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神楽坂|関根弘 昭和61年
関根弘氏の「パビリオンTokyoの町」(創樹社、昭和61年・1986年)です。氏は詩人、評論家で、小学校の時から詩を発表。問屋小店員から、木材通信社、日本農林新聞、軍事工業新聞などの業界紙記者になり、日本共産党員における活動(昭和21年)と除名(昭和36年)。昭和34年からは詩作と評論に専念し、昭和58年(1983)、腹部大動脈瘤が破裂し、人工透析に。生年は大正9年(1920)1月31日。没年は平成6年(1994)8月3日。74歳。
神楽坂
山田紙店の原稿用紙
石垣りんに「神楽坂」という詩がある。出版クラブの帰り道、飯田橋駅へ向かってひとりで坂を下りていくと、先を歩いていた山之口貘が立ち止まって、あのアタリに、と小路の奥を指さし、「ヘンミユウキチが住んでいました」といった。あとの記憶は立ち消えたが、私は「このアタリに」山之口貘が立っていたと思うという内容だ。神楽坂の情景が描いてあるわけではないが、これを読んだとき、ああ、神楽坂だな、とわたしは思ったものだ。出版クラブや飯田橋駅が出てくるからではない。小路が決め手だ。
神楽坂は、坂を幹とすれば、左右に枝のように小路があって、ヘンミユウキチが住んでいただけではない。わたしの友人も住んでいたし、飲み屋が軒を並べていた。飲み屋はいまも軒を並べている。坂の上の毘沙門天の横を入っていけば、三業地。こちらのほうは、かつてもいまもわたしに無縁の世界だが、神楽坂の色どりになっている。わたしは青春時代の一時期、この神楽坂の空気を呼吸していた。青春時代には、いま自分が青春を生きているなどとは思わないもので、わたしもいかに安くて美味い酒を飲むかに腐心していた。 21歳から23歳になるまで、神楽坂を向かいから見下ろす位置にある富士見町の高台、警察病院の横を入ったところの新聞社に勤めていた。新聞社といっても、林業、木材だけを対象とする業界紙で、社長は平野増吉という岐阜の林業家。かつて日本電力の庄川ダム建設工事に反対し、木材の流送権を楯にとってたたかった猛者だった。当時は木材の統制、自由営業の廃止に強く反対していた。 朝、出勤すると、高橋隆という初老の営業局長に「お茶を飲みにいきましょう」と誘われ、電車道を挟んだ神楽坂まで下りていき、坂下のブラジル・コーヒー店に入る。そこで社長の武勇譚を聞かされたり、木材統制反対の秘策を練ったりで、たちまち一、二時間は空費され、それから取材に出撃ということになる。夜は夜で、編集部長の岡野敬治郎という男に「一杯、飲みにいこう!」と誘われ、やはり坂下の「松竹梅の酒蔵」を振りだしに、神楽坂を漫遊することになる。つまり、小路の奥に入っていくことになるわけである。同僚の記者も不思議にお酒の強いものばかりで、電車道をもう一つ越えた坂の中途の左を入ったところの「官許どぶろく」の看板を出している飯塚という飲み屋によく連れていかれた。 終電に乗り遅れることもしばしばだった。すると、小路の奥にある岡野敬治郎の家や同僚の境野くんのアパートに泊った。八木さんという同僚の飲んでいる姿は亀のようだった。境野くんのアパートの部屋には枯れた花がいつまでも捨てられずに挿してあった。日米開戦で統制がきびしくなり、1円50銭以上は飲めないことになったが、開戦当初は店内に入れば明るく、ハシゴすれば充分飲めたのであった。わたしは、開戦前夜の飯田橋駅と神楽坂の情景をつぎのように書いている。 夕方5時から6時頃の間の最も混雑する時で、高台の蔭にカーブしたレールの上に最初の車輌が姿を現はしたのを見つけて慌てて改札口に一刻を争ふ人々が多く見受けられた。すこし急げば間に合ふのを落着きはらつて見送る人もあった。女学生や女事務員は改札口の脇にある長椅子にかけて大抵は友達を待合せて帰つた。/其等の人々は高台の方から何処からともなく集つてくるのであつた。濠を越えた向ふには和洋折衷式の屋並が群れ、その屋並をたち切つてVの字型にせり上つた繁華な坂があるが、その方向から来る人は少かつた。(昭和16年5月)
正岡子規の写生小説の向こうをはって書いたつもりの短篇からの抜萃である。出来栄えのほどは誇るわけにいかないが、これが戦時下かと思える雰囲気を伝えることには成功しているだろう。
原稿用紙はむろん神楽坂の老舗山田紙店製のものを使った。山田紙店の原稿用紙は、本郷の松屋製の原稿用紙と並んで有名である。松屋製の原稿用紙は夏目漱石が愛用した。わたしの短篇は、洛陽の紙価を高めることはできなかったが、それは山田紙店もいたしかたないと思うだろう。 先日、地下鉄東西線の神楽坂駅を降りて、なつかしの古戦場を一巡してみた。山田紙店の前に来たら、店の間口が半分に削られており、半分は、都営と営団地下鉄飯田橋駅の乗降口になっていた。時の移り変わりのはげしさを痛感したが、性懲りもなくまた原稿用紙を買ってしまった。弘法は紙を、いや筆を選ばぬというのに……。 |
山之口貘 やまのくち ばく。詩人。生年は1903年(明治36年)9月11日。没年は1963年(昭和38年)7月19日。放浪と貧窮の中で風刺とユーモアを感じさせる詩作。
ヘンミユウキチ 逸見猶吉。詩人。生年は1907年(明治40年)9月9日。没年は1946年(昭和21年)5月17日。1928年、21歳の頃、神楽坂で酒場「ユレカ」を経営。壮大でニヒル、暗い詩風。
三業地 芸妓屋、待合、料理店の三業組合(同業組合の一種)がある区域
色どり 物に美しく色をつけること。着色。彩色。おもしろみや変化を求めて工夫を凝らすこと。
