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神楽坂の地図と由来

文学と神楽坂

 神楽坂の地図と、路地、通り、横丁、小路、坂と石畳を描いてみました。

材木横丁 和泉屋横町 から傘横丁 三年坂 神楽小路横 みちくさ横丁 神楽小路 軽子坂 神楽坂通り 神楽坂仲通り 芸者新路 神楽坂仲坂 かくれんぼ 本多横丁 見返り 見返し 紅小路 酔石 兵庫 ごくぼそ クランク 寺内公園 駒坂 鏡花横丁 小栗横丁 熱海湯階段 見番横丁 毘沙門横丁 ひぐらし小路 藁店 寺内横丁 お蔵坂 堀見坂 3つ叉横丁



名前の由来は……
軽子坂 軽子がもっこで船荷を陸揚した場所から
神楽小路 名前はほかにいろいろ。小さな道標があり、これに
小栗横丁 小栗屋敷があったため
熱海湯階段 パリの雰囲気がいっぱい(すこしオーバー)。正式な名前はまだなし
神楽坂仲通り 名前はいろいろ。「仲通り」の巨大な看板ができたので
見番横丁 芸妓の組合があることから
芸者新路 昔は芸者が多かったから
三年坂 迷信から。神楽坂からはちょっと離れています
本多横丁 旗本の本多家から。「すずらん通り」と呼んだことも
兵庫横丁  兵庫横丁という綺麗な名前。兵庫町とは違います
寺内横丁 行元寺の跡地を「寺内」と呼んだことから
毘沙門横丁 毘沙門天と三菱東京UFJ銀行の間の小さな路地
地蔵坂 化け地蔵がでたという伝説から
神楽坂の通りと坂でさらに多くをまとめています







































 16/3/13->20/8/6->21/6/16

料亭「喜久川」(昔) 神楽坂4丁目

文学と神楽坂

 地元の人の話です。松川二郎氏の「全国花街めぐ里」(誠文堂、1929年) によれば、喜久川きくがわと読むようです。

神楽坂を代表する大料亭と言えば「松ヶ枝」と「喜久川」。自分で入ったことはなくとも、地元ではそれが常識でした。

政財界の要人に愛された松ヶ枝が多くの人の記憶に残るのは当然でしょう。しかし喜久川が、このブログの記事にほとんど出てこないのは残念なように思います。

喜久川の場所は4丁目の北西部、5丁目との境です。入り口は北側(白銀町側)。松ヶ枝同様に戦前から店を構え、戦後に大きくなったことが各種の地図で分かります。花街らしい風情と風格を兼ね備えた立派な門構えでした。廃業後、跡地は「神楽坂プラザビル」というオフィスビルになりました。ビルの完成は1992年11月です。

喜久川がビルになって、玄関前の道(注・和泉屋横町)の風情がなくなりました。それで、再開発されなかった近くの「兵庫横丁」が注目されるようになったと思います。神楽坂の路地ブームは、おおよそ1990年以降です。例えば昭和51年(1976年)の読売新聞の特集のイラストや記事は、路地に興味を示していません。

さて、写真は知りませんが、今に残る痕跡はあります。3丁目の見番手前の伏見火防稲荷神社玉垣の角柱は左が松ヶ枝、右が喜久川です。両者が奉加帳のトップとして、最も多額の寄進をしたことが分かります。

戦前から店を構え、戦後に大きくなった 実際に大きくなりました。1937年の地図では「御木(待)」と一緒になっています。

1937年火災保険特殊地図から1984年の住宅地図。

玉垣の角柱は左が松ヶ枝、右が喜久川です 写真を参照。「㐂」は「喜」の異体字。

松ヶ枝と喜久川。

 新宿区立図書館が書いた『神楽坂界隈の変遷』(1970年)の「大正期の神楽坂花柳界」では「全国花街めぐ里」を引用して……

○旧券 芸妓屋121軒。芸妓数446名。内小妓52名。料理店11軒。待合97軒。
 主なる待合は由多加、梅林、玉の井(神楽町)、肴町の重の井、宮比町の喜久川、もみぢ、福仙、若宮町のおかめ、津久戸の中村家、その他かぐら,梅村などが名の通っている待合。
○新券の方はというと、
 芸妓屋45軒、芸妓数173名、内小妓15名、料理店4軒、待合32軒。
 主なる待合。若宮町の松ケ枝を代表として之に次ぐもの小松、住の江。幸楽、萬琴、あけぼの。

 松川二郎氏の「三都花街めぐり」(誠文堂文庫、1932年)でも喜久川がでてきます。

 主なる待合 由多加、梅林、玉の弁、楓月(以上神樂町)松ケ枝(若宮町)重の井(肴町)喜久川、もみぢ、福仙(以上宮比町)御歌女(若宮町)中村家(津久土町)。その他小松、住の江、幸樂、かぐら、梅村など。


