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焼跡・都電・40年

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文学と神楽坂

 林順信氏の「焼跡・都電・40年ー山手ー激変した東京の街」(大正出版、昭和62年)です。北方から飯田橋駅や外堀通り、船河原橋、神田川などを撮影しました。年月が違う撮影があり、1枚は昭和41年12月で、もう1枚は20年ほど未来の昭和62年1月でした。

 まず昭和41年12月です。左端にあるのは都道8号で、外堀通りと合わさり、右は船河原橋に、左は後楽園や水道橋などに向かいます。都道8号の電柱に電柱広告「東明徽章」「オザワ」、さらに向こうには飯田橋駅のホーム、さらに行くと、千代田区の建物が並んでいます。神田川の反対側には目白通りがあります。
 船河原橋を渡り切る直前の都電13系統が1台、神田川には船2槽が出ていますが、船は平たく、わいぶね西さい船)かもしれません。神田川の右縁で船河原橋の直前に江戸期の大下水、それを飲み込む明治期の下水管の吐口があります。

神田川を流下する東京都のごみ運搬船(深川孝行撮影)。2023.03.06 https://trafficnews.jp/post/124654#google_vignette

 船河原橋の右側に五叉路がありますが、この写真ではわかりません。ゼブラ柄の背面板の信号機が2つあり、近くに標識(ともに指定方向外進行禁止)もあります
 右側の建物については「ごらくえん」以外に文字は小さく、読めません。この部分は下宮比町の一部でしたが、区境の変更もあり、最終的に人は住めない地域になりました。

 昭和62年1月です。上空には首都高速道路5号線(池袋線)と歩道橋があるため、辺りは薄暗く、神田川に船はありません。
 遠くの中央やや左には第7田中ビル(10階)、大和ビル(10階)、飯田橋プラザ(7階)が並び、その右には巨大な飯田橋セントラルプラザ(マンションは地上16階)、また右端には広告塔「(婦)人倶(楽部)」ができました。

都電・飯田橋(写真)1960年代

文学と神楽坂

 小川峯生・生田誠共著「東京オリンピック時代の都電と街角」 (アルファベータブックス、2017年)を見ましょう。

小川峯生・生田誠共著「東京オリンピック時代の都電と街角」

5方向からここに都電たちが集ってきた
3・13・15系統
飯田橋

 江戸城の北西にあたる飯田橋は、江戸時代には「牛込見附」が置かれた場所で、現在は外堀通りが通り、JR中央・総武線の飯田橋駅の両側で、早稲田通り神楽坂通り)と目白通りと交差している。また、早稲田通りから分かれて西に延びる大久保通りが存在し、現在は地下鉄各線が通る、この地域の交通の要となっている。
 明治から昭和戦前期の飯田橋付近には、「陸軍造兵廠東京工廠」が置かれ、国鉄の牛込、飯田町駅が存在した。現在のJR飯田橋駅は、1928(昭和3)年に牛込駅飯田町駅が統合された、比較的新しい駅である。2駅のうち、国電の始発駅だった飯田町駅は、統合後も長距離列車発着用のターミナル駅が残り、その後は貨物駅となって1999(平成11)年まで存在した。

外堀通り JR山手線やJR総武中央線に沿って皇居のまわりを一周する最大8車線の都道
早稲田通り 千代田区九段北の田安門交差点(靖国通り)から新宿区西早稲田、中野区中野などを経由し、杉並区上井草(青梅街道)に至る道路区間。
神楽坂通り 始点は神楽坂下交差点で、神楽坂上交差点を通り、神楽坂6丁目の終点辺りまで。早稲田通りの一部。
目白通り 千代田区の靖国通りから、練馬の関越自動車道の練馬インターに至る延長16kmの2~6車線の都道
大久保通り 飯田橋交差点から、牛込神楽坂駅を経て、JR高円寺駅付近の環七通りの大久保通り入口交差点に至る延長9kmの主に往復2車線の東西方向の都道

