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春着|泉鏡花③

文学と神楽坂

 

横寺町 さて其夜そのよこゝへるのにもとほつたが、矢來やらい郵便局いうびんきよくまへで、ひとりでしたおぼえがある。もつと當時たうじあをくなつておびえたので、おびえたのが、可笑をかしい。まだ横寺町よこでらまち玄關げんくわんときである。「この電報でんぱうつてた。巖谷いはやとこだ、局待きよくまちにして、返辭へんじつてかへるんだよ。いそぐんだよ。」で、きよくで、局待きよくまちふと、局員きよくゐん字數じすうかぞへて、局待きよくまちには二字分にじぶん符號ふがうがいる。のまゝだと、もう(いち)音信おんしん料金れうきんを、とふのであつた。たしか、市内しない一音信いちおんしんきん五錢ごせんで、局待きよくまちぶんともで、わたし十錢じつせんよりあづかつてなかつた。そこで先生せんせいしたがきをると「ヰルナラタヅネル」一字いちじのことだ。わたしかう一考いつかうしてしかして辭句じくあらためた。「ヰルナラサガス」れなら、局待きよくまち二字分にじぶんがきちんとはひる、うまいでせう。――巖谷氏いはやし住所ぢうしよころ麹町かうぢまち元園町もとぞのちやうであつた。が麹町かうぢまちにも、高輪たかなわにも、千住せんぢゆにも、つこと多時たじにして、以上いじやう返電へんでんがこない。今時いまどきとは時代じだいちがふ。やまきよくかんにして、赤城あかぎしたにはとりくのをぽかんといて、うつとりとしてゐると、なゝめさがりのさかした、あまざけやのまちかどへ、なんと、先生せんせい姿すがた猛然まうぜんとしてあらはれたらうではないか。
 飛出とびだすのと、ほとん同時どうじで「馬鹿野郎ばかやらうなにをしてる。まるで文句もんくわからないから、巖谷いはやくるまけつけて、もううちてゐるんだ。うつそりめ、なにをしてる。みなが、くるまかれやしないか、うま蹴飛けとばされやしないかとあんじてるんだ。」わたしあをくなつた――(るならたづねる。)を――(るならさがす。)――巖谷氏いはやしのわけのわからなかつたのは無理むりはない。紅葉先生こうえふせんせい辭句じく修正しうせいしたものは、おそらく文壇ぶんだんおいわたし一人ひとりであらう。そのかはりるほどにしかられた。――なに五錢ごせんぐらゐ、自分じぶん小遣こづかひがあつたらうと、串戲じようだんをおつしやい。それだけあれば、もうはやくに煙草たばこ燒芋やきいもと、大福餅だいふくもちになつてた。煙草たばこ五匁ごもんめ一錢いつせん五厘ごりん燒芋やきいも一錢いつせんだい六切むきれ大福餅だいふくもち一枚いちまい五厘ごりんであつた。――其處そこ原稿料げんかうれうは?……んでもない、わたしはまだ一枚いちまいかせぎはしない。先生せんせいのは――内々ない/\つてゐるが内證ないしようにしてく。……

