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神楽坂よ、もう一度|昭和39年

文学と神楽坂

 くず勘一氏の「月刊金融ジャーナル」(金融ジャーナル社)『新・東京散歩』の「神楽坂よ、もう一度」(1964年)です。氏は随筆家で春秋社顧問、著書は「世界名作小説を中心とする文学の鑑賞 小説篇」「若き人々のための文学入門と鑑賞の手引」「文学の鑑賞」など。「金融ジャーナル」では連載『新・東京散歩』(「神楽坂よ、もう一度」のほかに「新宿」「お茶の水」「神田川から隅田川へ」「鎌倉」「池袋」「渋谷周辺」など)を執筆していました。没年は昭和57年6月25日。享年は80歳。

 飯田檎駅は、市ガ谷寄りのお堀端の水際にあった甲武線牛込駅が、関東大震災以後、水道橋寄りに改築されて面目一新し、出入口が二つ出来たために、そのころの評判小説、菊池寛の「心の日月」では、男と女の待合せ場所が、表口と裏口とになってしまい、飯田橋駅ニレジイが発生するというエピソードによって有名になった。今でこそ駅に出入口が二つあるのは少しも不思議ではないが、大正から昭和の始めごろの小駅の出入口は一つしか無かったのである。
 その飯田橋駅の長い廊下のような通路を抜けて、牛込見付のほうへ出てみると、山の手唯一の繁華街であった神楽坂は、この路の一直線上にある。明治・大正のころから神楽坂は、情緒たっぷりな市民の憩いの場であったが、大正十二年の関東大震災で下町を失ってからは、いっそう拍車がかかって、春や夏の宵など、夜店のアセチレン灯の光に映えた町全体は、まるで極彩色の錦絵を眺めるような風情ふぜいがあった。夢二の絵が、もてはやされた時代である。少年たちの瞳は、アセチレンの灯になまめく芸妓たちの褄先つまさきや白い素足におどおどと吸い寄せられたものである。
甲武線 正しくは甲武鉄道。明治時代の鉄道事業者。明治22年(1889)4月11日に内藤新宿駅と立川駅との間に開通し、やがて御茶ノ水から、飯田町、新宿、八王子までに至りました。1906年(明治39年)に国有化。
心の日月 菊池寛。大日本雄弁会講談社。初版は昭和6年。皆川麗子には親が決めた結婚相手がいるが、嫌悪感は強く、同じ岡山県の学生磯村晃と飯田橋駅で待合せをする。しかし、麗子は飯田橋の改札口、磯村は神楽坂の改札口で待っていたので、数時間後も会えなかった。麗子は丸ビルで中田商事の青年社長の秘書として働くが、社長の妻からは退職するよう言われる。その後、中田社長は離婚する。また麗子は磯村と話し合い、磯村は中田の妹を愛しているので、心の友達として会いたいと答える。最後は麗子は中田社長の勧めで、音楽学校に入ることになる。
ニレジイ フランス語L’élégie。英語ではelegy。悲歌、哀歌、挽歌。
飯田橋駅の長い廊下のような通路 かつての通路。

アセチレン灯 炭化カルシウムCaC2と水を反応させ、発生したアセチレンを燃焼させるランプ。硫黄化合物などの不純物を含むため、特有のにおいがある。
錦絵 にしきえ。浮世絵版画で、多色ずりの木版画
艶めく なまめく。つやめく。異性の心を誘うような色っぽさが感じられる。また、あだっぽいふるまいをする。
褄先  着物の褄の先端。

 久しぶりに牛込見付の石崖近くに立って私は暮れなずむ神楽坂の灯を眺めた。法政大・物理大の学生の人並で押しつぶされそうである。石崖につづくお堀の上の土手に、戦前は「この土手に登るべからず警視庁」という、いかめしい制札が建っていて、これが現代俳句の濫觴らんしょうだなどと私たちは皮肉ったものである。その土手に、今では散歩道がついて、学生たちの気取った散歩姿が見られる。土手の登りぎわにある煤けた白亜の逓信博物館の、煤けた白亜に捨て難い風情がある。しかし、情緒・風情などの言葉は既に死語といえそうだ。戦争直後の廃墟のようなただ、、に過ぎなかった神楽坂も、幅広い歩道が完成し、老舗しにせの灯も復活した今は、どうやら生気が甦ったようである。
制札 せいさつ。禁令の個条を記し,路傍や寺社の門前・境内などに立てる札。
濫觴 らんしょう。ものごとの始まりや起源を指すことば
煤けた すすける。すすがついて黒く汚れる。
逓信博物館 京橋区木挽町に逓信省庁舎にあった「郵便博物館」から、大正11年、東京市麹町区富士見町二丁目の建物に移転し「逓信博物館」と改称。1964年(昭和39年)、千代田区大手町の逓信ビルに移転。

