若宮町」タグアーカイブ

若宮町(写真)令和4年、ID 17060~62

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17060~17062は、令和4年(2023)3月、若宮町から善国寺方面を望む写真です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17060 若宮町から善国寺方面を望む

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17061 若宮町から善国寺方面を望む

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 17062 若宮町から善国寺方面を望む

 この道は「毘沙門横丁」と呼ばれ、ほぼ同じアングルの写真が過去にもあります。左側は料亭「松ヶ枝」のあった場所でした。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14050 若宮町から善国寺方面を望む。平成31年

新宿区『ガレキの中から、30年のいま』昭和53年3月

昭和30年代の料亭「松ヶ枝」資料提供:新宿歴史博物館(上村敏彦「東京花街・粋な街」街と暮らし社、2008年)

 松ヶ枝の創業は明治38年。廃業は不明ですが、牛込倶楽部の「ここは牛込、神楽坂」第8号(1996)では

松ヶ枝は、K興業の手に渡りしばらく営業していたが、オーナーの死後、取り壊され、周囲をコンクリートで固めた駐車場となったまま今日に至っている。
K興業 国際興業です。
オーナー 小佐野賢治氏です。死亡は1986年(昭和61年)10月27日。
駐車場 平成2年(1990)には住宅地図では松ヶ枝はありますが、確かに1995年には駐車場に。クレアシティ神楽坂若宮町は2002年10月に完成。

 オーナーの死後、直ちに取り壊されたとすると、松ヶ枝は昭和62年頃に廃業し、一方、住宅地図を信用すると、廃業は平成2年以降ですが、住宅地図の印刷は数年間遅れるのが普通です。「ここは牛込、神楽坂」も平松南氏の「神楽坂まちの手帖」(けやき舎)も廃業は何年なのかを書いていません。

若宮町(令和4年)
  1. クレアシティ神楽坂若宮町
  1. (神楽坂もりのいえ)
  2. 果房 メロンとロマン
  3. (かぐらビル)
  4. サンライズ神楽坂と自動販売機
  5. 神楽坂 たれ焼肉のんき

若宮町(写真)平成31年 ID 14050

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 14050は、平成31年(2019)1月、若宮町から善国寺方面を望んで、写真を撮ったものです。なお、平成31年は5月1日に令和元年に変わりました。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14050 若宮町から善国寺方面を望む

 新宿区の「新宿区史・昭和30年」「市街の概観」を見ると、「神楽坂」として写真4枚が出ています。この3枚目(下図)が、実は同じ場所です。時間は65年ほど離れています。

新宿区史・昭和30年3

新宿区史・昭和30年3

 中央の「毘沙門横丁」は石畳からアスファルト舗装に変わっています。右側は神楽坂3丁目、左側は若宮町で、町のかつての料亭「松ヶ枝」はクレアシティ神楽坂若宮町というマンションになりました。
 この写真の少し後、2019年(令和元年)7月7日にメロン専門工房「果房 メロンとロマン」が開店しました。場所は右から2軒目(地図のジャスバー「もりのいえ」の隣)です。

若宮町 住宅地図 2017年

料亭「松ヶ枝」(写真)昭和20年代 ID 13791

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」のID 13791は「昭和20年代 神楽坂付近か」とあり、時代と場所を特定していません。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13791 神楽坂付近か

 右手は毘沙門横丁の今はなき料亭「松ヶ枝」だと考えています。写真の道路の突き当たりは一段高く、手前に来るほどゆっくりと低くなっています。この地形は現在も同じで、奥の親子連れの向こうの塀は若宮町の料亭街です。
 都市製図社『火災保険特殊地図』昭和27年によれば、カメラはおそらく赤丸に置き、写真を撮ったのでしょう。

都市製図社『火災保険特殊地図』昭和27年

 さて、以下は地元の方の説明です。

 向かって左の奥の塀の木戸は人間には大きすぎて、自動車のための駐車場でしょう。手前の潜り戸は別の店の入り口で、花街らしい黒塀が続いています。これに対して右は土塀で、腰高まで貼り石の化粧があります。これが松ヶ枝の塀で、格式の高さが写真からも分かります。
新宿区史・昭和30年」の3枚目は、ちょうど反対側から撮った写真です。黒塀の潜り戸は同じですが、駐車場の木戸は4枚になっています。
 それ以外にも、いくつか違いがあります。ID 13791の松ヶ枝の塀から棒が飛び出し、そこに笠のついた電球が見えます。また左の駐車場の角にもボール状の灯りがあります。街灯が十分に整備されておらず、私設の外灯で来店客に便宜を図っていたと思われます。
 またID 13791の土塀はコンクリートで塗り固めたような外観ですが「新宿区史・昭和30年」では肩高より上を白い漆喰で塗っていて、貼り石との間に化粧していない壁が出ています。ここは後の時代のID 11841ではすっかり貼り石で覆われます。
 ID 13791の中央手前には、うっすらと丸い下水のマンホールが見えます。舗装はしているようですが、かなり荒れています。左手前には側溝のようなものがチラりと見えます。一方「新宿区史・昭和30年」では松ヶ枝の側に側溝を掘り、小さな石橋を架けていますが、これはID 13791には見えません。雨が降った時は、黒塀の前の少しくぼんだ部分を雨水が流れていたでしょう。
「新宿区史・昭和30年」の写真は同じ昭和20年代に撮影しているはずですが、ID 13791の方が古い時代と思われます。
潜り戸 門の扉や壁などに設けられた、背の低く幅のせまい小さな戸のこと
黒塀 黒く塗った、板づくりの塀。黒渋塗りの板塀。黒い塗装は渋墨しぶずみ塗といって、日本古来の伝統技術で柿渋と松木を焼いた煤(松煙)を混ぜたもの。防虫・防腐・防湿効果があるため建物の化粧として用いられた。
貼り石 建造物の壁に薄い石
化粧 建物の表面に、白など、見栄えのする色の塗料を塗ること

若宮町(写真)昭和55年以降 ID 9779

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9779は、昭和50年(1975年)頃、若宮町を撮ったものです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 9779 若宮町

 道路は左側から雨水ます等からの下水を流す側溝、車道、側溝で、歩道はありません。街灯は右側だけですが、添付写真を見る限り水銀灯のように思えます。電柱の上には柱上変圧器があります。
 写真の女性が行くとすぐに四つ角にでて、さらに直進すると2つに分かれ、右側は見番横丁に、左側は三つ叉通りになっていきます。

住宅地図。1980年


 右側の電柱に「お茶とのり 老舗 大佐和 |ここは若(宮)町 11」と書かれ、つまり、右側の住所は若宮町11でした。

東京実測図。明治28年。地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。

 写真でやや遠く、木の葉に隠れていますが「割烹 〇〇荘」と読めます。一平荘は地図で「アパート 一平荘」と書かれていましたが、実際には割烹で、アパートではありません。その左、電柱広告は「料亭鷹乃羽」(鷹の羽)です。さらに左下の電柱広告は読める人が読むと「波ま野」です。

現在

若宮八幡神社(写真)若宮公園 昭和44年 ID 8246~8252

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」で若宮八幡神社(若宮公園)のID 8245~ID 8252を見ましょう。撮影時期は1969年(昭和44年)の秋。なお、多くのことを教えて下さった地元の方に感謝します。

➀ 手前の西の参道の右に看板「公園入口 児童多し/駐車をしないで下さい/牛込警察署」。門柱に「若宮町」と「氏子中」。境内に入って右脇に手押しポンプと水盤。さらに右は「牛込神楽坂若宮町小史」によれば銀杏の切り株。左に木標「神楽坂若宮八幡神社」。その左に新たな屋外灯。手水舎はこの写真では確認できないが、1974年(昭和49年)の雑誌「ミスターダンディー」の写真によれば西参道の左側にあったよう。
 境内の向こう側、突き当たりの東の参道に鳥居。脇に神輿倉と思われる町会の倉庫「神楽坂2丁目/町會倉庫」。狛犬2頭の間に「犬を砂場に入れぬこと」の杭が見える。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8246 若宮公園(若宮八幡神社)

