都電」タグアーカイブ

神楽坂からきえたもの

文学と神楽坂

 これは『神楽坂まちの手帖』第12号(けやき舎、2006年)で「神楽坂からきえたもの」をまとめて書いています。

神楽坂からきえたもの
忘れもしないあの日を境に、或いはまた、通りがかりにふと気が付くと、どれもみな、今はもう写真や記憶の中にしか存在しないものたちです。
都電
 昭和37年の最盛期には41路線が東京中を網羅しており、界隈では、外堀通りに3系統(飯田橋~品川駅前)、大久保通りに13系統(新宿駅前~水天宮前)、飯田橋交差点から早稲田に向かって15系統(茅場町~高田馬場駅前)の三路線が運行していた。
 昭和42年12月、3系統廃止。次いで43年9月には15系統、45年3月には13系統が廃止となり、都電は神楽坂から姿を消した

都電は神楽坂から姿を消した 都電の廃止について正確に述べると、3系統の廃止は昭和42年12月10日、15系統は昭和43年9月29日、13系統は昭和43年3月31日岩本町までに短縮し、昭和45年3月27日に廃止した。

 ⚫思い出語り⚫ 

 一番覚えているのは15番ですね。中学・高校と神保町の方へ通っていたので、毎日(都電に)乗っていました。
 ちょうど倍賞千恵子が売れてきた頃、雑誌に「お父さんは15番の運転手」って書いてあったんです。それで探したら「倍賞」ってプレートを掲げてる運転手さんがいて「ホントだ!」って。それ以来、倍賞千恵子のお父さんの電車に乗ったときは「アタリだ」って思ってました。あと、停留所が道路の真ん中なんですけど、待ってる間は暇なんですね。だから「走ってくる車の名前を全部覚えよう!」なんて事もやってました。そんなに種類も多くなかった頃ですから。だけど卒業までの間に車も随分増えましたね。どんどん電車が遅くなるなって感じていたのは覚えています、(ル・レーブ 赤井慶子さん)

15番 都電15系統は茅場町-大手町-神保町-九段下-飯田橋-目白通り-新目白通り-高田馬場駅を結ぶ路線です。
神保町 共立女子学園でしょうか?
倍賞千恵子 倍賞氏の「私の履歴書」(日本経済新聞、2023年12月2日)では……
父美悦(みえつ)によると、先祖は秋田の豪族、佐竹氏に仕えた足軽で特別な武功を上げた際、2倍の恩賞を受けたことから「倍賞」姓を名乗るようになったそうだ。
 父は故郷の秋田から上京し、市電(都電)の運転士として働き始めた。そこで市バス(都バス)の車掌をする母はなと出会い、職場結婚する。茨城出身の母は社内でも評判の美人だった
走ってくる車の名前を全部覚えよう 都電15系統の電車は2500型です。廃車の2503を除く2501〜2508形。しかし、これでは優しすぎる。自動車ですね。セドリックとかグロリアとか。
ル・レーブ カフェベーカリー ル・レーブです。以前は足袋やYシャツで有名な赤井店。現在は不動産仲介のアパマンショップです。


飯田壕

 ⚫思い出語り⚫ 

 都心のホームから水面が見渡せるところといえば、市ヶ谷駅とお茶の水駅だけになったが、二十数年前までは、飯田橋駅からも外濠が見えた。我が家にはわたしが少年のころ、神楽坂のほかに墨田区にも小さな店舗があり、数年間そこから九段の私立学校に通っていた。電車通学する生徒たちにとって、ホームから飯田濠を眺めるのが帰宅途中の楽しみだった。神楽河岸沿いに建っていた東京都清掃局から積み出されるごみを満載にした船、少年たちが「汚わいぶね」と呼んでいた平たい船などが始終行き来していて、どうということもない光景にも子供たちは興味津々だった。そんな船の中に時々水上生活者が混じっていた。洗濯物をたなびかせた船上からおなじ年格好の孤独そうな少年がホームの私たちを眺めていた。(平松南)

九段の私立学校 おそらく暁星学園
汚わいぶね 汚穢船。西さい船、尿処理船と同じ。江戸時代、糞尿を運ぶ船として発達。「保健婦雑誌」23巻5号(1967年5月)では
都内9ヵ所の清掃作業所にバキュームカーが集まると、川を渡ってし尿処理船(通称おわい船)が東京湾に運ぶ。それをタンクにつめて、太平洋上に投棄するのが海洋投棄船である
 なお、この海洋投棄は平成11年度で終了し、平成11年1月22日からは、東京都唯一の「し尿処理施設」である「品川清掃作業所」は、し尿を脱水ろ液(液体)と汚泥ケーキ(固形分)に分け、汚泥ケーキは清掃工場に、脱水ろ液は下水道の放流基準以下に希釈(薄める)して下水道に投入します。

神田川を流下する東京都のごみ運搬船(深川孝行撮影)。2023.03.06 https://trafficnews.jp/post/124654#google_vignette

水上生活者 第二次世界大戦前後でははしけの船頭は家族や所帯道具を積んでいて、日常生活を営んでいた。しかし、港湾施設の近代化があり、水上生活者は次第に港湾住宅等に移り住み、いなくなった。


松ヶ枝

 ⚫思い出語り⚫ 

 私たちは出入りの業者ですから、正面からは入りませんよ。塀の右端のほうに勝手口があってね、そこから入ると庭に出るんです。そこで作業してると女中さんが出てくるから、花を渡して出てくる。それでも夕バコ銭ってくれるんですよ。懐紙にいくらか包んでね。あの頃の料亭さんはみんなそうだったけど、松ヶ枝は額も多かったからね。盆や正月になると更にはずむでしょう。仲間内で喧嘩になるんですよ。「俺が行く」「いや俺だ」ってね。(田口生花店・寺田司郎さん)

勝手口 2つ門があり、左の門は正門、右の門が勝手口です。

新宿区『ガレキの中から、30年のいま』昭和53年3月

夕バコ銭 タバコを買う金。転じて、タバコ一箱分くらいのわずかな金。お駄賃。
懐紙 かいし。ふところがみ。たたんで懐に入れておく紙。


神楽坂浴場

 ⚫思い出語り⚫ 

 大きなお風呂屋さんでね、深川とか浅草にも何軒か経営されてたみたいです。毎日子供を連れて行きましたよ。まだ出来て間もない頃でしたから、写真のような張り紙はなかったですね。大人用の湯船と、子供用のぬるめの湯船があって、脱衣所からはお庭が見えました。その頃はロッカーなんて少しで、みんな脱衣カゴなんです。桶と手拭いしか持ってませんもの。花柳界の方はお昼にお入りになるから、お風呂で会うことはなかったですね。そうそう、ここのお隣に三國連太郎が住んでたんです。お付の人が良く車を洗ってました。西村晃が遊びに来ているのを見かけたこともありますよ。(たつみや・高橋たまさん)

神楽坂浴場 津久戸町にあった神楽坂浴場。

写真のような張り紙 『神楽坂まちの手帖』第12号の写真のコピーを載せます。

神楽坂浴場の貼り紙

三國連太郎 みくにれんたろう。俳優。27歳、映画界へ。昭和を代表する実力派スターに。生年は大正12年1月20日。没年は平成25年4月14日。地図で青い四角が三國氏の住宅だった。
西村晃  にしむらこう。俳優。昭和26年「風雪二十年」で映画初出演。性格俳優として幅広く活躍。生年は大正12年1月25日。没年は平成9年4月15日。
たつみや 本多横丁の鰻屋。店主が高齢のため休店。令和5年7月31日、閉店。店舗の前に張り紙があって……

たつみや閉店のお知らせ

令和5年7月31日を持って閉店させて頂きます
ここ神楽坂でうなぎ一筋七十余年営業して参りました
うなぎの高騰、備長炭の高騰にその他諸物価高騰
閉店の寂しさから赤字覚悟で頑張って参りましたが先の見落
しの明るさも無く今が限界と閉店することと致しました。
長い間ご愛顧頂きました皆様に心よりお礼申し上げます
 ありがとうございました
               たつみや店主


縁日

 ⚫思い出語り⚫ 

 父が店の前でバナナの叩き売りをやっておりました。買いに来た人が風呂敷を投げてくれ、それを一枚一枚重ねいく時が一番楽しそうでしたね。口上も落語家はだしで、結構人だかりが出来ていましたよ。
 皮のむき方まで教えたり、最前列の人にはただで食べせたりしてたみたいで、たくさん売れるとすごく嬉しそうな顔をしてました。だけど、ほんとは売れることよりも人が集まってくれることが嬉しかったみたいですね。(ジョウトーヤ・吉本時子さん)

店の前 神楽坂下交差点から上を見て登り、本多横丁が右側にある四つ角で、右手前の店舗の前でバナナの叩き売りを行っていました。
一枚一枚重ねいく あくまでも想像ですが、風呂敷の上にバナナを置き、風呂敷の4個ある角を一つずつ折り畳んでいき「はい、お買い上げありがとうさま」などと答える、そんな姿を考えています。
ジョウトーヤ 神楽坂3丁目にあった果物店のジョウトーヤ、現在はニュージョウトーヤビルです。

