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神楽坂を書いた文学|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)から「牛込地区 6. 神楽坂を書いた文学」です。

 神楽坂を書いた文学
 明治から大正にかけて、神楽坂は早稲田大学を控えて文学的ふん囲気の濃厚な所であった。だから新時代の文学を荷負う若い文士たちは、ここでの生活を愛した。この街には、主として早稲田の学生や若い文士だった日夏耽之介森田多里国枝史郎三上於兎吉西条八十宇野浩二森田草平泉鏡花北原白秋などが住んでいた。
 文学作品の中に出てくる神楽坂をのべるとつぎのようである。まず小栗風葉は「恋慕ながし」の中に明治31年ごろの神楽坂の縁日や、裏町の花街のにぎわいを書いている。
 田山花袋の「」(明治41年作)には「神楽坂は、毎夜毘沙門の縁日のやうに雑沓するとの噂。山の手の奥からも白地の浴衣に薄化粧の夫婦連が幾組となく出掛けて行く。」とある。
 夏目漱石の「それから」(明治42年作)には、神楽坂の途中で、主人公の代助が地震に出あう場面を書いている。
 正宗白鳥も「」(明治44年)の中に神楽坂縁日の、見世物のようすを書いているし、サトーハチローは、「僕の東京地図」(昭和11年作)の中に、明治末年を書いている。その中には、
 「神楽坂は、何と言っても、忘れられない町である。矢来の交番のところから、牛込見付までの間を一日に何度往復したことか、お堀は、ボートが浮いてゐなかった。暗い建物の牛込駅に添うてずッと桜が植わってゐたやうにおぼえてゐる……」とある。
 北原白秋は、「物理学校裏」(大正2年)という詩を作っている。神楽坂裏通りにあたる物理学校裏に住んだことがある白秋は、当時のようすを書いたもので、その中には、付近の住宅地は静かで、そとに聞えてくるのは、花街の三味や琴の音、甲武線の汽車の音、校舎で教える教師の声だけであると、擬音を入れながら描写している。
 夏目漱石の「硝子戸の中」(大正4年作)の中にも神楽坂を書いているが、田山花袋も大正初期の牛込一帯を「東京の三十年」の中に書いている。
 武蔵野をとよなく愛し、武蔵野の絵と文学と昆虫の研究を残した画家の織田一麿は、その著「武蔵野の記録」に、「牛込神楽坂の夜景」と題して、大正7年のようすを書いている。その中につぎの一節がある。
 「殊に夜更の神楽坂は、最もこの特色の明瞭に見受けられる時である。季節からいえば、春から夏が面白く、冬もまた特色がある。時間は11時以後、一般の商店が大戸を下ろした頃、四辺に散乱した五色の光線の絶えた時分が、下町情調の現れる時で、これを見逃しては都会生活は価値を失ふ。」
 泉鏡花は、「竜胆と撫子」(大正11年)の中に、神楽坂が明治から大正へと時代の流れとともに変ってきたようすを書いている。また鏡花は「神楽坂の唄」(大正14年)を作っている。鏡花が新世帯をもったのが神楽坂だったから忘れることができなかったものであろう(参照)。
 加能作次郎は、「早稲田・神楽坂」という一文を「東京繁昌記・山手編」に、明治末期から大正初期の神楽坂、特に毘沙門前の縁日のにぎわいを書いている。
 矢田津世子は、昭和10年ごろの神楽坂を短編「神楽坂」に書いているし、戦後のようすは佐多稲子の「私の東京地図」 (昭和21年刊)に出ている。そして池袋などがめざましく発展していくのに、ここは少しも復興しようとしないと、正宗白鳥が「神楽坂今昔」(昭和27年刊)に書いている。
 〔参考〕 新宿と文学 東京の坂道
日夏耽之介 正しくは日夏耿之介。ひなつ こうのすけ。
森田多里 もりぐち たり。美術評論家。早稲田大学文学部英文科とソルボンヌ大学を卒業。西洋、日本美術史の先駆的役割を果し、戦後は岩手県立美術工芸学校長、岩手大教授。西洋美術思潮の紹介、日本近代美術史、民俗芸能の研究を行った。生年は明治25年7月8日。没年は昭和59年5月5日。91歳。
国枝史郎 くにえだ しろう。小説家、劇作家。早稲田大学英文科中退。大学在学中に自費出版「レモンの花の咲く丘へ」。大正3年、大学を中退し関西へ移ると、同年、大阪朝日新聞社で演劇担当記者。6年、松竹座専属の脚本家。9年退社、大衆文学の作家に。『しんしゅう纐纈こうけつじょう』が再評価され、三島由紀夫が「文藻のゆたかさと、部分的ながら幻想美の高さと、その文章のみごとさと、今読んでも少しも古くならぬ現代性に驚いた」(「小説とは何か」昭和47年)と絶賛。生年は明治20年10月10日。没年は昭和18年4月8日。55歳。
三上於兎吉 正しくは「三上於菟吉」。みかみ おときち。
れんながし 小栗風葉の小説。明治31年9月1日、読売新聞で連載スタート。12月1日、70回で中断し、完成は明治33年5月。きん流尺八の天才青年はたじゅんすけとバイオリニストの五十いおずみようの純恋で始まり、売春と一八チーハー博徒(独特な賭紙を用い、大正初めまで盛大だった中国系の賭博)の胴元である銀次も絡み、葉子の自殺、銀次も死亡して終わります。木賃宿、売春という醜い現実も描いています。
神楽坂は、…… 田山花袋の母親が癌で亡くなるまでを描いた「」の一部にこの文章が出ています。
けれどそれは母親を悲しむというよりは寧ろ自己の感情に泣いたのだ。その証拠には、そこに若い細君が帰って来たら、その涙は忽ち乾いていったではないか。その柔かい手を握ったではないか。
 銑之助は自からこう罵った。
   28
 月が段々明るくなって、今日はもう十日だという。街の賑わい、氷店の繁昌、鉢植の草花、神楽坂は毎夜毘沙門の縁日のように雑沓するとの噂。山の手の奥からも白地の浴衣に薄化粧の夫婦連が幾組となく出懸けて行く。
 病人はまだ生きて居た。
 平生後生を願わなかったからという声が彼方此方あちこちに聞えた。だから言はぬことではない、私は御寺参をあれほど勧めたのにと親戚の法華かたまりの老婦が得意そうに言った。

