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牛込から早稲田へ

文学と神楽坂

 サトウハチロー氏が書いた『僕の東京地図』(春陽堂文庫出版、昭和15年。再版はネット武蔵野、平成17年)の「牛込から早稲田へ」です。生年は1903年(明治36年)5月23日。没年は1973年(昭和48年)11月13日。享年は71歳でした。

牛込から早稲田へ
 お堀のほうから夜になって坂をのぼるとする。左側に屋台で熊公くまこうというのが出ている。おこのみやきの鉄砲巻の兄貴みたいなものを売っているのだ。一本五銭だ。長さがすん、厚さが一寸、幅が二寸はたッぷりある。熊が二匹同じポーズで踊っているのが、お菓子の皮にやきついてうまい。あんこの加減がいゝ。誰が見たツて、十銭だ。
 白木屋はその昔の牛込会館のあとだ。地震後に、こゝで水谷みずたに八重子やえこが芝居をやったところだ。その先に木村屋がある。木村屋といえばパン屋だ。東京中に、この屋号のうちは何軒となくあるが、みんな銀座の店とは関係がない、こゝはそうではない。それが証拠には、GINZA DOTENとローマ字で書いてある。もう少し行く。左へ這入はいると寄席よせだ。僕が小さい時に、この寄席の突きあたりに青洋軒なるトツクニのタベモノをヒサグ店ありて、ことにオムレツなどのうまかッたことをいまでもおぼえている。この間通って、のぞいてみたら、そんなうちは影も形もなくなって、オムレツの代わりに女の子のお尻が、横丁へゆれてゆくのが見えた。
六寸一寸二寸 一寸は約3.03cm、二寸は約6cm、六寸は約18cm
GINZA DOTEN 英語は正しいですが、銀座のDotenは不明。「同店」か?
トツクニ 外つ国。外国。異国。「つ」は「の」の意の格助詞
ヒサグ 鬻ぐ。販ぐ。売る。商いをする。

待ってくれ、牛込で僕の好きなものはまだある。新小川町しんおがわまち花屋だ。新小川町なんていうより大曲おおまがりの方が早わかりだ。横浜植木会社の東京売店だ。こゝにスガヤ、、、君なる揚げ、、まん、、じゅう、、、みたいな青年がいる。僕は、花を買う時は、どんな時でも、こゝまで行って買う。スガヤ君のくれる花を持って行って恋人に、つれなくされたことはない。
 大曲へ来てしまったか! 電車でんしゃみちを早稲田へ行く。石切いしきりばし。――向こう側に橋本という鰻屋、こいつは有名すぎるほど有名だ。その隣の丸屋まるやのそば、こいつも有名だ。この二軒は小石こいしかわに属するが、ついでだからこゝに書いておく。左側が改代かいだいちょう。講談本だとムッシュウ・クラヤミのウシマツが住んでいたところだ。こゝにフタバヤというエプロン屋がある。これが大変だ、と言ったら諸君はおどろくだろう。だが、この家を大変だと感ずるのは僕ばかりだ、このフタバヤは僕の家の家主なのである。なアーンだ。
花屋 横浜植木は現在も神奈川県横浜市で営業中。1890年(明治23年)鈴木卯兵衛を代表者として「有限責任横浜植木商会」を創業。1913年(大正2年)4月、東京市牛込区新小川町に東京売店を開設。
電車道 路面電車が敷設してある道路。電車通り。ここは現在は目白通り。
橋本 文京区水道2-5-7にある鰻の「はし本」。創業は天保6年(1835年)。
丸屋 現在不明。
小石川 旧小石川区のこと。昭和22年以降は本郷区と合併し、文京区に。
ムッシュウ・クラヤミのウシマツ 暗闇の丑松。戯曲。昭和九年(1924)、六世尾上菊五郎が初演。一時の激情から殺人を犯した料理人丑松は、愛妻お米を親方四郎兵衛にあずけて江戸を立退いた。一年たって戻るときに、丑松は女郎になったお米に再会。四郎兵衛に騙され売り飛ばされたと事情を聞いても信じられず、激怒。お米が首を吊って死んだ後になって、やっと真実を理解した丑松は、非道に気づき、江戸へ帰るや四郎兵衛夫妻を殺し、何処ともなくのがれて行く。

牛込の文士達⑥|神垣とり子

 秋田雨雀水谷竹紫小寺融吉――画家の小寺健吉の弟――も神楽坂組だった。小寺の一番末の弟が中村伸郎となった。小寺一家は伊藤熹朔一族と同じくみんなそれぞれの道に進んだ幸福な者たちで融吉の妹も歌人の山田邦子の弟と一緒になった。
 その妹は女子大生の頃よく神楽坂へきたものだ。小寺融吉は森律子に「真聞の手古奈」を書いて帝劇に上演して名が出ると鶴見の花月園で子供芝居をして朝日新聞が後援した。可愛いい女の児をつれて神楽坂へお茶を飲みにつれ歩いていた。その中に水谷八重子の従妹の水の座清美瀬川京子飯島綾子菊沖みえ子が小学二年三年のおかっぱ姿で融吉について町をさわいで泳いでいた。

小寺融吉 民俗芸能・舞踊研究家。早稲田大学英文科卒業。歌舞伎舞踊と民俗芸能の研究に専念し、大正11年「近代舞踊史論」を刊行。昭和2年、折口信夫、柳田国男らと民俗芸術の会を結成し、昭和3年、雑誌「民俗芸術」を創刊。生年は明治28年12月8日、没年は昭和20年3月29日。享年は満51歳。
小寺健吉 洋画家。文展入選。大正12年と昭和2年に各々一年余り渡仏。昭和3年「南欧のある日」で帝展特選。風景画が多く、温和で穏やかな作風を示した。生年は明治20年1月8日。没年は昭和52年9月20日。享年は満90歳。
中村伸郎 俳優。岸田国士、久保田万太郎、三島由紀夫、別役実ら劇作家の作品に多く出演。生年は明治41年9月14日。没年は平成3年7月5日、享年は満82歳
伊藤熹朔 いとうきさく。舞台装置家。東京美術学校洋画科卒業。築地小劇場公演『ジュリアス・シーザー』の装置でデビュー以来、日本における舞台装置の先駆者として、新劇、歌舞伎、新派、舞踊、オペラなど、手がけた装置は4000点にのぼる。生年は明治32年8月1日。没年は昭和42年3月31日、享年は満67歳
山田邦子 閨秀歌人。旧姓が山田、結婚後は今井邦子。明治42年、文学を志して上京。「アララギ」の同人だが、島木赤彦が死亡後『明日香』を主宰。生年は明治23年5月31日、没年は昭和237月15日。享年は満58歳
森律子 帝劇女優。第一期生。喜劇女優として人気があった。生年は明治23年10月30日、没年は明治23年10月30日。享年は満70歳。
真聞の手古奈 ままのてこな。真聞は千葉県市川市の町名で一丁目から五丁目まで。手古奈は万葉集に歌われた美女で、多くの男性に慕われても、寄り添うことはなく、真間の入り江に身を投げたという。
鶴見の花月園 神奈川県横浜市鶴見区にあった遊園地、開園は大正3年。動物園、噴水、花壇、ブランコ、「大山すべり」や「豆汽車」などのアトラクションの施設があった。閉園は昭和21年。
水の座清美 みずのやきよみ。女優。宝塚音楽歌劇学校を経て、昭和30年、東宝に入社。喜劇映画を中心に脇役として活躍した。叔母に初代水谷八重子。生年は大正5年8月18日、没年は不詳。
瀬川京子 飯島綾子 菊沖みえ子 3人とも不明

 世田谷から秋庭俊彦が女房をつれてきて暗い世田谷へなかなか帰りたがらなかったので横寺町へとめた。チェホフの話、モスコウの芸術座緞帳の「かもめ」の図案を表紙にして「奇蹟」が誕生した話をしてくれた。秋庭俊彦は品川東海寺で大きくなったとか、旧姓中山孝明天皇を暗殺した一味のつながりで東海寺へ預けられたそうな、俊彦をみんなが俊彦坊主(しゅんげんぼうず)などといっていたのはその為だ。
 福永渙太子堂あたりにいて時たま神楽坂へきて、にぎりなどに舌鼓をうっていた。道玄坂宮益坂も淋しくて神泉弘法湯があって飲み屋がわずかにあるだけだし、新宿も宿場の名残りで、何といっても神楽坂の比では無かった。かといって銀座は普段着ではいかれないし、店だってー流の店ばかりで裏通りにも有名な袋物屋や菓子やばかりなので山の手の野暮には縁遠く、広津が「ウーロン茶」にこって通いつめたりしたのは異例だった。


モスコウの芸術座 モスクワ芸術座。Московский Художественный Академический Театр。モスクワの劇場,劇団名。 1898年スタニスラフスキーらが創設。リアリズム演劇を確立し、世界の演劇界に多大な影響を与えた。
緞帳 どんちょう。厚地の織物でつくった模様入りの布。劇場の舞台と観客席とを仕切る垂れ幕。
奇蹟 同人雑誌。1912年9月から13年5月の9冊。早稲田大学文科出身の舟木重雄、広津和郎、谷崎精二、光田穆、葛西善蔵(聴講生)、相馬泰三らが創った。自然主義の影響を強く受けた。
品川東海寺 とうかいじ。品川区北品川三丁目にある臨済宗大徳寺派の寺院
旧姓中山 明治天皇の生母は中山慶子氏だった。
孝明天皇 明治天皇の父。天然痘患者として死亡したが、毒殺説もある。生年は1831年7月22日(天保2年6月14日)、没年は1867年1月30日(慶応2年12月25日)。享年は満35歳。
福永渙 フクナガキヨシ。詩人、翻訳家、小説家。二六新報、万朝報に入社し、日本女子高等学院などで教職に就いた。明治45年。詩集「習作」、大正9年、小説集「夜の海」を刊行。翻訳にもデュマの「椿姫」など多数ある。
太子堂 東京都世田谷区の地名。東急電鉄の三軒茶屋駅、西太子堂駅がある。
道玄坂 渋谷駅ハチ公口前から目黒方面に南西に上がる坂道
宮益坂 渋谷駅から青山通り(国道246号)に東に上がる坂道神泉 京王井の頭線沿線の駅
弘法湯 京王井の頭線・神泉駅の南にあった「弘法湯」。1979年まで営業し、現在は「アレトゥーサ渋谷」ビル。
ウーロン茶 ウーロン茶を飲ませる喫茶店として一般的には、明治38年頃、尾張町二丁目(現、銀座五~六丁目)に開店した「台湾喫茶店」ですが、はたして広津和郎を本当に虜にしたのか不明です。

 実業の世界をやってる野依秀市が「女の世界」というのをやっていて、そこの記者に芳川と井上というのがいていろいろゴシップを書いていた。宮地嘉六が自称アメリカ伯の山崎今朝也とやって来た。宮地嘉六がお祝のハガキをくれたが何も知らない男で終りに御丁寧にも鶴亀・鶴亀と重ね文句が書いてあった。鶴と亀をお目出たいと思ったらしいが世間並では悪い時取り消しにつかうものだ。「婦人公論」の波多野秋子が独身者みたいな顔をして作家に原稿を書かせるのも有名だった。「読売」の平井ます子、「」の真壁光子、「婦女界」の太田菊子も10人並の器量だった。中央公論から嶋中雄作が原稿をとりにきて、その頃にしては珍らしく赤いネクタイをしていたのが神楽坂へお茶をのみにいっても目立った。袴をはいた半沢三郎が嶋中雄作の代りにきて神妙に座っていたが、これが諏訪三郎になった。淑女画報から佐藤鐘一が写真を集めにやってきたりした。