神楽河岸の酒問屋(写真)路面電車 昭和42年 

文学と神楽坂

 雪廼舎閑人氏の「続・都電百景百話」(大正出版、1982年)に次の写真がでてきました。撮影時期は昭和42年8月でした。

雪廼舎閑人「続・都電百景百話」(大正出版、1982年)昭和42年8月に撮影

 都電「飯田橋」行きなのに、方向板だけは早々と「品川駅」に直してしまうという結構面白い写真です。理由は以下に
 この都電系統3番は4か月後の昭和42年12月10日に廃線しました。あとこの写真は升本酒問屋についても説明があり、『新撰東京名所図会』が続きます(引用は以下の「神楽河岸の酒問屋」で)。
 酒問屋の升本総本店は、確か田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」にもあったっけ。で、見つけました。これが(↓)昭和47年に撮った写真です。都電はなくなり、「京英自動車株式会社」は「安全第一/大林組」の看板に変わっています。この時期にはID 8793のように飯田壕で地下鉄有楽町線や護岸の工事が進んでおり、その関係の現場事務所かも知れません。
 升本の背後に出現したビルは、左が東衣裳店、右が小川ビル。いずれも大久保通り沿いです。右端はボウリングのピンの広告塔で、下宮比町のイーグルボウルです。

05-14-39-2飯田橋升本酒店遠景 1972-06-06

 升本総本店のサイトにも写真があったはず……。ありました(↓)。説明は昭和38年ごろとあります。しかし、よく見ると最初の雪廼舎閑人氏の写真と似ている。非常に似ている。けた違いに似ている。眼光紙背に徹すると、同じじゃないか。

 雪廼舎氏と升本総本店、いずれも嘘をつく理由はなく、どちらかが間違いです。
 住宅地図で調べると、升本の倉庫の隣は昭和39年が「駐車場」、昭和42年と43年が「百合商会」、昭和45年から「京英自動車」に変わります。住宅地図の更新は数年遅れになることが多いので、これを考えると雪廼舎氏に軍配があがります。
 「続・都電百景百話」の中で雪廼舎氏は

 当初、「都電百景百話」は、私の撮影した1万枚を越すネガから、先ず四百の場面を選んで、更にそこから百景にしぼったものだった。この広い東京の町々を、百の場面で代表させることの難しさは並大抵なものではなかった。江戸の昔、葛飾北斎は「富嶽三十六景」で三十六景ならぬ四十八景を、そして安藤広重は「江戸名所百景」で、百十八景もの場面を残しているのに徴しても、このことはお解り頂けると思う。

 雪廼舎氏は趣味が高じて写真を撮っていて、都電3系統の廃止を前に撮影に行ったのでしょう。写真の大きさや解像度から見ても氏のほうが正しいでしょう。

 神楽河岸の酒問屋
 中央線に乗って四谷から御茶の水に向かって行くと、左手に外濠が続いて、ボートを浮かべる者や釣糸を垂れる姿などが見える。早春の頃ともなると土手の菜の花の黄色が鮮やかで、都内でも珍しいところだ。その外濠に沿って走っている電車は、昔の外濠線で、この伝統ある線は、③番が品川駅から飯田橋まで通っていた。もう少しで終点の飯田橋の五叉路にさしかかろうとする所なのに、車の渋滞の真只中で立往生だ。方向板は折返す時に直さず、大抵このように予め直してしまう。電車を待つ人は、今度は折返して「品川駅」まで行くのだなということがわかるようになっていた。ここで目立つ建物は、白土蔵と黒土蔵とを持つ酒問屋の升本総本店で、江戸時代からの老舗である。ここ牛込揚場町には、神田川を利用して諸国からの荷を陸揚げしたので、船宿や問屋などがたくさんあり、このあたりの河岸を神楽河岸と言った。
 明治37年の『新撰東京名所図会』の「牛込区之部」の巻一に、「此地の東は河岸通なれば。茗荷屋、丸屋などいへる船宿あり。一番地には油問屋の小野田。三番地には東京火災保険株式会社の支店。四番地には酒問屋の升本喜兵衛。九番地には石鹸製造業の安永鐵造。二十番地には高陽館といへる旅人宿あり。而して升本家最も盛大にして。其の本宅も同町にありて。庭園など意匠を凝したるものにて。稲荷社なども見ゆ。」と出ているから、升本総本店は都内でも有数の老舗であることがわかる。
 都電の沿線に土蔵があったところは、そんなに多くない。麹町四丁目の質屋大和屋、本郷三丁目のかんむり質屋、音羽一丁目の土蔵、中目黒終点の土蔵、根岸の松本小間物店、深川平野町の越前屋酒店の土蔵など、数えるほどしかない。今や、その半分は取り壊されて見ることもできない。最近、飯田橋の外濠が埋め立てられて、またまた水面積か減った。残念なことである。

★飯田橋の都電ミニ・ヒストリー
 外濠線の東京電気鉄道会社によって、本郷元町から富士見坂を下りて神楽坂までが明治38年5月12日に開通した。続いて、三社合同の東京鉄道時代の明治40年11月28日に、大曲を経て江戸川橋までが完成して、飯田橋は乗換地点となる。一方、大正1年12月28日、飯田橋から焼餅坂を下って牛込柳町までが開通したことにより、重要地点となった。大正3年には、⑩番江東橋~江戸川橋、⑨番の外濠線の循環線、それに新宿からの③番新宿~牛込万世橋間が通る。
 昭和初期には、5年まで⑱番角筈~飯田橋~万世橋、⑲番早稲田~大手町~日本橋~洲崎、㉒番若松町~御茶の水~神田橋~新橋が飯田橋を通っていたが、翌6年から⑱番が⑬番に、⑲番が⑭番に、そして㉒番は改正されて㉜番飯田橋~虎の門~新橋~三原橋と、㉝番飯田橋~虎の門~札の辻間となった。昭和15年には㉜番は廃止となった。
 戦後は、⑮番高田馬場駅~茅場町、⑬番新宿駅~水天宮、③番飯田橋~品川駅とになった。
 ③番は42年12月10日、⑮番は43年9月29日に廃止、⑬番は43年3月31日岩本町までに短縮の後、45年3月27日から廃止された。

神楽坂1丁目(写真)昭和29年 ID 14048

文学と神楽坂

 新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」ID 14048を見ましょう。撮影時期は1953年(昭和28年)頃と書いてあります。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 14048 神楽坂

 本当に28年に撮影したのでしょうか。メトロ映画で上映中だったのは「燃える上海」と「謎の黄金島」という映画で、ともに公開日は昭和29年ですので、昭和28年というのはありえません。この写真は「新宿區史」(新宿區役所、昭和30年、784頁)でも出ています。また「区成立30周年記念 新宿区史」(新宿区役所、昭和53年)でも同じものを使っていて、これは「昭和29年ころ」と書いてあります。おそらく昭和29年が正しいのでしょう。
 写真はプリントではなく、「新宿区史」(新宿區役所、昭和30年、784頁)から複写したものでしょう。また、ID 5190ID 21は昭和28年、ID 23はさらに昔です。

新宿区史・昭和30年

新宿區史(昭和30年)784頁

神楽坂1~2丁目(昭和29年)
  1. 外堀通りと都電の軌道
  2. 標識ポール「神楽坂」
  3. ゼブラ柄の背面板の信号機
  4. 街灯は鈴蘭灯
  5. (伊藤菓子店)
  6. (植木洋服店)
  7. 清(水衣)裳店
  1. 信号機の裏側。
  2. 看板「水野外科」
  3. 看板「産婦人科 加藤医院
  4. 外堀通りと都電の軌道
  5. フチを2色縞で強調した看板
  6. 赤井商店)(下の菓子屋は多分間違い。足袋が専門で、シャツは戦後)
  7. (その右側)「さ(くらや靴店)」
  8. 看板「茶」(東京円茶)
  9. 屋上看板「メトロ映画(燃える上海と謎の黄金島)」

都市製図社『火災保険特殊地図』昭和27年

神楽坂、坂と路地の変化40年(1)|三沢浩

文学と神楽坂

 建築家の三沢浩氏の「神楽坂まちの手帖」第9号(2005年)の随筆「神楽坂、坂と路地の変化40年(1)」を、半分以下の分量に限って、引用します。氏は1955年、東京芸術大学建築科を卒業し、レーモンド建築設計事務所に勤務。1963年、カリフォルニア大学バークレー校講師。1966年、三沢浩研究室を設立、1991年、三沢建築研究所を設立しました。なお、(2)(3)も引用可能の分量に限って引用します。また、茶色のコメントは地元の方のものです。