氏子中 うじこじゅう。 同じ氏神をまつる人々。氏子一同。氏子の仲間。


➁ 看板「児童遊園地あり/神社周辺に駐車を禁ず/牛込警察署」。新宿区役所の掲示板(めくれているポスター)「〇期(月?)間/44年11月1日より11月30日」「たくましく/心とからだを/きたえよう!」「誘かいから/子どもを/守ろう」「みんなそろって/ねずみ(駆除)/11月27日から12月3日まで/新宿区役所」「自衛官募集」など。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8247 若宮公園(若宮八幡神社)


➂ 戦後に再建された拝殿を正面から写真。いわゆる流造(ながれづくり)で、石灯籠や狛犬に比べると簡素で小ぶり。拝殿の右隣には稲荷神社。石灯籠の手前に大きな一対の礎石があり、かつての鳥居の跡とも。看板には「新宿区/若宮児童遊園」。その上に「燈」と「籠」。奥に拝殿。右には児童遊園(ブランコと滑り台)。奥には丸紅(株)若宮寮。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8248 若宮公園(若宮八幡神社)

拝殿 はいでん。「本殿」を拝するための社殿。 本殿は神のための建物。 拝殿は人間のための建物。


➃ 中央に狛犬、児童遊園としてはブランコと滑り台、右奥に会社員3人。1人はコートを着用、1人は読書中。狛犬では阿形と吽形のどちらかを出す。阿吽あうんの初めにある阿(口を開いて出す音声)と終わりにある吽(口を閉じて出す音声)があり、密教では、この2字を万物の初めと終わりを象徴する。阿形あぎょうは口を開いた音を出す 。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8249 若宮八幡神社 狛犬(阿形)


➄ 中央に別の狛犬。吽形うんぎょうは口を閉じた音を出す。右に手押しポンプと水盤。左に石灯籠。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8250 若宮八幡神社 狛犬(吽形)


➅ 拝殿の左にある「正1位稲荷大神」の稲荷神社。手前に滑り台。奥に丸紅(株)若宮寮。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8251若宮八幡神社 稲荷社


➆ 東の参道に鳥居。柱に「奉」と「献」。門柱に「神楽一」と「氏子中」。「みちはばがなく曲りかど/軽自動車以外通行できません/牛込警察署」。右にベンチとブランコ。左は雲梯とシーソー、箱型ブランコ、砂場。中央に屋外灯。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8252 若宮公園(若宮八幡神社)

神楽坂若宮八幡神社(1973年)

 では地元の方の発言から……

 江戸期の絵図明治期の写真に比べて、衰微している様子がうかがえます。境内は石段が組まれて周囲の道より高くなっていますが、これは明治期のものがそのまま残ったものでしょう。
 石組みの上に何本かの石柱を立てていますが、塀や柵はありません。参道は東・西・南にあり、鳥居を備えるのはID 8246の向こう側に見える東側のみです。
 境内のかなりの部分を区の児童公園として貸しており、遊具やベンチが見えます。屋外照明も、おそらく公園の施設として整備したものてしょう。

江戸期の絵図 『江戸名所図会』では巨大な若宮八幡宮がありました。

江戸名所図会の若宮八幡
明治期の写真 右側に若宮八幡神社が見えます。(若宮小路「新撰東京名所図会」第42編)

「新撰東京名所図会」第42編 若宮小路。右側に若宮八幡神社が見える。

 社殿はその後、明治期に似たデザインに建て替えられ、鳥居や狛犬、石灯籠、石標を一新しました。

現在の若宮

 現在の鳥居には「建立 平成10年12月吉日」とあります。

若宮神社 鳥居

 また現在の拝殿の右手前には「長㐂火防稲荷神社」があり、これはID 8251の稲荷社の再建でしょう。

若宮神社 境内社

 左の階段脇には防火井戸があり、これはID 8246の手押しポンプのなごりと思われます。

若宮神社 防火井戸

 防火井戸の隣に使われなくなった石盥盤が残っており、享保14年の字が掘ってあることが確認できます。「牛込神楽坂若宮町小史」によれば建て直し前の手水鉢であったとのことです。

若宮神社 石盥盤

 石盥盤の読み方は「せっかんばん」「せつかんばん」「いしたらいばん」などで、手を洗い身を清めること。

 若宮会「牛込神楽坂若宮町小史」(若宮会、1997年)では

 文治5年(1189年)に建立された若宮八幡宮は、文明年間(1469年~1489年)に太田道が江戸城鎮護のため、当社を再興し社殿を江戸城に相対して築きました。文明年間頃までは大社で、神領などがあり美麗だといわれていました。
 明治2年(1869年)の神仏混合禁止令により若宮八幡神社となりました。
 境内は黒塀で囲まれ木戸があり、楠と銀杏の大木がありました。関東大震災(大正12年・1923年9月1日)で黒塀は倒壊し、楠と銀杏は昭和20年5月25日(1945年)の東京大空襲により社殿とともにすべて焼失しましたが、御神体は戦火の中、宮司が持ち出し被災を逃れました。
 昭和22年(1947年)2月に乃木神社の古材を利用して仮社殿を再築、昭和24年(1949年)に拝殿、昭和25年(1950年)5月に社務所を建築しました。
 のちに神楽坂2、3丁目が編入され神社名も「神楽坂若宮八幡神社」と変更されました。

若宮町(写真)昭和54年 ID 84、ID 11825

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 84は1974年に「若宮町坂の下」で撮ったものです。しかし、普通すぎる写真であり、どうして問題なのか、歴史的に何が起こったのか、そもそも、どの四つ角なのか、何もわかりません。

 そこで、まずどの四つ角があるのか調べてみました。驚いたのは若宮町には四つ角が2つだけしかない、ということでした。全て残りは三つ角でした。では、見てみましょう。四つ角の➀は神楽坂により近い場所で、➁は新坂の一部です。坂下は矢印で示します。

東京都新宿区若宮町 (131040490) | 国勢調査町丁・字等別境界データセット
https://geoshape.ex.nii.ac.jp/ka/resource/13/131040490.html

 では2枚を比べてみましょう。向こう側はともに下を向き、谷になっています。

若宮町の2つの4つ角

 よく似ています。それでも違うことがあり、まず電柱。数は➀は2本で、➁は1本。位置も違い、➀は1974年と完全に同じです。また、1979年の電柱看板は「西條歯科医院↑」(おそらく「この↑さき」)です。➀は谷のところに西條歯科医院があります。
 つまり➀が正しいと思っています。
 左右の塀にはペンキ書きで「無余地ニツキ 駐車シナイテ下サイ」と書かれています。すなわち、この撮影場所の背後にあるのは料亭「松ケ枝」の玄関なのです。左手の黒塀は駐車場。四つ角の向こう側の右角は若宮町の「一平荘」になります。どうも「松ケ枝」はここでもなくてはならない貴重な建物でした。
 なお、田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」で「05-10-50-1 新坂上から 1974-12-21」のうち「新坂上から」ではなく、実際は「若宮町の坂上」が正しいと思っています。

田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」 05-10-50-1 新坂上から 若宮町の坂上 1974-12-21

 なお、昭和54年1月に撮ったID 11825も画角は違っていますが、それ以外はよく似た写真でした。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11825 若宮町11

新坂橋(しんざかばし)|神楽坂1丁目

文学と神楽坂

 石川悌二氏の「東京の橋」(昭和52年、新人物往来社)によれば

 新宿区神楽坂一丁目と船河原町のさかいを北西へ若宮八幡神社の方へ上る坂を新坂または幽霊坂というが、新坂橋はこの坂下の大下水に架されていたもので、明治28年版東京15区区分図によれば、この構渠は市谷御門橋の方から飯田橋へかけて外濠ぞいの道端に通じている。新撰東京名所図会は「新坂橋 市谷船河原町と牛込神楽町一丁目の間、大下水に架す。木橋、新坂下、若宮町に通ず。」と記している。
新坂または幽霊坂 現在は庾嶺ゆれいと呼んでいます。