実業の世界 野依秀市は石山賢吉と「三田商業界」を創刊、明治41年「実業之世界」と改称、さらに「実業の世界」と改称し、昭和60年まで出版した。
野依秀市 のよりひでいち。ジャーナリスト、政治家。慶応義塾商業在学中に石山賢吉と「三田商業界」を創刊、明治41年「実業之世界」と改称して社長に。「右翼ジャーナリスト」といわれた。浄土真宗に帰依して「真宗の世界」などを刊行。昭和7年、自民党の衆議院議員。生年は明治18年7月19日、没年は昭和43年3月31日。享年は満82歳。
女の世界 大正4年に発行。それ以外は不明。
宮地嘉六 みやちかろく。小説家。小学校中退後、労働運動に目ざめ、文学を志して上京。9年日本社会主義同盟に参加。労働文学者として活躍した。生年は明治17年6月11日、没年は昭和33年4月10日。享年は満74歳。
山崎今朝也 正しくは山崎今朝弥(けさや)。弁護士、社会主義者。1900年、明治法律学校を卒業し,03年、渡米。社会主義運動に関係し、労働争議や借家争議などの裁判事件の弁護をした。戦後は松川事件、三鷹事件の弁護人として活躍。生年は明治10年9月15日、没年は昭和29年7月29日。享年は満76歳。
鶴亀・鶴亀 不吉なことを見たり聞いたりしたときに縁起直しに言う語。
婦人公論 創刊は大正5年。女性たちに身近で切実なテーマに扱っている。
波多野秋子 中央公論社の『婦人公論』記者。有島武郎の愛人で、軽井沢の別荘で心中した。生年は1894年、没年は1923年6月9日。
読売 読売新聞
平井ます子 不明
 都新聞。創刊は明治17年「今日新聞」。明治21年の「みやこ新聞」から明治22年、「都新聞」に改称。昭和17年、國民新聞と合併し「東京新聞」に
真壁光子 日本女子大中退。大正14年、入社し、家庭面を手伝った。なお、磯村春子のほうが有名
婦女界 明治43年、同文館が創刊、大正2年からは婦女界社が編集発行。昭和18年、発行を停止。
太田菊子 女性の「婦女界」編集長。この時代、女性の編集長は非常に珍しかった。
中央公論 明治20年、『反省会雑誌』として創刊。明治32年に『中央公論』と改称。
嶋中雄作 出版者・編集者。中央公論社社長。生年は明治20年2月2日、没年は昭和24年1月17日。享年は満63歳。
半沢三郎 諏訪三郎 筆名は諏訪三郎。本名は半沢成二。小説家。「中央公論」の記者。大正13年「応援隊」で文壇に登場。川端康成らの「文芸時代」の同人。婦人小説や通俗小説で活躍。生年は明治29年12月3日、没年は昭和49年6月14日。享年は満77歳。
淑女画報 博文館が大正元年に創刊。大正12年に廃止。
佐藤鐘一 不明。須藤鐘一では? 須藤氏は小説家で、博文館の「淑女画報」の編集主任が長い。大正7年「白鼠を飼ふ」で文壇に。生年は明治19年2月1日、没年は昭和31年3月9日。享年は満70歳。

 武林夢想庵と渡仏を前提として結婚したという婦人記者中平文子が、年増の化粧のもの凄さでのして歩いていたのには呆れた。歌舞伎新報から山本紫房という年若い記者がきていろいろ話の結果市川松蔦の従弟で母親同志が姉妹で、大久保の家を帝大の異人さんに貸して本町入江町へ越したが、その異人さんがラフカデオファーン小泉八雲で驚いたといっていた。

武林夢想庵 たけばやし むそうあん。小説家、翻訳家。ドーデの翻訳を通じて大正ダダイズムの先駆けとなる。大正9年、中平文子と結婚し渡仏、以後離婚にいたる放浪生活を「性慾の触手」「飢渇信」などに描く。戦後は共産党に入党。生年は明治13年2月23日、没年は昭和37年3月27日。享年は満82歳
中平文子 大正9年、武林無想庵と結婚、パリにわたる。昭和9年、離婚し、10年、ベルギー在住の貿易商宮田耕三と契約結婚。戦後は自伝や旅行記を執筆。生年は明治21年7月21日、没年は昭和41年6月25日。享年は満77歳。
歌舞伎新報 演劇雑誌。明治12年2月創刊,通巻1669号を数えて平成9年3月に廃刊。
山本紫房 不明
市川松蔦 しょうちょう。歌舞伎俳優。明治29年、初代市川左団次の門弟となり、明治45年、2代目市川松蔦を襲名。2代目左団次の妹と結婚。立女形が得意で、女形より一層女性に近い演技を工夫した。生年は明治19年9月23日、没年は昭和15年8月19日。
本町 渋谷区、中野区、さらに本町はまだあるという。
入江町 墨田区の本所・入江町では?
ラフカデオファーン 小泉八雲 パトリック・ラフカディオ・ハーン (Patrick Lafcadio Hearn)。作家、文芸評論家、英語教師。国籍はイギリス。英国陸軍軍医の父親とシチリア島生まれの娘との間に生まれ、幼い頃、父親の生家アイルランドのダブリンに移った。1869年渡米し、新聞記者に。1876年、ニューオーリンズに移住。1890年、通信員として来日。1896年、日本に帰化し、小泉八雲と改名。生年は1850年6月27日、没年は1904年9月26日。享年は満54歳

牛込の文士達⑤|神垣とり子

 くろご朗読会というのがあって芝居好きの二十前後の若者たちがより集ってお互いに役割をきめてやる。発起者は築地六芳館の甥で中川某、「修善寺物語」の姉娘など寿美蔵ばりでよかった。うづまき石鹸の本舗の主人が森ほのほという劇評家なのでよくきていて若いくろご朗読会のめんどうを見ていた。口の大きい福地もよくやってきた。
 芝居の総見もやった。泰三は芝居にあんまり興味がなかったが若い連中とよくつきあった。それに大正日日という新聞社へ里見弾と一緒に入社したので「御社(おしゃ)」といわれる芝居の二日目に芝居へ出かけ、新聞に劇評をかくので役にたった。もっとも「新演芸」の内山佐平に、「御所の五郎蔵」の落入り胡弓がはいるのをヴァイリンかといって笑われたぐらいだけど。
くろご朗読会 ラジオの脚本朗読に加わった団体のひとつだ、と遠藤滋氏の「かたりべ日本史」(雄山閣、昭和50年)
築地六芳館 「憲政本党党報」第3巻749頁では「12月22日出京、京橋区築地六方館に投宿」と書いてあります。旅館でしょうか。
寿美蔵 市川寿美蔵(すみぞう)。上方の歌舞伎役者。
修善寺物語 戯曲、歌舞伎作品。一幕三場。岡本綺堂作。面作りにかける夜叉王の職人気質や頼家暗殺のドラマなどを織り込み、舞台は大評判に。
姉娘 年上の娘
うづまき石鹸 「日本橋街並み繁昌史」262頁によれば、日本橋横山町二丁目の近江屋天野磯五郎店が石鹸「ウヅマキ」を販売したようですが、石鹸を生産したのかは不明です。
森ほのほ 京都の劇評家、狂言批評家。
福地 不明ですが、新聞記者、政治家、劇作家の福地源一郎氏では? 歌舞伎座を建設するのですが、生年は天保12年3月23日(1841年5月13日)、没年は明治39年1月4日と、少し早く死亡しています。
総見 そうけん。総見物の略。全員で見物すること。芝居・相撲などの興行を支援するため、団体などの全員が見物すること。
大正日日 1919年11月、大阪で創刊した日刊新聞。大阪の商人の勝本忠兵衛が破格の資本金200万円で創設。先発の大阪毎日新聞、大阪朝日新聞から仇敵視され、妨害を受け、翌20年7月、大本おおもと教に買収。
御社 御社日。おしゃび。演劇・興業の世界では、演劇関係者や記者の公演招待日
新演芸 大正5年~14年、出版社の玄文社が「新演芸」誌を作り、毎月、東京の各劇場を総見して批評した演劇合評会が有名だった。
内山佐平 大正5年~14年、出版社の玄文社の社員。その後、JOAK(現、東京放送局NHK)に移ってラジオ番組を制作した。
御所の五郎蔵 歌舞伎狂言「曽我そが綉侠もようたてしの御所染ごしょぞめ」の後半部分の通称
落入り おちいり。歌舞伎で、息の絶えるさまをする演技
胡弓 こきゅう。東洋の弦楽器。形は三味線に似て小形。弦は三本か四本。馬の尾の毛を張った弓でこすって演奏する。
ヴァイリン バイオリン。管弦楽や室内楽において中心的役割を果たす擦弦さつげん楽器。おそらく泰三が胡弓を間違えてバイオリンといったのでしょう。

 「生きている小平次」の作者鈴木泉三郎第一書房長谷川巳之吉玄文社のお歴々が神楽坂へよくやって来た。鈴木泉三郎は四谷銀行の行員の伜で、大番町の水車のある川岸に家があって山形屋小間物店の娘を嫁にもらってちょっと評判になった。「八幡やの娘」や「美しき白痴の死」を書いたが若死にをして惜しかった。
 坂本紅連洞という名物男がいた。長い黒いマント姿で、顔が長く文士の誰彼をつかまえて、やい1円出せ。税金取り立てよりこわいらしく誰でも出す。いやだという者は1人もいないのが不思議だ。島村抱月もとられた一人だった。『ヤイ島村』と呼びつけられても怒らなかったそうだ。何の会でも木戸御免でまかり通っていた。谷垣精二の近くの弁天町に独身で間借りしていた。どういう風の吹きまわしか私は気に入られていた。グレゴリー夫人作の「月の出」が有楽座にかかった時入場券をくれたり、トルストイの「闇の力」の入場券をくれた。
生きている小平次 鈴木泉三郎作の戯曲。三幕。大正13年『演劇新潮』に発表。大正14年6月新橋演舞場で、六世尾上菊五郎などで初演。内容は、歌舞伎囃方の太九郎は役者の小幡小平次から妻をほしいといわれ、舟の外に突き落としてしまう。10日後、役者の小平次は妻の前に現れたが、太九郎が現れ、役者を殺してしまう。太九郎と妻は江戸を逃げ出すが、小平次のような旅人がついていく。ここで終わり。
鈴木泉三郎 すずきせんざぶろう。「新演芸」を編集し、戯曲「八幡屋の娘」「ラシャメンの父」「美しき白痴の死」などを執筆。12年2月6代目尾上菊五郎が「次郎吉懺悔」を上演し好評だった。玄文社の解散にともない、以後文筆生活に入る。絶筆の「生きてゐる小平次」は代表作。生年は明治26年5月10日。没年は大正13年10月6日。享年は満32歳。
第一書房 1923年、創業。1944年3月、廃業。絢爛とした造本の豪華本を刊行
長谷川巳之吉 はせがわみのきち。雑誌・書籍編集者。「玄文社」に入社、『新演芸』などを編集した。生年は明治26年12月28日、没年は昭和48年10月11日、享年は満79歳
玄文社 大正5年~大正14年、東京の出版社。単行本の他、月刊雑誌『新家庭』『新演芸』『花形』『詩聖』『劇と評論』も発行。
四谷銀行 明治30年10月、東京市四谷区伝馬町(現在の東京都新宿区四谷)に設立。大正11年11月、京都市の日本積善銀行の取り付け騒ぎが始まり、本行も休業し、このまま整理中。最終的に昭和2年に廃業した。
大番町 四谷大番町。現、新宿区大京町。
山形屋小間物店 山形屋は宝暦元年(1751年)に創業した鹿児島の百貨店?
八幡やの娘美しき白痴の死 国会図書館で鈴木泉三郎戯曲全集を無料閲覧中
木戸御免 きどごめん。相撲や芝居などの興行場に、木戸銭なしで自由に出入りできること。
グレゴリー夫人 アイルランドの劇作家・詩人。Isabella Augusta Gregory。アベー座を開場し、アイルランド伝説の収集に努力し、そこに基づいた戯曲を書いた。一幕物「月の出」は1907初演。生年は1852年3月15日、没年は1932年5月22日。

