第一勧業信用組合」タグアーカイブ

神楽坂3, 4, 5丁目(写真)昭和47年秋~48年春 ID13188-98

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 13152からID 13198までは神楽坂1~5丁目で歩行者天国の様子を連続で撮影したものです。うちID 13188からID 13198までは神楽坂3丁目に立地点を置き、神楽坂4-5丁目方向を撮っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13188 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13189 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13190 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13191 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13192 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13193 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13194 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13195 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13196 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13197 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13198 神楽坂歩行者天国

 車道と歩道はアスファルト舗装。歩道の縁石は一定間隔で色が違い、黄色と無彩色です。また巨大な標識ポール「神楽坂通り/美観街」がありました。
 街灯は円盤形の大型蛍光灯です。街灯の柱はモノクロ写真では薄い色が多いのですが、この一連の写真は黒く写っています。ID 9781など他にも黒く写っているので、時代によって色が違いました。
 電柱は左側だけで、上には大きな柱上変圧器があります。
 歩行者の大半がコートや外套を着ており、寒い季節ですが、年代の詳細はここで話しています。また、歩行者天国(車道に車を禁止して歩行者に開放した地域)は日曜日・祝日の実施なので、営業していない店が目立ちます。

神楽坂3丁目→4丁目( 昭和47年秋~48年春)
  1. ▶防火水そう (丸)岡陶苑 ここ
  2. (ヤマ)ダヤ (洋傘、帽子)
  3. ▶突き出し看板と電柱看板「洋傘 ショール 帽子 ヤマダヤ
  4. ジャウトーヤ フルーツ パーラー喫茶。テントは「パーラー喫茶 フルーツ ジャウトーヤ」手前が果物店、奥がフルーツパーラー
  5. (店舗)
  6. 神楽坂通り/美観街
  7. (車両通行止め)三つ叉通りへの入口
  8. 宮坂金物店
  9. (歩行者横断禁止)
  10. ▶電柱看板「 フクヤ 袋町 12」「川島歯科
  11. ▶街灯は円盤形の大型蛍光灯。「神楽坂通り」。黒の主柱。中央に(横断歩道)
  12. テントは「〇’S SHOP SAMURAIDO」(サムライ堂洋品店)ばぁ侍(2階)DC
  13. 三菱銀行。閉店中のシャッター前に切り花の露天商
  14. 消火栓。広告「カメラのミヨシ」(本多横丁)
  15. ▶電柱看板「中河電気」「 倉庫完備 買入 大久保
  16. (車両進入禁止)毘沙門横丁に。(ここから5丁目)
  17. 善國寺
  18. (駐車禁止)
  19. ▶立て看板「こどもの(飛び出し多し/徐行)」
  20. ▶電柱看板「小野眼科」「鮨 割烹 八千(代鮨)
  21. レストラン (フルー)ツ 田原屋
  22. ▶電柱看板「松ヶ枝
  23. 五十鈴
  24. やきとり殿堂(鮒忠
  25. タイヨウ(時計店)
  26. ヒグチ(薬局)
  27. 遠くに協和銀行
  28. ジャノメミシン
  1. 京都 。看板「 堂々オープン 960円〇〇 浪費させない店 コンパ エアプレイ/新装開店 神楽坂名物日本髪の京都/7時までオール3割引 お気軽にどうぞ/バー京都
  2. 酒豪 ひな鳥 丸むし焼 とりちゅう
  3. たばこ(中西タバコ?)
  4. 看板「家のマーク ショーケース 〇〇」(坂本ガラス店?)
  5. (日)邦工(計や記、試?)(宮坂ビル)
  6. 中国料理 五十(番)
  7. (一方通行入口)。本多横丁
  8. 仐と(はきもの)(近江屋)
  9. スゴ(オ)(洋菓子店)
  10. 大佐和 神楽坂店(現・楽山
  11. ▶電柱看板「宝楽」(旅館)
  12. (毘沙門せ)んべ(い) 福屋本舗
  13. (尾沢)薬(局) カネボウ(化粧品)
  14. 第一勧業信用組合

▶は車道寄りの歩道上に広告がある
▶がない場合は直接店舗に

住宅地図。1973年。出版は1972年2月

神楽坂5丁目(写真)昭和47年秋~48年春 ID13161~13164

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 13152からは神楽坂1~5丁目で歩行者天国の様子を連続で撮影したものです。うちID 13161、ID 13162、ID 13163、ID 13164はカメラを神楽坂5丁目に置き、東の方向(3、4丁目)に向けて撮っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13161 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13162 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13163 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13164 神楽坂歩行者天国