神楽坂付近の地名。新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4』から

 現在、大下水はなく、当然、新坂橋もありません。下部の左はGoogleで、右は明治16年、参謀本部陸軍部測量局の「五千分一東京図測量原図」(複製は日本地図センター、2011年)です。これから、左の緑の円は新坂橋はあったと思う場所です。
 おそらく横断歩道のあるところに新坂橋があったのでしょう。

Google

アグネスホテル(閉館)|神楽坂2丁目

文学と神楽坂

 アグネスホテルは2021年(令和3年)3月31日、閉店します。

【お知らせ】アグネスホテル東京は3月31日をもって閉館いたします
 お客様各位
 平素はアグネスホテル東京をご愛顧いただき誠にありがとうございます。
 この度、諸般の事情によりアグネスホテル東京は2021年3月31日(水)をもちまして、閉館の運びとなりました。2000年のオープン以来、長らくご愛顧いただき誠にありがとうございました。
 皆様に心より感謝と御礼申し上げます。
 なお、ご宿泊、エステサロン等のご予約受付はすでに終了いたしております。ティーラウンジのみ、3月28日(日)まで営業いたします。
 何卒、ご理解賜りますようお願い申し上げます。

 2000年4年、アグネスホテルは住宅地に地上5階建てのホテルとして開設。経営母体は初めは東日本クボタ住建、社長は千賀博久氏。総工費は約30億円。2012年7月(平成24年)「東京理科大学」が土地を15億円、建物を5億2500万円で購入(東京理科大学報)、所有者は東京理科大学に。大学は「アグネスホテルを大学施設として利用するための設計、改修工事に着手」と令和3年度の事業計画、これで閉館に。

 以下はかつてのアグネスホテルです。

 アグネスホテルアンドアパートメンツ東京は3方向から入れます。
アグネスの地図

 その1は外堀通りの理科大学と研究社のブリティッシュ・カウンシルの間からはいるもの。

 その2は後ろから入るもので、小栗横丁から入ります。


 その3は前の西側から入るもので、若宮八幡神社からはいりますが、一般的には使いません。

 外堀通りを使って理科大学から入ると簡単ですが、ほかの2方向は少し難しい。
アグネスホテルの外観

 場所はこれでも神楽坂2丁目です。若松町ではありません。また、ホテルの社長、千賀(senga)氏の名前を後ろから並べてアグネスagnesになりました。開設は2000年。

 玄関も、中に入っても、瀟洒で粋です。全体で56室。

 ダブルは36室、ツイン8室、スーペリア6室、スイート5室、ロイヤルスイート1室。スモールラグジュアリーホテルです。ビジネスホテルではありません。

 ノルマンディーのパティスリーで修業した上霜考二がスイーツを監修。大河原正裕総料理がレストラン。玄関からはいるとこうなっています。正面はフランス料理の「ラ・コリンヌ」で有名です。

アグネスホテルの玄関アグネスの団扇

 エステサロンもはいっています。夏なので、うちわも無料で持って帰ることもOK。

 本当にいいのは料理がうまくて美味しいこと。2階の「ラ・コリンヌ」だけしか使わないけど。★のあるレストランと比べても、価格ははるかに安く(昼は税サービス別で3000円から、味は美味。

 ホテルをやると決めたと聞いて、どうしてやれるの?と思ったのが最初。神楽坂にディズニーや空港はないのに、絶対にうまくいかないと思っていました。2000年に竣工。長く滞在する人で満員だとうわさと、実は料理がうまいらしいといううわさが広まっていきます。最初に食べてみると、おおおいしい。以来、毎年食べています。(最近、2016年にシェフが変わりました。微妙に味も変わりました。)

 部屋は綺麗ですが、眺めはうーん。ランチコンサートを月一回水曜に無料でやっています。

 4人がけのテーブルが外に1つだけあります。残念ながら神楽坂の石畳ではありません。ほんとうは神楽坂の石畳がよかったのに。

石畳ではないベンチ

「和可奈」にとってはライバルが出てきたのです。このホテルで作家の缶詰もおこるのでは? ただし、現在の大きな出版社には地下に歴とした缶詰があるといいます、

 オンライン用の素晴らしく鮮やかな写真集が出ています。たとえば下の図です。

アグネスホテルの写真集

 これは https://twitter.com/agneshoteltokyo/media/grid ででてきます。

 さて、新聞紙によれば

嵐の二宮和也(23)が主演するフジテレビ系連続ドラマ「拝啓、父上様」(来年[07年]1月11日スタート、毎週木曜午後10時)の制作発表が[06年12月]12日、東京・神楽坂のアグネスホテルで開かれ、二宮、高島礼子(42)、黒木メイサ(18)、福田沙紀(16)ら主要キャスト9人と、脚本の倉本聰氏(71)が出席した。

 また『拝啓、父上様』では最後の第11話でアグネスホテルが出てきます。

坂道
  竜次について、一平上る。
 り「竜次さんにつれて行かれたのは、若宮神社の脇にある小さいけど洒落た評判のホテルで」
アグネスホテル
  中に入る。
同・バー
  地下にあるラウンジへ下りてくる2人。

 地下ではなく、1階(見方によれば2階)のロビーで話をしています。初めて会った小説家・津山は一平の父ではないと打ち明けます。
アグネスホテルと「拝啓、父上様」




新坂|袋町と若宮町の間に(360°VRカメラ)

文学と神楽坂

 「新坂」は横関栄一氏の「江戸の坂東京の坂」(有峰書店、昭和45年)によれば18か所もあるといいます。新宿区では2か所で、ここでは袋町と若宮町の間を西に上がる坂です。さて、左側は元禄12年(1699)です。右側は享保(1716年)・元文(1736)の年に当たります。大きな違いは?

新坂2

新坂2

 まず巨大な戸田左門の屋敷があるかないかが違います。左図にはありますが、右図にはなくなりました。かわりに左上から中央に下がる道路(茶色の矢印)ができています。これが新坂です。

新坂

新坂

 明治時代も現在もあまり変わってはいません。上は袋町で下は若宮町です。これらの町の間をこの坂は通過します。

 昭和51年、新宿区教育委員会の『新宿区町名誌』では

若宮八幡から袋町の境を西に上る坂は新坂という。江戸中期に新しく聞かれた坂だから名づいた

と書き、平成22年、新宿歴史博物館の『新修 新宿区町名誌』では

若宮八幡から袋町の境を西に上る坂は新坂(しんさか)という。江戸中期に武家屋敷地の中に新しく開かれた坂であるために名付けられた。若宮八幡からの坂なので若宮坂ともいう

 横関英一の『江戸の坂東京の坂』では

 江戸時代では、新しく坂ができるとすぐに、これを新坂と呼ぶ。もしくは、坂の形態が切通し型になっている場合は、切通坂(きりどおしざか)と呼ぶ。既設二坂の中間に新坂ができた場合は、これを中坂(なかざか)と呼ぶ。であるから、中坂も切通坂も等しく新坂なのである。新坂と言うべきところを、その坂の関係位置から中坂、その坂の態様から切通坂と呼んだのにすぎないのである。中坂は、左右二つの坂よりも新しい坂であるということは、まず原則といってよい。

 新宿区の標柱では

 新坂(しんざか)
『御府内沿革図書』によると、享保十六年(一七三一)四月に諏紡安芸守の屋敷地の跡に、新しく道路が造られた。新坂は新しく開通した坂として命名されたと伝えられる。

 美濃大垣藩(岐阜)戸田左門(10万石)の屋敷でしたが、享保10年(1725)の古地図では信濃高島藩(長野)諏訪安芸守(3万石)の屋敷になっています。享保16年4月に新坂が開かれました。

 ひっそりと新坂の標柱は立っています。周りのほとんどは4階ぐらいの小規模マンションで、一戸建てはあっても少なくなりました。一方通行で、車は上(西)から下(東)に向かいます。
標柱