 花柳はるみ中野秀人と神楽坂を歩いていたり、長田幹彦の兄の秀雄が新婚の細君と仲よく田原やへ姿を現わしていた。神楽坂の中途にある牛込会館汐見洋金平軍之助八重子を座長にして芸術座を起したので、俳優達も街を賑わしていた。ダルクローズの体育学校を出てきた山田五郎の弟子がステッキを妙な風について得意がって歩いていた。
 近代劇場というのが出来て、「時事」美川徳之助――美川きよの実兄――が「リリオム」で舞台にたって浅野慎次郎田中筆子が参加した。田中筆子は沢田正二郎東京明治座で旗上げした時に初舞台をした気のきく子役で、その時これもやっぱり早稲田の学生で、俳優になって島村抱月を崇拝し教授の片上伸の名をとって月村伸と名乗った男と出演した。
花柳はるみ 女優。大正4年、芸術座の「その前夜」で初舞台。7年、帰山教正のりまさ監督の「生の輝き」に主演し、日本映画の女優第1号となる。35歳で引退。生年は明治29年2月24日、没年は昭和37年10月11日。享年は満66歳。
中野秀人 なかのひでと。詩人、画家。大正9年、プロレタリア文学評論「第四階級の文学」を発表。昭和15年、花田清輝きよてるらと「文化組織」を創刊。戦後も前衛的な創作活動をつづけた。詩集は「聖歌隊」、小説は「精霊の家」など。生年は明治31年5月17日。没年は昭和41年5月13日。享年は満67歳。
金平軍之助 映画の出演、製作を行った。出生地は東京市本郷。生年は明治38年年5月7日
芸術座 大正2年、島村抱月氏と松井須磨子氏を中心に東京で結成した新劇の劇団。抱月・須磨子の急死で、大正8年、解散。大正13年、水谷竹紫氏が義妹水谷八重子氏を中心に再興。昭和20年、竹紫の死で自然解消。
ダルクローズ スイスの音楽教育者、作曲家。リズムと身体運動を結びつけた教育方法リトミックを創始。世界の幼児教育に多大な影響を与えた。
山田五郎 昭和の舞踊家。能楽に学び、大正15年、米国で舞踊家となり、パリのオデオン座に出演。昭和3年帰国し、能をとりいれた「猩々」などを演じた。生年は明治40年1月22日、没年は昭和43年12月21日。享年は満61歳。
得意がる 盛んに得意な様子をする。誇らしげにふるまう。
近代劇場 どうも「近代劇場」という劇場が実際にあったようです。1926年にこの劇場で「リリオム」が初演されています。
「時事」 時事新報です。美川徳之助氏は時事新報の記者でした。
美川徳之助 随筆家。大丸に務めていた父の命でロンドン1年間、パリ5年間の遊興生活。帰国後、時事新報5年間、読売新聞27年間勤め企画部長で退職。「愉しわがパリ―モンマルトル夜話」「パリの穴東京の穴」など。生年は明治31年。(村上紀史郎「バロン・サツマ」と呼ばれた男。藤原書店。2009年)
美川きよ 小説家。大正15年「三田文学」に「デリケート時代」を発表。昭和5年以降こまやかな女性心理をえがく短編を手がける。長編小説「女流作家」「夜のノートルダム」など。生年は明治33年9月28日。没年は昭和62年7月2日。享年は満86歳。
リリオム ハンガリーの作家モルナールの戯曲。7場。ブダペストの遊園地を背景に、気のいい乱暴者リリオムの生と死を、現実と空想の交り合った手法で描いた悲喜劇。
浅野慎次郎 俳優。第二次芸術座に参加。『ドモ又の死』など。
田中筆子 女優。大正2年、第二次芸術座の「青い鳥」に出演後、金平軍之助が主宰する近代劇場に参加し、脇役女優として活躍。生年は1913年3月16日、没年は1981年2月23日、享年は満67歳。
東京明治座 中央区日本橋浜町にある明治座です。都営新宿線の浜町駅、都営浅草線の人形町駅、日比谷線の人形町駅から行け、また、東京駅からは八重洲口の無料巡回バス「メトロリンク日本橋Eライン」を使っても行くことができます。
月村伸 俳優。松本克平氏の「日本新劇史」(津熊書房、1966)には島村抱月氏の告別式の写真が載っていますが、そのなかに若いころの氏の写真がありました。

寺内で会った人々|水野正雄

文学と神楽坂

 平松南氏が編集する「神楽坂まちの手帖」第5号(けやき舎、2004年)で、水野正雄氏は寺内で起きた喜怒哀楽(というと大げさだけど)を取り上げます。神楽坂はん子、柳町金語楼、若山富三郎と勝新太郎、花柳小菊、水谷八重子、泉鏡花などのオールドスターがでてきます。

「新宿・神楽坂暮らし80年」④
新宿郷土研究会会長 染め物洗張り「神楽坂 京屋」 水野 正雄
 歌手で有名な神楽坂はん子さん。はん子さんも芸者だったが、神楽坂5丁目読売新聞販売所があるでしょ、あの隣りがはん子さんの家でした。それが白銀町の私の家の隣りのお風呂屋に来るんですよ。私もその頃、お風呂屋に行ってましたけど。見はからって? いいや偶然(笑)。そうするとね、女湯の方で「あらこんにちは」なんて挨拶しているのが聞こえた。それがいい声でね。
 はん子さんの隣りが金語楼お妾さんの家で、今の読売新聞販売所の所です。金語楼の息子、山下敬二郎はあそこで生まれて、いっつも路地でくるくる回って遊んでいたの。金語楼の弟で昔々亭桃太郎(せきせきてい・ももたろう)というのが横寺に住んでましたが。金語楼も桃太郎も家のお客でしたが、勘定ぱらいが悪くてね。はん子さんは勘定ぱらいはよかったですよぉ。それから今の高層マンションの中央あたりに、杵屋勝東治っていう長唄のお師匠さんが住んでいて、そのお妾の子が若山富三郎勝新の兄弟。彼らが20代早々のときに3年ほど神楽坂に住んでいた。出口の床屋(お風呂屋へ抜ける道の大久保通りのところにあった床屋)で何回か会ったことがあるんだが、勝新太郎は生意気なことばかりいっていたよ。映画界に入る前で、なんだかアメリカへ行ってきたらしく、そのことを鼻高々で話していた。
 それから花柳小菊さんも、毘沙門さまの地蔵坂から入ったところに住んでいました。小菊さんも芸者で。はん子さん、小菊さん、水谷八重子、鏡花の嫁さんの桃太郎さんもみんな家のお客さんです。水谷八重子は守田勘弥お妾さんだが、6丁目の横寺のちょっと手前に金物を売っている家があるでしよ、そこは墓場なんですけど、そこに「蒲(かば)」つていう医者の家があって、その隣りが先代の水谷八重子の家でした。兄貴の竹紫っていうのと住んでいたの。神楽坂にはずいぶん、お妾さんが住んでいたんだね。
 鎗花のおかみさんの桃太郎さんは、親父の話ではちょっときつい顔をしていたから、あんまり売れっ子じゃなくて。それで鏡花とお座敷で同席して仲良くなったっていうんだね。


読売新聞販売所 現在はなくなった販売所ですが、1990年には道路の一番左側から3番目にありました。1963年ではやはり左側から3番目に山下氏があり、ちなみに、その2番目は「〇〇〇焼」でした。1960年では、三幸、お好焼き、山下、安井と並んでいます。1952年も左側から3番目は料理・山下でした。

1990年と1963年。住宅地図。

1960年。住宅地図。

都市製図社『火災保険特殊地図』 昭和27年

あの隣り 1960年、山下氏の一方の隣りはお好焼き。したがって反対側の安井氏の家の方でしょう。
お風呂屋 1960年には熊乃湯でした。
お妾さん 実際の愛人。愛人の子として山下敬二郎氏がいる。

都市製図社『火災保険特殊地図』 昭和27年

 ここで新宿区が編集した「新宿時物語」(星雲社、2007年)の「神楽坂の料亭街」を簡単に見ておきます。地元の人は神楽坂5丁目の一部だといっていて、私もそうだと思っています。
 赤丸はカメラの本体、赤い線はその画角です。
 なお、新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13792でも全く同じ写真です。

新宿時物語

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13792 神楽坂付近か

 ここで➃は「料理 山下」で、柳家金語楼のお妾さんの家、後に読売新聞販売所になり、大久保通り拡幅工事のため、市谷柳町の牛込神楽坂読売センターと統合し移転し、現在はLe petit Bistro RACLER(ル・プティ・ビストロ・ラクレ)になりました。➂は民家で、一時は神楽坂はん子の家になり、現在はなくなり、普通の道路になりました。➀は「芸妓 分まん」、➁は「法律OF 野町」で、➀➁ともに神楽坂アインスタワーになり、➄は「芸妓 富沢」、現在神楽坂茶寮本店です。

山下敬二郎 ロカビリー歌手。ポール・アンカの「ダイアナ」の日本語カバーで有名。生年は1939年2月22日。没年は2011年1月5日。享年は満72歳。
昔々亭桃太郎 落語家。柳家金語楼の弟。生年は1910年1月2日。没年は1970年11月5日。享年は満60歳
高層マンション 神楽坂アインスタワーです。
杵屋勝東治 きねや かつとうじ。長唄三味線方。生年は1909年10月16日。没年は1996年2月23日。
お妾 実は正式な妻。
若山富三郎 わかやま とみさぶろう。俳優。本名は奥村勝。生年は1929年9月1日、没年は1992年4月2日。
勝新 勝 新太郎。かつ しんたろう。俳優。若山富三郎の弟。本名は奥村利夫。生年は1931年(昭和6年)11月29日、没年は1997年(平成9年)6月21日。
床屋 1952年の地図で、赤い四角の「トコヤ」
花柳小菊 神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第2集「肴町よもやま話②」(2008年)では

馬場さん 塀じゃなくてさ。壁が。「三笠屋」側は波板が貼って鳴らしながら通ったんだよ。子どもんときに。
相川さん ちょっと記憶がないな。その後ろに小菊さんがいたんだよ。花柳小菊さん。三笠屋の真後ろ。私んところの玄関の前に小菊さんがいた。


三笠屋は現在の手打ちそば「山せみ」なので、「三笠屋の真後ろ」は4枚目ほど前の図になるのでしょうか。
アメリカへ行く 1954年、23歳で、アメリカの巡業を行った。映画の撮影所で俳優ジェームス・ディーンに出会い、感化されて映画俳優になることを決意する。
守田勘弥 もりた かんや。歌舞伎役者。昭和10年、14代勘弥を襲名。江戸前の二枚目を得意とした。初代水谷八重子と結婚。実子に水谷良重。生年は明治40年3月8日、没年は昭和50年3月28日。享年は満68歳。
お妾さん 水谷八重子氏は「お妾さん」ではなく、正式に妻でした。
水谷八重子の家 ブログによれば、通寺町61でした。

(昭和12年)火災保険特殊地図




松葉ぼたん|水谷八重子

文学と神楽坂

 水谷八重子氏は明治38年8月1日に神楽坂で生まれました。この文章は氏の『松葉ぼたん』(鶴書房、昭和41年)から取ったものです。
 氏が5歳(昭和43年)のとき、父は死亡し、母は、長女と一緒に住むことになりました。長女は既に劇作家・演出家の水谷竹紫氏と結婚しています。つまり、竹紫氏は氏の義兄です。「区内に在住した文学者たち」の水谷竹紫の項では、大正2年(8歳)頃から4年頃までは矢来町17 、大正5年頃(11歳)は矢来町11、大正6年頃(12歳)~7年頃は早稲田鶴巻町211、大正12年(18歳)から大正15年頃は通寺町に住んでいました。氏が小学生だった時はこの矢来町に住んでいたのです。