 坂の中途の左側に、文人墨客の溜り場であった名物屋という珈琲パーラーがあり、中国の詩人コーエイの若き日の姿も、この辺で見られたものである。その右手の亀井鮨に「そっと握ったその手の中に君の知らない味がある」という平山芦江ろこうの筆になる扁額がかかっていたが、今はどうなったか。さらに四、五軒上には、牛込会館という、一種の貨演芸場があり、私たちは、水谷八重子(井上正夫共演)の「大尉の娘」に涙を流し、「ドモ又の死」や「人形の家」や「青い鳥」などでりきんだり興奮したりして″新時代″を感じたものである。その牛込会館の下は、美容院になり、上は何かの事務所か貸室になっているようであった。神楽坂を登り切ったところ、左ヘ曲がると、三語楼金語楼が活躍した神楽坂演芸場があったが、今は、さむざむと自動車の駐車場か何かの空地になっていた。左側の本多横町の角から三軒目かに山本コーヒー店があり、一杯五銭の渋いコーヒーと、外国航路船の浮袋のようにふとく大きいドーナツが呼びものであった。日本髪で和服の可憐な娘さんが、カウンターにいて、学生たちは胸をときめかしたはずだが、さて、山の彼方の空は、そのころは、いっそう遠かった――のである。
文人墨客 文人と墨客。詩文・書画などの風雅の道に携わる人
名物屋 不明です。新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」では昭和5年ごろ、亀井すしの坂下南では「カフェ神養軒」「はりまや喫茶」「白十字喫茶」しかありません。
コーエイ 詳細は不明。コーエーとも。大正末期から昭和初期にかけて日本語で詩を書いた詩人。
平山芦江 小説家・随筆家。花柳ものが得意で、都々逸の作詞、随筆を残した。第一次『大衆文芸』を創刊。小説『唐人船』『西南戦争』など。生年は明治15年11月15日、没年は昭和28年4月18日。享年は70歳。
扁額 へんがく。室内や門戸にかかげる横に長い額。
大尉の娘 ロシアの詩人プーシキンの完成された唯一の中編歴史小説。1836年に発表。僻遠の地キルギスの要塞に赴任した少尉補グリニョフとミロノフ大尉の娘マリヤとの恋を、プガチョフの叛乱を背景に描く。
ドモ又の死 有島武郎の作品。大正11年(1922)に発表。若い画家5人は1人(ドモ又)を天才として死亡させるが、実は死亡するのは石膏の面で、ドモ又はドモ又の弟となり、モデル(とも子)と結婚する。そして、悪ブローカーやえせ美術愛好家から金をとろうとしている。
人形の家 1879年、ヘンリック・イプセンの戯曲。弁護士の妻ノラは借金のことで夫になじられ、人形のような妻であったことを悟り,夫も子供も捨てて家をとび出す。
青い鳥 モーリス・メーテルリンク作の童話劇。1908年発表。チルチルとミチルは幸福の青い鳥を探しに行く。
美容院 マーサ美容室です。
山の彼方の空 上田敏氏の『海潮音』「山のあなた」からきています。「山のあなたになお遠く「幸」さいわい 住むと人のいう」。詩では「幸福」ですが、ここでは「恋愛」を指すのでしょう。

