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天文台の発祥地|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「牛込地区 19.天文台の発祥地」についてです。

天文台の発祥地
      (袋町16)
 光照寺の西隣は、江戸時代に天文屋敷(天文台)があった所である。
 明和元年(1764)11月19日、御徒組頭の佐々木文次郎が天文術に長じていたので、幕府から召し出され、ここに天文屋敷を建てて天体を観測したのである。ここは、牛込台地の最高所だったからであろう。
 しかし、その子の吉田靱負(ゆきえ)の時、この地は西南の遠望がきかないからというので、天明2年(1782)7月、今の浅草鳥越町へ移転した。
〔参考〕 御府内備考

地図で見る新宿区の移り変わり。昭和57年。新宿区教育委員会。113頁

地図で見る新宿区の移り変わり・牛込編。昭和57年。新宿区教育委員会。113頁。

佐々木文次郎 明和元年に幕府天文方。同6年(1769)、宝暦13年の日食予報に失敗した「宝暦甲戌暦」を改訂し、12月、幕府に修正宝暦甲戌暦法10冊、同解義2冊、暦法新書読録2冊を進呈。安永8年(1779)御書物奉行を兼任。同9年、吉田四郎三郎と改名。生年は元禄16年(1703)。没年は天明7年(1787)9月16日。85歳。
吉田靱負 吉田四郎三郎の子。安永8年に幕府天文方。同2年5月、付近の樹木が邪魔になり、換地を願い、10月、浅草片町裏通の明地に移転。没年は享和2年(1802)。幕府天文方は吉田・渋川両家が世襲で勤めていた。
浅草鳥越町へ移転 現在の台東区浅草橋3丁目に移転。この天文台は天明2年に業務を開始、明治2年に業務を停止。

浅草鳥越堀田原図

 江戸時代後期の宝暦13年(1763)、使っているほうりゃくれきに日蝕が無く、不備がわかり、そこで幕府は明和元年(1764)11月、佐々木もんろう天文方てんもんがたに任命します。翌2年6月、光照寺門前の火除明地に「新暦調御用屋敷」(天文屋敷)が起工、8月、築造が終わり_、天測を開始。そして、明和6年(1769)に「修正宝暦甲戌暦」が完成し、幕府に修正宝暦甲戌暦法10冊、同解義2冊、同暦法新書続録2冊を進呈。明和7年12月27日(西暦1771年2月11日)に使用を開始。
 その間の事情は、東京市編「東京市史稿 市街篇第27」(昭和11年)に「新暦調所」(コマ番号131〜)に細かく描かれています。