外堀通りの桜は今年で30年目
 4月初頭、今年もみごとなソメイヨシノが、外堀通りを飾った。新たな柵が、厚いコンクリートの基礎にのり、ライオンズクラブの石の標識が、木柱ペンキ塗りにとって代わった。ライオンざくらと命名されているが、この桜は、1976年にクラブ認証十周年記念の植樹であった。つまり30年目の枝振りは、大きく濠に向けて土手を覆い、ボートに代わる水上の張り出し店に多くの客を呼んで、席待ちの列までできた。
 この植樹以前には、一間毎の柱を貫き、誰もが気軽に水面に降りられた。まだ鮒がよく釣れたころのことだ。土手公園の向こうに、名建築だった「逓信病院」の瀟洒な白亜の姿が見え、そろそろ巨大な警察病院の建て方が始まる頃。神楽坂側には三階建の物理学校時代を示す、理科大学校舎と、小さな研究社の本社が並んでいた。
 くねる都電の線路はなぜか濠側にあって、それに沿って歩くと、春の浅い3月初めには、鼻をくすぐる濠の匂いが漂った。毎年その香を感ずると、春の到来を知ったものだ。何のかおりか、不思議な燻りの匂いだったが、都電が無くなる頃には、車も増え、いつしか消えてしまった。
ライオンズクラブ 東京飯田橋ライオンズクラブ。場所は不明。
張り出し はりだし。建物などの外側へ出っ張らせてつくること、またはその部分。
一間 いっけん。ひとま。尺貫法の長さの単位で、1.81818m
水面に降りられた 実はお堀の柵は低かったのです。

外堀通り。TV。気まぐれ本格派全編(1977年)

土手公園 現在は外濠そとぼり公園と名前が変わっています。JR中央線飯田橋駅付近から四ツ谷駅までの約2kmにわたって細く長く続きます。
逓信病院 東京逓信病院。千代田区富士見ニ丁目14番23号。総合病院。

東京逓信病院

警察病院 東京警察病院。総合病院。千代田区富士見町。沿革によれば全館竣工は1970年(昭和45年)3月。2008年(平成20年)4月に中野区中野4丁目に移転しました。

住宅地図。1978年

理科大学 東京理科大学。神楽坂キャンパスは新宿区神楽坂1-3。
研究社 昭和40年3月から昭和57年まで、研究社(辞典部門)と研究社出版(書籍・雑誌)は神楽坂に同居しました
燻り いぶり。くすぶり。物がよく燃えないで、煙ばかりを出す

歩行者天国の日曜日、神楽坂通りさわや前 1971年5月 筆者撮影

坂のすべり止めは一升瓶の底だったか
 都電の停留所は牛込見附、今のマクドナルドの隣の公衆便所が最寄りだったが、見附から佳作座を越えるあたりで大きくカーブして、その神楽河岸には材木屋、土砂屋、都のごみ船寄りつきなど、一列の家並みが、ややくねった濠を遮っていた。
 見附からパチンコのニューパリと、洋品のアカイの間を入ると神楽坂が始まる。40年前の坂は、今とくらべると随分と静かだった。高い建物は坂上の菱屋の6階、大きな建物は、今のカグラヒルズの位置にあった、キャバレー「軽い心」で、あとは坂を越え、今も変わらぬ三菱銀行神楽坂支店だったろう。そのほかはほぼ木造の2階建、それら商店の間口は、今とほとんど変わることなく、昔の敷地割りを、その店構えに残していた。おおむね3間、5.4m、奥行きは背後の路地や崖で変わる。上り坂右の裏は路地が通り、左の裏は次第に崖となっているから、大体同じような敷地面積だと思われる。
 1960年代のこの坂には、今の街路樹のけやきは無い。昨年新しい街路灯になる前は、ガス灯型だったが、それも無く、UFO型が曲げた鉄パイプに吊られていた。林立する電柱は家並みを圧倒し、くもの巣のように電線が走り、坂をまたいでいた。歩道はアスファルト、車道はコンクリートで、坂部分は自動車のすべり止めのために、内径で10cm位の輪型が30cm間隔で、びっしり堀り込まれていた。セメントが生乾きのうちに、一升瓶の底を押しつけて輪型をつくったと、冗談交じりの話を聞かされた。
 このコンクリート床がはがされて、アスファルトになり、歩道はインターロッキングという、互いに噛み合ってずれない、小型ブロックに変わる。1980年代初頭に、東京都が都内で22商店街を選び、モデル商店街としたが、その選に入ったからであった。
牛込見附 以下の通り。

牛込神楽坂警察署管内全図(昭和7年)(「牛込警察署の歩み」牛込警察署、1976年から)

マクドナルド 現在はカナルカフェブティックで、お菓子などを販売します。
公衆便所 位置は変わりません。
佳作座 現在はパチンコ店「オアシス飯田橋店」です。
材木屋、土砂屋、都のごみ船 現在は100%なくなりました。細かくは「神楽坂と神楽河岸」で。
寄りつく よりつく。 そばへ近づく。
ニューパリ 正確にはニューパリー
ほかはほぼ木造の2階建 実際には菱屋がビルになった昭和42年(1967年)頃に、大島ビル(1959年竣工)、五条ビル(1967年竣工)、神楽坂ビル(1969年竣工)など同程度の高さのビルがいくつも建っています。
街路樹 昭和48年までは街路樹は全くなく、牛込橋は桜の木でした。昭和49年、神楽坂1~5丁目はけやきになっています。
ガス灯型 昭和54年、神楽坂1~5丁目はUFO型でした。昭和59年(田口氏「歩いて見ました東京の街」05-10-33-2神楽坂標柱 1984-10-02)、ガス灯型になっています。

田口氏「歩いて見ました東京の街」05-10-33-02 昭和59年1984-10-02

UFO型 大きな電灯で、昭和36年2月に「鈴蘭灯」から変わりました。
輪型 Oリングです。
冗談交じり 多分、冗談。
インターロッキング インターロッキング(interlocking)は、かみ合わせる。ブロックを互いにかみ合うような形状にして舗装する。荷重が掛かったとき、ブロック間の目地に充填した砂がブロック相互のかみ合わせ効果(荷重分散効果)が得られる。
その選に入った 神楽坂6丁目だけです。

神楽坂の立廻り

文学と神楽坂

 中村武志氏の「目白三平のあけくれ」(講談社、昭和32年)では……

 戦争前の神楽坂を知っている者は、今の神楽坂のさびれようは、尋常一様ではないという感じだ。冬でさえ相当な人出であったが、気候のいい頃は、夕食後にでもなれば、道いっぱいに動きが取れぬほどのにぎわいで、毘沙門天を中心にして夜店も毎晩出ていたものだ。今は五の日に、わずかばかり夜店が出て、昔の名残をとどめているが、それがかえってわびしい思いを与えるのだ。
 現在は、だいたい両側とも店舗が並び、形の上ではすっかり復興したかたちだが、家並から受けた戦前の和かさやなつかしさは、今は殆んど感じられない。
 国電飯田橘駅で降りて、都電を横切り、神楽坂にかかると、あのゆるやかな勾配の坂を登って行くのも、今は億劫な思いがするのだが、昔は一晩のうちに、幾度でも登ったり降ったりして、散歩を楽しんだものだった。
 下から登って行くと、右側の今の神楽小路をはいった「ダンス教室」のあたりに、「つたや」というビリヤードがあった。眼の切れ長の綺麗な娘さんがいて、ゲームを取っていた。昭和五年頃のことだが、私の友だちのS君は、この娘さんにすっかり夢中になって、学校の方よりここへ通学していた方が多かった。私も度々S君のお供をした。
 その当時、私たち四、五人の仲間で、短歌を作っていて、一ヵ月に一回くらい歌会なども開いていた。どういうキッカケからか忘れたが、ビリヤードのおやじさんが、私たちに短冊を書いてくれと云った。思いあがっていた私たちは、下手な歌も構わず、それぞれの自作を得々として短冊に書いた。
 おやじさんが、その短冊をビリヤードの壁に飾った。それが原因で、そのビリヤードに通っていた日本歯科の学生と喧嘩になった。
「学校を怠けて、歌なぞ作るのは怪しからんではないか」
 と、日本歯科の学生が云った。
「君たちだって、学校をさぼって、玉ばかり突いているではないか」
 と、S君が反駁した。すると、日本歯科の学生は、
「いや、僕たちは、玉だけだが、君たちは玉を突く上に、短歌も作っているではないか。学生が短歌を作るとは生意気だぞ」
 と云った。そして、彼等は、ビリヤードの壁に飾ってあった私たちの短冊を、みんな引きちぎって捨ててしまった。その時の私の歌に、
  教師なる友を訪ねむ木曾山の
    峡路ほそぼそ朝時雨する
 というのであった。ほかの歌はみんな忘れてしまったが、これだけは不思議に覚えている。日本歯科の学生の暴力が、ひどく癪にさわったせいだろう。
さびれる さびしくなる。人が離れ、以前のにぎわいがなくなる。
尋常一様 ごくあたりまえで、格別に他と変わらない。普通と異なることのない。
五の日 毎月5日(あるいは5日、15日、25日)に縁日として夜店が出てにぎわう
家並 家々が並んでいること。他の家と同じくらいであること
国電 旧日本国有鉄道の電車。JRになりました。
都電 当時は外堀通りにチンチン電車(都電)が走っていました
つたや 戦前の「つたや」は戦後の「小柳ダンス」だとすると「つたや」は下図になります。

つたやと小柳ダンス

切れ長 目尻が細長く切れ込んでいること
短冊 たんざく。和歌・俳句などを書くための細長い料紙(りょうし。書きものをするための紙)。ふつう、縦36センチ、横6センチぐらい
日本歯科 千代田区富士見にある歯科大学。