 車道と歩道はアスファルト舗装。歩道の縁石は一定間隔で色が違い、黄色と無彩色に塗り分けていました。写真の左端、テントの脇の太い鉄柱は「神楽坂通り/美観街」の標識です。
 そのすぐ右の「寺内横丁」に横看板が見えますが、読めません。横丁を入ったところに、住宅地図によって異同がありますが「米枡」「割烹椿」「クラブパリジェンヌ」「末っ子」などの店名が見えます。「(米)桝」と「(割)烹 椿」と見れなくもないと思います。こうした店が横丁の入り口に共同看板を出していた可能性が高いでしょう。横丁の共同看板は毘沙門横丁のID 11833にも見られます。なお「寺内」ばかりではなく「地内」という名前もありました。

 街灯は円盤形の大型蛍光灯で、その柱は他のカラー写真では銀灰色、モノクロ写真では薄い色が多そうです。しかし、この一連の写真は黒く写っています。ID 9781など他にも黒く写っているので、時代によって色が違ったと思います。
 電柱は右側だけで、上には大きな柱上変圧器があります。
 歩行者天国(車道に車を禁止して歩行者に開放した地域)は日曜日・祝日の実施なので、営業していない店が目立ちます。また、歩行者の大半がコートや外套を着ており、年代の詳細はここで話しています。

神楽坂5丁目→3丁目(昭和47年秋~48年春)
  1. 店舗
  2. (車両通行止め)「〇〇〇」「(日曜日)祝日の(12)ー18」
  3. 横看板(寺内横丁
  4. 「(日本)盛 ニホンザカリ 特約店 万長」「Coca -Cola」「Bireley’s バャリース 万長酒店」「キリンビール」UC
  5. 日本法令のロゴマーク 届け用紙 相馬屋
  6. 第一勧業信(用)組(合)(昭和46年10月、日本勧業信用組合から改称)

▶は歩道上で車道寄りに看板がある
▶がない場合は直接店舗に

  1. 電柱の足元に段ボール箱(家電品か)
  2. ▶電柱看板「内科 小児科 産婦人科 放射線科 阿部医院」「 加藤質店」
  3. 中河電(気) SONY (ト)リニトロン ボタ(ン)でん(わ)
  4. 週刊新潮(芳進堂)
  5. 電柱看板「川島歯科」「加藤産婦人科」
    ――地蔵坂(藁店)
  6. 「やきとり殿堂 鮒忠」「鳥の王様」「鮒忠 宴会場 2F 」「鮒」
  7. ▶「日本酒まつり 鮒忠」
  8. パチンコ おおとり 花輪
  9. 田原屋(果物と洋食屋)
  10. ▶電柱看板「斉藤医院
  11. ▶電柱看板「 丸越質店
  12. ▶公衆電話ボックス
  13. 三菱銀行
  14. 遠くに(横断歩道)と「神楽坂通り/美観街」

住宅地図。1973年

神楽坂3, 4, 5丁目(写真) 昭和47年秋~48年春 ID13152-53,13159-60

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」のID 13152からは神楽坂1~5丁目で歩行者天国の様子を連続で撮影したものです。うちID 13152とID 13153、ID 13159、ID 13160は神楽坂3丁目に立地点を置き、神楽坂4-5丁目方向を撮っています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13152 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13153 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13159 神楽坂歩行者天国

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13160 神楽坂歩行者天国

 車道と歩道はアスファルト舗装。歩道の縁石は一定間隔で色が違い、おそらく黄色と無彩色に塗り分けていたでしょう。道路標示「駐車禁止」が立っています。また巨大な標識ポール「神楽坂通り/美観街」があります。
 街灯は円盤形の大型蛍光灯です。街灯の柱は他のカラー写真では銀灰色、モノクロ写真では薄い色が多いです。しかし、この一連の写真は黒く写っています。ID 9781など他にも黒く写っているので、時代によって色が違ったでしょう。
 電柱は左側だけで、上には大きな柱上変圧器があります。例外としてID 13160では右側にも電柱があり、路地の奥に電線をつなぐためのものでしょう。
 歩行者の大半がコートや外套を着ており、寒い季節と思われます。歩行者天国(車道に車を禁止して歩行者に開放した地域)は日曜日の実施なので、銀行をはじめ営業していない店が目立ちます。
 ID 13152-13153の三菱銀行は昭和47年(1972)ごろ5丁目の仮店舗から建て直した新店舗に移りました。仮店舗の後に「パチンコ山水林」(現在はシュエット神楽坂)が開業しています。ところが昭和47年や昭和48年の住宅地図では「パチンコ山水林」はまだありません。
 一方、ID 13159-13160の「毘沙門せんべい 福屋本舗」は写真では2階屋ですが、昭和48年(1973)9月に5階建ての現ビルに建て替えられました。従ってこの写真の撮影時期は昭和47年の秋から、遅くとも昭和48年の春先と推定されます。

