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上り下りも世につれて…(昭和51年の読売新聞)

文学と神楽坂

昭和51年(1976年)8月15日の読売新聞「都民版」から

読売新聞。

読売新聞。昭和51年8月16日

読見出し 読売新聞のイラスト 読おっとり 読巻き返し 読きら星 読メモ

 町は時代とともに変わる。大正年間の歓楽境・神楽坂も、今は一見平凡な商店街。裏通りにひしめく料亭が、わずかに昔日の〝栄華〟をしのばせる。「このまま〝下り坂〟はごめんだ」と町の誰もが考えるが、具体的な巻き返し策は暗中模索中。かつてのファンならずとも〝坂〟の針路は大いに気にかかる。

おっとり 商い模様    坂と待合

国電飯田橋駅の西口を出て右に坂を下ると外堀通り。この通りを渡れば、もう神楽坂の登り口だ。
 現在、神楽坂の地名は1~6丁目まで。大久保通りをはさんで約八百メートル続くが、本来の神楽坂は、登り口から約三百メートルの傾斜部分。登り切ってからの〝平地〟部分は、昭和二十六年の町名変更まで上宮比(かみみやび)(さかな)通寺町などの地名がついていたが、付近一帯に料亭、商店、映画館が発達してにぎわったため、〝神楽坂〟と〝総称〟していた。
 現在の神楽坂通りの道幅は、歩道も含めて十二メートル弱。これは神楽坂が最も繁栄した大正、昭和初期のころと変わっていない。
 神楽坂の登り口のすぐ右角にある小さなシャツ屋。関東大震災前は足袋(たび)を売っていた。少し上の文房具店は、文士相手の紙屋。その上のおしるこ屋の前身はすし屋。それと小路をはさんで向かい側の理髪店、斜め向かい側のくつ店なども大震災前からの老舗(しにせ)――というように、神楽坂1~5丁目まで、通りに面した百十三軒の店舗のうち三十余軒が、明治、大正年間から生き残っている。これは、付近一帯の地盤が固く、関東大震災の被害も、比較的軽かったためだ。
 かもじ屋、車屋、小間物屋、スダレ屋、筆屋、(あめ)屋、メイセン屋半えり屋、三味線屋……。大正時代の神楽坂の地図には懐かしい職種がズラリと載っているが、時代の流れで現在は消えた商売も多い。
 神楽坂通りを歩いて抜けるのに十分とかからない。現在、通りの両側には、レストラン、パチンコ店、銀行、文具店、呉服店、洋品店、洒店、書店、雑貨店、食料品店と、店舗はひと通りそろっている。いずれの店も、間口は小さく、ほとんど二階建て止まり。
 それでも、ホッとした気分になるのは、万事オットリしたふんい気だからだろう。一方通行で車が少ないこと、アーケードがないからゴテゴテした飾りつけがないこと、デパート、スーパーがなく高級専門店が多いこと――などが原因だ。「東京の真ん中にこんな静かな所があったんですかって、よそから来たお客様がよく言われます」――創業百三十年の洒店「万長」の社長、馬場敏夫さん(四八)。

約三百メートル 約300mは「神楽坂下」交差点から毘沙門まで。「神楽坂下」交差点から最高地点の丸岡陶苑は約200m
上宮比町 肴町 通寺町 それぞれ神楽坂4丁目、5丁目、6丁目です。
シャツ屋 外堀通りの赤井商店です。現在はありません。
文房具店 山田紙店のこと。平成28(2016)年9月に閉店しました。
おしるこ屋 紀の善のこと。
理髪店 バーバーBankokukanや理容バンコックなどでしょう。しかしこの理容店はどうも新しくここにできたもののようです。神楽坂の他の場所からきたのでしょうか。
くつ店 オザキヤのこと
かもじ屋 入れ髪の店舗。かもじとは、日本髪を結うときに、地髪が短くて結い上げられない場合に使用する添え髪のこと。
小間物屋 日用品・化粧品・装身具・袋物・飾り紐ひもなどを売る店。
メイセン屋 銘仙屋。玉糸・紡績絹糸などで織った絹織物を売る店。
半えり屋 半衿屋。襦袢(じゅばん)(えり)にかぶせる布を売る店