甲武線 明治22年(1889年)4月11日、大久保利和氏が新宿—立川間に蒸気機関として開業。8月11日、立川—八王子間、明治27年10月9日、新宿—牛込、明治28年4月3日、牛込—飯田町が開通。明治37年8月21日に飯田町—中野間を電化。明治37年12月31日、飯田町—御茶ノ水間が開通。明治39年10月1日、鉄道国有法により国有化。中央本線の一部になりました。
サトーハチロー 正しくは「サトウハチロー」
織田一麿 正しくは「織田一磨」
大戸 おおど。家の表の大きな戸
新宿と文学 東京都新宿区教育委員会の『新宿と文学—そのふるさとを訪ねて』(区教育委員会、1968年)は、新宿区内を描写した文学作品や、区内に居住した作家たちを紹介する本。
東京の坂道 ​石川悌二氏『東京の坂道—生きている江戸の歴史』(新人物往来社、​1971年)は、数多くの坂道を一つ一つ取り上げ、それぞれの坂の名称の由来や歴史的背景を取り上げ、江戸時代から続く東京の街並みや人々の営みを紹介する本。​

神楽坂通|酒井眞人

文学と神楽坂

 酒井眞人氏の「東京盛り場風景」(誠文堂、昭和5年)は、誠文堂十銭文庫という廉価なシリーズで、銀座、上野をはじめ戦前の都内の繁華街を解説しています。神楽坂の章には写真2枚が添付され、うち1枚のキャプションは「神楽坂通」でした。

酒井眞人著『東京盛り場風景』誠文堂 昭和5年(1930)「神楽坂通」

 右側中央で「カフエー グラン(ド)」と小さく、しかしはっきり読めます。地図では、カフエー グランドは地下にできていたようです。
 この場所は神楽坂でも最も急峻な坂道で、その差を利用して半地下の構造にしていたのでしょう。

岡崎公一氏「神楽坂と縁日市」「神楽坂の商店変遷と昭和初期の縁日図」昭和5年だけの切り抜き(新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』1997年)

「カフエー グランド」の上に建つ欄干のついた立派な建物は演芸場の「牛込会館」です。奥には演目や出演者を知らせる高い「のぼり旗」が少なくとも2本は立っています。

東京盛り場風景 酒井眞人著 誠文堂 1930 キャプション

 右手前の縦看板は、歴史的には「袋物 佐和屋」(大正11年)、「さ和屋 小間物」(昭和5年頃)、「さわや」と変わっていき、令和6年末に閉店しました。この時点では「さ和屋 小間物店」です。横看板も「◯和屋」と読めそうです。
 さらに1軒前には「ニオン堂」だけが読め、これは「ユニオン堂」でしょう。
 擬宝珠に似た飾りがついた街灯があり、その前の暖簾は「亀井鮨」で、左側の小さな字は「神楽坂支店」でしょう。
 「牛込会館」のやや奥、切妻屋根の3階建てはパン屋の「木村屋」のようです。
 通りを挟んで左側には小さく「たばこ」と書いた看板が見え、「村田煙草店」でしょう。のぼり旗の「タバニ」も、おそらく「タバコ」です。
 その奥の看板「時」は大川時計店と想像できます。「指◯」は不明です。
 震災前の大正期の神楽坂通りは未舗装でしたが、この写真の昭和5年になると、両側の歩道が整備され、車道も舗装されているように見えます。
 高い電柱🔷に2種類がありそうです。右の電線の数が多く、左の数が少ないのですが、おそらく左は電力柱、右は電信柱でしょう。

