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若宮神社(写真)昭和52年 田口重久氏

 田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」の若宮神社(昭和52年、1977年8月27日)の写真を上げておきます。
 昭和44年の歴史博物館のID 8247-8248とよく似た画角ですが、いろいろ違いがあります。

田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」若宮神社入口遠景

 一枚目を新宿歴史博物館のID 8247と比較すると、交通標識「自転車及び歩行者専用」と下に「歩行者用通路」の表示。道路には「車両通行止め」のスタンド看板が立っています。この道は昭和44年は「軽自動車以外通行できません」(ID 8252)でした。

田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」若宮神社 鳥居と社殿遠景

 二枚目とID 8248を比較すると、木製の鳥居ができています。よく見ると一枚目にも見えます。この鳥居は長持ちしなかったと思われ、『牛込神楽坂若宮町小史』(1997年3月発行)の写真(下図)では四角い土台だけになっています。

「牛込神楽坂若宮町小史」から

 また拝殿の裏側の丸紅(株)若宮寮は建て直し中で、これは地図によると1980年に丸紅若宮荘になりました。

若宮神社 住宅地図 1980年

 三枚目は新宿歴史博物館にはない写真です。昭和27年3月の新宿区の木札で「現在仮殿のままであり」とあります。『牛込神楽坂若宮町小史』には「昭和24年(1949年)に拝殿、昭和25年(1950年)5月に社務所を建築」(13ページ)と「昭和25年(中略)に、社務所が建てられ、拝殿は昭和34年(1959年)6月に出来上がりました」(93ページ)と異なる記述があり、区の木札に従うなら後者の記録が正しいかも知れません。

田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」若宮神社案内板

 新宿区文化財資料
    若宮神社
 文治五年(1189)の秋に源頼朝が奥州藤原泰衡征伐の戦勝祝いに鎌倉の鶴岡八幡宮の若宮八幡を勧請して建てたものであるという。若宮とは仁徳天皇のことである。
 のちに太田道灌が文明年間(1469~86)に江戸城鎮護のため再興して社殿を江戸城に向くようにした。
 戦災を受けて現在仮殿のままであり境内は児童遊園地になっている。
  昭和27年3月           新宿区

神楽坂若宮八幡神社

文学と神楽坂

 神楽坂若宮八幡宮は、鎌倉幕府の初代将軍、(みなもとの)頼朝(よりとも)が戦勝を祈念して建立しました。文治5(1189)年7月、奥州の藤原泰衝の征伐に行く途中、頼朝は将来ここ若宮八幡宮のあるところで下馬して祈願したと伝えられています。ここは川と急坂に囲まれた丘の突端で見通しも良く、外敵から身を守るのに適していた、あるいは単純に鎌倉を出発しここで一日の行程が終わったのでしょう。
 10月、奥州を平定し、頼朝は鎌倉に戻り、まもなくここに鎌倉鶴岡八幡宮を移します。その後若宮八幡宮は衰退していましたが、文明年間(1469~87)、室町時代の武将、太田道灌(どうかん)が江戸城鎮護(ちんご)、つまり、災いや戦乱をしずめ、国の平安をまもることのため、若宮八幡宮を再興しました。なお、太田道灌が作った江戸城は康正2(1456)年開始、翌長禄1(1457)年4月完成しています。文明年間頃までは大社で、神領などがあり美麗だといわれていました。『江戸名所図会』では巨大な若宮八幡宮がありました。

江戸名所図会の若宮八幡

 明治2(1869)年の神仏混合禁止今により若宮八幡神社となりました。境内は黒塀で囲まれ木戸があり、楠と銀杏の大木があったようです。

明治20年

 明治20年ごろでは、若宮小路があり、これは()(れい)と若宮八幡神社を結ぶ小路です。

新撰東京名所図会」第42編 若宮小路。右側に若宮八幡神社が見える。

 ほかに下に行くと庾嶺坂。左には新坂、右は小栗横丁、上は出羽様下があります。また若宮神社の前は車は通れません。つまり、アグネスホテルから車で直接若宮小路にははいれません。アグネスホテルは右の地図では大きな「若宮町」の「宮」の場所にあります。
 さらに若宮小路では北から南に一方通行です。
 大正12(1923)年9月1日、関東大震災が起こり、黒塀は倒壊しました。昭和20(1945)年5月25日、東京大空襲で社殿、楠と銀杏はすべて焼失。御神体は戦火の中、宮司が持ち出し被災を逃れました。

 昭和22年(1947年)2月に乃木神社の古材を利用して仮社殿を再築、昭和24年(1949年)拝殿、昭和25年(1950年)5月に社務所を建築しました。その時代の写真は

若宮旧

 その後、社殿を西側に寄せ、東側は社務所を兼ねたマンションになりました。現在の神社は……

現在の若宮

内部

 例祭は9月14~15日、神事・行事で中祭は1月15日と6月15日です。

 また右側の立て看板ではこう書いています。

縁起録

縁起録

神楽坂若宮八幡神社縁起録

 若宮八幡神社は鎌倉時代に源頼朝公により建立された由緒ある御社で
   御祭神 仁徳天皇
       応神天皇
当社の御出来は
若宮八幡宮は若宮坂の上若宮町にあり(或は若宮小路ともいへり)別当は天台宗普門院と号す 傅ふに文治五年の秋右大将源頼朝公奥州の藤原泰衡を征伐せんが為に発向す其の時当所にて下馬宿願あり後奥州平沼の後当社を営鎌倉鶴岡の若宮八幡宮を移し奉ると云へり(若宮は仁徳天皇なり後に応神天皇に改め祭ると云ふ)文明年間太田道灌江戸域鎭護の為当社を再興し社殿を江戸城に相対せしむるなり当社は文明の頃迄は大社にして神領等あり美れいなりしという
神域は黒板塀の神垣南に黒門あり門内十歩狛犬一対(明和八年卯年八月奉納とあり)右に天水釜あり拝殿は南に面する瓦葦破風造梁間桁行三間向拝あり松に鷹象頭に虎を彫る「若宮八幡神社」の横額源正哥謹書とあり揚蔀(アゲジトメ)にて殿内格天井を組み毎格花卉を描く神鏡晶然として銅鋼深く鎮せり以て幣殿本社に通ず本社は土蔵造りなり
本殿東南に神楽殿あり瓦葦梁間二間桁行二間半勾欄付「神楽殿」の三字を扁し樵石敬書と読ま 背景墨画(スミエ)の龍あり落款梧堂とあり境内に銀杏の老樹あり
明治二年神佛混淆(コンコウ)の禁令あるや別当光明山普門院(山州男山に同じ)復飾して神職となる
例大祭は九月十五日 中祭 5月15日
          小祭 1月15日 に行はれ社務所は本社の東に在り
現在氏子は若宮町神楽坂一丁目二丁目三丁目の四ケ町なり。