神楽坂3丁目→4丁目( 昭和47年秋~48年春)
  1. 電柱看板「洋傘 ショール 帽子 ヤマダヤ
  2. ジャウトーヤ (喫)茶 フルーツ。手前が果物店、奥がフルーツパーラーでした。
  3. (店舗)
  4. 神楽坂通り/美観街
  5. (車両通行止め)三つ叉通りへの入口
  6. 宮坂金物店
  7. (歩行者横断禁止)
  8. フクヤ。電柱看板「川島歯科
  9. 街灯は円盤形の大型蛍光灯。「神楽坂通り」。黒の主柱。中央に(横断歩道)
  10. DC JCB。サムライ堂洋品店 ばぁ侍(2階)
  11. 三菱銀行。閉店中のシャッター前に切り花の露天商
  12. FIRE HY(DRANT) 消火栓。広告「カメラのミヨシ」本多横丁にあった。角から4軒目くらい(下の右図)
  13. 電柱看板「中河電気」「 倉庫完備 買入 大久保
  14. 毘沙門横丁に。(ここから5丁目)
  15. 善國寺。子どもが石囲いに登っている。本堂再建時に石囲いは一新したので滑り台はなく、この写真はただのワンパク坊主。
  16. (駐車禁止)
  17. 立て看板「こどもの飛び出し多し/徐行」
  18. レストラン (フルー)ツ 田原屋
  19. 電柱看板「小野眼科」「鮨 割烹 八千(代鮨)
  20. おおとり(パチンコ)
  21. やきとり殿堂 鮒忠
  22. 中河電気
  23. パチンコ(山水林)。現在はシュエット神楽坂、築年月は2007年6月
  24. タイヨウ(時計・メガネ)
  25. 神楽坂通り/美観街
  26. 薬ヒグチ
  27. 遠くに協和銀行
  1. 京都。看板「オープン 浪費させない店 コンパ 〇〇プレイ/新装開店 神楽坂名物日本髪の京都/7時までオール3割引 お気軽にどうぞ/バー京都
  2. (一方通行入口)。本多横丁へ(ここから4丁目)
    (数店おいて)
  3. (大佐和)神楽坂店(現・楽山
  4. (バー)鼓 この先突き当たり右 (「紅小路」へ)(下図)
  5. 電柱看板「 フクヤ」「旅館 宝楽」
  6. (店舗としもた屋)
  7. 毘沙門せんべい 福屋本舗 福屋不動産
  8. (店舗)
  9. オシャレ洋品 アワヤ
    ―――「ごくぼそ」へ
  10. 紳士服 テーラー 島田
  11. 尾沢薬局 (くす)り尾崎 カネボウ化(粧品)
  12. (店舗) (ここから5丁目)
  13. 第一勧業信用組合(駐車場)
  14. (店舗)
  15. かやの木(玩具店)
  16. (消火栓)
  17. 第一勧業信用(組合)。昭和46年(1971年)10月に改称

住宅地図。1980年。つづみとミヨシ

住宅地図。1976年。

神楽坂4丁目、5丁目(写真)昭和51年 ID 11482

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11482は、昭和51年、神楽坂4丁目から当時の神楽坂交差点(現、神楽坂上交差点)方向を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11482 神楽坂

 車道はアスファルト舗装で、次に側溝、縁石があり、車の渋滞はかなり長くなっています。歩道もアスファルト舗装で、看板「まず徐行 あそこに子どもとお年より 牛込警察署」が見えます。街灯は大きな円盤形で、下に「神楽坂通り」、さらにその下に数本の木と人工的な葉があり、また電柱の上には柱上変圧器があります。半袖の人が多いので夏、逆転式一方通行の向きから午後1時以降でしょう。

神楽坂4~5丁目(昭和51年)
  1. 善国寺。4角柱?などが見える部分は児童遊園
  2. レストラン フル(ーツ) 田原屋
  3. パチンコ おおとり
  4. 甘なっと 五十鈴
  5. やきとり(殿)堂 鮒忠
  6. 藁店に入る道のカーブミラー
  7. (中)河電(気)
    ここまで5丁目。ここから6丁目
  8. 遠くに協和銀(行)
  1. 福屋不動産
  2. (毘沙門)せんべい(福屋
  3. 神占 思召し/(福屋ビルテナント「神楽大国」)
  4. (事務用)品(福田屋文具店)
  5. 紳士服(テーラー島田)
  6. 尾)沢薬(品)(ク)ス(リ)尾沢
    ここまで4丁目。ここから5丁目
  7. 工事中(神楽坂コアビル 1978年4月竣工)
  8. 路上に積み荷(魚金鮮魚店)
  9. (か)やの木
  10. (第一勧業信用)組合
  11. (消火栓)

