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明治の子供|新宿区役所

文学と神楽坂

 新宿区役所編「新宿区史・史料編」(昭和31年)で佐久間徳太郎氏が話した「古老談話」です。

  佐久間 德太郎      中町三六
 佐久間さんは明治21年生れであるから、かれこれ5,60年に亘って神樂坂を知つておられる。佐久間さんのお母さんが、坂の近くで「末吉」という料亭を開いていたので、其處で子供の時代を過したわけである。
 神樂坂の特徴と云うべきものに、毘沙門天緣日があつた。最初は寅の日だけであつたが、明治中頃から午の日も緣日になった。境内にはそんなに大掛りな芝居などかゝらなかったが、源氏節などやる小屋掛が建つた。芝居を見に行こうとすれば、水道橋の東京齒科醫科大學の辺にあつた三崎座というのへ出掛けた。こゝは女役者で、近邊の女連が見物に行った。木戸錢は五錢であった。神樂坂の芸者屋はかたまつてあつたのではなく、其處此處に離れてあつた。芸者が店から客の所へ行き帰りするのに、着飾つた着物のつまをとつて坂を行く姿が、商店の内から坐つて眺められたし、歩行者の眼を樂しませてくれた。これは一寸他の所では見られぬ光景で、神樂坂の情緒ともいうべきものであった。
縁日 ある神仏に特定の由緒ある日。この日に参詣すると御利益があるという。
源氏節 明治時代、名古屋を中心に流行した浄瑠璃の一派。明治期末は衰退。
小屋掛 こやがけ。芝居や見世物のための小屋をつくることや、その小屋。
三崎座 東京神田三崎町にあった。一般の劇場で女性だけの歌舞伎(女芝居)を興行した。
東京歯科医科大學 東京歯科医学院でしょう。明治34年、校舎を神田三崎町に移転。昭和21年、東京歯科大学(旧制)設置を認可。
木戸銭 興行を見物するために払う入場料。見物料。
褄を取る 裾の長い着物のつまを手で持ち上げて歩く。褄とは着物のすその左右両端の部分。

褄を取る(http://shisly.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/post-a708.html)

褄を取る(http://shisly.cocolog-nifty.com/blog/2013/06/post-a708.html)

 又神樂坂の坂も特別なものだった。「車力はつらいね」と唄われた如く、坂の登り降りに車力は苦労をした。車というのは、くね/\と折れ曲るようにして登るのが樂なのだが、神樂坂はそれが出來ない。かまぼこ型に真中がふくれ上つていたからだ。その為に車を店の中を突込んでしまう恐れがある。其頃の車は荷車か人力車であったが、坂の下に「立ちん棒」というのが立つていて、頼まれて荷車の後を押した。「立ちん棒」というのはれつきとした商売で車が上つてくると「旦那押しましようか」と後押しをして登りつめると一錢か二錢頂戴する。此の商賣は日露戰争頃まで見られたという。又人力車で坂の下まで來た人は一旦降りて、車が坂を登り切るまで一緒に歩かねばならなかった。こういうのは東京で珍しく、九段坂はそうであつたが他には知らないという。
車力 しゃりき。大八車などをひいて荷物の運搬に従事する人。
唄われた如く 「東雲のストライキ節」をもじったもので、替え歌「牛込の神楽坂、車力はつらいねってなことおっしゃいましたかね」から。本歌の歌詞は「何をくよくよ川端柳/焦がるるなんとしょ/水の流れを見て暮らす/東雲のストライキ/さりとはつらいね/てなこと仰いましたかね」。明治後期の1900年頃から流行し、廃娼運動を反映した。
かまぼこ形かまぼこ型に真中がふくれ上つていた 昔は道路全体が上を凸に曲げられ、かまぼこ形でしたが、昭和12年には、それほどのたるみはなく、道路の左右にはどぶ板が置かれるようになり、かまぼこ形ではなくなりました。
 経済的に豐かでない人々の子供達は、小學校を出た位で働かねばならなかつた。働き場所というのは、加賀町にある秀英舎(大日本印刷株式會社)とか、後樂園にあつた砲兵工廠であった。雜用に雇われて賃金を貰い、自分で働いて家計の足しにすると共に、小使も少し持つていた。
 子供達の通う學校は、市立の赤城小學校、愛日小學校でもう一つ私立の竹内尋常高等小學校というのがあり、文部省の補助金を受けていたので、校名の上に代用の字がついていた。此の學校の生徒には亂暴者が多く、赤城小學校や愛日小學校の生徒との闘いには絶對に強く、集團的に喧嘩をしかけたりした。佐久間さんは此の學校に通つた。生徒は總數八百名位で、此處の生徒は袴なぞはいてなく、皆つくしんぼみたいな恰好で、風呂敷包で通學した。袴をはくのは元旦とか天長節の祭日位だけであった。神樂坂六丁目にあった勸工場で、袴は四十五錢から五十錢位で買えた。
 昔は簡單にお酌になれたし、今みたいに許可など必要なかった。それに場所が神樂坂に近いとあつて、生徒の中にはお酌になっている者がいた。彼女は學校に来て勉強しているのだが、習字の時間になると御太鼓に墨をつけられるといつて、白い紙をかぶせていた。綺麗にしているから誰も墨をつけて汚す者はいないのだが、きまつてそうしていた。所で彼女は小學校の生徒であるが、お酌でもあるから何時お客があるか分らないので、箱屋が教室の外で待つている。そして知らせがあると生徒ではなくなつて、お酌として授業を止めて歸つて行く。今からでは一寸考えられないのだが、當時はそれがり前のように思われていた。
加賀町 市谷加賀町。新宿区の町名。牛込第三中学校や大日本印刷などが見られる。