藁店と大田南畝|綿谷雪

綿谷わたたにきよし氏の「考証江戸八百八町」(秋田書店、1971)の「大田南畝の生家」です。

牛込藁坂付近(延宝の形)

 “藁店わらだな” というのは、牛込袋町の光照寺(下図では)の前をさかな(下図は)(神楽坂通り)の方へ出る路次の両側の俗称である。光照寺の前は南へ下り坂となっていて、これを“藁坂”といい、また同寺に子育て地蔵があるところから“地蔵坂”ともいった。その寺の門前町に藁を売る店が多かったので俗に “藁店”・“藁坂” といい、今は北方に抜けているが、昔はその北西につづいた御徒組 大縄おおなわ(下図は)(組屋敷)に入って、末は袋路地の行きどまりになっていたため、一に “袋町” (下図は)とも俗称されたのである。
 少し脱線だが、ついでに書いておく。大田南畝(蜀山人)の一番はじめの住居だった家は藁店といわれているけれど、それは近くの俗称を用いていったので、じつは藁店の路地奥の御徒組屋敷の内(下図は)であった。この組屋敷は数多い小屋敷ばかりで、中に二条の路地があって三ブロックに分かれ、北から数えて北御徒町・中御徒町・南御徒町といっていたのを、明治後は北町・中町・南町とあらためた。
 南畝は仲御徒町の大田正智の長男として、その家に生まれ、長じてその小屋敷に “息偃そくえんかん” と名づけた。たしかに息をやすめる程度のあばらやで、主人のしょうが目に見えるような夏草の茂るにまかせた小庭、木末から柱へわたした長い縄に長男定吉のオムツを掛けつらねて、
「坊や、シッコは大丈夫かい」
と声かけて引き寄せる妻の手を払いのける幼児は、もう裾を洪水にぬらしていたなどと、小官吏の生活の思いやられる情景は、彼の『四方よものあか』に収められた「車どめ」「なつくさ」等の小文によく写されている。
 組屋敷のこととて切図に大田の名は出ていないが、家の東側と南側に道があることが「隣家におくれることば」の一文中に見えるから、仲御徒町北側の東角のとっ、、つき、、の家であったと見てよろしい。今の中町37・38番地である。なお尾崎紅葉が藁店で住んでいた家は、もと蜀山人の住んだ場所だということだが、果して正しいか、どうか。

牛込藁坂付近(延宝の形)

藁店 「藁店(わらだな)は1軒それとも10軒」を参照
御徒組 おかちぐみ。江戸時代に将軍や大名の行列の先導や警護にあたった下級武士の集団
大縄地 おおなわち。与力や同心などの拝領地。敷地内の細かい区分ではなく一括して一区画の屋敷を与え、大縄は同役仲間で分けること。その屋敷地を大縄地と呼ぶ。今の公務員団地。
組屋敷 くみやしき。江戸時代に足軽や与力、同心などの組に与えられていた屋敷や屋敷地
息偃 そくえん。横になって休む。休息する。「偃」は「いこう。いこう。やすむ」の意味
四方のあか 「四方のあか」とは「東西南北の銘酒、滝水」。近世の最初の滑稽な文章です。天明7年(1787)刊か?
車どめ 「四方のあか」の「車どめ」の一節です。

ほこらひみるに、長き縄を木末にかけて、かたへの柱にゆひつけたるは、あなあさまし、ふたつになれるわらはの、しとゞぬれたる露のしめしのかけどころとは。すべて冬がれの庭の景色、……
[訳] 神を祀る祠の石碑を見ると、長い縄を木の周りにかけ、片側の柱に結び、困ったことだが、2歳になった子のびっしょり濡れたおしめをかける場所になっている。全てこれは冬に枯れた庭の景色で…

 ほこらひ ほこら(祠)は土地の神をまつる殿舎。祠碑(しひ、ほこらひ)は神を祀る祠(ほこら)に立てられた石碑
あなあさまし なんとまあ、驚きあきれることだ。
しとゞ びっしょりれた
しめし 腰から下に巻く布。おしめ。


なつくさ 「四方のあか」の「なつくさ」の一節です。

母のとゞむれば、みつになれるおとの、おなじごとうゝとしかるもらうたし。あこはしゝまだせじ、こちへとひきよするに、いなといひてかけいでんとするを、からうじてひきとゞめつ、やをら手をやれば、例のもらしつ。やがてしめりたるものぬぎかへさせ、さきのふせごうちきするにぞ、くさゝもうちそひ侍りて、はなもちもならぬものから。
[訳]  母が行かせないようおさえていると、3歳の子の同じように行なっている。うんと叱ってみる。この子はおしっこはまだしないが、ここでしようというと、いやだと答えて、駆けて行こうとする。なんとか引きとめて、手を置くと、例のやつが漏れている。湿ったのを脱がして、衣服を替えたが、はなもちもならない臭さだった。