[現代語訳] さてその夜、ここに来るために通った場所である牛込郵便局の前で、ひとりで吹き出した記憶がある。もっとも当時は青くなって怯えていたのだが。おびえた仕草もまたおかしい。まだ横寺町の尾崎紅葉先生の玄関番としてそこにいた時である。「この電報をうってきな。巌谷小波氏のところだ。局待ちにして、返事は持って帰るんだよ。」で、局待ちというと、局員が字数を数えて、局待ちになると2字分の字数がさらに必要であり、このままだともう1通分の料金がいるというのだった。たしか市内は電報は5銭、局待ちをすると、10銭になる。これ以上の費用はもらっていない。そこで先生の下書きを見ると、「イルナラタズネル」と書いてある。1字分のことだ。私はもう一度、考えて、字句を改めた。「イルナラサガズ」。これなら局待ちの2字分もきちんと入る。うまいね。――巌谷氏の住所はその当時は麹町元園町だった。しかし、麹町でも、高輪でも、千住でも、待つ時間は多大だが、しかし、返電は来ない。今とでは時代が違う。山の手の郵便局は閑散として、赤城の下でニワトリが鳴くのをぽかんと聞いて、うっとりとしていると、斜め下の坂で、甘酒屋の町の角へ、なんと、先生の姿が猛然として現れたではないか。
 ただ見て飛び出すのと、ほとんど同時に「馬鹿野郎。何をやってる。全然言ったことがわからないから、巌谷は人力車で駆けつけて、もう家の中に来ているんだ。ぼんやり屋め。みんなが人力車にひかれないか、馬に蹴飛ばさないかと、心配していたんだ。」私は青くなった――(居るなら訪ねる)を――(要るなら捜す)に替えたのである――巖谷氏が訳がわからないのは無理はない。紅葉先生の字句を修正した人は、おそらく文壇では私一人だったろう。その代わり、目の出るほどに叱られた。――なに、5銭ぐらい、自分の小遣いがあるはずだと、冗談は言っちゃいけない。それだけあれば、もっと早く、煙草と焼き芋と大福餅を買っていた。煙草は約19グラムで1銭5厘、焼き芋が1銭で大で6切れ、大福餅は一枚5厘だった。――では原稿料は? ……とんでもない。私はまだ一枚も稼ぎはない。先生の原稿料は――内々に知っているが、内緒にしておく……

矢来の郵便局。旧牛込郵便局は左図の下方で→
横寺町。上図で。
玄関。泉鏡花氏は尾崎紅葉氏の玄関番でした。
局待。郵便物の配達先を郵便局気付けにしておくこと。
符号。ある事を表すために、一定の体系に基づいて作られたしるし。コード。
音信。おんしん。便り。おとずれ。
麹町元園町。元園町は右側のここ→。麹町元園町
高輪。ここで
千住。ここで←
赤城。赤城神社はこの上で。↑
猛然。勢いが激しい様子。
うっそり。ぼんやりしている様子。
五匁。ごもんめ。一匁は3.75グラム。五匁は18.75グラム
まるで。まるきり。全然

 まだ可笑をかしいことがある、ずツとあとで……番町ばんちやうくと、かへりがけに、錢湯せんたう亭主ていしゆが「先生々々せんせい/\ちやうひるごろだからほか一人ひとりなかつた。「一寸ちよつとをしへをねがひたいのでございますが。」先生せんせいで、おをしへを、で、わたしはぎよつとした。亭主ていしゆきはめて慇懃いんぎんに「えゝ(おかゆ)とはきますでせうか。」「あゝ、れはね、かうかうやつて、眞中まんなかこめくんです。よわしと間違まちがつては不可いけないのです。」なんと、先生せんせい得意とくいおもふべし。じつは、じやくを、こめ兩方りやうはうくばつたかゆいて、以前いぜん紅葉先生こうえふせんせいしかられたものがある。「手前勝手てまへがつてこしらへやがつて――先人せんじんたいして失禮しつれいだ。」そのしかられたのはわたしかもれない。が、ときおぼえがあるから、あたりをはらつて悠然いうぜんとしてをしへた。――いまはもうだいかはつた――亭主ていしゆ感心かんしんもしないかはりに、病身びやうしんらしい、おかゆべたさうなかほをしてた。女房にようばう評判ひやうばん別嬪べつぴんで。――のくらゐの間違まちがひのないことを、ひとをしへたことはないとおもつた。おもつたなりでとした。實際じつさいとした。ついちかころである。三馬さんば浮世風呂うきよぶろむうちに、だしぬけに目白めじろはうから、釣鐘つりがねつてたやうにがついた。湯屋ゆやいたのは(岡湯をかゆ)なのである。
[現代語訳] まだおかしいことがある。ずっと後で……この番町の銭湯に行くと、帰りがけに、銭湯の亭主が「先生、先生」という。ちょうど正午頃で、他の人はいなかった。「ちょっと教えをお願いしたいのですが]。先生で、お教えを、で、私はぎょっとした。亭主は極めて慇懃に「ええ、(おかゆ)とはどう書きますのでしょうか。」「ああ、それはね、弓、弓と書いて、真ん中に米を書くのです。弱いと間違ってはいけません。」なにせ先生の得意顔を思ってほしい。実は弱を米の両方に配った粥を書いて、以前、紅葉先生に叱られた人がある。「手前勝手に字を作りやがって――先人に対して失敬だ。」その叱られた人は私かもしれない。が、その時の記憶があるから、あたりの人がいないと確かめ、悠然と教えた。――今ではもう亭主は次の代に替わった――亭主は感心しない代わりに、病身らしく、おかゆを食べそうな顔をしていた。女房は評判の別嬪で――このくらい間違いのないことを、人に教えたことはないと思った。思ったなりに年を取った。実際、年月を経た。つい近頃である。式亭三馬の浮世風呂を読んでいると、だしぬけに目白の方から、釣り鐘が鳴ったようだが、これで気がついた。銭湯で聞いたのは((おか)())、つまり、入浴後に身体を清める湯のことだったのだ。

