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つゆのあとさき|永井荷風(3)

文学と神楽坂

 永井荷風永井荷風氏の「つゆのあとさき」です。昭和6年5月に脱稿し、同年「中央公論」10月号に一挙に掲載しました。青空文庫が今回の底本です。
 主人公は銀座で働く君江さんで、対する男性には色々な人物が出てきますが、ここでは出獄してまだ間がない「おじさん」です。そして「つゆのあとさき」はこれでおしまいです。

 君江は考え考え見附を越えると、公園になっている四番町の土手際に出たまま、電燈の下のベンチを見付けて腰をかけた。いつもその辺の夜学校から出て来て通りすぎる女にからかう学生もいないのは、大方おおかた日曜日か何かの故であろう。金網の垣を張った土手の真下と、水を隔てた堀端の道とには電車が絶えず往復しているが、その響の途絶える折々、暗い水面から貸ボートの静なかいの音にまじって若い女の声が聞える。君江は毎年夏になって、貸ボートが夜ごとににぎやかになるのを見ると、いつもきまって、京子の囲われていた小石川こいしかわの家へ同居した当時の事をおもい出す。京子と二人で、岸のあかりのとどかない水の真中までボートをぎ出し、男ばかり乗っているボートにわざと突当って、それを手がかりに誘惑して見た事も幾度だか知れなかった。それから今日まで三、四年の間、誰にも語ることのできない淫恣いんしな生涯の種々様々なる活劇は、丁度現在目の前によこたわっている飯田橋いいだばしから市ヶ谷見附に至る堀端一帯の眺望をいつもその背景にして進展していた。と思うと、何というわけもなくこの芝居の序幕も、どうやら自然と終りに近づいて来たような気がして来る……。
 火取虫ひとりむしつぶてのように顔をかすめて飛去ったのに驚かされて、空想から覚めると、君江は牛込から小石川へかけて眼前に見渡す眺望が急に何というわけもなく懐しくなった。いつ見納みおさめになっても名残惜しい気がしないように、そして永く記憶から消失きえうせないように、く見覚えて置きたいような心持になり、ベンチから立上って金網を張った垣際へ進寄すすみよろうとした。その時、影のようにふらふらと樹蔭こかげから現れ出た男にあやうく突き当ろうとして、互に身を避けながらふと顔を見合せ、
「や、君子さん。」
「おじさん。どうなすって。」と二人ともびっくりしてそのまま立止った。おじさんというのは牛込芸者の京子を身受してうし天神てんじんしたかこっていた旦那だんなの事である。君江は親の家を去って京子の許に身を寄せた時分、絶えず遊びに来る芸者たちがおじさんおじさんというのをまねて、同じようにおじさんと呼んでいた。本名は川島金之助といってある会社の株式係をしていたがつかい込みの悪事があらわれて懲役に行ったのである。その時分は結城ゆうきずくめった身なりに芸人らしく見えた事もあったのが、今は帽子もかぶらず、洗ざらし手拭地てぬぐいじ浴衣ゆかた兵児帯へこおびをしめ素足に安下駄をはいた様子。どうやら出獄してまだ間がないらしいようにも思われた。
見附 新見附でしょう
四番町 現在の四番町とは違います。九段北四丁目の北部です。近くに新見附橋があります。旧麹町区の新旧町名対照図 震災復興前後

旧麹町区の一部
電車 大正時代、電車といえば路線電車=チンチン電車のことです。
京子 君江の小学校の友達で、牛込の芸者になり、さらに、ある会社の株式係の川島金之助のめかけに。君江と京子と川島の三人で一夜を共にしたことも。しかし川島は横領の咎で収監。しかし、川島は仮釈放中か満期釈放で、自由の身になっていました。
小石川の家 小石川は小石川区です。家は小石川区諏訪町にあると後でわかります。
淫恣 いんし。みだらで、だらしがない。
活劇 劇の展開を思わせるような波乱。激しく派手な格闘。乱闘
市ヶ谷見附 市ヶ谷見附は江戸時代に江戸城の外堀に作られた枡形の城門ですが、その見附は今はなくなり、「市谷見附」交差点だけが残っています。
火取虫 夏、灯火に集まるヒトリガなどの蛾の類
 れき。小さい石。こいし。いしころ。つぶて。
牛込 牛込区、特に神楽坂を中心にする地域
牛天神下 後で「諏訪町で御厄介になっていた」と君江が言っています。「牛天神下」とは「牛天神=北野神社の下」という意味なのでしょう。
結城ずくめ 結城紬は茨城県結城市の周辺で織られる、奈良時代から続く高級絹織物。「ずくめ」は「そればかりだ」
洗ざらし 衣服などの、幾度も洗って、色は薄れる状態。
兵児帯 和服用帯の一種。並幅か広幅の布で胴を二回りし、後ろで締める簡単な帯。

「君子さんの方はその後どうしているんだね。定めし好きな人ができて一緒に暮しているんだろう。」
「いいえ。おじさん。相変らずなのよ。とうとう女給になってしまったのよ。病気でこの一週間ばかり休んでいますけれど。」
「そうか。女給さんか。」
 話しながら歩いて行くうち、川島は木蔭こかげのベンチには若い男女の寄添っているほかには、人通りといっても大抵それと同じような学生らしいものばかりなので、いくらか安心したらしく、自分から先に有合うベンチに腰をおろし、「いろいろききたい事もあるんだ。君子さんの顔を見ると、やっぱりいろいろな事を思出すよ。むかしの事はさっぱり忘れてしまうつもりでいたんだが……。」
「おじさん。わたしも今から考えて見ると、諏訪町で御厄介になっていた時分が一番面白かったんですわ。さっきも一人でそんな事を考出して、ぼんやりしていましたの。今夜はほんとに不思議な晩だわ。あの時分の事を思い出して、ぼんやり小石川の方を眺めている最中、おじさんに逢うなんて、ほんとに不思議だわ。」
「なるほど小石川の方がよく見えるな。」と川島も堀外の眺望に心づいて同じように向を眺め、「あすこの、あかるいところが神楽かぐらざかだな。そうすると、あすこが安藤阪あんどうざかで、の茂ったところが牛天神になるわけだな。おれもあの時分には随分したい放題な真似まねをしたもんだな。しかし人間一生涯の中に一度でも面白いと思う事があればそれで生れたかいがあるんだ。時節が来たらあきらめをつけなくっちゃいけない。」
「ほんとうね。だから、わたしも実は田舎の家へ帰ろうかと思っていますの。
定めし さだめし。あとに推量の語を伴って、おそらく。きっと。さぞかし。
女給 じょきゅう。カフェ・バー・キャバレーなどで、客の接待に当たった女性。ホステス
有合う ありあう。ものがたまたまそこにある。折よくその場にある。
諏訪町 現在は文京区後楽二丁目の一部。

小石川区諏訪町

心づいて こころづく。心付く。気がつく。考えが回る。失っていた意識を取り返す。正気づく。
 「阪」のこざと偏から土偏に変えると「坂」になります。「阪」は「大阪」など地名・人名にしか使われていません。それ以外には「坂」を使います。

昭和17年(標準漢字表)
昭和21年(当用漢字表)
昭和23年(戸籍法)人名用漢字に阪は使えない
昭和56年(常用漢字表)
平成16年(常用漢字表)人名用漢字に阪は使える

安藤坂 春日通りの「伝通院前」から南に下る坂道。
牛天神 うしてんじん。牛天神北野神社は、寿永元年(1182)、源頼朝が東国経営の際、牛に乗った菅神(道真)が現れ、2つの幸福を与えると神託があり、 同年の秋には、長男頼家が誕生し、翌年、平家を西海に追はらうことができました。そこで、元暦元年(1184)源頼朝がこの地に社殿を創建しました。

安藤坂

 突然土手の下から汽車の響と共に石炭のけむりが向の見えないほど舞上って来るのに、君江は川島の返事を聞く間もなくたもとに顔をおおいながら立上った。川島もつづいて立上り、
「そろそろ出掛けよう。差閊さしつかえがなければ番地だけでも教えて置いてもらおうかね。」
「市ヶ谷本村町丸◯番地、亀崎ちか方ですわ。いつでも正午おひる時分、一時頃までなら家にいます。おじさんは今どちら。」
「おれか、おれはまア……その中きまったら知らせよう。」
 公園の小径こみち一筋ひとすじしかないので、すぐさま新見附へ出て知らず知らず堀端の電車通へ来た。君江は市ヶ谷までは停留場一ツの道程みちのりなので、川島が電車に乗るのを見送ってから、ぶらぶら歩いて帰ろうとそのまま停留場に立留っていると、川島はどっちの方角へ行こうとするのやら、二、三度電車がとまっても一向乗ろうとする様子もない。話も途絶えたまま、またもや並んで歩むともなく歩みを運ぶと、一歩一歩ひとあしひとあし市ヶ谷見附が近くなって来る。
「おじさん。もうすぐそこだから、ちょっと寄っていらっしゃいよ。」と言った。君江はもし田舎へでも帰るようになれば、いつまた逢うかわからない人だと思うので、何となく心さびしい気もするし、またあの時分いろいろ世話になった返礼に、出来ることならむかしの話でもして慰めて上げたいような気もしたのである。
「さしつかえは無いのか。」
「いやなおじさんねえ。大丈夫よ。」
「間借をしているんだろう。」
「ええ。わたし一人きり二階を借りているんですの。下のおばさんも一人きりですから、誰にも遠慮は入りません。」
「それじゃちょっとお邪魔をして行こうかね。」
 たもと。和服の袖の下の袋状の所。
市ヶ谷本村町 戦前の市ヶ谷本村町は、陸軍士官学校を除くと、小さかったようです。

大正11年 東京市牛込区

電車通 路面電車が通る道

 君江さんは「おじさん」と一緒に下宿の2階にやってきます。

「日本酒よりかえっていいのよ。後で頭が痛くならないから。」と咽喉のどの焼けるのをうるおすために、飲残りのビールをまた一杯干して、大きくいきをしながら顔の上に乱れかかる洗髪をさもじれったそうに後へとさばく様子。川島はわずか二年見ぬ間に変れば変るものだと思うと、じっと見詰めた目をそむける暇がない。その時分にはいくら淫奔いんぽんだといってもまだ肩や腰のあたりのどこやらに生娘きむすめらしい様子が残っていたのが、今ではほおからおとがいへかけて面長おもながの横顔がすっかり垢抜あかぬして、肩と頸筋くびすじとはかえってその時分より弱々しく、しなやかに見えながら、開けた浴衣の胸から坐ったもものあたりの肉づきはあくまで豊艶ゆたかになって、全身の姿の何処ということなく、正業の女には見られない妖冶ようやな趣が目につくようになった。この趣はたとえば茶の湯の師匠には平生の挙動にもおのずから常人と異ったところが見え、剣客けんかくの身体には如何いかにくつろいでいる時にもすきがないのと同じようなものであろう。女の方では別に誘う気がなくても、男の心がおのずと乱れて誘い出されて来るのである。
「おじさん。わたしも今ので少し酔って来ましたわ。」と君江は横坐りにひざを崩して窓の敷居に片肱かたひじをつき、その手の上に頬を支えて顔を後に、洗髪を窓外の風に吹かせた。その姿を此方こなたから眺めると、既に十分酔の廻っている川島の眼には、どうやら枕の上から畳の方へと女の髪の乱れくずれる時のさまがちらついて来る。
 君江はなかばをつぶってサムライ日本何とやらと、鼻唄はなうたをうたうのを、川島はじっと聞き入りながら、突然何か決心したらしく、手酌てじゃくで一杯、ぐっとウイスキーを飲み干した。
     *     *     *     *