新暦調所 幕府ノ天文台ハ、初牛込藁店ニ設ケ、延享中神田佐久町ニ移シ、後之ヲ廃スルコト、既ニ之ラ記ス。是ニ至テ再ヒ之ヲ牛込藁店ニ置キ、新暦調ヲ開始ス。前々年暦面日蝕ヲ載セサル如キコト有リ。之ヲ改訂セムトスル也。
 図 略
   牛込藁店 新暦調御用屋 坪数 干拾五坪。
     東北 明地。    西南 山田茂平(南角 新道)掛帋。
     東南 牛込藁店通り。西北 明地。
    東北 弍十間。   西南 弍十壹間三尺。
    東南 五十間弍尺。 西北 四十七間三尺。
 此度牛込藁店明地之內二而、新暦調御用屋鋪地面被御渡、四方間數坪數,右御繪図之面、御定杭之通、相違無御座請取申候。為後日仍如件。
  明和二乙酉年七月三日   御作事方御徒假役
                 浜田三次郎 印
此時ノ新暦修補ハ、浪人佐々木文治郎ヲ徴用シテ之ヲ主任セシメシ者ノ如ク、相傅へテ左ノ如ク見ユ。
 十九日 ◯明和元年 十一月◯中略
 御右筆部屋緣頰
   天文方被 仰付 並之通 武百俵被下置           浪 人    佐々木文次郎
右之通被仰付候旨、老中列座、同人 ◯松平 躍高。渡之
——明和元錄
多賀外記組御徒     
佐々木文次郎    
後改吉田四郎三郎
寬延三庚午年二月二日渋川六蔵西川忠次郎在京中、只今迄之通自宅ゟ測量所江通ひ候而、忠次郎忰西川要人曆作手手伝手勤候様被仰渡、宝曆二壬申年八月十五日向後御用も無之候間、測量所江罷出候二不及旨被仰渡、明和元甲甲年十一月十九日被召出、天文被仰付、新規御切米弐百俵被下置旨、於御右筆部屋緣頬御老中御列座、松平右京大夫殿被仰渡同 ◯明 和。 二乙酉年二月廿二日補曆御用二付京都江御暇被下、拝領物被仰付旨、於躑躅之間被仰渡、白銀拾枚時服弍頂戴仕、同年 ◯明和二年。 三月御当地出立、上京仕、御用向相済、同年 ◯明和二年。 五月帰府仕、同月 ◯明和二年五月。十五日帰府御目見被仰付、同年 ◯明和二年 六月廿八日牛込光照寺鬥前火除地江新暦御用所御取建被仰付、同年 ◯明和二年 七月朔日新暦調御用相勤候內、御役扶持七人扶持被下置,手附手伝五人下役四人被仰渡、同年 ◯明和二年 八月御普請出来、右御用相勤、明和六已丑年暦法修正成就二付、修正宝暦甲戌元暦法全部拾卷壱帙、同解儀弍卷壱帙、同曆法新書続錄弍卷壱帙、各都而拾四卷三帙、同年 ◯明和七年。 十二月廿七日差上候、同 ◯明和。 七庚寅年四月今般新暦調御用相勤候二付、拝領物被仰付旨被仰渡、金三枚頂戴仕,右新暦御用相済候得共、引続測量御用相勤可申旨被仰渡
天文方代々記

 伏見弘氏の「牛込改代町とその周辺」(非売品、平成16年)182頁では……

 牛込中御徒町に居住したかち佐々木文次郎(のち吉田四郎三郎秀長と改名、御書物奉行)は天文の術に優れ、天文方となり、司天台(天文屋敷)を創設したとある。ともかく、天明2年(1782)7月に浅草鳥越に移転するまでの18年間、牛込司天台があったことが洒落た素材となった訳である。

 佐々木文次郎は初めは浪人であり、その後、多賀外記組の御徒となっています。伏見氏の「牛込中御徒町に居住した」はおそらく「定住した」ではなかったのでしょう。

 さて、この「修正宝暦暦」も出来が良いとは言えず、別の改暦の機運が高まりました。そこで、幕府は天文学者の高橋至時を登用し、寛政10年(1798)寛政暦が作成されました。

 これから日本の暦について考えてみます。江戸期以前は中国のせんみょう暦を使ってきました。平安時代前期のじょうがん4年(西暦862年)からの暦で、日蝕や月蝕などの動きが合わないことが問題でした。使用年数は823年と長かったのです。
 江戸時代の改暦は4回ありました。
(1)じょうきょう暦は貞享2年(1685)、五代将軍徳川綱吉の時代で、日本人である渋川春海が初めて「大和暦」を考案し、初代天文方に任命。使用年数は70年。
(2)次のほうりゃくれきは宝れき5年(1755)、八代将軍徳川吉宗の時代に使い、西洋天文学の知識を取り入れた暦で「宝暦こうじゅつ元暦」と名づけました。しかし、宝暦13年9月の日蝕予報に失敗し、第十代徳川家治は、明和元年(1764)佐々木ぶんろうに補暦御用を命じ、明和8年(1771)「修正宝暦暦」と改暦。しかし、貞享暦の暦元の値を少し変えただけの新味のない暦法でした。なお、天明2年(1782)に天文方の施設は浅草鳥越町に移転しています。
(3)次の寛政かんせい暦は寛政10年(1798)、中国に渡っていた西洋暦を研究したもので、ケプラーの楕円軌道論などが入っています。第11代将軍の徳川家斉の時代で、使用年数は46年でした。
(4)最後の天保てんぽう暦は高橋至時がフランス人ラランド著『Astronomie』の蘭訳書を完訳し、天文方がその研究を継続します。天保15年1月1日(1844年2月18日)に寛政暦から天保暦に変わりました。第12代将軍の時です。
 その間、1867年(慶応3年)15代将軍は江戸時代最後の将軍であり、慶応4年/明治元年(1868年)に明治維新、明治5年(1872)に太陽暦(グレゴリオ暦)への改暦があり、現在まで続いています。

