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つゆのあとさき|永井荷風(3)

文学と神楽坂

 永井荷風永井荷風氏の「つゆのあとさき」です。昭和6年5月に脱稿し、同年「中央公論」10月号に一挙に掲載しました。青空文庫が今回の底本です。
 主人公は銀座で働く君江さんで、対する男性には色々な人物が出てきますが、ここでは出獄してまだ間がない「おじさん」です。そして「つゆのあとさき」はこれでおしまいです。

 君江は考え考え見附を越えると、公園になっている四番町の土手際に出たまま、電燈の下のベンチを見付けて腰をかけた。いつもその辺の夜学校から出て来て通りすぎる女にからかう学生もいないのは、大方おおかた日曜日か何かの故であろう。金網の垣を張った土手の真下と、水を隔てた堀端の道とには電車が絶えず往復しているが、その響の途絶える折々、暗い水面から貸ボートの静なかいの音にまじって若い女の声が聞える。君江は毎年夏になって、貸ボートが夜ごとににぎやかになるのを見ると、いつもきまって、京子の囲われていた小石川こいしかわの家へ同居した当時の事をおもい出す。京子と二人で、岸のあかりのとどかない水の真中までボートをぎ出し、男ばかり乗っているボートにわざと突当って、それを手がかりに誘惑して見た事も幾度だか知れなかった。それから今日まで三、四年の間、誰にも語ることのできない淫恣いんしな生涯の種々様々なる活劇は、丁度現在目の前によこたわっている飯田橋いいだばしから市ヶ谷見附に至る堀端一帯の眺望をいつもその背景にして進展していた。と思うと、何というわけもなくこの芝居の序幕も、どうやら自然と終りに近づいて来たような気がして来る……。
 火取虫ひとりむしつぶてのように顔をかすめて飛去ったのに驚かされて、空想から覚めると、君江は牛込から小石川へかけて眼前に見渡す眺望が急に何というわけもなく懐しくなった。いつ見納みおさめになっても名残惜しい気がしないように、そして永く記憶から消失きえうせないように、く見覚えて置きたいような心持になり、ベンチから立上って金網を張った垣際へ進寄すすみよろうとした。その時、影のようにふらふらと樹蔭こかげから現れ出た男にあやうく突き当ろうとして、互に身を避けながらふと顔を見合せ、
「や、君子さん。」
「おじさん。どうなすって。」と二人ともびっくりしてそのまま立止った。おじさんというのは牛込芸者の京子を身受してうし天神てんじんしたかこっていた旦那だんなの事である。君江は親の家を去って京子の許に身を寄せた時分、絶えず遊びに来る芸者たちがおじさんおじさんというのをまねて、同じようにおじさんと呼んでいた。本名は川島金之助といってある会社の株式係をしていたがつかい込みの悪事があらわれて懲役に行ったのである。その時分は結城ゆうきずくめった身なりに芸人らしく見えた事もあったのが、今は帽子もかぶらず、洗ざらし手拭地てぬぐいじ浴衣ゆかた兵児帯へこおびをしめ素足に安下駄をはいた様子。どうやら出獄してまだ間がないらしいようにも思われた。
見附 新見附でしょう
四番町 現在の四番町とは違います。九段北四丁目の北部です。近くに新見附橋があります。旧麹町区の新旧町名対照図 震災復興前後

旧麹町区の一部
電車 大正時代、電車といえば路線電車=チンチン電車のことです。
京子 君江の小学校の友達で、牛込の芸者になり、さらに、ある会社の株式係の川島金之助のめかけに。君江と京子と川島の三人で一夜を共にしたことも。しかし川島は横領の咎で収監。しかし、川島は仮釈放中か満期釈放で、自由の身になっていました。
小石川の家 小石川は小石川区です。家は小石川区諏訪町にあると後でわかります。
淫恣 いんし。みだらで、だらしがない。
活劇 劇の展開を思わせるような波乱。激しく派手な格闘。乱闘
市ヶ谷見附 市ヶ谷見附は江戸時代に江戸城の外堀に作られた枡形の城門ですが、その見附は今はなくなり、「市谷見附」交差点だけが残っています。
火取虫 夏、灯火に集まるヒトリガなどの蛾の類
 れき。小さい石。こいし。いしころ。つぶて。
牛込 牛込区、特に神楽坂を中心にする地域
牛天神下 後で「諏訪町で御厄介になっていた」と君江が言っています。「牛天神下」とは「牛天神=北野神社の下」という意味なのでしょう。
結城ずくめ 結城紬は茨城県結城市の周辺で織られる、奈良時代から続く高級絹織物。「ずくめ」は「そればかりだ」
洗ざらし 衣服などの、幾度も洗って、色は薄れる状態。
兵児帯 和服用帯の一種。並幅か広幅の布で胴を二回りし、後ろで締める簡単な帯。