飯田橋の通り

陸軍造兵廠ぞうへいしょう東京工廠 陸軍の兵器・弾薬・器材などの考案・設計・製造・修理などをする施設。小石川の旧水戸藩邸跡に建設した。
飯田町駅 明治28(1895)年、飯田町駅は開業。場所は水道橋駅に近い大和ハウス東京ビル付近でした。1928年(昭和3年)、関東大震災後に、複々線化工事が新宿ー飯田町間で完成し、2駅を合併し、飯田橋駅が開業。右は飯田町駅、左は甲武鉄道牛込駅、中央が飯田橋駅。2020年6月、飯田橋駅は新プラットホームや新西口駅舎を含めて使用を開始。

飯田橋駅、牛込駅、飯田町駅

 この飯田橋を通る都電は、3系統、13系統、15系統の3路線が存在した。山手線の南端にあたる品川駅前を出て、四ツ谷駅前から外堀通りを通って、はるばる飯田橋駅前へやって来たのが3系統である。ここが起終点の停留場だったから、残る2系統の路線とは接続していなかった。
 一方、高田馬場駅から南下して、新目白通り、目白通りを経由して、飯田橋へやって来た15系統は、九段下から神保町、大手町を通り、茅場町へ至る路線だった。また、新宿駅前からの13系統は、河田町から神楽坂を通って飯田橋に来て、御茶ノ水、岩本町を通り、終点の水天宮前に向かった。これらの路線は現在、東京メトロ東西線、南北線、有楽町線、都営地下鉄大江戸線に受け継がれている。

3路線 下図を参照。ただし13系統と15系統は間違いで、逆が正しい。

石堂秀夫「懐かしの都電」(有楽出版社、2004年)

東京オリンピック時代の都電と街角
【飯田橋】 1968年(昭和43年)
 傘を手にした背広姿の会社員の列が見える雪の日の朝、飯田橋駅前の風景である。ようやくやってきた15系統の都電に乗ろうと、安全地帯に駆け寄る男たちもいる。まだ、神田川・外濠の上に首都高速道路は架かっていなかった。

1967年 飯田橋

飯田橋駅前の風景 15系統の都電が見える。ほかに正面のビルには左から右に

  1. 巨大なビルは東海銀行
  2. 酒の黄梅きざくらとカッパは三平酒造
  3. パーマレディ
  4. カッパ(合羽?)
  5. ミカワ薬局
  6. 時計
  7. 銀座土地
  8. つるやコーヒー
  9. 松岡商店

飯田橋2

【飯田橋】 1962年(昭和37年)
 新宿駅前を出て、牛込柳町、神楽坂とたどってきた13系続の都電が坂道を下って、飯田橋までやってきた。坂の途中に見える建物は、1933(昭和8)年に完成し、戦災をくぐり抜けた新宿区立津久戸小学校の校舎である。この13系統は、手前の交差点を左折して外堀通りを水道橋の方向に進んでいった。

1960年。人文社。住宅地図。

 最左端は書店「文鳥堂」で、「小説新潮」「蛍雪時代」などを販売。その右に「田原屋」。洋酒を売っていた。「キャラメル」は「菓子 飯田橋 園」でしょう。「都 しるこ」は写真でははっきりしない。「都 寿司」はよくわかる。「ビヤホール 飯塚」もわかる。停留場「飯田橋」がその前にあり、おそらく都電は停車中。
「新宿区立津久戸小学校」は中央の大きな建物。「新宿区立愛日小学校 津久戸分校」は間借りしていた。

1965年。日本住宅地図出版。住宅地図。

 広告板「酒は両関」は稲垣ビルで、東京ガス飯田橋サービスステーションなどがはいる。地元の人は「その後、隣の第一銀行と一緒になって現・第一勧銀稲垣ビル。1974年11月に竣工。『第一勧銀』の名を残す稀な例」だといいます。その右の2階は「ネアロンコーヒー」でしょう。その隣は「日鶴園飯田橋」で、おそらく酒に絡んだ商売をしている。「明治」はおそらく「山口製パン」がつくっている。