神楽坂の中心

文学と神楽坂

 地元の方から「神楽坂の中心」というエッセイを頂きました。

 大正から昭和初期の神楽坂が最も栄えた時代、その中心は毘沙門さま周辺の3丁目から4丁目(旧・上宮比町)、5丁目(旧・肴町)にかけてだったそうです。表通りに石造りの立派な店が多く、裏にキメ細かな路地と賑やかな花町が広がっていました。

 当時の坂の中腹から下は、通り沿いこそ店が並んでいたものの、裏通りは住宅や倉庫、学校などが主だったようです。「古老の記憶による震災前の形」で1-2丁目の裏道の路地が描かれていないのも、坂下の「紀の善」が昔は職人相手の店だったのも、「田原屋」毘沙門天の隣で大いに栄え、兄弟店が少し離れた場所にあったのも、こうした表れのように感じます。


古老の記憶による震災前の形 新宿区立図書館資料室紀要4「神楽坂界隈の変遷」昭和45年に出ています。インターネットでみることも可。
職人相手の店 牛込倶楽部の「ここは牛込、神楽坂」第17号の冨田冨江氏の「神楽坂昔がたり」「紀の善と牡丹屋敷」では
 神楽坂の上り口の左角に、旗本屋敷直属の牡丹屋敷というのがありました。そこで牡丹を栽培していたといわれていますが、栽培していたのは主に薬草で、それを江戸城の本丸に届けていたのだとか。
 紀の善は、その牡丹屋敷の専属で、お屋敷から使いがきて、きょうは30人頼むとか、さようは雨だから5人でいいとかいってくると、それに合わせて若い者を出して、薬草の手入れをやっていたそうです。
 浅草では、幡随院長兵衛がそういうのを仕切っていましたが、神楽坂では代々紀の善がやってきたのだとか。それで、紀の善は、親分以下、若い者みんなに、桜と蝶の彫り物……そう、入れ墨をさせていたんです。絵柄を牡丹にしてはお屋敷に失礼にあたるからと、桜と蝶にしたとかで。

 江戸時代の商売は江戸城に薬草を届け、明治から戦前までは寿司、戦後は甘味処です。職人相手の店といえないと思います。
田原屋 毘沙門天の側は5丁目で長男、兄弟店は3丁目で3男がやっていました。牛込倶楽部の「ここは牛込、神楽坂」第17号「お便り投稿交差点」の奥田卯吉氏の「おれも江戸っ子、神楽坂」では
 神楽坂三丁目五番地に三兄弟たる高須宇平、梅田清吉と、父の奥田定吉が、明治末期に、当時のパイオニアとしての牛鍋屋を始めた(中略)
 時代の先端をゆく父たちは、五丁目の魚屋の店が売り物に出たので、長男はそこでレストランを始め、当時、個人のレストランとしては珍しいフランス料理のコースを出していた。次男は通寺町(現神楽坂6丁目)の成金横丁で小さな洋食屋を出した。特定の有名人等を相手にした凝った味で知られる店だった。
 末弟の父は、そのまま残って高級果物とフルーツパーラーの元祖ともいわれる近代的なセンス溢れる店舗を出現させた。

 戦後も毘沙門さまが中心だという意識は残っていました。神楽坂の夜店は「5の日の縁日」として限定的に復活し、昭和50年頃まで続いたと記憶します。しかし露店が並んだのは藁店から見番ぐらいがせいぜいで、坂下に賑わいは及びませんでした。1丁目の商店会会員は、そのことが不満だったそうです。

 様相が変わったのはビルが建ち、多くの貸店舗ができはじめた頃でしょう。飯田橋駅に近い坂下と、地下鉄東西線の神楽坂駅に近い6丁目(旧・通寺町)の店や事務所の家賃が、毘沙門さま周辺より高くなる「逆転現象」がおきました。

「神楽坂上」の位置づけが戦前・戦後で変わったことも影響していると思います。現在の神楽坂上の交差点から牛込北町にかけては戦前、牛込区役所(現・箪笥町特別出張所)を中心としたビジネス街で、牛込の中心と目されていたそうです。しかし戦後、区役所が新宿に移り、さらに地域交通の大動脈だった大久保通りの都電が撤去されると、一転して「不便な場所」「陸の孤島」になってしまいました。相対的に、飯田橋駅に近い坂下の価値が上がったのです。

 毘沙門さまの場所は飯田橋駅と神楽坂駅の中間で、ある意味「中途半端」です。坂下に比べると人通りも少ない。中心とは言いにくくなってしまいました。

 とはいえ新たな変化も芽生えています。近年、神楽坂がメディア等で紹介されて人気が高まった結果として、昔より広い範囲が「神楽坂」と認識されるようになりました。都営大江戸線の牛込神楽坂駅が坂上に開業したことも、それを後押ししています。今日、神楽坂として括られる範囲には、矢来町筑土八幡町中町南町まで含まれることがあります。しかし、さすがに区が違う千代田区富士見町は入りません。