「君子さんの方はその後どうしているんだね。定めし好きな人ができて一緒に暮しているんだろう。」
「いいえ。おじさん。相変らずなのよ。とうとう女給になってしまったのよ。病気でこの一週間ばかり休んでいますけれど。」
「そうか。女給さんか。」
 話しながら歩いて行くうち、川島は木蔭こかげのベンチには若い男女の寄添っているほかには、人通りといっても大抵それと同じような学生らしいものばかりなので、いくらか安心したらしく、自分から先に有合うベンチに腰をおろし、「いろいろききたい事もあるんだ。君子さんの顔を見ると、やっぱりいろいろな事を思出すよ。むかしの事はさっぱり忘れてしまうつもりでいたんだが……。」
「おじさん。わたしも今から考えて見ると、諏訪町で御厄介になっていた時分が一番面白かったんですわ。さっきも一人でそんな事を考出して、ぼんやりしていましたの。今夜はほんとに不思議な晩だわ。あの時分の事を思い出して、ぼんやり小石川の方を眺めている最中、おじさんに逢うなんて、ほんとに不思議だわ。」
「なるほど小石川の方がよく見えるな。」と川島も堀外の眺望に心づいて同じように向を眺め、「あすこの、あかるいところが神楽かぐらざかだな。そうすると、あすこが安藤阪あんどうざかで、の茂ったところが牛天神になるわけだな。おれもあの時分には随分したい放題な真似まねをしたもんだな。しかし人間一生涯の中に一度でも面白いと思う事があればそれで生れたかいがあるんだ。時節が来たらあきらめをつけなくっちゃいけない。」
「ほんとうね。だから、わたしも実は田舎の家へ帰ろうかと思っていますの。
定めし さだめし。あとに推量の語を伴って、おそらく。きっと。さぞかし。
女給 じょきゅう。カフェ・バー・キャバレーなどで、客の接待に当たった女性。ホステス
有合う ありあう。ものがたまたまそこにある。折よくその場にある。
諏訪町 現在は文京区後楽二丁目の一部。

小石川区諏訪町

心づいて こころづく。心付く。気がつく。考えが回る。失っていた意識を取り返す。正気づく。
 「阪」のこざと偏から土偏に変えると「坂」になります。「阪」は「大阪」など地名・人名にしか使われていません。それ以外には「坂」を使います。

昭和17年(標準漢字表)
昭和21年(当用漢字表)
昭和23年(戸籍法)人名用漢字に阪は使えない
昭和56年(常用漢字表)
平成16年(常用漢字表)人名用漢字に阪は使える

安藤坂 春日通りの「伝通院前」から南に下る坂道。
牛天神 うしてんじん。牛天神北野神社は、寿永元年(1182)、源頼朝が東国経営の際、牛に乗った菅神(道真)が現れ、2つの幸福を与えると神託があり、 同年の秋には、長男頼家が誕生し、翌年、平家を西海に追はらうことができました。そこで、元暦元年(1184)源頼朝がこの地に社殿を創建しました。

安藤坂

 突然土手の下から汽車の響と共に石炭のけむりが向の見えないほど舞上って来るのに、君江は川島の返事を聞く間もなくたもとに顔をおおいながら立上った。川島もつづいて立上り、
「そろそろ出掛けよう。差閊さしつかえがなければ番地だけでも教えて置いてもらおうかね。」
「市ヶ谷本村町丸◯番地、亀崎ちか方ですわ。いつでも正午おひる時分、一時頃までなら家にいます。おじさんは今どちら。」
「おれか、おれはまア……その中きまったら知らせよう。」
 公園の小径こみち一筋ひとすじしかないので、すぐさま新見附へ出て知らず知らず堀端の電車通へ来た。君江は市ヶ谷までは停留場一ツの道程みちのりなので、川島が電車に乗るのを見送ってから、ぶらぶら歩いて帰ろうとそのまま停留場に立留っていると、川島はどっちの方角へ行こうとするのやら、二、三度電車がとまっても一向乗ろうとする様子もない。話も途絶えたまま、またもや並んで歩むともなく歩みを運ぶと、一歩一歩ひとあしひとあし市ヶ谷見附が近くなって来る。
「おじさん。もうすぐそこだから、ちょっと寄っていらっしゃいよ。」と言った。君江はもし田舎へでも帰るようになれば、いつまた逢うかわからない人だと思うので、何となく心さびしい気もするし、またあの時分いろいろ世話になった返礼に、出来ることならむかしの話でもして慰めて上げたいような気もしたのである。
「さしつかえは無いのか。」
「いやなおじさんねえ。大丈夫よ。」
「間借をしているんだろう。」
「ええ。わたし一人きり二階を借りているんですの。下のおばさんも一人きりですから、誰にも遠慮は入りません。」
「それじゃちょっとお邪魔をして行こうかね。」
 たもと。和服の袖の下の袋状の所。
市ヶ谷本村町 戦前の市ヶ谷本村町は、陸軍士官学校を除くと、小さかったようです。