 何やら夢を見ているような気がしていたが、君江はふと目をさますと、暑いせいかその身は肌着一枚になって夜具の上に寐ていた。ビールやウイスキーのびんはそのまま取りちらされているが、二階には誰もいない。裏隣うらどなりの時計が十一時か十二時かを打続けている。ふと見るとまくらもとに書簡箋しょかんせんが一枚二ツ折にしてある。鏡台の曳出ひきだしに入れてある自分の用箋らしいので、横になったままひろげて見ると、川島の書いたもので、
 「何事も申上げる暇がありません。今夜僕は死場所を見付けようと歩いている途中、偶然あなたに出逢であいました。そして一時全く絶望したむかしの楽しみを繰返す事が出来ました。これでもうこの世に何一つ思置く事はありません。あなたが京子に逢ってこのはなしをする間には僕はもうこの世の人ではないでしょう。くれぐれもあなたの深切しんせつを嬉しいと思います。私は実際の事を白状すると、その瞬間何も知らないあなたをも一緒にあの世へ連れて行きたい気がした位です。男の執念はおそろしいものだと自分ながらゾッとしました。ではさようなら。私はこの世の御礼にあの世からあなたの身辺を護衛します。そして将来の幸福を祈ります。KKより。」
 君江は飛起きながら「おばさんおばさん。」と夢中で呼びつづけた。
昭和六年辛未かのとひつじ三月九日病中起筆至五月念二夜半脱初稿荷風散人

淫奔 いんぽん。性関係にだらしのないこと。みだらなこと。
生娘 うぶな娘。男性との性体験のない娘。処女。
 おとがい。下あご。あご。下顎の正中部、下唇の下に、横走する溝をへだてて突出する部分。英語でchinと呼ぶ部分だが、日本語には「おとがい」という古びた言葉しかない。
垢抜け 洗練した。素敵に見せられるように外見を変化させること。
豊艶 ほうえん。ふくよかで美しい。
正業 せいぎょう。正当な職業。かたぎの職業。
妖冶 ようや。なまめかしくあでやかな。妖艷
平生 へいぜい。ごく普通の状態。状況の中で生活している時。ふだん。平素。
サムライ日本 昭和6年「サムライ日本」は西条八十が作詞、松平信作が作曲して、「人を斬るのが侍ならば/恋の未練がなぜ斬れぬ/のびた月代寂しく撫でて/新納にいろうつる千代ちよ にがわらひ/昨日勤王 明日は佐幕/その日その日の出来ごころ/どうせおいらは裏切者よ/野暮な大小落し差し」と続きます。新納鶴千代は主人公で、大老井伊直弼の隠し子です。
思置く おもいおく。気にかける。あとに心を残す。思い残す。
念二 「念」は漢数字「廿」の大字だいじで、二十。したがって、「念二」は「22」になります。
夜半 よはん。よなか。0時の前後それぞれ30分間くらいを合わせた1時間くらい
 サイ。わず-か。わずかに。すこし。やっと。
散人 さんじん。役に立たない人。俗世間を離れて気ままに暮らす人。官途につかない人。閑人。文人などが雅号の下に添えて用いる語。散士。

つゆのあとさき|永井荷風(2)

文学と神楽坂

 永井荷風永井荷風氏の「つゆのあとさき」です。昭和6年5月に脱稿し、同年「中央公論」10月号に一挙に掲載しました。今回は「荷風全集第八巻」(岩波書店)から直接とりました。
 主人公は銀座のカッフェーで働く女給の君江さんで、対する男性には色々な人物が出てきますが、ここでは自動車輸入商会の支配人の矢さんを中心にしています。

「神樂。五十錢。」と矢田は君江の手を取つて、車に乗り、「阪の下で降りやう。それから少し歩かうぢやないか。」
「さうねえ。」
「今夜は何となく夜通し歩きたいやうな氣がするんだよ。」と矢田は腕をまはして輕く君江を抱き寄せると、君江は其のまゝ寄りかゝつて、何も彼も承知してゐながら、わざと、
「矢さん。一軆どこへ行くの。」ときいた。
 矢田の方でも隨分白ばツくれた女だとは思ひながら、其の經歴については何事も知らないので、表面は摺れてゐても、其の實案外それ程ではないのかと云ふ氣もするので、此の場合は女の仕向けるがまゝ至極おとなしい女給さんとして取扱つてゐれば聞違ひはないと、君江の耳元へ口を寄せて、
待合だよ。」と囁き聞かせ、「差しつかへはないだらう。今夜は晩いからね。僕の知つてる處がいいだらう。それとも君江さん。どこか知つてゐるなら、そこへ行かう。」
 思ひがけない矢田の仕返しに、流石の君江も返事に困り、「いゝえ。何處だつてかまはないわ。」
「ぢゃ、阪下で降りやう。尾澤カツフヱーの裏で、静な家を知つてゐるから。」
 君江はうなづいたまゝの外へ目を移したので、會話はなしはそのまゝ杜絶とだえる間もなく車は神樂阪の下に停つた。商店は殘らず戸を閉め、宵の中賑な露店も今は道端にや紙屑を散らして立去つた後、ふけ渡つた阪道には屋臺の飲食店がところ/”\に殘つてゐるばかり。酔つた人達のふら/\とよろめき歩む間を自動車の馳過る外には、藝者の姿が街をよこぎつて横町から横町へと出没するばかりである。毘沙門のの前あたりまで來て、矢田は立止つて、向側の路地口を眺め、
「たしかこの裏だ。君江さん。草履だらう。水溜りがあるぜ。」
 石を敷いた路地は、二人並んでは歩けない程せまいのを、矢田は今だに一人先に立つて行つたら君江に逃げられはせぬかと心配するらしく、ハメ板や肩先が觸るのもかまはず、身をにしながら並んで行くと、突當りに稻荷らしい小さなやしろがあつて、低い石垣の前で路地は十文字にわかれ、その一筋はすぐさま石段になつて降り行くあたりから、其時靜な下駄の音と共に褄を取つた藝者の姿が現れた。二人はいよ/\身を斜にして道を譲りながら、ふと見れば、乱れた島田のたぼに怪し氣な癖のついたのもかまはず、歩くのさへ退儀らしい女の様子。矢口は勿論の事。君江の目にも寐静つた路地裏の情景が一段艶しく、いかにも深け渡つた色町の夜らしく思ひなされて來たと見え、言合したやうに立止つて、その後姿を見送つた。それとも心づかぬ藝者は、稻荷の前から左手へ曲る角の待合の勝手口をあけて這入るが否や、疲れ果てた様子とは忽ち變つた威勢のいゝ聲で、「かアさん。もう間に合はなくつて。」
 君江は耳をすましながら、「矢さん。わたしも藝者にならうと思つたことがあるのよ。ほんとうなのよ。」
「さうか。君江さんが。」と矢田はいかにもびつくりしたらしく、其の事情わけをきかうとした時、早くも目指した待合の門口へ來た。内にはまだ人の氣勢けはひがしてゐたが、門の扉の閉めてあるのを、矢田は「おい/\」と呼びながら敲くと、すぐに硝子戸の音と、下駄をはく音がして、
「どなたさま。」と女の聲。
「僕。矢さんだよ。」
カッフェー 本来のカフェの定義はフランス語でコーヒー(豆)。コーヒー・紅茶などの飲物、菓子、果物や軽食を客に供する飲食店
女給 カフェ・バー・キャバレーなどで、客の接待に当たった女性。ホステス
 坂と阪は異体字で、同じ意味の漢字です。通常では大阪などの特別な地名や人名では「阪」。それ以外には「坂」を使います。
しらばくれた 知らない振りをする。知っていながら知らないふりをする。
摺れる すれる。いろいろの経験をして、純粋な気持ちがなくなる。世間ずれがする。
待合 まちあい。客と芸者に席を貸して遊興させる場所
尾沢カフェー カフェー・オザワ。大東京繁昌記に詳しい。
 窓の旧字体。
賑な にぎやかな。富み栄えて繁盛する。にぎわう。
 あくた。腐ったりして捨てられているもの。ごみ。くず
ふけ渡つた 更け渡る。ふけわたる。夜がすっかりける。深夜になる。夜が深まる。
馳過る かけすぎる。はせすぎる。走って過ぎる。馬を急ぎ走らせて通る。またたく間に過ぎてしまう。
 ほこら。神を祭った小さなやしろ
向側の路地口 平松南氏によれば、ごくぼその路地です。
草履 ぞうり。歯がなく、底が平らで、鼻緒がある。

女物の草履

ハメ板 壁や天井に連続して張る板
 ひじ。肘。上腕と前腕とをつなぐ関節部の外側。
觸る さわる。軽くさわる。ふれる。
 ななめ。なのめ。傾いている。
稲荷 いなり。稲荷神社。京都市伏見区深草にある伏見稲荷大社が総本社。
 やしろ。神の来臨するところ。神をまつる殿舎。神社。
路地は十文字に 地図は新宿区教育委員会の「神楽坂界隈の変遷」「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)から取りました。ここで稲荷と四つ角を赤い四角()で、石段を赤丸()で表すと、行った待合は「松月」「よろづ」などになるでしょう。なお、赤丸()から、右につながる道は現在ありません。新しい道は左にできています(兵庫横丁は1960年代から

新宿区教育委員会「神楽坂界隈の変遷」「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)

新宿区教育委員会の「神楽坂界隈の変遷」「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)と現在

褄を取る つまをとる。すその長い着物の褄を手でつまみあげて歩く。芸者になる。左褄をとる。
 たぼ。日本髪の部分名で、後頭部から耳裏の部分

日本髪

寝静った ね-しずまる。夜がふけ、人々が寝入ってあたりが静かになる。
艶めかしい なまめかしい。姿やしぐさが色っぽい。あだっぽい。
思いなす 思い做す。心に受け取る。思い込む。推定して、それと決める。
言合す いいあわす。前もって話し合う。口をそろえて言う。同じことを言う。相談する
心づかぬ 心遣(こころづかい)とは「いろいろと、細かく気をつかうこと」。「心づかぬ」は反対語
忽ち たちまち。すぐ。即刻
敲く たたく。叩く。手や道具を用いて打つ。続けて、あるいは何度も打つ。