 新しい広域の神楽坂の中心は、やはり毘沙門さまになるのではないでしようか。

限定的に復活 渡辺功一氏の「神楽坂がまるごとわかる本」(展望社、2007年)では「戦後は、縁日の出店がままならずにしばらくその火が消えていたが、昭和33年7月に、商店街の尽力で毘沙門の境内と門前に縁日がめでたく復活し、毎月5の日に開かれている」
地下鉄東西線の神楽坂駅 現在、地下鉄の飯田橋駅、神楽坂駅、牛込神楽坂駅があります。

千代田区富士見町 千代田の北西部に位置し、富士見一丁目と二丁目になる。


貸ボート カナルカフェ|神楽坂1丁目(写真)

文学と神楽坂

 始めに1918年(大正7年)、ボート場がつくられました。こん和次郎わじろう編纂の『新版大東京案内』(中央公論社、昭和4年。再版はちくま学芸文庫、平成13年)の「神楽坂」では…

  東京都旧区史叢刊「牛込区史」臨川書店(昭和5年、昭和60年復刻版)では、関東大震災の状況を伝えています。

牛込区史 関東大震災

 昭和8年(1933)、博文館編纂の「大東京写真案内」(博文館部)は……

市ヶ谷見付から飯田橋寄りにあるのが牛込見付、山の手第二の盛り場神樂坂を控へて、ラツシユアワーの混雑はめまぐるしいが、こゝの外濠の貸ボードは、都心に珍らしい快適な娯樂機關である。

大東京写真案内 1933 博文館

 これから昭和30年後半に飛んでいきます。ボート場はできていますが、あくまでも外堀通りと平行ではなく、牛込橋や神楽坂通り(早稲田通り)と平行に並んでいます。

牛込濠 ボート乗り場

牛込濠 ボート乗り場 外堀風景 昭和30年代前半 新宿歴史博物館

外濠 外堀風景牛込濠 昭和30年代前半 新宿歴史博物館

住宅地図。1990年

 さらに時間が経ち、1996年に喫茶店とレストランが加わり、地先権については別にしても(これほど大きくなってもいいの?)、名前もカナルカフェとして巨大なレストランなどになりました。

カナルカフェ。住宅地図。2020年。

360度自由に動けます。

飯田橋駅東口(写真)

文学と神楽坂

 新宿区立新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」で写真ID 481の表題は「飯田橋駅前 飯田橋四丁目」、撮影日時は「昭和51年8月26日」、解説は「飯田橋東口のすぐ近くにも、古い街並みの一角が残っていた」と書いています。

481 飯田橋駅前 飯田橋四丁目 「飯田橋東口のすぐ近くにも、古い街並みの一角が残っていた」

 しかし、いくつがおかしい。歩道橋はこちらに向かって開いている。それに、どうしてこの写真は飯田橋四丁目になるの? 飯田橋は千代田区で、新宿区ではないけど。また「ごらくえん」の前の歩道は車道よりも下かな? 右側の中央によく似たアパート(?)が2軒並んでいる。どこかで見たはずだが、すぐには思い出さない。

 まず、この場所はどこ? 「飯田橋駅前」で、さらに「飯田橋東口のすぐ近く」だったと書いています。では東口の左側、それとも右側。 堀を越えて左側まで行くと新宿区、右側に行くと千代田区になります。ただし、この昔の写真と違って、現在は違います。堀を越えて左側に行っても右側に行っても、今では千代田区飯田橋4丁目が広がっています。区境が1983年(昭和58年)8月に変更したためです。ただし、この時代は堀を越えて左側には「新宿区揚場町1丁目」が広がっているだけです。
 もう一度、左側か右側か。これは簡単です。東口の右側の千代田区に行っても、歩道橋はありません。横断歩道しかありません。つまり、歩道橋は東口の左側、新宿区にしかありません。

 おそらくカメラは歩道橋から撮ったものでしょう(赤色)。1978年の歩道橋は「エ」の形です。「この型の歩道橋は完成当時、渋谷と並ぶ大型歩道橋として警察や都がPRしました。けど地元の評判は非常に悪かった。飯田橋東口から下宮比町へ渡るのに、あまりに遠回りなので利用者が少ない。すぐに改修の必要性が認識されたんでしょう。後から1本付け足して『只の字』になったわけです」とある地元の人。また、歩道橋の降り口は1つなくなっています(水色)。この水色の歩道橋が最初の写真にあったものです。
「ごらくえん」の前の歩道は車道よりも下でしょうか? 多分下だと思います。東京都の当初の計画では水路は暗渠(カルバート、culvert)だけでした。しかし、都と住人の話し合いから、人工の開渠「せせらぎ」をつくるという考えがでてきます。つまり、本来の水路にコンクリートのカルバートをかぶせ、多くは地下を流し、わずかな水は「せせらぎ」として流す。多分この時に「せせらぎ」の水位が少し高くなったのです。歩道も車道と同じ高さになりました。

暗渠と開渠。東京都「飯田橋 夢あたらし」(平成8年)

暗渠と開渠。東京都「飯田橋 夢あたらし」(平成8年)