慇懃。真心がこもっていて、礼儀正しいこと
払う。取り除く。不用なもの、害をなすものなどを除く。
悠然。ゆうぜん。落ち着いてゆったりとしている
浮世風呂。式亭三馬作。1809~13年刊。江戸町人の社交場であった銭湯を舞台に、客の会話を通じて世相・風俗を描いたもの。写実性に富み、滑稽味豊かな作品。
目白。東京都豊島区南部、山手線目白駅周辺の地区。
おかゆ。陸湯。あがりゆ。上がり湯。かかりゆ。入浴後、身体を清めるのに使う湯。

私のなかの東京|野口冨士男|1978年⑪

文学と神楽坂

 朝日坂を引き返して神楽坂とは反対のほうへ進むと、まもなく右側に音楽之友社がある。牛込郵便局の跡で、そのすぐ先が地下鉄東西線神楽坂駅の神楽坂口である。余計なことを書いておけば、この駅のホームの駅名表示板のうち日本橋方面行の文字は黒だが、中野方面行のホームの駅名は赤い文字で、これも東京では珍しい。
 神楽坂口からちょっと引っこんだ場所にある赤城神社の境内は戦前よりよほど狭くなったようにおもうが、少年時代の記憶にはいつもその種の錯覚がつきまとうので断言はできない。近松秋江の最初の妻で『別れたる妻に送る手紙』のお雪のモデルである大貫ますは、その境内の清風亭という貸席の手伝いをしていた。清風亭はのちに長生館という下宿屋になって、「新潮」の編集をしていた作家の楢崎勤は長生館の左隣りに居住していた。

神楽坂の方から行って、矢来通を新潮社の方へ曲る角より一つ手前の角を左へ折れると、私の生れた家のあった横町となる。(略)その横町へ曲ると、少しだらだらとした登りになるが、そこを百五十メートルほど行った右側に、私の生れた家はあった。門もなく、道へ向って直ぐ格子戸の開かれているような小さな借家であった。小さな借家の割に五、六十坪の庭などついていたが、無論七十年前のそんな家が今残っている筈はなく、それがあったと思うあたりは、或屋敷のコンクリートの塀に冷たく囲繞されている。