日本医科大学

癪にさわる  物事が気に入らなくて、腹が立つ。気にさわる。かんにさわる。

六さんの途中下車|六浦光雄

文学と神楽坂

 昭和42年(1967年)7月2日発行の「サンデー毎日」です。
 六浦むつうら光雄みつお氏はここで「六さんの途中下車」を連載していました。氏は朝日新聞の嘱託漫画家で、細密な風俗漫画で有名でした。昭和38年、第9回文芸春秋漫画賞を受賞。生年は大正2年2月23日。没年は昭和44年6月12日。享年56歳。死因は脳出血でした。

 ドデン、ウイーン、チンジャラ、パラパラ、バタン、キュ。
 この音のヌシは、都電とクルマと、パチンコ屋と、その客をはやいとこオケラにするたくらみのホット・ジャズと、交通事故だ。むかしは人が倒れる音も、バターン、キューとのんびりしとったが、スピード時代のいまは、バタン、キュとのばさずにノビちまう。こちら牛込見付交差点。行く手には神楽坂がある。
 ドデン、パタンという現代の神楽バヤシのひびきのなかをオカメ、ヒットコ群衆が、ピーヒョロ行きかう。テンツクテンツクスッテンテン。物価高はテンをつき、庶民のふところはもはやスッテンテン。なのに右の空に「軽い心」というクラブのネオン。ハハノンキダネ。左の空にジュラルミンの星ひとつ。
 昔、ホシひとつの兵隊のとき、よくこの坂を通った。九段から戸山ヵ原へ行く通りミチだ。同年兵はほとんどフィリピンでパタン、キュと消えた。私って重い心になるとハラの虫がなく。神楽坂下の左手に「信華園」というシナソバ屋がある。この家のチャーシューはうまいねえ(チャーシューメン120円)。
 この店のすじ向かいに『紀の善』というしるこ屋がある。夏の甘味ではなんたって、、、、、氷アズキが一ばんだ。おしまいころのあのシタにのこるアズキの香がなんともいえんねえ。坂上、三菱銀行前のゲタ屋の横丁を右折して明治ビリヤードの角を左にはいると『おひで』というオサケ屋がある。剣菱180円。スイトン180円。
 本日は、話も横道にそれた。「おひで」での私の音は、キュキュ、ゴキーン。いろいろと申しわけない……
オケラ 所持金が全然ない人かないこと。元は博徒・すり仲間の隠語。
ホット・ジャズ モダンジャズ以前のジャズ演奏。黒人色が強く、即興を重視したものを漠然と指していう
のびる さんざんなぐられて動けなくなる。ひどく疲れてぐったりする。グロッキーになる。
ハヤシ 囃子。歌や舞踊,芝居,動作などをにぎやかにはやしたてる音楽やことば
ピーヒョロ トビ(鳶)の鳴き声。ピーヒョロ、ヒョロと鳴く。
テンツクテンツク 囃子の太鼓の音を表す語
スッテンテン 所有していた金や物などがすっかりなくなること
テンをつく 天を衝く。非常に高いこと。
ハハノンキダネ のんき節。歌の終わりに「はは、のんきだね」という囃子はやしことばが入る。大正7年(1918)ごろから流行した俗謡
ジュラルミン アルミニウム合金の一つ。軽量で強力で、航空機などの構造用材として使う。
ホシひとつ 二等兵(右図)
戸山ヵ原 戸山ヶ原。とやまがはら。現在は戸山ハイツ、国立国際医療研究センター、早稲田大学文学部などがある。
ハラの虫 腹の虫。空腹どきの腹鳴りを、腹中に虫がいて、それが鳴くと喩える
信華園 現在は三経第22ビル。翁庵と田口生花店との2店に挟まれた店舗
おひで この場所はわかりませんでした。

住宅地図。1965年

剣菱 剣菱けんびし酒造。本社は兵庫県神戸市東灘区。日本酒「剣菱」の蔵元
スイトン 水団。小麦粉の団子だんごを入れた汁物。

都電・飯田橋(写真)1960年代

文学と神楽坂

 小川峯生・生田誠共著「東京オリンピック時代の都電と街角」 (アルファベータブックス、2017年)を見ましょう。

小川峯生・生田誠共著「東京オリンピック時代の都電と街角」

5方向からここに都電たちが集ってきた
3・13・15系統
飯田橋

 江戸城の北西にあたる飯田橋は、江戸時代には「牛込見附」が置かれた場所で、現在は外堀通りが通り、JR中央・総武線の飯田橋駅の両側で、早稲田通り神楽坂通り)と目白通りと交差している。また、早稲田通りから分かれて西に延びる大久保通りが存在し、現在は地下鉄各線が通る、この地域の交通の要となっている。
 明治から昭和戦前期の飯田橋付近には、「陸軍造兵廠東京工廠」が置かれ、国鉄の牛込、飯田町駅が存在した。現在のJR飯田橋駅は、1928(昭和3)年に牛込駅飯田町駅が統合された、比較的新しい駅である。2駅のうち、国電の始発駅だった飯田町駅は、統合後も長距離列車発着用のターミナル駅が残り、その後は貨物駅となって1999(平成11)年まで存在した。

外堀通り JR山手線やJR総武中央線に沿って皇居のまわりを一周する最大8車線の都道
早稲田通り 千代田区九段北の田安門交差点(靖国通り)から新宿区西早稲田、中野区中野などを経由し、杉並区上井草(青梅街道)に至る道路区間。
神楽坂通り 始点は神楽坂下交差点で、神楽坂上交差点を通り、神楽坂6丁目の終点辺りまで。早稲田通りの一部。
目白通り 千代田区の靖国通りから、練馬の関越自動車道の練馬インターに至る延長16kmの2~6車線の都道
大久保通り 飯田橋交差点から、牛込神楽坂駅を経て、JR高円寺駅付近の環七通りの大久保通り入口交差点に至る延長9kmの主に往復2車線の東西方向の都道

飯田橋の通り

陸軍造兵廠ぞうへいしょう東京工廠 陸軍の兵器・弾薬・器材などの考案・設計・製造・修理などをする施設。小石川の旧水戸藩邸跡に建設した。
飯田町駅 明治28(1895)年、飯田町駅は開業。場所は水道橋駅に近い大和ハウス東京ビル付近でした。1928年(昭和3年)、関東大震災後に、複々線化工事が新宿ー飯田町間で完成し、2駅を合併し、飯田橋駅が開業。右は飯田町駅、左は甲武鉄道牛込駅、中央が飯田橋駅。2020年6月、飯田橋駅は新プラットホームや新西口駅舎を含めて使用を開始。

飯田橋駅、牛込駅、飯田町駅

 この飯田橋を通る都電は、3系統、13系統、15系統の3路線が存在した。山手線の南端にあたる品川駅前を出て、四ツ谷駅前から外堀通りを通って、はるばる飯田橋駅前へやって来たのが3系統である。ここが起終点の停留場だったから、残る2系統の路線とは接続していなかった。
 一方、高田馬場駅から南下して、新目白通り、目白通りを経由して、飯田橋へやって来た15系統は、九段下から神保町、大手町を通り、茅場町へ至る路線だった。また、新宿駅前からの13系統は、河田町から神楽坂を通って飯田橋に来て、御茶ノ水、岩本町を通り、終点の水天宮前に向かった。これらの路線は現在、東京メトロ東西線、南北線、有楽町線、都営地下鉄大江戸線に受け継がれている。

3路線 下図を参照。ただし13系統と15系統は間違いで、逆が正しい。

石堂秀夫「懐かしの都電」(有楽出版社、2004年)

東京オリンピック時代の都電と街角
【飯田橋】 1968年(昭和43年)
 傘を手にした背広姿の会社員の列が見える雪の日の朝、飯田橋駅前の風景である。ようやくやってきた15系統の都電に乗ろうと、安全地帯に駆け寄る男たちもいる。まだ、神田川・外濠の上に首都高速道路は架かっていなかった。

1967年 飯田橋

飯田橋駅前の風景 15系統の都電が見える。ほかに正面のビルには左から右に

  1. 巨大なビルは東海銀行
  2. 酒の黄梅きざくらとカッパは三平酒造
  3. パーマレディ
  4. カッパ(合羽?)
  5. ミカワ薬局
  6. 時計
  7. 銀座土地
  8. つるやコーヒー
  9. 松岡商店

飯田橋2

【飯田橋】 1962年(昭和37年)
 新宿駅前を出て、牛込柳町、神楽坂とたどってきた13系続の都電が坂道を下って、飯田橋までやってきた。坂の途中に見える建物は、1933(昭和8)年に完成し、戦災をくぐり抜けた新宿区立津久戸小学校の校舎である。この13系統は、手前の交差点を左折して外堀通りを水道橋の方向に進んでいった。

1960年。人文社。住宅地図。

 最左端は書店「文鳥堂」で、「小説新潮」「蛍雪時代」などを販売。その右に「田原屋」。洋酒を売っていた。「キャラメル」は「菓子 飯田橋 園」でしょう。「都 しるこ」は写真でははっきりしない。「都 寿司」はよくわかる。「ビヤホール 飯塚」もわかる。停留場「飯田橋」がその前にあり、おそらく都電は停車中。
「新宿区立津久戸小学校」は中央の大きな建物。「新宿区立愛日小学校 津久戸分校」は間借りしていた。