 また「文春オンライン」(J・ウォーリー・ヒギンズ『秘蔵カラー写真で味わう60年前の東京・日本』光文社新書 2018年)で同じようなものもでています。

1960年代の飯田橋 首都高もビルもない
 飯田橋駅のホームから神田川を眺める。64年当時は、バスと都電が走っていた。都電はここから、日本橋、茅場町へと向かう。高層ビルがほとんどなく、首都高もなく、青空が広がっているのが、今見ると印象的だ。(1964年12月4日)

神楽坂通りを挾んだ付近の町名・地名考2

文学と神楽坂

 この「神楽坂通りを挾んだ付近の町名・地名考」は江戸町名俚俗研究会の磯部鎮雄氏が書いたもので、新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』(1970年)に載っています。
 また、磯部鎮雄氏が「御府内備考」から直接取った引用がありますが、ここは1字下げの11ポイントで表しています。同じ11ポイントの引用で、濁音、句読点、さらに()の補修などは氏が直接書いた部分です。
 牛込御門、さらに牛込という名前がどうして付いたのか、説明しています。

白い矢印が昔の外濠

白い矢印が当時の神楽坂から牛込御門までの間隔。外濠と大下水があり、人間は住めなかった。

 牛込御門が出来たのは寛永13年(1636年)である。これは番町と牛込台が陸続きであるから城の擁護のために今の外濠を開削したのであって、その広さは土手際から田町の往還までで相当広かった。明治になって中央線の鉄道を引くために、堤の裾を崩して濠を埋め、線路敷にした。だから今の外濠の幅は大分縮められていることになる。
 御府内備考によれば「正保絵図に牛込御門は牛込口と記す。又寛永十三年蜂須賀阿波守忠英、命を受けて牛込御門石垣升形を作るとあり。この時始めて建てられしならん」とある。今でもその石垣の一部は残っているが、明治30年牛込停車場が出来てもまだ升形は残っていた。

 されば牛込への船入などいへるものもなかりしに、万治の頃、松平陸奥守綱宗、仰せをうけて浅草川より柳原を経て御茶の水通り吉祥寺の脇へ(吉祥寺は駒込に移転する。今も駒込にあり。この頃は水道橋の辺りにあった)かけてほりぬき、水戸家の前(今の後楽園のある所)を過ぎ、牛込御門の際まで掘しかば,はじめて牛込へ船入もいできし。この掘り上たる土を以て小日向築地小川町の築地(この辺往時は湿地帯なりしという)なり、武士の居やしきもたてり。この築地ならざる前は、赤城の明神より目白の不動まで家居一軒もあらで,畑ばかりなりしが、是より武士の屋敷商人の家居も出来たり。この比(ころ)の堀普請は三年を歴たり,その間昼夜を分たずその功をなせしと云。水道橋のくづれ橋、その時の木戸門ありし所也。改撰江戸志に云、に御討入(家康入国をいう)の前牛込のさまをおもふに牛込宮内少輔勝行が館(やかた)あり、又恒岡弾正忠の所領もありしかば、ここに家居ありしにや。(此の説には疑問あり,恒岡は稲毛高田村か)

 とにかく、牛込は番町の一部にも喰い込んでいて、お濠が出来る以前の牛込の地域はとこからとこまでであったということは定め卸い。牛込はいわゆる惣名であって、神楽坂を中心として惣名で区切ると、市ヶ谷、落合、番町、小日向、早稲田に挾まれた地域が牛込であるといえよう。
升形

升形。二つの城門と城壁とでつくった四角い空き地

開削 開鑿とも。山野を切りひらいて道や運河を作ること。
往還 おうかん。道を行き来すること。往復。
御府内備考 ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌で、文政12年(1829年)に成稿。ところが、これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失している。
正保絵図 国立公文書館デジタルアーカイブによれば「正保年中江戸絵図」でしょうか。
蜂須賀阿波守忠英 はちすか あわのくにの ただてる。阿波徳島藩(現、徳島県)の第2代藩主。
升形 ますがた。枡形。斗形。城の一の門と二の門との間にある四角い空き地。侵入した敵軍の動きをさまたげる効果もある。
万治 1658年から1661年まで。万治3年(1660年)、幕府は江戸城小石川堀(神田川濠)の工事をするように命じ、船の通行を企図した。
松平陸奥守綱宗 伊達綱宗。仙台藩第3代藩主。
浅草川 隅田川の別称。
柳原 足立区南部の千住地域東部の地名。
御茶ノ水 文京区湯島から千代田区神田に至る、神田駿河台を中心とした一帯の地名。

