坂のある東京絵図|服部銈二郎 昭和62年

 朝日旅の事典「東京(山の手・副都心)」(朝日新聞社、1987年)の服部銈二郎氏の「坂のある東京絵図」です。問題はこの写真の坂は、一体、どこの神楽坂の坂なのでしょうか? 答えは最後の1節に書いています。

朝日旅の事典 東京(山の手・副都心)朝日新聞社1987

坂が映し出す都会の暮らし
 台地と谷の交錯する山の手台地のささやかなも、徒歩交通の時代の住民たちにとっては、坂の障害性ヽヽヽとして映ったことだろう 。
 坂道の急傾斜性と緩傾斜性は、坂名に丹念に記録されている。夏の日盛り、歩いて急坂を登ることは難渋なことだったのだろう。屏風坂胸突坂牛鳴坂などに、その苦しさが刻まれている。
 急坂の「胸突坂」に対し、車が通れる緩やかなダラダラ坂を「永坂」と呼んでいる。ダラダラ坂のタイプには、永坂、長坂永たれ坂七曲坂大坂などの名称が考えられる。この種の計画的な坂道は、幅が広く、延長も長く、車両の交通には利便である。そこで交通量の多い九段坂切通坂には「立坊」と呼ばれる荷車後押しの賃稼ぎ人足が、たくさんたむろしていたという。また、古い昔からの坂道は、道幅も狭く、傾斜が急なだけでなく、伝統的江戸の感触も多分に残している。本郷の菊坂、麻布の芋洗坂、牛込の浄瑠璃坂などが該当する。
 急坂には、平行して緩い坂道が並ぶことがある。麹町の中坂(急)に対して九段坂(緩) 、目黒の行人坂(急)に対し、権之助坂(緩)は、後から造られたものである。そこには、胸突坂、永坂同様、坂道として使いやすいか、どうかの二面性が読みとれる。
 坂道の景観には、変わりやすい都会人の移り気性が表れる。「神楽坂」が明治末の若者にもてた山の手流行商店街とするなら、渋谷で脚光を浴びる「スペイン坂」は、現代ヤングのあこがれの的、先端的なファッショナブル・ショッピング街といえる。神楽坂は百年の伝統的老舗商店街であり、スペイン坂はせいぜい十年来の新興の、ナウいレストラン・ブティック街である。坂を通じて都会人の移り気性を改めて垣間見た思いである。
 ひだ。衣服や布地などにつけた細長い折り目。衣服のひだのように見えるもの。
坂の障害性 坂がさまたげること。あることをするのに、さまたげとなる坂。
難渋 なんじゅう。物事の処理や進行が困難で渋滞する。すらすらと事が運ばない。
屏風坂 びょうぶざか。上野駅の北側で、上野公園内から東に下っていた坂。現在はなし。
胸突坂 むなつきざか。文京区本郷にある坂。同区にはほかに西片と関口に同名の坂がある。
牛鳴坂 うしなきざか。赤坂から青山へ抜ける厚木通で、路面が悪く車をひく牛が苦しんだために名づける。さいかち坂。
永坂 ながさか。麻布台上から十番へ下る長い坂。長坂とも書く、
長坂 ながさか。永坂の別の名前。
永たれ坂 ながたれざか。長垂坂。「なだれ坂」の方が有名。港区六本木3丁目2番と4番の間にある坂。土崩れがあったためか流垂・奈太礼・長垂とも書き、幸国寺坂、幸国坂、市兵衛坂の別名もあった。
七曲坂 ななまがりざか。新宿区下落合にある坂。新宿下落合氷川神社北西側から北に登る。
大坂 おおさか。目黒区青葉台4丁目にある坂。街道の40余りの坂の中で、最も大きな坂
九段坂 くだんざか。地下鉄九段下駅から内堀通りに沿って靖国神社の南側に上る坂
切通坂 きりどおしざか。文京区湯島3丁目と4丁目の間。
菊坂 きくざか。本郷通りから西片1丁目までの長くゆるやかな坂。
芋洗坂 いもあらいざか。港区六本木にある坂。芋問屋があったから。
浄瑠璃坂 じょうるりざか。新宿区市谷にある坂。
中坂 なかざか。冬青木坂と九段坂の中間にある坂。
行人坂 ぎょうにんざか。目黒区下目黒と品川区上大崎にまたがる坂。
権之助坂 ごんのすけざか。目黒駅から目黒新橋に至る約400mの坂。
スペイン坂 六本木通りからスペイン大使館につながる坂。1975年(昭和50年)、渋谷PARCOから通りの命名を依頼された喫茶店「阿羅比花」の店主、内田裕夫氏によって、名付けられました。

 この写真は石畳が沢山ある、かつての「芸者新路」です。神楽坂仲通りから上の芸者新路を見たものです。現在は石畳ではなくなり、一部に白黒タイル敷きの路地に変わりました。

芸者新路

現在の芸者新路

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