21歳から23歳になるまで 昭和16年から昭和18年まで。1941年から1943年まで。
警察病院 東京警察病院。総合病院。千代田区富士見町。沿革によれば全館竣工は1970年(昭和45年)3月。2008年(平成20年)4月に中野区中野4丁目に移転しました。
新聞社 麴町区富士見町2丁目9番地の日本農林新聞(関根弘氏の「針の穴とラクダの夢 : 半自伝」草思社、昭和53年)。同書によれば、氏が日本農林新聞に入ったのは昭和15年(1940)頃です。
平野増吉 ひらのますきち。明治24年、林業界に入る。飛州木材専務。大正15年の庄川事件(小牧ダム・小牧発電所)では中心的な役割を果たし、流木権と山村民の生活権をめぐって電力会社(日本電力など)と争う。昭和12年から日本農林新聞社長。昭和16年、国の木材統制に反対して投獄。戦後の昭和21年、日本進歩党から岐阜県の衆院議員に当選1回。生年は明治11年4月20日、没年は昭和34年11月1日。81歳。
林業、木材だけを対象とする業界紙 「日本農林新聞」です。
電車道 でんしゃみち。路面電車の軌道。路面電車が敷設してある道路。電車通り。ここでは「外堀通り」です。
ブラジル・コーヒー店 インターネットの「西村和夫の神楽坂」(東京理科大学理窓会埼玉支部、現在ブログは終了)では
戦後は消えてしまったが、坂下の「ブラジル・コーヒー」と「松竹梅酒蔵」の2軒はこれから神楽坂を漫遊しようという人がまず寄るところだった。席が空いていることは少なく、物理学校の生徒がノート整理に使っていた。「松竹梅酒蔵」は坂上の「官許どぶろく飯塚」と共に戦争中国民酒場として最後まで酒が飲めたところだ。戦後間もなくメトロ映画劇場ができたが、客の入りが芳しくなく廃めた。 |

牛込三業会「牛込華街読本」中の「現在の神楽坂」昭和12年 昭和10年代の神楽坂通り(写真)

都市製図社『火災保険特殊地図』昭和12年 昭和10年代の神楽坂通り(写真)
松竹梅の酒蔵 「松竹梅酒蔵」は大正9年、灘の酒造家・井上信次郎が酒柄に「清酒之精華 松竹梅」と名付け、昭和8年、宝酒造の傘下として松竹梅酒造を設立。「松竹梅」の販売を強化した。
電車道をもう一つ越えた坂 電車道の中で大久保通りという電車道を超えて朝日坂になった。
屋並 やなみ。家が並んでいること。並んだ家。のきなみ。やならび。
昭和16年5月 「針の穴とラクダの夢 : 半自伝」によれば、「文化再出発の会」の雑誌「文化組織」(昭和16年5月号)に載った短篇「最後の扉」です。
松屋製の原稿用紙 東京雑写では
本郷 紙屋・松屋跡(芥川龍之介の原稿用紙) 東大正門近くの本郷通り沿いで、日本初の大学ノートの製造販売をおこなった紙屋「松屋」。 1884年(明治17年)に紙製品の製造販売を目的として創業し、原稿用紙の扱いでは、文豪・夏目漱石、芥川龍之介、徳田秋声らの愛顧を得てゆく。特に芥川龍之介が愛用し、青い枠線・左下の同色の店名の入った原稿用紙を、現在でも各地の文学館の催し等で度々目にすることができます。駒場の日本近代文学館の芥川龍之介展でも展示原稿のほとんどが松屋製。甲府の山梨県立文学館でも芥川直筆の松屋製の1枚が展示されていた。 松屋は昭和19年、戦局悪化の中、空襲による類焼防止のための建物疎開命令で店舗を解体。店の裏(西側)にあった土蔵を残して、路地(落第横丁)の北側に工場を移転して営業再開。創業69年目の1955年(昭和30年)になって紙屋「松屋」は解散しました。 |
新宿・世界の繁華街|新宿区観光協会 昭和55年
新宿区観光協会の「新宿・世界の繁華街」(新宿区観光協会、昭和55年9月)です。
この図はID 11875(昭和54年)より後の時代でしょう。下図の右2は標柱「新宿区教育委員会」ですが、ID 11875の右2に相当する部分(最下図を参照)には何もありません。
坂のある東京絵図|服部銈二郎 昭和62年
朝日旅の事典「東京(山の手・副都心)」(朝日新聞社、1987年)の服部銈二郎氏の「坂のある東京絵図」です。問題はこの写真の坂は、一体、どこの神楽坂の坂なのでしょうか? 答えは最後の1節に書いています。
坂が映し出す都会の暮らし 台地と谷の交錯する山の手台地のささやかな襞も、徒歩交通の時代の住民たちにとっては、坂の障害性として映ったことだろう 。 坂道の急傾斜性と緩傾斜性は、坂名に丹念に記録されている。夏の日盛り、歩いて急坂を登ることは難渋なことだったのだろう。屏風坂、胸突坂、牛鳴坂などに、その苦しさが刻まれている。 急坂の「胸突坂」に対し、車が通れる緩やかなダラダラ坂を「永坂」と呼んでいる。ダラダラ坂のタイプには、永坂、長坂、永たれ坂、七曲坂、大坂などの名称が考えられる。この種の計画的な坂道は、幅が広く、延長も長く、車両の交通には利便である。そこで交通量の多い九段坂や切通坂には「立坊」と呼ばれる荷車後押しの賃稼ぎ人足が、たくさんたむろしていたという。また、古い昔からの坂道は、道幅も狭く、傾斜が急なだけでなく、伝統的江戸の感触も多分に残している。本郷の菊坂、麻布の芋洗坂、牛込の浄瑠璃坂などが該当する。 急坂には、平行して緩い坂道が並ぶことがある。麹町の中坂(急)に対して九段坂(緩) 、目黒の行人坂(急)に対し、権之助坂(緩)は、後から造られたものである。そこには、胸突坂、永坂同様、坂道として使いやすいか、どうかの二面性が読みとれる。 坂道の景観には、変わりやすい都会人の移り気性が表れる。「神楽坂」が明治末の若者にもてた山の手流行商店街とするなら、渋谷で脚光を浴びる「スペイン坂」は、現代ヤングのあこがれの的、先端的なファッショナブル・ショッピング街といえる。神楽坂は百年の伝統的老舗商店街であり、スペイン坂はせいぜい十年来の新興の、ナウいレストラン・ブティック街である。坂を通じて都会人の移り気性を改めて垣間見た思いである。 |