 とどむ おさえて行かせないようにする。
おと 年少の者。おとうとか、いもうと。
うう 理解や承諾・納得などの意。うん。
あこ わが子。自分の子。
ひきよする 引き寄せようとすると
かけいでん 駆けて外に出ようと
もらし 尿や液体などを漏れるようにする。こぼす。
ふせご 伏せ籠。香炉や火鉢などの上に逆さに伏せておく籠。上に衣服を掛けて暖めたり、香をたきしめたりする
うちきする うちきる。打ち着る。身にまとう。着る。かぶる


隣家におくれることば これも「四方のあか」の一節です。

われらもとより猫の額ほどの地にすめば、馬の屁をかぐ長屋住居にもあらず。くらやみからひく牛ごみのほとり、東南にちまたあれば、この二方向に隣なし。北には姉弟はた甥など家ゐしおれば、他人のはじめの隣ともいひがたし。たゞ西隣のあるじのみ、まことの隣といふべくして、したしき中の垣ねより、一もとの柳さし出たるは、彭沢が五もとにもまさりたるに、この比いとよりかくる春霜の、とけかゝりたるほころびぐち いはんかたなし
[訳] 私たちが昔から猫の額ほどの地に住んでいる。馬の屁が臭い長屋ではない。牛込の周辺にあって、東と南に道路があり、この2方向には隣家がない。北には姉弟や甥などの家があり、他人の始まりともいうが、それでも隣家とは言い難い。西側の隣家の主人こそ本当の隣家だといえる。親しい中でも垣根を越えて、1本の柳草をくれるのは、彭沢草5本をくれるよりも優っている。例えば古今和歌集の「あおやぎのいとよりかくる春しもぞ みだれて花のほころびける」のように何とも素晴らしい。

 馬の屁をかぐ においはヒトのオナラのにおいに似ているが、それほど臭くはない。中国語の「拍馬屁」は「おべっかを言う、お世辞を言う、ごまをする」
くらやみからひく 「くらやみ」はまったく光がなく、暗い。「暗がりから牛を引き出す」だと暗い所に黒い牛がいると何が何やらはっきりしないところから「物の区別がつかない」
牛ごみ 牛の胃からのごみ。ここでは「牛込」の意味でしょう。
ちまた 道の分かれる所。分かれ道。
一もと ひともと。木や草などの一本
 柳ではなく、柳草でしょう。柳草とは植物「やなぎらん」か「ぶきとらのお」か「うなぎつかみ」か「ぬま虎尾とらのお」の異名。
彭沢 ほうたく。中国最大の淡水湖。「彭」は「つづみを鳴らす音」から「盛んな、数が多い」。「ほうちゃく草」は美しい花をつける植物。
五もと 5本か?
いとよりかくる…… 古今和歌集の「青柳あをやぎの いとよりかくる 春しもぞ 乱れて花の ほころびにける」(春になり青々と垂れている柳 その柳の長い枝は風になびいて糸をよりあわせて布を織っているようである そんな春であるが 桜の花は乱れて 布の糸がほどけるように咲いている)
ほころび ほころびること。縫い目などがほどける。
いはんかたなし いわんかたなし。「言はん方無し」。何とも言いようがない。たとえようもない。


とっつき いくつかあるうちのいちばん手前。
尾崎紅葉が藁店 尾崎紅葉氏の住所は「東京牛込区北町41番」でした。

幕末の剣士近藤勇の道場跡|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)から「市谷地区 11. 幕末の剣士近藤勇の道場跡」です。

 幕末の剣士近藤勇の道場跡
      (市谷甲良町20
 甲良町を西に進む。T字路に出るが、その左手前一帯は新撰組の近藤勇や土方歳三などの剣士を送り出した道場「試衛館」のあったところである。
 試衛館は、はじめ天然理心流の近藤周助(武州)の道場であった。そこは、幕府の作事方棟梁甲良豊前が拝領した甲良屋敷で、弟子は千人以上居たという。道を隔てたすぐ西隣に柳町25番地の稲荷神社は、近藤邸内にあったものだという。
近藤勇 こんどういさみ。生年は天保てんぽう5年10月5日。宮川久次の3男。名は昌宜。剣道を天然理心流の近藤周助に学び、その養子となる。幕府に仕えて尊王攘夷派志士の取締りにあたり、元治元年(1864)京都池田屋に志士らを襲撃。しん戦争では甲陽こうようちんたいを組織して政府軍と戦ったが、下総流山で捕えられ、処刑された。
市谷甲良町20 市谷甲良町20は当時、ここが試衛館の道場だと考えていた場所。現在はそれより西の市谷柳町25が正しいと考えています。なお、現在の市谷甲良町20は市谷甲良町1-12になりました。

甲良町か柳町か。地図は明治20年の住宅地図。

土方歳三 ひじかたとしぞう。幕末の新撰組の副長。隊長近藤勇を助けて活躍。鳥羽伏見の戦いに敗れたのちも官軍に抵抗し、箱館りょうかくで戦死。
試衛館 しえいかん。江戸の剣術の道場。天然理心流3代宗家の近藤周助が天保年間(1830-1844)に開設。新撰組局長となる宮川勝五郎(近藤勇)は周助の養子となって4代宗家を継ぎ、道場主をつとめた。