朝日坂 北東部から南西部に行く横寺町を貫く坂
音楽之友社 音楽出版社。本社所在地は神楽坂6-30。1941年12月、音楽世界社、月刊楽譜発行所、管楽研究会の合併で設立。音楽之友
牛込郵便局 通寺町30番地、現在は神楽坂6-30で、会社「音楽之友社」がはいっています。
神楽坂口 地下鉄(東京メトロ)東西線で新宿区矢来町に開く神楽坂駅の神楽坂口。屋根に千本格子の文様をつけています。昔はなかったので、意匠として作ったはず。
神楽坂口
赤城神社 新宿区赤城元町の神社。鎌倉時代の正安2年(1300年)、牛込早稲田の田島村に創建し、寛正元年(1460年)、太田道灌により牛込台に移動し、弘治元年(1555年)、大胡宮内少輔が現在地に移動。江戸時代、徳川幕府が江戸大社の一つとされ、牛込の鎮守として信仰を集めました。

別れたる妻に送る手紙 家を出てしまった妻への恋情を連綿と綴る書簡体小説
貸席 かしせき。料金を取って時間決めで貸す座敷やその業
長生館 清風亭は江戸川べりに移り、その跡は「長生館」という下宿屋に。
或屋敷 「ある屋敷」というのは新潮社の初代社長、佐藤義亮氏のもので、今もその祖先の所有物です。佐藤自宅

  広津和郎の『年月のあしおと』の一節である。和郎の父柳浪『今戸心中』を愛読していた永井荷風が処女作(すだれ)の月』の草稿を持参したのも、劇作家の中村吉蔵が寄食したのもその家で、いま横丁の左角はコトブキネオン、右角は「ガス風呂の店」という看板をかかげた商店になっている。新潮社は、地下鉄神楽坂駅矢来町口の前を左へ行った左側にあって、その先には受験生になじみのふかい旺文社がある。

今戸心中 いまどしんじゅう。明治29年発表。遊女が善吉の実意にほだされて結ばれ、今戸河岸で心中するまでの、女心の機微を描きます。
簾の月 この原稿は今でも行方不明。荷風氏の考えでは恐らく改題し、地方紙が買ったものではないかという。
コトブキネオン 現在は「やらい薬局」に変わりました。なお、コトブキネオンは現在も千代田区神田小川町で、ネオンサインや看板標識製作業を行っています。やらい薬局と日本風呂
ガス風呂 「有限会社日本風呂」です。現在も東京ガスの専門の店舗、エネフィットの一員として働き、風呂、給湯設備や住宅リフォームなど行っています。「神楽坂まちの手帖」第10号でこの「日本風呂」を取り上げています。

 トラックに積まれた木曽産の丸太が、神楽坂で箱風呂に生まれ変わる。「親父がさ、いい丸太だ、さすが俺の目に狂いはないなって、いつもちょっと自慢げにしててさあ。」と、店長の光敏(65)さんが言う。木場に流れ着いた丸太を選び出すのは、いつも父の啓蔵(90)さんの役目だった。
 風呂好きには、木の風呂なんてたまらない。今の時代、最高の贅沢だ。そう言うと、「昔はみんな木の風呂だったからねえ。」と光敏さんが懐かしむ。啓蔵さんや職人さん達がここ神楽坂で風呂桶を彫るのを子供の頃から見て育ち、やがて自分も職人になった。

新潮社 1904年、佐藤義亮氏が矢来町71で創立。文芸中心の出版社。佐藤は1896年に新声社を創立したが失敗。そこで新潮社を創立し、雑誌『新潮』を創刊。編集長は中村武羅夫氏。文壇での地位を確立。新潮社は新宿区矢来町に広大な不動産があります。新潮社
旺文社 1931年(昭和6年)、横寺町55で赤尾好夫氏が設立した出版社。教育専門の出版社です。

旺文社

 そして、その曲り角あたりから道路はゆるい下り坂となって、左側に交番がみえる。矢来下とよばれる一帯である。交番のところから右へ真直ぐくだった先は江戸川橋で正面が護国寺だから、その手前の左側に講談社があるわけで、左へくだれば榎町から早稲田南町を経て地下鉄早稲田駅のある馬場下町へ通じているのだが、そのへんにも私の少年時代の思い出につながる場所が二つほどある。

