出てかなり賑っていた。
「おや/\、こんな所に縁日があるんだね」
と友達は珍しそうにいった。
「あゝ、ほんの子供だましみたいなものが多いんだが、併しこの辺もこの頃大変人が出るようになったよ。去年あたりから縁日の晩には車止めにもなるといった風でね」と私がいった。
「第二の神楽坂が出来るわけかね」
「アッハヽヽ前途遼遠りょうえん)だね。電車が通るようにでもなったら、また幾らか開けても来ようけれど何しろまだ全くの田舎で、ちょっとしたうまいコーヒー一杯飲ませる家がないんだ」
「ここへ電車が敷けるのか?」
「そんな話なんだがね、音羽おとわ護国寺前から江戸川を渡って真直に矢来の交番下まで来る電車が更に榎町から弁天町を抜けて、ここからずっと四谷の塩町とかへ連絡(れんらく)する予定になっているそうだ」
「そしたら便利になるね」
「だが、それは何時のことだかね。何でも震災後復興事業や何かのために中止になったとかいう話もあるんだよ」

柳町 やなぎちょう。南北に外苑東通り、東西に大久保通りがあり、ここ市谷柳町で交差しています。
車止め くるまどめ。停止すべき位置を越えて走行してきた自動車や鉄道を強制的に停止させるための構造物
前途遼遠 ぜんとりょうえん。目的達成までの道のりや時間がまだ長く残っている。今後の道のりがまだ遠くて困難。「途」は道のり。「遼遠」ははるかに遠い。「遼」は道が延々と長く続いているという意味です。
音羽 おとわ。これは音羽町という地名。最南端は神田川、以前の江戸川に接しています。
護国寺前 ごこくじまえ。「護国寺前」は交差点の名称で、東西に向かう不忍通りと、南に向かう音羽通りの交差点です。
江戸川 神田川の中流域で、「江戸川」というのは都電荒川線早稲田停留場付近から飯田橋駅付近までの約2.1㎞の区間を指しました。
矢来の交番 矢来の交番は現在、正しくは矢来町地域安全センターといいます。ここに3つの通りが交差点「牛込天神町」に集まっています。北から来る道路は江戸川橋通り、東から来る道路は神楽坂通り、西から来る道路は早稲田通りです。

榎町 えのきちょう。町の名称。ここで、交差点「牛込天神町」から交差点「弁天町」(早稲田通りと外苑東通りとが交わる)に至るまでが早稲田通りです。
弁天町 早稲田通りから交差点「弁天町」を左に曲がって、外苑東通りに入ると、弁天町になります。さらに南に行くと、交差点「市谷柳町」です。
塩町 しおちょう。「外苑東通り」の「合羽坂」で左に曲がり、「靖国通り」を東に行き、交差点「市谷本村町」で右に曲がり、「外堀通り」にはいるとそこは塩町。現在は「本塩町(ほんしおちょう)」になります。あと少し行けばJRの「四ツ谷駅」です。音羽4
① 護国寺前
ここがスタート

② この辺りが音羽

③ 江戸川
昔、神田川の中流を江戸川と呼びました

矢来交番

矢来の交番

④ 矢来の交番はここ  →
⑤ この辺りが榎町。ここを通って…
⑥ 早稲田通りから交差点「弁天町」にはいり、向きを左(下)に変え、外苑東通りに行き…

⑦ 交差点「市谷柳町」を通り…

⑧「外苑東通り」の交差点「合羽坂」で左に曲がり、

⑨ 交差点「市谷本村町」で右に曲がり、
⑩「外堀通り」にはいると塩町に。現在は「本塩町」。あと少し行けばJRの「四ツ谷駅」になります。