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神楽坂下のガス灯

文学と神楽坂

 新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4 神楽坂界隈の変遷』(1970年)「古老談義・あれこれ」の赤井儀平氏のガス灯です。赤井足袋店は外堀通りにあった神楽坂1丁目の角で、専門は足袋、戦後にはシャツも行いました。現在は閉店し、表札は今も「赤井」ですが、店はアパマンショップ(不動産会社)に変わりました。

 見附のつき当りは石垣ですからまっ暗でした。手前共の2代目がガス灯をつけました。橋の向いがわとこちらがわにです。そうすれば麹町のお屋敷の女中さん達も淋しがらずに出て来られるだらうというわけです。その頃はまだ電灯のない時代です。皆ランプでした。ガス灯は古い写真をごらんになるとおわかりになりますが、ひさしヘガラス張りの箱形の軒先灯がつけてありまして、点灯人夫が夕方になると脚立をかついで火をつけに来るんです。日本点灯会社というのが肴町にありまして点火、掃除、油差しを請け負っていました。勿論軒先灯だけではなく街灯もありましたが、照明が暗いだけでなく夜になると通りの店はみんな「あげ戸」を下してしまうものですから通りは暗くて、宅などは上の1枚だけを障子にしておきまして、窓をつけてございましたから、遅くいらっしゃるお客様にはその窓越しにあきないをいたしておりました。街灯といっても何本もありませんでしたので、そこだけは幾分か明うございましたがそれ以外の所はまっくらでした。それがだんだん電灯がつく様になりますと表にガラス障子がはまり、屋内の明りが外に出るようになりまして通りも大変あかるくなりました。それまで神楽坂もひどうございました。
あげ戸  揚げ戸。揚戸。縦溝に沿って上下に開閉する戸。戸の上端に蝶番ちょうつがいなどを取り付け、つり上げて開ける戸。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7641 赤井足袋店

 私はこれこそがガス灯で、神楽坂唯一で最古のものだったと考えました。しかし、地元の1人は、これがガス灯かも知れないと、言い方は微妙に違っています。つまり…

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7640-41に赤井足袋店と街灯が写っています。独特の形状で、これがガス灯かも知れません。撮影時期は『明治中期以降(推定)』としていますが、電柱と電線も写っており、撮影したのは大正初期の可能性もあります。

赤井足袋 ID 7640-7641

神楽坂1丁目(写真)赤井足袋店 明治後期 ID 7640-7641

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」でID 7640とID 7641を見ましょう。撮影は新宿歴史博物館では明治中期以降と推定するか、または『新修 新宿区史』では明治40年代の神楽坂入口付近だとしています。場所は赤井足袋店で、瓦葺きです。ここは神楽坂下交差点で、左に行くと神楽坂上に向かい、右に行くと飯田橋駅西口に、前と後ろは外堀通りです。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7640 赤井足袋店

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 7641 赤井足袋店

 明治初期の街の灯りの再現で裸火のガス灯から「明治27年頃からは、白光を発生する網状の筒を用いたガスマントル式のガス灯に置き換えられるようになり、街路灯はより明るくなりました」といっています。写真の街灯は以降とは違い、自立的で、ガスマントル式のガス灯だったのでしょう。ヤジロベエに似たものがついた蓋も「ルーカスアウトドアランプ 明治後期」とちょっと似ています。 
「赤井」の店名と「⩕」の下に「三」の屋号が大きな足袋の形の中に書かれています。店内の左側には足袋の陳列棚、奥にも細かく分かれた引き出しや棚があります。正面の帳場の左側の男性は仕事道具と思われる長細い槌を手にしています。客は通り側の四角い椅子に腰掛け、その場でコハゼの調整や簡単な修理をしたのでしょう。軒上の表札は4字で「村〇〇〇」のようです。
 家の右すぐに斜めにささえる丸太があります。さらに外堀通りの先にも同じような棒があります。実際に電柱のつっかい棒として働いたのでしょう。電柱看板は高い位置の突き出し広告が「染物〇〇〇〇」。低い位置は「政治教育論」と読めます。尾崎行雄の大正2年の著作とは時代が合いませんが、別の本でしょうか?
 また自転車の男性の左上には逓信の「〒」マークの「郵便切手・収入印紙」売捌所の吊り下げ看板が見えます。このデザインは修正を加えながら第2次大戦後も長く使われました。「〒」の下には軒灯があります。
 左は別の店で「花草」と「辻」の看板があります。木の窓枠の中には植物が見えるので、花屋か植木屋と思われます。よく見ると建物は一体で、赤井足袋店が一部を貸店にしていたのかも知れません。
 「ID 7640-7641の赤井足袋店の全体的な様子は、『牛込区史』(昭和5年、牛込区役所、590頁と591頁の間)やID 2(昭和6年)とそっくりです。新宿歴史博物館は『明治中期以降(推定)』としていますが、もう少し時代は新しく、『政治教育論』が刊行された大正初期の可能性があると思います」と地元の方。