交番 地域安全センターと別の名前に変わりました。下図の赤い四角です。
矢来下 酒井家屋敷の北、早稲田(神楽坂)通りから天神町に下る一帯を矢来下といっています。

矢来下

矢来下

江戸川橋 えどがわばし。文京区南西端で神田川にかかる橋。神田川の一部が江戸川と呼ばれていたためです。
護国寺 東京都文京区大塚にある新義真言宗豊山派の大本山。
講談社 こうだんしゃ。大手出版社。創業者は野間清治。1909年(明治42年)「大日本ゆうべん(かい)」として設立
講談社榎町 えのきちょう。下図を。
早稲田南町 わせだみなみちょう。下図を。
馬場下町 ばばしたちょう。下図を。

 矢来町交番のすこし手前を右へおりて行った、たぶん中里町あたりの路地奥には森田草平住んでいて、私は小学生だったころ何度かその家に行っている。草平が樋口一葉の旧居跡とは知らずに本郷区丸山福山町四番地に下宿して、女主人伊藤ハルの娘岩田さくとの交渉を持ったのは明治三十九年で、正妻となったさくは藤間勘次という舞踊師匠になっていたから、私はそこへ踊りの稽古にかよっていた姉の送り迎えをさせられたわけで、家と草平の名だけは知っていても草平に会ったことはない。
 榎町の大通りの左側には宗柏寺があって、「伝教大師御真作 矢来のお釈迦さま」というネオンの大きな鉄柱が立っている。境内へ入ってみたら、ズック靴をはいた二人の女性が念仏をとなえながらお百度をふんでいた。私が少年時代に見かけたお百度姿は冬でも素足のものであったが、いまではズック靴をはいている。また、少年時代の私は四月八日の灌仏会というと婆やに連れられてここへ甘茶を汲みに来たものだが、少年期に関するかぎり私の行動半径はここまでにとどまっていて先を知らなかった。
 三省堂版『東京地名小辞典』で「早稲田通り」の項をみると、《千代田区九段(九段下)から、新宿区神楽坂~山手線高田馬場駅わき~中野区野方~杉並区井草~練馬区石神井台に通じる道路の通称》とあるから、この章で私が歩いたのは、早稲田通りということになる。

中里町 なかざとちょう。下図を。
住んで 森田草平が住んだ場所は矢来町62番地でした。中里町ではありません。

森田草平が住んだ場所と宗柏寺

森田草平が住んだ場所と宗柏寺

本郷区丸山福山町四番地 樋口一葉が死亡する終焉の地です。白山通りに近くなっています。何か他の有名な場所を捜すと、遠くにですが、東大や三四郎池がありました。
一葉終焉
岩田さく 藤間勘次。森田草平の妻、藤間流の日本舞踊の先生でした。
榎町 えのきちょう。上図を。
宗柏寺 そうはくじ。さらに長く言うと一樹山(いちきさん)宗柏寺。日蓮宗です。
お百度 百度参り。百度(もう)で。ひゃくどまいり。社寺の境内で、一定の距離を100回往復して、そのたびに礼拝・祈願を繰り返すこと。
灌仏会 かんぶつえ。陰暦4月8日の釈迦(しゃか)の誕生日に釈迦像に甘茶を注ぎかける行事。花祭り。
甘茶 アマチャヅルの葉を蒸してもみ乾燥したものを(せん)じた飲料
東京地名小辞典 小さな小さな辞典です。昭和49年に三省堂が発行しました。

神楽坂矢来の辺り|尾崎一雄

文学と神楽坂

尾崎一雄 尾崎一雄氏が書く『学生物語』(1953年)で「神楽坂矢来の辺り」の一部です。これは(1)になります。
 氏は小説家で、生年は明治32年12月25日。没年は昭和58年3月31日。早大卒。志賀直哉に師事。昭和12年、「暢気眼鏡」で芥川賞。戦後は「虫のいろいろ」「まぼろしの記」など心境小説を発表。昭和50年、自伝的文壇史「あの日この日」で野間文芸賞受賞を受賞しました。