柳町周辺。試衛館と稲荷神社

天然理心流 てんねんりしん りゅう。剣道の流派の一つ。遠江の人、近藤内蔵助長裕が寛政年間(1789‐1801)に創始
武州 武蔵国の別称。現在の東京都と埼玉県、神奈川県川崎市、横浜市にあたる
作事方 さくじかた。江戸幕府の役職。作事奉行の下に属してすべての工事関係に当たったが、のちに小普請方・普請方が置かれてからは、建築、修理だけになった。さじかた。
棟梁 ここでは大棟梁の意味。作事奉行の下に位する大工頭が工事全体を統轄し、その下の大棟梁が設計面の管理や諸職人の手配などを受けもった。
甲良豊前 こう氏は、幕府大棟梁を務めた家系である。東京都図書館「江戸城造営関係資料Q&A」「甲良家は江戸時代どこに住んでいたか」によれば「徳川家の老女栄順尼の拝領屋敷だったところが、元禄13年(1700)甲良豊前に譲られ、正徳3年(1713)町奉行支配に転じた。甲良家は切米百俵だけでは配下を養っていけないので、地貸しを許されていて、その地に町人が住んだことから町奉行支配となり、この地域を甲良屋敷と言うようになった」。また、竹内誠編『東京の地名由来辞典』(東京堂出版、2006)138頁では「江戸時代の甲良屋敷は現在の市谷柳町25番地に該当し、現在の市谷甲良町は、江戸時代には御先手組と御持組大縄地にあたり、町域が異なっている」
柳町25番地の稲荷神社 正一位稲荷神社。試衛館稲荷とも。上図を参照。

 近藤勇は、天保5年(1834)10月9日、調布市在の農業宮川久次郎の三男として生まれ、幼名を勝太といった。成人してこの試衛館に入門して武芸を励んだ。近藤周助は勝太の技量と人物を見込み、嘉永2年(1849)10月19日に養子に迎えた。勝太16才の時で、この時、勇と改名した。
 勇の武芸は、日ごと上達し、また一人前の道場経営者になったので、周助は周斉と名を改めて四谷舟町に隠居し、慶応3年10月28日、76才で病死した。
 柳町の試衛館は、手挾まになったので、のちにこの東の二十騎町に移転した(その年月日不明)。
 近藤勇は、幕府で募集した浪士隊に参加したが、徳川14代将軍家茂の公武合体を実現するための上京にあたって、文久3年(1863)の春、その前衛隊となって京都に上った。勇はその後新撰組を組織して隊長となり、勤皇狩りを始めるのである。
 試衛館出身で近藤勇につぐ剣士としては、土方歳三(日野の在、石田の農家生まれ)、山南敬助(仙台の浪人)、沖田総司(奥州白河藩出身)、井上源三郎(日野宿出身)たちで、これらは勇門下の四天王といわれた。
〔参考〕新宿郷土研究第三号 新撰組史録 明治を夢みる
天保5年(1834)10月9日 現在は「生年は天保5年10月5日(1834年11月5日)。没年は慶応4年4月25日(1868年5月17日)」としています。
宮川久次郎の三男 ウィキペディア(Wikipedia)では「武蔵国多摩郡上石原村(現在の東京都調布市野水)に百姓・宮川久次郎と母みよ(ゑい)の三男として生まれる。幼名は勝五郎、後に勝太と改める」。別称は昌宜(まさよし)。
近藤周助 ウィキペディア(Wikipedia)では「江戸時代末期(幕末)の剣豪。天然理心流剣術3代目宗家。新選組局長近藤勇の養父。旧姓は嶋崎。幼名は関五郎・周平、後に周斎。諱は邦武。妻は近藤ふで」「近藤三助(天然理心流剣術2代目)の弟子となり、天保元年(1830年)に流派を継いで、近藤の姓を名乗る」。天保10年(1839年)、天然理心流剣術道場・試衛館を江戸市谷甲良屋敷(現新宿区市谷柳町25番地)に開設した。没年は慶応3年10月28日(1867年11月23日)
手挾ま 正しくは「じま」。住居、部屋などの空間が、生活や仕事をするのには狭い。
浪士隊 ろうしぐみ。1862年(文久2年)江戸幕府が出羽国庄内地方の浪士(幕府や藩と主従関係のない武士)清河きよかわ八郎はちろうの献策を受けて、浪士たちを募集した。目的は江戸幕府14代将軍徳川家茂いえもちの上洛に先立ち、京都の治安回復を図ること。壬生浪士、新選組、新徴組の前身。
公武合体 江戸時代末期に朝廷(公)と幕府(武)が協力して政治を行うこと
新撰組 幕末期、江戸幕府が浪人を集めて作った集団。1862年(文久2)幕府は清川八郎などの協議により浪士隊を作り、同年2月に300人余を集め上京し、壬生みぶ村屯所に分宿。しかし、尊攘の大義をめぐって分裂し、分派の清川派は江戸へ引き揚げた。京都守護職松平容保(会津藩主)の支配と庇護のもとに近藤勇、芹沢鴨らは組織を再建、新撰組と名づけた。1863年9月、無謀な行いのあった局長芹沢せりざわかもを斬り、近藤勇、土方ひじかた歳三としぞうが実権を掌握。発足時は24名だったが、最大時には約230名の隊士が所属していたとされる。
勤皇 勤王。京都朝廷のために働いた一派。
狩り 追いたてて捕らえること。「魔女狩り」
山南敬助 近藤勇らとともに新選組を結成する。当初は副長、後に総長。屯所移転問題を巡り近藤や土方歳三と対立を深め、最終的に脱走。新選組の隊規に違反したとして切腹。何故切腹にまで至ったか真相は謎である。
沖田総司 江戸末期の新撰組隊士。奥州白河藩を脱藩し、新撰組設立当初から参加。近藤勇の刑死後、江戸でおそらく肺結核により死亡。天然理心流の剣法にすぐれ、池田屋事件で活躍。
井上源三郎 近藤勇の兄弟子。京都池田屋事件では土方隊の支隊の指揮を担当。近藤隊が斬り込んだという知らせを受けて部下と共に池田屋に突入、8人の浪士を捕縛する活躍を見せる。慶応4年、鳥羽・伏見の戦いで、淀千両松で官軍と激突(淀千両松の戦い)、敵の銃弾を腹部に受けて戦死。享年40。
勇門下の四天王 近藤勇門下の四天王。新宿郷土研究第三号の「近藤勇の試衛館道場」によれば、土方歳三、沖田総司、井上源三郎、山南敬助の4人。