神楽坂1丁目(写真)昭和45年 ID 64, ID 8317

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 64とID 8317は、昭和45年(1970年)3月、牛込見附(現、神楽坂下)交差点から神楽坂1丁目などを撮ったものです。ID 8317のほうが画角は大きくなっています。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 8317 神楽坂入口

 大きな左向きの矢印は坂下から坂上までの一方通行を示し、信号機にはゼブラ柄の背面板があります。街灯は円盤形の大型蛍光灯で、途中に「神楽坂通り」の標識と、藤の形の造花がたくさんあります。電柱の上には柱上変圧器があり、また「神楽坂通り/美観街」の標識が左右に1本ずつできました。横断歩道はここでは2本の直線だけですが、工事で一時的に消されていて、上の1本は自動車の停止線です。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 64 神楽坂入口から坂上方向

神楽坂1丁目(昭和45年)
  1. Pachinco ニューバリーパチンコ。角のガラス部分は景品の交換所でした。タバコらしきものが見えます。
  2. 電柱広告「鮨・割烹 八千代鮨」(本多横丁にある)「質」
  3. テント上の高い位置にTA〇〇RAYA(フルーツパーラー 田原屋)
  4. 清水本店(貸衣裳店)
  5. 生そば(翁庵
  6. 中華料理 信華園
  7. 1丁目の田口屋生花店がビルに。五階建て
  8. パール。ビリヤード。小栗横丁にありました。
  1. 足袋・Yシャツ 赤井商店。吊り看板の「公衆電話」とその下に2台の電話。さらに右に「赤井商」店と佳作座の映画広告「チキ(チキ)バ(ンバン)」
  2. (津田印店)看板を外しているので閉店?
  3. 皮膚泌尿科、婦人科、外科、内科(白十字病院)
  4. 原稿用紙 事務用品 山田紙店
  5. FUJIYA 不二家洋菓子 歩道におそらく山積みの不二家の商品
  6. 消火栓標識と消火栓広告「(ふ)とんのひしや(菱屋)」
  7. 紀の善)突き出し看板はあるが、今回は見えない。
  8. Frère WADAYA(メンズウェアー)
  9. ビル「軽い心
    3,4F 麻雀 桜
    2F 喫茶室 軽い心
    1F パブ ハッピージャック
    ピージャック

1971年。住宅地図。

丸屋跡

文学と神楽坂

 神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第1集(2007年)「肴町よもやま話①」では丸屋跡について次のように話が進みます。
 なお、「相川さん」は大正二年生まれで、棟梁で、街の世話人。「馬場さん」は万長酒店の専務です。足袋の丸屋と万長酒店は5丁目7番地でした。

 なお、丸屋の場所はこれぐらいでしょうか?

神楽坂5丁目(1)

マルヤ

馬場さん 相馬屋さんがあって、「万長」さんがあって、「マルヤ」という樽屋さんがあって。樽屋さんはずっと裏まであったんですか?