幡随院長兵衛 光照寺の切支丹の仏像 由比正雪の抜け穴 地蔵坂の由来 一平荘 光照寺 袋町の由来 逢坂 庾嶺坂 小栗横町 アグネスホテル 若宮公園 お蔵坂

2013年6月23日→2019年10月24日

東京大空襲と神楽坂2

文学と神楽坂

 日本地図株式会社の「コンサイス*東京都35区区分地図帖。戦災焼失区域表示」(1985年。昭和21年刊の複製)では、白色は戦災をそれほど受けなかった場所です。矢来町の主に南部、横寺町の西部、中町・南町・若宮町の一部、細工町・北山伏町・南山伏町・二十騎町などでは戦災が少ない地域があります。

東京都35区区分地図帖。戦災焼失区域表示

コンサイス*東京都35区区分地図帖。戦災焼失区域表示。日本地図株式会社。昭和21年刊の複製。1985年

 たとえば色川武大氏の「生家へ」(講談社文芸文庫)で書くところの自宅は矢来町80番(下図で赤い四角)で、戦災はほとんどありませんでした。矢来町80番は矢来町の南東側です。戦争があってもこの周辺は焼けませんでした。「生家へ」を読むと……。

矢来町の地図。色川武大

左側は昭和15年、右側は現代


 生家の門のあたりが急に騒がしくなったと思ったら、年増の女に引率された七八人の娘たちがぞろぞろ入ってきて玄関の格子戸の前に溜まった。そうして植込みにはさまれたそこの細い石畳の上で、それぞれ、舞うような形を示した。囃子が四方からきこえだした。(中略)
 私は、この昼日中の物々しい闖入者たちを、なんとなく気圧された表情で眺めていた。
 女が、ひょいと、生家の奥の方をのぞきこむような姿勢になった。
「お焼けになりませんでしたのね」
「――え?」
「戦争で」
「あ――」と私は頷いた。「残ったンです。おかげで。でも古い家だからもうゆがんでますよ。いっそあのとき焼けてしまった方がよかったかもしれない」
「いいえごぶじでよござんした。それに、お元気そうで」
「元気どころか――」
 私は自分を見返る形になって苦笑したが、女は私に戻した視線を動かさなかった。
「本当に、立派におなりになって」
「からかっちゃいけません。ただ、やっと生きてるだけです」
「お二方ともまだご健在なんでしょ。親御さまたちは」
「ええ」
「どなたもごぶじで、お幸せね。なにもかもごぶじで」

 矢来町から東南東に行ったところにある若宮町でも数軒の家は焼け残りました。 最高裁判所長官の公邸もそのひとつです。若宮町自治会の『牛込神楽坂若宮町小史』(1997年)では

地図は現在の若宮町。川合玉堂は川合芳三郎と同じ。ローヤルコーポは以前は中村吉右衛門の邸宅。中根は中根駒十郎の邸宅。

赤い部分は現在の若宮町。川合玉堂は川合芳三郎氏と同じ。ローヤルコーポは以前は中村吉右衛門の邸宅。中根はかつての中根駒十郎宅。馬場は現在、最高裁判所長官の公邸。大橋は現在マンションに。


若宮町さまざま
 戦争が終わったとき(昭和20年8月15日)、若宮町で残ったのは、中根さん、大橋さん、馬場さんのお家ぐらいだった。私が現在住んでいるところは、昭和25年に友人から譲り受けた土地で、東側の中村吉右衛門宅(現、若宮町ローヤルコーポ)も、その向かいの川合玉堂宅(現、若宮ハウス)も焼け、西側の中根駒十郎さんのお家で火が止まった、奇跡的に焼けなかった家に今でも住んでおられるのは中根駒十郎さん御一家だけ。馬場さんのお家は、財産税で物納されて最高裁判所長官の公邸となり、大橋さんのお家は、一時、大橋図書館となったが現在は日興証券の研修所に建て替えられている。
                        若宮会前会長 細川八郎

現在はマンションが一杯の地域ですが、以前は巨大な邸宅がいくつも並んでいました。

譲り受けた土地 図で細川と書いてある場所。
中村吉右衛門 なかむらきちえもん。初代の歌舞伎俳優。明治30年、市村座で中村吉右衛門(1886年~1954年)を名乗り、九代目市川団十郎の芸風を継承。昭和22年芸術院会員、昭和26年に文化勲章を受賞。生年は1886年(明治19年)3月24日。没年は1954年(昭和29年)9月5日。享年は68歳。現在は若宮町ローヤルコーポ。
 じょう。歌舞伎俳優などの芸名に付けて、敬意を表します。
川合玉堂 かわいぎょくどう。本名芳三郎。日本画家。温雅な自然を描き、横山大観・竹内栖鳳と共に日本画壇の三巨匠。1940年文化勲章。生年は明治6年11月24日。没年は昭和32年6月30日。享年は83才。
中根駒十郎 なかねこまじゅうろう。新潮社の編集者、専務取締役。明治31年義兄の佐藤儀助(義亮)の新声社(のちの新潮社)に入り、以後佐藤の片腕に。昭和22年支配人を退き顧問。生年は明治15(1882)年11月13日。没年は昭和39(1964)年7月18日。享年は82歳。
馬場 富山県の北前船廻船問屋として富を築いた馬場家が1928年(昭和3年)に牛込邸を建築。現・最高裁判所長官公邸。馬場邸
大橋図書館 大橋佐平氏は大手出版社「博文館」を創立。博文館15周年記念として明治35年東京市麹町区の財団法人が大橋図書館を創った。昭和25年から昭和28年までは若宮町で開館。
建て替え マンション「レジェンドヒルズ市ヶ谷若宮町」に変わりました。

若宮町のマンション

マンション「レジェンドヒルズ市ヶ谷若宮町」

東京大空襲と神楽坂2

文学と神楽坂

 日本地図株式会社の「コンサイス*東京都35区区分地図帖。戦災焼失区域表示」(1985年。昭和21年刊の複製)では、白色は第二次世界大戦で戦災をそれほど受けなかった場所です。矢来町の主に南部、横寺町の西部、中町・南町・若宮町の一部、細工町・北山伏町・南山伏町・二十騎町などでは戦災が少ない地域があります。

東京都35区区分地図帖。戦災焼失区域表示

コンサイス*東京都35区区分地図帖。戦災焼失区域表示。日本地図株式会社。昭和21年刊の複製。1985年

 たとえば色川武大氏の「生家へ」(講談社文芸文庫)で書くところの自宅は矢来町80番(下図で赤い四角)で、戦災はほとんどありませんでした。矢来町80番は矢来町の南東側です。戦争があってもこの周辺は焼けませんでした。「生家へ」を読むと……。

矢来町の地図。色川武大

左側は昭和15年、右側は現代

 生家の門のあたりが急に騒がしくなったと思ったら、年増の女に引率された七八人の娘たちがぞろぞろ入ってきて玄関の格子戸の前に溜まった。そうして植込みにはさまれたそこの細い石畳の上で、それぞれ、舞うような形を示した。囃子が四方からきこえだした。(中略)
 私は、この昼日中の物々しい闖入者たちを、なんとなく気圧された表情で眺めていた。
 女が、ひょいと、生家の奥の方をのぞきこむような姿勢になった。
「お焼けになりませんでしたのね」
「――え?」
「戦争で」
「あ――」と私は頷いた。「残ったンです。おかげで。でも古い家だからもうゆがんでますよ。いっそあのとき焼けてしまった方がよかったかもしれない」
「いいえごぶじでよござんした。それに、お元気そうで」
「元気どころか――」
 私は自分を見返る形になって苦笑したが、女は私に戻した視線を動かさなかった。
「本当に、立派におなりになって」
「からかっちゃいけません。ただ、やっと生きてるだけです」
「お二方ともまだご健在なんでしょ。親御さまたちは」
「ええ」
「どなたもごぶじで、お幸せね。なにもかもごぶじで」

 矢来町から東南東に行ったところにある若宮町でも数軒の家は焼け残りました。 最高裁判所長官の公邸もそのひとつです。若宮町自治会の『牛込神楽坂若宮町小史』(1997年)では