神楽坂の思い出
 ――かにかくに渋民村は恋しかりおもひでの山おもひでの川――啄木の歌だが、私は東京牛込生まれの牛込育ち、ふるさとへの追慕は神楽坂界わいにつながる。思い出の坂、思い出の濠(ほり)に郷愁がわくのだ。先だっての晩も、おさげで日傘をさし、長い袖の衣物で舞扇を持ち、毘沙門様の裏手にある踊りのお師匠さんの所へ通う夢をみた。
 義兄竹紫(ちくし)の母校が早稲田だったからでもあろう。水谷の家矢来町横寺町と居をえても牛込を離れなかった。学び舎は郵便局の横を赤城神社の方ヘはいった赤城小学校……千田是也さんも同窓だったのだが、年配が違わないのに覚えていない。滝沢修さんから「私も赤城出ですよ」といわれた時は、懐かしくなった。

かにかくに あれこれと。何かにつけて。
渋民村 石川啄木の故郷。現在は岩手県盛岡市の一部。
追慕 ついぼ。死者や遠く離れて会えない人などをなつかしく思うこと。
郷愁 きょうしゅう。故郷を懐かしく思う気持ち。
おさげ 御下げ。少女の髪形。髪を左右に分けて編んで下げる。
舞扇 まいおうぎ。舞を舞うときに用いる扇。多くは、色彩の美しい大形の扇。
水谷の家 区編集の「区内に在住した文学者たち」では大正2年頃~4年頃まで矢来町17(左の赤い四角)、大正5年頃は矢来町11(中央の赤い多角形)、大正12頃~15年頃は通寺町61(右の赤い多角形)でした。
郵便局 青丸で書かれています。
赤城神社 緑の四角で。
赤城小学校 青の四角で。
千田是也 せんだこれや。演出家。俳優。1923年、築地小劇場の第1回研究生。44年、青山杉作らと俳優座を結成。戦後新劇のリーダーとして活躍。生年は明治37年7月15日。没年は平成6年12月21日。享年は満90歳。
滝沢修 たきざわおさむ。俳優、演出家。築地小劇場の第1回研究生。昭和25年、宇野重吉らと劇団民芸を結成。生年は明治39年11月13日、没年は平成12年6月22日。享年は満93歳。
 学校が終えると、矢来の家へ帰って着物をきかえ、肴(さかな)町から神楽坂へ出て、踊りのけいこへ……。お師匠さんは沢村流だった。藁店(わらだな)の『芸術俱楽部』が近いので松井須磨子さんもよくけいこに見えていた。それから私は坂を下り、『田原屋』のならび『赤瓢箪』(あかびょうたん・小料理屋)の横町を右に折れて、先々代富士田音蔵さんのお弟子さんのもとへ長唄の勉強に通うのが日課であった。神楽坂には本屋が多い。帰りは二、二軒寄っで立ち読みをする。あまり長く読みふけって追いたてられたことがある。その時は本気で、大きくなったら本屋の売り子になりたいと思った。乙女ごころはほほえましい。

沢村流 踊りの流派は現在200以上。「五大流派」は花柳流・藤間流・若柳流・西川流・坂東流。沢村流はその他の流派です。
田原屋 坂上にあった田原屋ではありません。戦前、神楽坂中腹にあった果実店です。右図では左から三番目の店舗です。現在は2店ともありません。
横町 おそらく神楽坂仲通りでしょう。
富士田音蔵 長唄唄方の名跡みょうせき。名跡とは代々継承される個人名。
長唄 三味線を伴奏楽器とする歌曲。
 藁店といえば、『芸術座』を連想する。島村抱月先生の『芸術倶楽部』はいまの『文学座』でアトリエ公演を特つけいこ場ぐらいの広さでばなかったろうか? そこで“闇の力”を上演したのは確か大正五年……小学生の私はアニュートカの役に借りられた。沢田正二郎さんの二キイタ、須磨子さんのアニィシャ。初日に楽屋で赤い鼻緒(はなお)のぞうりをはいて遊んでいたら、出(で)がきた。そのまま舞台へとびだして、はたと弱った。そっとぞうりを積みわらの陰にかくし、はだしになったが、あとで島村先生からほめられた記憶がある。

芸術座 新劇の劇団。大正2年、島村抱月・松井須磨子たちが結成。芸術座は藁店ではなく、横寺町にありました。
芸術倶楽部 東京牛込区横寺町にあった小劇場
アトリエ 画家、彫刻家、工芸家などの美術家の仕事場
鼻緒 下駄などの履物のひも(緒)で、足の指ではさむ部分。足にかけるひも
はたと弱った ロシアの少女が草履を履くのはおかしいでしょう。
 私の育った大正時代、神楽坂は山の手の盛り煬だった。『田原屋』の新鮮な果物、『紅屋』のお菓子と紅茶、『山本』のドーナッツ、それぞれ馴染みが深かった。『わかもの座』のころ私は双葉女学園に学ぶようになっていたが、麹町元園町の伴田邸が仲間の勉強室……友田恭助さんの兄さんのところへ集まっては野外劇、試演会のけいこをしたものである。帰路、外濠の土手へ出ては神楽坂をめざす。青山杉作先生も当時は矢来に住んでおられた。牛込見附の貸しボート……夏がくるたびに、あの葉桜を渡る緑の風を思い出す。
 関東大震災のあと、下町の大半が災火にあって、神楽坂が唯一の繁華境となった。早慶野球戦で早稲田が勝つと、応援団はきまってここへ流れたものである。稲門びいきの私たちは、先に球場をひきあげ、『紅屋』の二階に陣どる。旗をふりながらがいせんの人波に『都の西北』を歌ったのも、青春の一ページになるであろう。
 神楽坂の追憶が夏に結びつくのはどうしたわけだろう。やはり毘沙門様の縁日のせいだろうか? 風鈴屋の音色、走馬燈の影絵がいまだに私の目に残っている。
わかもの座 水谷八重子氏は民衆座『青い鳥』のチルチル役で注目され、共演した友田恭助と「わかもの座」を創立しました。
双葉女学園 現在の雙葉中学校・高等学校。設立母体は女子修道会「幼きイエス会」。住所は東京都千代田区六番町。
麹町元園町 現在の一番町・麹町1~4の一部。

麹町元園町

麹町元園町

友田恭助 新劇俳優。本名伴田五郎。大正8年、新劇協会で初舞台。翌年、水谷八重子らとわかもの座を創立。1924年、築地小劇場に創立同人。1932年、妻の田村秋子と築地座を創立。昭和12年、文学座の創立に加わったが、上海郊外で戦没。生年は明治32年10月30日、没年は昭和12年10月6日。享年は満39歳。
青山杉作 演出家、俳優。俳優座養成所所長。1920年(大正9年)、友田恭助、水谷八重子らが結成した「わかもの座」では演出家。
稲門 とうもん。早稲田大学卒業生の同窓会。


三百人の作家③|間宮茂輔

文学と神楽坂

 間宮茂輔氏の『三百人の作家』(五月書房、1959年)から「神楽坂生活序曲」です。

 そのいっぽう神楽館では、広津を中心に、片岡長田島田、わたしなどが一室に膳をならべて食事をとるような一種の共同生活がつづいていた。食事や雑談にはいろんな雑誌の編集者をはじめ、それぞれの友人たちが絶えずくわわった。たとえば片岡鉄兵のところへは横光川端なども訪ねて来たが、彼等の往来はのちに新感覚主義の運動が展開される土台づくりであったのかも知れない。
 当時の神楽坂はまだ旧東京のおちつきと、花柳界的な色彩とが、自然に溶け合い、一筋の坂みちながら独特の雰囲気があった。フルーツ・パーラーの田原屋や、坂下のコーヒー店に坐っていると、初々しいほど頬のあかい水谷八重子が兄夫婦に守られながら通って行く。初々しい八重子はせいぜい二十一か二であったろう。そうかとおもうと、新劇俳優の東屋三郎が歩いている。後に三宅艶子と結婚した画家の阿部金剛が、パラヒン・ノイズだとわたしたちが蔭で綽名をつけた愛人とならんで散歩している。同じく画家の上野山清貢が、水野仙子との仲に出来た赤ん坊を半纒ぐるみにおぶって通って行く。貧乏で、牛ばかり描いていたこの画家は、作家でもあった愛妻と死別したあとの哀しみを文字どおりの蓬頭垢面にかくしているようにみえた。(上野山かあのころおンぶしていた赤ん坊も、健在ならばすでに四十近いのではあるまいか)
 神楽坂はまた矢来の新潮社へいく道すじでもあって、「文士」の往来が絶えなかった。雑誌「新潮」の編集者として、「中央公論」の滝田檽蔭としばしばならび称された中村武羅夫や、同じく「新潮」の編集者であった水守亀之助‥‥一名「ドロ亀さん」などが、よく通った。容貌魁偉の中村武羅夫がわたしにはひどくこわいものにみえてならなかった。
 矢来に住んでいる谷崎精二が、夕方になると、細身のステッキを腕にひっかけて、そろりそろりと神楽坂に現われる。同じく矢来在住の加能作次郎もおじさん風の姿をみせた。佐々木茂索はその頃まだ時事新報の文芸部にいたが、これも矢来に住んでおり、渋い和服の着流しに、やはりステッキを持ち、草履ばきという粋なかっこうであさに晩に通って行く。色白なメガネの顔に短い囗ひげを立てた佐々木茂索には、神楽坂の芸者で血みちをあげているのがいた。
矢来に住んでいる 谷崎精二氏や加能作次郎氏、佐々木茂索氏は矢来町に住んでいたのでしょうか。現在、わかる限り、谷崎精二氏や加能作次郎氏は確かに矢来町の近傍に住んでいましたが、矢来町には住んでいないようです。浅見淵氏の『昭和文壇側面史』を読むと、佐々木茂索氏では若いときに「矢来町の洋館に住んでいた」と書かれていますが、ここも天神町でした。

長田重男 芸術社の幹部。鎌倉の旅館「海月」の息子。英語が巧く、久米正雄や里見弴を知っていた。
島田 芸術社の番頭。他は不明。
三宅艶子 小説家、評論家。三宅恒方の長女。画家阿部金剛と結婚、阿部艶子名で執筆し、離婚後は三宅姓。昭和33年随筆集「男性飼育法」を発表、ユニークなタイトルで女性の人気をよんだ。生年は大正元年11月23日、没年は平成6年1月17日。享年は満81歳。
阿部金剛 あべこんごう。洋画家。阿部浩の長男。岡田三郎助にまなぶ。フランスでビシエールに師事し、藤田嗣治らの影響をうける。以後、超現実主義的な作品を発表。生年は明治33年6月26日、没年は昭和43年11月20日。享年は68歳。
パラヒン・ノイズ パラヒンはParaffin。現在のパラフィン。蝋紙とも。パラフィン紙とは、紙にパラフィンを塗り、耐水性を付与した紙。甲高い声なのでしょうか。
新感覚主義 横光利一、川端康成、片岡鉄兵、中河与一、稲垣足穂らの、大正末~昭和初期の文学流派。自然主義リアリズムから解放し、新しい感覚と表現技法、翻訳小説と似た新奇な文体が特徴。
蓬頭垢面 ほうとうこうめん。乱れた髪とあかで汚れた顔。身だしなみに無頓着なこと。
 

私の東京地図|佐多稲子④

文学と神楽坂


 牛込見附の方へ降りかけの、助六という下駄屋で、姉妹が買物をしているのを見たことがある。お師匠さんが鼻緒を手にとっては、自分よりも背の高い君子に顔を仰向けてそれを見せ、また番頭に何か言い言いしている。君子はさすがに若い番頭の前なので、身体つきを甘ったれた風に(たな)にもたせかけていた。姉の背が(こぶ)を背負って自分よりも低いことなど意に介していない。不具の姉は、傍若無人に妹を甘えさせ、何かの喜びを感じている。