 その先の沙門天しゃもんてんをまつる善国寺のお隣りには、山の手の洋食の味を誇った田原屋があり、晩年の鷲尾雨工は、この店の酒と料理と雰囲気とを、こよなく愛していたようだ。同じ側に五十鈴といった甘い物屋と鮒忠という鳥料理屋があるが、これは、いずれも戦後派である。その角を左へ、急坂を少し登ると、今はアパートか何かになっているが、山の手の洋画封切場として偉容を誇る牛込館があった。徳川夢声の前のインテリ弁士といわれた藤浪無鳴がここに拠り、やがて夢声も、つづいて奇声と頓才で売出した大辻司郎が、右手を符の上へ突込んで銀幕の前へ、のこのこと現われて大喝采を博した懐しい大正時代。さらに、その以前、隣り上の下宿屋には、宇野浩二広津和郎などの若い文士たちが、とぐろを巻いていたものである。さらに大昔、藁店わらだなといったこのあたりは、由井正雪何何剣客のゆかりの地でもあったらしい。
封切 ふうきり。ふうぎり。封を切る。開封する。(近世、小説本は袋に入れられ発売した)新版の本。新作映画をはじめて上映して一般に見せること。一番館。
藤浪無鳴 活動写真弁士(無声映画の説明者)の1人。映画会社の翻訳を行い、のちに活動弁士になり、初めは浅草の金竜館、のちに新宿の武蔵野館の主任弁士を務めた。徳川無声の兄分で、2人で大正六年三月に帝国劇場でトマス・インス監督の大作映画「シヴィリゼーション」で弁士を行っている。また大日本映画協会を主宰しヨーロッパ映画の輸入に携わった。生年は明治20年8月4日。没年は昭和20年6月11年。享年は59歳。
大辻司郎 漫談家。活動写真弁士。兜町の株屋から弁士に転向し、「胸に一物、手に荷物」「海に近い海岸を」「勝手知ったる他人の家へ」「落つる涙を小脇にかかえ」などという「迷説明」など珍妙な台詞で有名になった。頭のてっぺんから出る奇声とオカッパ頭も有名。昭和27年、日航機もく星号の伊豆大島三原山の墜落事故で遭難死。生年は明治29年8月5日。没年は昭和27年4月9日。享年は55歳。
下宿屋 みやこ館です
とぐろを巻く 蛇などが渦巻状に巻いてわだかまっている。何人かの人が、ある場所に集まって長時間いる。腰を落ちつけて動かなくなる。
何何 不定称。不定の人や物事についていう。あれこれ。

 新宿―水天宮間の都電通りへ出る少し手前の左側に、紅屋という二階建の洋菓子店があり、高級な甘党を喜ばせていた。三階に、東京でも嚆矢といわれるダンスホールがあったが、いつの間にか消え失せ、その後はもっばら味の店としてさかっていた。そのころ一週間に二、三回は必ず二階の隅の卓に、小柄で白髪童顔の老紳士が、コーヒーを喫しながら何かを読んでいるのにぷつかったものだ。その老紳士秋田雨雀に、私は、ここで知り合いになった。
都電通り 現在の大久保通り。
嚆矢 こうし。何かの先がけとなるもの。物事の初め。最初。やじりにかぶらを用いていて、射ると音をたてる矢。昔、中国で、戦争の初めにかぶら矢を射たところから。

 都電通りを渡って、四、五軒目のパン屋通りを左へ入ると、カフエ・プランタンがあった。大麗災で下町を追われたダンディたちのメッカであったカフエ・プランタン。しかし私には、その薄暗い客席が、どうしても馴染なじめなかった。今でこそ町名の区別がなくなったが、この辺は、もととおてらといい、少し横へ曲れば、横寺町になり、飯塚というとぶろく、、、、屋があり、その先の路次の奥に松井須磨子のくびれ死んだ芸術倶楽部があった、ひところは倉庫のようになっていて、子供たちの遊び場であったことを覚えている。今は、もうその場所跡すら誰も知らない。記憶の中に溶けこんでしまっているようだ。この通りを少し歩いた左側に明冶の文豪尾崎紅葉の住んでいた古びた二階家と庭木が、戦争前までは残っていたが、新しい世代には関係のない絵空事とでもいおうか。
 今、この通り寺町(矢来から江戸川方面と早稲田、高冊馬場通りへつづく)は、地下鉄工事でバスなどは一方交通になっているが、ここから神楽坂へかけては、散歩道としても全くよい環境であったのだ。右側にある神楽坂武蔵野館という映画館は、文明館といって、神田の錦輝館とともに東京の映画館の草分けの一つでもあった。
 その隣りに南北社という本屋があり四六判型の「日本」という珍らしい大衆総合雑誌を発行していた。
 昭和の始めごろだったろうか。夜店のバナナの叩き売りとは違う青年のかけ声が聞こえるので、人混みをかきわけて覗いてみると、白皙長髪の青年たちが、部厚い原稿用紙の束をり売りしているのであった。つまり印刷工程を経ていないなまの小説なのである。こういう時代もあったのだ。青年たちの一人は、新しい小説家の金子洋文であった。
錦輝館 きんきかん、1891年10月9日、開業し、1918年8月19日に焼失。多目的会場。明治30年、東京でバイタスコープ(トマス・エジソンが発明したアメリカ最初の活動写真)の初めての映画があった。
白皙 はくせき。皮膚の色の白いこと
金子洋文 かねこようぶん。小説家、劇作家。武者小路実篤に師事。労農芸術家連盟を結成。昭和22年、社会党の参院議員を一期務めた。創作集「地獄」「鷗」「白い未亡人」、戯曲集「投げ棄てられた指輪」「飛ぶ唄」「狐」「菊あかり」など。生年は明治27年4月8日。没年は昭和60年3月21日。享年は91歳。