坂の障害性 坂がさまたげること。あることをするのに、さまたげとなる坂。
難渋 なんじゅう。物事の処理や進行が困難で渋滞する。すらすらと事が運ばない。
屏風坂 びょうぶざか。上野駅の北側で、上野公園内から東に下っていた坂。現在はなし。
胸突坂 むなつきざか。文京区本郷にある坂。同区にはほかに西片と関口に同名の坂がある。
牛鳴坂 うしなきざか。赤坂から青山へ抜ける厚木通で、路面が悪く車をひく牛が苦しんだために名づける。さいかち坂。
永坂 ながさか。麻布台上から十番へ下る長い坂。長坂とも書く、
長坂 ながさか。永坂の別の名前。
永たれ坂 ながたれざか。長垂坂。「なだれ坂」の方が有名。港区六本木3丁目2番と4番の間にある坂。土崩れがあったためか流垂・奈太礼・長垂とも書き、幸国寺坂、幸国坂、市兵衛坂の別名もあった。
七曲坂 ななまがりざか。新宿区下落合にある坂。新宿下落合氷川神社北西側から北に登る。
大坂 おおさか。目黒区青葉台4丁目にある坂。街道の40余りの坂の中で、最も大きな坂
九段坂 くだんざか。地下鉄九段下駅から内堀通りに沿って靖国神社の南側に上る坂
切通坂 きりどおしざか。文京区湯島3丁目と4丁目の間。
菊坂 きくざか。本郷通りから西片1丁目までの長くゆるやかな坂。
芋洗坂 いもあらいざか。港区六本木にある坂。芋問屋があったから。
浄瑠璃坂 じょうるりざか。新宿区市谷にある坂。
中坂 なかざか。冬青木坂と九段坂の中間にある坂。
行人坂 ぎょうにんざか。目黒区下目黒と品川区上大崎にまたがる坂。
権之助坂 ごんのすけざか。目黒駅から目黒新橋に至る約400mの坂。
スペイン坂 六本木通りからスペイン大使館につながる坂。1975年(昭和50年)、渋谷PARCOから通りの命名を依頼された喫茶店「阿羅比花」の店主、内田裕夫氏によって、名付けられました。
この写真は石畳が沢山ある、かつての「芸者新路」です。神楽坂仲通りから上の芸者新路を見たものです。現在は石畳ではなくなり、一部に白黒タイル敷きの路地に変わりました。
押詰った年の暮|大正8年
明治大正昭和新聞研究会の「新聞集成大正編年史 大正8年度版 下」(1981)の大正8年(1919)12月27日「都新聞」の切り抜きです。なお、全てルビがついていますが、ここでは普通ではないルビだけを表示しています。
押詰った年の暮 ◇神楽坂は山の手一の賑い 市内の歳末気分は連日の紙上に報道したが山の手では四谷と共に神楽坂が第一等の賑いである。坂の登り口から肴町、通寺町まで通路の上に電燈を蜘蛛手の如く渡し店々の軒頭には提灯を点け今が年末大売出しの真ツ ◇最中 である。坂を登る右側に日本一きび団子と日本一君団子が隣合せに隣同士で客を争い呼でいるのは面白く右側では菱屋糸店、木村屋パン、中西 尾沢両薬店、相馬屋紙店、左側では布袋屋、恵比寿屋の両呉服店、浅井小間物店、太田半襟店、そばの春月、さむらい屋洋品店など名題の店が繁昌して居た。 ◇本屋 盛文堂は神楽坂第一の本店で新刊の新年雑誌を店頭に盛り上げ盛んに書生さんや女学生を迎えていたが主人の話によると本の定価が高くなり売行は益盛んであると云う。毘沙門前にはおでん、すし、天麩羅の屋台店が美味そうな香を漂わせ電車路を越えて行った ◇通寺 町は砂糖店のます屋、青木堂を初め多くの小売店も繁昌していたが黄昏頃は坂へ向って降る人が多く八時九時になると神楽坂に登る人の方が多くなるとは神楽坂に見る人出の傾向である。場所柄だけに学生や勤め人や勤め人階級の家庭の人が多い中に神楽坂芸妓が往来しているのも界隈の一景物である |
押詰 押し詰める。押して詰め込む。ぎゅうぎゅう入れる。
市内 東京市内で。東京都になったのは昭和18年から
蜘蛛手 クモの足のように、一か所から四方八方に分かれていること
軒頭 けんとう。軒先と同じ。一軒の突き出た先の部分
日本一きび団子と日本一君団子 「紀の善」から「菱屋」までの並びで、よく似た菓子店が上をむ向いて右側(北側)にある場所。そんな場所は大正11年では大畑パン店と吹野食料品(昭和5年は大畑菓子店と冨貴野食料品)(紫色)だけでした。他の店舗(右側は菱屋、木村屋パン、中西薬店、尾沢薬店、相馬屋、布袋屋。左側は恵比寿屋、浅井小間物店、太田半襟店、春月、さむらい屋、盛文堂)は下図で。うち本屋は青色、それ以外の店舗は赤色で。ただし、布袋屋は右側で。また、呉服店の恵比寿屋はグランド・カフェーの場所にありました。
名題 「名題」は歌舞伎用語。脚本や浄瑠璃などの標題。名題役者は名題看板に芸名をのせられる資格をもつ役者。「名代」は名に伴う評判。名高い。著名。高名。なうて。その品物や店。
電車路 大久保通りを走る路面電車です。
砂糖店 青木堂 砂糖店は緑色で、青木堂は赤色で。
芸妓 げいぎ。歌舞や音曲などで、酒宴の座に興を添えた女性。特に芸妓は技芸と教養を併せ持つ洗練された女性。
景物 「さいぶつ」はなく正しくは「けいぶつ」。四季折々の趣のある事物
神楽坂—坂の町
北斗星の『月刊監査役』(日本監査役協会、1993)では……
新宿—坂の町—神楽坂
新宿と言えば、誰もが新宿駅西口側に林立する高層ビルの光景を思いうかべるにちがいない。都庁も新宿に移転して新庁舎が完成し、今や新宿は首都東京のみならず日本を代表する顔になったと言っても過言ではない。新宿駅の東口側には、歌舞伎町などの繁華街・歓楽街も広がり、昼夜の区別なく人々が集散する町、それが新宿である。