1965年。日本住宅地図出版。住宅地図。

 広告板「酒は両関」は稲垣ビルで、東京ガス飯田橋サービスステーションなどがはいる。地元の人は「その後、隣の第一銀行と一緒になって現・第一勧銀稲垣ビル。1974年11月に竣工。『第一勧銀』の名を残す稀な例」だといいます。その右の2階は「ネアロンコーヒー」でしょう。その隣は「日鶴園飯田橋」で、おそらく酒に絡んだ商売をしている。「明治」はおそらく「山口製パン」がつくっている。

 また「文春オンライン」(J・ウォーリー・ヒギンズ『秘蔵カラー写真で味わう60年前の東京・日本』光文社新書 2018年)で同じようなものもでています。

1960年代の飯田橋 首都高もビルもない
 飯田橋駅のホームから神田川を眺める。64年当時は、バスと都電が走っていた。都電はここから、日本橋、茅場町へと向かう。高層ビルがほとんどなく、首都高もなく、青空が広がっているのが、今見ると印象的だ。(1964年12月4日)

飯田橋と牛込区筑土方面遠望(写真)大正8年頃

文学と神楽坂

 この絵葉書は個人が所蔵するものですが、最初に雑誌「かぐらむら」の「記憶の中の神楽坂」に出たときは低解像度で、もっと解像度が高くないと発表には向かないと思っていました。最近、石黒敬章氏の「明治・大正・昭和 東京写真大集成」(新潮社、2001年)を見ていると、初めて大きな写真を発見し、さらに「東京・市電と街並み」(小学館、1983年)でも発見しました。
 まず何台かの電車が走っていますが、全て路面電車です。つまり道路上を走る市電や都電です。現在ではバスに代わり、なかには地下鉄に代わっています。JR(国鉄、省鉄)とは違います。路面電車の駅もバス停や地下鉄の駅に代わりました。

 林順信氏の「東京・市電と街並み」(小学館、1983年)は

飯田橋の変則交差点 大正8年頃
 左に見える小さな鉄橋が飯田橋、右に見えるのは江戸川に架かる船河原橋である。江戸川がここで外濠に落ちるとき、どんどんという響きをたてていたので、通称「どんどん」と呼ばれていた。外濠に沿った左手を神楽かぐら河岸がしといい、目の前の町を揚屋あげやちょうという。諸国の物資を陸掲げした頃の名前である。船河原橋上を渡るのは、外濠線の環状線の➈番と新宿と万世橋とを結ぶ③番の電車、それと交差するのは、江東橋から江戸川橋に通う⑩番である。飯田橋は、昔から変則的五差路で交通の難所である。
飯田橋 東京都千代田区の地名
江戸川 ここでは神田川中流のこと。昭和40年以前に、文京区水道関口の大洗おおあらいぜきから船河原橋までの神田川を江戸川と呼んだ。
揚屋町 正しくは揚場あげば町です。
環状線の➈番 あっという間に市電の線路番号は変わります。これは大正4年に市電の系統でしょう。
万世橋 千代田区の神田川に架かる橋。秋葉原電気街の南端にある。
江東橋 墨田区の地名。墨田区で大横川に架かる橋
江戸川橋 目白通りにあって神田川を架かる橋。東京メトロ有楽町線江戸川橋駅前にある。

 五差路と視線の方向です。

牛込区の地形図。大正5年第一回修正測図。(新宿区教育委員会『地図で見る新宿区の移り変わり―牛込編』昭和57年)

 石黒敬章氏の「明治・大正・昭和 東京写真大集成」(新潮社、2001年)の説明は……

【飯田橋と牛込区筑土方面遠望】
現在は飯田橋交差点になり面影はない。左の鉄橋が飯田橋。右は船河原橋で、電車は新宿―万世橋間の③番と環状線の⑨番で、左の飯田橋を渡る電車は江東橋―江戸川橋間を走る⑩番だそうだ(『東京・市電と街並み』による)。⑩番の電車の奥の道は大久保通り。堀に沿って左に行けば市谷方面。現在も飯田橋交差点は変則的な五叉路で複雑である。

 最後は「かぐらむら」の文章です。「今月の特集 記憶の中の神楽坂」でおそらく2009年に出ています。

飯田橋界隈(大正時代/絵はがき、個人所蔵〉
複雑な地形で判り辛いが、左横の鉄橋が飯田橋である。市電外濠線が走っている。市電が停車している橋は、神田川に架かる船河原橋である。斜め上方に延びている道路は現在の大久保通りで、九段下から江戸川橋方面に行く市電が通っていた。通り沿い右奥の白い瀟洒な建物は、下宮比町1番地の吾妻医院という個人病院である。大正12年に売りに出されていたのを、関東大震災で九段下の至誠医院を失った吉岡弥生が購入し、至誠病院として多くの患者を集めたが、昭和20年4月14日空襲で全焼した。その後、東京厚生年金病院となり今日に至っている。
左上、ひときわ大きな灰色の屋根が、津久戸小学校である。この写真が撮られたのは(推測だが)自転車や人力車の様子から、大正の中期~後期ではないか。車両の前後がデッキ型の市電は、明治36年~44年に製造された。夏目漱石はじめ神楽坂を訪れた当時の文化人達が利用したのがこの車両である。1枚の絵はがきによって、古き飯田橋の「日常の一瞬」を垣間見ることができる。

吾妻医院 東京女子医科大学「東京女子医科大学80年史」(東京女子医科大学、昭和55年)では……

 吾妻病院は、大正5年(1916)まで順天堂の産科部長をしていた吾妻勝剛が、そこを辞めて、下宮比町に開業したとき建てた病院である。当代一流の産科医であった吾妻は最新の設備を備えた産科病院を建て、隆盛を極めたが、好事魔多しの譬えどおり大震災の日、熱海の患家で家の下敷となり、圧死したのであった。
 吾妻病院は火をかぶらなかったものの、地震で建物のあちこちが痛んでいた。しかし産科婦人科専門の弥生にとっては願ってもない病院であった。それを入手し、修理し、この年11月23日からここを第二東京至誠病院として再開した。この場所が牛込区下宮比町(現在の厚生年金病院の場所)であることからその後はここを学校のある“河田町”に対し“宮比町”と呼ぶのが内部での慣わしとなった。
 現在は名前は変わり、東京新宿メディカルセンターです。
吉岡弥生 医者。済生学舎(現日本医科大学)を卒業、東京で開業。明治33年(1900)東京女医学校(現在の東京女子医科大学)を創立。昭和27年、東京女子医科大学の学頭に就任。生年は明治4年3月10日(1871年4月29日)、没年は昭和34年5月22日。享年は満88歳
デッキ deck、vestibule(USA)。車内への出入口があり、客室との間に仕切戸が設けてある車端部の空間。鉄道車両で客室への出入口の部分。

神楽坂の中心

文学と神楽坂

 地元の方から「神楽坂の中心」というエッセイを頂きました。

 大正から昭和初期の神楽坂が最も栄えた時代、その中心は毘沙門さま周辺の3丁目から4丁目(旧・上宮比町)、5丁目(旧・肴町)にかけてだったそうです。表通りに石造りの立派な店が多く、裏にキメ細かな路地と賑やかな花町が広がっていました。

 当時の坂の中腹から下は、通り沿いこそ店が並んでいたものの、裏通りは住宅や倉庫、学校などが主だったようです。「古老の記憶による震災前の形」で1-2丁目の裏道の路地が描かれていないのも、坂下の「紀の善」が昔は職人相手の店だったのも、「田原屋」毘沙門天の隣で大いに栄え、兄弟店が少し離れた場所にあったのも、こうした表れのように感じます。


古老の記憶による震災前の形 新宿区立図書館資料室紀要4「神楽坂界隈の変遷」昭和45年に出ています。インターネットでみることも可。
職人相手の店 牛込倶楽部の「ここは牛込、神楽坂」第17号の冨田冨江氏の「神楽坂昔がたり」「紀の善と牡丹屋敷」では
 神楽坂の上り口の左角に、旗本屋敷直属の牡丹屋敷というのがありました。そこで牡丹を栽培していたといわれていますが、栽培していたのは主に薬草で、それを江戸城の本丸に届けていたのだとか。
 紀の善は、その牡丹屋敷の専属で、お屋敷から使いがきて、きょうは30人頼むとか、さようは雨だから5人でいいとかいってくると、それに合わせて若い者を出して、薬草の手入れをやっていたそうです。
 浅草では、幡随院長兵衛がそういうのを仕切っていましたが、神楽坂では代々紀の善がやってきたのだとか。それで、紀の善は、親分以下、若い者みんなに、桜と蝶の彫り物……そう、入れ墨をさせていたんです。絵柄を牡丹にしてはお屋敷に失礼にあたるからと、桜と蝶にしたとかで。