 君江はおぼえず口の端に微笑を浮べたのを、矢田は何事も知らないので、笑顏を見ると共に唯嬉しさのあまり、力一ぱい抱きしめて、
「君さん、よく承知してくれたねえ。僕は到底駄目だろうと思つて絶望していたんだよ。」
「そんな事ないわ。わたしだつて女ですもの。だけれど男の人はすぐ外の人に話をするから、それでわたし逃げてゐたのよ。」と君江は男の胸の上に抱かれたまゝ、羽織の下に片手を廻し、帶の掛けを抜いて引き出したので、薄い金紗捻れながら肩先から滑り落ちて、だんだら染長襦袢の胸もはだけた艶しさ。男はます/\激した調子になり、
「こう見えたつて、僕も信用が大事さ。誰にもしやべるもんかね。」
「カツフヱーは實に口がうるさいわねえ。人が何をしたつて餘計なお世話ぢやないの。」と言ひながら、端折りしごきを解き棄てひざの上に抱かれたまゝ身をそらすやうにして仰向あおむきに打倒れて、「みんな取つて頂戴、足袋もよ。」
 君江はかういう場合、初めて逢つた男に對しては、度々馴染を重ねた男に對する時よりも却って一倍の興味を覺え、思ふさま男を惱殺して見なければ、氣がすまなくなる。いつから斯う云う癖がついたのかと、君江は口説かれてゐる最中にも時々自分ながら心付いて、中途で止めやうと思ひながら、さうなると却て止められなくなるのである。美男子に對する時よりも、醜い老人や又は最初いやだと思つた男を相手にして、こういう場合に立到ると、君江は猶更烈はげしくいつもの癖が增長して、後になつて我ながら淺間しいと身顫ひする事も幾度だか知れない。
 この夜、平素氣障きざな奴だと思つてゐた矢田に迫まられて、君江は途中から急に其の言うがまゝになり出したのも、知らず/\いつもの惡い癖を出したまでの事である。
帯の掛け 帯掛。おびかけ。大名の奥女中などが使った帯留の一種。女性の帯の上を、おさえしめるひもで、両端に金具があってかみ合わせるようになっている
金紗 きんしゃ。紗の地に金糸などを織り込んで模様を表した絹織物。
 あわせ。裏地のついている衣服
捻る ねじる。捩る。捻る。拗る。細長いものの両端に力を加えて、互いに逆の方向に回す。ひねって回す。
だんだら染 だんだんぞめ。段だら染。布帛ふはくや糸を種々の色で横段に染めること
長襦袢 ながじゅばん。長着の下に重ねて着用する下着
艶しさ なまめかしい。艷めかしい。性的魅力を表現して、色っぽい。つやっぽい。
激する げきする。怒りなどで興奮する。いきりたつ。
端折り はしょり。着物のすそをはしょること。ある部分を省いて短く縮めること
しごき 志古貴。帯の下に巻いて斜め後ろに垂らす飾り帯
棄て すてる。捨てる。いらないか、価値がないものとして投げ出す。
馴染 なじみ。同じ遊女のもとに通いなれること。
却って かえって。予想とは反対になる。反対に。逆に。
口説く くどく。自分の意志に従わせようと、あれこれ言い迫る。こちらの意向を相手に承知してもらおうとして、熱心に説いたり頼んだりする。説得する
止める やめる。継続しているものを続かなくさせる。
立到る たちいたる。ある状態になる。とうとうそのような事態になる。
猶更 なおさら、いちだんと。ますます。
烈しい はげしい。烈い。激い。勢いが強い。あらあらしい。
身顫い みぶるい。寒さや恐ろしさなどのために体がふるえ動く
気障 服装、態度、言葉などが気取っていて、いやみ。

つゆのあとさき|永井荷風(1)

文学と神楽坂

 永井荷風永井荷風氏の「つゆのあとさき」です。昭和6年5月に脱稿し、同年「中央公論」10月号に一挙に掲載しました。青空文庫が今回の底本です。
 主人公は銀座のカッフェーで働く女給の君江さんで、対する男性には色々な人物が出てきますが、ここでは自動車輸入商会の支配人のヤアさんを中心にしています。

 表梯子おもてばしごの方から蝶子ちょうこという三十越したでっぷりした大年増おおどしま拾円じゅうえん紙幣を手にして、「お会計を願います。」と帳場の前へ立ち、壁の鏡にうつる自分の姿を見て半襟はんえりを合せ直しながら、
「君江さん。二階にヤアさんがいてよ。行っておあげなさいよ。うるさいから。」
「さっき見掛けたけれど、わたしの番じゃないから降りて来たのよ。あの人、せん辰子たつこさんのパトロンだって、ほんとうなの。」
「そうよ。日活にっかつヨウさんに取られてしまったのよ。」とはなし出した時会計の女が伝票と剰銭つりせんとを出す。その時この店の持主池田何某なにがしという男に事務員の竹下というのが附きしたがい、コック場へ通う帳場のわきの戸口から出て来る姿が、酒場の鏡に映った。蝶子と君江とは挨拶あいさつするのが面倒なので、さっさと知らぬふりで二階の方へ行く。池田というのは五十年配の歯の出た貧相ひんそうな男で、震災当時、南米の植民地から帰って来て、多年の蓄財を資本にして東京大阪神戸の三都にカッフェーを開き、まず今のところでは相応に利益を得ているという噂である。
 表梯子から二階へ上った蝶子は壁際のボックスにすわっている二人連れの客のところへ剰銭を持って行き、君江は銀座通を見下みおろす窓際のテーブルを占めたヤアさんというお客の方へと歩みを運びながら、
「いらっしゃいまし。この頃はすっかりお見かぎりね。」
「そう先廻りをしちゃアずるいよ。先日はどうも、すっかり見せつけられまして。あんなひどい目にった事は御在ございません。」
ヤアさん。たまにゃア仕方がないことよ。」と愛嬌あいきょうを作って君江は膝頭ひざがしらの触れ合うほどに椅子を引寄せて男のそばに坐り、いかにも懇意らしく卓テーブルの上に置いてある敷島しきしまの袋から一本抜取って口にくわえた。
 ヤアさんというのは赤阪あかさか溜池ためいけの自動車輸入商会の支配人だという触込ふれこみで、一時ひとしきりは毎日のように女給のひまな昼過ぎを目掛けて遊びに来たばかりか、折々店員四、五人をつれて晩餐ばんさん振舞ふるまう。時々これ見よがしに芸者をつれて来る事もある。年は四十前後、二ツはめているダイヤの指環ゆびわを抜いて見せて、女たちに品質の鑑定法や相場などを長々と説明するというような、万事思切って歯の浮くような事をする男であるが、相応に金をつかうので女給れんは寄ってたかって下にも置かないようにしている。君江は既に二、三度芝居の切符を買ってもらったこともあるし、休暇時間に松屋へ行って羽織と半襟を買ってもらったこともあるので、この次どこかへ御飯ごはんでも食べに行こうと誘われれば、その先は何を言われても、そうすげなく振切ってしまうわけにも行かない位の義理合いにはなっている。それ故ヤアさんからひやかされたのを、なまじ胡麻化ごまかすよりもあからさまに打明けてしまった方が、結句面倒でなくてよいと思ったのである。
「とにかくうらやましかったな。罪なことをするやつだよ。」とテーブルの周囲に集っているおたみ、春江、定子さだこなど三、四人の女給へわざとらしく冗談に事寄せて、「お二人でおそろいのところをうしろからすっかり話をきいてしまったんだからな。人中なのに手も握っていた。」
「あら。まさか。そんなにいちゃいちゃしたければ芝居なんぞ見に行きゃアしないわ。わきへ行くわよ。」
「こいつ。ひどいぞ。」とヤアさんはつまねをするはずみにテーブルのふちにあったサイダアのびんを倒す。四、五人の女給は一度に声を揚げて椅子から飛び退き、長いたもとをかかえるばかりか、テーブルからゆかしたた飛沫とばしりをよける用心にとすそまでつまみ上げるものもある。君江は自分の事から起った騒ぎに拠所よんどころなく雑巾ぞうきんを持って来て袂の先を口にくわえながら、テーブルを拭いているうち、新しく上って来た二、三人連づれの客。いらっしゃいましと大年増の蝶子が出迎えて「番先ばんさきはどなた。」と客の注文をきくより先に当番の女給を呼ぶ金切声かなきりごえ。「君江さんでしょう。」と誰やらの返事に君江は雑巾を植木鉢の土の上に投付けて「はアい。」と言いながら、新来のお客の方へと小走りにかけて行った。
カッフェー 本来のカフェの定義はフランス語でコーヒー(豆)。コーヒー・紅茶などの飲物、菓子、果物や軽食を客に供する飲食店
女給 じょきゅう。カフェ・バー・キャバレーなどで、客の接待に当たった女性。ホステス
表梯子 表に面した方にある階段。玄関の近くにある梯子段。
大年増 年増の中でも年のいった中年の婦人。40歳ぐらいの婦人。今日では芸者などについていうことが多い。古くは娘盛りをかなり過ぎた年頃の女性で、30歳前後からいったか。
半襟 和服用の下着の襦袢に縫い付ける替え衿。当然安い。
 せん。時間的に早い方。ある時点より前。最初
先廻り 相手より先に物事をしたり、考えたりすること。「先回りした言い方」
懇意 親しく交際している。仲よくつきあう
敷島 巻きたばこの銘柄。大蔵省専売局が明治37年6月29日から昭和18年12月下旬まで製造・販売していた。
赤阪溜池 赤坂溜池町。大きな溜池があったから。明治21年から昭和41年6月30日まで、港区赤坂一丁目1~5、9番の一部、二丁目1~5番。
女給 カフェ・バー・キャバレーなどで、客の接待に当たった女性。ホステス
思切って おもいきって。かたく心を決めて、大胆に。極端に。非常に。
歯の浮く 軽はずみで気障きざな言行を見たり聞いたりして、不快な気持になる。
羽織 和装で、長着の上に着る丈の短い衣服。
義理合い  義理にからんだつきあい。交際上の関係。
わき 目ざすものからずれた方向。よそ。横。すぐそば。かたわら。
 和服の袖付けから下の、袋のように垂れた部分。
 衣服の下方のふち
拠所ない よんどころない。そうするよりしかたがない。やむをえない。
番先 先にする順番になる。また、その順番