誰もが抱くこうしたイメージの新宿のすぐ傍らに同じ新宿区にありながら、全く対照的に、落ち着いた静かな佇まいの町があり、伝統的な職業や生活様式を大切に守っている人々が、何代にもわたって住み続けていることは、意外に知られていない。 現在の新宿区は、昭和22年までは、四谷、牛込、淀橋の三つの区に分かれていた。その牛込地区を日曜などに散策してみて先ず気が付くことは、坂が極めて多いことである。区から出ている地図を広げて名前をひろってみたら、 まだまだあるが、それにしても、趣きのある名、粋な名、愉快な名がつけられているものである。ひとつひとつの坂に、歴史や由来がありそうで、調べてみたらきっとおもしろいにちがいない。
坂は数限りなくあるが、この中で有名なのは何といっても神楽坂である。神楽坂という名前の由来については、坂の途中二箇所に標柱が建っていて、 「市谷八幡のお祭りで牛込見附で神楽を奏したからという説、近くの若宮神社のお神楽がこの坂まで聞こえてきたという説、赤城明神の神楽堂がこの坂の途中にあったからという説など諸説ある。」
と書かれている。
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佇まい たたずまい。立っている様子。ものによってかもしだされる雰囲気・様子・ありさま
四谷、牛込、淀橋の三つの区 四谷区、牛込区、淀橋区は、昭和22年(1947)3月15日に合併して新宿区に
闇坂 くらやみざか。新宿区教育委員会によれば「この坂の左右にある松厳寺と永心寺の樹木が繁り、薄暗い坂であったためこう呼ばれたという」
途中二箇所 1丁目と善国寺にあります。
神楽坂は、JR中央線の飯田橋西口を降りて、外堀通りの牛込見附から大久保通りに交わるところまでをいうのだそうだが、大久保通りの神楽坂上の交差点を越えて再び坂を登り、地下鉄東西線の神楽坂駅の入口のある赤城神社参道あたりまでも含めて神楽坂ということもあるという。
元祖神楽坂のほぼ中ほどに、毘沙門様で有名な善国寺がある。ここは、江戸時代から山の手七福神の一つとして庶民の厚い信仰を受け、その縁日は大変な賑わいであったという。文豪夏目漱石の小説『坊っちゃん』の中にも、 「それから神楽坂の毘沙門の縁日で八寸許りの鯉を針で引っかけて、しめたと思ったら、ぽちゃりと落として仕舞ったが是は今考へても惜しいと云ったら、赤シャツはあごを前の方へ突き出してホゝゝゝと笑った」
と書かれている。
縁日に夜店が出るようになったのも、この毘沙門様の縁日が最初で、明治20年頃だったそうである。 また神楽坂には、文人の旧居や記念碑などが多いが、この町特有の雰囲気に魅かれたからであろう。 当時の情緒を今日に伝えるものが数多く残されている神楽坂にも、カラオケ・ハウスやディスコが出現し、時代の波は確実に押し寄せてきている。 神楽坂界隈を散策して、明治・大正の文人たちの情緒に浸ることができるのも今のうちかもしれない。 (北斗星)
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飯田橋西口、外堀通り、大久保通り、神楽坂上交差点、地下鉄東西線の神楽坂駅、赤城神社参道、善国寺
牛込見附 江戸城の外郭につくった城門。「牛込見附」は「牛込御門」「牛込門」と全く同じ。さらに、市電(都電)外濠線の「牛込見附」停留所ができると市電の駅(停留所)をも指し、さらに「神楽坂下」交差点も一時「牛込見附」交差点と呼び、交差点や、この一帯の場所も「牛込見附」と呼びました。
八寸 約24cm
東京盛り場風景|酒井眞人
酒井眞人氏の「東京盛り場風景」(誠文堂、1930)「神楽坂」です。
山 手 銀 座 早慶野球戦後、慶應が勝てば銀座になだれゆき、早稲田が勝てば、神楽坂にその戦捷を祝うのを常としている。いまでこそ山手銀座の名は、新宿にその名を奪われたが、その名の発祥の地はここである。神楽坂は昼より夜一時の盛り場である。しかも市内の他の多くの盛り場が、自動車、電車、自転車等殺人的往来によって、脅威されているのに、この地は灯ともし頃から夜十時すぎまで、車馬一切の通行を禁止される。すなわちこの地の表玄関飯田町の方から入ろうとすれば、道の真中に立標がたてられて、車馬の通行は禁止され、一方裏玄関肴町のところも同じく、入口の両方に立標がたてられて内の人々は安全を保證された、享楽第一のプロムナードとなる。 夜の神楽坂は人の神楽坂だ。ことに目に立つのは、普段着のまま慢歩する夥しい人の群で、なまめかしい座敷着の芸者が、その人中を縫って、右から左、左から右へ歩む情景は神楽坂ならではみられぬ。坂を上つた左右の横町は紅燈柳影の歓楽境、絃歌ときに恋声を交えてきくのもこの土地らしく。 |
市内 東京市なので現在にすると「都内中心部」
ともし 灯し。ともし。ともした火。あかり。ともしび。灯火
立標 りっぴょう。警戒標識。暗礁・浅瀬・露岩などの危険な場所に立てる。
肴町 この場合は現在の「神楽坂5丁目」
享楽 きょうらく。楽しみを味わう。思いのままに快楽にふける。「享」は受けるの意味
プロムナード promenade(仏)。散歩。散策。逍遙。そぞろ歩く道。散歩する所。遊歩場。
夥しい おびただしい。非常に多い。
座敷着 芸者や芸人などが、客の座敷に出るときに着る着物。
紅燈柳影 紅灯は色町のともし火。歓楽街の華やかな明かり。柳影は柳の木影。
絃歌 げんか。琵琶、琴、三味線などの弦楽器に合わせてうたうこと
恋声 こいごえ。愛情の声。愛のささやき。恋の調べ。恋の囁き。