芸術座発祥の清風亭跡|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「牛込地域 48.芸術座発祥の清風亭跡」では……

芸術座発祥の清風亭跡
      (文京区水道町27
 千代田商会前からさらに西に進むと神田川に架る石切橋がある。ここは文京区水道町であるが、この橋東寄りに明治末年から大正時代にかけて清風亭という貸し席があった。もと赤城神社境内にあった(28参照)ものである。
 ここは、島村抱月芸術座の発祥地である。大正2年の秋、恩師坪内逍遥文芸協会から分離した抱月を擁護する早稲田の同志7, 80名が集まり、主幹、幹事、評議員を選出し、新劇団名の芸術座が決定したのであった(27参照)。
 〔参考〕大東京繁昌記山手篇 随筆松井須磨子 早稲田の下宿屋
文京区水道町27 文京区水道町に清風亭があったと書いていますが、正しくは新宿区西五軒町でした。
千代田商会 西五軒町12番10号にあり、現在は事務所「ESCALIER神楽坂」(地上5階)です。下図の「小石川橋」の名前は変更し、現在は「西江戸川橋」です。

西五軒町 林田式流米器製造株式会社()と清風亭() 東京市及接続郡部地籍地図

貸し席 貸座敷。料金を取って貸す座敷。
文芸協会 明治39年(1906)、坪内逍遥・島村抱月を中心に、文化団体。同42年に演劇団体として改組、新劇運動の母体となった。大正2年(1913)解散。

 では、川村花菱氏の「随筆・松井須磨子:芸術座盛衰記」(青蛙房、1968)を見てみます。

 私が(島村抱月)先生の仕事をお手伝いすることになってから、着着と実際方面に進んで行った。第一に、先生を擁護する早稲田の若い人々の会合が先生を中心にして催された。場所は江戸川の清風亭で、6, 70の人々が集まったが、私はその時はじめて、中村吉蔵氏がこのたびの仕事に先生の片腕として居られたことを知ったのだ。そのときは、集まる人々には、橋本の親子丼が出たが、その数はたしか5, 60人前だと覚えている。橋本というのは、江戸川橋の袂のうなぎ屋で、幕末から明治のはじめには、川添いの所に、さし出した座敷ができていて、その下にいけがあったと老人が話してくれたが、山の手では評判のうなぎ屋で、その頃は、護岸工事の結果、川岸に添って道が出来て、橋本は道の反対のあたりのところに二階建ての店を出していた。
 その会合は、きわめて活気のあるもので、いずれも新劇団に対する遠大な理想や抱負を堂々とのべられたが、あいかわらず先生は黙々と人の意見を聴いていた。
 ——こうあってほしい。
 ——そうでなければならない。
 その議論はそれぞれに理屈はあったが、あるものはあまりにも理想にすぎ、あるものはあまりにも誇大的、妄想であったりした。だいたいの意見が出そろうと、先生は、静かに自分の考えを述べられ、一同の強大な援助を希望されると同時に、いろいろの具体的計画を話された。しかし、その席では、新劇団に参加する俳優のことは言われなかったし、脚本のことも言われなかったが、いわば、その会合は、劇団のブレイン・トラストを作るというのにあったらしく、新らしく生まれ出る劇団の幹事を選出することになり、その方法は先生が5, 60——すなわちそこに集まった人々を劇団の評議員に指名し、その中から20数人の幹事が選ばれることになって、前に言った、相馬御風片上天絃中村星湖吉江孤雁楠山正雄秋田雨雀人見東明本間久雄安成貞雄等々の人々が幹事に選ばれ、中村吉蔵氏・水谷竹紫氏は当然この一員であり、も幹事の一人になった。
橋本 天保6年(1835)に創業した鰻屋。

