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昭和30年代半ばの神楽坂下(写真)ID 5510, 7002, 9109

文学と神楽坂

 地元の人が昭和30年代の神楽坂通りについて送ってくれました。

 新宿歴史博物館所蔵のうち、昭和30年代中葉の神楽坂下の写真は解像度がよく、多くの情報が読み取れます。おそらくプロが大判フィルムで撮影したのでしょう。外堀通りを都電が走っていた頃のもので、2枚とも軌道の石敷が鮮やかです。都電牛込線は、この写真の数年後に廃止になりました。

 昭和35年の写真(ID:5510)を見てみましょう(新宿歴史博物館所蔵「データベース 写真で新宿」。下図で、拡大できます)。向かって右の角が赤井商店。戦前から続く名店で、神楽坂の入り口のランドマーク的存在でした。よく見ると、隣の津田印店と同じ建物です。木造の建屋でも、間口を区切って店の一部を他人に貸すのは古い商店街では良くあることでした。この建物は外壁をテントで覆って化粧しましたが、現在も同じものを2つの店で分けて使っています。

神楽坂下 昭和35年頃。新宿歴史博物館 ID 5510

 

神楽坂1~2丁目(昭和35年)
  1. 電柱看板「整美歯科 山本薬局横 院長 松本茂曜」「土地家屋 野口商会不動産部」「どもり 赤面対人恐怖」

  2.  自動車通行止 一方通行出口 午前AM0-正午NOON 自動車 MOTOR-CARS 東京公安委員会
  3. ニューバリー
  4. 田原屋 パーラー
  5. 電柱看板「質 倉庫完備 大久保
  6. 元祖 貸裳店・(清水本)店
  7. 生そば(翁庵
  8. 電柱看板「川島歯科
  9. 電柱看板「森本不動産
  10. (ダイ)ヤモンド毛(糸)
  11. (夏目)写真館
  1. 足袋・Yシャツ 赤井商店
  2. 一方通行
    正午 午後 PM 12:00 自動車 MOTOR-CARS 東京公安委員会
  3. 津田印店 印章 ゴム印
  4. ニューマヤ マヤ片岡出身 小山美智子
  5. 山田紙店
  6. 神楽堂 ヤマザキパン 電話 公衆電話 ヤマザキパンの納品車
  7. おしるこ(紀の善
  8. サインポール2つ(理容バンコック)
  9. 上映〇(メトロ映画
  10. ト(リ)ス(バー)、トリスバー  沙羅
  11. ダンス(小柳ダンススクール
  12. パチンコ(マリー)
  13. 志乃(多寿し)
  14. ビリヤード
  15. ニューイトウ
  16. 喫茶 クラウン
  17. (ルナ美容室)
  18. ポーラ化(粧品)
  19. 資生堂(化粧品)

都電牛込線 1905年8月12日神楽坂から四谷見附までを開業。1967年(昭和42年)12月10日、市ヶ谷見附と飯田橋を廃止。1970年(昭和45年)3月27日、全線廃止
ランドマーク 都市景観や田園風景において目印や象徴となる対象物。

 その隣は、この写真では見えていませんが「白十字診療所」という名の診療所でした。昭和50年代まで続き、同じ場所の写真(ID:9109、下図)で確認できます。
 次は山田紙店。2階には美容室「ニューマヤ」が入っています。看板は「マヤ片岡出身」と読めます。戦前・戦後を通じて美容界のリーダーのひとりだったマヤ片岡の直弟子の店で、時にはマヤ片岡も巡回してきたそうです。後に3丁目に自前のビルを建てるほど成功しました。2代目の店主が急逝し、閉店したのは2016年(平成28年)のことでした。
 次の神楽堂パン店の前にはヤマザキパンの納品車が止まっています。その隣は紀の善。黒地に白文字の看板は「おしるこ」と読めます。