 では、右側の中央ですが、よく似たアパートが2軒あります。これは「東京燃料林産の社宅」でした。これも崩されて、飯田橋セントラルプラザ・ラムラになります。

 では、写真の中で、建物数軒についても全て壊されました。

1976年 住宅地図

  1. ごらくえん。当時はすでに閉店。
  2. キンシ正宗
  3. 鳥よし
  4. 魚大と立ち食い寿司
  5. カメラ店
  6. シームレス(後ろ中央に縫い目のない婦人用長靴下)
  7. 立喰いそば 富士

 実は「データベース 写真で見る新宿」写真ID 481、482、483は全て一連の写真でした。また写真ID 484は中で撮った写真でした。赤い四角は全て一年後になくなる街だったのです。

 また、田口重久氏の「歩いて見ました東京の街」の「05-新宿区」「補-14(15/15)」「05-14-40-3神楽河岸付近の旧屋 1976-05-28」では

神楽河岸付近の旧屋 1976-05-28

神楽坂の大阪寿司|石野伸子

文学と神楽坂

 石野伸子氏は2005年から2007年までに産経新聞に「お江戸単身ぐらし」を連載し、それをまとめて、2008年『女50歳からの東京ぐらし』(産経新聞出版)を上梓しました。中でも大阪寿司の専門店『大〆おおじめ』については2題を2005年秋に書いています。これは第1部です。大〆は神楽坂6丁目8番にあった店舗ですが、2017年、閉店しました。
 イタリアらしい店舗も箱ずしも普通だし、価格はちょっと高いと思っていても、その裏にある大阪寿司をもっと知っていればよかったのにと思っています。最後のシリーズに出てくる「大阪の箱ずしが全国区にならなかった理由」はなるほどとそれがわかる方法でした。今では大阪寿司をちょっとよく知り、まあちょっと食べています。 

神楽坂の大阪寿司
 フレンチレストランで大阪寿司ずし店のご亭主に出会った。知人を介しての小さな集まりで、しやれたシャツを着てご夫婦で参加していたので、寿司職人といわれて驚いた。「大阪寿司なんて、絶滅品種ですから。おやあなた、大阪の人? 大阪の人だってあまり食べないでしょう」。確かに大阪時代、代表的老舗「吉野寿司」の本店に足を運んだことはなかったが、百貨店で何度か買い求めたことはある。でも、絶滅品種などと言い切られては 気になる。早速、店にお邪魔して二度びっくり。店構えはまるでイタリアンレストランだ。
 神楽坂のメーンストリートを一本路地に入ったところ。南仏風の洋館に、小さく「大阪寿司・大〆おおじめ創業明治43年」とある。重い木のドアを開けると革張りの椅子いすにテーブル。出窓には伊万里焼の器が飾られ、壁一面にイタリアの風景画。ご亭主、加藤堅二郎さん(59)の作品だ。「イタリアが好きでしてね。新婚旅行もイタリア。30年ほど前に家屋を改築するとき思い切っていまの形にしました。うちは女性客も多いですから」
 看板にあるように、創業は古い。初代は関西で修業し、宮内省(当時)の寿司部門の主任も務めた。当時、東京でも結構大阪寿司が流行していて、大阪寿司店も多かった。しかし、戦後は江戸前握り全盛。「だから、二代目のおやじで店も終わりだと私も広告代理店に勤めたのですが、おやじが病気で倒れ、私が後を継ぐことに」
「絶滅品種」と公言するのは、大阪寿司は手間がかかること。調理場に一定の広さがいること。さらに世の中が握り一辺倒となれば弟子も独立のメドが立たず、常に人手不足に悩みつつの営業だという。
「まあ、食べてみてください」。押し寿司蒸し寿司のセットをいただく。タイやエビをきれいに飾ったおなじみの大阪寿司。加藤さんのこだわりで夏場はアナゴでなくタイをつかう。錦糸卵をたっぷり乗せて蒸したおわんにも、タイの身がたっぷり入っていて、幸せ。
 加藤さんは大阪寿司のうまさを「なれた味」と表現する。「熟成した味、大人の味わいですかね。なまのおいしさもわかるけど、そればっかりじゃあ」。確かに。絶滅させるには惜しい味。それに大阪が絶滅するようで悔しいじゃないですか。
大阪寿司 大阪の押し寿司。関西寿司とも。具材を酢飯と共に型に入れて押し固めた寿司
吉野寿司 吉野鯗。大阪市中央区淡路町にある寿司屋。箱寿司、棒寿司、蒸し寿司、穴子蒸し寿司などが有名。
伊万里焼 佐賀県有田町を中心とした肥前国(佐賀県と長崎県)の磁器。
江戸前 江戸の近海。特に、芝・品川付近の海。江戸湾(東京湾)でとれる新鮮な魚類。江戸や東京風の料理
握り 握り寿司。酢飯を一口大に握り、魚介類や厚焼き卵などの寿司種をのせた寿司。
押し寿司 木枠に酢飯と具材を詰めて押し固めた寿司
蒸し寿司 ぬくずし。ちらし寿司を丼等に入れて蒸し上げた冬限定の寿司。
錦糸卵 薄焼き卵を細く切ったもののこと。