正保年中江戸絵図

吉祥寺が見える(正保年中江戸絵図から)

吉祥寺 長禄2年(1458年)、太田道灌が和田倉門に創建。徳川家康の入府に伴い天正19年(1591年)、水道橋(現在の都立工芸高校、文京区本郷1-3−9あたり)に移動。明暦3年(1657年)明暦の大火で焼失し、文京区本駒込に移転。
水戸家 水戸徳川家の江戸上屋敷。現在は小石川後楽園。場所は文京区後楽一丁目。
小日向 文京区の町名で、小日向一丁目から小日向四丁目まで。
築地 海や沼などを埋めてつくった陸地。埋め立て地。
小川町 おそらく新宿区新小川町でしょう。新宿歴史博物館『新修新宿区町名誌』(平成22年、新宿歴史博物館)では「明暦四年(1658)3月、安藤対馬守が奉行となり、筑土八幡町の御殿山を崩して(新小川町を)埋め立てた。また、万治年中(1658ー61)には仙台藩伊達家が御茶ノ水堀を掘って神田川の水を隅田川に通す工事をした際、その堀土でこの地を埋め立て、千代田区小川町の武士たちを移した。そこでこの埋立地を俗に新小川町と呼んだ」
赤城の明神 現在、赤城明神は赤城神社に。
目白の不動 文京区関口二丁目にあった新長谷寺のこと。1945年(昭和20年)、廃寺に。
堀普請 土地を掘って水を通した堀について建築や修理などの土木工事。
功を成す こうをなす。人が成果をだすこと
くづれ橋 崩落・崩壊・落橋事故の橋。神田のくづれ橋は箱崎橋のこと。水道橋のくづれ橋はわかりませんでした。
木戸門 きどもん。2本の柱を冠木かぶきでつなぎ、屋根をのせた、木戸の門。
改撰江戸志 改正新編江戸志でしょうか。東武懐山子編著。天保3年(1832)
 物事を押さえて調べる。よく考える。
牛込宮内少輔勝行 牛込勝行は戦国時代の武将。牛込城は天文年間(1532-55年)に勝行が築城した城。
恒岡弾正忠 天正十八年、江戸城が落城するまでは新宿区内は北条氏の支配下で、戸塚は恒岡弾正忠の知行地だった。
牛込は番町の一部にも喰い込んでいて おそらく違います。神楽坂通りを挾んだ付近の町名・地名考1を読んでください。
惣名 そうみょう。ひとかたまりのものを一つに総括していう名称。総称。

新風土記”を要略すると、
 牛込村は古へ広き地界篭めたり、今の府内なる牛込の町々、及び早稲田、中里、戸塚辺、総て当村の地域なりしが、御打入の後、年を追ひて武家及び寺社の拝領地、又町屋となりし故、耕種の田甚だ少し、当村は往古曠野の地にして、駒込、馬込など云ふ者と同じく、皆ありし処と見ゆ、は和字にて多く集る意なり、も牛の多く居りし処と見ゆ。北條役帳に「江戸牛込、六十四貫四百三十文」大胡が知行なる由記せり。
 牛込家譜に、上野国大胡住人、彦太郎重治、当国牛込に移り、北条氏康に属し、重治の孫宮内少輔勝行が時、天文二十四年(1555年)氏を牛込と改め、当村及び今井(赤坂)桜田、其余若干の所領ありけりと。
 又天正十八年の制札に武蔵国荏原郡江戸の内、牛込七村とあり、荏原郡と記せしは早卒の間、たまたま誤り記せしなるべし。
 牛込台というは、此地西南は高地にして今御徒町(北町、中町、南町)、納戸町、山伏町、二十騎町、甲良町、箪笥町、岩戸町辺り。東は低地長延寺谷より市谷田町、水道町、新小川町辺なり。高低一ならず、谷地、懸崖あり。津久土、赤城は台地、北の方江戸川沿いは低地なり。中央、早稲田、弁天町、榎町、柳町、薬王寺辺亦低地に属す。この区は川らしき川なく、懸崖、傾斜地、いたる処に幅湊するゆえ、坂亦多くあり。今日地形大いに改修せられ、急坂少くなりしも、未だ坂多し。