大正11年 東京市牛込区

電車通 路面電車が通る道

 君江さんは「おじさん」と一緒に下宿の2階にやってきます。

「日本酒よりかえっていいのよ。後で頭が痛くならないから。」と咽喉のどの焼けるのをうるおすために、飲残りのビールをまた一杯干して、大きくいきをしながら顔の上に乱れかかる洗髪をさもじれったそうに後へとさばく様子。川島はわずか二年見ぬ間に変れば変るものだと思うと、じっと見詰めた目をそむける暇がない。その時分にはいくら淫奔いんぽんだといってもまだ肩や腰のあたりのどこやらに生娘きむすめらしい様子が残っていたのが、今ではほおからおとがいへかけて面長おもながの横顔がすっかり垢抜あかぬして、肩と頸筋くびすじとはかえってその時分より弱々しく、しなやかに見えながら、開けた浴衣の胸から坐ったもものあたりの肉づきはあくまで豊艶ゆたかになって、全身の姿の何処ということなく、正業の女には見られない妖冶ようやな趣が目につくようになった。この趣はたとえば茶の湯の師匠には平生の挙動にもおのずから常人と異ったところが見え、剣客けんかくの身体には如何いかにくつろいでいる時にもすきがないのと同じようなものであろう。女の方では別に誘う気がなくても、男の心がおのずと乱れて誘い出されて来るのである。
「おじさん。わたしも今ので少し酔って来ましたわ。」と君江は横坐りにひざを崩して窓の敷居に片肱かたひじをつき、その手の上に頬を支えて顔を後に、洗髪を窓外の風に吹かせた。その姿を此方こなたから眺めると、既に十分酔の廻っている川島の眼には、どうやら枕の上から畳の方へと女の髪の乱れくずれる時のさまがちらついて来る。
 君江はなかばをつぶってサムライ日本何とやらと、鼻唄はなうたをうたうのを、川島はじっと聞き入りながら、突然何か決心したらしく、手酌てじゃくで一杯、ぐっとウイスキーを飲み干した。
     *     *     *     *

 何やら夢を見ているような気がしていたが、君江はふと目をさますと、暑いせいかその身は肌着一枚になって夜具の上に寐ていた。ビールやウイスキーのびんはそのまま取りちらされているが、二階には誰もいない。裏隣うらどなりの時計が十一時か十二時かを打続けている。ふと見るとまくらもとに書簡箋しょかんせんが一枚二ツ折にしてある。鏡台の曳出ひきだしに入れてある自分の用箋らしいので、横になったままひろげて見ると、川島の書いたもので、
 「何事も申上げる暇がありません。今夜僕は死場所を見付けようと歩いている途中、偶然あなたに出逢であいました。そして一時全く絶望したむかしの楽しみを繰返す事が出来ました。これでもうこの世に何一つ思置く事はありません。あなたが京子に逢ってこのはなしをする間には僕はもうこの世の人ではないでしょう。くれぐれもあなたの深切しんせつを嬉しいと思います。私は実際の事を白状すると、その瞬間何も知らないあなたをも一緒にあの世へ連れて行きたい気がした位です。男の執念はおそろしいものだと自分ながらゾッとしました。ではさようなら。私はこの世の御礼にあの世からあなたの身辺を護衛します。そして将来の幸福を祈ります。KKより。」
 君江は飛起きながら「おばさんおばさん。」と夢中で呼びつづけた。
昭和六年辛未かのとひつじ三月九日病中起筆至五月念二夜半脱初稿荷風散人