 通り寺町をまっすぐ通り抜けると矢来下に出る。その先が江戸川橋、左へ折れて早稲田へつづくが、矢来下の交番の横手に水守亀之助の家があり、小川未明もこの近所に住んでいて、娘さんの大きな澄んだ眼が印象的だった。矢来通りには東洋経済新報社もあったと思うが、古道具屋が多く「カーネギー曰く、多くの不用品を貯えんよりは有用の一品を求めよ」と大書した看板の店があった。その頃は古道具屋をあさるほどの身分でもなかったから、どんな有用な品があったか知らないが、古道具屋とカーネギーの取り合わせが珍らしく、この店はあまりはやらないのだろうと思ったりした。悠長な時代であった。
 矢来下から引返してだらだら坂を上り、右にそれると新潮社の通りだ。滝沢修が近くに住んでいた。今でも新潮社通いの文士達を時たま見かける。
(筆者は随筆家)

江戸川橋 神田川中流で目白通りの橋。場所は文京区関口一丁目。
水守亀之助 新宿区立図書館の『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』(1970年)の猿山峯子氏の「大正期の牛込在住文筆家小伝」では、大正11~14年、矢来町3番地中ノ丸2号に住んでいました。昭和3年は矢来町66番地でした(下図)。「ラ・カグ」のあたりです。さらに、昭和6年は弁天町60でしたが、戦災で焼失し、終戦直後は世田谷に疎開したと、地元の人の調査で。概略は明治40年、田山花袋に入門。大正8年(1919年)中村武羅夫の紹介で新潮社に入社。編集者生活の傍ら『末路』『帰れる父』などを発表。中村武羅夫や加藤武雄と合わせて新潮三羽烏といったようです。生年は明治19年(1886年)6月22日。没年は昭和33年(1958年)12月15日。享年は72歳。

昭和5年 牛込区全図 新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり―牛込編』昭和57年から


小川未明 同じく、大正5~6年には矢来町38番地に住んでいました。

カーネギー 実業家。カーネギー鉄鋼会社を創業。スコットランドで生まれ、1848年には両親と共にアメリカに移住。
だらだら坂 矢来通りに相当します。
新潮社の通り 牛込中央通りです。
滝沢修 俳優、演出家。開成中学を卒業後、1924年築地小劇場に入る。昭和22年、宇野重吉らと劇団民藝を創設。映画・テレビドラマへの出演も多い。生年は明治39年(1906年)11月13日、没年は平成12年(2000年)6月22日。享年は93歳。

追憶の牛込|サトウハチロー

文学と神楽坂

 サトウハチロー氏が書いた『僕の東京地図』(春陽堂文庫出版、昭和15年。再版はネット武蔵野、平成17年)の「追憶の牛込」です。

追憶スーベニーの牛込・ド・ウシゴメ
 僕は牛込うしごめで生まれた。薬王寺やくおうじだ。四つの時まで喜久井きくいちょうにいた。それから小石川こいしかわへとひっして行ったのだ。牛込にいた時は(こいつはあとで、おやじが話してくれたのだが)眞山まやま小父おじさん(靑果せいか氏)に抱っこして、毎口町を歩いたそうである。
 ――火事はどこだい牛込だい、牛のなんとか丸やけだい――
という唄だけは、いまでもはッきりおぼえている。(なんとかいうところは文句を知らないのじゃない。ただいまスーベニアを奏でている僕の心に、おかしなひびきを響かせたくないからである)
 小石川茗荷谷みょうがだににいた小学校の僕、早稲田わせだ中学一年のころの僕。長じておふくろと小石川の台町だいまちに住んでいた頃の僕にとって、神楽坂かぐらざかは、何と言っても忘れられない町である。矢来やらいの交番のところから、牛込見付みつけまでの間を一日に何度往復したことか。お堀には、ボートなんか浮いていなかった。暗い建物の牛込駅があって、線路に沿うてずッと桜が植わっていたように覚えている。身の丈を(ああ僕は四尺もなかッたですぞ)隠すくらいの草が、いっぱい生えていた。僕たち小学生は、二銭の釣竿を持って、一銭のバケツを提げて、そッと牛込駅のわきから、その草むらの中へ、しのびこんだ。みゝずをつけて、お堀へ投げ込んだ。一時間に十匹や十五匹あげるのはお茶の子サイ/\であった。ふなだ。鮒は引きが強い。六寸もあるのに引っぱられると堀の中へ引きこまれるように感じた。時々、オマワリさんに見つかっては追いかけられた。つかまっても、二銭と一銭と合計三銭の損だ(おゝその頃は、いまのように労力問題などはやかましくなかったので、僕は獲物えもの及びそれを獲得する労力のことは考えていなかった)。うまく見つからなかった日には意気揚々と、家へ帰った。殺生せっしょうのきらいなおふくろに見つかると、怒られるので裏の空き地へ行って、焚き火をして焼いて食った。泥くさかッただろうって? そんなことを考えているような子供なんかいなかッた、こいつは小学校時代の話だ。