 下記のあいりょうそう氏は鉄工所重役として働きながら、永井荷風氏の側近中の側近として、親密な交遊を続けました。氏の「荷風余話」(岩波書店、2010)で「つゆのあとさき」について昭和31年にこう書いています。

 昭和6年1月15日、短篇小説「紫陽花」を脱稿した先生は、中一週間置いて1月22日、この小説「つゆのあとさき」を起稿された。爾来熱心に執筆を続けられ、3月に入って感興著しく起り、執筆五更に至ると言う日が幾日も続いた。4月、世間はお花見気分に浮立ったが、依然家に引龍って執筆の日が多く「5月22日、遂に小説の稿を脱す、仮に夏の草と題す。」と「断腸亭日乗」に記載された。5月26日、小説「夏の草」を改めて「つゆのあとさき」と改題された。大正6年、新橋の花柳界を背景に芸者の風俗を描いた小説「腕くらべ」の名作を世に問い、江湖絶讃を博した先生は、今度は昭和の特異な産物女給の生態を描写しようと大正の末年頃から銀座のカフェータイガーに足繁く通い始めた。大正15年12月25日、改元されて昭和となったが、明けて昭和2年の正月、元旦から早々はやばやとタイガーの楼上に在り、「二更の後帰る」と日乗に記され、その熱心の程が窺われる。
 タイガーに行かれた帰りには、必ず四、五人の女給を連れて、しるこ屋、すし屋、小料理屋等で彼女等の御機嫌をとり結び、たわいのない馬鹿話に打興じながら、半面作家として犀利な観察眼を働かせ彼女等の生態を完膚なきまで研究し尽した。尤も此間いささ研究の度が過ぎてタイガーの女給お久と言う莫連ばくれんに引っ掛り、果ては偏奇館に坐り込まれ「女房にするか、財産を半分よこすか、二つに一つの返答しろ」と凄まれて、びっくり仰天、交番の巡査を頼んで鳥居坂警察の厄介となり、女は豚箱へ、先生は大眼玉を喰うと言う飛んだ余興の一幕を演じたこともあった。或る時、私は先生に小説のモデルに就いて伺ったことがあった。其時先生のお話では、「小説の主人公とするモデルには、決してI人の特定の人物は使わない。四人とか五人とか色々な人から各々その人の特徴を剔出して一つにまとめ一人の人間を創り上げる」とのことであった。「つゆのあとさき」の主人公女給君江も先生が永い年月としつきをかけて、大勢の女給の中から苦心惨憺、遂に一人の君江と言う意中の人物を創り上げたものと見える。この小説が昭和6年10月1日発行の「中央公論」第46年第10号に発表されるや、俄然、文壇注目の的となり、各方面に異常な反響を与えた。谷崎潤一郎氏は翌11月「改造」誌上に「永井荷風氏の近業」と題して「つゆのあとさき」に対する長い評論を掲載した。
爾来 じらい。それより後。それ以後
五更 ごこう。古代中国の時刻制度で、ほぼ午後七時から二時間ずつに区分した。五更は春は午前三時頃から五時頃まで、夏は午前二時頃から四時頃まで、秋は午前二時半すぎから五時頃まで、冬は午前三時二〇分すぎから六時頃まで。
江湖 こうこ。川と湖。特に、揚子江と洞庭湖。世の中。世間。天下
絶讃 ぜっさん。絶賛。口をきわめてほめること。この上ない称賛。
カフェータイガー かつて銀座にあった飲食店。カフェー・ライオンの斜向かいの焼けビルを修復して開業。ライオンは品行が悪い女給はすぐクビにしていたため、タイガーはライオンをクビになった女給をどんどん雇用。
楼上 ろうじょう。高い建物の上。二階。階上
二更 にこう。昔の時間の単位で、五更の一つ。二更は大体午後9時から11時頃。
聊か いささか。ほんの少し。わずか。
莫連 主として女についていい、世間ずれしていて悪がしこいこと。すれっからし。ばくれんおんな。
偏奇館 麻布にあった永井荷風の住居。木造2階建ての洋館。大正9年から居住。昭和20年、東京大空襲で焼失。
鳥居坂警察 明治14年、麻布警察署として開設。明治43年、麻布鳥居坂警察署と改称。大正二年以降、麻布区は同署と霞町警察署(大正四年以降は麻布六本木警察署)の所轄に分割。
豚箱 俗称で、警察署の留置場を指す
剔出 てきしゅつ。ほじくり出す。あばき出す。
俄然 がぜん。にわかに。だしぬけに。突然に。
長い評論 これは「『つゆのあとさき』を読む」に変わっています。一部を抜粋します。
今度の「つゆのあとさき」にも、古めかしいところは可なり眼につく。否、文章の体裁、場面々々の変化配置の工合など、古いと云へば此れが一番古いかも知れない。たとへば篇中至る所に偶然の出會ひがあり、その出會ひを利用して筋を運んで行くやり方など、一と昔前の小説や戯曲に慣用された手段である。しかしそれにも拘はらず、その古い形式が題材の持つ近代的色彩と微妙なコントラストを成して、一種の風韻を添へてゐる。作者は表面緊張した素振りを現はさず、いかにも大儀さうに古めかしさうにかいてゐながら、その無愛想な筆の跡が最後迄辿って読んで行くと、女主人公の君江と云ふ女性があざやかに浮き上って来るのに気がつく。のみならず、こゝには夜の銀座を中心とする昭和時代の風俗史がある。震災後に於ける東京人の慌しく浅ましい生活の種々相がある。これはたしかに紅葉山人の世界でも為永春水の世界でもない。「腕くらべ」は作者の過去の業績の總決算に過ぎなかったが、「つゆのあとさき」は齢五十を越えてからの作者の飛躍を示してゐる。私は何よりも先づ我が敬愛する荷風先生の健在を喜びたい。
為永春水 ためながしゅんすい。江戸時代後期の戯作者。人情本で有名。生年は寛政2年。死亡は天保14年12月23日。享年54。

夏すがた|永井荷風(1)

文学と神楽坂

永井荷風 永井荷風氏の「夏すがた」です。書き下ろし小説で、大正4年に籾山書店で出版され、戦前には風俗紊乱の罪で発禁となりました。これは永井荷風選集第1巻の「夏すがた」(東都書房、1956)からです。

 日頃(ひごろ)懇意(こんい)仲買(なかがひ)にすゝめられて()はゞ義理(ぎり)づく半口(はんくち)()つた地所(ぢしよ)賣買(ばいばい)意外(いぐわい)大當(おほあた)り、慶三(けいざう)はその(もうけ)半分(はんぶん)手堅(てがた)會社(くわいしや)株券(かぶけん)()ひ、(のこ)半分(はんぶん)馴染(なじみ)藝者(げいしや)()かした
 慶三(けいざう)(ふる)くから小川町(をがわまち)へん()()られた唐物屋(たうぶつや)の二代目(だいめ)主人(しゆじん)(とし)はもう四十に(ちか)い。商業(しやうげふ)學校(がくかう)出身(しゆつしん)(ちゝ)()きてゐた時分(じぶん)には(うち)にばかり()るよりも(すこ)しは世間(せけん)()るが肝腎(かんじん)と一()横濱(よこはま)外國(ぐわいこく)商館(しやうくわん)月給(げつきふ)多寡(たくわ)()はず實地(じつち)見習(みならひ)にと使(つか)はれてゐた(こと)もある。そのせいか(いま)だに處嫌(ところきら)はず西洋料理(せいようれうり)(つう)振廻(ふりまわ)し、二言目(ことめ)には英語(えいご)會話(くわいわ)(はな)にかけるハイカラであるが、(さけ)もさしては()まず、(あそ)びも(おほ)()景氣(けいき)よく(さわ)ぐよりは、こつそり一人(ひとり)不見點(みずてん)()ひでもする(ほう)結句(けつく)物費(ものい)(すくな)世間(せけん)體裁(ていさい)もよいと()流義(りうぎ)萬事(ばんじ)(はなは)抜目(ぬけめ)のない當世風(たうせいふう)(をとこ)であつた。
 されば藝者げいしやかしてめかけにするといふのも、慶三けいざう自分じぶんをんな見掛みかけこそ二十一二のハイカラふうつているが、じつはもう二十四五の年増としまで、三四も「わけ」でかせいでゐることつてゐるところから、さしたる借金しやくきんがあるといふでもあるまい。それゆゑあそ度々たび/\玉祝儀ぎよくしうぎ待合まちあひ席料せきれうから盆暮ぼんくれ物入ものいりまでを算盤そろばんにかけてて、このさき何箇月間なんかげつかん勘定かんぢやうを一支拂しはらふと見れば、まづ月幾分つきいくぶ利金りきんてるくらゐのものでたいしたそんはあるまいと立派りつぱにバランスをつてうへ、さて表立おもてだつての落籍らくせきなぞは世間せけんきこえをはばかるからと待合まちあひ内儀おかみにも極内ごくないで、萬事ばんじ當人たうにん同志どうし對談たいだんに、物入ものいりなしの親元おやもと身受みうけはなしをつけたのであった。
 そこで慶三けいざう買馴染かひなじみ藝者げいしや、その千代香ちよか女學生ちよがくせい看護婦かんごふ引越ひつこし同様どうやうやなぎ行李がうり風呂ふろしきづつみ、それに鏡臺きやうだい1つを人力じんりきませ、多年たねんかせいでゐた下谷したやばけ横町よこちやうから一まづ小石川こいしかは餌差ゑさしまちへん親元おやもと立退たちのく。あし午後ひるすぎの二をばまへからの約束やくそくどほりり、富坂とみざかした春日町かすがまち電車でんしや乗換場のりかへば慶三けいさう待合まちあはせ、早速さつそく二人ひたりして妾宅せふたくをさがしてあるくというはこびになった。
仲買 問屋と小売商の、あるいは生産者・荷主と問屋の間で仲立ちをして営利をはかる業
義理づく どこまでも義理を立て通す。道理を尽くす。筋を通す。
半口 企てや出資の分担の半人分。
引かされる 雑学・廓では芸者を廃業することを「引く」。やめさせるのは「引かす」、やめさせられるのが「引かされる」。芸者の籍を抜くことを「落籍す」と書き「ひかす」と読む。
小川町 千代田区神田小川町。書籍、スポーツ用品店、楽器店、飲食店等の商業施設や出版関係、大学・専門学校等の教育機関などが集積中
唐物屋 からものや。とうぶつや。中国からの輸入品を売買していた店や商人。19世紀後半からは、西洋小間物店
商業学校 1887年(明治20年)10月、東京高等商業学校が設立。一橋大学の前身
ハイカラ (洋行帰りの人がたけの高いえりを着用したため)西洋風で目新しいこと。欧米風や都会風を気取ったり、追求したりする人。
大一座 おおいちざ。多人数の集まり
不見転 みずてん。芸者などが、相手を選ばず、金をくれる人ならだれとでも情を通ずること
結句 結局。挙句に。
物費り ものいり。消耗品費や雑費
 わけ。訳。芸娼妓などが、そのかせぎ高を抱え主と半々に分けること
玉祝儀 玉代。ぎょくだい。花代。芸者や娼妓などを呼んで遊ぶための代金。
物入 ものいり。出費がかさむこと。
利金 利息の金銭。利益となった金銭。もうけた金
落籍 らくせき。身代金を払って芸者などをやめさせ、籍から名前を抜くこと。身請け。
柳行李 やなぎごうり。コリヤナギの、皮をはいだ枝を編んで作った行李こうり。衣類などを入れるのに用いる。行李は衣類などを納める直方体の入れ物。