淫奔 いんぽん。性関係にだらしのないこと。みだらなこと。
生娘 うぶな娘。男性との性体験のない娘。処女。
 おとがい。下あご。あご。下顎の正中部、下唇の下に、横走する溝をへだてて突出する部分。英語でchinと呼ぶ部分だが、日本語には「おとがい」という古びた言葉しかない。
垢抜け 洗練した。素敵に見せられるように外見を変化させること。
豊艶 ほうえん。ふくよかで美しい。
正業 せいぎょう。正当な職業。かたぎの職業。
妖冶 ようや。なまめかしくあでやかな。妖艷
平生 へいぜい。ごく普通の状態。状況の中で生活している時。ふだん。平素。
サムライ日本 昭和6年「サムライ日本」は西条八十が作詞、松平信作が作曲して、「人を斬るのが侍ならば/恋の未練がなぜ斬れぬ/のびた月代寂しく撫でて/新納にいろうつる千代ちよ にがわらひ/昨日勤王 明日は佐幕/その日その日の出来ごころ/どうせおいらは裏切者よ/野暮な大小落し差し」と続きます。新納鶴千代は主人公で、大老井伊直弼の隠し子です。
思置く おもいおく。気にかける。あとに心を残す。思い残す。
念二 「念」は漢数字「廿」の大字だいじで、二十。したがって、「念二」は「22」になります。
夜半 よはん。よなか。0時の前後それぞれ30分間くらいを合わせた1時間くらい
 サイ。わず-か。わずかに。すこし。やっと。
散人 さんじん。役に立たない人。俗世間を離れて気ままに暮らす人。官途につかない人。閑人。文人などが雅号の下に添えて用いる語。散士。

箪笥町(写真)昭和35年 ID 565

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 565 は、昭和35年(1960年)、大久保通り沿いの箪笥町岩戸町付近を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 565 大久保通り箪笥町付近

 中央を大久保通りがあり、右には大きなS型の道路があります。これが「新蛇段々」で、この仮称は何を隠そう、私です、はい。大久保通りを走る都電は13番線でした。中央奥のひときわ大きな5階建ての建物は東京厚生年金病院(現・地域医療機能推進機構東京新宿メディカルセンター)でした。
 さて、地元の方に解説してもらいました。

 この写真を撮影したのは、旧牛込区役所の跡、新宿区役所・箪笥町特別出張所の建屋の屋上でしょう。戦後15年を経ても民家の多くは平屋か2階屋なので、遠くが見通せます。

地理院地図 1961年~1969年

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 565 拡大図

 左側のこんもりした森が筑土八幡神社です。すぐ手前の四角いビルは少し後に東京都の放射線技師学校になりますが、当時は何だったか分かりません。現在は牛込消防署があります。大正時代には関東大震災直後に三越マーケットがやってきました。
 筑土八幡の右、遠くに壁のようなものが見えますが、神田川の向こうの小石川の地下鉄丸ノ内線の地上区間です。この区間は1954年(昭和29年)に開業しています。筑土八幡側の複数の建物は中央大学富坂校舎ではないでしょうか。
 東京厚生年金病院は本館と別館があり、渡り廊下でつながっていました。すぐ手前は津久戸小学校の体育館が見えます。
 年金病院の右側の遠くのビルは、よく分かりません。場所としては外堀通り沿いの文京区後楽にある職安(現ハローワーク飯田橋)あたりでしょう。このビルと病院の別館との間、遠くに見える凸型は後楽園球場のスコアボードのようです。
 高級分譲マンションのはしり、揚場町セントラルコーポラスがあれば、これら文京区の景色は隠れてしまうはずですが、竣工はこの写真の2年後の1962年です。
 右側に切り立ったガケが見えます。手前が岩戸町、ガケの上が袋町です。飲み屋や職人の商工混在する岩戸町と、お屋敷町である袋町の落差が見られます。ガケ上の四角いコンクリートの建物は戦後にできた日本出版クラブで、印刷や出版の会社が集まる牛込地区の象徴のひとつでした。
 出版クラブのすぐ右、三菱銀行神楽坂支店の看板が見えます。建て直し前の旧店舗ですが、当時の神楽坂通りでもひときわ目立つ高い建物でした。
 右端の一番高い瓦屋根は光照寺と思われます。出版クラブ前からの参道に木が見えますが、現在はなくなっています。
 屋根が低いので、電柱だけでなく煙突が目立ちます。自前の焼却炉などを持つ事業者が多かったのだと思われます。もちろん銭湯もあり、年金病院の前に見える煙突が神楽坂で一番大きかった神楽坂浴場(津久戸町)です。昭和51年(1976年)の読売新聞の記事にイラストがあります。筑土八幡の左側が今もある玉の湯(白銀町、当時は別名)です。小栗横丁の熱海湯(神楽坂3丁目)は低い場所にあるので、この写真では明確に分かりません。

