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船河原橋|東京の橋

文学と神楽坂

 石川悌二氏が書いた『東京の橋』(昭和52年、新人物往来社)の「船河原橋」についてです。氏は東京都公文書館主任調査員として勤務し、昭和48年に「近代作家の基礎的研究」を刊行し、「江戸東京坂道辞典」「東京の橋」などを執筆。生年は1916年8月24日 、没年は1987年。享年は70歳か71歳です。「船河原橋」では……

 船河原橋(ふながわらばし) 新宿区下宮比町から東へ文京区後楽二丁目に渡されている鉄筋コンクリート橋。旧橋はやや上手に江戸川へ架されていて、寛文の江戸図では「どんどばし」と記されており、正保の絵図にはないので神田川開さくのあとほどなく創架されたと思われる。

やや上手に 江戸時代の船河原橋を2枚、明治早期は3枚、明治後期と大正時代2枚。さらに昭和51年と現在の地図。
牛込橋と船河原橋

新板江戸外絵図。

台紙に「東京小石川遠景」と墨書きがある。牛込見附より小石川(現飯田橋)方面を望んだ写真らしい。明治5年頃で、江戸時代と殆ど変化がないように思える。遠くに見える橋は俗称「どんと橋」と呼ばれた船河原橋であろう。堰があり手前に水が落ちている。しかし水 位は奥の方が低く、水は奥へと流れているらしい。堀は外堀である飯田堀で、昭和47年、市街地再開発事業として埋め立てられ、ビルが建った。内川九一の撮影。六切大。(石黒敬章編集「明治・大正・昭和東京写真大集成」(新潮社、2001年)

明治16年、参謀本部陸軍部測量局「五千分一東京図測量原図」(複製は日本地図センター、2011年)

大正8年頃。飯田橋と牛込区筑土方面遠望。右は船河原橋。左は飯田橋

昭和56年。地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。386頁

Yahoo!地図

寛文の江戸図 新板江戸外絵図。寛文五枚図の外周部にあたる4舗。寛文11-13(1671-1673)刊

正保年中江戸絵図

正保の絵図 正保年中江戸絵図。正保元年(1644)か2年の江戸の町の様子。国立公文書館デジタルアーカイブから

正保元年(1644)か2年の江戸の町の様子。国立公文書館デジタルアーカイブから

開さく 開鑿。開削。土地を切り開いて道路や運河を作ること。
創架 新たに上にかけ渡す。架橋

新撰東京名所図会には「船河原橋は牛込下宮比町の角より小石川旧水戸邸、即ち今の砲兵工廠の前に出る道路を連絡する橋をいう。俗にドンド橋あるいは単にドンドンともいう。江戸川落口にて、もとあり、水勢常に捨石激してそうの音あるにる。此橋を仙台橋とかきしものあれど非なり。仙台橋は旧水戸邸前の石橋の称なるよし武江図説に見えたり。旧松平陸奥守御茶の水開さくの時かけられしに相違なしという。」と述べ、この橋下を蚊屋かやが淵と称したことを「蚊屋が淵は船河原橋の下をいう。江戸川の落口にて水勢急なり。あるいは中之橋隆慶橋の間にて今大曲おおまがという処なりと。江戸砂子に云う。むかしはげしきしゅうとめ、嫁に此川にて蚊屋を洗わせしに瀬はやく蚊屋を水にとられ、そのかやにまかれて死せしとなり。」と伝えている。
新撰東京名所図会 雑誌「風俗画報」の臨時増刊として、明治29年(1896)9月から明治42年3月にかけて、東京の東陽堂から刊行された。上野公園から深川区まで全64編、近郊名所17編がある。明治時代の東京の地誌が記されており、地名由来をはじめ、地域の名所としての寺社などが図版や写真入りで記されている。
砲兵工廠 ほうへいこうしょう。旧日本陸軍の兵器、軍需品、火薬類等の製造、検査、修理を担当した工場。1935年、東京工廠は小倉工廠へ移転し、跡地は現在、後楽園球場に。
道路 現在は外堀通り
ドンド橋 船河原橋のすぐ下に堰があり、常に水が流れ落ちて、どんどんと音がしたので「とんど橋」「どんど橋」「どんどんノ橋」「船河原のどんどん」など呼ばれていた。
江戸川 ここでは神田川中流のこと。文京区水道関口の大洗堰おおあらいぜきから船河原橋ふながわらまでの神田川を昭和40年以前には江戸川と呼んだ。
落口 おちぐち。滝などの水の流れの落下する所
 せき。水をよそに引いたり、水量を調節するために、川水をせき止めた場所。
捨石 すていし。土木工事の際、水底に基礎を作ったり、水勢を弱くしたりするために、水中に投げ入れる石。
激して 激する。げきする。はげしくぶつかる。「岩に激する奔流」
淙々 そうそう。水が音を立てて、よどみなく流れるさま
仙台橋 明治16年、参謀本部陸軍部測量局の東京図測量原図を使うと、下図の小石川橋から西にいった青丸で囲んだ橋が仙台橋でしょう。