柳行李

人力 人力車のこと
お化横丁 おばけ横丁。春日通りの南側に並行する裏路地の飲み屋街。住所は文京区湯島3丁目。かつて芸者の置き屋が数多くあり、化粧をしていない従業員が化粧で化けて出ていったから
餌差町 えさしちょう。現在は文京区小石川一・二丁目
富坂 文京区春日一丁目と小石川二丁目の間。春日通りの後楽園(富坂下)交差点から富坂上交差点まで
春日町 春日一丁目と春日二丁目
妾宅 しょうたく。めかけを住まわせておく家

 二人ふたり大曲おおまがり電車でんしゃり、江戸川えどがはばたからあしほう横町よこちやうへとぶら/\まが つてつたが、するうちにいつか築土つくど明神みやうじんしたひろとほりた。鳥居とりゐまえ電車でんしやみちよこぎるとむかうのほそ横町よこちやうかど待合まちあひあかりが三ツも四ツも一たばになつてつているのがえて、へん立並たちならんだあたらしい二階家かいや様子やうす。どうやら頃合ころあひ妾宅せふたくきの貸家かしやがありそうにおもわれた。土地とち藝者げいしや浴衣ゆかたかさねた素袷すあはせ袢纏はんてん引掛ひつかけてぶら/\あるいている。なかには島田しまだがつくりさせ細帶ほそおびのまゝで小走こばしりくものもある。箱屋はこやらしいをとことほる。稽古けいこ味線みせんきこえる。たがひに手を引合ひきあつた二人ふたり自然しぜんひろ表通おもてどほりよりもこの横町よこちやうはうあゆみをうつしたが、するとべつ相談さうだんをきめたわけでもないのに、二人ふたりとも、いま熱心ねつしんにあたりの貸家かしやふだをつけはじめた。
 神樂坂(かぐらざか)大通(おほどほり)(はさ)んで()左右(さいう)幾筋(いくすぢ)となく入亂(いりみだ)れてゐる横町(よこちやう)といふ横町(よこちやう)路地(ろぢ)といふ路地(ろぢ)をば大方(おほから)(ある)(まは)つてしまつたので、二人(ふたり)(あし)(うら)(いた)くなるほどくたぶれた。(しか)しそのかひあつて、毘沙門(びしやもんさま)裏門前(うらもんまへ)から奧深(おくふか)(まが)つて()横町(よこちやう)()ある片側(かたかは)(あた)つて、()入口(いりぐち)左右(さいう)から建込(たてこ)待合(まちあひ)竹垣(たけがき)にかくされた()(しづか)人目(ひとめ)にかゝらぬ路地(ろぢ)突當(つきあた)に、(あつらへ)(むき)の二階家(かいや)をさがし()てた。おもて戸袋とぶくろななめつた貸家かしやふだ書出かきだしで差配さはいはすぐ筋向すぢむかう待合まちあひ松風まつかぜれているところから、その小女こをんな案内あんないちの間取まどりるやいなやすぐ手付金てつけきんいた。とき千代香ちよか便所はゞかりりにと松風まつかぜ座敷ざしきあがつたが、すると二人ふたりつかれきってゐるので、もう何処どこへも元氣げんきがなくそのままこの松風まつかぜおくかい蒲團ふとんいてもらうことにした。

大曲 おおまがり。大きく曲がる場所。ここでは新宿区新小川町の大曲という地点。ここで神田川も目白通りも大きく曲がっています。
江戸川 神田川中流。文京区水道関口の大洗堰おおあらいぜきから船河原橋ふながわらばしまでの神田川を昭和40年以前には江戸川と呼びました。
 ばた。そのものの端の部分やその近辺の意味
築土明神 天慶3年(940年)、江戸の津久戸村(現在は千代田区大手町一丁目)に平将門の首を祀って塚を築いたことで「津久戸明神」として創建。元和2年(1616年)、江戸城の拡張工事があり、筑土八幡神社の隣接地に移転。場所は新宿区筑土八幡町。「築土明神」と呼ばれた。1945年、東京大空襲で全焼。翌年(昭和21年)、千代田区富士見へ移転。

牛込神楽坂警察署管内全図(昭和7年)(牛込警察署「牛込警察署の歩み」(牛込警察署、1976年))

広い通 大久保通りです。
電車道 路面電車です。戦前の系統➂は、新宿と万世橋を結びました。
頃合 ころあい。ちょうどよい程度。似つかわしいほど。てごろ。
素袷 下に肌着類を着けないで、あわせだけを着ること。袷とは裏地のついている衣服。
袢纏 半纏。長着の上にはおる衣服。羽織に似ているがまち(袴の内股や羽織の脇間などに入れる布)も胸紐むなひももなく、えりも折り返らない。
島田 島田まげ。日本髪の代表的な髪形。前髪とたぼを突き出させて、まげを前後に長く大きく結ったもの。
がっくり 折れるように、いきなり首が前に傾くさまを表わす語
細帯 帯幅が11~13㎝の帶。普通の帯幅の半分の半幅帯よりもさらに細い
箱屋 箱に入れた三味線を持ち、芸者の共をする者
貸家札 貸家であることを表示する札。多くは斜めに貼る。

美章園の貸家札(西山夘三撮影) https://www.osaka-angenet.jp/ange/ange94/260000604

路地の突き当たり 「突き当たり」とは「道や廊下などの行きづまった場所」。戦前の地図としては「古老の記憶による震災前の形」(新宿区立図書館資料室紀要4「神楽坂界隈の変遷」昭和45年)があります。考えられる場所では5つです。

古老の記憶による震災前の形」(新宿区立図書館資料室紀要4「神楽坂界隈の変遷」昭和45年)矢印は土地の高低を表す

戸袋 雨戸や引き戸を複数枚収納しておく場所
差配 所有主にかわって貸家・貸地などを管理すること
間取 家の中の部屋のとり方。部屋の配置。
奥二階 表二階とは表通りに面した二階座敷。奥二階は表通りに面しない二階座敷。

夏すがた|永井荷風(2)

 二十ねん此方このかたないあつさだというおそろしいあつがこのうへもなく慶三けいぞうよろこばばした理由りいうは、お千代ちよ裸躰らたいあはせてお千代ちよ妾宅せふたく周圍しうゐ情景じやうけいであつた。
 神樂坂上かぐらざかうへ横町よこちやうは、地盤ちばん全軆ぜんたいさがになつてゐるので、妾宅せふたくの二かいからそとると、大抵たいてい待合まちあひ藝者げいしやになつている貸家かしやがだん/\にひくく、はこでもかさねたように建込たてこんでゐて、裏側うらがは此方こなたけてゐる。なつにならないうちは一かうかずにゐたので、此頃このごろあつさにいづこのいへまどはず、勝手かつて戸口とぐちはず、いさゝかでもかぜ這入はいりさうなところみなけられるだけはなつてあるので、よるになつて燈火あかりがつくと、島田しまだかげ障子しやうじにうつるくらゐことではない。藝者げいしや兩肌もろはだ化粧けしやうしてゐるところや、おきやくさわいでゐる有樣ありさままでが、垣根かきね板塀いたべいあるい植込うゑこみあひだすがして圓見得まるみえ見通みとほされる。或晩あるばん慶三けいぞう或晩あるばんそよとのかぜさへないあつさに二かい電燈でんとうしておもて緣側えんがは勿論もちろんうら下地窓したぢまどをも明放あけはなちお千代ちよ蚊帳かやなかてゐたときとなりいへ――それは幾代いくよといふ待合まちあひになつてゐる二かい座敷さしき話聲はなしごゑるやうにきこえてるのに、ふとみみかたむけた。兩方りやうはううへ狭間ひあはいかよかぜなんともへないほどすゞしいのでとなりの二かいでも裏窓うらまど障子しやうじはなつてゐるにちがひない。喃々なん/\してつゞ話声はなしごゑうち突然とつぜん
「あなた、それぢや屹度きつとよくつて。屹度きつとつて頂戴ちやうだいよ。約束やくそくしたのよ。」
といふをんなこゑ一際ひときはつよくはつきりきこえて、それを快諾くわいだくしたらしいをとここゑとつゞいて如何いかにもうれしさうな二人ふたり笑聲わらひごゑがした。お千代ちよ先刻せんこくからくともなしにみゝをすましてゐたとえ、突然いきなり慶三けいぞう横腹よこはらかるいて、
「どうもおやすくないのね。」
馬鹿ばかにしてやがるなア。」
待合 男女の密会や、芸妓と客との遊興のため、席を貸す家
勝手 かって。台所。「勝手道具」
両肌を抜ぐ 衣の上半身全部を脱いで、両肌を現す
円見得 丸見え。見られたくないものなども全部見える
そよ (多く「と」を伴って)しずかに風の吹く音。物が触れあってたてるかすかな音。
縁側 和風住宅で、座敷の外部に面した側につける板敷きの部分。雨戸・ガラス戸などの内側に設けるものを縁側、外側に設けるものを濡れ縁という。
下地窓 したじまど。壁の一部を塗り残し、下地の木舞こまい(壁の下地で、縦横に組んだ竹や細木)を見せた窓。茶室に多く用いられる。

狭間 ざま。はざま。すきま。せまいあいだ。ひま。
ひあはひ ひあわい。廂間。ひさしが両方から突き出ている場所。家と家との間の小路。
喃々と 「喃」はしゃべる音。小声でいつまでもしゃべっている