新坂橋(しんざかばし)|神楽坂1丁目

文学と神楽坂

 石川悌二氏の「東京の橋」(昭和52年、新人物往来社)によれば

 新宿区神楽坂一丁目と船河原町のさかいを北西へ若宮八幡神社の方へ上る坂を新坂または幽霊坂というが、新坂橋はこの坂下の大下水に架されていたもので、明治28年版東京15区区分図によれば、この構渠は市谷御門橋の方から飯田橋へかけて外濠ぞいの道端に通じている。新撰東京名所図会は「新坂橋 市谷船河原町と牛込神楽町一丁目の間、大下水に架す。木橋、新坂下、若宮町に通ず。」と記している。
新坂または幽霊坂 現在は庾嶺ゆれいと呼んでいます。

神楽坂付近の地名。新宿区立図書館『新宿区立図書館資料室紀要4』から

 現在、大下水はなく、当然、新坂橋もありません。下部の左はGoogleで、右は明治16年、参謀本部陸軍部測量局の「五千分一東京図測量原図」(複製は日本地図センター、2011年)です。これから、左の緑の円は新坂橋はあったと思う場所です。
 おそらく横断歩道のあるところに新坂橋があったのでしょう。

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成金横丁と大〆

文学と神楽坂

 加藤八重子氏の「神楽坂と大〆と私」(詩学社、昭和56年)です。大正6年(1917年)4月、通寺町(現、神楽坂6丁目)に内海清吉氏が大阪寿司「大〆おおじめ」を開店して、彼が1代目。子供の八重子氏は父の弟子、加藤春寿氏と結婚し、加藤氏が2代目。3代目は八重子氏の次男、謙二郎氏です。平成29年(2017年)7月、1世紀後に大〆は閉店、ただし大家は当然に続けるようです。

成金横丁と大〆

アサヒグラフ。朝日新聞社。昭和63年6月。

 さて、此の神楽坂通りを越して早稲田通りへ向かい、二本目を右へ曲ると「大〆」の店のある『成金横丁』となる。成金横丁の謂われとは、聞くところに依ると、余りに逼塞した連中が成金にあやかるように景気のよい名を付けたとか、真偽の程は定かでないが…。
 大〆の開店当時の成金横丁は数軒の店屋の他はしもたや、、、、が多かった。
 大〆の店に向って左から写真館、次が綿(ふとん)屋、印刷屋、その先の曲がり角が自転車屋、それから先は白銀町の坂道となる。(この坂が「瓢箪坂」と云う事を最近立てられた標で知った)――
 反対側は、関東大震災の時に避難した、現在の白銀公園を角にして、端から大弓場撞球場、俥屋(人力車の溜り場)と、今では滅多に見られない商売屋が並んでいた。
 店に向って右側には八百屋、煙草屋、それに向かい合って酒屋、クリーニング屋等とごく平凡な店屋が続いて神楽坂通りへと出る。
 これらの店屋は戦争後はどうなったか、成金横丁へは戻って来なかったようである。その後はいったい何処へ行った事であろうか。
 震災後代替りした隣の写真館の御主入は、慶応義塾出身の人望のある方で、戦争中は町会長として活躍され、この成金横丁のためにも尽された。この家の人達とは家族ぐるみのお付き合いで、殊に姉妹のように仲よくしていたお嬢さんの啓子さんとは今も時折来店されると、その頃の思い出話が尽きない。
 成金横丁は向こう三軒両隣ばかりではなく、横丁全体がまるで一軒の家のように親密に付き合っていた。戦時中はお互いに仲よく助け合って防空訓練に励んだ事など懐かしく思い出される。
 遡って、大正時代の事であるが、両親が云い争っている声を夜更けの静けさの中で聞きつけて、隣の屋根伝いに物干から仲裁に来てくれた話、又、自転車屋の御主入が二号さんを囲った時、近所の主婦達が本妻擁護に立ち上り、遂にはその御主人が円満に家庭に戻った話等、思い出しても微笑ましい。
 春秋のお彼岸はもとより、普段でも何かとこしらえては配り、到来物があればお福分けしたり、近頃では無理な風習ではあろうが当時の細やかな人情は懐かしい。
 関東大震災の後など、しばらくの間、毎年九月一日には「大〆」でおにぎりの炊出しをして、近所の主婦や娘さん達が大童茶飯のおむすびを配ったりしたものだった。
 戦後は町名も神楽坂六丁目と変ったが、通寺町の頃のような親しみが涌かない。通寺町こそ、この成金横丁に適わしい町名と思うのだが……
 成金横丁は成金通りと格上げしたが、人々の口にも上らないこの頃である。