武江図説 地誌。国立国会図書館蔵。著者は大橋方長。別名は「江戸名所集覧」
開さく 開鑿。開削。土地を切り開いて道路や運河を作ること。
蚊屋 かや。蚊帳。蚊を防ぐために寝床を覆う寝具。
中之橋 中ノ橋。なかのはし。神田川中流の橋。隆慶橋と石切橋の間に橋がない時代、その中間地点に架けられた橋。
隆慶橋 りゅうけいばし。神田川中流の橋。橋の名前は、秀忠、家光の祐筆で幕府重鎮の大橋隆慶にちなむ。
大曲り おおまがり。新宿区新小川町の地名。神田川が直角に近いカーブを描いて大きく曲がる場所だから。
江戸砂子 えどすなご。菊岡沾涼著。6巻6冊。享保17 (1732) 年刊。地誌で、江戸市中の旧跡や地名を図解入りで説明している。
はげしき 勢いがたいへん強い。程度が度を過ぎてはなはだしい。ひどい。

「どんど」「どんどん」などは水音の形容からきたもので、同じ江戸川の関口大洗堰おおあらいぜきのことも「どんど」と呼んでいたし、また大田区の道々橋は「どうどう橋」が本来の呼び方でこれも水音から起った名であろう。江戸川は上流の大洗堰からこの船河原橋までが、旧幕時代のお留め川(禁漁区)で有名な紫鯉が放流されていたが、どんどんから下へ落ちた魚は漁猟を許したので、ここの深瀬は釣人でにぎわったと伝えられる。

関口 文京区西部の住宅商業地区。山手台地に属する目白台と神田川の低地にまたがる。
大洗堰 神田上水の取水口のこと。せきとは水をよそに引いたり、水量を調節するために、川水をせき止めた場所。目白台側の神田上水に取水され、余った水が落ちて流れて江戸川(神田川)となっていた。
お留め川 おとめかわ。河川,湖などの内水面における領主専用の漁場
紫鯉 頭から尾鰭までが濃い紫の色をした鯉

 いざ給へと小車の牛込を跡になしつつ、舟河原橋はいにしえのさののふな橋ならで、板おおくとりはなして、むかしながらの橋ばしらゆるぎとりて、あらたにたてわたしてなんとすなる。(ひともと草
 関口のより落つるどんど橋(諧謔)
 船河原橋にて、電車を下りて築土八幡に至る。せせこましき処に築土八幡と築土神社との二祠並び立ち、人家もあり、樹木も高くなり過ぎて矚望しょくぼうを遮りたるが、これらの障害なくば、ここは牛込台の最端、一寸孤立したる形になりて四方の眺望よかるべき処なり。(大町桂月「東京遊行記」明治39年)
 現橋は昭和45年竣工のコンクリート橋で橋長21.1メートル、幅24.1メートル。

いざ給へ 「さあ、いらっしゃい」「さあ、おいでなさい。」の意味。相手を誘い、行動を促す。
さののふな橋 佐野の舟橋。群馬県高崎市佐野を流れる烏川にあった橋。「舟橋」は、舟を横に並べ、板をわたしたもの。
橋ばしら 橋柱。橋桁(はしげた)を支える台。 橋脚。 橋杭。
ゆるぎ 揺(る)ぎ。ゆるぐこと。動揺。不安定。
たてわたす 立て渡す。一面に立てる。立て並べる。
すなる するという、すると聞いている
ひともと草 寛政11年(1799年)、大田南畝などの25人の和文をまとめたもの。
 みね。峰、峯。嶺。山のいただき。山の頂上のとがったところ。物の高くなっている部分。
せせこましい 場所が狭くてひどく窮屈な感じ。
矚望 「矚」(しょく)はみる、注視する。「望」(ぼう)は、遠く見る。国立国会図書館デジタルコレクションの「東京遊行記」では460頁