[参考]神楽坂下交差点 昭和51年8月26日 新宿歴史博物館 ID 9109

 神楽小路を挟んで、黒っぽい高い建物は「理容バンコック」。この建物の1階は、しばしば店が代わるのですが、2階室は現在も紳士向け理髪店の「萬国館」として続いています。商店街では珍しいケースだと思います。突き出している「ダンス」の看板は、この建物ではなく神楽小路の奥にあった「小柳ダンススクール」です。
 その向こう、いかにも路地があるように見えますが、奥にあったメトロ映画の入り口です。「上映■」の演目の看板や、なんとか「メトロ」と読めるのぼり旗があります。角にはトリスバーがあり、看板も「トリスバー 沙羅」が見えます。
 次は「志乃〇」は「志乃多寿し」。人形町にある総本店の神楽坂店でした。その向こうの山一薬品は、この頃でもまだ平屋です。「ビリヤード」は通りではなく、パチンコマリーの角を入った路地の奥にありました。
「靴ニューイトウ」から先は、このブログの別記事で詳しく書かれています。
 同じ昭和35年(ID:5510)の向かって左側。「パチンコニューパリー」「パーラー田原屋」「貸衣装(清水本)店」、「生そば」(翁庵)まで確認できます。よく見ると「(ダイ)ヤモンド毛(糸)」(大島糸店)や「(写)眞館」(夏目写真館)の看板も見えます。

理容バンコック 「東京坂道ゆるラン」の「落語『崇徳院』の古地図」「明治後期、神楽坂の床屋」で。だたし、本当に理容バンコックがどうかは、わかりません。

明治後期、神楽坂の床屋

のぼり旗 図の左側にあったのぼり旗のこと。う~ん、私はわかりません。
トリスバー 写真の「ト〇フ」も「トリスバー」

拡大図。ID:5510

ビリヤード 国際ビリヤードが袋小路のつきあたりにありました。

1995年 住宅地図。

 もう1枚の昭和34年(ID:7002、下図)は縦に画角が広く、坂の中腹から先までうかがえます。さわやのあたりで坂が少し緩くなっているのも、よく分かります。その近くの横書きの大きな「〇中御」は「お中元」のセールでしょうか。
 一番高いところの「木村(屋)」の向こうに見える週刊紙の看板は、「記憶の中の神楽坂」に出てくる茂木書店のものと思われます。この店の後に、坂下からニューマヤが移ってきました。
 書店の下にチラリと半分だけ見えている看板は、塩瀬か柏屋のように思えますが、もう確認できません。

神楽坂 昭和34年頃。新宿歴史博物館 ID 7002

記憶の中の神楽坂 かぐらむら 今月の特集 記憶の中の神楽坂



神楽坂通り(3丁目北西部)

文学と神楽坂

 神楽坂3丁目の神楽坂通り北側最左部の11軒について調べてみました。つまり、本多横丁からスタートし、神楽坂通りを東に向かい、1つ隣の無名の横丁までです。あるいは、左は物産館「北のプレミアムフード館『Kita-pre』」から右は牛肉料理「牛丸」や寿司屋「二葉」が入っていた「神楽坂Kビル」までです。
 明治後半から令和に至るまで、1つの土地には1つの建物しかできませんでした。ある人が、隣の土地を買い取って、拡張することもありませんでした。
 最初に2010年のゼンリン住宅地図を出します。

現在の3丁目

 これと図の「神楽坂通り商店会PC用ホームページ」と比較します。2015年の図です。

http://kagurazaka.in/map/kagurazakamap2015.pdf3丁目
 これで店舗をまとめてみます。No.10の摩耶ビルは以前は1丁目にいました。

Noビル・個人宅店舗
1大宗第2ビル2016年、北のプレミアムフード館 キタプレ。2020年、建替中。
2ミヤサカビルラフィネ、スチュワーデス倶楽部
3SHKビル金谷ホテルベーカリー、坂本商店、キーストーン法律事務所
4越後屋ビル甚右衛門、OHANA、水村、おの寺、六角堂
5鳥忠ビルセブンイレブン、SAWAN、いろり
6売物件(以前はドラッグストアスマイル)
7ナカノビルブロンクス、太山堂鍼灸接骨院、Accueil、灸屋小鉄
8個人宅桐信エステート、caqui
9個人宅関タバコ店
10摩耶ビル摩耶、足悠、Bianca神楽坂店
11神楽坂Kビルこんぶや、神楽坂ストレスクリニック