 坂の中途には、神楽坂倶楽部(くらぶ)などという貸席もあった。そのすぐ上てに、牛込会館という、あとでは白木屋が店を出した洋風の大きな建物があったが、ここで水谷八重子が翻訳劇をやったのもその頃である。「殴られる彼奴」の道化師には汐見洋(しおみよう)が、眼も埋まるほどまっ白に塗って、鼻の先と頬をまっ赤に紅で染めてピエロの服をきていた。八重子は獅子(しし)つかいの、傲慢(ごうまん)な娘に、そして東屋(あずまや)三郎座頭(ざがしら)で、派手な(しま)の服に長靴か何か履いていた。
 喫茶店の山本では、ドウナツが安くてうまい。今まで下町ばかりに住んでいた私は、山本で一杯のコーヒーをのむことに、幾分の文化の雰囲気を感じた。芳子は相変らずどこか冷めたく、上っつらな冗談ばかり言っている。屋敷町から神楽坂へ出るひっそりした坂道で朝毎に()う男が、喜劇俳優のバスター・キートンに似ているなどと言って、その男が曲り角から現われるのを見つけると、
「おッ、バスター・キートン!」
 と囁いて、言った自分はつんと澄ましている。
 その春、見合いをして決まった縁談に、私か(かた)づいていったのはこの杵屋与志次の家の、間借りの部屋からであった。次の年の正月に、私が夫の家を出て行方を知らせなかった時、この家へも搜索人が廻った。

姉妹 姉は三味線の師匠で杵屋与志次という女性、妹は君子さん。
お師匠さん 姉は三味線の師匠で杵屋与志次という女性
君子 妹の君子さん
貸席 料金を取って時間決めで貸す座敷やそれをする家。
芳子 丸善で同僚で、同じ杵屋与志次の家に間借りをしている女性。
バスター・キートン Buster Keaton。生年は1896年。没年は1966年。無声映画の米国の人気俳優。
杵屋与志次 長唄三味線のお師匠さん。名前は「きねやよしじ」と読むのでしょうか。
次の年の正月 大正13(1924)年末、佐多稲子氏は家出し、正月あけに帰りました。

神楽坂考|野口冨士男

文学と神楽坂

 野口冨士男氏の随筆集『断崖のはての空』の「神楽坂考」の一部です。
 林原耕三氏が書かれた『神楽坂今昔』の川鉄の場所について、困ったものだと書き、また、泉鏡花の住所、牛込会館、毘沙門横丁についても書かれています。

-49・4「群像」
 さいきん広津和郎氏の『年月のあしおと』を再読する機会があったが、には特に最初の部分――氏がそこで生まれて少年時代をすごした牛込矢来町界隈について記しておられるあたりに、懐かしさにたえぬものがあった。
 明治二十四年に生誕した広津さんと私との間には、正確に二十年の年齢差がある。にもかかわらず、牛込は関東大震災に焼亡をまぬがれたので、私の少年期にも広津さんの少年時代の町のたたずまいはさほど変貌をみせずに残存していた。そんな状況の中で私は大正六年の後半から昭和初年まで――年齢でいえば六歳以後の十年内外をやはりあの附近ですごしただけに、忘しがたいものがある。
 そして、広津さんの記憶のたしかさを再確認したのに反して、昨年五月の「青春と読書」に掲載された林原耕三氏の『神楽坂今昔』という短文は、私の記憶とあまりにも大きく違い過ぎていた。が、ご高齢の林原氏は夏目漱石門下で戦前の物理学校――現在の東京理科大学で教職についておられた方だから、神楽坂とはご縁が深い。うろおぼえのいいかげんなことを書いては申訳ないと思ったので、私はこの原稿の〆切が迫った雨天の日の午後、傘をさして神楽坂まで行ってみた。

東京理科大学 地図です。理科大マップ

 坂下の左角はパチンコ店で、その先隣りの花屋について左折すると東京理大があるが、林原氏は鳥屋の川鉄がその小路にあって《毎年、山房の新年宴会に出た合鴨鍋はその店から取寄せたのであった》と記している。それは明治何年ごろのことなのだろうか。私は昭和十二年十月に牛込三業会が発行した『牛込華街読本』という書物を架蔵しているが、巻末の『牛込華街附近の変遷史』はそのかなりな部分が「風俗画報」から取られているようだが、なかなか精確な記録である。
 それによれば明治三十七年頃の川鉄は肴町二十二番地にあって、私が知っていた川鉄も肴町の電車停留所より一つ手前の左側の路地の左側にあった。そして、その店の四角い蓋つきの塗物に入った親子は独特の製法で、少年時代の私の大好物であった。林原文は前掲の文章につづけて《今はお座敷の蒲焼が専門の芝金があり、椅子で食ふ蒲どんの簡易易食堂を通に面した所に出してゐる》と記しているから、川鉄はそこから坂上に引っ越したのだろうか。但し芝金は誤記か誤植で志満金が正しい。私が学生時代に学友と小宴を張ったとき、その店には芸者がきた。

パチンコ店 パチンコニューパリーでした。今はスターバックスコーヒー神楽坂下店です。
肴町二十二番地 明治28年では、肴町22番地は右図のように大久保通りを超えた坂上になります。明治28年には川鉄は坂上にあったのです。『新撰東京名所図会 第41編』(東陽堂、明治37年、1904年)では「鳥料理には川鐵(22番地)」と書いています。『牛込華街読本』(昭和12年)でも同様です。一方、現在の我々が川鉄跡として記録する場所は27番地です。途中で場所が変わったのでしょう。
明治28年の肴町22番地
引っ越し 川鉄はこんな引っ越しはしません。ただの間違いです。
正しい 芝金の書き方も正しいのです。明治大正年間は芝金としていました。

 ついでに記しておくと、明治三十六年に泉鏡花が伊藤すゞを妻にむかえた家がこの横にあったことは私も知っていたが、『華街読本』によれば神楽町二丁目二十二番地で、明治三十八年版「牛込区全図」をみると東京理大の手前、志満金の先隣りに相当する。村松定孝氏が作製した筑摩書房版「明治文学全集」の「泉鏡花集」年譜には、この地番がない。
 坂の中途右側には水谷八重子東屋三郎が舞台をふんだ牛込会館があって一時白木屋になっていたが、現在ではマーサ美容室のある場所(左隣りのレコード商とジョン・ブル喫茶店あたりまで)がそのである。また、神楽坂演芸場という寄席は、坂をのぼりきった左側のカナン洋装店宮坂金物店の間を入った左側にあった。さらにカナン洋装店の左隣りの位置には、昭和になってからだが盛文堂書店があって、当時の文学者の大部分はその店の原稿用紙を使っていたものである。武田麟太郎氏なども、その一人であった。
 毘沙門様で知られる善国寺はすぐその先のやはり左側にあって、現在は地下が毘沙門ホールという寄席で、毎月五の日に開演されている。その毘沙門様と三菱銀行の間には何軒かの料亭の建ちならんでいるのが大通りからでも見えるが、永井荷風の『夏すがた』にノゾキの場面が出てくる家の背景はこの毘沙門横丁である。

 読み方は「シ」か「あと」。ほかに「跡」「痕」「迹」も。以前に何かが存在したしるし。建築物は「址」が多い。
ノゾキ 『夏すがた』にノゾキの場面がやって来ます。

 慶三(けいざう)はどんな藝者(げいしや)とお(きやく)だか見えるものなら見てやらうと、何心(なにごころ)なく立上つて窓の外へ顏を出すと、鼻の先に隣の裹窓の目隱(めかくし)(つき)出てゐたが、此方(こちら)真暗(まつくら)向うには(あかり)がついてゐるので、目隠の板に拇指ほどの大さの節穴(ふしあな)が丁度ニツあいてゐるのがよく分った。慶三はこれ屈強(くつきやう)と、(のぞき)機關(からくり)でも見るやうに片目を押當(おしあ)てたが、すると(たちま)ち声を立てる程にびつくりして慌忙(あわ)てゝ口を(おほ)ひ、
 「お干代/\大變だぜ。鳥渡(ちよつと)來て見ろ。」
四邊(あたり)(はゞか)る小聾に、お千代も何事かと教へられた目隱の節穴から同じやうに片目をつぶつて隣の二階を覗いた。
 隣の話聾(はなしごゑ)先刻(さつき)からぱつたりと途絶(とだ)えたまゝ今は(ひと)なき如く(しん)としてゐるのである。お千代は(しばら)く覗いてゐたが次第に息使(いきづか)(せは)しく胸をはずませて来て
「あなた。罪だからもう止しませうよ。」
()(まゝ)黙つて隙見(すきま)をするのはもう氣の毒で(たま)らないといふやうに、そつと慶三の手を引いたが、慶三はもうそんな事には耳をも貸さず節穴へぴつたり顏を押當てたまゝ息を(こら)して身動き一ツしない。お千代も仕方なしに()一ツの節穴へ再び顏を押付けたが、兎角(とかく)する中に慶三もお千代も何方(どつち)からが手を出すとも知れず、二人は眞暗(まつくら)な中に(たがひ)に手と手をさぐり()ふかと思ふと、相方(そうほう)ともに狂氣のやうに猛烈な力で抱合(だきあ)つた。

私のなかの東京|野口冨士男|1978年⑤

文学と神楽坂


 第一章で屋号だけ挙げておいた鰻屋の🏠志満金は紀の善の筋向いにあって、五階建てのビルの地階は中華料理店になっているが、戦前には現在地よりすこし坂下に寄った、現状でいえば東京理大のほうへ入っていく道の両角にある花屋のうち、向って右側の花屋の位置にあって、玄関もその横丁の右側にあった。そして、私がまだ学生であった昭和初年代に学友とそこで小集会を催したときには、幹事の裁量で芸者がよばれた。私の記憶にあやまりがなければ、🏠紀の善にも芸者が入ったのではなかったか。絃歌がきこえたようなおぼえがある。
 いずれにしろ、戦前の神楽坂の花柳界は鰻屋やすし屋へ芸者がよべるような、気楽に遊べる一面をもっていた土地であった。むろん、どこの土地でも一流の料亭、芸者となれば話は別だが、駆け出しのころの田村泰次郎十返肇が神楽坂で遊べたのもそのせいである。

忘れがたき24日夜、神楽坂クラブに於て茶話会を催す。ご来会下さらば幸甚、会費10銭。発起人・堺利彦、藤田四郎。参会者・堺枯川大杉栄荒畑寒村ら21名神崎清、革命伝説より)。24日とは、明治44年3月24日のこと、この年の1月24日、幸徳秋水らの絞首刑が執行された。

 コーヒー店の🏠パウワウは志満金よりすこし坂上にあるが、荒正人恵与の『神楽坂通りの図』の余白部に横書きで右のように記入されている貸席の神楽坂倶楽部(?)は、パウワウよりさらに坂上の筋向い――とんかつ屋の🏠和加奈に触れたとき、その横丁の右角にあると書いた化粧品店🏠さわや(当時は袋物商の佐和屋)より三軒坂下にあった🏠靴屋と印判屋の浅い路地奥にあった様子である。木造の横羽目に白いペンキを塗った学校の寄宿舎のような建物で、路地の入口にも白地に黒で屋号を記したペンキ塗の看板が横にかけ渡されてあったような記憶が、私にもかすかにのこっている。


花屋 田口屋生花店です。田口屋生花店
芸者が入った 1927(昭和2)年、『大東京繁昌記』のうち加能作次郎氏が書いた『早稲田神楽坂』「花街神楽坂」では「寿司屋の紀の善、鰻屋の島金などというような、古い特色のあった家でも、いつか芸者が入るようになって、今ではあの程度の家で芸者の入らない所は川鉄一軒位のものになってしまった」と書いてあります。
絃歌 げんか。弦歌。琵琶・箏・三味線などの弦楽器を弾きながらうたう歌。特に三味線声曲をさす。
路地奥 神楽坂倶楽部は1961年以前に旅館「かぐら苑」に変わり、さらに膨らんで現在は「ラインビルド神楽坂」になりました。また戦前の路地はおそらく「ラインビルド神楽坂」の向かって左側にありました。その後、戦後は一時右側になりますが、現在はこの路地はありません。細かくは神楽坂通り(2丁目北西部)で。