地図は現在の若宮町。川合玉堂は川合芳三郎と同じ。ローヤルコーポは以前は中村吉右衛門の邸宅。中根は中根駒十郎の邸宅。

赤い部分は現在の若宮町。川合玉堂は川合芳三郎氏と同じ。ローヤルコーポは以前は中村吉右衛門の邸宅。中根はかつての中根駒十郎宅。馬場は現在、最高裁判所長官の公邸。大橋は現在マンション「レジェンドヒルズ市ヶ谷若宮町」に。

     若宮町さまざま
 戦争が終わったとき(昭和20年8月15日)、若宮町で残ったのは、中根さん、大橋さん、馬場さんのお家ぐらいだった。私が現在住んでいるところは、昭和25年に友人から譲り受けた土地で、東側の中村吉右衛門宅(現、若宮町ローヤルコーポ)も、その向かいの川合玉堂宅(現、若宮ハウス)も焼け、西側の中根駒十郎さんのお家で火が止まった、奇跡的に焼けなかった家に今でも住んでおられるのは中根駒十郎さん御一家だけ。馬場さんのお家は、財産税で物納されて最高裁判所長官の公邸となり、大橋さんのお家は、一時、大橋図書館となったが現在は日興証券の研修所に建て替えられている。

       若宮会前会長 細川八郎

 現在はマンションが一杯の地域ですが、以前は巨大な邸宅がいくつも並んでいました。

馬場邸

最高裁判所長官公邸

譲り受けた土地 図で細川と書いてある場所。
中村吉右衛門 なかむらきちえもん。初代の歌舞伎俳優。明治30年、市村座で中村吉右衛門(1886年~1954年)を名乗り、九代目市川団十郎の芸風を継承。昭和22年芸術院会員、昭和26年に文化勲章を受賞。生年は1886年(明治19年)3月24日。没年は1954年(昭和29年)9月5日。享年は68歳。現在は若宮町ローヤルコーポ。
 じょう。歌舞伎俳優などの芸名に付けて、敬意を表します。
川合玉堂 かわいぎょくどう。本名芳三郎。日本画家。温雅な自然を描き、横山大観・竹内栖鳳と共に日本画壇の三巨匠。1940年文化勲章。生年は明治6年11月24日。没年は昭和32年6月30日。享年は83才。
中根駒十郎 なかねこまじゅうろう。新潮社の編集者、専務取締役。明治31年義兄の佐藤儀助(義亮)の新声社(のちの新潮社)に入り、以後佐藤の片腕に。昭和22年支配人を退き顧問。生年は明治15(1882)年11月13日。没年は昭和39(1964)年7月18日。享年は82歳。
馬場 富山県の北前船廻船問屋として富を築いた馬場家が1928年(昭和3年)に牛込邸を建築。現・最高裁判所長官公邸。
大橋図書館 大橋佐平氏は大手出版社「博文館」を創立。博文館15周年記念として明治35年東京市麹町区の財団法人が大橋図書館を創った。昭和25年から昭和28年までは若宮町で開館。
建て替え マンション「レジェンドヒルズ市ヶ谷若宮町」に変わりました。

若宮町のマンション

マンション「レジェンドヒルズ市ヶ谷若宮町」


伝統の店々|昭和30年(2/4)

文学と神楽坂

「中小企業情報」の「商店街めぐり 神楽坂」『伝統の店々』(昭和30年)で、まず助六、丸岡、塩瀬、柏屋、サムライ堂です。

その向いは履物の助六、その名のごとく江戸趣味豊かな粋な履物で有名な店である。大正三年創業で昔の不粋なさつま下駄を改め歯を薄く背を低くした粋な下駄を創案して履物界に大いなる改革を与え、花柳界は勿論、高松宮山階宮の愛顧をうけ、また吉右衛門玉堂菊池寛等と文士著名人の愛用も多かつたといわれている。

さつま下駄 薩摩(さつま)下駄(げた)。駒下駄に似た形で、台の幅が広く、白い太めの緒をすげた男性用の下駄。多く杉材で作る。ちなみに、(こま)下駄(げた)は台も歯も1枚の板からくりぬいて作ったもの。雨天だけではなく晴天にも履ける。17世紀末期に登場し、広く男女の平装として用いられた。明治以前におけるもっとも一般的な下駄。日和(ひより)下駄(げた)は歯の低い差し歯下駄。主に晴天の日に履く。雨天にも爪皮(つまかわ)をつけて用いる。
高松宮 かつて存在した日本の皇室の宮家。1913年(大正2年)7月6日創設。
山階宮 山階(やましなの)(みや)。江戸時代末期、伏見宮邦家親王の王子、(あきら)親王が創設した宮家。なお、山階芳麿氏は山階鳥類研究所を創設し所長に
吉右衛門 中村(なかむら)吉右衛門(きちえもん)。初代。生まれは1886年(明治19年)3月24日。没年は1954年(昭和29年)9月5日。明治末から昭和にかけて活躍した歌舞伎役者。若宮町31~2番地に住みました。若宮会と若宮町自治会が書いた『牛込神楽坂若宮町小史』(1997年)です。吉右衛門と川合玉堂が道を接して住んでいました。なお、新坂はここで若宮町

頼戸物の丸岡は、創業六十年、三代目。和菓子の塩瀬は、明治四十四年塩頼総本家の神楽坂支店としてこの地にできたものである。呉服の柏屋の主人山浦岩男氏は神楽坂振興会々長として、戦後の神楽坂振興のために多大の尽力貢献をした人で神楽坂一丁目から六丁目までの統合から軍用道路徹回や車留制夜店の復活請願等老齢にもかかわらず昔の神楽坂の繁栄を呼びもどさんと積極果敢な活躍をつづけている。向いの洋品のサムライ堂は明治四十年創業で、今三代目「御値切お断り申上候」の正札主義で看板に偽りなし、武士道精神を商道に生かすものとして当時は乃木大将お気に入りの洋品店で、良品堅実な店という評判が高い。
3丁目1

都市製図社「火災保険特殊地図」昭和27年

丸岡 丸岡陶苑。創業明治24~25年。渡辺功一氏の『神楽坂がまるごとわかる本』によれば「明治25年和陶器の「丸岡陶苑」創業。神楽坂3丁目」と書いてあります。牛込倶楽部の『ここは牛込、神楽坂』第14号には「坂を上がって左手の丸岡陶苑さん。ここのウインドーは季節感豊かで、閉店後も灯りがついているので、夜遅く通りがけに足を留める人も多いのですが、とくにうれしいのが、箱根細工の小さな懐かしい道具類。茶箪笥、鏡台などは引き出しも開くという凝りよう。これはセットでなく、バラ売りで、今度はこれをと思いながら見るのも楽しみ」
丸岡
塩瀬 雑誌『かぐらむら』の「今月の特集 昔あったお店をたどって……記憶の中の神楽坂」では
「築地の有名な老舗の支店があった。来客用の上等な和菓子は塩瀬で買ったけど、揚げ煎やおかきのような庶民的なものもおいしかった」
 久保たかし氏の『坂・神楽坂』(平成2年)では「和菓子の老舗「塩瀬」がつい最近まであったが、今は無い」塩瀬
柏屋 牛込倶楽部の『ここは牛込、神楽坂』第5号「本多横丁」によれば創業は大正7(1918)年。振袖、訪問着、染帯、染額の作品を展示。現在は「芸者新路」にありますが、『ここは牛込、神楽坂』第5号の平成7(1995)年には、本多横丁に。さらに昔の昭和30年には「向いの洋品のサムライ堂」となっています。つまり、この時代、柏屋とサムライ堂とは神楽坂通りの対面、では言い過ぎで、斜向かいになり、柏屋は神楽坂3丁目のタバコ中西屋と菓子塩瀬の間に入りました。