 No6、8、9は2階建てのビルですが、この建物については「〇〇ビル」とはいいません。したがって、空白です。3階以上で初めて「〇〇ビル」といっています。ここまではうまく行きました。なお、ナカノビルにあるブロンクスは神楽坂通り商店会には入っていないのでしょう。また、二葉は廃業で、こんぶやに替わりました。牛丸も廃業のようです。

 ではもう1つ、新しい(実際は昔の)地図を示します。昭和12年として作った火災保険特殊地図です。神楽坂S12
 地元の方は「石川市場」は「現代でも地方都市で見る場外市場のように、屋台式の店が並んでいたようです」といい、その左は「タバコ」、右の「加藤商店」は筆屋だったといいます。

 さらに火災保険特殊地図の昭和27年で、また同じ地域です。

昭和27年神楽坂
 この2枚と最初の1枚は本来は同じ地域の地図ですが、違う点があります。店舗5番から7番は地図上では微妙に大きさが違うのです。ある店舗は、ある地図では太り、ある地図では痩せています。おそらく実際は同じ大きさで、地図上では違っているだけだと思っています。

 次は1960年(昭和35年)の住宅地図です。

1960年、3丁目北側最西部の歴史

1960年、3丁目北側最西部の歴史

現在の代表的店舗昭和12年昭和27年
北のプレミアムフード館 キタプレ床屋藤や生花
スチュワーデス倶楽部(建物)(空白)
金谷ホテルベーカリー(建物)坂本ガラス
甚右衛門(建物)菓子
セブンイレブン石川市場松屋呉服(か柏屋呉服)
(売物件)(建物)塩瀬菓子
太山堂鍼灸接骨院(ナカノビル)(建物)ナカノ洋装
桐信エステートnaka(なか)屋時計
関タバコ店(建物)遠藤綿
摩耶加藤商店青日書院
牛丸(建物)(建物)

 さらに大正12年の関東大震災の以前の絵をこれに加えておきます。昭和45年新宿区教育委員会『神楽坂界隈の変遷』の「古老の記憶による関東大震災前の形」です。ただし、『地理学評論』の「東京の都心周辺地域における土地利用の変遷と建物の中高層化」により、「大震災前」ではなく、大正11年(1922年)としています。

豊島理髪店

 この石川呉服店が石川市場になりました。「オーナーが商売に失敗したのでしょう」と地元の方。

 また、飯田公子氏の『神楽坂龍公亭物語り』(平成23年)で大正6年(1917年)を加えました。ただし、宮坂材料置場と坂本ガラスやは場所を交換しています。さらに昭和5年頃と平成8年の図も加えておきましょう。これは『神楽坂界隈-新宿郷土研究会20周年記念号』(平成9年)の「神楽坂と縁日市」にあった図です。さらに昭和27年の文章を再掲し、『神楽坂まちの手帖』第12号の『昭和35年ごろの神楽坂通り』も加えました。最後に昭和37年以降の地図は国会図書館の地図を使っています。

 ある店舗はビルになりました。たとえば、「鳥忠ビル」はセブン・イレブンの大家になって、数階建てになりました。坂本ガラスも「金谷ホテル」を店子に持っています。一方、関タバコ店は2階建てのままです。一方は大きなビルになり、一方は小さいまま。じっと眺めるといろいろ見えてきます。

大宗第2ビルミヤサカビルSHKビル越後屋ビル鳥忠ビル
現在令和2年 (2020)改築中ラフィネ、スチュワーデス倶楽部金谷ホテル、坂本商店、キーストーン法律事務所甚右衛門、OHANA、水村、おの寺、六角堂セブンイレブン、SAWAN、いろり
平成28年(2016)北のプレミアムフード館 キタプレ
平成27年(2015)五十番
平成8年(1996)子供の森(子供服)坂本硝子店甚右衛門・呉服鳥忠・神楽坂
昭和55年(1980)中西タバコ店
昭和45年(1970)宮坂金物店鳥忠
昭和35年 (1960)柏屋呉服店
昭和27年 (1952)藤や・生花菓子松屋呉服
昭和12年(1937)豊島理髪店タバコ石川市場
昭和5年 (1930)菓子石川屋・呉服
大正11年(1922)中西薬局
大正6年 (1917)中西薬局石川屋呉服