はし本 Google

ブレイン・トラスト brain trust。〔通例非公式な〕政府顧問団。専門解答グループ。元々は米国ルーズベルト大統領がニューディール政策を行い、政策の立案・遂行にあたった顧問団の通称。
楠山正雄 児童文学者、演劇評論家。早大英文科卒。早稲田文学社を経て冨山房に入社,戯曲の翻訳や創作、演劇評論、児童文学の翻訳、創作にも活躍。母校で西洋演劇史や近代劇を講じた。生年は明治17年11月4日、没年は昭和25年11月26日。66歳。
人見東明 詩人、教育者。早大英文科卒。自然主義風文語詩から口語自由詩にかわり、明治44年、詩集「夜の舞踏」を出版。大正9年、日本女子高等学院(現昭和女子大)を設立し、理事長。生年は明治16年1月16日。没年は昭和49年2月4日。
本間久雄 評論家、英文学者、国文学者。早大英文科卒。1918年「早稲田文学」編集主任となり「明治文学研究」7冊を編集。英国留学を経て昭和6年(1931年)早大教授。
安成貞雄 評論家。早大英文科卒。平民社に出入りし、犀利な批評家、翻訳家で、旺盛な読書力と優れた英語力があったが、脳溢血のため39歳没。生年は明治18年4月2日。没年は大正13年7月23日

戦前最初の団地同潤会アパート|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「牛込地区 41.戦前最初の団地同潤会アパート」についてです。

戦前最初の団地同潤会アパート
      (新小川町2、3丁目
 さらに大曲へ進み、手前の道を左折すると、関東大震災後つくられた 同潤会アパート群がある。団地の戦前派、団地のはしりである。日本の近代的な集団住宅地の歴史をたどると、そのはしりは明治の中期から始まる。しかしそれは、繊維工場の女工さんの寮や鉱山労務者の集団住宅であった。
 大正12年の関東大震災で、東京周辺の46万5000戸が焼失したので、救援金1000万円をもとにして内務大臣を会長とする財団法人同潤会が設立した。アパート、小住宅、分護住宅などをつくるための機関で、農災後の急場しのぎに、大正13年までに木造住宅約5000戸を建設した。
 その後は昭和のはじめにかけて、渋谷の代官山、千駄ケ谷、江東区白河町、この新小川町などにアパートをつくったのである。公益法人が建設したはじめての不燃集団住宅群である。同潤会は、16年に住宅営団となって解散した。
 新宿区には、この戦前派団地のはしりと、戦後派団地のはしりの西戸山アパート群をもつことは誇ってよいことである。
新小川町2、3丁目 過去に同潤会江戸川アパートは新小川町2丁目だけで、3丁目は無関係でした。現在は「丁」もなくなり、新小川町だけです。

昭和42年 住宅地図

大曲 おおまがり。大きく曲がる場所。ここでは新宿区新小川町の大曲という地点。ここで神田川も目白通りも大きく曲がっています。
関東大震災後つくられた 内務省の外郭団体として財団法人同潤会が設立され、大正15年から同潤会が解散する昭和16年までのアパートは総計16ヶ所。
 うち同潤会江戸川アパートは昭和5年に土地を買収、着工は昭和6年11月、完成は9年(1934)8月。総戸数は260戸。
 ちなみに平成15年に建て替えを決議。平成17年(2005)、アトラス江戸川アパートメントが竣功し、総戸数は232戸。

大月敏雄「同潤会アパートの防災性」建築防災。2000年

同潤会アパート群 同潤会江戸川アパートは1号館(北側)6階建(地下1階)と2号館(南側)4階建の2棟で、260戸(うち世帯向けは126戸、独身向けは131戸、事務室1戸、理髪店1戸、食堂附属住宅1戸)(橋本文隆ら「消えゆく同潤会アパートメント」河出書房新社、2003)。1号館の5〜6階は独身向けでした。一般的には同潤会アパートは震災復興の応急住宅ですが、江戸川アパートは「集大成」した「東洋一」の「理想的」なアパートを目指しました。

建設広報協議会編「建設月報」建設広報協議会。1981年5月。

 

橋本文隆ら「消えゆく同潤会アパートメント」河出書房新社、2003

 中庭(児童遊園、遊歩道、噴水)があり、1階に食堂、地階に浴場と理髪店、2階に社交室・娯楽室がありました。住戸には和式水洗トイレ(日本初)、ダストシュート、戦後しばらくの期間使用したエレベータ(1号棟、2基のうち食堂近くの1基だけが稼働)、蒸気暖房によるセントラルヒーティング等も完備。住戸の大きさは39〜76 ㎡で、家族向け和式住戸は50〜70㎡、最多の部屋は約60㎡。