神楽坂まっぷ。1985年

住宅地図。1976年

神楽坂5丁目(写真)神楽坂百年写真展 昭和43年 ID 8018

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 8018を見ましょう。撮影は1968年(昭和43年)です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8018 目で見る神楽坂百年写真展 会場

 これは「目で見る神楽坂百年写真展」で、主催は「神楽坂通り商店会」、後援は「新宿区教育委員会」、10月15日~10月25日まででした。なぜ神楽坂百年なのか不明ですが、この写真の1968年には明治改元100年の記念式典が10月に日本武道館で開催されました。それにあやかったイベントでしょう。また「目で見る…」の「目」にかぶっている提灯は「神楽坂百年」と書いていそうです。
 場所は左上の看板の「組合」だけが分かります。日本勧業信用組合(勧信、現在は第一勧業信用組合)は昭和40年5月に神楽坂5-3に本店を置きました。この写真は、それから間もない頃の日本勧業信用組合本店前の様子です。
 向かって左側の入り口に、不二家のペコちゃん人形のようなマスコットが立っています。勧信と縁の深い旧・日本勧業銀行(勧銀)のマスコットだった「のばらチャン」のようです。「のばらチャン」は中身が空洞になるソフト塩化ビニール(ソフビ人形)の貯金箱としてノベルティに使われました。勧銀が合併して第一勧業銀行になってからもマスコットを継続し、ソフビ貯金箱は非常に多くの種類が残っているそうです。

旧日本勧業銀行 貯金箱 のばらチャン http://is-and-is.jugem.jp/?eid=206

 左の看板の柱の陰に四角いブースが見えます。宝くじ売り場です。宝くじの販売は勧銀が独占的に受託していて、その縁で勧信にも売り場があります。信用組合としては特殊なケースで、この関係は今日まで続いています。
 写真展は万国旗を飾っていて賑やかです。正面ガラスケースに掲示されている写真の右側は「現在の神楽坂」(1937年、昭和12年ID1)、左側は「大正時代の神楽坂通り」のようです。
 会場は店舗前の空きスペースですが、歩道の縁石の切り下げを見ると駐車場を想定していたようです。実際には「勧銀が建つ前には、お祭りの御神酒所や商店街のセール時の福引所などに使われていた」と地元の方。写真左の看板には「正面右側駐車場をご利用下さい」と書いてあり、図もついています。地図でも分かるように、2軒ほど隣に別に駐車場があったのでした。
 写真の左は写っていませんが「相馬屋」。右は玩具店「かやの木」で、万国旗に隠れた看板は割れているようですが、ショーウインドウに箱入りのおもちゃが並んでいるのが分かります。この家並みは昭和38-39年のID 12910で確認できます。ID 12910の中央、相馬屋とかやの木の間の石造りの古いビルを建て直して、勧信の本店が建ちました。

 ここで勧信についてまとめておきます。

第一勧業信用組合 神楽坂 ウィキメディアから 創業時の場所からは移転している

 勧信はもともと、勧銀の職域信用組合(産業組合法に基づく保証責任信用購買利用組合互援会)、つまり勧銀の行員のための社内金融組織でした。それを東京の地域信用組合に転換し、昭和40年(1965年)5月、日本勧業信用組合が神楽坂で再スタートしました。発足当初は信用獲得のために伝統ある勧銀との共通性を前面に出していて、社名のロゴタイプは勧銀そっくりでした。
 勧信が本店を置いた場所には戦前、東京貯蓄銀行の神楽坂支店がありました。石造りの立派な外郭で、三菱銀行神楽坂支店と同様に戦災で焼け残りました。ただ三菱銀行が戦後、営業を再開したのとは違い、東京貯蓄銀行は終戦間際に合併で日本貯蓄銀行になって消滅しました。
 日本貯蓄銀行は協和銀行を経て現在のりそな銀行になるので、勧銀や勧信との直接のつながりはありません。東京貯蓄銀行の神楽坂支店跡は戦後、倉庫などに使われていたようです。それが勧信の本店として再び金融機関になったのは何かの縁でしょう。
 勧信は昭和46年(1971年)10月、第一勧業銀行(略称・DKB)の発足に伴って第一勧業信用組合(略称・DKC)に改称。DKBと同じハートのマークをシンボルに使っていました。昭和57年(1982年)11月には四谷に本店を移しました。神楽坂は支店に降格されましたが、現在も店番号は001です。第一勧銀が合併により「みずほ銀行」になった時には名称やロゴマークを追随せず、別の路線をとっています。