震災後のこの地 大震災直後は、幸運にもその火災から免れたばかりに、松屋、三越、銀座の村松時計店、資生堂、さてはカフェープランタン等、灰燼にかした帝都の中心は、ここに移された如く賑やったものだったが、その後三年四年のうちに、これ等の一時の出店は影をひそめて、昔ながらの神楽坂になってしまった。それのみでない。復興の帝都は、勃然と生気に満ちた装を凝し、新生面を開いたが、この地は僅かに坂のわさびおろしを思わせる愉快な補道と、坂上のアスフハルト道が出来たばかり、その他、家並は昔のままで、いまから思えばいっそここも灰燼に帰したなら、更に立派になっているだろうと愚知られる。 |
灰燼 灰や燃え殻。建物などが燃えて跡形もないこと
勃然 ぼつぜん。急に、勢いよく起こるさま。顔色を変えて怒るさま。思いがけないさま。突然。
装 そう。よそおい
わさびおろし わさびをすりおろすための器具。
「補道」が「わさびおろし」のようで愉快だと言っています。中村武志氏は『神楽坂の今昔』(毎日新聞社刊「大学シリーズ法政大学」、昭和46年)で似た話を書いています。
東京の坂で、一番早く舗装をしたのは神楽坂であった。震災の翌年、東京市の技師が、坂の都市といわれているサンフランシスコを視察に行き、木煉瓦で舗装されているのを見て、それを真似たのであった。 ところが、裏通りは舗装されていないから、土が木煉瓦につく。雨が降るとすべるのだ。そこで、慌てて今度は御影石を煉瓦型に切って舗装しなおした。 神楽坂は、昔は今より急な坂だったが、舗装のたびに、頂上のあたりをけずり、ゆるやかに手なおしをして来たのだ。 |
愚知られる ぐちられる。愚痴を言われる。相手が愚痴を言う時に、その内容を聞かされること。
中心の毘沙門様 神楽坂といえば、牛込見附の方から、急坂の四五丁の坂から坂上肴町までが、謂わゆる神楽坂であるが何んといってもその中心は、その半ばどころにある毘沙門様である。通から石柵ごしに境内がすっかりのぞかれ、お利益もあらかたに、参詣するもの跡をたたず、毎月寅と午の日には縁日だから、書き入れどきとされてある。この毘沙門様の前あたり、縁日の日でなくとも露店のすし屋が軒をならべ、坂下入口の屋台のすし屋と共に、ここの名物の一つである。 |
石柵 せきさく。石で作った柵。墓石を囲む外柵、神社や寺院の境内の境目の玉垣、庭園や施設の境界線の石フェンスなど
縁日 えんにち。神社や寺院ごとに定められた特定の日に参詣して神仏と縁を結ぶと、普段にまさる御利益があるという日。「縁を結ぶ」とは人間との間に何らかの繋がりや絆が生まれること。東京で縁日に夜店を出すようになったのは明治20年頃以後で、神楽坂の毘沙門天がはじまりという。
牛 込 亭 あまり広くない神楽坂は、普段着のまま散歩する享楽第一のプロムナードといったが、ここを散歩する散歩客の中には、学生、山手のつとめ人。いずれも銀座を散歩する人のように見えもなければ、普段着そのまま気紛れに見てゆこう、聞いて帰ろうという人も所詮多かろう。あまり広くないこの界隈に娯楽機関が五つ六つある。毘沙門様のすこし手前の色もの席の牛込亭、手踊りや浪花節席の柳水亭は今の勝岡。農災後水谷八重子がたてこもってストリンドべルクの令嬢ニリエなど演じた牛込会館は、いまは白木の支店になっている。その他神楽坂演芸場、映画の文明館。牛込館。ここは最近日活館と改称せられているが牛込館の名もなつかしい。 |
手踊り ておどり。手だけでおどる踊。 特に、すわって手振りだけでする踊。
ストリンドべルク ストリンドベリ(Johan August Strindberg)。スウェーデンの劇作家・小説家。自然主義的な作品で、イプセンとともに近代演劇の先駆者。小説「赤い部屋」「痴人の告白」など
白木 白木屋。しろきや。1662年(寛文2)日本橋に開業した呉服店白木屋。その後、近代的百貨店に。1956年(昭和31)東京急行電鉄の経営に移り、東急百貨店日本橋店。1999年(平成11)1月に336年の歴史に幕を閉じる。
夜 の 街 神楽坂は夜一時の街である。灯ともし頃から賑う人の群、ショウウインドの眩さ、半玉がよく足をとめてみる小間物店、助六下駄屋、三味線屋、など粋な臭いをただよわせるかと思えばそれよりもうるさいほど拡声器に景気を添えているレスラント、カフェー。両側にならぶ種々の露店、特に坂上の理髪店の前にあらわれるバナナの叩き売りは、この地に来ってもう十年余になり、これらの元締をなしている若松屋近藤某。目貫きの大店は、紙屋の相馬屋、薬屋の尾沢、この店は洋食屋もやっている。また糸屋の麥屋、それに老舗のカグラ屋メリンス店。近頃どこの盛り場にも進出している明治製菓と白十字、家庭向の紅谷の喫茶部、この店は山手一流の菓子屋とし、緑茶も出来る。船橋屋、はりまや等、坂上の田原屋には、よく文士の影がみられ肴町近くの田原屋果物店は、傍らレストラントを兼ねて、山手では一流の料理を喰せると評判がよい。 |
小間物店 こまものみせ。小間物(日用品・化粧品などのこまごましたもの)を売る店。
レスラント おそらくレストランのこと。
カフェー 本来はコーヒーの意味。コーヒーを飲ませる店の喫茶店になり、客席にホステスをはべらせて洋酒・洋食を供する昭和初期の飲食店になった。
目貫き 目貫は刀や槍の目釘。目抜きは目立ち、中心的であること。
元締 一つに統括して締めくくること。その任にあたる人。たばね役。同業者組合の統括者。
レストラント restaurant。レストラン。西洋料理を客に供する料理店。
麥屋 「麥」は「麦」と同じ。ここではおそらく「菱屋」のこと。