個人宅ナカノビル個人宅個人宅摩耶ビル神楽坂Kビル
2020年(空き地)ブロンクス、太山堂鍼灸接骨院、Accueil、灸屋小鉄桐信エステート、caqui関タバコ店iCure鍼灸・接骨ワイン酒蔵
2016年ドラッグストアスマイルブロンクス、太山堂鍼灸接骨院、Accueil、灸屋小鉄#rowspan#i摩耶、足悠、Bianca神楽坂店牛丸、神楽坂ストレスクリニック
平成8年バザール場ブロンクス桐信エステート成田屋・煙草ニューマヤ牛丸、二葉
平成2年五十番中華大世界 喫茶成田屋フトン店・関商店小田川 茨城 ビューティ摩耶料亭二葉 松原恵三
昭和55年塩瀬菓子ナカノ洋装大世界成田屋・関商店美容ニューマヤ寿司どころ二葉 松原
昭和45年塩瀬菓子時計屋ふとん店茂木医院二葉寿司
昭和35年 (1960)時計なかや津田屋・関商店
昭和27年 (1952)なか屋時計遠藤綿青日書院(建物)
昭和12年(1937)加藤商店(筆屋)
昭和5年 (1930)玉屋・眼鏡店開成堂・絵葉書桝屋・三味線和楽堂・筆宮城屋・菓子
大正11年(1922)食料品高尾絵はがきや三味線屋筆の魁雲堂太白飴・宮城屋
大正6年 (1917)宮城アメ屋筆や神楽バー

かぐらむら』の「今月の特集 昔あったお店をたどって……記憶の中の神楽坂」では

塩瀬(和菓子)
築地の有名な老舗の支店があった。来客用の上等な和菓子は塩瀬で買ったけど、揚げ煎やおかきのような庶民的なものもおいしかった。

塩瀬

 久保たかし氏の平成2年『坂・神楽坂』では
◆和菓子の老舗「塩瀬」がつい最近まであったが、今は無い。

『かぐらむら』の「今月の特集 昔あったお店をたどって……記憶の中の神楽坂」では
鳥忠(居酒屋)
 地元民が普段着ですごせるこの店は、京都で知り合った老舗の友人との再会にぴったりだった。一人でも気負いなくくつろげる店だった。こういう「普通」な店が神楽坂から消えたのは残念で仕方がない。

 野口冨士男氏の「かくてありけり」では
絵はがき屋
 絵はがき屋も太白飴などとともに消え去った商売の一つで、今では私か知るかぎり浅草のマルベル堂などが都内唯一の生き残り専門店かとおもわれるが、時代のスターも幾度か交替して、芸者から映画俳優、そして歌手という経過をたどったとみて誤まりあるまい。新橋、柳橋、赤坂などの芸者が一世(いっせい)風靡(ふうび)した時代があって、ブロマイドになる以前の絵はがきが飛ぶように売れた。私の姉などは、それにあこがれた最後の世代に相当するのではなかろうか。

 久保たかし氏の「ふるさと神楽坂」(平成6年)では
魁雲堂
 墨、筆、すずりのお店。古い木造2階建で、大きな木の看板に墨痕あざやかに魁雲堂と横に書かれ、1階の瓦屋根におかれている。

『ここは牛込、神楽坂』第4号で川村克己氏の「思い出はいつも光とともに」では
◆魁雲堂
 神楽坂をのぼりつめると右側に、木村屋というパン屋さんかある。その先は細い路地をへだてて、太白飴を名代とする宮城屋があり、その次が古めかしい作りの筆墨を商う魁雲堂という店があった。この筆屋が僕の育った家である。

『かぐらむら』の「今月の特集 昔あったお店をたどって……記憶の中の神楽坂」では
茂木書店(書店)
 まちの普通の本屋さんだと思っていたら、ポケットサイズの国語辞典を出版していたので驚いたよ。