中央大学の富坂校舎 中大には1970年代まで、富坂とは別に「後楽園校舎」がありました。添付「今昔マップ」参照。この土地を売って多摩地区の土地を買った時の総長が升本喜兵衛です。多摩校舎の土地は升本総本店のものだったと聞いています。「かつては後楽園校舎、御茶ノ水校舎などの校舎が複数ありましたが、多摩移転時にその多くを売却しました」と中大のサイト

中大 後楽園校舎

 平松南氏の「神楽坂まちの手帖」第12号(2006年)では「大久保通り」の説明の時に同じ写真を使っています。

 昭和30年ごろ。車も少なく、都電13系統が悠々と走っている。右端に見えるのは、南蔵院から袋町方面に向かう坂道。道路の形状から、二枚が同じ位置を写したものであることが、かろうじて分かる。
 正面上部の大きな建物は厚生年金病院。屋上に見える円形は展望台である。リハビリに用いるため一階から螺旋形のスロープで繋がっており、上ると富士山まで見渡すことが出来た。

 またさっしいのホームページの「都電13番線 今昔物語」では新蛇段々の急峻な坂道が見えます。新蛇段々の反対側の坂は袖振坂です。

都電13番線 今昔物語

東京都都市整備局の地図

外濠線にそって|野口冨士男④

 牛込見附を境界にして、飯田堀の反対側の外濠は市ケ谷堀とよばれる。
 ここから赤坂見附弁慶堀に至る外濠は明治五年ごろまでいちめんの蓮池であったらしく、魚釣りも禁じられていた様子だが、私の少年昨代の市ケ谷堀には、禁漁どころか大正十年前後には貸ボート屋まで開業して、その直後に私も乗った。照明をして、夜間営業をしていた一時期もあったように記憶している。それにくらべれば、赤坂の弁慶堀や皇居の内濠の千鳥ヶ淵の貸ボートはずっとあとになってからはじまったもので、城濠のボートに関するかぎり牛込見附の開業はずばぬけて早かった。
 車体の小さな外濠線の市電は、外濠づたいに、運転台と車掌台をシーソーのように交互に上下させながら走っていた。
 運転台と車掌台について一言しておけば、ドアのしまるのは客席だけで、前後の乗務員は雨や雪の日も、ドアのない吹きさらしの運転台と車掌台に立ちつくしていた。だから飛び乗り、飛び降りも可能だったのである。そして、その車内には「煙草すふべからず」「痰唾はくべからず」「ふともも出すべからず」などと書いた印刷物が掲額されていた。

飯田堀(濠) いいだぼり。下図で。外濠を橋でさらに分割し、「○○濠」としました。
市ケ谷堀(濠) いちがやぼり。下図で。現在の名称は牛込濠。
赤坂見附 千代田区紀尾井町と平河町との間にあります。下図で。%e5%a4%96%e6%bf%a0%e3%83%9e%e3%83%83%e3%83%972
牛込見附 見附とは江戸時代、城門の外側の門で、見張りの者が置かれ通行人を監視した所。牛込見附は外濠が完成した寛永13(1636)年に、阿波徳島藩主蜂須賀忠英によって建設されたもの。
貸ボート屋 牛込壕のボート屋は大正7年(1918年)に東京水上倶楽部ができました。弁慶橋ボート場は戦後すぐに創業します。千鳥ヶ淵のボート場はいつできたか不明です。
ドアのしまるのは客席だけ 明治・大正時代にはオープンデッキ式の車が一般的で、運転士と車掌は車内ではなく、デッキに立っていました(写真)。東京でも昭和初期まではオープンデッキ式の市電がごく当たり前のように都心部を走り回っていました。この場合、運転士と車掌は横から風や雨、水滴がはいってきます。