神楽坂通り 戦前の神楽坂通りという名称は現在の「神楽坂下」の交差点から「神楽坂上」の交差点の間、つまり「神楽坂1~3丁目、上宮比町(現在の4丁目)、肴町(現在の5丁目)」が本当の神楽坂通りで、通寺町(現在の6丁目)は神楽坂通りではなく、普通は早稲田通り(矢来下通り、通寺町通りなど)だと考えていました。
逼塞 ひっそく。江戸時代に武士や僧侶に科せられた刑罰。門を閉ざし、昼間の出入りを許さないもの。落ちぶれて世間から隠れ、ひっそり暮らすこと。
名を付けた これは1説。もう1説は「以前この通りにあった駄菓子屋『成金』からと云われています。廃業したのは戦後」から。しかし、もし加藤八重子氏がいれば、この説明はわからないと答えるでしょう。もう1説のほうは、どうも間違いではないかと考えています。
しもたや 仕舞屋。商売をしていない家。
大〆の店に向って左から 大〆の東側から。
弓場 ゆば。ゆみば。弓の練習をする所
撞球 どうきゅう。ビリヤード。玉突き。
俥屋 車宿。車夫を雇っておき、人力車や荷車で運送することを業とする家。
酒屋 地図の「スタンド」は「カウンターで飲食させる店」。そこで酒屋はスタンドになると考えています。

都市製図社製『火災保険特殊地図』(昭和12年)。大弓場から俥屋まではあくまでも想像図。正確な地図は不明。

到来物 いただき物。他から贈ってきたもの。
お福分け おふくわけ。祝いの品や人からもらったものを他の人に分けること
大童 おおわらわ。一生懸命に。夢中になって。
茶飯 茶を入れて炊いた飯。
通寺町 神楽坂六丁目と同じ。終戦後の昭和26年に改名は変更。

失われた新宿区(写真)

文学と神楽坂

 下の写真を見て下さい。「鳥よし」が見えます。つまり、「鳥よし」があるのは揚場町2丁目24だよね……。しかし、この道路、こんなに短かったっけ。何かおかしい。本当に揚場町にある「鳥よし」なの? 実は揚場町の「鳥よし」はいいのですが、1丁目にあったのです。しかも、1丁目のこの部分、現在は何もないようです。
 では、ある地元の人が書いている解説を読んでみましょう。

新宿歴史博物館の「写真で見る新宿」に、ちょっと面白い写真があります。写真ID:484(昭和51年8月26日)です。

写っているのは下宮比町交差点から飯田橋駅東口に向かう途中の飲食店です。歩道橋の下り階段の脇にありました。正面の高架上に総武線の各駅停車が止まっているのが見えます。電車の真下が東口改札です。

何が面白いかというと、この店のあった場所は現在では新宿区ではないのです。飯田濠再開発(ラムラの建設)に伴って、新宿区と千代田区の間の区境を変更したのが原因です。

区境はもともと飯田壕の真ん中にありました。飯田橋の新宿区側のたもとの土地は揚場町の一部だったのです。壕を埋め立てて細長いビルを建てると、ビルが区境の上にきてしまいます。それでは都合が悪かろうということで、両区の面積を同じにした上で土地を交換したのです。ラムラの2つのビルを新宿区と千代田区それぞれに属するようにして、両者の真ん中に区境が来るようにしました。ここは「区境ホール」と名付けられました。

当時、人口減少に悩んでいた千代田区は、ひとりでも多くの区民を確保する目的で北側の居住棟をとりました。新宿区は税収が多く見込める南側の事務所棟をとったわけです。公式に発表されたわけではありませんが、新聞報道に書かれるほど常識でした。

区境が動いたことで、写真の店の住所は千代田区になり、新宿区から失われたのです。写真はその少し前に撮影したものと思われます。

ちなみに、飯田橋駅の西口前、牛込橋側の区境は昔のままなので、たもとにあるいくつかの店は今も新宿区に属します。

写っているのは古めかしい駅前の飲み屋ですが、「立食寿し」があるのが懐かしい。江戸前の寿司が高級化したのは割と近年のことで、もともとは屋台などで供されたファストフードでした。志賀直哉の『小僧の神様』は、そんな店が舞台です。

この当時、飯田橋に限らず国電の駅前には立ち食いソバと立ち食い寿司が並ぶように店を出していたものです。フラッと入り、握りを3つ4つ口に放り込むのは実に”江戸っ子的”で手軽な食事でした。今はそうした風景も失われてしまいましたね。

鳥よし 揚場町2丁目に見られる鳥よし。

揚場町2丁目の鳥よし

下宮比町交差点 正しくは飯田橋交差点
途中の飲食店 図の赤い丸にある飲食店です。1978年はあったのですが、1980年以降はなくなっています。

住宅地図。区境の変更

 現在は森に囲まれて、人間は通れなくなっています。

Google

あるのは、地下鉄駅をつなぐエレベーターとトイレ

新宿区ではない 区が変わる前に家がなくなっていました。
ラムラ 昭和59年に飯田橋にセントラルプラザビル(大規模複合ビルで店舗、事務所、住宅がある)が完成。このビルの1、2、20階にあたるショッピングセンターを「ラムラ」といいます。
区境ホール くざかいホール。新宿区と千代田区の行政区分をまたぐホール