新風土記 おそらく『御府内風土記』でしょう。1872年(明治5年)の皇居火災で焼失しました。しかし、ここで要略した「新風土記」は、どこから引用したのか、わかりません。
地界 土地の境界。土地。
篭める ひとまとめにする。一括する。
府内 御府内。江戸時代、江戸の市域とされた地域。
御打入 天正18(1590)年、徳川家康は江戸城に入り、根拠地としたが、これを「江戸御打入り」と呼ぶ。
耕種 こうしゅ。土地をたがやして、種や苗を植えること。
曠野 広野。こうや。ひろびろとした野原。ひろの
 ぼく。牛や馬などを放し飼いにする場所。まき。まきば。牧場。
 国字。中に入る。中で詰まる
 ここに。先行の事柄の当然の結果として、後行の事柄が起こる。それで。そこで。それゆえ。
知行
早卒 そうそつ。急なこと。突然なこと
懸崖 けんがい。きりたったがけ。がけ。断崖。絶壁。
幅湊 ふくそう。輻湊。輻輳。四方から寄り集まること。物事がひとところに集中すること。

外濠線にそって|野口冨士男②

文学と神楽坂

 野口冨士男氏の随筆『私のなかの東京』のなかの「外濠線にそって」は昭和51年10月に発表されました。その2です。

 早稲田方面から流れてきた江戸川飯田橋と直角をなしながら、後楽園の前から水道橋お茶の水方向に通じている船河原橋の橋下で左折して、神田川となったのちに万世橋から浅草橋を経て、柳橋の橋下で隅田川に合する。反対に飯田橋の橋下から牛込見附に至る、現在の飯田橋駅ホームの直下にある、ホームとほぽ同長の短かい掘割が飯田堀で、その新宿区側が神楽河岸である。堀はげんざい埋め立て中だから、早晩まったく面影をうしなう運命にある。
 飯田橋を出た市電は、牛込見附まで神楽河岸にそって走った。その河岸の牛込見附寄りの一角が揚場(あげば)とよばれた地点で、揚場町と軽子坂という地名もいまのところ残存するように、隅田川から神田川をさかのぼってくる荷足船の積荷の揚陸場であった。幕末のことだが、夏目漱石の姉たちは、牛込馬場下の自宅から夜明け前にここまで下男に送られてきて屋根船で神田川をくだったのち、柳橋から隅田川の山谷堀口にあたる今戸までいって、猿若町の芝居見物をしたということが『硝子戸の(うち)』に書かれている。
 むろん、私の少年時代には、すでにそんな光景など夢物語になっていたが、それでもその辺には揚陸された瓦や土管がうずたかく積まれてあって、その荷をはこぶ荷馬車が何台もとまっていた。そして、柳の樹の下には、露店の焼大福などを食べている馬方の姿がみられたものであった。

