日本の小説家、尾崎紅葉は結婚して明治24(1891)年3月から横寺町47番地の鳥居家の母屋に住んでいました。別名、十千万堂です。十千万堂は彼の号の1つです。これから没するまで13年間をこの家で過ごしました。有名な「金色夜叉」もここで書いています。門下生は泉鏡花、小栗風葉、徳田秋声、柳川春葉などが有名で、「葉門四天王」と呼ばれていました。
この場所は北から南に向かって入っていきます。
何もないので写真を付けておきます。左側、南側が行く方向です。
現在でも極めて寂しい場所です。その前に行くと、簡単な説明があります。平成28年、新しく説明文が変わっています。これは旧時代のもの。新しい説明文はここに。
では実際に住んでいた(今も住んでいるけれど)時にはこんな場所でした。

写真は泉鏡花記念館の「泉名月氏旧蔵 泉鏡花遺品展」から
ここを舞台にいろいろなことが起こりました。
門人 泉鏡花・小栗風葉 談話
○泉鏡花曰 …モウ田舎に帰らうと思ひましたが、それにしても、せめてお顔だけと存じましたに、お逢い下さいまして私は本望でございます。といひましたが、何だか胸がせまつてうつむいて了ひました。然うすると、まるで夢のやうです。お前も小説に見込まれたな、といつてお笑ひなすつて、具合が出来たら内においてやつてもよい…兎に角に世話はしやう、家に置くか、下宿屋に置くか、あした来な、それまでにきめて置くからと、おつしやツたのです。 明治36年11月「明星」
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明治文壇回顧録 後藤宙外
紅葉氏の横寺町の邸と云つても餘り立派なものではなかつた。當時の氏の社會上の地位や文名の高い割合から見れば、寧ろ氣の毒な程のもので、古ぼけた二階建の假屋に過ぎなかつた。それが横寺町の通りから少し南側へひつこんだところに極めて簡單な門があり、その右側の4寸角程の柱に尾崎德太郎の自筆の標札が見られ、突當りの左右が狭い板塀になつて、ほんの四坪ばかりの場所を圍み、門を入つて左側の塀際に、目通り径五六寸程の枝垂柳が一本あつたのである。……左へ直角に折れて玄關になるのである。格子戸を入ると、半坪程の土間につづく取次の間は、確か二疊であつたと思ふ。西向の極めて薄暗い陰氣な室であつた。この二疊の室で、鏡花、風葉、秋聲、春葉その他、明治大正の文壇を飾つた諸君が育成されたことを思ふと、実に尊い玄關であつたのである。 |
野田宇太郎氏の『アルバム 東京文學散歩』(創元社、1954年)では十千万堂跡がありました。