1960年、3丁目北側最西部の歴史

1960年。住宅地図

軍用道路 軍隊の移動,補給など軍事上の目的によりつくられた道路。戦略的には国防道路で、平時の軍隊の高速移動、補給、軍事施設への通行のため、直線、立体交差を原則としました。形、幅、勾配、カーブ、路面、路床を、機械化部隊の連続移動に耐えうるよう頑強につくります。日本にも第二次大戦前は軍港や要塞への軍用道路がありました。しかし、神楽坂通りは戦後の進駐軍の専用道路でした。
『まちの想い出をたどって』第4集の岡崎公一氏は「神楽坂の夜店」を書き

 戦後は、神楽坂に闇市が出なかった。それは、神楽坂下のたもとに神楽坂瞥察署があり、また神楽坂の通りが進駐軍の専用道路(立川方面)となったためでもある。ただ、昭和二十四年十月十五日発行の露店商の縁日暦(非売品)によれば、神社、佛閣の境内などに縁日が出ていた。神楽坂でも、若宮八幡神社、筑土八幡神社、赤城神社などにも毎月、日によって出ていた。
神楽坂の夜店を復活させようと当時の振興会の役員が、各方面に働きかけて、ようやく昭和三十三年七月に夜店が復活。私が振興会の役員になって一番苦労したのは、夜店の世話人との交渉だった。その当時は世話人(牛込睦会はテキヤの集団で七家があり、若松家、箸家、川口家、会津家、日出家、枡屋、ほかにもう一家)が、交替で神楽坂の夜店を仕切っていた

車留制夜店 くるまどめ。車を禁止し、夜店を出すこと。
サムライ堂 野口冨士男氏の『私のなかの東京』(文藝春秋、昭和53年)の「神楽坂から早稲田まで」では

 洋品店のサムライ堂で、私などスエータやマフラを買うときには、母が電話で注文すると店員が似合いそうなものを幾つか持って来て、そのなかからえらんだ。反物にしろ、大正時代には背負い呉服屋というものがいて、主婦たちはそのなかから気に入ったものを買った。当時の商法はそういうものであったし、女性の生活もそういうものであった。

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 また新宿歴史博物館が書いた『新宿区の民俗(5)牛込地区篇』(平成13年)では

『サムライ堂』の創業は明治年間(岩動景爾『東京風物名物誌』によると明治四〇年)、創業者は伊賀上野出身の英二郎氏である。はじめは神楽坂の検番近くで娘二人とともに西洋料理店を営業していたが、その後当地に唐物(輸入品)を扱う店を開いた。そのころ乃木希典が当店の軍足を愛用し、店名を『サムライ堂』と命名したと伝えられる。
 店で扱った商品は、シルクハツト・麦わら帽子・パナマ帽・カンカン帽などの他、ステッキやゴルフ用のニッカボッカなどであった。伊勢丹にない物がここにはある、とお洒落なお客さんが多くやってきた。下着も上等品を置き、ラクダの上下などにはサムライ堂で独自に作ったタグを付けて売っていた。店員は男女あわせて12~3人ほどいた。ほとんどが縁故採用で、店員はみんな店の上階にあった店員用の部屋に住み込んでいた。店員は字を書く機会が多いので、暇なときはいつも習字の練習をしていたという。店員たちの娯楽は、仕事が終わってから銭湯へ行くことであった。
 関東大震災の直後、朝方に店を開けると下着やシャツを求める人々が並んで待っていた。店には在庫が沢山あったので、仕入れに困るということもなく、このような需要にも応えることができた。
 サムライ堂の看板は青銅製で、馬に乗った武士を描いていた。戦時下に金属を供出することになり、これを出版クラブの所まで運んで行った。戦争が始まってから店員もだんだん少なくなってゆき、終戦の時点では二人が残っていた。
 四代目の店主が平成三年に亡くなり洋品店は閉店したが、五代目の当主が平成九年にインポートショップ「woods」を開店した。

 これは平成10年の「ゼンリン住宅地図」ではサムライ堂ビルになります。これは、2014年か15年に建て替えし、現在、このビルにはWorld Wine Barなどがはいっています。

安田武|天国に結ぶ恋1

文学と神楽坂

安田武安田武氏が書いた『昭和 東京 私史』(昭和57年、1982年)のなかの「天国に結ぶ恋」の初めの部分です。

 氏の生年は大正11年11月14日。没年は昭和61年10月15日。上智大在学中の昭和18年、学徒出陣。戦後、戦争体験の継承を訴え、日本戦没学生記念会「わだつみ会」の再建につくして常任理事にも。著作に「戦争体験」「芸と美の伝承」など。

 冬場になると、神楽坂の「田原屋」へカキのコキールを食べに出掛ける。戦争前から往きつけの店というのは、もう数えるほどになったが、田原屋がその数少ない一軒だ。
 神楽坂は「その山の手式の気分と下町式の色調とが、何等の矛盾も隔絶もなしに、あの一筋の街上に不思議にしっくりと調和し融合して」いる、と加能(かのう)作次郎(さくじろう)が書いたのは昭和のはじめだが、半世紀余を経た今も、やはりそのとおりだと思う。
 表通りには、昔ながらの(うま)いもの店や、乾物屋とか漬け物屋とか日用の便があって、一筋入ると柳暗花明の色めいた路地、そしてその奥が、がらりと変わって閑静で気品のある住宅街。巨万の富があって、どこにでも好きに住める身だったら、袋町若宮町でなければ、北町中町南町、あの辺りに小ぢんまりした家がもちたい。
Coquilleコキール フランス語のコキーユcoquilleの英語読み。本来は貝や貝殻のこと。エビ・カニ・魚などを下調理してクリームソースなどであえ、貝殻そのものや貝殻形の器に盛り、天火で表面を焼いた料理。
その山の手… 『大東京繁昌記』「早稲田神楽坂」の「独特の魅力」に書いてあります。ここで
柳暗花明 りゅうあんかめい。柳の葉が茂って暗く,花が明るく咲きにおっていること。美しい春の景色。転じて花柳街。色町。
袋町 牛込袋町、光照寺、近隣の旧武家地などが集まって袋町。昔は風光明媚なところでした。袋町の桜に書いてあります。
若宮町 武家地と町屋。『牛込神楽坂若宮町小史』(若宮会、若宮町自治会、1997年)には「かつて武家屋敷であった若松町は、時代の移り変わりとともに一般住宅、料亭、商店、飲食店などが入り混じって、独特な雰囲気があります」
北町、中町、南町 江戸時代には幕府徒町の大縄(おおなわ)地でした。大縄とは同じ組に属する武士がまとまって一区画の屋敷地をもらうこと。この屋敷地を大縄地といいました。この御徒組大縄地は牛込御徒町と呼ばれ、北御徒町・中御徒町・南御徒町に分かれ、組頭2名と(かち)、あるいは御徒(おかち)28名~30名が住んでいました。徒とは江戸城や将軍の護衛を行う騎馬を許されぬ軽輩の下級武士です。

昭和56年

昭和56年の地図から。今の目で見ると違うことになっている場所もあります。

ちなみに固定資産税路線価情報を使って、各価格を調べてみました。平成26年の袋町6番13の値段は550,000円/㎡、若宮町29番1は599,000円/㎡、中町32番1は539,000円/㎡です。まあ、関係はないんですが、神楽坂2丁目12番18は1,350,000円/㎡でした。
 で、80㎡の土地を買うと、袋町で4400万円、若宮町は4792万円、中町4312万円、神楽坂2丁目は1億800万円がかかります。実際には2倍かかるのではないでしょうか。


若宮公園

文学と神楽坂

 若宮公園について「牛込神楽坂若宮町小史」によると

 平成6年4月、若宮町自治会及び住民の念願であった区立若宮公園(若宮町21番地)が完成し、平成7年建設省より『手作り郷土賞』を受けました。地下にはリサイクル施設や雨水の貯水槽が敷設され、公園は江戸時代の武家屋敷の趣きを残しています。外濠通りから坂を登ると広い空間が開け、石の階段や東屋が目に入ります。

と書いてあります。

 場所は若宮町ですが、なぜかすぐそばのアグネスホテルは神楽坂2丁目です。
 まず北門です。ちょうどアグネスホテルの対面に位置します。北門の右側に小さく標柱が立ち「若宮公園」と書かれています。3月なので、満開の桜も。非常に大きな公園ですが、税金を払えなかったため物納したのでしょうか。

若宮公園

 北東門は「新宿区立若宮公園」と「手づくり郷土賞」が麗々しく飾っています。

北東門

新宿区立若宮公園

江戸時代の通称「振り袖火事」(1657年)以降、雑木林や草原であった牛込地区に武家が移り住み、武家屋敷中心の街が形成されました、したがってこの公園は江戸時代の牛込を思い起こさせる武家屋敷をイメージした和風公園として整備しました。

After a disaster commonly called “Long-sleeved kimono Fire” which took place in 1657 in the Edo period, the samurai class has moved to ushigome area covered with thickets and the grass, and formed a residential quarter where most of the residences were the samurai class.
Based on this fact, this park was made as a Japanese garden with an open space which is modeled the residential area of the samurai class that reminds you of Ushigome area in the Edo period.