 平成8年(1996)4月27日の都市徘徊blogから

中庭と遊具(鉄棒、ブランコ、ジャングルジム、滑り台)

1号棟屋上塔屋と屋上階(階段室・EVホール・流し)。左方がエレベーター。屋上で物干し、屋階は洗濯用の流し

食堂とテーブルと椅子

バーカウンターと地階の理髪店入口

 次は同潤会 江戸川アパートメントのブログです。

左は表札。中央は125号室で、構造家・横山不学氏の邸宅。右は室内。

屋上は共同の物干し場と共同の洗濯場。

食堂の入り口と内部

 江戸川アパートメント研究会「江戸川アパートメント案内」(平成15年)では……

同潤会江戸川アパートメント案内
1 西側通りより1号館事務所付近を望む
2 都市計画道路完成時の正面を意識した2号館のバルコニー
3 ステンドグラスの丸窓がある2号館11階段
4 各部屋の窓下にはラジエターと組み合わされた大型の換気口がある
5 奥にはステンドグラスで飾られたカウンターが見える食堂
6 家族向け住戸の洗面と汽車式のフラッシュバルブ和風便所
7 人研ぎの流しが並ぶ2階段屋上の洗濯場
註:人研ぎ じんとぎ。人造石。人造大理石。セメントに天然石を細かく砕いたものと顔料を混ぜて固め、研磨して仕上げたもの。


同潤会江戸川アパートメント案内

社交室ステンドグラス 撮影●斎部功


1 突出しの欄間がついた住戸の引違い鋼製サッシ
2 階段踊り場の鋼製バランスサッシ
3 戦争を潜り抜けたエレベーターは、戦後しばらくの間使用された
4 住戸玄関脇の照明
5 様々なデザインの独身室面格子
同潤会江戸川アパートメント案内


6 2号館に残る避難用縄梯子
7 採光と通風が配慮された鋼製玄関扉
8 点検口としても利用された一部開閉式の1階の床下換気口
9 メーカー指定が行なわれた社交室腰のベニア張り
10 現在でも健在の2階段上に残る人研ぎの洗濯用流し
11 名札固定用の板バネがついた集合案内板
12 エイジングとクリーニング効果をもった外壁「リソイド」仕上
13 同潤会のマークが残る蓋
撮影 ●1~4.6.7.9~12 加藤雅久 8.13 旭化成株式会社 5 斉部功

1階は食堂、配膳室、調理室、物置、便所、食堂附属住宅、エレベータ

2階は社交室、娯楽室、露台(テラス)、エレベータ

1〜4階(世帯用)と5〜6階(独身用)(1号館)

 橋本文隆ら「消えゆく同潤会アパートメント」(河出書房新社、2003)から一部を……



同潤会江戸川アパートメント同潤会江戸川アパートメント

集団住宅地の歴史 日本初の集合住宅は東京下谷の上野倶楽部(1910年)で、木造5階建てで60戸。鉄筋コンクリートの集合住宅は長崎県の端島(通称:軍艦島)に三菱鉱業が建てた9階建ての社宅(1915年)で300世帯5000人。続いて、同潤会は大正15年から昭和9年までで、東京や横浜に耐震耐火の集合住宅を建設しました。
繊維工場の女工さんの寮 平井直樹等「明治後期から昭和初期における職工寄宿舎に関する評価」(日本建築学計画系論文集、2013)では各種の寄宿舎を調べ、一部屋当たり定員5〜8人で、小規模の寄宿舎(50-60人)が最も利便性や防火性がいいと判断しています。また集会所、浴場などを設けていました。
大正13年までに木造住宅約5000戸 大正13年までに5580戸。昭和16年までに10,864戸でした。
渋谷の代官山、千駄ケ谷、江東区白河町、この新小川町などに 同潤会アパートの概要は以下の通り。