町中に魚屋さん しかしなんといっても神楽坂は普段着のすがたである。緋鹿子の半玉にはなくてはならぬよく売り込んだ三好野、木村屋、カフェの草分山本等どこまでも平民的である。それと同時にこれ等の町並のなかに魚屋、八百屋等がまた盛んにお惣菜を売っているのも、道ゆく人の肩をこらしめない。 その外芸者の入る店に、末よし、古新、吉熊、橋本、常盤 古いすしやの紀の善、鰻屋の鳥金などがある。そばやに更科、春月、やぶ、おでん小料理に赤びょうたん、神楽おでん。人の噂も45日、なんといつてもこの辺では恩惠をこうむっている三木武吉の愛妾のはじめた牡丹は、ここからは一寸離れていたがあのしまつ。跡は陶々亭支店になったが、ぼたんの名をかりて先のぼたんの板前が小料理屋を初めている。 |
こらしめない 誰かを懲らしめたり、罰したりしない。例は「彼が約束を破っても、私はこらしめない」。「肩を竦める」は「恥ずかしい思いをしたときなどのようす」
古新 正しくは吉新。
三木武吉 大正2年、牛込区議。大正6年、衆議院議員。昭和3年の東京市疑獄事件で失脚。昭和20年、鳩山一郎らと日本自由党を結成するも、公職追放。昭和27年、政界に復帰。昭和29年、日本民主党を結成し、鳩山内閣を実現。昭和30年、保守合同を推進、自民党を成立。生年は明治17年8月15日。没年は昭和31年7月4日。71歳
牡丹 三木武吉氏の妾は5、6人いたともいいます。そのうち誰が「牡丹」を建設したのかわかりません。また、どこに作ったのも不明です。綿谷雪氏の「江戸ルポルタージュ」(人物往来社、昭和36年)「水野十郎左衛門あばれる」の料理屋では
牛込門外、神楽坂上り口の左側——坂に面した町屋の1かわ裏で、堀の方の電車道沿いの向かって表口がありました。故代理士三木武吉氏の経営で、一時ロシア美人の女中を置いて騒がれたことがあります。 |
陶々亭 東京都日比谷公園前で大正8年から昭和39年までの中華料亭。
なんぼなんでもね その他ここの盛り場は、ほんの僅かの地域に限られているため、肴町をこえて郵便局の方にまで露店も延長され、そち等にもよい店もある、牛乳屋梅原は、早稲田の学生で知らぬものはないであろうし、その先町ほどの勇幸、がくやの二軒のてんぶら屋は、一つは食味を自慢し一つは、趣味の店とされている。またその半対側に、有名な公衆食堂、どぶろくや、飯塚質店ともに旧家飯塚家の経営するところ、飯塚家飯塚友治郎氏は坪内逍遥の娘おくにさんの縁家先、同じ横町にはかの芸術座のあとがあり、島村抱月、松井須磨子を思う。またその先には明治文壇の雄尾崎紅葉がながく住っていたという。 一時左傾の出版所をして名をあらわした南宋書院は肴町通り、故有島武郎の親友足助氏の叢文閣、古本屋の竹中、いま盛業をしている盛文堂、武田芳進堂、機山閣、そことは遠くはなるが新潮社、盛り場をひかえて知識階級者がこの近くにいることを語る。 更にこことは別に、あの夜の雑踏を他目に9時をすぎると東京物理学校の生徒がなりふりかまわぬさまで帰ってゆくのを見る。 土曜日なのに夜学校には灯がともっている。 なんぼなんでもね。 と詠じた木下李太郎氏の詩を想う。 |
おくに 写真家の鹿嶋清兵衛とその後妻・ゑつの間にできた長女「くに」を6歳の時に養女に迎えている。

東京物理学校 東京理科大学のパンフレットでは
明治14(1881)年に東京大学を卒業後間もない21名の若き理学士らにより「東京物理学講習所」として創立され、2年後に「東京物理学校」と改称。当時から、真に実力を身に付けた学生を卒業させるという「実力主義」を貫きました。その後、昭和24(1949)年に新制大学の発足とともに「東京理科大学」に改組。科学技術の発展とともに幅広い分野の学部が設置され、今日ではわが国私学随一の理工系総合大学に発展しました。 |
木下李太郎 正しくは木下杢太郎でしょう。
二つの先端を行くもの 神楽坂は、坂を中心の盛り場である。ひとしきり肩もます雑踏をこえて坂を下れれば、牛込見附にいでる。昔の御見附どころだけに青松と石崖、外濠の水と、雑沓にひきかえて閑寂たるこころをいだかしめる。しかしここの堀には貸ボートが行われ、モガモボの一組みが涼風を入れている。だがはたしてオールをにぎるモボさん涼しいかしら 汗だくてはなかろうか。ここから離れてはいるが飯田橋の玉置のダンスホールも、この盛り場をひかえての経営として書き添えておく。 |
モガモボ 「モダン・ボーイ」と「モダン・ガール」。大正デモクラシー時代に流行った先端的な若い男女。
玉置のダンスホール 不明です。大正10年、紅谷菓子店を3階建てに改築し、3階はダンスホールでしたが、震災後は喫茶店になりました。

「神楽坂」という坂
「神楽坂」について語ってみようと思います。神楽坂という「町」(以前の神楽町)ではなく、神楽町が囲む「坂」そのものです。初めは江戸時代の「紫の一本」にあるように「牛込見付から、肴町まで登る坂」でした。なお、「牛込見付」は「神楽坂下交差点」にあたるものと(まあ、強引だけど)考えておきます。また、江戸時代の「肴町」は現在の神楽坂5丁目を中心に、岩戸町まで及んでいました。
神楽坂を囲む町は、明治大正では神楽町という名称でした。昭和26年(1951)5月1日から、神楽町1、2、3丁目から神楽坂1、2、3丁目という町に変え、また、上宮比町、肴町、通寺町は神楽坂4、5、6丁目に変わりました。したがって、坂も6丁目まで「神楽坂」に含むという考え方もできます。
なお、新宿区の「区道道路通称名」は、神楽坂下交差点から神楽坂上交差点までを「神楽坂通り」として正式の名称に使っています。
では、神楽坂の「坂」についてその説明の変移を見てみましょう。
紫の一本 戸田茂睡による地誌。天和2年(1682)に成立 かぐら坂、牛込見付の御門より、直に肴町へ登る坂を云、 |
絵図でもわかる通り、明治以前では坂ではなく、階段でした。これは「神楽坂の階段を坂に」で。