川柳江戸名所図会⑧|至文堂

文学と神楽坂

 早稲田とミョウガについて。

早 稲 田

神田上水の流域の低地は、農地となっていたものであろう。
  押合目白茶屋で見る早稲田  (四六・32)
目白の高台にある不動参詣者が、田圃を見下ろす。
 この辺りは茗荷の名産地であった。
   早稲田の畑槃特が墓のやう           (八九・38)
   はんどくの墓所目白の近所也          (四二・12)
 槃特は周利槃特といい、釈迦の弟子の一人。魯鈍な男で、この男の死後、墓から生えたのが茗荷で、茗荷を食うと物忘れするとか、馬鹿になるとかいう。
   関口は馬鹿になる程作るとこ          (三七・3)
 関口辺りも作ったらしい。
   鎌倉の波に早稲田の付ヶ合せ          (一二九・28)
 鰹の刺身に茗荷の付け合わせ。
   馬鹿な子の出来る早稲田の野良出合       (一一八・21)
   馬鹿で芽をふく早稲田の也         (一〇二・22)
   はんどく文珠尻からげ          (宝十松3)
 前句は「さま/”\な事」。諺に「槃特が愚痴も文珠の智恵」という。愚者も智者も等しく仏果を得るということであるが、さて此句は、槃特は悠々としていて、文珠は獅子に乗ったりして忙しく走り廻るようすを言ったものか、または植物の若荷に対し、何か文珠にたとえられる植物があって、諺をふまえての対比をねらったものか、よくわからない。

神田上水 徳川家康が開削した日本最古の上水道。水源は井の頭池、善福寺池、妙正寺池の湧水。この水を大洗堰 (文京区関口) によりせき止め、小石川後楽園を経てお茶の水堀の上を木樋で渡し、神田、日本橋方面に供給。1898年淀橋浄水場開設に伴い、1901年一般への給水を停止。
押合 押し合う。押合う。両方から互いに押す。
目白 ここは文京区目白台でしょう。図を。

文京区目白台

茶屋 ちゃや。旅人が立ち寄って休息する店。掛け茶屋。茶屋小屋。茶店
不動 かつて目白不動で有名な新長谷はせでらが現在の関口二丁目にあり、 徳川家光がこの地を訪れた際に、城南の目黒に対して「目白とよぶべし」といわれたという。
茗荷 ミョウガ。ショウガ科の多年草。食用。園芸用。薬用

槃特はんどく周利槃特 しゅりはんどく。釈迦の弟子の一人で、自分の名前も覚えられないほど愚かな人間だった。
釈迦 しゃか。仏教の開祖。現在のネパール南部で生まれた。生年は紀元前463~383年から同560~480年など諸説ある。
魯鈍 ろどん。愚かで頭の働きが鈍いこと。
関口 文京区西部の住宅商業地区。山手台地に属する目白台と神田川の低地にまたがる。
鎌倉の波 「鎌倉の波」がどうして「鰹の刺身」になるのか、わかりません。代表的な一品をあげたのでしょうか。
野良 田や畑
出合 であい。男女がしめし合わせて会うこと。密会。出合い者は、出合い宿で売春をする女。
芽をふく を吹く。草木が芽をふく。物事が成長・発展するきざしを見せる。
 イク。そだつ。そだてる。はぐくむ。そだてる。成長する。
文珠 文殊。文珠。もんじゅ。大乗仏教で菩薩の1人。釈尊の入滅後に生れた人物で、南インドで布教活動。普通には普賢菩薩とともに釈迦如来の脇侍として左脇に侍し、獅子に乗る形にも造られる。
尻からげ 尻絡げ。着物の後ろの裾をまくり上げて、その端を帯に挟むこと。尻はしょり。尻端折り。
仏果 仏道修行の結果として得られる、成仏という結果。