芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「牛込地区 41.戦前最初の団地同潤会アパート」についてです。
戦前最初の団地同潤会アパート (新小川町2、3丁目) さらに大曲へ進み、手前の道を左折すると、関東大震災後つくられた 同潤会アパート群がある。団地の戦前派、団地のはしりである。日本の近代的な集団住宅地の歴史をたどると、そのはしりは明治の中期から始まる。しかしそれは、繊維工場の女工さんの寮や鉱山労務者の集団住宅であった。 大正12年の関東大震災で、東京周辺の46万5000戸が焼失したので、救援金1000万円をもとにして内務大臣を会長とする財団法人同潤会が設立した。アパート、小住宅、分護住宅などをつくるための機関で、農災後の急場しのぎに、大正13年までに木造住宅約5000戸を建設した。 その後は昭和のはじめにかけて、渋谷の代官山、千駄ケ谷、江東区白河町、この新小川町などにアパートをつくったのである。公益法人が建設したはじめての不燃集団住宅群である。同潤会は、16年に住宅営団となって解散した。 新宿区には、この戦前派団地のはしりと、戦後派団地のはしりの西戸山アパート群をもつことは誇ってよいことである。 |
大曲 おおまがり。大きく曲がる場所。ここでは新宿区新小川町の大曲という地点。ここで神田川も目白通りも大きく曲がっています。
関東大震災後つくられた 内務省の外郭団体として財団法人同潤会が設立され、大正15年から同潤会が解散する昭和16年までのアパートは総計16ヶ所。
うち同潤会江戸川アパートは昭和5年に土地を買収、着工は昭和6年11月、完成は9年(1934)8月。総戸数は260戸。
ちなみに平成15年に建て替えを決議。平成17年(2005)、アトラス江戸川アパートメントが竣功し、総戸数は232戸。

大月敏雄「同潤会アパートの防災性」建築防災。2000年
同潤会アパート群 同潤会江戸川アパートは1号館(北側)6階建(地下1階)と2号館(南側)4階建の2棟で、260戸(うち世帯向けは126戸、独身向けは131戸、事務室1戸、理髪店1戸、食堂附属住宅1戸)(橋本文隆ら「消えゆく同潤会アパートメント」河出書房新社、2003)。1号館の5〜6階は独身向けでした。一般的には同潤会アパートは震災復興の応急住宅ですが、江戸川アパートは「集大成」した「東洋一」の「理想的」なアパートを目指しました。

建設広報協議会編「建設月報」建設広報協議会。1981年5月。
中庭(児童遊園、遊歩道、噴水)があり、1階に食堂、地階に浴場と理髪店、2階に社交室・娯楽室がありました。住戸には和式水洗トイレ(日本初)、ダストシュート、戦後しばらくの期間使用したエレベータ(1号棟、2基のうち食堂近くの1基だけが稼働)、蒸気暖房によるセントラルヒーティング等も完備。住戸の大きさは39〜76 ㎡で、家族向け和式住戸は50〜70㎡、最多の部屋は約60㎡。
平成8年(1996)4月27日の都市徘徊blogから
次は同潤会 江戸川アパートメントのブログです。
江戸川アパートメント研究会「江戸川アパートメント案内」(平成15年)では……


![]() 1 突出しの欄間がついた住戸の引違い鋼製サッシ 2 階段踊り場の鋼製バランスサッシ 3 戦争を潜り抜けたエレベーターは、戦後しばらくの間使用された 4 住戸玄関脇の照明 5 様々なデザインの独身室面格子 ![]() |
橋本文隆ら「消えゆく同潤会アパートメント」(河出書房新社、2003)から一部を……
集団住宅地の歴史 日本初の集合住宅は東京下谷の上野倶楽部(1910年)で、木造5階建てで60戸。鉄筋コンクリートの集合住宅は長崎県の端島(通称:軍艦島)に三菱鉱業が建てた9階建ての社宅(1915年)で300世帯5000人。続いて、同潤会は大正15年から昭和9年までで、東京や横浜に耐震耐火の集合住宅を建設しました。
繊維工場の女工さんの寮 平井直樹等「明治後期から昭和初期における職工寄宿舎に関する評価」(日本建築学計画系論文集、2013)では各種の寄宿舎を調べ、一部屋当たり定員5〜8人で、小規模の寄宿舎(50-60人)が最も利便性や防火性がいいと判断しています。また集会所、浴場などを設けていました。
大正13年までに木造住宅約5000戸 大正13年までに5580戸。昭和16年までに10,864戸でした。
渋谷の代官山、千駄ケ谷、江東区白河町、この新小川町などに 同潤会アパートの概要は以下の通り。

大月敏雄「同潤会アパートの防災性」建築防災。2000年
不燃集団住宅 鉄筋コンクリート造りで、戸毎に不燃質の障壁と防火戸、堅固の建具などがありました。「アパートの構造は、基本的にはラーメン構造(垂直方向の「柱」と、水平方向で柱をつなぐ「梁」によって建物全体を支える構造)であり、しかも住戸間のRC造界壁も厚く、RC柱が無くとも壁式構造として通用しそうなほど、誠に頑丈なものであった」(大月敏雄「同潤会アパートの防災性」建築防災。2000年)また「同潤会アパートは、一見外国で作られた建物に似ているが典型的な日本の現代建築である」(Marc Bourdier著「日本建築史における同潤会アパートの役割の研究」。東京大学工学博士論文、1991年)という。
16年に住宅営団 昭和16年(1941)、戦時中に住宅営団が発足、同潤会は解散。