神楽坂矢来の辺り 学校の近くに下宿してゐた。早稲田界隈から最も手近な遊び場所と云へば、どうしても神楽坂である。そこには、寄席も活動小屋も飲み屋もカフェーも喫茶店も洋食屋もあった。牛込郵便局(当時の)あたりから肴町をつっ切り、見附に逹する繁華な遊歩街には、両側に鈴蘭燈がつき、夜店も出た。両側の商店も名の通った家が多かった。
 神楽坂が最も繁華を誇ったのは、例の関東大震災のあとだったらう。(略)
 十二年の九月一日に大震災である。(略)
 牛込区は大体無事だった。神楽坂にも被害は無かった。丸焼けの銀座方面から神楽坂へ進出する店があり、また客も神楽坂へ移ったやうであった。
牛込郵便局 『地図で見る新宿区の移り変わり・牛込編』(東京都新宿区教育委員会)で畑さと子氏が書かれた『昔、牛込と呼ばれた頃の思い出』によれば「矢来町方面から旧通寺町に入るとすぐ左側に牛込郵便局があった。今は北山伏町に移転したけれど、その頃はどっしりとした西洋建築で、ここへは何度となく足を運んだため殊に懐かしく思い出される。」となっています。右の「大正11年の東京市牛込区」の郵便局の記号は丸印の中に〒で、通寺町30番地でした。現在は神楽坂6-30で、会社「音楽の友社」がはいっています。

大正11年 東京市牛込区

大正11年 東京市牛込区

肴町 さかなまち。現在は神楽坂5丁目です。
見附 牛込見附は江戸城の城門の1つで、寛永16年(1639年)に建設しました。これが原義ですが、しかし、市電(都電)外濠線の「牛込見附」停留所や、神楽坂通りと外堀通りが交差する所を「牛込見附」と言ったりするのも正しいようで、ここでは交差点の「牛込見附」でしょうか。
鈴蘭燈 すずらんとう。鈴蘭はユリ科の高原の草地に生える多年草。高さ約30センチの花茎を出し、五、六月ごろ鐘形の白花を十数個下垂します。鈴蘭燈は鈴蘭の花をかたどった装飾電灯。左は昭和30年代の神楽坂の写真の1部ですが、こんな具合に見えたわけです。
鈴蘭燈

 それは、――私がこの神楽坂プランタンに出入りしてゐた時分、或る夜のこと、寺町通りを坂の方へ元気よく歩いてゆくと、向うから、背の高い長髪の人物が、手下を四五人引き連れて悠々とやって来るのを見つけたのである。――ははん、広津和郎だな、と思った。雑誌の口絵写真で見知ってゐるし、それに、学校へ講演で来たこともあったから、その時見覚えたに違ひないが、確かに広津氏である。は、すれ違ひざまに凝っと見て、それを確かめた。
 二三間行過ぎてから、心を決めて取って返し、
「失礼ですが、広津さんですか」
 さう声をかけた。
 長身の広津氏は、うん? といふふうにこっちの顔を見下して、立止まり、
「広津ですが――」お前は? といふ顔をした。その時私は、学生服に、学帽をつけてゐた。すでにどこかで少し飲んでゐたが、当時の私は二本や三本飲んでも、全然外見に変りはなかったから、広津氏の目には、普通の(大体真面目な)早稲田の学生とうつっただらう。
「私は、早稲田の文科の者で、尾崎と云ひます。実は、ちょっとお話をうかがひたいことがあるのですが――志賀さんについて」
「あ、さう、志賀さんのこと……」
 広津氏は、目をぎょろりとさせ、ちょっと考へるふうだったが、連れの人たちに向って、
「ぢやあ、先に行ってゐてくれたまへ、僕ちょっと――」
 四五人の、いづれも髮の長い連中が、うなづき合って歩き出した。広津氏は、来た方ヘ大跨に戻ってゆくので、私も大跨について歩いた。どこへ行くのかな、と思ってゐると、肴町の電車道をつっきると間もなく右手に折れて、神楽館といふ下宿へ入っていった。二階だったか階下だったか忘れたが、六畳位の部屋に通された。そこには、二十いくつといふ女の人がゐだ。夫人だなと思った。
寺町通りを… 神楽坂6丁目を交差点「神楽坂上」に向かって
 尾崎一雄です。
電車道 路面電車が敷設されている道路。ここでは大久保通りのこと。
神楽館 昭和12年の地図の『火災保険特殊地図』ではっきりわかります。神楽坂2丁目21でした。細かくは神楽館で。