 江戸時代の商売は江戸城に薬草を届け、明治から戦前までは寿司、戦後は甘味処です。職人相手の店といえないと思います。
田原屋 毘沙門天の側は5丁目で長男、兄弟店は3丁目で3男がやっていました。牛込倶楽部の「ここは牛込、神楽坂」第17号「お便り投稿交差点」の奥田卯吉氏の「おれも江戸っ子、神楽坂」では
 神楽坂三丁目五番地に三兄弟たる高須宇平、梅田清吉と、父の奥田定吉が、明治末期に、当時のパイオニアとしての牛鍋屋を始めた(中略)
 時代の先端をゆく父たちは、五丁目の魚屋の店が売り物に出たので、長男はそこでレストランを始め、当時、個人のレストランとしては珍しいフランス料理のコースを出していた。次男は通寺町(現神楽坂6丁目)の成金横丁で小さな洋食屋を出した。特定の有名人等を相手にした凝った味で知られる店だった。
 末弟の父は、そのまま残って高級果物とフルーツパーラーの元祖ともいわれる近代的なセンス溢れる店舗を出現させた。

 戦後も毘沙門さまが中心だという意識は残っていました。神楽坂の夜店は「5の日の縁日」として限定的に復活し、昭和50年頃まで続いたと記憶します。しかし露店が並んだのは藁店から見番ぐらいがせいぜいで、坂下に賑わいは及びませんでした。1丁目の商店会会員は、そのことが不満だったそうです。

 様相が変わったのはビルが建ち、多くの貸店舗ができはじめた頃でしょう。飯田橋駅に近い坂下と、地下鉄東西線の神楽坂駅に近い6丁目(旧・通寺町)の店や事務所の家賃が、毘沙門さま周辺より高くなる「逆転現象」がおきました。

「神楽坂上」の位置づけが戦前・戦後で変わったことも影響していると思います。現在の神楽坂上の交差点から牛込北町にかけては戦前、牛込区役所(現・箪笥町特別出張所)を中心としたビジネス街で、牛込の中心と目されていたそうです。しかし戦後、区役所が新宿に移り、さらに地域交通の大動脈だった大久保通りの都電が撤去されると、一転して「不便な場所」「陸の孤島」になってしまいました。相対的に、飯田橋駅に近い坂下の価値が上がったのです。

 毘沙門さまの場所は飯田橋駅と神楽坂駅の中間で、ある意味「中途半端」です。坂下に比べると人通りも少ない。中心とは言いにくくなってしまいました。

 とはいえ新たな変化も芽生えています。近年、神楽坂がメディア等で紹介されて人気が高まった結果として、昔より広い範囲が「神楽坂」と認識されるようになりました。都営大江戸線の牛込神楽坂駅が坂上に開業したことも、それを後押ししています。今日、神楽坂として括られる範囲には、矢来町筑土八幡町中町南町まで含まれることがあります。しかし、さすがに区が違う千代田区富士見町は入りません。

 新しい広域の神楽坂の中心は、やはり毘沙門さまになるのではないでしようか。

限定的に復活 渡辺功一氏の「神楽坂がまるごとわかる本」(展望社、2007年)では「戦後は、縁日の出店がままならずにしばらくその火が消えていたが、昭和33年7月に、商店街の尽力で毘沙門の境内と門前に縁日がめでたく復活し、毎月5の日に開かれている」
地下鉄東西線の神楽坂駅 現在、地下鉄の飯田橋駅、神楽坂駅、牛込神楽坂駅があります。

千代田区富士見町 千代田の北西部に位置し、富士見一丁目と二丁目になる。


昭和30年代半ばの神楽坂下(写真)ID 5510, 7002, 9109

文学と神楽坂

 地元の人が昭和30年代の神楽坂通りについて送ってくれました。

 新宿歴史博物館所蔵のうち、昭和30年代中葉の神楽坂下の写真は解像度がよく、多くの情報が読み取れます。おそらくプロが大判フィルムで撮影したのでしょう。外堀通りを都電が走っていた頃のもので、2枚とも軌道の石敷が鮮やかです。都電牛込線は、この写真の数年後に廃止になりました。

 昭和35年の写真(ID:5510)を見てみましょう(新宿歴史博物館所蔵「データベース 写真で新宿」。下図で、拡大できます)。向かって右の角が赤井商店。戦前から続く名店で、神楽坂の入り口のランドマーク的存在でした。よく見ると、隣の津田印店と同じ建物です。木造の建屋でも、間口を区切って店の一部を他人に貸すのは古い商店街では良くあることでした。この建物は外壁をテントで覆って化粧しましたが、現在も同じものを2つの店で分けて使っています。

神楽坂下 昭和35年頃。新宿歴史博物館 ID 5510

 

神楽坂1~2丁目(昭和35年)
  1. 電柱看板「整美歯科 山本薬局横 院長 松本茂曜」「土地家屋 野口商会不動産部」「どもり 赤面対人恐怖」

  2.  自動車通行止 一方通行出口 午前AM0-正午NOON 自動車 MOTOR-CARS 東京公安委員会
  3. ニューバリー
  4. 田原屋 パーラー
  5. 電柱看板「質 倉庫完備 大久保
  6. 元祖 貸裳店・(清水本)店
  7. 生そば(翁庵
  8. 電柱看板「川島歯科
  9. 電柱看板「森本不動産
  10. (ダイ)ヤモンド毛(糸)
  11. (夏目)写真館
  1. 足袋・Yシャツ 赤井商店
  2. 一方通行
    正午 午後 PM 12:00 自動車 MOTOR-CARS 東京公安委員会
  3. 津田印店 印章 ゴム印
  4. ニューマヤ マヤ片岡出身 小山美智子
  5. 山田紙店
  6. 神楽堂 ヤマザキパン 電話 公衆電話 ヤマザキパンの納品車
  7. おしるこ(紀の善
  8. サインポール2つ(理容バンコック)
  9. 上映〇(メトロ映画
  10. ト(リ)ス(バー)、トリスバー  沙羅
  11. ダンス(小柳ダンススクール
  12. パチンコ(マリー)
  13. 志乃(多寿し)
  14. ビリヤード
  15. ニューイトウ
  16. 喫茶 クラウン
  17. (ルナ美容室)
  18. ポーラ化(粧品)
  19. 資生堂(化粧品)

都電牛込線 1905年8月12日神楽坂から四谷見附までを開業。1967年(昭和42年)12月10日、市ヶ谷見附と飯田橋を廃止。1970年(昭和45年)3月27日、全線廃止
ランドマーク 都市景観や田園風景において目印や象徴となる対象物。

 その隣は、この写真では見えていませんが「白十字診療所」という名の診療所でした。昭和50年代まで続き、同じ場所の写真(ID:9109、下図)で確認できます。
 次は山田紙店。2階には美容室「ニューマヤ」が入っています。看板は「マヤ片岡出身」と読めます。戦前・戦後を通じて美容界のリーダーのひとりだったマヤ片岡の直弟子の店で、時にはマヤ片岡も巡回してきたそうです。後に3丁目に自前のビルを建てるほど成功しました。2代目の店主が急逝し、閉店したのは2016年(平成28年)のことでした。
 次の神楽堂パン店の前にはヤマザキパンの納品車が止まっています。その隣は紀の善。黒地に白文字の看板は「おしるこ」と読めます。

[参考]神楽坂下交差点 昭和51年8月26日 新宿歴史博物館 ID 9109

 神楽小路を挟んで、黒っぽい高い建物は「理容バンコック」。この建物の1階は、しばしば店が代わるのですが、2階室は現在も紳士向け理髪店の「萬国館」として続いています。商店街では珍しいケースだと思います。突き出している「ダンス」の看板は、この建物ではなく神楽小路の奥にあった「小柳ダンススクール」です。
 その向こう、いかにも路地があるように見えますが、奥にあったメトロ映画の入り口です。「上映■」の演目の看板や、なんとか「メトロ」と読めるのぼり旗があります。角にはトリスバーがあり、看板も「トリスバー 沙羅」が見えます。
 次は「志乃〇」は「志乃多寿し」。人形町にある総本店の神楽坂店でした。その向こうの山一薬品は、この頃でもまだ平屋です。「ビリヤード」は通りではなく、パチンコマリーの角を入った路地の奥にありました。
「靴ニューイトウ」から先は、このブログの別記事で詳しく書かれています。
 同じ昭和35年(ID:5510)の向かって左側。「パチンコニューパリー」「パーラー田原屋」「貸衣装(清水本)店」、「生そば」(翁庵)まで確認できます。よく見ると「(ダイ)ヤモンド毛(糸)」(大島糸店)や「(写)眞館」(夏目写真館)の看板も見えます。

理容バンコック 「東京坂道ゆるラン」の「落語『崇徳院』の古地図」「明治後期、神楽坂の床屋」で。だたし、本当に理容バンコックがどうかは、わかりません。

明治後期、神楽坂の床屋

のぼり旗 図の左側にあったのぼり旗のこと。う~ん、私はわかりません。
トリスバー 写真の「ト〇フ」も「トリスバー」

拡大図。ID:5510

ビリヤード 国際ビリヤードが袋小路のつきあたりにありました。

1995年 住宅地図。

 もう1枚の昭和34年(ID:7002、下図)は縦に画角が広く、坂の中腹から先までうかがえます。さわやのあたりで坂が少し緩くなっているのも、よく分かります。その近くの横書きの大きな「〇中御」は「お中元」のセールでしょうか。
 一番高いところの「木村(屋)」の向こうに見える週刊紙の看板は、「記憶の中の神楽坂」に出てくる茂木書店のものと思われます。この店の後に、坂下からニューマヤが移ってきました。
 書店の下にチラリと半分だけ見えている看板は、塩瀬か柏屋のように思えますが、もう確認できません。