望海毎談 江戸時代中期 作者は不明。 牛込行願寺 ……神楽坂と云は赤城明神の神楽堂の有し所のよし…… |
江府名勝志 稲村儀右衛門 享保18年(1733年)に発行 神楽坂 牛込御門の向に在。此坂の名の来歴其説あれども、慥ならざる故略之。 |
江戸砂子 菊岡沾凉著 享保20年(1735年)に成立 ●神楽坂 牛込御門のむかふの坂也。 市谷八幡の祭礼に、神輿牛込御門の橋のうへにしばらくとゞまり、かぐらを奏す。よつてこの名ありと云。当日見付御番より鳥目十疋、ならびに神酒神献あり。又近所若宮の八幡のかぐら、此まできこゆ、よつてかぐらといふともあり。 |
神輿 みこし。じんよ。祭礼のときなどに担ぐ乗り物
かぐら 神事の歌舞。御神楽は、夜、庭燎をたいて宮中で一連の所作と声楽主体の音楽を執り行う宗教儀式。里神楽は日本の民俗芸能の一種。
鳥目 ちょうもく。銭や金銭のこと。中心に穴が開いた銭貨の形が鳥の目に似ていたため
疋 ひき。1疋=10文、のち25文
江戸名所図会 斎藤長秋他編、巻之四 天権之部 天保7年(1836年)に発行 同所牛込の御門より外の坂をいへり。坂の半腹右側に、高田穴八幡の旅所あり。祭礼の時は神輿この所に渡らせらるゝ。その時神楽を奏する故にこの号ありといふ。 或いは云ふ、津久土明神、田安の地より今の処へ遷座の時、この坂にて神楽を奏せし故にしか号くとも。又若宮八幡の社近くして、常に神楽の音この坂まできこゆるゆゑなりともいひ伝へたり。 |
改正新編江戸志 東武懐山子著 天保3年(1832年) 市谷八幡祭礼に神輿牛込御門橋上に暫く留りて神楽を奏しけるよつて此名ありと江戸砂子にみゆ又或説に穴八幡の祭礼にこの坂にて神楽を奏すと[云け]り名付ると也別穴八幡の旅所この坂の上にあり放生寺の持[之]津久戸神社の社伝には今の地へ遷座の時此坂にて神楽を奏すよしといふ |
牛込町方書上 市谷田町四丁目代地 文政8〜11年(1825〜29年)
一 町内、里俗家前往還ヲ神楽坂与相唱申候、尤神楽坂与唱候者穴八幡旅所ニ相成候以前ゟ祭礼之節、當所ニ神楽有之、其後當旅所ニ而度々神楽有之候ニ付、唱来候由申傳又者築土明神牛込御門内ニ社有之候所、御用地ニ相成、牛込御門外江替地被下、遷座之節、揚場坂ニ而神輿重ク相成上らす候ニ付、此所ニ而供物ヲ備、神楽を致候故、其節ゟ揚場坂を神楽坂与相唱候由茂及承候得共、聢与相分不申候、其外惣名ニ唱候場所、小名無御座候
(中略)
一 坂之儀者町内家前ニ有之、北之方ゟ東之方江下り、高凡三丈七尺程登り壱町斗有之、幅上之方六間程、下之方四間半程、但坂之字之儀者里俗唱之ヶ条二申上候、道造之儀者家前之分町内持ニ御座候
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御府内備考 文政12年(1829)、昌平坂学問所の地誌調所で成稿 市ヶ谷八幡宮の祭礼に神輿御門の橋の上にしはらくとゝまり神楽を奏すること例なり依てこの名ありと 江戸 砂子 穴八幡の祭礼にこの坂にて神楽を奏するよりかく名つくと 江戸 志 穴八幡の御旅所の地この坂の中ふくにあり津久土の社の伝にこの社今の地へ田安より遷坐の時この坂にて神楽を奏せしよりの名なりといふはもつともうけかたきことなり 改選江 戸志 |
神楽坂の由来について「神楽が聞こえたから」と記載しています。でも、どの神社が神楽を奏したのかは不明です。
これからは明治期以降の神楽坂です。
東京名所図絵。中野了随著。小川尚栄堂。明治23年 神楽坂は牛込門の外の坂を云ふ 坂の両側櫛比して頗る繁盛なり 俚俗相伝ふ坂の半腹右側に高田穴八幡の旅所あり 祭礼神輿の時神輿渡る時神楽と奏する故に神楽坂と名けし由 |
頗る すこぶる。普通や予想した程度を越えて。たいそう。大いに。
新撰東京名所図会 明治37年 1904年 神楽阪は。牛込門址より西の方。神楽町の中央に在る阪路をいふ。もと阪の上南側に高田穴八幡社の旅所ありて。祭禮の時は神輿比所に渡り。神楽を奏するを以て此名ありといふ。 江戸砂子に。市谷八幡の祭礼に。神輿牛込御門の橋のうへにしばらくとゞまり。かぐらを奏す。因てこの名ありと云。当日牛込御門当番より鳥目十疋。ならびに神酒を獻すと。又近所若宮の八幡のかぐら。此阪まできてゆ。因てかぐらといふともあり」としるし。江戸名所図会には。高田穴八幡の事を記し。其の註に。或云津久土明神田安の地より今の所へ遷座の時。此阪にて神楽を奏せし故にしか号くとも。又若宮八幡の社近くして常に神楽の音此阪まできてゆるゆゑなりともいいへたり」といへり。神楽のことは何れも同じけれども。其の神社の伝へはーならず。然れとも甞て公園地調査の際。穴八幡社に於て聞ける所と。江戸名所図会神楽阪の図に徴するも。高田八幡社の神楽とする方事実なるが如し。 |
甞て しょう。かつて。なめる。舌で味わう。こころみる。ためしてみる。過去。以前。
大正期で初めて芸妓屋や待合も多いと記しています。
大正博覧会と東京遊覧 向上社編輯部編 向上社 大正3年 1914年 神楽坂 神楽町の峻坂を神楽坂とす。牛込見附を隔てゝ麴町に対す。四谷大通に次で山の手屈指の繁盛地、往来頻繁に、附近待合芸妓家多し |
最後は戦後です。