区境ホール。中央の床に金色のプレートがあるが、「区境」を示す。

飯田橋駅の西口 飯田橋駅は東口と西口に分けられます。西口は新宿寄りで、東口は御茶ノ水や東京に近い場所です。
立食寿し 立ったまま食べる寿司。屋台などで食べる寿司。食事を手早く済ませたい所に多く、多くは席のある店より値段が安い。
ファストフード fast food。素早くできる手軽な食品や食事
小僧の神様 大正9年、雑誌「白樺」で発表。丁稚奉公の仙吉は、客から念願のすしを腹一杯ごちそうしてくれた。志賀直哉氏は客の「『住所に行ってみると人の住まいが無くそこには稲荷の祠があり小僧は驚いた』というようなことを書こうかと思ったが、そう書くことは小僧に対して少し惨酷な気がしたため、ここで筆を擱く」と書いています。
立ち食いソバ 立ったままで食べるそば。


雑誌「ミスターダンディー」➂1974年(写真)

文学と神楽坂

 雑誌「Mr. DANDY」(中央出版、昭和49年)に「キミが一生に一度も行かない所 牛込神楽坂」を出しています。この神社の中や前などにカメラを置いて撮っています。雑誌なのに有名人もタレントもなく、言ってみれば誰も気にしない写真です。ある地元の人は「手抜き企画で、神社ばかり。文化に縁遠い記事」だといっています。現代の人間だと、まず撮らない写真……。でも、変わったものは確かにあるし、それに本文には、ちょっといいこともある。では読んで、そして、見てみましょう。

 飯田橋駅九段口の前に立って、九段の反対側が神楽坂である。
 江戸時代、築土八幡を移すときこの坂で神楽を奏したことから、神楽坂の名が生れたとか穴八幡の神楽を奏したとか、若宮八幡の神楽が聞えてくるとかいろいろあるが、とにかく、その神楽から生れた名であることはまちがいない。
 江戸時代は坂に向って左側が商家、右側が武家屋敷であった。
 明治になり早稲田大学ができ、その玄関口として次第に商店街を形成していったのである。
 昭和10年頃は山の手一の繁華街で、夜の盛り場としても名があり――神楽坂は電気と会社員と芸妓の街である――といわれた。
 神楽坂の芸者、神楽坂はん子の「ゲイシャワルツ」を覚えている人もあるにちがいない。
 また、ここには多くの文人墨客が住んでいた。思いつくままあげてみると、作家泉鏡花(神楽坂2-22)尾崎紅葉(横寺町)北原白秋(2-22)などがある。
 鏡花の“婦系図”は半自叙伝小説で、早瀬は鏡花であり、お蔦は神楽坂芸者で愛人であった桃太郎であり、真砂町の先生は紅葉であるという。
左側が商家 江戸時代は左側も武家屋敷でした。
文人墨客 ぶんじんぼっかく。ぶんじんぼっきゃく。詩文や書画などの風流に親しむ人。「文人」は詩文・書画などに、「墨客」は書画に親しむ人。

 江戸時代、江戸七福神の一つ、毘沙門様が坂を上って左側の善国寺にある。
 東京で縁日に夜店を開くようになったのはここが最初である。明治、大正にかけて、夜の賑いは大変なもので表通りは人出で歩けないほどであった。
 早稲田通りをでて左へゆくと赤城神社がある。これはこの地の当主牛込氏が建てた神社である。
 築土八幡は一段高く眺望の利く位置にある。
 ここは戦国時代、管領上杉氏の城跡で、八幡宮はその城主の弓矢を祭ったものである。
 ここにある康申塔は、高さ約1.5メートル幅約70センチの石碑で、面にオス、メスの二猿が浮き彫りにされている。
 一猿は立って桃の実をとろうとし、一猿は腰を下して待つところで、アダムとイブを連想される。これを由比正雪が信仰したという説がある。しかし、少々時代のずれがある。
 由比正雪といえば、このあたり、大日本印刷工場の東南から東方一帯が、正雪の旧居跡であった。
 伝説によると、正雪の道場済松寺門前から東榎町、天神町にかけて約5000坪の地所に広がっていたという。
 いずれにせよ、その町の一つの道、一つの坂には、長い歴史の過去があるのである。
 それを思い、あれを思い、ただ急ぎ足に通りすぎるだけでなく、ふと、なにかを振り返りたくなる――そんな静かな気持で、この町を歩いてみるといいだろう。まだまだ、多くのむかしがそこにある。
 そして、そこを吹く風に、秋をみつけたとき、あなたは旅情を知る人になっているにちがいない。
管領 かんれい。室町幕府で将軍に次ぐ最高の役職。将軍を補佐して幕政を統轄した。
八幡宮 八幡神を祀る神社。9世紀ごろ、八幡神を鎮護国家神とする信仰が確立し、王城鎮護、勇武の神、武人の守護神などになった。武士を中心に弓矢の神として尊崇された。
康申塔 こうしんとう。庚申塚に建てる石塔。村境などに、青面金剛しょうめんこんごう童子、つまり病魔、病鬼を除く神を祭ってある塚。庚申の本尊を青面金剛童子とし、三匹猿はその侍者だとする説が行き渡っている。
由比正雪 ゆいしょうせつ。江戸前期の軍学者。慶安事件の首謀者。1651年徳川家光の死に際し,幕閣への批判と旗本救済を掲げて幕府転覆を企てたが、内通で事前に発覚。正雪は自刃した。生年は慶長10年(1605年)、没年は慶安4年7月26日(1651年9月10日)。
時代のずれ 芳賀善次朗著の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)の一部では
34、珍らしい庚申塔
(略)この庚申塔は、由比正雪が信仰したものという伝説がある。しかし、正雪は、この碑の建った13年前の慶安四年(1651)に死んでいるのである。(略)