大月敏雄「同潤会アパートの防災性」建築防災。2000年

不燃集団住宅 鉄筋コンクリート造りで、戸毎に不燃質の障壁と防火戸、堅固の建具などがありました。「アパートの構造は、基本的にはラーメン構造(垂直方向の「柱」と、水平方向で柱をつなぐ「梁」によって建物全体を支える構造)であり、しかも住戸間のRC造界壁も厚く、RC柱が無くとも壁式構造として通用しそうなほど、誠に頑丈なものであった」(大月敏雄「同潤会アパートの防災性」建築防災。2000年)また「同潤会アパートは、一見外国で作られた建物に似ているが典型的な日本の現代建築である」(Marc Bourdier著「日本建築史における同潤会アパートの役割の研究」。東京大学工学博士論文、1991年)という。
16年に住宅営団 昭和16年(1941)、戦時中に住宅営団が発足、同潤会は解散。

狂歌師 大田南畝旧居跡|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「牛込地域 20. 狂歌師 大田南畝旧居跡」を見ていきます。

狂歌師 大田南畝旧居跡
     (北町41
 光照寺前通りを西に進み十字路の先は、狂歌師として有名な大田蜀山人(南畝)の居住地跡である。
 蜀山人は、幕府の儒者であり学者であるが、狂歌師としても有名で当時江戸第一人者であった。蜀山人は、寛延2年(1749)3月2日、吉衛門の長男としてここに生まれ、文化6年(1809)大久保へ転居するまでの60年間をここに居住していたのである。
 このあたりはいまでも閑静な住宅地であるが、田山花袋の「東京の三十年」(大正6年)にも、明治22年ごろの中町のようすを書いている。その中に、
“中町が一番私に印象が深かった。他の通に比べて、邸の大きなのがあったり、栽込の綺麗なのがあったりした。そこからは、富士の積雪が冬は目もさめるばかりに美しく眺められた。”
 と書いている。
 またこの通りには若い美しい娘が多かったという。きれいな二階屋があり、そこからは玉を転がしたように琴の音が聞えて、それをひいている美しい白い手も見えたし、運がよいと、表でその娘たちの姿も見られたといっている。
〔参考〕東京名所図会 大田南畝 森銑三著作集
狂歌師 狂歌を詠み、教えることを業とする人。狂歌とは短歌と同じく、五・七・五・七・七の5句31音の歌だが、しゃれ、風刺、俗語などが入っている。
太田蜀山(南畝) 正しくは「大田」と書きます。また、Wikipediaによれば「名はふかし、字は子耕、南畝は号である。通称、直次郎、のちに七左衛門と改める。別号、しょく山人さんじん、玉川漁翁、石楠齋、杏花園、遠櫻主人、巴人亭、風鈴山人、四方山人など。山手やまのての馬鹿ばかひとも別名とする説がある。狂名、四方よものあか。また狂詩には寝惚ねとぼけ先生と称した」。生年は寛延2年3月3日(1749年4月19日)。没年は文政6年4月6日(1823年5月16日)。74歳
北町41 実際は中町でした。なぜ北町は間違いだったのか、詳しくは「大田南畝の住居跡」で。ちなみに、森銑三著作集第1巻「南畝の日記」(中央公論社、1970)201頁には「南畝は34歳の新春を、その牛込中御徒町の家にめでたく迎えたのである」となっています。

全国地価マップ | 地図表示

光照寺前通り 光照寺の前の通りで、東側には地蔵坂(藁店)がありますが、西側には通称名も含めて何もなさそうです。
幕府の儒者 儒者は江戸幕府の職名で、将軍に儒学の経典を進講し、文学をつかさどる人。しかし、南畝が儒者だったという事実はありません。
文化6年(1809)大久保へ転居するまでの60年間をここに居住 「大田南畝の住居跡」によれば「文化元年(1804)小日向に転居するまでの56年間」でしょう。

No名称種別坪数住所現在地期間備考(数え年)
息偃館借地200坪牛込中御徒町新宿区中町37・38寛延2年(1749)~?1歳〜
借地210坪牛込中御徒町新宿区中町36?~文化元年(1804)〜56歳 書斎「巴人亭」
遷喬楼買得93坪小日向金剛寺坂上文京区春日2-16文化元年(1804)~同6年56歳〜 年賦購入。2階建て
拝領139坪余牛込若松町新宿区大久保文化6年(1809)~同9年61歳〜
緇林楼拝領150坪余駿河台淡路坂上千代田区神田駿河台4-6文化9年(1812)~文政6年(1823)64歳〜 大久保と交換