 新宿郷土研究第三号の「近藤勇の試衛館道場」(新宿郷土会、昭和41年)では……

近藤勇の試衛館道場
 天然理心流近藤周助(邦武)の経営する道場試衛館は、市谷柳町甲良(高麗)屋敷にあった。しかるに大衆文学の作家である子母沢寛氏の『新選組始末記』には、永倉新八翁遺談として「近藤勇の道場試衛館は小石川小日向柳町の上にあった。」と誌しているが、これは永倉新八の記憶ちがいか口述筆記のまちがいであろう。なぜなら近藤の実家宮川家には、近藤周助と間で養子縁組をした当時の文書があるがこれには、「嘉永2年酉10月19日江戸高良屋敷西門、近藤周助」とある。また、平尾道雄氏の『新撰組史録』には、試衛館は「初め市ヶ谷柳町上高麗屋敷に在ったが、もと大工棟梁何某の住宅跡で、場所が狭かつたので、後になって牛込二十騎町に移された。」とあるが、二十騎という町名のできたのは明治5年(1872)でしたがってそれ以前は、二十騎組といっていた。それはともかく最初にあつた試衛館の位置だが、これは江戸切絵図などから想像して、現在の甲良町20番地がその跡だと推定している。
 前述のように近藤周助と宮川勝太(勇)との養子縁組によつて試衛館の経営は、近藤の手に移され、周助は四谷の舟板横町に隠居する。
 勇の道場の出身者で四天王といわれるのは、土方歳三、沖田総司、井上源三郎、山南敬助である。
近藤周助(邦武) 新選組局長近藤勇の養父。旧姓は嶋崎。幼名は関五郎・周平、後に周斎。いみな(死後に、生前の業績などで贈った称号)は邦武。妻は近藤ふで。
甲良(高麗)屋敷 甲良(こうら)と高麗(こうら)なので、どちらの漢字も使ったのでしょう。
子母沢寛 しもざわ かん。小説家。生年は1892年2月1日。没年は1968年7月19日。
新選組始末記 子母澤寛の小説。昭和3年に万里閣書房から『新選組始末記』を処女出版し、昭和44年に角川文庫から『新選組始末記』、講談社も昭和46年に『新選組始末記』を出版。
永倉新八 幕末の武士で、松前藩から脱藩し、心形刀流の師範代。のちの新選組隊士。「新選組始末記」では「永倉新八翁遺談」としている。没年は大正4年1月5日
江戸切絵図 嘉永4年(1851)「市ヶ谷牛込絵図」のこと。

二十騎町と市谷甲良町。景山致恭、戸松昌訓、井山能知 編「市ヶ谷牛込絵図」尾張屋清七。嘉永4年(1851)

牛込二十騎町 牛込甲良町の東隣に位置する。天龍寺境内で、天和3年(1683)寺が類焼し移転。御先手与力2組の屋敷に。その1組が10人(騎)なので牛込二十にじっ町と呼ばれていた(東京府志料)。1857年の尾張家板江戸切絵図で「二十キクミ」(上図)と記す。明治4年6月、町として成立。明治44年(1911)「牛込」を省略、二十騎町に。
甲良町20番地 現在は柳町25番地。
嘉永2年酉…… 平尾道雄著『定本新撰組史録』(新人物往来社、1977)は平尾道雄著『新撰組史録』(白竜社、1967)の改訂版で、これも国立図書館でそのまま読めます。