沈滞続きの〝真空地帯〟  目下は未来像模索    巻き返し

「ドーナツ現象とは良く言ったもんですなァ」――創業三百年以上の文房具店(むかしは紙屋)「相馬屋」店主、長妻靖和さん(42)は頭をかく。山手線の()円の中心にあるのが国電飯田橋駅と神楽坂。山手線の中心なら東京の中心ということになる。でも、山手線上にある新宿、渋谷、池袋、有楽町・銀座、上野などが、広い通り、高層ビル、大型店舗で際限なくふくれ上がっているのに比べ、盛り場として大先輩の神楽坂は、ごく普通の商店街の域を出ない。周辺に厚みがついて真ん中に空洞現象が起きている、と長妻さんはいうのだ。
 なぜ〝後輩〟に後れをとったのか。遠くからの客をひきつける劇場、デパート、公園がない。通りの周辺は住宅地で人口密度が低いから客層が薄い。それに商店のほとんどは自分の土地で商売しているから、借地、借家の商店のようにガツガツもうける必要がない。それに大型店舗が進出したくても、地主が細分化され過ぎているから買収しにくい。言い換えれば、われわれ自身が町を改造したくとも身動きがとれない」と、長妻さんは指摘する。
 このままではジリ貧――という不安が、現在の商店街全体を覆っている。「でも、どうすれば良いのか、確たる目標が定まらない。毘沙門(びしゃもん)様と花柳界が神楽坂の特色だから、この二つを活用して何とかなりませんかね」(馬場さん)。
 大正時代、神楽坂発展の刺激となったのは、市電など交通網の発達。それ以降、たいした刺激を受けなかった神楽坂の周辺に大きな変化が起こりつつある。都営地下鉄十二号線(豊島園-新宿-六本木-両国-春日町-新宿)営団地下鉄七号線(目黒-赤羽)の建設予定の地下鉄二新線が神楽坂にとまるほか、坂下の神楽河岸には、都の飯田堀開発事業として、十五、二十階建ての二つの高層ピルが建設される。「今後三、四年のうちに神楽坂には大きな変化が来る」とだんな衆は期待している。

花柳界 かりゅうかい。芸者や遊女の社会。遊里。花柳の(ちまた)
都営地下鉄十二号線 大江戸線です。平成3年(1991年)12月に開業。
営団地下鉄七号線 南北線です。平成3年11月に開業。
飯田堀開発事業 昭和40年代半ば、水の汚濁が顕著となり、飯田堀を埋め立てしようと、市街地再開発事業の対象に。昭和53年、事業に着手。昭和59年(1984年)、建築工事が完了。昭和61年(1986年)、街路整備工事も完了。
高層ピル 飯田橋ラムラです。昭和59年に完成。

☆〝きら星〟ワンサと ☆   文士の町

神楽坂の最盛期は、大正年間から昭和初期まで。通りの両端=神楽坂下と肴町(現在の神楽坂五丁目)=に市電が発着して、商業地域へ発展した。南に陸軍士官学校(現在の陸上自衛隊市ヶ谷駐とん部)、西に早稲田大学があって、軍人、学生が年中遊びに来たが、一番の特徴は、文士、画家、俳優など有名、無名の芸術家のたまり場だったこと。
 菊池寛早稲田南町に住み、毎晩、夕涼みがてら神楽坂に現れた。「いつも女連れで、しかも毎日、相手が違っていた。商売柄すごいもんだ、とこっちは感心してながめてましたよ」=神楽坂通り商店会・石井健之会長(六三)=。
「芸者が丸帯(ねこ)じゃらしにしめた姿をみて、菊池寛が〝(ねえ)さん、ほどけてますよ〟と注意したところ、〝いけ好かない野暮天〟とどなりつけられた」(新宿区立図書館編さん「神楽坂界隈の変遷」より)……など、菊池寛にまつわるエピソードは多い。
 ご当地ソングのはしりみたいな「東京行進曲」を作詞した西条八十は、払方町住人だった。「最初、あの歌が発表されたとき、どうしたわけか神楽坂が抜けていた。商店会の副会長だったうちのオヤジが、〝すぐそばに住んでいるくせに、神楽坂を無視するなんてひどいじゃないですか〟と文句を言いに行ったら、八十は〝すまん、忘れてた〟といって、三番の歌詞に神楽坂をつけ加えてくれた」(石井さん)。
 与謝野鉄幹、晶子夫妻は五番町から散歩に来て、夜店で植木を貿って行った。また、現在も善国寺毘沙門天わきで開店しているレストラン「田原屋」の常連は、夏目漱石(早稲田南町)、長田秀雄吉井勇菊池寛水谷八重子佐藤春夫サトウハチロー永井荷風(余丁町)、今東光(白銀町)、今日出海らだった。
 このほか、大正年間、神楽坂と周辺の牛込、早稲田地区に住んでいた文士たちは枚挙にいとまがない。カッコ内は現在の地名。
▽井伏鱒二=早稲田鶴巻町▽宇野浩二=袋町▽小川未明=早稲田南、矢来町など転々▽小栗風葉=矢来町▽押川春浪=矢来町、横寺町▽尾崎紅葉=横寺町▽片岡鉄兵=神楽町(神楽坂)▽金子光晴=赤城元町▽加能作次郎=南榎町、早稲田鶴巻町▽川上眉山=矢来町▽川路柳虹=新小川町▽北原白秋=神楽町(神楽坂)▽窪田空穂=榎町▽島村抱月=横寺町▽相馬泰三=横寺町▽高浜虚子=市谷船河原町▽坪内逍遥=余丁町▽長田幹彦=神楽町(神楽坂)▽野口雨情=若松町▽広津和郎=神楽町(神楽坂)▽堀江朔=喜久井町▽正岡容=戸山町▽正宗白鳥=矢来町▽真山青果=払方町▽三上於莵吉=赤城下町▽三木露風=袋町▽山本有三=市谷台町▽若山牧水=原町、若松町など。