東京の三十年 岩波書店の内容では「明治14年、花袋が11歳で出京してからほぼ30年の東京という街の変遷と、その中にあって文学に青春を燃焼させた藤村・独歩・国男ら若い文学者の群像を描く。紅葉・露伴・鴎外ら先輩作家との交流にも触れ、花袋の自伝であるとともに明治文壇史でもある」

 中町の通——そこは納戸町に住んでゐる時分によく通つた。北町、南町、中町、かう三筋の通りがあるが、中でも中町が一番私に印象が深かつた。他の通に比べて、邸の大きなのがあつたり、栽込うゑこみれいなのがあつたりした。そこからは、富士の積雪が冬は目もさめるばかりに美しく眺められた。
 それに、其通には、若い美しい娘が多かつた。今、少將になつてゐるIといふ人の家などには、殊にその色彩が多かつた。瀟洒せうしやな二階屋、其處から玲瓏れいろうと玉をまろばしたやうにきこえて來る琴の音、それをかき鳴らすために運ぶ美しい白い手、そればかりではない、運が好いと、其の娘逹が表に出てゐるのを見ることが出來た。
註:轉ぶ まろぶ。転ぶ。ころがる。ころぶ。倒れる。

森銑三 もりせんぞう。書誌学者、随筆家。戦前は東京帝大史料編纂所勤務。戦後は早稲田大学で書誌学を講義。近世の人物の伝記などを研究し、資料を探索して埋もれた人物を発掘した。生年は明治28年9月11日。没年は昭和60年3月7日。89歳

牛込氏の最初の居住地だった宗参寺|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「牛込地区 60. 牛込氏の最初の居住地だった宗参寺」についてです。

牛込氏の最初の居住地だった宗参寺
      (弁天町9)
 漱石山房跡の西、日本銀行早稲田寮前を右折して北方の宗参寺に行く。
 宗参寺は、袋町の牛込城(13参照)の城主大胡勝行が、天文12年(1543)9月に78才で死去した父大胡重行のために、翌年に建てた寺で、寺名は重行の法名宗参をとったものである。
 思うにこの地は、大胡氏最初の居住地であったのではなかろうか。牛込城跡でものべたが、大胡氏の牛込移住年代は不明であるが、室町時代の初期にはこの地に移り鶴巻町の牧場を管理していたのであろう(63参照)。また喜久井町供養塚は、牛込氏初代移住者を葬る塚だったのではあるまいか(75参照)。
 この地は大胡氏の居館地だったらしく、「江戸砂子」には「……此の地に来り、牛込城主となり」とある。菩提寺を建立するには、それだけの場所選定の理由があるし、豪族の居住地に寺院が建つ例が多い。「御府内備考」では、「宗参寺は牛込氏の旧蹟に建てた寺だというが誤だ」といっているけれども明治40年の東京市編「東京案内」は、「この地に移ってきて牛込氏と称した」と認めている。
 この墓地南隅の牛込氏墓地には、大胡重行、勝行父子の墓があって、都の文化財に指定されている。(牛込氏の子孫は、武蔵野市西窪三谷274に続いている)(75参照)。
 〔参考〕 南向茶話追考 牛込氏についての一考察

宗参寺の牛込氏墓地

宗参寺 曹洞宗の照臨山宗参寺で、牛込勝正が父勝行と祖父重行の菩提を弔うため、吉祥寺四世勅特賜天海禅師看榮稟閲大和尚を開山に迎えて、天文13年(1544)創建しました。
漱石山房 明治40年9月、早稲田南町に引っ越し、大正5年、49歳でここで死亡。晩年を過ごした家と土地を「漱石山房」という。
日本銀行早稲田寮 漱石山房の西側にある寮。