 慶三けいぞうはどんな藝者げいしやとおきやくだかえるものならてやらうと、何心なにごころなく立上たちあがつてまどそとかほすと、はなさきとなり裏窓うらまど目隠めかくし突出つきでてゐたが、此方こちら真暗まつくらむかうにはあかりがついてゐるので、目隠めかくしいた拇指おやゆびほどのおおきさの節穴ふしあな丁度ちやうど二ツあいてゐるのがよくつた。慶三けいぞうはこれ屈強くつきやうと、覗機關のぞきからくりでもるように片目かため押當おしあてたが、するとたちまこゑてるほどにびつくりして慌忙あわてゝくちおほひ、
「お千代ちよ/\大變たいへんだぜ。鳥渡ちよつとろ。」
四邊あたりはゞか小声こごゑに、お千代ちよ何事なにごとかとをしえられた目隠めがくし節穴ふしあなからおなじやうに片目かためをつぶつてとなりの二かいのぞいた。
 となりはなしごゑ先刻さつきからぱつたりと途絶とだえたまゝいまひとなきごとしんとしてゐるのである。お千代ちよしばらのぞいてゐたが次第しだい息使いきづかせはしくむねをはずませてて、
「あなた。つみだからもうしましようよ。」
まゝだまつて隙見すきみをするのはもうどくたまらないといふやうに、そつと慶三けいぞういたが、慶三けいぞうはもうそんなことにはみゝをもさず節穴ふしあなへぴつたりかほ押當おしあてたまゝいきこらして身動みうごき一ツしない。お千代ちよ仕方しかたなしに一ツの節穴ふしあなふたゝかほ押付おしつけたが、兎角とかくするうち慶三けいぞうもお千代ちよ何方どつちからがすともれず、二人ふたり真暗まつくらなかたがひをさぐりふかとおもふと、相方そうはうともに狂氣きやうきのように猛烈まうれつちから抱合だきあつた。
 かくのごと慶三けいぞうはわが妾宅せふたくうちのみならず、周圍しうゐたいなつのありさまから、えずいままでおぼえたことのない刺戟しげきけるのであつた。

何心なく 何の深い意図・配慮もない。なにげない。
目隠 布などで目をおおって見えないようにする事。おおうもの。
屈強 頑強で人に屈しない。
覗機関 のぞきからくり。のぞき穴のある箱で風景や絵などが何枚も仕掛けられていて、 口上(こうじょう)(説明)の人の話に合わせて、立体的で写実的な絵が入れ替わる見世物
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隙見 透見。すきみ。物のすきまからのぞき見る。のぞきみ。

 下記の相磯凌霜氏は鉄工所重役として働きながら、永井荷風氏の側近中の側近として、親密な交遊を続けました。氏の「荷風余話」(岩波書店、2010)では「夏すがた」の発売禁止について昭和31年にこう書いています。

 「夏すがた」は大正三年八月に書下ろされたもので、翌四年一月籾山もみやま書店から発行されたが、直ちに発売禁止の憂目にあってしまった。猥雑淫卑な今の出版物に比べて、いったい何処がいけないのか、どうして発売禁止になったのか、今の読者は恐らく疑問を抱かれるであろう。当時、内務省警保局と言うお役所はややともすれば発売禁止と言う所謂伝家の宝刀を振りかぎして作家や出版社を震え上らせておった。従って出版社側でもお役所対策には万善を期し如何にしたら無難に検閲が済されるか、可なり苦心の存する所であったらしい。この「夏すがた」の時は、特に金曜日を選び警保局へ検閲の納本をするや電光石火、土曜日中に販売店に新刊「夏すがた」を配布して日曜一日で一千部近い冊数を売り尽してしまった。月曜日になると、果してお役所から風俗をみだものとの極印が付いて発売配布を禁止する通達があったが、時既に遅く版元にはいくらの残本も無かった。いや怒ったのは警視庁で、即刻主人に出頭せよと厳しいお達しだ。警察官が押収に来た時「一冊もございません」では到底無事には済されまいと一同額を集めての大評定、とにかく警視庁へは当時その方面に顔のきく小山内薫氏を頼んで代りに行ってもらい、百方哀訴嘆願する一方眼にも止らぬ早業はやわざで四、五十冊を作り上げてしまった。幸い小山内氏の顔と幾度となく足を運んだお蔭で、どうやら大事に到らず作者も出版元もホットー息つくことが出来た。
猥雑 わいざつ。みだりがわしく下品な様子
淫卑 性的に乱れたさま。みだらな様子
紊す 乱す。秩序をなくする。
極印 金銀貨や器物などの品質を保証するために打つ印形
評定 ひょうじょう。評議して取捨、よしあしなどを決定する。相談する
百方 ひゃっぽう。あらゆる方面。種々の方法。多く副詞的に用いる。
哀訴 あいそ。同情をひくように、強く嘆き訴えること。哀願。
嘆願 たんがん。事情を詳しく述べて熱心に頼むこと。懇願。

鰻坂 合羽坂|河童出たとて鰻坂

文学と神楽坂

 現代言語セミナー編『「東京物語」辞典』(平凡社、1987年)「坂のある風景」の「鰻坂 合羽坂」を見ていきます。しかし、俳優の芦田伸介氏の家がどこにあるのか、これだけではわかりません。

鰻坂

鰻坂と合羽坂

「ね、右へ登る細い坂があったでしょう。」
「ええ」
矢来町のほうへ行くんですけどね。うなぎ坂ってんです。くねくね曲ってますから。いまの人は御存知じゃないでしょう。タクシーの運転手だって、うなぎ坂といって分る運転手はいないってんですから。ああ、いまの坂、右のね。うなぎ坂と平行してるんですが、ちょっと登ったところに俳優の芦田伸介の家があるって話です」
「自衛隊の裏には合羽坂という坂があります。雨合羽のカッパなんて字になってますが、あれは本当は河童という字を当てなくちゃならないんです。あのへんに河童のお化けが出たというんで、カッパ坂なんですから」

「夜のタクシー」海老沢泰久

矢来町のほうへ 矢来町は牛込中央通りを北に動くと出てきます。鰻坂は市谷砂土原町と払方町を分ける坂です。「右へ登る細い坂を行くと矢来町になる」と考えると嘘になります。

矢来町と鰻坂

矢来町と鰻坂

いまの坂 牛込中央通りを南から来る場合、うなぎ坂と平行する坂は払方町の坂(下図)です。逆に北から来る場合、右に曲がるのは遙か南の小路です。したがって、払方町の坂のほうが正しいのでしょう。しかし、芦田伸介氏の家はどこだかわかりません。

鰻坂とその上の坂。1990年

鰻坂とその上の坂。1990年

芦田伸介 あしだしんすけ。本名は蘆田義道。東京外語を1年で中退、昭和12年、旧満州で新京放送劇団。昭和14年、森繁久彌等と満州劇団を結成。昭和24年、劇団民芸に入団。テレビ「七人の刑事」をはじめ、映画や舞台で活躍。生年は大正6年3月14日、没年は平成11年(1999年)1月9日。享年は満81歳。
河童のお化けが出た 実際は違うようです。『御府内備考』「巻之60 市ヶ谷の三 片町」では

右は當町近邊東の方二蓮池と唱候大池有之右池中獺雨天等の節は夜分坂近邊え出候處河童出候と其頃專ら風聞仕候二付自ら河童坂と唱候處後世合羽坂と書誤候由申傅候

この町の近辺で東方に蓮池という大きな池がありました。夜分になると特に雨天の節などにはかわうそが坂の近辺に出てきます。そこで、風評通りに、これを河童坂と呼んできました。その後、誰かが合羽坂と書き間違えたのです。

カッパ坂 西北に上がる坂です。江戸時代(『御府内場末往還其外沿革図書』嘉永5年、1852年)は現在の合羽坂とほぼ同じです。しかし、ほかの坂を合羽坂とよんた時代もありました。

本村町と合羽坂

本村町、仲之町と合羽坂


 三島由紀夫が割腹を遂げた陸上自衛隊市ケ谷駐屯地がある市谷本村町と西隣りの市谷仲之町との間を北上する坂合羽坂という。
 江戸時代、尾張藩の合羽干し場だったのでこの名がついたとするがあるが、『夜のタクシー』の運転手のいうように、河童説も有力である。
 というのも坂の下には古い大きな沼があり、河童が出たという伝説が生まれても不思議はないからである。
 永井荷風が『日和下駄』の中で本村町の坂の上から見る市ケ谷~小石川の景色が、東京中で最も美しいと述べているが、この坂の上とは、おそらく合羽坂のことであろう。
 鰻坂は、市谷砂土原町払方町の間を曲折している坂道。
 さらに砂土原町の一丁目と二丁目の境を市谷田町から払方町の方へのぼる長い坂が浄瑠璃坂。この浄瑠璃坂と合羽坂を「山の手だけど江戸らしい」と鏡花がほめている。
 また市谷左内町市谷加賀町の間の坂道を中根坂といい、外堀通り市ケ谷見附付近から市谷左内町へとのぼる坂を佐内坂という。
 このように市ヶ谷近辺は起伏に富んでいる。そして町名変更の波に洗われながらも旧称が残っており、同じ新宿区内でも整理され、旧町名が姿を消した新宿駅を中心とする地域とは全く異なった様相を呈している。

市谷本村町市谷仲之町 図を参照
北上する坂 現在の「北上する坂」は合羽坂ではなく、「外苑東通り」です。
 岡崎清記氏の「今昔 東京の坂」(日本交通公社出版事業局、昭和56年)では「この坂名は、尾張藩の者たちの合羽干場になっていたためともいう。」と書いてありました。
古い大きな沼 『御府内備考』「巻之60 市ヶ谷の三 片町」では「東方にはす池という大きな池」があり、また「今昔 東京の坂」では「河童坂の名の由来となった蓮池は、町内の東方、尾張屋敷の御長屋下にあった用水溜で、蓮が生えていたが、のち埋め立てられて御先手組屋敷となった」といっています。下の図で赤い丸でしょうか。

絵図・市谷御屋敷

新宿歴史博物館「尾張家への誘い」新宿区生涯学習財団。2006年10月。95頁

日和下駄 ひよりげた。歯の低い差し歯下駄。主に晴天の日に履く。永井荷風の「日和下駄」(1915年)では裏町と横道を歩き、東京中を散策する随筆集。
日和下駄
東京中で最も美しいと述べている  永井荷風が書いた『日和下駄』「第四 地図」の一文です。

 私は四谷見附よつやみつけを出てから迂曲うきょくした外濠のつつみの、丁度その曲角まがりかどになっている本村町ほんむらちょうの坂上に立って、次第に地勢の低くなり行くにつれ、目のとどくかぎり市ヶ谷から牛込うしごめを経て遠く小石川の高台を望む景色をば東京中での最も美しい景色の中に数えている。市ヶ谷八幡はちまんの桜早くも散って、ちゃ稲荷いなりの茶の木の生垣いけがき伸び茂る頃、濠端ほりばたづたいの道すがら、行手ゆくてに望む牛込小石川の高台かけて、みどりしたたる新樹のこずえに、ゆらゆらと初夏しょかの雲凉しに動く空を見る時、私は何のいわれもなく山の手のこのあたりを中心にして江戸の狂歌が勃興した天明てんめい時代の風流を思起おもいおこすのである。