ヴェラハイツ神楽坂

2-3丁目の地図(1985年神楽坂まっぷ)

map志満金 田口 パウワウ 和加奈 さわや 路地 マーサ美容室 ジョンブル 坂
 昭和四十九年四月号の「群像」に私が『神楽坂考』という短文を書くために踏査した時点では、いま和加奈のある横丁の左角にあたる婦人服店の位置には🏠マーサ美容室があった。それほど新旧の交替は激しいが、震災前のたたずまいを復原した『神楽坂通りの図』をみると、その場所には ≪牛込三業会(旧検)≫とあって、≪旧検≫とは牛込三業会に対する神楽坂三業会の意をあらわす≪神検≫すなわち新検番に対する呼称だが、さらにその下部には≪歯医者 浴場≫とも書きこまれている。そして、神楽坂倶楽部の場合と同様に、地図の余白部には次のような註記がみられる。
石垣の上に浴場と歯医者があって、通称温泉山と云った。震災直後牛込会館となった。大正12年12月17日震災後、初めての演劇公演「ドモ又の死」「大尉の娘」「夕顔の巻」あり入場者は電車どおりまで並び、満員札止めとなる。のち会館は白木屋となる。

 白木屋は日本橋交差点の角にあった百貨店――現在の東急百貨店の前身で、神楽坂店はそこの支店であったが、舟橋聖一は『わが女人抄』中の『水谷八重子』の章で、彼女に最初に会ったのは≪大正大震災の直後、神楽坂の牛込会館で演った「殴られるあいつ」(アンドレェエフ)の舞台稽古の日≫であったと記している。半自伝小説『真贋の記』ほかによれば、舟橋の母方の叔父が八重子の劇に出演していた俳優の東屋三郎と慶応の理財科で同級だったために、叔父の案内で東屋を訪問して彼女に紹介されたというのが実相らしいが、私も演目はなんであったか、神楽坂の検番をも兼ねていた牛込会館で八重子の舞台をみている。その折の記憶によれば、客席は畳敷きであったから、演劇興行のない日には芸者たちの日本舞踊の稽古場になっていた様子である。会館の入口は石段になっていたが、白木屋にかわると、その部分が足場をよくするために傾斜のある板張りになった。会館や白木屋は『神楽坂通りの図』にあるように高い石垣の上にあって、昭和年代に入ってから石垣は取り払われたが、その敷地は現状でいえば角の婦人服店から🏠ジョンブルというスナックのあたりまでだったようにおもう。


神楽坂考 この随筆は『断崖のはての空』に載っています。林原耕三氏の『神楽坂今昔』の間違いを直し、神楽坂を坂下から坂上まで歩くものです。
婦人服店 この場所にはマーサ美容室が昭和27年以前から1990年代まで続いていました。これからも20年もマーサ美容室が続いています。婦人服店はランジェリーシャンテと間違えていたのでしょうか。
実相  舟橋聖一の『真贋の記』(1967年)では
或る日、東京の築地小劇場から、手紙が来た。よく見ると、例の葡萄のマークはついているが、差出人は俳優の東屋三郎だった。東屋は慶応理財科の出で、慶吉の母方の叔父とクラスメートだった関係で、彼が汐見洋と共に、水谷八重子の芸術座に出演した頃から、楽屋をたずねたり、舞台稽古を見せてもらったりしていたのである。

ジョンブル ジョンブルは上の地図でも見えますが、白木屋の左端とジョンブルの左端が同じなのか。厳密に言うと違うと思います。

火災保険特殊地図(都市製図社 昭和12年)とジョンブル

火災保険特殊地図(都市製図社 昭和12年)

 なお、ジョンブルは相当長くまで生き残っていました。1992年、小林信彦氏による「新版私説東京繁昌記」(写真は荒木経惟氏、筑摩書房)が出て、右側にはジョンブルの看板です。
神楽坂の写真

mapジョンブル

水谷八重子|舟橋聖一

文学と神楽坂

舟橋聖一氏の『わが女人抄』(朝日新聞社、1965年)の一節『水谷八重子』です。

 水谷八重子のことは四十年昔にさかのぼる。はじめて会ったのが、大正大震災の直後、神楽坂の牛込会館で演った「殴られるあいつ」(アンドレェエフ)の舞台稽古(げいこ)の日だが、八重ちゃんの書いた「舞台ぐらし五十年」(「潮」四月号)によると、初舞台は大正二年とあるから、私の会う前が、まだ十年ほどあるのである。
 当時私は旧制高校時代だったが、私より一つ若い八重ちゃんのほうが、はるかに年上で、舞台ずれ、世間ずれしていたように思った。それもそのはず、初舞台以来、「闇の力」のアニューシヤ、「アンナ・カレーニナ」のセルジー、「人形の家」のノラ、「青い鳥」のチルチル、チェーホフ「かもめ」のニーナ、「野鴨」のヘドイッヒなどの舞台経験をして、すでに水谷八重子の名は天下に鳴りひびいていたのである。
 が、それにしても、なんという我がままで横暴で、人を食った女優だろうと、内心おどろいたものだ。「殴られるあいつ」の脚色は、吉田甲子太郎氏で、演出は小山内薫氏、あいつの役は、汐見洋だった。
 舞台稽古だから、客席は関係者ばかりで、どこへでも自由に(すわ)れる。この会館は寄席風で、花道はついているが、客席は(ます)になっていた。私は舞台ばなの、ごく近い桝に陣取って一日がかりで見物した。
 あのころの八重子は、大ぜいの男・男・男の中にまじって、汗まみれになったものの、どんな男をも傍へ近寄せない誇りがあって、それがひどく驕慢(きょうまん)に見えたのだろう。しかし。驕り高き女というものは、若い男にはすばらしく魅力的である。八重子の人気が、沸騰するのも無理ではなかった。
 やがて初日があき、私は一度ならず見物に行った。三度目には、紀伊国屋書店田辺茂一をさそって行った。彼はまだ慶応ボーイだったが、一目で八重ちゃんに()れて、さっそく結婚を申込んで、ことわられたという話がある。このとき、求婚の使者に立ったのが、田辺の姉さんであったことは、最近まで知らなかった。昭和三十九年三月末、新宿に紀伊国屋ビルが竣工(しゆんこう)し、その五階にある紀伊国屋ホールの初開場に、水谷が「島の千歳」を踊った時、はからずも楽屋でその話が出て、姉さんが昔話を披露したことから、表面化した。八重ちゃんも思わず微苦笑して、
 「こういう証人に出て来られては、アウトですね」
 と、四十年の昔を思い出す風であった。しかし、大正末期における水谷の存在と一慶応ボーイ田辺とでは、いわゆる吊鐘(つりがね)に提灯の感なきにしもあらずで、私は彼の求愛を、およそ大それた注文で、振られるのが当り前と思っていた記憶がある。が、その(かん)四十年相たち候のち、自分の店の自家用のホールに、その人を招いて、一卜幕踊らせた彼は、やっと長い心の欝屈(うつくつ)を晴らすことが出来たろう。

一つ若い 舟橋氏は19歳、水谷は18歳
 ます。劇場・相撲場などで、方形に仕切った観客席
驕慢 きょうまん。おごりたかぶって相手をあなどり,勝手気ままにふるまうこと
紀伊国屋書店 1927年(昭和2年)1月22日創業。創業者の田辺茂一は、書店業界の実力者で文化人。
竣工 工事が完了して建物できあがること。竣成。
島の千歳 しまのせんざい。おめでたい時に舞う長唄
吊鐘に提灯 形は似ていても重さに格段の開きがあり、外見はどうあれ、中身が似ても似つかないものの喩え
相たち候 あいたちそうろう。「時が立ちました」の古風な表現
一卜幕 ひとまく。幕を上げてから下ろすまでに舞台で演じる一区切り
欝屈 うっくつ。気分が晴れ晴れしない。心がふさぐこと

神楽坂・新宿|大宅壮一

文学と神楽坂

 ちなみに大宅壮一氏が書いた昭和26年4月の「サンデー毎日」の『歓楽街五十年史』のうち「神楽坂・新宿」でも全く同じ光景が出てきます。昭和の時代、20年経っても、神楽坂は「盛り場の仲間入りもできないほどのさびれ方」になっていました。

 山の手方面の代表的歓楽街というよりも、二流の芸者町として知られていた神楽坂が、銀座の繁栄を奪ったかのような様相を呈したのは、大震災で焼け残ったおかげである。
 それだけではなく、ここには電車が通っていないし、道路もたいして重要ではないので、燈ともしごろ車馬一切が通行止めとなり、そのために、極めて安全で快適なプロムナードとして喜ばれた。夜はおびただしい人出で、銀座から移ってきたカフェープランタンへ毎晩のように通ってくる文人たちの間に混じって、お座敷着姿の芸者がつまをとって歩く光景は、当時の神楽坂でないと見られないものだった。
 牛込演芸館文明館牛込亭柳水亭などのほかに、牛込会館があって、ここではまだういういしかったころの水谷八重子の踊りや、いまはソ連で対日放送をやっているとかいう岡田嘉子の舞台姿も、よく見られたものだ。横町には松井須磨子が首をくくった芸術座の跡があり、それが後にアパートになって、一時、私もそこに住んだことがある。
 一流の洋食を食わせた田原屋オザワ、菓子の紅屋、縄のれんの飯塚などなど、名前をいえば思い出す人も多いと思うが、それらも、戦前すでに統制で影が薄くなり、姿を消したものが多い。特に戦後の神楽坂は、歓楽街どころか、盛り場の仲間入りもできないほどのさびれ方である。

燈ともしごろ 日が暮れて、明かりを点し始めるころ
プロムナード 散歩道。遊歩道。
カフェープランタン 岩戸町二十四番地(現在は岩戸町一番地)にありました。
つまをとる 褄を取る。芸者が裾の長い着物の褄を手で持ち上げて歩く。褄をとる

 最後に神楽坂で旧映画館、寄席などの地図です。ギンレイホールを除いて、今は全くありません。クリックするとその場所に飛んでいきます。

牛込会館 演芸場 演芸場 牛込館 柳水亭 牛込亭 文明館 ギンレイホール 佳作座

大震災①|昭和文壇側面史|浅見淵

文学と神楽坂


 関東大震災の神楽坂の様子です。浅見(ふかし)氏は昭和時代の小説家、評論家で、私小説風の作品や作家論、作品論などを発表しました。『昭和文壇側面史』は昭和43年に発表し、浅見淵は69歳のときです。

 大正12年9月1日の関東大賞災を知ったのは、大阪においてであった。夏休みで神戸へ帰省していたが、その朝たまたま大阪天満橋の伯父の家を訪ねていたところ、昼時分になり、暑いから川船へいこうと、川船料理屋へ連れていかれた。そして、川魚料理で一杯やっていると、グラグラとやって来て船が大きく揺れ、川波が激しく騒いだ。大きな地震だネと、伯父は呟いたが、それでも、二、三度、揺れ戻しがあると、その儘おさまった。で、ふたたび盃を平にしていると、まもなくジャンジャン号外の鈴の音がし、それが東京潰滅という第一報だったので驚いたのだった。
(中略)当時ぼくは牛込弁天町の下宿屋にいたので、下宿屋はもちろんのこと、神楽坂を中心とする牛込の山の手界隈はほとんど被害らしい被害は無かった。神楽坂の中ほどに、巌谷一六書の金看坂を掲げた、いまでも残っている老舗の尾沢薬局が、そのころ、隣りにレストランを経営していた。このレストランの二階が潰れていたくらいである。(中略)