陸軍士官学校、早稲田大学 図を。陸軍士官学校は南に、早稲田大学は西にあり、現在も同じです。早稲田大学へは神楽坂までは明治初期は徒歩で、明治の終わりからは市電(都電)を使ってやって来ました。

早稲田と防衛省

早稲田と防衛省

早稲田南町 菊池寛氏は早稲田南町ではなく、大正7年3月から9月までの間、えのき町に住んでいました。新宿区立図書館の『神楽坂界隈の変遷』(1970年)によれば「早稲田南町の漱石旧宅から一町とは離れていない榎町の陋巷にあった」といいます。一町は約110m。陋巷とは「ろうこう。狭くむさくるしい町」。弁天町交差点のすぐ近くに住んでいたのでしょう。

榎町

榎町

丸帯 礼装用の女帯。丈は約4m。幅約68cmの広幅の帯地を二つ折りにして仕立てる。
猫じゃらし 男帯の結び方。結んだ帯の両端を長さを違えて下げたもの。帯の掛けと垂れの長さを不均等に結び垂らしたもの。揺れて猫をじゃらすように見えるところからいう。

猫じゃらし 男帯の結び方

野暮天 きわめて野暮な人。
どなりつけられた 実際には新宿区立図書館編纂の「神楽坂界隈の変遷」には、前にもう1つエピソードがあります。「菊池寛がだらしのないかっこうをしてがほどけて地べたにぶら下っていたので『帯がほどけていますよ』と注意された。翌年のお正月に芸者が出の着物に丸帯を猫ぢゃらしにしめた姿をみて菊池寛が『姐さん、帯がほどけていますよ』と注意して『いけ好かない野暮天』とどなりつけられたエピソードもこの頃のことだ」というものです。
東京行進曲 昭和4年に作曲。一番は銀座、二番は丸ビル、三番は浅草、四番は新宿を歌います。一番は「昔恋しい 銀座の柳 仇な年増を 誰が知ろ ジャズで踊って リキュルで更けて 明けりゃダンサーの 涙雨」

払方町 払方町は新宿区北東部に位置し、北東部は若宮町と、東部は市谷砂土原町と、南部は市谷鷹匠町と、西部は納戸町と、北西部は南町と接し、牛込中央通りが通過する。

払方町

払方町

三番の歌詞 どうも間違いのようです。現在の三番は浅草で、歌詞は「ひろい東京 恋ゆえ狭い 粋な浅草 忍び逢い あなた地下鉄 わたしはバスよ 恋のストップ ままならぬ」で、神楽坂は入っていません。B面は「紅屋の娘」で、紅谷の娘をモデルに使ったといいます。

メモ
地名のいわれ
 「坂の上に高田穴八幡社があり、祭礼の時、みこしが来て神楽を奏した」(新撰東京名所図絵)、「市谷八幡が祭礼のとき、みこしが牛込御門の橋の上にとまって神楽を奏した」(江戸砂子)――など諸説があるが、はっきりしない。
毘沙門天
 神楽坂通りの〝へそ〟。正式には日蓮宗鎮護山善国寺。毎月「五の日」(五、十五、二十五日)に縁日として夜店が出てにぎわう。四十六年十一月に本堂を新築したが、寄付をしたのが児玉誉士夫。寺の門柱に麗々しく児玉の名が刻まれており、「どうも弱りました」とだんな衆はニガ笑い。
阿波踊り
 五年前から夏の恒例行事。今年は先月二十三、四日に計三万人以上を集めた。本来は地下鉄十二号線の駅誘致のため、都庁向けに行ったデモンストレーションだったが、予想外の好評のため、定着してしまった。
花柳界
 江戸時代の神楽坂は私娼(ししょう)が多く、花柳界としては明治初めから盛んになった。大震災で神楽坂だけは無事だったため、客が殺到、昭和初期から戦争直前までが最盛期で、芸者約七百人。現在は百六十人。

新撰東京名所図絵 雑誌「風俗画報」の臨時増刊として、明治29年(1896)9月25日から明治42年3月20日にかけて、東京の東陽堂から刊行。上野公園から深川区まで全64編、近郊名所17編。明治時代の東京の地誌が記されており、地名由来をはじめ、地域の名所としての寺社などが図版や写真入りで記載。神楽坂は第41編(明治37年、1904)に登場
児玉誉士夫 昭和時代の右翼運動家。外務省や参謀本部の嘱託として中国で活動。16年、海軍航空本部の依頼で「児玉機関」を上海につくり物資調達に。20年、A級戦犯。釈放後、政財界の黒幕となり、51年ロッキード事件では脱税容疑で起訴。病気で判決は無期延期。公訴は棄却。生年は明治44年2月18日。没年は昭和59年1月17日で、死亡は72歳。
地下鉄十二号線 大江戸線です。
私娼 ししょう。公の許可がない売春婦
花柳界 芸者や遊女の社会。遊里。花柳の巷