「早稲田の尾崎君」
 広津氏が云ふと、夫人はお叩頭をした。私もイガグリ頭を深く下げた。
 広津氏は、こまかい紺絣着流しで、きちんと坐ってゐた。私も制服の膝を正しく折ってゐた。
「あの、『志賀直哉論』といふのをお書きになりましたが……」と云って、ちよっとつまった。
「ええ、書きましたが――」
 大きな目をして、凝っとこっちを見てゐる。で、それが? とうながされる思ひで、私はうろたへて、
「あれを拝見したのですか、あれは、――良いと思ひました」
「あ、さう」
 この時、夫人が茶をすすめた。しかし、私はそれに手を出してゐる余裕がなかった。あれも云はう、これも云ひたい、と頭の中はいっぱいなのだが――いや、いっぱいな筈なのだが、まるでこんぐらかってしまって、焦れば焦るほど、言葉が見つからなくなった。私は、確かに寒い時だったにかかはらず、汗をじとじと感じた。
 広津氏が、言葉少なに何か云ったが、それがどういふことだったか覚えてゐない。私自身の云ったことも覚えてゐない。志賀さんの小説か大好きで、全部熟読してゐるし、志賀さんに関する批評も落ちなく読んでゐる――といふやうなことを、どもりどもり云ったぐらゐのところであらう。
 とにかく、広津氏を呼び留めた時の元気は更に無く、私は逃げ出すやうにいとまを告げたのである。
イガグリ頭 いがぐり(毬栗)とは、いがに包まれた栗。イガグリ頭は髪を短く、丸刈りにした頭。
イガグリ頭紺絣 こんがすり。紺地に絣(かすり)を白く染め抜いた文様。その織物や染め物。かすりは文様の輪郭部がかすれて見えるから
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 「お対」とも。「つい」とは長着と羽織りを同じ布地で仕立てたもの。
着流し 男性の羽織、袴をつけない略式のきもの姿のこと。きものだけの楽な姿のこと。

 この一件は、思ひ出すたびに冷汗の種で、すでに三十年近い昔のことながら、実は私は誰にも話さなかった。先日、ある雑誌の記者にふと話して一と笑ひしたら、何となく気が済んだ思ひがした。勿論広津氏にも話さない。もっとも広津氏は当事者の一人、と云ふより被害者なのだから、(おぼ)えて居られるとすれば改めて苦笑されるかも知れない。しかし、公平に見て、広津氏としては、左ほどの大被毒ではないし、もともとさっぱりした人だから忘れて居られるかも知れない。だが、私は忘れることが出来なかった。広津氏には、再々お逢ひしてゐるくせに、私はどうもこの昔話を持ち出す気がしなかったのである。
 広津氏が、仮りにあの件を覚えてゐるとしても、あの無邪気な文科生が、この私だったとは思って居られぬだらう。私は、そんなことがあってから少くとも二年位経って、初めての同人雑誌を持ったのである。――茫々三十年。私も純真なる文学青年であった。
茫々 ぼうぼう。広々としてはるかな様子