手づくり

手 づ く り 郷 土(ふるさと)
建設大臣 野坂浩賢 書
歴史・文化 部門
東京都 新宿区
平成七年七月
寄贈 (社)関東建設弘済会

 さらにもうひとつ、東門があります。

東門

 地下にはリサイクル施設や雨水の貯水槽があるとのこと。
 公園は巨大で、東屋や絵入り腰掛け、巨大な岩のベンチ、中央に一本の桜などがささやかに四方に置いてあります。あとはただただ巨大な空き地です。

東屋2
石のベンチ
桜

若宮八幡神社 庾嶺坂 新坂


神楽坂若宮八幡神社

文学と神楽坂

 神楽坂若宮八幡宮は、鎌倉幕府の初代将軍、(みなもとの)頼朝(よりとも)が戦勝を祈念して建立しました。文治5(1189)年7月、奥州の藤原泰衝の征伐に行く途中、頼朝は将来ここ若宮八幡宮のあるところで下馬して祈願したと伝えられています。ここは川と急坂に囲まれた丘の突端で見通しも良く、外敵から身を守るのに適していた、あるいは単純に鎌倉を出発しここで一日の行程が終わったのでしょう。
 10月、奥州を平定し、頼朝は鎌倉に戻り、まもなくここに鎌倉鶴岡八幡宮を移します。その後若宮八幡宮は衰退していましたが、文明年間(1469~87)、室町時代の武将、太田道灌(どうかん)が江戸城鎮護(ちんご)、つまり、災いや戦乱をしずめ、国の平安をまもることのため、若宮八幡宮を再興しました。なお、太田道灌が作った江戸城は康正2(1456)年開始、翌長禄1(1457)年4月完成しています。文明年間頃までは大社で、神領などがあり美麗だといわれていました。『江戸名所図会』では巨大な若宮八幡宮がありました。

江戸名所図会の若宮八幡

 明治2(1869)年の神仏混合禁止今により若宮八幡神社となりました。境内は黒塀で囲まれ木戸があり、楠と銀杏の大木があったようです。

明治20年

 明治20年ごろでは、若宮小路があり、これは()(れい)と若宮八幡神社を結ぶ小路です。

新撰東京名所図会」第42編 若宮小路。右側に若宮八幡神社が見える。

 ほかに下に行くと庾嶺坂。左には新坂、右は小栗横丁、上は出羽様下があります。また若宮神社の前は車は通れません。つまり、アグネスホテルから車で直接若宮小路にははいれません。アグネスホテルは右の地図では大きな「若宮町」の「宮」の場所にあります。
 さらに若宮小路では北から南に一方通行です。
 大正12(1923)年9月1日、関東大震災が起こり、黒塀は倒壊しました。昭和20(1945)年5月25日、東京大空襲で社殿、楠と銀杏はすべて焼失。御神体は戦火の中、宮司が持ち出し被災を逃れました。

 昭和22年(1947年)2月に乃木神社の古材を利用して仮社殿を再築、昭和24年(1949年)拝殿、昭和25年(1950年)5月に社務所を建築しました。その時代の写真は

若宮旧

 その後、社殿を西側に寄せ、東側は社務所を兼ねたマンションになりました。現在の神社は……

現在の若宮

内部

 例祭は9月14~15日、神事・行事で中祭は1月15日と6月15日です。

 また右側の立て看板ではこう書いています。

縁起録

縁起録

神楽坂若宮八幡神社縁起録

 若宮八幡神社は鎌倉時代に源頼朝公により建立された由緒ある御社で
   御祭神 仁徳天皇
       応神天皇
当社の御出来は
若宮八幡宮は若宮坂の上若宮町にあり(或は若宮小路ともいへり)別当は天台宗普門院と号す 傅ふに文治五年の秋右大将源頼朝公奥州の藤原泰衡を征伐せんが為に発向す其の時当所にて下馬宿願あり後奥州平沼の後当社を営鎌倉鶴岡の若宮八幡宮を移し奉ると云へり(若宮は仁徳天皇なり後に応神天皇に改め祭ると云ふ)文明年間太田道灌江戸域鎭護の為当社を再興し社殿を江戸城に相対せしむるなり当社は文明の頃迄は大社にして神領等あり美れいなりしという
神域は黒板塀の神垣南に黒門あり門内十歩狛犬一対(明和八年卯年八月奉納とあり)右に天水釜あり拝殿は南に面する瓦葦破風造梁間桁行三間向拝あり松に鷹象頭に虎を彫る「若宮八幡神社」の横額源正哥謹書とあり揚蔀(アゲジトメ)にて殿内格天井を組み毎格花卉を描く神鏡晶然として銅鋼深く鎮せり以て幣殿本社に通ず本社は土蔵造りなり
本殿東南に神楽殿あり瓦葦梁間二間桁行二間半勾欄付「神楽殿」の三字を扁し樵石敬書と読ま 背景墨画(スミエ)の龍あり落款梧堂とあり境内に銀杏の老樹あり
明治二年神佛混淆(コンコウ)の禁令あるや別当光明山普門院(山州男山に同じ)復飾して神職となる
例大祭は九月十五日 中祭 5月15日
          小祭 1月15日 に行はれ社務所は本社の東に在り
現在氏子は若宮町神楽坂一丁目二丁目三丁目の四ケ町なり。


庾嶺坂

文学と神楽坂

 外堀通りを飯田橋駅から市谷駅に向かい、神楽坂1丁目と市谷船河原町の間で北西に入ります。この坂を庾嶺坂といいます。この坂は明治にはもう何個も名前が付いています。

()(れい)
江戸初期この坂あたりに多くの梅の木があったため、二代将軍秀忠が中国の梅の名所の名をとったと伝えられるが、他にも坂名の由来は諸説あるという(『御府内備考』)。別名「行人坂」「唯念(ゆうねん)坂」「ゆう玄坂」「幽霊坂」「若宮坂」とも呼ばれる。
庾嶺坂1

 中国の梅の名所とは、(たい)()(れい)といいます。庾とは屋根のない米倉、あるいは野外にある倉庫です。岭の旧名は嶺で、峰、尾根、山脈になります。大庾岭(大庾嶺)は「大きな米倉がある山脈」になるのでしょうか。この山脈は中国江西省と広東省との境にあります。唐代に張九齢は梅を植えその場を「梅嶺」と名づけました。

 なお、「庾」は漢字配当はなく、JISの文字コードはなく、第3水準の漢字です。さらになぜか中国でも大庾県の「庾」は現在では「余」に変えて使い、大余県が正式な言葉になっています。いずれにしても、二代将軍秀忠が中国の梅の名所の名前を付けたので、本来は庾嶺「ゆれい」があり、それが変化して「ゆうれい」になりました。

 しかし、別の解釈もあります。「新撰東京名所図会」では違った説明を取り、昔唯念(ゆうねん)という僧が小庵を建てて住み、ゆうねん坂といい、それが転じて幽霊坂になったといいます。「往昔此辺に唯念といふ僧小庵を結びて居住せし唯一名をゆうねん坂といひしを、後にあやまりてゆうれい坂といふに至れるよし。行人坂ももと此僧のことより出たるものなるべし」。つまり「ゆうねん」から「ゆうれい」になったのです。また「行人坂」の行人(ぎょうにん)は本来の言葉は修行者で、寺院で世俗的な雑務に行う僧侶です。唯念坂と行人坂は同じ僧の名前から来たものです。