スーベニー souvenir。仏語では土産、思い出、記憶など
牛込 昭和22年の区制改革前は、東京市は35区に分割。そのひとつ。
薬王寺前 「市ヶ谷薬王寺前町」は、明治末に名前だけが変わり、現在は「市谷薬王寺町」です。図を。
なんとか 「きんたま」です
神楽坂 当時は神楽坂1丁目から3丁目までの町でした。
矢来の交番 「牛込天神町」交差点にある交番(現在は矢来町地域安全センター)(図を)

 中学へ行くようになっては、何と言っても山本のわずかしか穴のあいてないドーナツに一番心をひかれた。十銭あると山本へ行った。山本は川崎第百の前だ。いまでもある。五銭のコーヒーを飲み、五銭のドーナツを食べた。ドーナツは陽やけのしたサンチョパンザのようにこんがりとふくれていた。コカコラをはじめて飲んだのもこゝだ。ジンジャエールをはじめて飲んで、あゝあつらえなければよかッたと後悔したのもこゝだ。この間、まだあるかと思って、ドーナツを買いに這入はいったら、店内の模様は昔と一寸ちょっと変わったが、陽やけのしたサンチョパンザことドーナツ氏は昔と同じ顔だ。皿に乗って、僕の目の前にあらわれた、なつかしかった。
長じて、おふくろと住むようになってからは、彼ドーナツ氏とは、別れを告げてしまツた。そうして、ヤマニバーにもっぱら通うようになった。ヤマニバーは御存知もあろう、文明館ぶんめいかんの先の右側だ。ヤマニバーの前にいま第一銀行がある。売家うりいえふだの出た家が一軒ある。この二軒の間を入ると右側に市営の食堂がある、こゝにも随分ごやツかいになった、金のない日は階下で大盛りに盛ったうどんを食べ、金のある日には、二階で、定食を食べたのだ。定食と言っても十五銭だ。こゝの食物くいものは、市営食堂のうちでも一番量が多くてうまいんじゃないかしら? ……これを通りすぎると飯塚質店の看板が出ている。飯塚友一郎さんのお家だ。質屋の看板の先に官許かんきょにごり酒と書いた看板がある。これも飯塚一家だ。
 ――けがれし涙を、にごり酒に落とす男こゝにあり――
 新宿へ遊びに行った帰りに、これを呑んでこんな歌を作った。あゝスーベニアはまだつづく。

中学へ サトウハチロー氏は明治43年(7歳)に小学校に入学し、大正5年(13歳)に早稲田中学に入り、大正6年(14歳)、父と一緒に浅草区に引っ越ししました。ちなみに関東大震災が起きたのは大正12年、20歳のときでした。
川崎第百 川崎第百銀行のこと。それから、左の蕎麦屋「春月」を飲み込んで大きくなり、最終的には「三菱UFJ銀行」になります。したがって「山本は川崎第百の前」を現在に置き換えると「魚さんは三菱UFJ銀行の前」になります。
いま この文章は昭和11年に書かれています。昭和12年に「火災保険特殊地図」に書いてあった「コーヒー」もこの「山本コーヒー」だったのでしょう。
サンチョパンザ 正しくはサンチョ・パンサ。スペインのセルバンテス(1547-1616)の小説「ドン・キホーテ」に登場する現実主義の従者。
コカコラ コカ・コーラ。ノンアルコール炭酸飲料で、1886年米国ジョージア州アトランタで生産を開始。第2次世界大戦中、米軍とともに世界中に拡大。日本では大正時代から出回っていました。
ジンジャエール ノンアルコール炭酸飲料で、ショウガ(ジンジャー)などの香りと味をつけ、カラメルで着色したもの。
あつらう あつらえるの文語形。注文して作らせること。
第一銀行 現在の「神楽坂KIMURAYA」。