市谷加賀町

市谷加賀町

秀英舎 1876年、日本で最初の本格的印刷企業。個人経営。昭和10年、日清印刷と合併し「大日本印刷」に。
工廠 こうしょう。旧陸海軍に所属し、兵器・弾薬などの軍需品を製造・修理した工場。
竹内尋常高等小学校 尋常高等小学校とは旧制小学校で、尋常小学校と高等小学校の課程を併置した学校。修業年限は、初め尋常4年、高等2~4年。その後、尋常6年、高等2年。竹内小学校はここ
代用 明治40年(1907)3月以前に、公立小学校にすべての児童を就学させられない特別な事情のあるとき、市町村内か町村学校組合内につくられた私立の尋常小学校。代用私立小学校。
つくしんぼみたいな恰好 「つくしの形の恰好」。わかりませんが、「刈上げの髪は目立ち、あとはやせている」でしょうか。
天長節 第二次大戦前の天皇誕生日。大戦後は「天皇誕生日」と改称
勧工場 百貨店やマーケットの前身。一つの建物で、日用雑貨、衣類などの多種の商品を陳列し、定価で販売した。
お酌 東京では半玉はんぎょくの異称。まだ一人前として扱われず、玉代ぎょくだいも半人分である芸者。
箱屋 客席に出る芸者の供をして、三味線などを持って行く男。はこまわし。はこもち。箱丁。
箱屋 「当」の旧字体

 神樂坂近邊には寄席が幾つかあつた。坂の中途、助六という下駄屋のある邊に若松亭というのがあつた。これは浪花節の定席で雲右術門とか虎丸など一流の者が來て居り、丸太で仕切った特別席には常連が多かつた。それより少し上に娘義太夫石本亭があつた。娘義太夫は大流行で東京専門學校のフアン連中が、娘義太夫の人力車にくつついて寄席のはしごをした程だった。色物では藁店にあつた藁店亭で、仲々の新感覺をみせていた。お盆には圓朝牡丹燈龍も聞けた。通寺町の細い道の突當りには、男義太夫の牛込亭があり、淺太郎とか三味線松太郎というのがいた。
 坂の中途にはまだ石垣などがあり、其の上にイソベ溫泉という風呂屋があった。櫻の木が植えてあってその下に赤い毛氈を敷いた緣臺が置かれて、そこに坐つて茄小豆をたべ甘酒を飲む事も出来た。そういう悠長さが佐久間さんの子供の時分にはあつた。だから花柳界ものんびりしていた。後立てで金を出すだけの旦那もいた。帳場は女が主體になつてやつており、金錢の淸算も無頓着な所があった。横寺町には明治三十六年まで尾崎紅葉が住んで居り、神樂坂は多く文士連中の遊び場であった。
若松亭 知りませんでした。
浪花節 浪曲。三味線の伴奏で独演し、題材は軍談・講釈・物語など、義理人情をテーマとしたものが多い。
娘義太夫 女性の語る義太夫節。義太夫節とは浄瑠璃の一流派で、原則として1場を1人の太夫が語り、1人の三味線弾きが伴奏する。
石本亭 まったく知りませんでした。
東京専門学校 早稲田大学の前身。明治15(1882)年、創立。35(1902)年、早稲田大学と改称。
藁店亭 おそらく袋町の和良店亭でしょう。明治21年頃、娘義太夫の大看板である竹本小住が席亭になり、24年に改築し「和良店亭」と呼びました。
円朝 幕末~明治時代の落語家。怪談噺、芝居噺を得意として創作噺で人気をえた。生年は天保10年4月1日、没年は明治33年8月11日。享年は満62歳。
牡丹燈龍 牡丹灯籠。ぼたんどうろう。三遊亭円朝作の人情噺「怪談牡丹灯籠」の略称。お露の幽霊が牡丹灯籠の光に導かれ、カランコロンと下駄の音を響かせて恋しい男のもとへ通う。
牛込亭 神楽坂6丁目の落語と講談の専門館。詳しくは牛込亭について。
イソベ温泉 野口冨士男氏は温泉山と呼んでいたようです。
茄小豆 ゆであずき。茹でた小豆。砂糖などをかけて食べる。
後立て 「後ろ盾」は「陰にあって力を貸し、助ける事や人」。「後立て」は「かぶと立物たてもののうち、後方につけたもの。」
 佐久間さんは神樂坂で旦那・先生・兄さん等と呼ばれた人だったが、若い頃は家の商賣を嫌って世帶を持ち始めた頃は、袋町で下宿生活をしていた。淸榮館という下宿屋で隣の部屋には、小説家の宇野浩二氏が母親と共に暮して居り、時々彼の彈く三味線の音が聞えて来た。それでやはりこれも小説家の廣津和郎氏が時々顏を見せていた。
 其の頃の新宿は「新宿まぐその上に朝の露」と川柳に唄われる程で、新宿驛も貧弱なものであり、驛前に掛茶屋が三、四軒あった。神樂坂が明治の頃は、山の手隨一の繁榮を誇つた街であった。
 佐久間さんは大正十五年に、牛込區議會議員となり、現在は新宿區の名誉職待遇者となつている。

