坂上の神楽坂5丁目です。右側には文房具屋の「相馬屋」があります。さらに空き地をはさんで「万長酒店」。左から差し込む一条の光は「地蔵坂」(あるいは「藁店」)を通ってやってきました。「電燈電力工事」は「火災保険特殊地図」だと「中河電機」です。街灯は神楽坂1丁目(写真)昭和20年代後半 ID 21, 23と同じ簡素なものです。電柱看板「歯科川島」は藁店にありました。
新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 31から35までは、昭和34年に神楽坂1丁目を撮ったもので、芸者さんも出てきます。ID 31は2560 x 1938ピクセルで、ID 32から34までは約1420 x 1100ピクセル、ID 35では1907 x 1316ピクセルでした。つまりID 31だけが特に巨大なピクセルでした。
メトロ映画では1962年の夏用に映画2本立てを出しています。 ID 17にはきれいなアスファルト舗装が広がります。はるかに彼方に別の舗装があるようで、反射も違っています。ID 18ではオザキヤ頃から上にこの舗装があるようです。しかし、よく見ると、Oリングはまだつけていないようです。
新宿歴史博物館 ID 18の一部
ID 19もOリングはなく、つまり、1962年7月はOリングのないものを使って舗装をしたのです。おそらく1962年末にはOリングもついているはずです。 この舗装はコンクリートではなく、石敷、石だたみでした。地元の方によれば「当時の車のエンジンはパワー不足で、アスファルト舗装では坂を上れなかった。表面のザラザラした石敷だった。ただ石が割れて飛ぶことがあったので、コンクリートに替えることにした。しかしコンクリートでも使っているうちにツルツルになって滑るので、Oリングの溝が必要だった」といいます。
マーサー美容院の巨大な看板「パーマネント」があり、すぐ下には将来の「神楽坂仲通り」があります。右側にも隙間があり、これは「神楽坂仲坂」です。すぐ下には大きな壁面看板があり、太陽堂です。横断幕「火」も出ていますが。「火の用心」でしょう。地元の方は「新宿歴史博物館 ID 28-29には横断幕はなく、逆にID 30には『歳末大売り出し』が見えない。電柱の電線の数(横木の数)はID 30の方が少ない。よってID 30の方が古い写真と思われます」といいます。 地元の方は「①は戦前からあった「大松閣」で、神前式結婚式を創始した東京大神宮の結婚式場だった。今は式場は隣接施設に移り、「大松閣」跡は貸しビルになっている。②は国鉄飯田橋駅西口駅舎。③は東京ルーテルセンター教会の塔。塔の左側(背後)は暁星学園か、母体の修道院(いずれも千代田区富士見)。④はメトロ映画。⑤はニューイトウ(後に靴店)。⑥はその隣で陶柿苑。写真に写っているような下りの車が誤って突っ込んだわけです。⑦は「喫茶 七福」。良く見ると下の看板にもコーヒーカップの絵が見えます」
新宿歴史博物館 ID 30
地元の人は「謎が、ようやく解けました。角に『七福』はあったんです。仲通の角が少しへこんでいて(正確には、建物の中に三和土のような場所があり)マーサと七福は入り口を共有していたと思われます。解説図を添付しました。新宿歴史博物館 ID 8 ID 10では七福はなくなっていますが、マーサの入り口が凹んでいるのが分かります」 しかし、私にとっては「パーマネント」の「ト」の下にマーサー美容院の入口があるとも思えています。
新宿歴史博物館の「データベース 写真で見る新宿」で ID 6-7, 12903-05を見ていきましょう。ともに今は雨は降り、撮影の方向は神楽坂の中途から坂下に向いています。街灯は鈴蘭灯とは違い、円盤形の大型1個だけで、これは昭和36(1961)年以降にあたります。円盤形の下には標識「神楽坂」もあります。車道では横断歩道を越えて、菱屋の前まで、Oリングのくぼみがあり、歩道は色つき歩道で、滑り止めのついた四角いブロックで舗装しています。