   差出申養子一札之事
ー、今般貴殿枠我家養子に貰請度申入れ候処、早速相談被下、我等方に貰請候処実正也。然る上は諸親類は不申、勝手とも差構無く御座候。仍之加印一札入置申処仍て如件。
  嘉永二年酉10月19日
江戸高良屋敷西門 近 藤  周 助
世話人      山田屋  権兵衛
同        上布田村 孫兵衛
  站村 源次郎殿
  代  弥五郎殿

新撰組史録 平尾道雄著『定本新撰組史録』(新人物往来社、1977)では。

試衛館は天然理心流ー近藤周助(邦武・号は周斎)の道場で、はじめ江戸市ヶ谷柳町の上高麗屋敷にあった。もと大工棟梁の住宅を道場に使っていたが場所がせまいため、後に牛込二十騎町に移っている。

恋慕ながし|小栗風葉

文学と神楽坂

 「れんながし」は小栗風葉の小説で、明治31年9月1日、読売新聞で連載。12月1日、70回で中断し、完成は明治33年5月。きん流尺八の天才青年はたじゅんすけとバイオリニストの五十いおずみようの純恋で始まり、2人は師の家を明けたために破門、流しに。葉子の世話を任された銀次は彼女に惚れ改心。陰謀に巻き込まれ絶望した葉子は自殺。銀次も人足頭の熊五郎を刺して、死亡。純之介だけが生き残る。波瀾万丈の大活劇ですが、心に残るものはない。木賃宿、売春という醜い現実も描いています。
 ここでは「恋慕ながし」の原本に国立図書館の本を参照し、その2頁に多分尺八の楽譜があって、見るだけで頭が痛くなります。
 この時代、本来の漢字の読みとルビは別々なので、ルビはそれこそ自由につけてもよかったようです。
 なお「恋慕ながし」や「れん流し」は、禅宗のうち普化ふけしゅうの僧、虚無こむそうが尺八の曲「鈴慕」を吹きながら托鉢たくはつ、つまり鉢を携えて人々に食物や金銭を乞う修行法です。

だ縁日は在るでせうね。みせでも見ながら、其処そこまで一緒に送って行くわ。」
 二人はあいともなって宿やどを出た。山手やまのていちいわれるここ毘沙門天縁日は、寺町てらまちとおりから神楽坂の下へけて両側に火のらちを使っている。宵のひとけいに比べては多少さびれたが、なおこのあたりにはめずらしいひとで、下駄の音、金鼓わにぐちの声、境内けいだいの見世物小屋は言立いいたてのどからして、鳴物なりものひびきつくして、この退色ひきいろの人のうしお要留くいとめようとあせっている。おようず目にいたのは、ゆきう群衆の、女の円髷まるなげすさまじくおおきいのと、口髯くちびけやした男の極めて多いのとで。
 あるまがりかどの、太白たいはくあめかげうす暗所ぐらがり薄縁うすべりを敷いて、よしある者のはてかともおぼしき女乞食の三きょく合奏がっそうするのがあった。このみちにはいずれも少からぬ嗜好テーストっている2人は、言い合せたように立停たちどまると、彼等はむかえるが如く調子をたかめて「男髪くろかみ」をき出したので、純之助はつならなそうに退いてしまう。続いておようも立去ろうとするそのはいさっしてか、丁度自分の母と同じ年頃の、しか髪毛かみのけ護摩ごましおまでが匹似そっくり琴弾ことひきが、真白まっしろな見えぬ目をみはじろりみあげたのが、たとえようのないが加厭いやな心持がして、彼はばや財囊ぜにいれの小銭を投げて退いた。
露店 ろてん。路上や寺社の境内などで、商品を並べて販売する店。
 エン。ひく。ここに。ここにおいて。これ
寺町 通寺町。とおりてらまち。昭和26年5月1日、神楽坂6丁目と改称。
 らち。仕切りの垣。囲い。範囲。限界。
 る。したがう。かさねる。しきりに。しばしば
希しい 読み方としては「めずらしい」はありませんでした。読み方は「キ。ケ。まれ。ねがう。こいねがう」です。めったにない。希有けう
金鼓 きんこ。こんく。金鼓は鰐口わにぐちや金口とも呼ばれ、仏堂の正面軒先に吊り下げられ、すずを扁平にした金属製の梵音ぼんおん(音を出す仏具)。

鰐口。ウィキペディアから

言立 いいたて。宣伝の口上。それをする人
 のど。咽頭。喉頭。
涸す からす。枯す。嗄す。乾燥させる。かわかして水分をなくす。
鳴物 なりもの。楽器の総称。音曲。器楽。
退色 色がだんだん薄くなること。色があせること
 月や太陽の引力によって周期的に起こる海面の昇降。うしお。海水。潮流。海流。事をするのによい機会。
要留める 「食い止める」。辞書では「要留」はありません。
躁ぐ ソウ。さわぐ。さわがしい。あわただしい。うごく。
円髷 江戸時代から明治時代を通じて最も代表的な既婚女性の髪形。
太白飴 たいはくあめ。精製した純白の砂糖を練り固めて作った飴。