神楽坂今昔(1)|正宗白鳥

文学と神楽坂

 正宗白鳥正宗白鳥氏は小説家・劇作家・評論家。生年は明治12年(1879年)3月3日。没年は昭和37年(1962年)10月28日。「塵埃」で文壇に登場。「何処へ」「微光」「泥人形」を書き自然主義文学の代表的作家になりました。
 昭和27(1952)年、72歳の時に「神楽坂今昔」を書いています。

 ふとした縁で江戸川べりのアパートの一室を滞京中の住居と極めるやうになつてから、昔馴染みの神樂坂に久し振りに親むやうになつた。朝晩の散歩として、筑土の方からか飯田橋の方からか、坂を上り下りして、表通裏通を、あてもなくたゞ歩きながら見てゐると、人通りが疎らで、商店喫茶店なども賑つてゐないらしい感じがするのである。をりをりの上京に、何處へ行つても人口過剰の日本の眞相を見せつけられてゐるやうなのに、昔は山の手第一の盛り場であった神樂坂がこんなにひつそりしてゐるのは不思議である。昔榮えて今さびれた町は趣味深きものである。榮華にほこつた人の落魄した姿を見るのも興味がある。どちらにも文學的味ひがあると云へる。詩が感ぜられるのである。それで、この頃の神樂坂散歩も、一度から二度と、たび重なるにつれて、馴染みの深かつた過去の記憶がこんこんと湧き出て、現在の寂寥たる光景を、詩味豐かにさせるのである。
 坂の大通を、大勢の人が歩いてゐないから町が衰微してゐるといふのは輕率な判斷だ。兩側の商家は一通り復興して、店先は小綺麗になつてゐる。左右の裏通には、昔を今に待合茶屋が居を占めてゐるが、薄汚なかつた昔のそれ等とちがつて、瀟洒たる趣を見せてゐる。入口に骨董品見たいな手水鉢を置いて、秋草がそれを色取つたりしてゐるなんか、下宿屋然たる昔の神樂坂待合情調ではないのである。昔よりも待合の家数は多いやうだが、まだところ/”\に新築までもしかけてゐる。
 それ故、大通の人の往來が乏しかつたり、果物屋菓子屋荒物屋などの店先が賑つてゐないのを見て、土地の盛衰の判斷は出來ないので、案外この地の待合商賣なんかは繁昌してゐるのかも知れない。
 さういふ風に心得てゐながら、私は、夕方になつても、昔はぞろぞろと出盛つてゐた散歩客なんかの全くなささうなひつそり閑としてゐるのを、人間社會の榮枯盛衰の一例ででもあるやうに見倣して、空想の餌食とするのである。
江戸川 神田川の中流域。都電荒川線早稲田停留場付近から飯田橋駅付近までの約2.1㎞の区間を指しました。
滞京中の住居 この時期、氏の本宅は長野県軽井沢町でした。
筑土 神楽坂に筑土(津久戸、つくど)から来るというのは、神楽坂坂上から来る場合です。
飯田橋 1881(明治14)年にできた橋で、飯田橋は牛込区下宮比町と麹町区飯田町とを結ぶ橋でした。また目白通りと外堀通りの交差点は「飯田橋交差点」と呼んでいます。飯田橋を起点にすると神楽坂の坂下から坂上に行く場合です。
賑っていない 第二次世界大戦の直後に神楽坂は全く繁昌していませんでした。
昔は山の手第一の盛り場 昭和初期には流行っていました。
落魄 らくはく。らくばく。衰えて惨めになる。落ちぶれること。零落
寂寥 せきりょう。心が満ち足りず、もの寂しいこと。
昔を今に 昔を今に戻すような。
瀟洒 しょうしゃ。すっきりとあか抜けしている。
手水鉢 手水を入れておく鉢。参拝前の身を清めるために寺社の境内に置きました。
手水鉢
 五十餘年前、二月の下旬の或る晩、不眠の疲勞でぼんやり新橋を下りた私は、未知の同縣人の學生に迎へられて、目鏡橋まで鐵道馬車に乘り、其處から歩いて、牛込見附を通つて、神樂坂を上つて、横寺町下宿屋に辿りついた。朧ろ月に照らされた見附あたりの眺めは、江戸の名残りを繪の如く見てゐるやうであつた。坂の上に有つた盛文堂といふ雑誌店で、新刊の「國民之友」を買つたことも、今なほありありと記憶してゐる。 兔に角東京では、私は最初牛込區の住民となり、牛込の場末の學校に通つてゐたので、第二の故郷か第三の故郷か、故郷といふ言葉の持つてゐる感じを、神樂坂あたりを見るにつけ感ぜられるのである。五十年の昔は歴史的存在のやうで、私は今神樂坂についての遠い昔の歴史のページをひもといてゐるやうな氣持になつてゐる。
五十余年前 初めて早稲田に入学したのは明治29(1896)年です。この随筆が発表されたのは昭和27(1952)年です。したがって、56年の違いがあります。
目鏡橋 実際にここでは万世橋を指します。神田須田町一丁目にある駅を降り、歩いて神楽坂に行きました。なお、目鏡橋は橋の1種で、本来は石造2連アーチ橋を指し、橋自体と水面に映る橋とが合わさって眼鏡のように見えるためです。この時点では東京駅はまだなく、中央線もありませんでした。
鉄道馬車 鉄道上を走る乗り合い馬車。1882年(明治15年)に「東京馬車鉄道」が最初の馬車鉄道として走り始めました。しかし、馬には糞尿をだすことが問題で、電車の運行がはじまると、多くの馬車鉄道はなくなっていきます。東京馬車鉄道も1903年(明治36年)に電化。東京電車鉄道となりました。