清栄館 宇野浩二氏は白銀町の都築、神楽坂の神楽館、袋町の都館にいたことはわかっています。清栄館にいたというのは知りませんでした。本当でしょうか。
新宿まぐその上に朝の露 至文堂編集部の「川柳江戸名所図会」(至文堂、昭和47年)にはでていません。江戸時代の古川柳「誹風柳多留」を索引で調べても、ありませんでした。「朝の露」は「朝、草葉に置いた露」で、はかない人生のたとえに用いる場合も。
掛茶屋 道端などによしずなどをかけて簡単に造った茶屋。茶店。
 「当」の旧字体。

小品『草あやめ』①|泉鏡花

文学と神楽坂

 泉鏡花作「草あやめ」(明治36年)の最初の1節です。当時の神楽坂2丁目の様子がわかります。まだこの辺りは華街にはなっていなかったのですね。

 二丁目にちやうめ借家しやくや地主ぢぬし江戸兒えどつこにて露地ろぢとざさず裏町うらまち木戸きどには無用むようものるべからずとかたごとしるしたれど、表門おもてもんにはとびらさへなく、けても通行勝手つうかうかつてなり。たゞ知己ちかづきひととほけ、世話せわもを素通すどほ無用むようたること、おもひかはらずりながら附合つきあひ五六けん美人びじんなきにしもあらずといへどみだり垣間見かいまみゆるさず、のき御神燈ごしんとうかげなく、おく三味さみきこゆるたぐひにあらざるもつて、頬被ほゝかぶり懐手ふところで湯上ゆあがりのかた置手拭おきてぬぐひなどの如何いかゞはしき姿すがたみとめず、華主とくいまはりの豆府屋とうふや八百屋やほや魚屋さかなや油屋あぶらや出入しゆつにふするのみ。
[現代語訳] 二丁目の私の借家の地主は、江戸っ子であり、門などは閉めない。裏町の木戸には無用の者は入ってはいけないと型どおりに書いている。しかし、表門を見ると、扉はなく、夜が更けても誰でも勝手に通行できる。ただし、近くの人の通り抜けはよくない。一般的な言葉を使うと、素通り、つまり、立ち寄らずに通り過ぎる人は、いらないと私は考えている。
お付き合いした五六軒を見ると、美人もいるが、やはり、みだりにのぞき見はいけない。待合のように提灯はかかっておらず、奥には三味線の音も聞こえてこない。さらに、ほおかぶり、懐手、湯上りの肩に置手拭といったいかがわしい姿もない。あるのは、得意客を回る豆腐屋、八百屋、魚屋、油屋が出入する音だけだ。