太白飴

太白飴

薄縁 畳の表だけを敷物にした物。
嗜好 しこう。たしなむこと。このみ。taste
気勢 きせい。意気込んだ気持。いきおい。気迫、気宇、勢い、力強さ
護摩塩 護摩行で祈祷されたお清めの塩。護摩塩頭は黒い髪の毛に白髪のまじった頭。しらがまじりの頭。
匹似 ひつじ。
琴弾 きんだん。ことひき。琴をひくこと。その人
瞪る みはる。目を大きく開いて見る
 チョウ。リョウ。まっすぐ見る。じっと見つめる。
瞻る まばる。みる。見上げる。あおぎみる。
手疾く 手早く。動きが素早い
財囊 ざいのう。金銭を入れる袋。財布。銭入れ。ぜにいれ。銭を入れるもの。財布・がまぐちなど

 純之助は神楽坂の下口おりぐちを左へ曲るのが近道であるが、なお坂下にはすべき店もあるので、まわりみちとは知りつゝも坂をくだる。とそののぼりくちから左へあげ片側かたがわは一面の植木屋、春は遅咲おそざきふじこえだらぬのに、ここ牡丹ぼたんあたいまずしく、すがしまって、あやむらさきや、なでしこくれないや、百合花ゆり紫陽あじさい鉄線てっせん花物はなものから、青梅あおうめあおなどのものものすべて夏の色であつた。
 値。ねだん。代金。
闌ける たける。盛りの時期・状態になる。たけなわになる。
瞿麥 なでしこ。撫子。瞿麦。ナデシコ科の多年草。夏から秋、淡紅色の花を開く。秋の七草。
鉄線花 てっせんか。キンポウゲ科の蔓性植物。
青柚 あおゆ。ユズの未熟果実。

 今度は銀次の話です。

彼は遂に帰途を神楽坂へ出たのである。場末ながらもここあたり有繋さすがに狭斜の地、時間過ぎの鳴物なりものこそだが、さびもやらぬ茶屋、待合の二階には華やかなともしの影法師もうつって、お手の鳴る音、けんの声、そぞろはしげなしょう軒竝のきなみつまを取ったなまめかしい姿がしきに出入して、春の夜のちまたの酒臭い人にも逢う。ある新道の間の、御贔屓様御一枚を鳴してゐる仮声こわいろ使づかいの後を曲って、銀次はうめと謂う御神灯の出たいちごうの門まで来たが、見れば入口の戸の一枚だけかけてあって、印灯かんぱん退かれているので、彼は今更に躊躇の足をとどて、惘然ぼんやり軒下のきしたたたずんだ。
鳴物 楽器。音曲。
歇む やむ。つきる。ケツ。カツ。アツ。やむ。おしとめる。やめる。つきる。ない。むなしい
寂れ さびれる。活気がなくなって寂しくなる。ひっそりする。勢いが衰える
 ともしび。とうか。とぼし。ともし火。明かり。灯火。
 二人以上が、手や指でいろいろの形を作って勝敗を争う遊戯。
漫はし そぞろはし。心が落ち着かない。いやな気分である
笑語 しょうご。笑いながら話す。笑い話
軒竝 のきなみ。屋根が外壁よりも外側に出て、左右に並んでいる様子。
 つま。長着のすその左右両端の部分。長着のあわせや綿入れの褄先にできる丸みの部分。「ひだりづまを取る」は「芸者勤めをする」
媚かしい びる。こびうつくしい。女が男に対して色気を示すこと。現代は「なまめかしい」は「艶めかしい」
連り つがり。連。鎖。つらなり続くこと。この小説では「しきりと」と読ませ「たびたび。しばしば。ひっきりなしに」
 ちまた。町の中の道路。にぎやかな所。まちなか。
御贔屓様 ごひいきさま。芝居や芸人などを特に目をかけて可愛がってくれる人を、芸人の側から呼ぶことば。ひいき筋。
御一枚 相撲や役者の番付、看板で、1枚に一人を書くので、一人。ある仕事や役割を行なう一人。
 き。拍子木のこと。長さ20~30cmのかしの角棒を2本打合せる。楽屋内の合図、幕の開閉などに用いる。
仮声使い こわいろづかい。声色遣。役者などの声や口調をまねること。その人。声色屋
梅廼家 うめのや。おそらく花街の待合などの1店舗。
御神灯 ごしんとう。神前に供えるあかり。芸人の家や芸者屋などで、縁起をかついで戸口につるした提灯
江一格子 えいちごうし。細い桟を縦にごく狭い間隔で打ちつけた窓格子。中からは外が見えるが、外からは見えにくい。
鎖懸 しかけ。戸じまり。外敵の侵入を防ぐ要所。要害
印灯 かんぱん。不明。商標付きのあかり?
停め とどめる。留める。移動をそこでやめさせ、その状態を保たせる
惘然 ぼうぜん。もうぜん。呆然。あっけにとられているさま。気抜けしてぼんやりしているさま。