神楽坂 昭和34年頃。新宿歴史博物館 ID 7002

記憶の中の神楽坂 かぐらむら 今月の特集 記憶の中の神楽坂



柿の木横町

文学と神楽坂

 揚場町と下官比町との間を柿の木横町と呼んでいました。その南角、つまり、おそらくブックオフがある所(下図)に、柿が一本立っていました。市電ができる時に、つまり明治38年(1905年)以前に、この柿は伐採されましたが、ほかの蜂屋柿の写真を見ても、この柿の実は、かぞえ切れないほどの量だったと思います。

蜂屋柿

Google

 東陽堂の『東京名所図会』第41編(1904)では

●柿の木横町
かき横町は揚場町と下官比町との境なる横町をいふ。其の南角に一株の柿樹あるを以て名く。現今其の下に天ぷらを鬻げる小店あり。柿の木●●●と稱す此柿の樹は色殊に黒く。幹の固り三尺餘高さ三間半。常に注連縄を張りあり。
柿の木横町一に澁柿横町●●●●ともいふ。この樹澁柿を結ぶを以てなり。相傳へて云ふ。徳川三代の將軍家光公。この柿の枝に結びたる實の赤く色づきて麗しきを。遠くより眺望せられ。賞美し給ひしより。世に名高くなりたりと。但この樹のある處は舊幕臣蜂屋●●何某の邸にて。何某いたくこの樹を愛したり。後世此樹に結ぶ實と。同種類の柿の實を蜂屋柿●●●といふとあり。因て嘉永五年の江戸の切繪圖を檢するに。蜂屋半次郎と見ゆ。即ち其の邸宅の跡なりしこと明かなり。

昭和5年「牛込区全図」

[現代語訳]柿の木横町は揚場町と下官比町との境の横町である。その南角に一株の柿の木があり、これが名前の由来である。現在、この下に天ぷらを揚げる小さな店ができている。この柿の木は色は殊に黒く、幹の周りが1メートル以上、高さは6.4メートル。絶えずしめ縄を張っている。
 柿の木横町一番地は渋柿横町ともいう。この木は渋柿を作るためだ。言い伝えられてきた話だが、徳川家光三代将軍が、この柿の枝になった実が赤く色づき麗しいと、遠くから眺めて賞美し、これで世の中に名高くなったという。この木の生えた場所は、かつての幕臣蜂屋氏の邸で、氏はいたくこの樹を愛したという。後世にこの木に結ぶ実と同種類の柿の実を蜂屋柿といっている。そこで嘉永五年の江戸切絵図を調べると、蜂屋半次郎という名前が見えた。すなわち、その邸宅の跡とは明らかだったという。
鬻ぐ ひさぐ。ひさぐ。売る。商いをする。
注連縄 一般的には聖域を外界から隔てる結界として使う縄
相伝 代々受継ぐこと。代々受伝えること。
蜂屋柿 はちやがき。柿の一品種。岐阜県美濃加茂市蜂屋町原産の渋柿。果実は長楕円形で頂部がとがる。干し柿にする。

 新宿歴史博物館の「新修新宿区町名誌」(平成22年)でも同様な説明があります。

揚場町(中略)  また、下宮比町との間を俗に柿の木横丁といった。この横丁の外堀通りとの角に、明治時代まで柿の大樹があり、神木としてしめ縄が張ってあった。三代将軍家光が、この柿の木に赤く実る実が美しいのを遠くから見て、賞賛したので有名になり、そのことから名付いたという。この柿は旗本蜂屋半次郎の敷地内にあったもので、蜂屋柿ともいったが、ここが蜂屋柿の名称発祥地といえる。蜂屋柿は渋柿なので、渋柿横丁ともいった。この柿の木は、外堀通りに市電(のちの都電)が敷設される時に道路拡張が行われ、伐り払われたという(町名誌)。
蜂屋柿の名称発祥地 現在の名前は岐阜県の蜂屋町から来たもので、違うと思います。
外堀通りに市電(のちの都電)が敷設 Wikipediaによれば、明治38年(1905年)に、外濠線東竹町(竹町)から神楽坂(神楽坂下)までが開業。

 夏目漱石氏の『硝子戸の中』21では、「柿の木横町」が出てきます。

 彼等は築土つくどりて、かきよこ町から揚場あげばて、かねて其所そこ船宿ふなやどにあつらへて置いた屋根やねぶねに乗るのである。

屋根船 屋根板がいてある小船。大型の屋形やかたぶねと区別した江戸での呼称。やねぶ。

 また『神楽坂通りを挾んだ付近の町名・地名考』では、こうなります。これは江戸町名俚俗研究会の磯部鎮雄氏が書いたもので、新宿区立図書館の『神楽坂界隈の変遷』(1970年)に載っています。

 この横町は明治になって下宮比町1番地と揚場町8番地の境となる。明治29年東京郵便図をみると女子裁縫専門学校の左側の横丁で、切図をみると蜂屋半次郎とある。今の水道局神楽河岸営業所の前の横丁に当る。東京名所図会に、この樹に結ぶ実と同種類の柿の実を蜂屋柿という、とあるがここの柿は屋敷名が偶然蜂屋氏に当るだけで、蜂屋柿の産地はここではなく、美濃国各務郡蜂屋村に産する柿をいう。渋柿ではあるが皮を剥き、つるし柿として絶品である。

東京郵便図 略して郵便地図や逓信地図、正確には「東京市牛込区全図」。新宿区「地図で見る新宿区の移り変わり・牛込編」(326頁)でも載っており…

水道局神楽河岸営業所 下記を参照

牛込停留場と停車場

 停留場と停車場、簡単には駅。でもこの2つ、どう違うの。

停留場は路面電車、市電、都電

 現在も都電が停車し、客が乗降する場所は停留場と呼びます。バスではバスの停留になります。

停車場は鉄道(省鉄、国鉄、JR線など)

 こちらは停車場。簡単に言えば、駅。しかし、昔は停留所と停車場、この2つを正確に言わないと分からなかったのです。

ちなみに見附は

 なお、見附とは江戸城の外郭に構築された城門のこと。牛込見附も江戸城の城門の1つで、この名称は城門に番所を置き、門を出入りする者を見張ったことに由来します。外郭は全て土塁で造られており、城門の付近だけが石垣造りでした。

 しかし、この牛込見附という言葉は、市電(都電)外濠線の「牛込見附」停留所ができるとその駅(停留所)も指し、さらにこの一帯も牛込見附と呼びました。大正時代や昭和初期には「牛込見附」は飯田駅に近い所にあった「城門」ではなく、神楽坂通りと外堀通りの4つ角で、市電(都電)の「牛込見附」停留所の周辺辺りを「牛込見附」と呼んだほうが多かったと思います。

鉄道

昔の「牛込駅」。線路が変に曲がっていますが、牛込駅があったため


焼餅坂

文学と神楽坂

 焼餅坂やきもちざかは新宿区山伏町と甲良町の間を西に下って、柳町に至る、大久保通りの坂です。場所はここ

 焼餅坂について区の標柱はなく、代わりに巨大な道標があります。ちょうど坂上にあがる直前です。大久保通りは都道(都道25号飯田橋石神井新座線)なので、区ではなく都が作ったものでしょう。そこにはあまりよく読めない説明も書いてあります。

焼餅坂の標識 この辺りに焼餅を売る店があったのでこの名がつけられたものと思われる。別名赤根坂ともいわれている。新撰東京名所図会に「市谷山伏町と同甲良町との間を上る。西の方柳町に下る坂あり、焼餅坂という。即ち、岩戸町箪笥町上り通ずる区市改正の大通りなり」とある。また、「続江戸砂子」 「御付内備考」にも、 焼餅坂の名が述べられている。

 石川悌二氏が書いた『東京の坂道』(新人物往来社、昭和46年、1971年)によれば

焼餅坂(やきもちざか)

赤根坂ともいう。市谷山伏町と市谷甲良町の境、旧都電通りを東から西へ下る。「続江戸砂子」に「やき餅坂 本名赤根坂、此所にやき餅をひさぐ店あり」と記し、「府内備考」の町書上には「一坂 高凡四十間、巾四間程、右坂の儀は町内北の方往還にこれあり、焼餅坂と相唱候へ共、何故焼餅坂と申候哉、申伝等御座なく候」とある。坂辺に焼餅を売っていたのはよほどむかしのことらしい。明治時代中期における市区改正で、坂の道幅をひろげ傾斜をゆるくしたので現今のような道になったが、近年、都電が撤廃されて自動車の交通量が激増したために、坂下の柳町は排気ガス公害の多発地域として注目を集めるに至った。