由比正雪 実際は位置不明です。正雪の記載があるのは、新宿区矢来町1-9にある正雪地蔵尊だけですが、正雪との関係を示す史料はありません。
済松寺 新宿区榎町77番地。
東榎町、天神町 ひがしえのきちょう。てんじんちょう。済松寺、東榎町、天神町について図を参照。

全国地価マップ

  • 赤城神社。「赤城神社再生プロジェクト」で新たに本堂などを建て、2010年、終了するので、この写真は昔のものです。

赤城神社(今)

「昭忠碑(大山巌碑)」もありました。明治37~8年の日露戦役を記念し、明治39年に建てられて、陸軍大将大山巌が揮毫しました。平成22年9月、赤城神社の立て替え時に撤去。内容はここに詳しく。

 現在はかわって三社があります。赤城出世稲荷神社、八耳神社、あおい神社です。

三社

  • 神楽坂若宮八幡神社。昭和20(1945)年5月25日、東京大空襲で社殿、楠と銀杏はすべて焼失。1949年に拝殿、1950年5月に社務所を再度建築。その後、敷地の西側に新社殿を建て、残った部分をマンションにしました。マンションの竣工は1999年です。

若宮八幡神社

現在の若宮八幡神社

  • 善国寺。昭和46年に本堂を建てています。したがって、現在と同じ寺院でした。

 庚申塔もあります。

珍味堂(現在も5丁目で営業中)

文学と神楽坂

 以前の珍味堂は本多横丁でしたが、現在は5丁目35番地(森脇ハイツ202)に変わりました。注文は予約だけ。電話は03(3269)2094。森脇ハイツは藁店(地蔵坂)にあり、1階左側に「MORIWAKI」と書いてあります。とりに行けば渡してもらえます。

現在の森脇ハイツ。藁店にある。Googleから

 でも、電話注文をしました(2021/4/26頃)。数日後に届きました。
 後ろに
 外装を取ると
 「珍味堂栞」を開くと
 缶がはいっていました。
 最後は

「装苑」の「あの町この店食べ歩き」(昭和51年9月)では

 材料を厳選し、太陽の下で干したおせんべい、こんぶ等、歯ごたえといい味といいすばらしい。珍味揃い(500円から)は、この店の品のほとんどが味わえます。新宿区神楽坂3の2 TEL (269)2094 午前九時半~午後九時半営業 年中無休

「神楽坂、上って下ってちょいと横丁に入って」(季刊銀花、昭和58年夏、文化出版局)では

 入ったら紙包みの山、まるで倉庫みたい。ガラスケースの上まで紙包みが一杯で、ケースの中はまるで真っ暗。歌舞伎のだんまりよろしく、一箱1500円の字をかすかに読む。で、「一箱ください」と言ったら、「今すぐ売れない、注文で――」とのこと。「じゃあ明日来ますよ」と言うと、「明日もだめ、今一か月前の注文をさばいているの」と言う。じゃあ、どうすりゃいいんつてんだ!
 ビールや酒のおつまみにする、豆、あられ、海苔巻き小せんべい、小蓮の揚げたの、えびせん、昆布……その他さまざまの小さいおつまみ。それに“江戸っ子”“初孫”“さざれ石”“多摩川”などとしゃれた名がついている。様子で料理屋さんがお土産に使うと見た。「値上げしないから注文が多くて」とおかみさん、くたびれた様子。「銀花」で取材に来ましたと言ったら、「これ以上忙しくなると困るから、雑誌に出るのはどうもねえ」。でも、書いちゃった。ようやく小さい海苔巻きせんべい、塩味小蓮を、一袋千円ずつで機嫌よく売ってもらいました。お値段もいいが、味が抜群。こりゃあ珍味堂さん、忙しいわけだわ。〔珍味堂神楽坂3の2。電話(269)2094]

「ここは牛込・神楽坂」第5号(牛込倶楽部、平成7年)では

ダンボールが積み上げられているのでわかりにくいが、あられやおかきで有名。

 本多横丁の昔の珍味堂。