目鏡橋鉄道馬車停車場

目鏡橋鉄道馬車停車場

牛込見附 江戸城の外郭に構築された城門を「見附」といいます。見附という名称は、城門に番所を置き、門を出入りする者を見張った事に由来します。外郭は全て土塁で造られており、城門の付近だけが石垣造りでした。牛込見附は江戸城の城門の1つで、寛永16年(1639年)に建設しました。しかし、江戸城の城門以外に、市電(都電)外濠線の「牛込見附」停留所や、この一帯を牛込見附といっている場合もあります。
横寺町 新宿区の北東部に位置する町。町北部は神楽坂6丁目に接します。
下宿屋 何番地がわかればいいのですが、残念ながらこれ以上はわかりません。
朧ろ 現在は「朧」で「おぼろ」と読みます。ぼんやりとかすんでいること。はっきりしないさま。
国民之友 評論雑誌。徳富蘇峰の民友社が1887年(明治20)創刊しました。
学校 東京専門学校(現早稲田大学)です

 横寺町の私の下宿屋と目と鼻の間に紅葉山人が住んでゐた。誰に教へられたのでもなく、私は通り掛りに、尾崎德太郎といふ表札を見て知つたのだが、お粗末な家だなと、意外な感じに打たれただけであつた。紅葉の門下を牛門のなにがしと呼ぶ者もあつて、当時第一の流行作家であつた彼は、牛門の首領として仰がれてゐたのであらう。早稲田も牛込區内に屬してゐても、端つこにあつたので、私は、都會から田舎へ通學してゐるやうな氣持であつた。生れ故郷の地は溫かいためでもあつたが、私は體軀の鍛練を志して寒中足袋を穿かなかつたので、上京後もその習慣を守つてゐた。それで初春三月はじめの雪降る日にも裸足で學校通ひした。足はヒビが切れて、雪の染む痛さを覺えた。その頃の學校の教室には防寒設備はなかつたので、私などは身體を縮めて懷ろ手して講義を聽いてゐたのであつた。自分では無頓着であつたが、馴れない土地の生活が身體に障つたのか、熱が出たり、腸胃が痛んだり、或ひは脚氣のやうな病状を呈したりした。それで近所の醫師に診て貰つてゐたが、或る人の勧めにより、淺田宗伯といふ當時有名であつた漢方醫の診察をも受けた。その醫者の家は、紅葉山人邸宅の前を通つて、横寺町から次の町へうつる、曲り角にあつたと記憶してゐる。見ただけでは若い西洋醫師よりも信頼されさうな風貌を具へ、診察振りも威厳はあつた。生れ故郷の或る漢方醫は私の文明振りの養生法を聞いて、「牛乳や卵を飮むやうぢや日本人の身體にようない。米の飯に(さかな)をうんと食べなさい。」と云つてゐたものだ。
牛門 牛門は牛込御門のことで、(かえで)の林が多く、付近の人は俗に紅葉門と呼んでいたそうです。したがって、牛門も、紅葉門も、牛込御門も、どれも同じ城門を指します。転じて尾崎紅葉の一門です。
生れ故郷 正宗白鳥の出生地は岡山県でした。
曲り角 住んだ場所は『神楽坂界隈の変遷』や『よこてらまち今昔史』によれば、横寺町53番地でした。
文明振り 仕方・あり方。「枝ぶり」「勉強ぶり」。これが「歩きっぷり」「男っぷり」「飲みっぷり」のように「っぷり」となることも