漱石山房→宗参寺

大胡勝行 大胡氏は武蔵に移り、赤城神社を勧請・創建し、後北条家に仕え、新撰東京名所図会によれば、天文14年(1545)、大胡勝行は北条氏康に告げて大胡を改め牛込氏としている。
大胡重行 大胡勝行の父。
翌年に建てた 「寛政重修諸家譜」では「天文12年〔1543年、戦国時代、鉄砲の伝来〕9月17日死す。年78。法名宗参。牛込に葬る。13年男勝行此地に一宇を建立し、宗参寺とし……」
大胡氏最初の居住地 最初の居住地はどこなのか不明です。
この地に移り 南向茶話附追考では

牛込氏は、藤原姓秀郷の流也。家伝に曰、秀郷より八代重俊、上州大湖に住す。大湖太郎と号す。重俊より十代の孫大湖彦太郎重治、初て武州牛込に移り居す。其子宮内少輔重行、其子宮内少輔勝行に至りて、北条家に仕へ、改て牛込を称号す。
(南向茶話附追考

鶴巻町の牧場を管理 大宝元年(701)、国営の牛馬牧場(官牧)が全国39ヶ所で認め、牛込にも官牧の乳牛院という牛舎が設置された。
喜久井町の供養塚 供養塚を参照
江戸砂子 享保17年(1732)、菊岡沾涼の江戸地誌。正確には「江戸すな温故名跡誌」。武蔵国の説明から、江戸城外堀内、方角ごと(東、北東、北西、南、隅田川以東)の地域で寺社や名所旧跡などを説明。
此の地に来り、牛込城主となり 続江戸砂子温故名跡志巻之四では「此大胡重行は武蔵むさしのかみ鎮守ちんじゅふの将軍秀郷の後胤こういん、上野国大胡の城主大胡太郎重俊六代のそん也。武州牛込の城にじょうす」
菩提寺 ぼだいじ。一家が代々その寺の宗旨に帰依きえして、そこに墓所を定め、葬式を営み、法事などを依頼する寺。江戸時代中期に幕府の寺請制度により家単位で1つの寺院の檀家となり、寺院は家の菩提寺といわれるようになった。
御府内備考 ごふないびこう。江戸幕府が編集した江戸の地誌。幕臣多数が昌平坂学問所の地誌調所で編纂した。『新編御府内風土記』の参考資料を編録し、1829年(文政12年)に成稿。正編は江戸総記、地勢、町割り、屋敷割り等、続編は寺社関係の資料を収集。これをもとに編集した『御府内風土記』は1872年(明治5年)の皇居火災で焼失。『御府内備考』は現存。
宗参寺は牛込氏の旧蹟に建てた寺だというが誤だ 実際には「宗三寺を牛込の城蹟へ立し寺なりといへとあやまりなることおのづから知べし」(大日本地誌大系 第3巻 御府内備考。雄山閣。昭和6年)と書いています。「牛込氏の旧蹟」が「牛込城跡」の意味で使っている場合は確かに「誤」です。
東京案内 東京市編「東京案内」(裳華房、明治40年)です。
この地に移ってきて牛込氏と称した 「東京案内 下」では

牛込村は、往古武蔵野の牧場にして牛を牧飼せし処なるべしと云ふ。中古上野国大胡の住人大胡彦太郎重治武蔵に移りて牛込村に住し小田原北條氏に属し其子宮内少輔重行 天文12年卒、年78 重行の子宮内少輔勝行 天正15年卒、年85 に至り天文24年5月6日 弘治元年 北条氏康に告げて大胡を改め牛込氏とす。

牛込氏墓地 牛込氏墓地は墓地の南にあります。

宗参寺と牛込氏墓地

牛込重行勝行父子墓。左は東京市公園課「東京市史蹟名勝天然紀念物写真帖 第二輯」大正12年。オプションは「牛込重行勝行父子墓(牛込区弁天町宗参寺内)重行は上州大胡城主であつたが、此に移り牛込城主となり、子勝行になつて牛込氏と改めた。小田原北條氏の麾下である。重行は天文12年9月78歳で没し、勝行は宮内少輔と云ひ天正15年7月85歳で歿し、墓は父子一基になつて居る。」右は 温故知しん!じゅく散歩

牛込氏墓 宗参寺

牛込氏墓 宗参寺

牛込氏墓 宗参寺