二丁目 神楽坂2丁目22番地のこと。泉鏡花は明治36年から39年まで、ここを借りていました。
露地を鎖さず 「ろじをとざさず」。露地は覆いがない土地。これを戸・門などでしめない。
通行勝手 勝手に通行できる。
素通り 立ち寄らずに通り過ぎる。
かはらず 変わらず。変わることないが。そう考えているが。
お附合 「お付き合い」。人と交際すること
美人なきにしもあらず 「なきにしもあらず」とは「無きにしも非ず」。ないわけではない。美人ではないわけではないが
垣間見 間からからこっそり見ること。のぞき見。
御神燈 芸者屋などで縁起をかついで戸口につるした提灯。
三味の音 芸者さんは午前中から三味線の練習をしました。
類にあらざる 同類ではない。似ていない。芸者さんとかは来ていない。
頬被 手ぬぐいなどで頭から頰にかけて包み、顎のあたりで結ぶこと。
懐手 手を袖から出さずに懐に入れていること。傍観者の立場という感じでしょうか
置手拭 手ぬぐいを畳んで、頭や肩にのせること
如何はしき いかがわしい。怪しげだ。疑わしい
豆府屋 行商の豆腐屋はラッパを鳴いて売り歩いていました。行商の八百屋、魚屋、油屋もありました。

 あさまだき納豆賣なつとううり近所きんじよ小學せうがくかよをさなが、近路ちかみちなればいつたもとつらねてとほる。おはなやおはな撫子なでしこはな矢車やぐるま花賣はなうりつき朔日ついたち十五日じふごにちには二人ふたり三人さんにんくなり。やがて足駄あしだ齒入はいれ鋏磨はさみとぎ紅梅こうばい井戸端ゐどばた砥石といしゑ、木槿むくげ垣根かきね天秤てんびんろす。目黑めぐろ(たけのこ)うりあめみの若柳わかやなぎ臺所だいどころのぞくもゆかや。
[現代語訳] 早朝、納豆を売る人が出てくる。近所の小学校に通う幼児も近道をとおり、五人や六人、一緒に歩いている。お花を売る姿も見える。撫子の花や矢車の花を売り、月の一日や十五日になると、二人三人呼びあって、皆で買うようだ。やがて行商の足駄の歯入やハサミ研ぎが出てくる。紅梅の井戸端に砥石をそろえ、木槿の垣根に天秤を下ろす。目黒の筍売屋は雨の日に蓑を着て、若い女性が台所にいるのを見ている。これもいい感じだ。

朝まだき 早朝
小学 竹内小学校です。場所はここ。明治20年の地図ではここ。平成9年の『ここは牛込、神楽坂』第4号16頁によれば、「『近所の小学』というのは、現在、東京理科大学の一部になっている所にあった私立竹内小学校のことで、公立の津久戸小学校が創立されるまで、付近の子供たちはほとんど、ここに通っていたと聞きました」と書いてあります。実は津久戸小学校ができてもただちに竹内小学校が消えたのではなさそうです。津久戸小学校が作られたのは明治37(1904)年4月。ほぼ20年後の大正11(1922)年になっても、東京逓信局編纂『東京市牛込区』では、この2つの小学校は依然同時にあります。大正12年、関東大震災が起こり、それから、ようやく昭和5(1930)年には竹内小学校は消えています。また、昭和45年新宿区教育委員会の「神楽坂界隈の変遷」「古老の記憶による関東大震災前の形」を見ると、私立竹内小学校はかなり大きな敷地を占めていました(下図)。

竹内小学校

上は津久戸小学校。下は竹内小学校。

古老の記憶による関東大震災前の形
現在は理科大のキャンパスです。竹内小学校
幼き おさなき。年齢がごく若い。未熟だ。
袂を連ねて 袂とは和服の袖付けから下の、袋のように垂れた部分。袂を連ねる人と行動を共にする。
撫子 なでしこ。ナデシコ科の多年草。
矢車 やぐるまぎく。キク科の一年草。
足駄 あしだ。下駄の一種。東日本では歯の高い差歯(さしば)の下駄をアシダと呼んでいる。
歯入 はいれ。下駄の歯を入れ換えること。その職業。
鋏磨 ハサミ研ぎ。
紅梅 こうばい。ウメのこと。
木槿 ムクゲ。アオイ科の落葉低木。写真は左からなでしこ、やぐるまぎく、むくげ 藁(わら)を編んで作られた雨具の一種。
若柳 若い柳。ここは美人のことだと思います。たとえば、柳眉とは柳の葉のように細く美しい美人の眉をさします。同じではないでしょうか。
床し 気品・情趣などがある。