電気鉄道会社

大正時代の東京電気鉄道会社、

ふともも… 獅子文六氏の『ちんちん電車』(朝日新聞社)では

“ふともも出すべからず″
 というのが、今の人の腑に落ちないらしい。私は、そのことを、若い人に語ったら、
「明治の女は、キモノを着てたから、裾を乱しやすかったのですね」
 と、早合点された。
 いくら、明治の女だって、電車に乗って、フトモモを露わすほど、未開ではなかった。それは、男性専門の注意である。当時の職人や魚屋さんなぞ、勇み肌であって、紺の香の高い腹がけ(旧式の水泳着みたいなもの)を一着に及んだだけで、乗車する者が多かった。これは胸部は隠すが、下部は六尺フンドシとか、日本式サルマタも、隠見するくらいだから、無論、フトモモ全部を、露わす仕掛けになってる。それでは外国人に対して不体裁であるというところから、禁令が出たのだろう。

なお、隠見(いんけん)とは「みえがくれ。みえたりかくれたりすること」。

 震災後もあったとおもうが、牛込見附と新見附との中間にあった逢坂下という停留所が廃止されたのは、いつごろだったろうか。その対岸の土手が遊歩道に開放されて公園になったのは、昭和三年のことである。
 永井荷風の『つゆのあとさき』が発表されたのは昭和六年十月で、女主人公の君江が友人のかつてのパトロンであった川島に久しぶりで再会するのがその土手公園だが、私の少年時代には将棋の駒を短かく切りつめたような形の白ペンキを塗った立札が立っていて、「この土手に登るべからず 警視庁」という川柳調の文字が黒く記されていたばかりか、棒杭に太い針金を張った柵があった。が、その禁札はほとんど無視されていた。私もしばしば禁を犯した一人だが、土手にあがってみると、雑草のあいだには人間が足で踏みかためた小径がくっきり出来上っていた。
 零落してひそかに自裁を決意している『つゆのあとさき』の川島は君江にむかって、《あすこの、明いところが神楽阪だな。さうすると、あすこが安藤阪で、樹の茂ったところが牛天神になるわけだな。》と思い出ふかい小石川大曲方面を眺望しながらつぷやくが、戦前の対岸は暗くて、ビルの櫛比している現在でも正面にみえる牛込の高台の緑は美しい。土手公園も松根油の採取が目的であったかとおもうが、戦時中には松の巨木が次々と伐り倒されて一時は見るかげもなくなっていたが、戦後三十年を経過した現在ではだいぶん景観を取り戻している。ただし、桜が多くなったのはあまり感心できない。土手には、松の緑のほうがふさわしい。

廃止 新宿区教育委員会の「地図で見る新宿区の移り変わり」(昭和57年)によれば、昭和15年には「逢坂下」停留場は確かにありました(右図。348頁)が、7年後の昭和22年にはなくなっています(380頁)。一方、東京都交通局の『わが町 わが都電』(アドクリエーツ、平成3年)では昭和15年の『電車運転系統図』(76-77頁)では逢坂下停留場はもうなくなっています。つまり昭和15年に逢坂下停留場はある場合とない場合の2つがあり、これから廃止は昭和15年なのでしょう。
逢坂下停留場、昭和15年公園 結局、外濠公園になりました。下の図を参照。
つゆのあとさき 銀座のカフェーを舞台にして、たくましく生きる女給・君江と男たちの様子を描く永井荷風氏の作品。『つゆのあとさき』の最後は、会社の金を使い込んで刑務所にいっていた川島に君江は出会い、酒を飲み、朝起きると、君江への感謝を書いた遺書が置いてあり、これが終わりです。何か、もやもやが残る結末です。
土手公園 現在は外濠(そとぼり)公園と名前が変わっています。JR中央線飯田橋駅付近から四ツ谷駅までの約2kmにわたって細く長く続きます。
外濠公園
弁慶堀(濠) 右図で。
千鳥ヶ淵 ちどりがふち。皇居の北西側にある堀。右図で。零落 れいらく。おちぶれること
自裁 じさい。自ら生命を絶つこと。
安藤阪 本来の安藤坂は春日通りの「伝通院前」から南に下る坂道。明治時代になって路面電車の開通のため新坂ができ、西に曲がって大曲(おおまがり)まで行くようになりました。
安藤坂
牛天神 うしてんじん。牛天神北野神社は、寿永元年(1182)、源頼朝が東国経営の際、牛に乗った菅神(道真)が現れ、2つの幸福を与えると神託があり、 同年の秋には、長男頼家が誕生し、翌年、平家を西海に追はらうことができました。そこで、元暦元年(1184)源頼朝がこの地に社殿を創建しました。
櫛比 しっぴ。(くし)の歯のようにすきまなく並んでいること。
松根油 しょうこんゆ。松の根株や枝を乾留して得られる油