 浅田宗伯老の藥はあまり利かなかったやうだが、「米の飯に魚をくらへ。」と云った田舎醫者の言葉は身にしみて思ひ出された。下宿屋の飯は、米は米でも、子供の時から食べ馴れた米の飯ではなかつた。下宿屋の魚は、子供の時から、食べ馴れたうまい魚ではなかつた。自分の村の沖で捕れた清鮮な魚介。自家所有の田地で實つた滋味ゆたかな米殻。私は、下宿の食膳を前にして、「これではおれの身體は、學問に堪へられないかも知れないな。」と悲觀することもあつた。だが、一歩外へ出ると、神樂坂を中心としたあちらこちらの商店には、見るからうまさうな物、食慾をそゝられる物が、これ見よがしに並べられてあつた。寺町の表通の青木堂の西洋食料品は私などの伺ひ知らない贅澤至極の飮料品であり食品であると思はれた。坂際の四つ辻の一角に屹立してゐるのは、「いろは」と云ふ牛肉屋であり、坂へかゝると、左に日本菓子屋の「べに屋」があり、右に「都ずし」あり、それからパン屋の木村屋があり、うどん屋の「春月」があつた。どれもみなうまさうだ。都會は誘惑に富んでゐたが、學資は一ヶ月に八圓か十圓に極められてゐたのだから、歩行の途上に見られる誘惑物のどれへも手は出せなかつた。さういふ覺悟をして、神樂坂といふ、生れてはじめて接觸した人世の大都會を、毎日のやうに見ながら、たゞ見るだけにしてゐたつもりであつたが、いつとなしに、自分の机の中に、木村屋の餡パンとか、(べに)()の大福餅とか、何とか屋の蓬萊豆、花林糖のたぐひが入つてゐることがあつた。蓬萊豆や花林糖をかじりながら、英語の教科書をぼりぼり讀みかじつて行くことに、云ひやうのない興味を感じてゐた。
 あの頃――日清戰爭直後――の神樂坂は、山の手第一の繁華街であつた。晩食後の散歩にも最も適した町であつた。寅の日の、毘沙門樣の緣日には、露店の植木屋の並ぶのが呼びものとなつてゐて、それを目當ての散歩は、お手軽な風流であつた。私など、この神樂坂地區の住民になつても、年少の身の、さういふ風流にはちつとも心を寄せられなかつたし、散歩のための散歩はあまりしなかつた。だけど、この緣日の夜の賑ひ、さま/”\な東京人が面白さうに歩いてゐる光景は、自分が幼少時代に幾年も、小説や新聞雜誌の記事でまぼろしに描いてゐたものよりも、陽氣で華やかで、都會人といふほこりを持つてゐる人々の群集であるやうに、私の目には映つてゐた。
滋味 じみ。栄養豊富でおいしい食べ物
青木堂 新宿区立教育委員会の『神楽坂界隈の変遷』「神楽坂界隈の風俗および町名地名考」では「洋酒の青木堂」「洋酒と煙草の青木堂」と出ています。東京市区調査会「地籍台帳・地籍地図 東京」(大正元年)(地図資料編纂会の複製、柏書房、1989)では通寺町(現在は神楽坂)51番地で、朝日坂から北西に3番目の地域でした。現在、51番地はありません。青木堂(昔)超有名店 神楽坂6丁目を参照。

地籍台帳・地籍地図 東京

屹立 きつりつ。堂々とそそり立つこと。
都ずし 同じく「都ずし」もここで出てきます。しかし、昭和45年新宿区教育委員会の『神楽坂界隈の変遷』「古老の記憶による関東大震災前の形」ではもうありません。つまり、「都ずし」は関東大震災前になくなっていました。都ずしから玩具店、昭和27年のパチンコ店、最後におそらく「くすりセイジョー」に変わりました。なお、屋台の都寿司もあったようです。
木村屋 残念ながら絵ではもっと左の方向、神楽坂が下がるはじめにあります。詳細は木村屋
春月 春月も以下の図に書いてあります。詳細は春月で。神楽坂4~6丁目
餡パン あんパン。あずきあんを詰めた菓子パン。本店の木村屋創業者達が考案し、1874(明治7)年に銀座の店で売り出したところ大好評でした。
蓬萊豆 ほうらいまめ。源氏げんじまめ。小麦粉と砂糖で作った衣を煎った落花生の周りにまぶした豆菓子です。源平豆とも。蓬莱豆

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