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赤城神社(写真)拝殿と鳥居 昭和44年 ID 389-90、8262、8292-93

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」でID 389は「昭和44年(1969年)12月」に「赤城神社本殿」を撮り、ID 390は「同年12月」「赤城神社」を、ID 8262は「昭和44年頃か」と疑っていて「赤城神社(改代町の狛犬)」を、ID 8292とID 8293は「昭和44年頃か」「赤城神社」を撮ったと備考で書かれています。
 戦後の1951年(昭和26年)、本殿を再建し、さらに1959年(昭和34年)、鉄筋コンクリートで拝殿などを再建しています。

(1)赤城神社拝殿

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 389 赤城神社本殿

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8262 赤城神社(改代町の狛犬)

 ID 389とID 8262は、いずれも赤城神社の拝殿を正面から撮っています。本殿は、この奥に位置します。屋根は一見、いり母屋もやづくり風で破風が正面を向いています。これは権現ごんげんづくりと呼ばれる形式で、戦災で失われた社殿にならったものでしょう。垂木飾りがあり、鈴緒すずおが左どもえ)の賽銭箱に向かって垂れています()。表柱(向拝こうはいばしら)は4本見え、回廊の欄干にはぼうしゅの飾りがあります。
 狛犬は一対で、その台座に改代かいたいの銘があります。改代町は1779年にこの狛犬を奉納しました。
 向かって左の建物の看板には「館」が見えます。これは結婚式場の赤城会館でした。右は同様に社務所と、その奥は赤城幼稚園のようです。赤城幼稚園は1950年頃に開園し、2009年に閉園しました。
 赤城会館、赤城幼稚園とも(3)赤城神社の遠景に案内看板が出ています。
 ID 8262では右の手前に金網フェンスがあります。

住宅地図 1978年 赤城神社付近

(2)神門と鳥居

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 390 赤城神社

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8293 赤城神社

 門(神社なので神門と呼ぶそうです)の直前から内部への写真を撮っています。左側の玉垣に「赤城神社」、右側は無地の玉垣で、高札様の看板(屋根付きの看板)「赤城(会館)」と看板「之より境内につき 神社関係以外の 自動車通行止」と門灯があり、次に大きな社号しゃごうひょう(神社名を建てたもの)の「赤城神(社)」です。参道を進むと、左手にドラム缶数個と二輪手押し車1台、砂1山があります。
 鳥居はID 388で遠くに見えていて、おそらく戦前からあるものです。鳥居のせきの「通寺町」は現在の「神楽坂6丁目」です。左側には民家があり、舞踊などを教える「教授」、読めない看板と自動車1台があります。右側にも民家があります。
 さらに進むとアーチ型(⨅)の車止めが参道の中央に置かれ、その右側には「駐車禁止」と書かれ、また幹巻きを行っている木も数本あります。

(3)赤城神社の遠景

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8292 赤城神社

 さらに赤城神社から遠くなります。左から。

  1. 電柱看板に「三共グラビヤ印刷 株式会社/グラビヤ印刷/神社鳥居前/赤城元町」
  2. 自家用車、婦人2人
  3. (駐車禁止)8-20  (終わり)
  4. 男性2人
  5. 外灯
  6. 玉垣
  7. ポスター「赤城 ラジオ体操」
  8. 高札様の看板「公認 赤城幼稚園」「11月1日 昭和45年度 園児募集/公認 赤城幼稚園」。神門に「赤城神社」
  9. 母と娘1人(スカートをはいている)
  10. 鳥居と自動車1台、アーチ型(⨅)の車止め、男性1人。
  11. 赤城(神社)、外灯、自動車通行止、高札様の看板の「結婚式場/赤城会館」
  12. バイク2台
  13. 看板「御婚礼 御衣裳 東衣◯◯」
  14. 看板「キッチン  トップ」テントで「キッチン  トップ」
  15. 看板「駒」

住宅地図 1965年。赤丸の上はID 389とID 8262、真ん中はID 390とID 8293、下はID 8292。

善国寺(写真)大正12年

文学と神楽坂

 大正12年、東京市公園課は「東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖 第二輯」を出版し、その74は肴町の善国寺を撮った写真です。写真帖の発行日は5月1日で、同年9月の関東大震災の直前でした。

毘舍門天

 1頁前の説明文は「日蓮宗池上本門寺である。文禄麴町に創建し、寛政年間此地に移る。僧日惺の開祖で日蓮宗録所である。本尊毘門天の縁日寅の日には賽者熱閙繁昌を極めて居る」

 末寺。本山(本寺)の支配下にある寺院。江戸幕府は、本山・末寺関係を制度化して、寺院支配を行った。
文禄 1592年から1596年まで
麴町 東京都千代田区西部の地名。皇居の半蔵門から西にのびる新宿通り(甲州街道)をはさんで東西に広がる。
寛政 1789年から1801年まで
日惺 にっせい。安土桃山時代の日蓮宗の僧。
録所 そうろく。一般に寺院を統轄し、人事をつかさどる僧職名
 しゃ。梵語の音写。舎利とは仏陀の遺骨のこと
賽者 さいじん。神社仏閣に参詣する人。
熱閙 ねっとう。ねっどう。人がこみあって騒がしいこと。

 ほぼ同じ画角の牛込区史(昭和5年)掲載の写真と比べながら詳しく見ます。
 境内を囲む石囲いには1本ずつ寄進者の名が刻まれています。左右の門柱にはアーチ状に樹木を透かし彫りにした飾りがあります。中央の灯籠型の門灯は「◯門」か「◯川」と読めます。アーチは牛込区史にも見えますが、戦災で失われたようです。門柱と石囲いは戦後の昭和46年、再建まで使われました(ID 8299)。
 門柱の前には一対の屋根付き提灯。右は「大毘沙門天」、左は同じものが横を向いていて「(奉)納」。この提灯は石囲いの中に立つ柱で支えており、「牛込区史」にもあるので常設のもの思われます。
 境内に入りましょう。5列の石畳が本堂に通じ、その両側に背の高い灯籠が4灯ずつ。左右対称ではなく互い違いに配置されています。灯籠の下に碍子がいしらしきものがあるので電球だったでしょう。この灯りは牛込区史では中央一列の傘型照明に変わっています。
 正面の賽銭箱の左右の隅には「牛込」と小さく切り文字がありますが、中央の大きな字は判読できません。上から本坪鈴ほんつぼすずが垂れています。本堂は入母屋屋根で、破風が正面を向いています。
 手前の石畳の左右にも別の建物があり、本堂の右にも大きな屋根が見えます。木は裸になっているものもあり、この写真は冬か初春でしょう。