田原屋・川鉄・赤瓢箪

 戦災で焼け、近年やっと復活して昔のように客を集めているらしい洋食屋の田原屋は、大震災のころ既に山の手の高級レストランとして有名だったが、この田原屋。肴町の路地の奥にあった、尾崎紅葉をはじめ硯友社一派がよく通ったといわれる川鉄という鳥屋。それから、質蔵を改造して座敷にしていた、肥っちょのしっかり者の吉原のおいらんあがりのおかみがいた、赤瓢箪という大きな赤提灯をつるしていた小料理屋。これらの店には、文壇、画壇、劇壇を問わず、あらゆる有名人が目白押しに詰めかけていた。白木屋がいち早く神楽坂の中途に特売所を設けたが、一応物資が出まわると、これが牛込会館という俄か劇場に早変わりし、水谷竹紫水谷八重子たちの芸術座アンドレーフの「殴られるあいつ」を上演したりしていた。この劇団に、のちに築地に小劇場のスターとなった、東屋三郎汐見洋田村秋子たちが客演していたが、この連中の顔がとくに赤瓢箪ででよく見受けられた。


弁天町 場所は新宿区の北部に。巨大な町ですが、明治5年から変わっていません。大部分が宗参寺の境内で、元禄十一年以降次第に町皿みができ門前町となりました。
弁天町
尾澤薬局尾沢薬局 神楽坂の情報誌「かぐらむら」の「記憶の中の神楽坂」では「明治8年、良甫の甥、豊太郎が神楽坂上宮比町1番地に尾澤分店を開業した。商売の傍ら外国人から物理、化学、調剤学を学び、薬舖開業免状(薬剤師の資格)を取得すると、経営だけでなく、実業家としての才能を発揮した豊太郎は、小石川に工場を建て、エーテル、蒸留水、杏仁水、ギプス、炭酸カリなどを、日本人として初めて製造した」と書いています。
レストラン 尾沢薬局の隣りは、カフェー・オザワといいました。加能作次郎氏の『大東京繁昌記 山手篇』「早稲田神楽坂」(昭和2年)によれば「薬屋の尾沢で、場所も場所田原屋の丁度真向うに同じようなカッフェを始めた時には、私たち神楽坂党の間に一種のセンセーションを起したものだった。つまり神楽坂にも段々高級ないゝカッフェが出来、それで益〻土地が開け且その繁栄を増すように思われたからだった。」
赤瓢箪 これは神楽坂仲通りの近く、神楽坂3丁目にあったようです。今和次郎編纂『新版大東京案内』では「おでん屋では小料理を上手に食はせる赤びようたん」と書き、昭和10年の安井笛二編の 『大東京うまいもの食べある記』では「赤瓢箪 白木屋前横町の左側に在り、此の町では二十年も營業を続け此の邉での古顔です。現在は此の店の人氣者マサ子ちゃんが居なくなって大分悲觀した人もある樣です、とは女主人の涙物語りです。こゝの酒の甘味いのと海苔茶漬は自慢のものです。」と書いてあります。もし「白木屋前横町の左側」が正しいとするとこの場所は神楽坂3丁目になります。関東大震災でも潰れなかったようです。
白木屋 しろきや。東京都中央区日本橋一丁目にあった江戸三大呉服店の一つ。かつて日本を代表した百貨店の一つ。法人自体は現在の株式会社東急百貨店として存続。1930年(昭和5年)、錦糸堀や神楽坂に分店を出しています。
牛込会館 神楽坂の2丁目から3丁目に入ってすぐ右側で、現在は「サークルK」です。関東大震災の数日後、水谷竹紫と水谷八重子は牛込会館の屋上に上っています。牛込会館は現在はサークルKに変わっています。
芸術座 第二次芸術座。第一次芸術座は、1913年、島村抱月、松井須磨子などが結成し、1919年、解散。第二次芸術座は、水谷竹紫、水谷八重子が名前を受け継ぎ、同名の劇団を起こしました。
アンドレーフ Леонид Николаевич Андреев。Leonid Nikolaevich Andreev。レオニード・ニコラーエヴィチ・アンドレーエフ。20世紀はじめのロシアの作家。生年は1871年8月21日(ユリウス暦8月9日)。没年は1919年9月12日。ロシア第一革命の高揚とその後の反動の時代に生きた知識人の苦悩を描き、当時、世界的に有名な作家に。
田村秋子 たむら あきこ。新劇女優。生年は明治38年(1905年)10月8日、没年は昭和58年(1983年)2月3日。1924年築地小劇場の第1回研究生として入所、創立公演『休みの日』に出演。29年、夫の友田恭助と築地座を結成、戦後は文学座に出演。



神楽坂|大東京案内(5/7)

前は大東京案内(4/7)です。

あまり広くないこの界限(かいわい)で、娯楽(ごらく)機関(きくわん)は五つ六つある。昔、神市場といった現在の神樂坂演藝館牛込亭などは色もの席。手踊り浪花節席の柳水亭(りゆうすゐてい)は今の勝岡(かつをか)牛込(うしごめ)會館(くわいくわん)は最も立派な建物だが、震災直後には水谷八重子汐見洋などが新劇(しんげき)を演じた思ひ出を持ってゐる。
 映畫常設館の文明館(ぶんめいくわん)は三流どころの活動小屋らしい。そこへ行くと、(きう)藁店(わらだな)牛込館(うしごめくわん)は、所謂(いわゆる)山の手系統の流れを汲む説明者と、呼びもののレヴユーを以つて、一脉(みやく)新鮮(しんせん)な現代風を(かも)し出すところ。その客筋も新しい。

神楽坂演芸館 坂下から神楽坂3丁目のお香と和雑貨の店「椿屋」の直前を左に曲がると、左手に広々とした駐車場があります。この駐車場は「神楽坂演芸場」があったことろです。さらに解説
牛込会館 神楽坂の2丁目から3丁目に入ってすぐ右側で、現在は「サークルK」です。水谷八重子氏の『芸 ゆめ いのち』(1956年)では

(関東大震災が終わると、一か月後の)十月十七日から一週間の公演の日取りをきめました。牛込会館は寄席をひとまわり大きくした程度の小屋で、舞台は間口が三間半、奥行も二間くらいのものでしたが、何しろ震災後、はじめての芝居でしたので、千葉や横浜あたりからもかけつけられたお客さんがあって、大へんな盛況でした。
 出し物は『大尉の娘』、『吃又の死』のほかに、瀬戸英一さんの『夕顔の巻』がでました」

色もの 寄席で、講談・義太夫・落語に対して、彩りとして演じられる漫才・曲芸・奇術・声色・音曲などのこと。
手踊り 寄席などで、端唄や俗曲・流行歌につれておどる踊り
浪花節 江戸末期、大坂で成立。三味線の伴奏で独演し、題材は軍談・講釈・物語など、義理人情をテーマとしたもの。浪曲。
新劇 歌舞伎・新派劇などの旧劇に対抗して明治末期以降の新興演劇
文明館 文明館の地図は上の鶴扇亭と同じ地図に出ています。詳しくはここで
藁店 藁店(わらだな)は神楽坂5丁目と袋町とを結ぶ坂道です。
『ここは牛込、神楽坂』の「藁店、地蔵坂界隈いま、むかし」の座談会を引用すると

小林さん (小林石工店)で、当時うちの前で、車を引く馬や牛にやる藁を一桶いくらかで売っていたので、あの坂を藁店と呼ぷようになったと聞いています。

文政十年(1827)の『牛込町方書上』によれば

里俗藁店と申候、前々ゟ藁売買人居候故、藁店与唱申候

と出てきます。明治維新より40年の昔から「藁店」という言い方は使っていました。なお、ゟは平仮名「よ」と平仮名「り」を組み合わせた合字平仮名(合略仮名)で、発音は「より」です。
夏目漱石氏の『吾輩は猫である』で

この子供の言葉ちがいをやる事は(おびただ)しいもので、(中略)或る時などは「わたしゃ藁店(わらだな)の子じゃないわ」と云うから、よくよく聞き(ただ)して見ると裏店(うらだな)と藁店を混同していたりする。

裏店とは裏通りにある家で、商家の裏側や路地などにある粗末な家をいいました。
レビュー revue。フランス語です。音楽やコント踊り等で構成。時事風刺の効いた舞台娯楽ショー。19世紀末から20世紀にかけて各国で流行。
レビュー
一脉 一脈。ひとつづき。一連のつながりがあること。わずかに
客筋 きゃくすじ。その店に来る客の傾向・種類。客種

 最後に神楽坂で旧映画館、寄席などの地図です。どれも今は全くありません。クリックするとこの場所で他の映画館や寄席に行きます。

 最後に神楽坂で旧映画館、寄席などの地図です。ギンレイホールを除いて、今は全くありません。クリックするとその場所に飛んでいきます。

牛込会館 演芸場 演芸場 牛込館 柳水亭 牛込亭 文明館 ギンレイホール 佳作座

林原耕三|神楽坂今昔

文学と神楽坂

林原耕三

 林原(はやしばら)耕三(こうぞう)氏は自称最後の漱石門下生で、生年は1887年12月6日。没年は1975年4月23日。英文学者で俳人。1918年、東京帝国大学英文科卒。在学中から夏目漱石に師事し、芥川龍之介氏たちを漱石に紹介し、その後、法政大学、明治大学、専修大学、東京理科大学の教授になりました。
 なかでも東京理科大学の教授歴が長く、その結果、非常に神楽坂のことについては詳しい…はずです。しかし、昭和48年(85歳)に書いた『神楽坂今昔』では、ここかしこに、かなり記録の抜け落ちや嘘が出てきているようです。これは終わりに近い部分です。正しい点もたくさんあるのですが、うっかり抜けた内容がやっぱり出てきます。

 同じ側の矢来町には森田のおたまさんが住んでおり、彼女が三田へ移った跡は素木しづ子君が住んでゐたから、私には随分思ひ出が豊富である。森田草平氏の家も少し先の反対側の路地の奥にあって、思ひ出は一層深まる。最初の夫人お稲さん藤間勘衛門の高弟で、家中(かちゆう)踊舞台があり、そのお弟子が沢山あった。おたまさんもその一人だが、東大国文科に在学中のロシア人エリセイフ君も熱心で、筋がよかったやうだ。その頃、踊りに来たのではないが、少女時代の水谷八重子の「やっちゃん」がよく遊びに来た。それから文学の方で「まあちゃん」(本名豊田正子――今、ゲラに臨んで思ひ出した)といふ少女のお弟子が出入して、その処女作「綴方教室」といふ本が好評嘖々で、未来を大に嘱望されたが、不幸な結婚をして、その後筆を絶って、慧星の如く消えてしまった。
 私は、森田さんが忙しいので、頼まれておしづさんと長男の亮一君に英語を教へた。後におしづさんの自宅へ通はされた。そして、言はれるまゝに、洗濯物を持って行って、(おしづさんは隻脚なので)洗ふのはお毋アさん、縫ふのはおしづさんがしてくれた。森田家では文士の誰彼とも顔を合せ、後年深く交はった佐藤春夫君と相知ったのもこの家であった。森田さんが岩波版第一回漱石全集の校正主任の頃もあの家だから、勢ひ、その方の用件でも屢々訪問した。(略)
 私が大正十四年に都落ちして、昭和五年に東京へ舞ひ戻る五年間以外は生活の舞台はこゝにあったやうなものである。

三田 矢来町から三田にいった時間はわかりませんでした。森田たま氏の年譜はすかすかで、特に20代前半になるとまったくわかりません。森田たま氏も素木氏も矢来町から南榎町にいったことはわかっています。本当は南榎町ではないのでしょうか。たぶんこれも抜け落ちた内容でした。
路地の奥 『漱石全集』と『神楽坂界隈の変遷』によれば、森田草平氏は明治43年12月から大正9年1月にかけて牛込区矢来町62番地に住んでいました。下図では赤い場所です。
お稲さん 草平の妻。踊りの師匠としての名前は藤間勘次(女性です)。ただし草平とっては最初の夫人ではありません。
藤間勘衛門 正しくは藤間勘右衛門(ふじま かんえもん)。生年は天保11.2.12。没年は1925(大正14年)1.23。藤間流勘右衛門の家元。
踊舞台 おどりぶたい。踊りをする舞台
嘖々 さくさく。人々が口々に言いはやすさま。例は「好評嘖々」「評判嘖々たりし当代の佳人」など
森田 これは森田草平氏のほう
亮一 森田草平氏の長男
隻脚 せっきゃく。片足がなくなること。結核のためでした