 この対談では「マルヤ」はたる屋になっていますが、昭和45年新宿区教育委員会の『神楽坂界隈の変遷』「古老の記憶による関東大震災前の形」や新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」では、「マルヤ」は足袋たび屋になっています。おそらく聞き取りによる「肴町よもやま話」の樽「たる」よりも、古老達や郷土研究会による足袋「たび」の方が正しかったのでしょう。

相川さん いや、そうじやないですよ。曲がっているんですよね。いくらもないんですよ。
馬場さん 昔、うちの台所が半地下みたいになってましてね、それで、向こう側に玄関があって。
相川さん 通り(*)に面した玄関でしょう。それに木戸があった。その木戸でマルヤさんはおしまいです。だから奥行きはそんなにないんですよ。
* 現在の勧信とauの横丁が寺内に入る横丁
馬場さん じゃあ、うちは玄関が?
相川さん もう三尺あったわけ。そこに玄関があったんですよ。
馬場さん うちで裏を直しだのはいつごろだったんですか?
相川さん オイドのおばちゃんが嫁いでくる前ですよ。あれかできあかってからお嫁に来たんだから。おばちゃんが嫁いでくるについてあそこを手入れしたんですよ。なぜって裏がね、いまの敏夫さん(当時のご主人)の住まい、蔵の泥が落っこちてしょうがない。それとネズミが出てしょうがないっていうんで、蔵の土を全部落っことして、今度は板張りにして、その上にトタンをはったですよ。蔵ん中にね。ネズミが(こも)を食べてしょうがないんですよ。そのときに中の改造をしたんです。お店の後ろのお座敷のところなんか、みんな改造したんですよ。
馬場さん 奥の離れは、築地のマイナスロウの部屋とおんなじに造れって左官屋さんにやらせてね。
相川さん 階段を下りると、下と二階があって、小粋なうちでしたね。寺内に入ってからすぐ右のところに裏木戸がありましたね。土間は玉石だったですね。

オイド 東京方言で「尻」の意味。韓国では土地名のオイド(烏耳島)のこと。
 こも。マコモを粗く編んだむしろ。現在はわらを用いることが多い。こもむしろ。
マイナスロウ 意味不明です。

 その後、戦後、昭和27年に丸屋は倉庫になり、30年頃には万長酒店に合併されていきます。

美濃屋[昔]とアジアンタワン

文学と神楽坂

美濃屋

 神楽坂5丁目30番で昔は菱屋分店、戦後は足袋の美濃屋に変わりましたが、1990年代に消え、今ではアジアンタワンなどに変わっています。
アジアンタワン

 場所はここ

 昭和45年新宿区教育委員会が書いた「神楽坂界隈の変遷」の「古老の記憶による関東大震災前の形」では「糸・菱屋」になっています。

 右の下図は神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第2集「肴町よもやま話②」からで、絵は読みにくくなっているので、書き直ししました。
古老の記憶による関東大震災前の形「神楽坂界隈の変遷」昭和45年新宿区教育委員会より美濃屋1
神楽坂アーカイブズチーム編「まちの想い出をたどって」第2集「肴町よもやま話②」の本文では

相川さん すぐ隣が菱屋さんの。これも天利さんと同じだけど、三丁目のと親戚でね。
馬場さん そういえば「菱屋分店」って書いてあった。

 天利氏は菱屋の店主です。戦後は神楽坂6丁目から美濃屋がはいってきました。

 大島歌織氏の『ここは牛込、神楽坂』第8号の「神楽坂で見つけた」(平成8年9月)では

足袋について

 美濃屋さんの前は、何度となく通っていて、入ってみたいと思いつつ、なかなか果せないでいました。足袋屋さんて、目的が限定される分、ほかの店のように「ちょっと見せてください」って軽く言えないんだな。
 でも、そろそろ足袋を買おうと思ってたとこでもあり、このページのことを囗実にして…と、ついに敷居をまたいだのでした。ドキドキ。(略)
 明治初期から続く美濃屋さんのご主人(三代目)は、六年前に「六十四歳になる手前で」亡くなられて。いまは外の職人さんに頼んでいるとのこと。その職人さんがやって来るのは、金曜日の夜七時。誂えたい人は、その時分に型をとってもらわなればなりませぬ。

美濃屋。神楽坂地区まちづくりの会「わがまち神楽坂」(神楽坂地区まちづくりの会、1995年)

 平成8年12月、新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」の「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」では美濃屋はなくなっています。その後、ビデオレンタルなどに変わり、現在は二階のタイ料理「Asian Tawan」や地下一階の「魚がしどまん中神楽坂店」などがはいっています。