おそらく合羽坂のこと 現在の命名では「外苑東通り」になります。
小石川 文京区の一部。1947年、小石川区と本郷区の2区を合併して文京区になりました。

旧区

アイランズ「東京の戦前 昔恋しい散歩地図」草思社、2004年

山の手だけど江戸らしい すみません。出典は不明です。

新潮社があることで知られる矢来町は、旧酒井邸の外垣に、矢来が組んであったことに由来するという。

②昭和四十五年十一月、作家の三島由紀夫が楯の会のメンバーと共に市ヶ谷駐屯地にたてこもり、自衛隊員に決起をうながしたが、応じないのを知ると、割腹自殺をした。

③市谷砂土原町には児童書の偕成社さ・え・ら書房、詩集の出版で知られる思潮社をはじめ、小規模の出版社が多数ある。

市谷加賀町の半分近くを大日本印刷(株)が占めている。

⑤この外堀通りを境にして、新宿区と千代田区に分かれている。
 四ツ谷から市ヶ谷を通って飯田橋まで、外堀堤は桜と松の並木がつづく美しい散歩道である。桜吹雪の舞い散る中を散策するのは本当に素敵だ。

偕成社さ・え・ら書房思潮社 下図を参照。
偕成社、さ・え・ら書房、思潮社
大日本印刷(株) 1876年、秀英舎が創業。昭和10年、日清印刷と合併し「大日本印刷」に。大日本印刷は市谷加賀町一丁目の全てを占め、ほかに市谷加賀町二丁目、市谷左内町、市谷鷹匠町の一部を持つ。
外堀通り 環状2号線・外堀通りです。

野田宇太郎|文学散歩|牛込界隈⑦

文学と神楽坂

   赤城の丘
 昨年秋、パリのモンマルトルの丘の街を歩いていたわたくしは、何となく東京の山の手の台地のことを思い出していた。パリほどに自由で明るい藝術的雰囲気はのぞめないにしても、たとえばサクレ・クール寺院あたりからのパリ市街の展望なら、それに似たところが東京にもあったと感じ、先ず思い出したのは神田駿河台、そして牛込の赤城神社境内などだった。規模は小さいし、眼下の市街も調和がなくて薄ぎたないが、それに文化理念の磨きをかけ、調和の美を加えたら、小型のモンマルトルの丘位にはなるだろうと思ったことであった。
モンマルトル Montmartre。パリで一番高い丘。パリ有数の観光名所。
サクレ・クール寺院 Basilique du Sacré-Cœur de Montmartre。モンマルトルの丘に建つ白亜のカトリック教会堂。ビザンチン式の三つの白亜のドームがある。
パリ市街の展望 右の写真は「サクレクール寺院を眺めよう!(3)」から。サクレクール寺院からパリを眺たもの。

神田駿河台 御茶ノ水駅南方の地区。標高約17mの台地がある。由来は駿府の武士を住まわせたこと。江戸時代は旗本屋敷が多く、見晴らしがよかった。
赤城神社境内 現在はビルが建築され、なにも見えません。左の写真は戦争直後の野田宇太郎氏の「アルバム 東京文學散歩」(創元社、1954年)から。

 パリでのそうした経験を再び思い出しだのは、筑土八幡宮の裏から横寺町に向うために白銀町の高台に出て、清潔で広々とした感じの白銀公園の前を通ったときであった。
 ところで、駿河台の丘はしばしば通る機会もあるが、赤城神社の丘はもう随分長い間行ってみない。まだ戦災の跡も生々しい頃以来ではなかろうか。横寺町から矢来町に出たわたくしは、これも大正二年創立以来の文壇旧跡には違いない出版社の新潮社脇から、嘗ては廣津柳浪が住み、柳浪に入門した若き日の永井荷風などもしばしば通ったに違いない小路にはいり、旧通寺町の神楽坂六丁目に出て、その北側の赤城神社へ歩いた。このあたりは神社を中心にして赤城元町の名が今も残っている。
白銀町の高台 右図は筑土八幡宮から白銀公園までの道路。白銀公園の周りを高台といったのでしょう。
小路 広津柳浪氏や永井荷風氏は左図のように通ったはずです。青丸はおそらく広津柳浪氏の家。しかし、現在は右図で真ん中の道路はなくなってしまいました。そこで、道路をまず北に進み、それから東に入っていきます。  
 戦災後の人心変化で信仰心が急激にうすらいだせいもあろうが、わたくしが戦後はじめて訪れた頃に比べて大した変化はない。変化がないのはいよいよさみしくなっていることである。持参した『新東京文学散歩』を出してみると「赤城の丘」と題したその一節に、そのときのことをわたくしは書いている。――「赤城神社と彫られた御影石の大きな石碑は戦火に焼けて中途から折れたまま。大きな石灯籠も火のためにぼろぼろに痛んでゐる。長い参道は昔の姿をしのばせるが、この丘に聳えた、往昔の欝蒼たる樹立はすつかり坊主になって、神殿の横の有名な銀杏の古木は、途中から折れてなくなり、黒々と焼け焦げた腹の中を見せてゐる。それでもどうやら分厚な皮膚だけが、銀杏の木膚の色をみせてこの黒と灰白色とのコントラストは、青い空の色をバックにして、私にダリの絵の構図を思ひ出させる。ダリのやうに真紅な絵具を使はないだけ、まだこの自然のシュウルレアリスムは藝術的で日本的だと思つた。」

ダリ スペインの画家。シュルレアリスムの最も著名な画家の一人。生年は1904年5月11日、没年は1989年1月23日。享年は満88歳。
シュルレアリスム 超現実主義。芸術作品から合理的、理性的、論理的な秩序を排除し、代りに無意識の表現を定着すること。
 無惨に折れていた赤城神社の大さな標石が新らしくなっているほかは、石灯籠も戦火に痛んだままだし、境内の西側が相変らず展望台になって明るく市街の上に開けているのも、わたくしの記憶の通りと云ってよい。戦前までの平家造りの多かった市街と違って、やたらに安易なビルが建ちはじめた現在では、もう見晴らしのよいことで知られた時代の赤城神社の特色はすっかり失われたのである。それまで小さなモンマルトルの丘を夢見ながら来た自分が、恥かしいことに思われた。戦後は見晴らしの一つの目印でもあった早稲田大学大隈講堂の時計塔も、今は新らしいビルの陰にかくれたのか、一向にみつからない。
標石 目印の石。道標に立てた石。測量で、三角点や水準点に埋設される石。多く花崗岩の角柱が用いられる。
石灯籠 日本の戸外照明用具。石の枠に、中に火をともしたもの。
 それでも神殿脇の明治三十七、八年の日露戦役を記念する昭忠碑の前からは急な石段が丘の下の赤城下町につづいている。その石段上の崖に面した空地は、明治三十八年に坪内逍遙が易風会と名付けた脚本朗読や俗曲の研究会をひらいて、はじめて自作の「妹山背山」を試演した、清風亭という貸席のあったところである。その前明治三十七年十二月には、雑誌「文庫」の「新体詩同好会」も開かれた家であったが、加能作次郎が昭和三年刊の『大東京繁昌記』山手篇に書いた「早稲田神楽坂」によると、明治末年からはもう清風亭は長生館という下宿屋に変り、「たかい崖の上に、北向に、江戸川の谷を隔てゝ小石川の高台を望んだ静かな家」であった長生館には、早稲田大学の片上伸や、近松秋江や、加能作次郎自身も一時下宿したことがあったという。その前の清風亭はつぶれたのではなく、その経営者があらたに江戸川べりに新らしい清風亭を構えて移っていて、坪内逍遙の文藝協会以来の縁故からでもあったろうが、江戸川べりに移った清風亭では、島村抱月松井須磨子が逍遥の許を去って大正二年秋に藝術座を起した、その計画打合せなどがひそかに行われたらしい、とこれも加納作次郎の「早稲田神楽坂」に書かれている。
日露戦役 明治37年2月から翌年9月まで、日本とロシアが朝鮮と南満州の支配をめぐって戦った戦争。
昭忠碑 日露戦争の陸軍大将大山巌が揮毫した昭忠碑。平成22年9月、赤城神社の立て替え時に撤去。
貸席 料金を取って時間決めで貸す座敷。それを業とする家。
文庫 明治28年(1895年)、河井醉茗が詩誌『文庫』を創刊。伊良子清白、横瀬夜雨などが活動。
新体詩 明治時代の文語定型詩。多くは七五調。
江戸川の谷 江戸川橋周辺から江戸川橋通りにかけての低地。
江戸川べり 江戸川は現在神田川と呼びますが、その神田川で石切橋の近く(文京区水道町27)に清風亭跡があります。
 清風亭はもちろん、長生館も戦災と共に消えた。赤城の丘から赤城下町へ、急な石段を下りてゆくと、いきなり谷間のような坂道の十字路に出た。そこから右へだらだらと坂が下り、左は曲折をもつ上り坂となる。わたくしは左の上り坂を辿って矢来町ぞいの道を右へ折れた。左は崖上、右の崖下には赤城下町がひろがっている。崖下の小路の銭湯から、湯上りの若い女が一人、赤い容器に入れた洗面道具を小腋こわきに抱いて、ことことと石段を上って来たかと思うと、そのままわたくしの前を春風に吹かれながらさも快げに歩き、すぐ近くの、崖下の小さいアパートの中に姿を消した。
 赤城の丘ではかなく消えていたモンマルトルの思い出が、また何となくよみがえる一瞬でもあった。
坂道の十字路 正確には十字路ではないはず(図)。ここに「赤城坂」という標柱があります。
左の上り坂を辿って… 下図を参照
銭湯 1967年の住宅地図によれば、中里町の金成湯でしょう。北側の小路には銭湯はなく、中里町13番地にありました。

書かでもの記|永井荷風

文学と神楽坂


永井荷風

永井荷風

 大正7(1918)年、永井荷風氏が39歳の時に書いた『書かでもの記』です。矢来町で永井氏と師匠の広津柳浪氏が初めて出会いました。
 永井荷風は小説家で『あめりか物語』『ふらんす物語』『すみだ川』などを執筆、耽美派の中心的存在になりました。また、花柳界の風俗を描写しています。生年は明治12年12月3日。没年は昭和34年4月30日。満79歳で死亡しました。