『素木しづ作品集』によると……

「大正四、五の読売の『よみうり抄』と時事の『文芸消息』の記事から清貢・しづ関係の項を列挙する。(略)
<上野山清貢氏 牛込矢来町一番地二二号へ転居せり。>(『読売新聞』大正5・5・5)
<素木しづ子 上野山清貢氏と共に牛込区南榎町一五に転居した。>(『読売新聞』大正5・6・10)

 これから素木しづは矢来町1番地22号にいたとわかりました。しかし、1番地は巨大で、その22号はどこなのか、現在探すものはなく、全くわかりません。できれば緑の場所ならいいのですが、残念ながら、不明です。なお、赤い場所は森田草平氏が住んでいた場所です。大正11年矢来町

文学と神楽坂

初代・水谷八重子|芸術座

文学と神楽坂

 水谷八重子は、1905年8月、東京市牛込区神楽坂で時計商の松野豊蔵・とめの次女として生まれ、5歳のときに父親が死亡、母とともに名妓だった姉と義兄、編集者の水谷(みずたに)竹紫(ちくし)のもとに住みこんでいます。竹紫氏(本名は武)は島村抱月氏が芸術座をつくる際に中心的な役割を果たしていました。

水谷八重子 芸術座の園遊会

 1914年(大正3年、9歳)、芸術座に『内部』で出演、1916年(大正5年、11歳)には帝劇公演『アンナ・カレーニナ』で松井須磨子氏演じるアンナ役の息子役で出演しました。

 自書の『芸 ゆめ いのち』(1956年、白水社)では

芸術座の旗上げ公演は、この年の九月、有楽座で行われました。出し物はメーテルリンクの『内部』と『モンナ・ヴァンナ』がとりあげられることとなりました。そして、この『内部』が、意外にも私の舞台出演のキッカケとなりました。
『内部』は、舞台の正面に窓を飾りつけ、外の群衆の動きや表情で、部屋の中の出来ごとを見せるという酒落れた芝居でしたが、その群衆の子役をやらされたのです。
 もちろん、義兄がその話をもちかけてきました時は、「嫌よ」と、かぶりをふったのですが、いろいろなだめすかされ、とどのつまりは、黙って抱かれているだけでよいからということで、やっとうなずきました。もっとも、子供の泣き声をきくと、とたんに不機嫌になる義兄だけに、これまで殆んど口をきいたことのない仲でしたが、その義兄が笑顔をみせて私に話しかけるのが珍しくもあり、つい興味も手つだって、出ることを約束したようにも思われます。しかし、二、三度お稽古につれて行かれるうち、私にどうしてもセリフをいわせて、舞台の効果をだそうとしたらしく、初日の舞台があく前になって、「見えないから、どいてよ!」というセリフを大声で言うように申し渡されました。恥かしかったせいもありましょうが、子供心にも約束が違うといって、とうとう楽の日まで言わずじまいでした。相当の強情ッぱりでもあったようです。
 私の初舞台は、正式には大正五年九月、帝劇で『アンナ・カレニナ』のセルジーをやったことになっていますが、実際はこの『内部』でした。この芝居で、松井須磨子さんや沢田正二郎さんにお目にかかりましたが、お二人とも毎日、奪いあうようにして私の顔の拵えをして下さいました。また群衆の一人に秋田雨雀先生が出演なさっていたのを記憶しております。先生は『内部』の翻訳者で、文芸部に席をおいておられましたが、人手が足りないため、出演なされたそうです。みるからにお優しそうな、小柄な方でした。

有楽座 明治41年12月1日に開場し、大正12年9月1日の関東大震災で焼亡。日本最初の全席椅子席の西洋式劇場。現在は有楽町のイトシアプラザ(ITOCiA)が建つ。坪内逍遥らの文芸協会、小山内薫らの自由劇場、池田大伍らの無名会、島村抱月らの芸術座、上山草人らの近代劇協会ほか、新劇上演の拠点になったことなどで知られる。

 1970年の『私の履歴書』(日本経済新聞社)では

「内郎」のけいこ中、室内のベッドで、他の恐怖を待つ屋外に、村人が集まってくるシーンがある。群衆の一人に子供かほしい、との希望が出た。結局、近くで遊んでいた私がかり出された。もちろん台詞はない。かわいそうとあって、「見えないからどいてよ」のひとことを与えられたのを思い起こす。
 これが私の舞台へ出た最初である。が、初舞台は、二年後、芸術座の帝劇公演、トルストイ作「アンナ・カレーニナ」の子役セルジーということにしている。というのは、「内部」の場合、役の名とてなく、その場に居合わせてのを場だったのだか、セルジーは違う。脚色の松居松葉(のち松翁)先生が私の出演を祝って、母親アンナとかれんな子供との別離場面を、特に一景書きたしてくれたのであった。

 平成7年『ここは牛込、神楽坂』の第5号で、娘・水谷良重氏と聞き手・竹田真砂子氏は『神楽坂談話室。水谷良重』による座談会を載せています。

水谷 その抱月、須磨子一座の「アンナ・カレーニナ」のアンナの息子役のセルジーというのが(水谷八重子氏の)正式な初舞台だったようです。そのときは竹久夢二さんがお人形の絵を書いてくださって、それを手拭に染めて配ったとか。

 残念ながら竹久夢二氏の「お人形の絵」はどんなものなのか分かりません。そこで、氏の「人形の絵」を調べました。参考までにこんな絵があるそうです。

 1923年(大正12年、18歳)9月1日の関東大震災を迎えます。

 かれこれ一ト月もたったでしょうか。九月一日のお昼ころです。裏庭に近い墓地の蝉の声をきくともなくききいっていますと、だしぬけに、ガラガラと屋鳴りがおこりました。思わずおフトンを頭からかぶりましたが、屋鳴りはやまず、その上にこんどは上下にゆれて、まるで船の難破を思わせるように激しくなってきます。余りのこわさに「お母さーん」「アーちゃま!(姉の愛称)」と叫びましたが、実は大きな声も出ず、ハネおきて柱や障子づたいに台所から裏庭へとびだしました。病床に長く寝ていましたので起き上れなかったのですが、驚いて立ち上ったわけです。墓地のそばに寝間着のままで、ちぢこまっておりますところに、母と姉が「よく起き上がれたね」といいながら血の気のひいた姿で、家からとびだしてきました。二人ともおびえながらも、私をかばうようにして、成行をぼう然と見守っておりましたが、ここで過ごした数刻は、本当にこの世の最後の阿修羅場かと思われました。幸いに私の家は無事でしたが、私の寝床にはいつのまに落ちましたか、屋根を打ちぬいて、一抱えもある墓石が落ちていました。これには二度びっくりしてしまいました。こうした騒ぎのなかを、友田さんがご自分の小石川のお家が焼け落ちたのにもかまわず、私がどうしているだろうと、お見舞に来て下さいました。(『芸 ゆめ いのち』)

 数日後、牛込会館の屋上に上っています。牛込会館は現在はサークルKに変わっています。

 義兄が私をつれて、神楽坂中腹、牛込会館の屋上にあがったのはいつだったろうか。日数のたっていなかったことだけは確かである。神田、日本橋、下谷にかけて、見わたすかぎり、蕭条とした焼け野原、痛ましいながめに、胸が熱く締められた。感情の激しい義兄竹紫は「日本はどうなるだろう」と、ひとこともらしたあとで「八重子、しっかりしよう。この会館が残っているかぎり、芝居はやれるよ」と言った。その目に涙のにじんでいたことを忘れない。(『私の履歴書』)

『ここは牛込、神楽坂』第5号で水谷八重子氏の「神楽坂の思い出」では、編集者註として

 古老の話などによると水谷八重子さんは、もと通寺町35(現神楽坂6丁目)、駿河屋さん(昔は油屋でいまは模型の店)の横を入ったところとのことなので、横寺町は記憶違いでしょうか。

大正11年東京市牛込区

 大正11年の地図では通寺町35は赤の場所です。地図上では確かにここが通寺町35になるのですが、しかし「現神楽坂6丁目の駿河屋さん」は通寺町64(緑色)になります。通寺町35か、通寺町64か、どちらかが間違えています。「区内に在住した文学者たち」の水谷竹紫の項によれば、氏の住所は大正6年頃~7年頃は早稲田鶴巻町211、大正12年頃~15年頃は通寺町61(上図で青色)になっています。

 大正12年に関東大震災が起こっていますから、通寺町35ではなく、水谷竹紫氏は実際には通寺町61にいたのでしょう。現在も住所としては同じでです。「現神楽坂6丁目の駿河屋さんの横を入ったところ」が正しいと、住所も通寺町61が正しいのでしょう。

 それからは、義兄は文字通りに日夜奔走しまして、十月十七日から一週間の公演の日取りをきめました。出演者は花柳章太郎、小堀誠、石川新水、藤村秀夫さん等、新派の“新劇座”の方たちが中心で、そのなかに私も加えて頂きました。
 牛込会館は寄席をひとまわり大きくした程度の小屋で、舞台は間口が三間半、奥行も二間くらいのものでしたが、何しろ震災後、はじめての芝居でしたので、千葉や横浜あたりからもかけつけられたお客さんがあって、大へんな盛況でした。
 出し物は『大尉の娘』、『吃又の死』のほかに、瀬戸英一さんの『夕顔の巻』がでました。私は『ドモ又の死』と『夕顔の巻』の雛妓に出演いたしました。衣裳など何一つありませんので、私や義兄の着物はもちろん、神楽坂の芸者さんからもいろいろお借りして問にあわせました。
 楽屋で顔をつくりながら、ふと窓の外をながめますと、入口から遙か牛込見付まで延々と坂に行列をつくったお客さんが、たちつくしておられました。開場後、はみでたお客さんのなかには、「横浜から歩いてきたのだからみせてよ」と、入口で嘆願している方もあり、いまさら芝居とお客さんの結びつきの深さを感じさせられました。
 一方、この公演の成功で自信を得ました義兄は、私を中心に“芸術座”再興の肚をきめて、一路その準備をすすめて行きました。(『芸 ゆめ いのち』)

 ここでは「牛込見付」ですから神楽坂下に人が流れています。神楽坂上に流れたような日もありました。下では「肴町」、これは「神楽坂上」に流れて行っています。

 牛込会館での初日を待ちかねて集まってきた観衆は、中腹から坂上の昆沙門様前を越し、肴町の電車通り近くまで列を作った。会場は、高級寄席のような建物だったので、収容人員も、すしづめにしで、五百人も入れたらギリギリだったろう。(『私の履歴書』)

 1924年(大正13年)、義兄の水谷竹紫が第二次芸術座を創立し、その中心メンバーとして活躍します。


神楽坂|ファミリーマート 昔は牛込會館

文学と神楽坂


サークルK

 1階は「ファミリーマート」、2階は「ロイヤルホスト」、それ以上はマンションです。

 この範囲は江戸時代では土塁で囲まれた本多屋敷がありました。その後「温泉山」という地域の銭湯「イソベ温泉」や歯医者になり、大正12年(1923年)9月1日の関東大震災の少し前には貸し座敷「牛込會館」に変わります。

 同年12月17日、女優、水谷八重子が出演する「ドモ又の死」「大尉の娘」などはここで行いました。水谷八重子は18歳でした。大好評を博したそうです。

 その後、牛込会館は白木屋デパートが営業しましたがほとんど客が入らず廃業になりました。

 最後に神楽坂で旧映画館、寄席などの地図です。ギンレイホールを除いて、今は全くありません。クリックするとその場所に飛んでいきます。

牛込会館 演芸場 演芸場 牛込館 柳水亭 牛込亭 文明館 ギンレイホール 佳作座

神楽坂3丁目に戻る場合
神楽坂仲通りに行くには
小栗横町に行くには
神楽坂の通りと坂に戻る場合は