続江戸の坂 東京の坂 昭和50年 横関英一 有峰書店 神楽坂について 新宿区神楽坂一、二、三丁目を縦断する坂。昔の牛込見附から西へ上る早稲田通りの坂で、その坂にまつわる伝説もまちまちであった。たとえば、高田穴八幡の旅所が、この坂の頂上にあって、祭礼のとき神楽を奏したとか(『大日本地名辞書』)、津久土明神が田安の地から津久土八幡のところへ遷座のとき、この坂で神楽を奏したとか(『新編江戸志』)、または若宮八幡社が近くにあるので、神楽の音が、この坂のところまできこえてきたとか(『江戸鹿子』)、あるいは赤城明神の神楽堂が、もとここにあったとか(『望海毎談』)と、いろいろである。しかしその昔は、この坂上に天台宗の行元寺という大寺があったとか。牛込見附のところに惣門があり、この坂には中門があって、左右に南天の並木がつづいていたので、世にこの寺のことを南天寺と呼んで有名であったとか。 そのころは、牛込の奥へ行く道は、この坂に並行した軽子坂が、この東にあった。この坂道は早くから発達していたので、「かるこざか」というの名は有名であった。軽子坂という意味は、河岸の舟に積んできた荷物を、水揚げするのが「かるこ」という人夫であった。その発音の珍しい呼び方が、やがて「かぐらざか」と作り、さらに「神楽坂」を生み出したのであろう。特別に神楽の伝説にもなんにも関係なくできた名前かもしれない。かるこざか—かぐらざか、ちょっと似たような面白い呼び名である。『江府名勝志』は「此坂の名の来歴其説あれども、慥ならざる故略之」と書いている。 |
東京の坂道 石川悌二 昭和46年 新人物往来社
神楽坂(かぐらざか)旧牛込区の代表的な坂路。外濠通り国電飯田橋駅南口下から、新宿区神楽坂一、二、三丁目を西上するが、現今では坂上旧都電通りを通り越した地下鉄神楽坂駅のあたりまでも神楽坂通りと称している。 神楽坂の名の由来は江戸砂子や江戸名所図会について見えるが、市ヶ谷八幡の旅所(祭礼のときの分祭所)があって「かぐら」が奏されたとし、また南方若宮八幡社の「かぐら」がきこえたためといい、さらには高田穴八幡の旅所が設けられ、祭礼の神楽を奏したためだとも伝えている。いずれにしても神社の祭礼の神楽ばやしにちなんで起った坂名であろう。この神楽坂辺は維新前はおおむね武家地と寺社地によって占領されていたが、牛込第一の盛り場となったのは明治の半ばごろから以後で、その後昭和十年代末まで繁栄を誇っていた。 明治28年、甲武鉄道(現国鉄線)の牛込停車場が開設されると、神楽坂上毘沙門天の縁日(毎月寅の日)が人気を高めて、参詣の善男善女が見附から坂上にかけて長蛇の列をつくるようになり、坂には露店、植木市が出ならび、毘沙門の境内にはいろいろの見世物小屋が掛かって混雑をきわめたという。こうして牛込、市ヶ谷へんの旧武家地や寺社地跡に明治新興階級の住宅が建てこんでゆく時世の反映として、神楽坂は新しい東京の盛り場のシンボルになったのである。 江戸名所図会のさし絵などに見る神楽坂は段々の坂で、さして険しくはみえないが、やはり昔は相当な急坂であったのを明治になって改修したもので、同13年3月30日、郵便報知は「神楽坂を掘り下げる」と題する次の記事を掲載している。 牛込神楽坂は頗る急峻なる長坂にて、車馬荷車並に人民の往復も不便を極め、時として危険なることも度々なれば、坂上を掘り下げ、同所藁店下寺通辺の地形と平面になし、又小石川金剛寺坂も同様掘り下げんとて、頃日府庁土木課の官吏が出張して測量されしと。
この前後における毘沙門様はかなり知られてはいたようだが、まだ交通不便な土地柄のために縁日の出店なども後年のような繁況には遠かったことが明治8年の新聞記事にうかがわれる。
神楽坂の毘沙門
〔8月25日、東京曙〕牛込神楽坂の毘沙門さんも流行につれて、四五日前より日数三十日開帳の商法、店を開かれしに、法華堅まりの信徒連中が寄集り、叩きたる太鼓の音と南無妙法蓮華経を唱ふる声は昼夜の差別なく鳴渡りますが、回向院の大店程にはまうかるまいといふ沙法なり。 (以下、小説や新聞の紹介は省略)
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新宿区町名誌 新宿区教育委員会 昭和51年 1976年 神楽坂は、江戸時代には段々のある急坂であったが、明治初年に堀り下げて改修した。明治4年6月、この地一帯に町名をつけた時、この神楽坂からとって神楽町としたが、旧称どおりの神楽坂でとおっていた。 この神楽坂は、明治から昭和初期まで、東京における有名な繁街華であったが、昭和20年の空襲で、焼野原と化した。その後の発展とともに、神楽坂繁華街の発展をめざすため、神楽坂振興会が設立された。その音頭とりで、昭和26年5月1日、坂上の三町も含めて神楽坂と称することになり、北の赤城神社入口まで名称統一され、四・五・六丁目ができたのである。 |
新修新宿区町名誌 新宿歴史博物館 平成22年 2010年 神楽坂は江戸時代には段々のある急坂であったが、明治初年に掘り下げて改修された。 明治4年(1871)6月、この地域一帯に町名をつけたとき、この神楽坂からとつて神楽町としたが、旧称どおりの神楽坂で呼ばれていた。 この神楽坂は、明治から昭和初期まで、特に関東大震災以降、東京における有名な繁華街であった。大正14年(1925)坂が舗装された。神楽坂のこの道は毎朝近衛兵が皇居から戸塚の練兵場(現在の学習院女子大学)に行く道で、軍馬の通り道であった。舗装も最初は木レンガであったが、滑るため、2年ほどして影石に筋を入れた舗装に変わった。 しかし昭和20年(1945)の空襲で、焼け野原と化した。 昭和26年5月1日、坂上の三町も含めて神楽坂と称することになり(東京都告示第347号)、北の赤城神社入り口まで名称統一され、四・五・六丁目ができた。この町名変更に当たって、関係町民からも町名を神楽坂に統一する陳情書が区議会に提出された。その理由は、下宮比町と上宮比町が混同されやすいこと、肴町は隣区の肴町と誤認されやすい等が挙げられた(昭和30年新宿区史)。 |