旧都電通り 現在、名前は大久保通りに変わりました。
排気ガス公害の多発地域 牛込柳町鉛害事件のこと。昭和45年5月、民間の医療団体が新宿区牛込柳町の交差点付近の住民について健康診断を行い、多くが鉛中毒にかかっている疑いがあり、その鉛は排ガスに由来していると発表しました。その後、都の調査で、ほとんど心配はいらないと判明し、しかし、ここから、ガソリンの無鉛化、鉛の環境基準、大気汚染防止法の常時鉛排出の規制、自動車排出ガスの鉛の許容限度を設定。

柳町の交差点

かつてあった交差点上の信号機

 また住宅地の中のそれほど広くない道路(大久保通りと外苑東通り)の交差点で、排気ガスが溜まりやすく、そのため信号機を大久保通りの南北の坂上に1台ずつ新たに配置。ウィキペディアでは「市谷柳町交差点へ向かう手前数百メートル離れた場所に信号機が設置された。これは大気汚染を防ぐため、市谷柳町交差点で停止する自動車などを減らすために設置された、まれな信号機」で、近くに横断歩道はなく、信号機しかなかった。しかし、2015年9月、この信号機は廃止、翌月撤去。外苑東通りの拡張予定と、柳町交差点も大きくする予定があり、これに関係する可能性も。

 昭和51(1976)年の新宿区教育委員会の「新宿区町名誌 地名の由来と変遷」では

 市谷甲良町との境で、市谷柳町交差点に下る坂を俗に焼餅(やきもち)といった。焼きもちを売る店があったからである。「江戸砂子」には、もと赤根坂といったとある。赤根とはのことで、染料植物である。これを裁培していたので名づいたという。田山花袋は、その近くの市谷甲良町に住んでいたので、その作品「東京の三十年」の中には、このあたりのようすが出ている。

 あかね。アカネ科のつる性多年生植物で、根は乾燥すると赤黄色から橙色となり、赤い根なのでアカネに。根を煮た汁にアリザリンがあり、これで古くから草木染め(茜染)を行っています。その色は茜色に。
東京の三十年 田山花袋の大正6年の作品。詳しくはここで。実はやきもち阪と麹坂についてあっさり書いているだけです。

 歴史・文化のまちづくり研究会編『歩いてみたい東京の坂』(地人書館、1998年)ではさらに細かく説明しています。

焼餅坂(やきもちざか、赤根坂)
(1)所在地
 この坂の形は少し変わっており、大ざっぱには「大久保通り」を柳町から、山伏町と甲良町の間を東に上がる。
 坂下は「大久保通り」と「外苑東通り」の交差点から「外苑東通り」を北へ数十歩のところにある。
 そこから「大久保通り」に向かい東に少し上がったところが坂上である。
(2)特徴
 坂上から、坂下の途中までは広い幅員の道路で、両側にはゆったりと歩ける歩道が設けられている。
 一般的には、「大久保通り」をそのまま素直に下りきって「外苑東通り」にぶっかるところが坂下になるのだろうが、どういう訳か途中から狭くて暗い路地のようなところを行かなければならない。
 なぜこのような形になってしまったのだろう?道路の拡幅などと関連があるのだろうか?
 昔は、もっと急な坂だったようで、明治の市区改正で坂の道幅を拡げ、傾斜を緩くしたそうだ。とはいえ、自転車を押しながら坂を上る人を見るにつけ、あなどれないぞと思ってしまう。
 大通りの歩道には、緑豊かな街路樹、特に坂の北側の歩道には石垣もあり、なんとなく由緒ある坂に思えてくるのが不思議である。また車が多いにもかかわらず心地よい坂である。
(3)由来
「続江戸砂子」には、「やき餅坂 本名赤根坂 此所にやき餅をひさぐ店あり。」と記されていることから、「焼き餅」が名前の由来らしい。
「府内備考」の町書上にも焼餅坂の名称は出てくるが、そのなかで名前の由来については「…申伝等御座なく候」とあり、焼き餅屋さんがあったのは、かなり昔に遡るらしい。
 坂に名前がつくほど評判の店だったのか、辺りには何もなく焼き餅屋さんが、ランドマークの役割を果たしていたのかは定かではないが、当時の庶民の間では、よく知られていたのだろう。
(4)周辺の状況
 坂上にある「大蔵省柳町寮」の建物のデザインが、歴史を感じさせる。坂を少し下ると、擬洋風(明治や大正の時代に、西洋館のモチーフを模倣して建てられた建築を「擬洋風建築」と呼んでいる。)の建物が見えてくる。「新・浪漫亭」という居酒屋である。
 坂を挟んで両側にはマンションが立ち並んでいるが、そのなかにあってユニークな建物が、違和感なく町並みにとけ込んでいるところが実に良い。
【街路樹かオブジェか】歩道の街路樹は珍しい樹種で、案内板には「ウバメガシ」とあるが、緑の量に驚いてしまう。低木の茂みの間から、こんもりした高木が突き出るようにして、巨大な緑の固まりが一定間隔に配置されている。いっそのこと、ウサギや犬の形に剪定して、オブジェにしたらもっと楽しくなるのに。
 しかし、この街路樹が、夏には涼しい木陰を提供してくれる。

暗い路地 明治20年の東京実測図で以前の柳町の地図と、赤で描いた現在の柳町の地図を出しました。現在の柳町の交差点は新道なのです。暗い路地のほうが旧道でした。市電(都電)の「柳町」ができるときに新道になりました。 0321 では昭和5年の『牛込区全図』を見てください。市電(都電)が走っている新道(青)があり、その北に昔ながらの旧道(赤)があります。 0335-2
大蔵省柳町寮 大蔵省印刷局柳町寮。2005年秋ごろに取り壊され、一時は駐車場に。現在は建築中。
新浪漫亭 大正14年、第一信用金庫本店として建設したもの。居酒屋「新浪漫亭」から、「かがり火」(下図)。現在は「セブンイレブン」とマンションに。
かがり火

『粋なまち 神楽坂の遺伝子』では

かがり火
 空襲を免れ、戦後は「柳町病院」として使用され、平成元(1989)年に飲食店に用途が変わった。店舗の入れ替わりはあるものの、80年以上にわたり商業施設として活用され続けているという、近傍では貴重な近代建築のひとつである。
 大久保通りと外苑東通りの交差点に近い斜面地に、南側短辺方向をファサードとして建つ。木造2階建て、一部地階である。1階は標記のレストランおよび同系列の菓子店が店舗と厨房を据え、2階は事務室・パントリー・店員控室等として利用されている。屋根は寄棟板金瓦棒葺きであるが、南・東・西面はパラペットを回し陸屋根様の意匠とする。特異なそのファサードには、房付きレリーフのある唐破風様のペディメントを頂点に、3本の半円形ピラスターが並ぶ。分割された壁面に縦長の窓が付く。非対称の塔部が内側に取り付き、5個のメダリヨンと花弁をあしらったレリーフが配される。窓の一部には、当初と思われる上げ下げ窓がそのまま残る。古典的な様式を大胆かつ自由に引用しながら、金融機関の旗艦店としての威厳と、大正ロマンを感じさせる美しさを醸し出した個性的な作品といえよう。
 室内は、水廻りや厨房に関連して大きく改装されているが、2階大食堂の型押しされた塗装鉄板天井や卵鏃飾りが彫り出された木製廻縁、数段に面取りがされた幅広の窓枠等、擬洋風の意匠が散見される。また2階事務室の天井は折り上げ格天井に竿縁網代張り合板を組み入れたユニークな造りとなっている。
 最初に飲食店に模様替えされた時に内外部ともに改変が加えられているが、外観の改修は西側のサイディング部が中心であり、文化財としての価値を減ずるものではないといえる。
 かがり火は、設計者は不詳ながら大正末明の自由な建築思潮を体現した貴重な遺構であるとともに、一貫して活用され続けてきた地域のランドマーク的な建築物のひとつということができる」

ファサード 建築物の正面
菓子店 Füssenです
パントリー 食料品や食器類を収納・貯蔵する小室。pantry
寄棟 よせむね。屋根の形式。四つの面から構成
板金 ばんこん。薄くのばした金属の板
瓦棒葺き かわらぼうぶき。金属板を用いて屋根を葺くときの1方法
パラペット 建物の屋上や吹抜廊下などの端の部分に立ち上げられた小壁や手摺壁
陸屋根 ろくやね。フラットな屋根
レリーフ 浮き彫り
唐破風 からはふ。曲線状の破風で、中央部は弓形で,左右両端が反りかえった形
ペディメント 切り妻屋根で、妻側屋根下部と水平材に囲まれた三角形の部分
ピラスター 壁面より浮き出した装飾用の柱
メダリヨン メダリオンとも。肖像や紋章、銘文などで浮き彫りがある大型のメダル
卵鏃飾り らんぞくかざり。卵とやじりを交互に連続させた模様
廻縁 まわりぶち。壁と天井の取り合い部に用いられる見切部材
擬洋風 明治時代初期に西洋の建築を日本の職人が見よう見まねで建てたもの
竿縁 さおぶち。天井板を竿と称する部材で押さえて天井を張るやり方
網代張り あじろばり。縁を反り返らせた赤塗りの陣笠を張ること
サイディング 建物の外壁に使用する,耐水・耐天候性に富む板。下見板
ランドマーク 山や高層建築物など,ある特定地域の景観を特徴づける目印