第一勧信店内の8番と9番の向かって左に ❤マークが見える。(テレビ番組 「気まぐれ本格派」1977年から)

 

Paul神楽坂店以前|神楽坂5丁目

文学と神楽坂

 現在の神楽坂5丁目のPaul神楽坂店ができるまでの、波瀾万丈で、人間味が一杯の物語です。そして、ポール神楽坂ができました。なお、以下の図はすべて住宅地図から取っています。

➊ 昭和38年(1963年)

 最初は昭和38年(1963年)➊。東側から尾沢薬局(ここは神楽坂4丁目の最後です)、サンエス洋裁店(ここから神楽坂5丁目が始まります)、パチンコの東莫会館、KK牛込水産、洋菓子のハマムラ、倉庫、文房具の相馬屋、万長酒店、倉庫と並んでいます。

➋ 昭和42年(1967年)

 次は昭和42年(1967年)➋です。1つだけが変わっています。倉庫だったのが、日本勧業信用組合に変わっているのです。実際に、昭和40年、日本勧業信用組合の本店が新宿区神楽坂5-3に移ってきました。

➌ 昭和45年(1970年)

 昭和45年(1970年)➌、地元の人は、東莫会館は「模型自動車のコース」や「遊戯場になってい」たようですが、そこを「勧信が買収し、駐車場にしました」といいます。実際、名前も「日本勧業信用組合〇〇」に変わっています。どうして離れた場所にしたの? 場所がなかったのです。隣同士がいいとわかっていました。

 昭和46年(1971年)、日本勧業銀行と第一銀行が合併し、第一勧業銀行が誕生し、この組合の名称も第一勧業信用組合に変更しました。

➍ 昭和55年(1980年)

 昭和55年(1980年)➍、さらに第一勧業信用組合の駐車場になります。まだ、牛込水産とかやの木はまだなくなりません。勧信はじーっと見ている以外に方法はありません。
 昭和57年(1982年)、勧信本店を四谷に移して、神楽坂は支店に格下げになっています。

➎ 平成2年(1999年)

 平成2年(1990年)➎には、やっと牛込水産とかやの木はなくなりました。30年前から、大きな土地になる、と第一勧業信用組合は思っていたはずなのですが…… が、この「2店舗(牛込水産、かやの木)を地上げした業者が、勧信に高値の買い取りを迫り、『買わなきゃビル建てるぞ』って。大もめに揉めて、駐車場というより空き地のまま数年間」時間だけが過ぎていったと、地元の人はいいます。

➏ 平成22年(2010年)

 平成22年(2010年)➏、第一勧業信用組合は、あきらめたのか、相馬屋の西(万長酒店と同じ場所)に店舗を建てています。一方、「ゴネた業者は旧勧信本店の土地の一部をあわせる形で、今のPaulのビル(仮称、野本ビル)を建て」ましたと、地元の人。

 最終的に令和2年(2020年)➐になりました。「土地の区切りも変わっているんです。旧勧信は、今のうお匠のビルより間口が広かったと記憶しています」。おそらく憶測すると、勧信が元の場所は要らなくなって、土地を買った人の間で話しあって、今のビルが建ったのではないかと、地元の人。

「商店街ならではの揉め事ですね」と、地元の人。

➐ 令和2年(2020年)

Yahoo!地図から

北西南東
大正11年前相馬屋宮尾仏具S額縁屋(ブロマイド)尾沢薬局
大正11年頃東京貯蓄銀行小谷野モスリン神楽屋メリンス大和屋漆器店上州屋履物
戦後つくし堂(お菓子)藪そば
1930年巴屋モスリン松葉屋メリンス山本コーヒー
1937年3222ソバヤ
1952年空ビル宮尾仏具牛込水産東莫会館パチンコサンエス洋装店
1960年空地喫茶浜村魚金
1963年倉庫洋菓子ハマムラ牛込水産
1965年かやの木(玩具店)魚金
1976年第一勧業信用組合第一勧業信用組合
駐車場
第一勧業信用組合
駐車場
1980年サンエス洋装店
1984年(空地)寿司かなめ等
1990年駐車場駐車場郵便局
1999年ナカノビルコアビル(とんかつなど)
2010年空き地ベローチェ
2020年相馬屋神楽坂TNヒルズ
(焼肉、うを匠など)
神楽坂テラス
(Paulなど)
コアビル
(とんかつ)