 そもわが文士としての生涯は明治三十一年わが二十歳の秋、すだれの月』と題せし未定の草稿一篇を携へ、牛込矢来町うしごめやらいちょうなる広津柳浪ひろつりゅうろう先生の門を叩きし日より始まりしものといふべし。われその頃外国語学校支那語科の第二年生たりしがひとばしなる校舎におもむく日とてはまれにして毎日飽かず諸処方々の芝居寄席よせを見歩きたまさかいえにあれば小説俳句漢詩狂歌のたわむれに耽り両親の嘆きも物の数とはせざりけり。かくて作る所の小説四、五篇にも及ぶほどに専門の小説家につきて教を乞ひたき念ようやく押へがたくなりければ遂に何人なんびとの紹介をもたず一日いちにち突然広津先生の寓居ぐうきょを尋ねその門生たらん事を請ひぬ。先生が矢来町にありし事を知りしはあらかじめ電話にて春陽堂に聞合せたるによつてなり。
 余はその頃最も熱心なる柳浪先生の崇拝者なりき。『今戸心中いまどしんじゅう』、『(くろ)蜥蜴とかげ』、『河内屋かわちや』、『亀さん(とう)の諸作は余の愛読してあたはざりしものにして余は当時紅葉こうよう眉山びざん露伴ろはん諸家の雅俗文よりも遥に柳浪先生が対話体の小説を好みしなり。
 先生が寓居は矢来町の何番地なりしや今記憶せざれど神楽坂かぐらざかを上りて寺町てらまちどおりをまつすぐに行く事数町すうちょうにして左へ曲りたる細き横町よこちょうの右側、格子戸造こうしどづくり平家ひらやにてたしか門構もんがまえはなかりしと覚えたり。されど庭ひろびろとして樹木すくなからず手水鉢ちょうずばちの鉢前には梅の古木の形面白くわだかまたるさへありき。格子戸あけて上れば三畳つづいて六畳(ここに後日門人長谷川濤涯はせがわとうがい机を置きぬ。)それより枚立まいだてふすまを境にして八畳か十畳らしき奥の一間こそ客間を兼ねたる先生の書斎なりけれ。とこには遊女の立姿たちすがたかきし墨絵の一幅いっぷくいつ見ても掛けかへられし事なく、その前に据ゑたる机は一閑張いっかんばりの極めて粗末なるものにて、先生はこの机にも床の間にも書籍といふものは一冊も置き給はず唯六畳のとの境の襖に添ひて古びたる書棚を置き麻糸にてしばりたる古雑誌やうのものを乱雑に積みのせたるのみ。これによりて見るも先生の平生へいぜい物に頓着とんじゃくせず襟懐きんかい常に洒々落々しゃしゃらくらくたりしを知るに足るべし。

簾の月 その原稿は今でも行方不明になったままで、荷風氏の考えでは恐らく改題し、地方紙が買ったものだという。
外国語学校 旧制東京外国語学校。現在は東京外国語大学。略称は外語大、外大、東京外大など
たまさか 思いがけず、そのような機会を得る。たまたま
 ぎ。たわむれ。面白半分にふざける
寓居 仮の住まい。わび住まい
今戸心中 いまどしんじゅう。明治29年発表。遊女が善吉の実意にほだされて結ばれ、今戸河岸で心中するまでの、女心の機微を描く
黒蜥蜴 くろとかげ。明治28年発表。醜女お都賀が無頼の(しゅうと)を毒殺し、自殺するまでの人生を描く。
河内屋 かわちや。明治29年発表。封建主義の制度下にある家の問題点を明るみにだす
亀さん 明治28年発表。遊女と遊んだ亀麿は、女性数名に強姦未遂を起こす。一方、遊女は火災で死亡する。
雅俗文 雅俗折衷文。がぞくせっちゅうぶん。地の文は文語文(雅文)で書き,会話は口語文(俗文)で書く文体
格子 対話体 話し言葉(口語文)の文体。
何番地 牛込矢来町3番地中の丸52号(http://www.library.shinjuku.tokyo.jp/jinbutuyukari/detail.php?id=63)でした。3番地は大きすぎて、大正か昭和になってから新しい番地をあてています。では新番地ではどこにあるのでしょうか。「広津和郎の生家」で考えをまとめて、73番地でした。
寺町 寺院が集中して配置された町。ここでは牛込区横寺町と通寺町のこと。
格子戸造 こうしどづくり。格子状の引き戸や扉が主の建造物。採光や通風もできる。
門構 もんがまえ。門をかまえていること
蟠り わだかまり。心の中に解消されないで残っている不信や疑念・不満など
手水鉢 ちょうずばち。手を洗ったり、口をすすいだりするための水(=手水)を溜めておく鉢。寺社の境内に置かれるほか、茶庭や日本庭園の重要な構成要素
長谷川濤涯 はせがわとうがい。明治40年から大正2年まで「東京の解剖」「誤られたる現代の女」「海外移住新発展地案内」「婦人と家庭」などを書いています
4枚立4枚立 よまいだち。柱と柱の間に4枚の襖が入るもの
一閑張 竹や木で組んだ骨組みに和紙を何度も張り重ねて形を作り、柿渋や漆を塗る。食器や笠、机などの日用品に使いました。
襟懐 きんかい。心の中。胸のうち。
洒洒落落 しゃしゃらくらく。性質や言動がさっぱりして、物事にこだわらない

神楽坂の今昔3|中村武志

文学と神楽坂

 中村武志氏の『神楽坂の今昔』(毎日新聞社刊「大学シリーズ法政大学」、昭和46年)です。氏は小説家と随筆家で、1926(大正15)年、日本国有鉄道(国鉄)本社に入社し、1932(昭和7)年には、法政大学高等師範部を卒業しています。

 ◆ 面白い口上とサクラ
 現在は五の日だけ、それも毘沙門さんの前に出るだけだが、当時は、天気さえよければ、神楽坂両側全部に夜店がならんだ。
 まず思い出すのは、バナナのたたき売りだ。
 戸板の上に、バナナの房を並べ、竹の棒で板をたたきながら、「さあ、どうだ、一円五十銭」と値をつけて、だんだん安くしていく。取りかこんだお客に、「お前たちの目は節穴か、それとも余程の貧乏人だな」などと毒舌をはきながら、巧みに売りつける。こちらも、そんな手にはのらない。大きな房が五十銭、中くらいが三十銭まで下がるのを待つ。そのカケヒキが楽しかった。一篭十二貫入りが十篭も売れたものだ。
 万年筆売りの口上は、いつでも倒産の整理品か、火事の焼け残り品にきまっていた。店が倒産して、給料代わりにもらった品だから、二束三文で売るのだという。また万年筆にわざわざ泥をつけて、いかにも火事場から持ってきたように見せかけ、泣きを入れてお客の同情をそそった。
 毎晩同じセリフで商売になったのだから、悠長な時代でもあったし、同時にその品物が、それほどのゴマカシものではなかったわけだ。
 サクラ専門の男がいて、「おー、これは安い。三本もらおう」といって買って行くが、一時間もすると、再びやってきて、今度は五本も買う。
 彼は、万年筆屋専属でなく、カミソリ屋にも頼まれていて、「おや、これはドイツのゾリンゲンじゃないか。日本製と同じ値段だな」などといって買うのであった。
 ガマの油売りもいた。暗記術というのもあった。その他屋台では、すし、おでん、串カツ、それから熊公焼きというアンコ巻きもよく売れていた。カルメ焼き電気アメ、七色とうがらし、小間物、台所用品、ボタン、衣料、下駄などの日常必需品、植木、花、金魚、花火なんでもあった。

口上 口頭で事柄を伝達すること。俳優が観客に対して、舞台から述べる挨拶。
ゴマカシもの いんちきな品。にせもの
サクラ 露店商などの仲間で、客のふりをし、品物を褒めたり買ったりして客に買い気を起こさせる者。
ゾリンゲン Solingen. ドイツ西部、ノルトライン・ウェストファーレン州の都市。刃物工業で有名
ガマの油売り 筑波山のガマガエルから油をとり、傷を治す軟膏を売る人
あんこ巻き 小麦粉の生地で小豆餡を巻いた鉄板焼きの菓子。
カルメ焼き 砂糖を煮つめて泡立たせ、軽石状に固まらせた菓子。語源はポルトガル語のcaramelo(砂糖菓子)から。
電気アメ 綿菓子のこと。
 ◆ 文士と芸者とたちんぼ

 大正から昭和へかけて、牛込界隈には多くの文士が住んでいた。また関東大震災で焼け残った情緒のある街神楽坂へ、遠くからやってくる文士もあった。それらの人たちが、うまいフランス料理を食べさせる田原屋へみんな集まったのであった。夏目漱石吉井勇菊池寛佐藤春夫永井荷風サトウハチロー今東光今日出海、その他、芸能人の顔も見られた。
 このうちの幾人かは、自分のウイスキー(ジョニ赤)を預けておき、料理を取って、それを飲むという習慣だったそうだ。いま流行しているキーボックス・システムのはしりといっていい。
 文士の皆さんも、田原屋だけでなく、神楽坂三丁目裏の待合でお遊びになったと思うが、当時は芸者が千五百人もいた。だから、夕方になると左褄(ひだりづま)をとった座敷着の芸者が、神楽坂を上ったり下ったりする姿が見られた。
 現在は、わずかに二百人である。しかも、ホステスともOLとも区別がつかぬ服装で、アパート住まいの芸者が出勤して来るのだから、風情も何もないのである。
 神楽坂下には、たちんぼと呼ばれる職業の人が二、三人いた。四十過ぎの男ばかりで、地下足袋股引(ももひき)しるしばんてんという服装だった。
 八百屋、果物屋その他の商売の人たちが、神田市場、あるいはほかの問屋から品物を仕入れ、大八車を引いて坂下まで帰ってくる。一人ではとても坂はあがれない。そこで、たちんぼに坂の頂上まで押してもらうのであった。
 いくばくかの押し賃をもらうと、彼らは再び坂下に戻って、次の車を待つのであった。この商売は、神楽坂だけのものだったにちがいない。


ジョニ赤 スコッチウイスキーの銘柄ジョニー・ウォーカー・レッドラベルの日本での愛称
キーボックス・システム 現在はボトルキープと呼びます。酒場でウイスキーなどの酒を瓶で買って残った分を店で保管するシステム。
左褄を取る 芸者が左手で着物の褄を取って歩くところから、芸者になる。芸者勤めをする。
座敷着 芸者や芸人などが、客の座敷に出るときに着る着物
ホステス hostess。バーやナイトクラブなどで、接客する女性。
OL 和製英語 office lady の略。女性の会社員、事務員。
たちんぼ 道端、特に坂の下などに立って待ち、通る荷車の後押しをして駄賃をもらう者。
地下足袋 じかに地面を歩く足袋。「地下」は当て字
股引 ズボン状の下半身に着用する下ばき。江戸末期から、半纏はんてん、腹掛けとともに職人の常用着。
しるしばんてん 印半纏。襟や背などに、家号・氏名などを染め出した半纏。江戸後期から、職人などが着用した。
神楽坂だけのもの いいえ。昭和初期まで東京のあらゆる場所で見られました。神楽坂だけではないのです。