 さらに、ゆう(祐・幽)玄(元・源)が住んでいたことからゆう玄坂と名前が付いたともいいます。「むかしゆう玄といへる医師この所におりし故の名なり」。ただし、新宿歴史博物館の「新修 新宿区町名誌」では同じ僧侶・唯念をさすものだとしています。

「幽霊坂」について「ゆれい」や「ゆうねん」は訛って幽霊坂になったのか、実際に幽霊がこの坂から出たのか、ここにも諸説があります。
 坂の上に若宮八幡があり、「若宮坂」ともいわれていました。また、江戸切絵図には「シンサカ」と書いています。庾嶺坂2
 赤レンガの壁から石垣の塀になり、オコメヅタの緑を左に見てあがって行き…あっという間に上がるのは終わってしまいます。逢坂のほうが庾嶺坂よりも距離も長く、高低差も大きいのでしょう。
 大仏次郎氏の『照る日曇る日』(大正15年)では

……すたすたと牛込うしごめ御門ごもんの方角へ歩いて行く。夜は更けていても星明かりがある。(中略)
 武士の姿の隠れたのは、俗に幽霊坂ゆうれいさかという坂へ出る町角、(かど)は武家屋敷の土塀、それに沿って小走りに勢いよく道をまがった刹那、男はぎょっとしてたちすくんだ。意外にも武士は、その角に隠れて自分の来るのを待っていた。ひやりとしてぱッと鳥の立つように逃げ出そうと伸びた背を追いざまに木下闇に銀蛇のように躍ったものがある。
逢坂 新坂 小栗横町 アグネスホテル 若宮公園

料亭「松ケ枝」(昔)|若宮町

文学と神楽坂

 今ではなくなってしまいましたが、若宮町に佇む大料亭「松ケ枝(まつがえ)」がありました。場所はここで、創業は明治38年。平成2年頃まで営業し、平成4年以前に駐車場になり、平成14年、マンション「クレアシティ神楽坂若宮町」になりました。地図・空中写真閲覧サービスのCKT893(平成1年、1989/10/20)では中央の⭕️ですが、CKT921(平成4年、1992/10/10)は駐車場になります。

松ヶ枝(平成元年と4年)

『ここは牛込、神楽坂』第8号で筆者(おそらく編集長の立壁正子氏)は「ありし日の料亭『松ヶ枝』のこと」を書き、

 設計したのは神楽坂六丁目の木村建築事務所の故木村兵吉氏。
「これが取り壊されたとき、昔を知る者としては涙が出る思いでしたよ。まさに強者(つわもの)どもが夢の跡という感じで」
 と、開口一番、事務長さん。
「この建物ができたのは、昭和二十八年で、その後二回ほど増改築して、二階に三十畳の広間ができたんです」
 それにしてもすごいスケール。広さは「駐車場も含めて四百坪」。幾つかの棟が廊下で結ばれているところなど、平安時代の寝殿造りを思わせるが……。(中略)
 この渡り廊下の床板が木琴のように横に何枚も敷かれていたというが「あれは作曲家の古賀政男氏のアイデア」だったとか。一方では、こんな有名人の遊びもあったのだ。
「庭には立派な池もあって、その池の中に張り出した釣殿つりどのみたいな座敷があってね。池には橋が架かっていて、鯉もいたけど、あれは確か……」
 と、ここで、今 は亡き元総理の名が…。
 恐らく田中角栄氏の名前が出たのでしょう。
 水野正雄氏は『神楽坂まちの手帖』第5号『花街・神楽坂の中心だった料亭「松ケ枝」』で、
「松ケ枝がどんなに大きくて繁盛していたかは、下働きの女中だけで50人はいたことを話せば想像できるでしょう。下働きの女中さんというのは、料理もここで作っていましたから食器を洗ったり、掃除をしたり浴衣や敷布を洗濯したり。」
元松ケ枝のマンション

 データベース写真で見る新宿から神楽坂で引くと写真14(ID 76とID 11837とも同じ)がでます。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 11837 神楽坂5-37善国寺の横の道

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 76 裏道、寿司作前 昭和54年1月5日.j

 この青色の点(写真14の撮影の点)から「寿し作」を見ると、右側は松ヶ枝の壁で、「正面の大きな木の下の黒板壁が昔の駐車場になります」と地元の人。ちなみに、現在はマンション「クレアシティ神楽坂若宮町」です。築年月は2002年10月です。

都市製図社『火災保険特殊地図』昭和27年

 創業者はお(たけ)さんで、お(たけ)さんは民主党の代議士・三木武吉の妾さんです。神楽坂で一番の料亭だといわれていました。
 ちなみに三木武吉代議士では一番有名なものはwikipediaの語りによれば

戦後、公職追放解除後の第25回衆議院議員総選挙では、選挙中の立会演説会で対立候補の福家俊一から「戦後男女同権となったものの、ある有力候補のごときは妾を4人も持っている。かかる不徳義漢が国政に関係する資格があるか」と批判された。ところが、次に演壇に立った三木は「私の前に立ったフケ(=福家)ば飛ぶような候補者がある有力候補と申したのは、不肖この三木武吉であります。なるべくなら、皆さんの貴重なる一票は、先の無力候補に投ぜられるより、有力候補たる私に…と、三木は考えます。なお、正確を期さねばならんので、さきの無力候補の数字的間違いを、ここで訂正しておきます。私には、妾が4人あると申されたが、事実は5人であります。5を4と数えるごとき、小学校一年生といえども、恥とすべきであります。1つ数え損なったとみえます。ただし、5人の女性たちは、今日ではいずれも老来廃馬と相成り、役には立ちませぬ。が、これを捨て去るごとき不人情は、三木武吉にはできませんから、みな今日も養っております」と愛人の存在をあっさりと認め、さらに詳細を訂正し、聴衆の爆笑と拍手を呼んだ。

 ただし、エピソードが違えばこの妾の数も違っています。

某日、演説中に「六人の妾はどうした!」と聴衆から野次られると、即座に「いや、六人ではなく正確には七人いるが、皆、キチンと面倒を見ているから御心配無用!」と切り返したというのは、あまりにも有名な逸話である。(浅川博忠『自民党ナンバー2の研究』(講談社文庫,2002年,p.185)

 元総理大臣田中角栄が芸者辻和子と逢っているのもここ料亭、松ヶ枝です。辻和子氏の「熱情―田中角栄をとりこにした芸者」(講談社、2004)では

 戦後、まっ先に復興したのは神楽坂でも有数の待合だった松ヶ枝まつがえですが、まだ桃山という屋号やごうで仮営業だった頃のことです。そこのお座敷に呼ばれたのがおとうさんとの最初の出会いだったのですが、なにしろ大方の芸者衆がまだ疎開先から帰ってきておりません。若い子といったら、わたしとなな子さんぐらいしかおりませんでしたから、わたしが呼ばれたのだと思います。
 でもそのときは、一対一ではなく、おとうさんが経営する建築会社で設計図を描いている中西さんという方とご一緒でした。なんでも、おとうさんが新潟から出てきてすぐの頃にお友だちになり、かつては鶯谷うぐいすだにに二人で一つ部屋を借りて住んでいたこともあったとか、そんな話をしていました。
「おれ、選挙に落ちちゃったんだ」
 おとうさんは、その年の四月に行われた戦後第一回目の総選挙に出身地の新潟のほうで立候補したけれど、あえなく落選してしまったと言っていました。でも、すでに戦後の土建ブームがはじまっていて景気がよかったせいか、おとうさんの顔からは暗いものがまるで感じられませんでした。
 そのときにはもう髭を生やしていて、おとうさんの髭はちょび髭と思われていますが、正確には横にびっしりと生えた立派なお髭でした。
おとうさん 田中角栄のこと