神田川
江戸川 神田川中流のこと。文京区水道関口の大洗堰おおあらいぜきから船河原ふながわら橋までの神田川を昭和40年以前には江戸川と呼びました。
飯田橋 「江戸川は飯田橋と直角をなしながら」というのは「江戸川はJR駅の飯田橋駅と直角をなしながら」という意味なのでしょう。
後楽園、水道橋、お茶の水、万世橋、浅草橋、柳橋。神田川。隅田川。 上図で
船河原橋 本来は江戸川(現、神田川)西岸と東岸を結ぶ橋だった。その後、飯田町東南岸と西北岸を結ぶ飯田橋ができ、また船河原橋から飯田町に行く南向き一方通行の橋(これも船河原橋の一部)もできた。
飯田橋 本来は外濠の外部と内部を結ぶ橋。
飯田堀 牛込堀と神田川を結ぶ堀。1970年代に飯田堀は暗渠化。現在はわずかな堀割を除いて飯田橋セントラルプラザが建っています。%e3%81%ab%e3%81%9f%e3%82%8a%e8%88%b9
神楽河岸 かぐらがし。現在の地域は左下の地図で。過去の地図は右下の図で
揚場 あげば。 船荷を陸揚げする場所。 転じてその町。
荷足船 にたりぶね。小型の和船で、主として荷船として利用しました。
揚場と神楽河岸
 その電車通りからいえば、神楽坂は牛込見附の右手にあたっていて、神楽坂を書いた作品はすくなくない。坂をのぼりかける左側の最初の横丁、志満金という鰻屋のちょっと手前の角に花屋のある横丁を入っていくと、まもなく物理学校――現在の東京理大の前へ出る。そのすぐ手前にあたる神楽町二丁目二十三番地には新婚当時の泉鏡花が住んでいて、徳田秋声の『』 には、その家の内部と鏡花の挙措などが簡潔な筆致で描叙されている。
 また、永井荷風の『夏姿』の主舞台も神楽坂で、佐多稲子の『私の東京地図』のなかの『』という章でも、彼女が納戸町に住んでいたころの神楽坂が回想されている。

大地震のすぐあと、それまで住んでいた寺島の長屋が崩れてしまったので、私は母と二人でこの近くに間借りの暮しをしていた。

 と佐多は書いているが、その作中の固有名詞にかぎっていえば、神楽坂演芸場神楽坂倶楽部牛込会館や菓子屋の紅谷もなくなってしまって、戦災で焼火した相馬屋紙店、履物屋の助六、果物屋の奥がレストランだった田原屋というようななつかしい店は復興している。
 私はつい先日も少年時代の思い出をもつ田原屋の二階のレストランで、女房と二人で満六十五歳の誕生日の前夜祭をしたが、震災で東京中の盛り場が罹災して東京一の繁華をほこった昔日の威勢は、いまの神楽坂にはない。


寺島 墨田区(昔は向島区)曳舟の寺島町
 『黴』は明治44年(1911年)8―11月、徳田秋声氏が「東京朝日新聞」に発表した小説です。実際には「その家(泉鏡花の家)の内部と鏡花の挙措」を書いたものは、この下の文章以外にはなさそうです。氏は泉鏡花氏、0氏は小栗風葉氏、笹村氏は徳田秋声氏をモデルにしています。

 そこから遠くもない氏を訪ねると、ちょうど二階に来客があった。笹村はいつも入りつけている階下したの部屋へ入ると、そこには綺麗なすだれのかかった縁ののきに、岐阜提灯ぎふぢょうちんなどがともされて、青い竹の垣根際にははぎの軟かい枝が、友染ゆうぜん模様のようにたわんでいた。しばらく来ぬまに、庭の花園もすっかり手入れをされてあった。机のうえにうずたかく積んである校正刷りも、氏の作物が近ごろ世間で一層気受けのよいことを思わせた。
     三十
 客が帰ってしまうと、瀟洒しょうしゃな浴衣に薄鼠の兵児帯へこおびをぐるぐるきにして主が降りて来たが、何となく顔がえしていた。昔の作者を思わせるようなこの人の扮装なりの好みや部屋の装飾つくりは、周囲の空気とかけ離れたその心持に相応したものであった。笹村はここへ来るたびに、お門違いの世界へでも踏み込むような気がしていた。
 奥にはなまめいた女の声などが聞えていた。草双紙くさぞうしの絵にでもありそうな花園に灯影が青白く映って、夜風がしめやかに動いていた。
「一日これにかかりきっているんです。あっちへ植えて見たり、こっちへ移して見たりね。もういじりだすと際限がない。秋になるとまた虫が鳴きやす。」と、氏は刻み莨をつまみながら、健かな呼吸いきの音をさせて吸っていた。緊張したその調子にも創作の気分が張りきっているようで、話していると笹村は自分の空虚を感じずにはいられなかった。
 そこを出て、O氏と一緒に歩いている笹村の姿が、人足のようやく減って来た、縁日の神楽坂かぐらざかに見えたのは、大分たってからであった。