それから」タグアーカイブ

神楽坂を書いた文学|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)から「牛込地区 6. 神楽坂を書いた文学」です。

 神楽坂を書いた文学
 明治から大正にかけて、神楽坂は早稲田大学を控えて文学的ふん囲気の濃厚な所であった。だから新時代の文学を荷負う若い文士たちは、ここでの生活を愛した。この街には、主として早稲田の学生や若い文士だった日夏耽之介森田多里国枝史郎三上於兎吉西条八十宇野浩二森田草平泉鏡花北原白秋などが住んでいた。
 文学作品の中に出てくる神楽坂をのべるとつぎのようである。まず小栗風葉は「恋慕ながし」の中に明治31年ごろの神楽坂の縁日や、裏町の花街のにぎわいを書いている。
 田山花袋の「」(明治41年作)には「神楽坂は、毎夜毘沙門の縁日のやうに雑沓するとの噂。山の手の奥からも白地の浴衣に薄化粧の夫婦連が幾組となく出掛けて行く。」とある。
 夏目漱石の「それから」(明治42年作)には、神楽坂の途中で、主人公の代助が地震に出あう場面を書いている。
 正宗白鳥も「」(明治44年)の中に神楽坂縁日の、見世物のようすを書いているし、サトーハチローは、「僕の東京地図」(昭和11年作)の中に、明治末年を書いている。その中には、
 「神楽坂は、何と言っても、忘れられない町である。矢来の交番のところから、牛込見付までの間を一日に何度往復したことか、お堀は、ボートが浮いてゐなかった。暗い建物の牛込駅に添うてずッと桜が植わってゐたやうにおぼえてゐる……」とある。
 北原白秋は、「物理学校裏」(大正2年)という詩を作っている。神楽坂裏通りにあたる物理学校裏に住んだことがある白秋は、当時のようすを書いたもので、その中には、付近の住宅地は静かで、そとに聞えてくるのは、花街の三味や琴の音、甲武線の汽車の音、校舎で教える教師の声だけであると、擬音を入れながら描写している。
 夏目漱石の「硝子戸の中」(大正4年作)の中にも神楽坂を書いているが、田山花袋も大正初期の牛込一帯を「東京の三十年」の中に書いている。
 武蔵野をとよなく愛し、武蔵野の絵と文学と昆虫の研究を残した画家の織田一麿は、その著「武蔵野の記録」に、「牛込神楽坂の夜景」と題して、大正7年のようすを書いている。その中につぎの一節がある。
 「殊に夜更の神楽坂は、最もこの特色の明瞭に見受けられる時である。季節からいえば、春から夏が面白く、冬もまた特色がある。時間は11時以後、一般の商店が大戸を下ろした頃、四辺に散乱した五色の光線の絶えた時分が、下町情調の現れる時で、これを見逃しては都会生活は価値を失ふ。」
 泉鏡花は、「竜胆と撫子」(大正11年)の中に、神楽坂が明治から大正へと時代の流れとともに変ってきたようすを書いている。また鏡花は「神楽坂の唄」(大正14年)を作っている。鏡花が新世帯をもったのが神楽坂だったから忘れることができなかったものであろう(参照)。
 加能作次郎は、「早稲田・神楽坂」という一文を「東京繁昌記・山手編」に、明治末期から大正初期の神楽坂、特に毘沙門前の縁日のにぎわいを書いている。
 矢田津世子は、昭和10年ごろの神楽坂を短編「神楽坂」に書いているし、戦後のようすは佐多稲子の「私の東京地図」 (昭和21年刊)に出ている。そして池袋などがめざましく発展していくのに、ここは少しも復興しようとしないと、正宗白鳥が「神楽坂今昔」(昭和27年刊)に書いている。
 〔参考〕 新宿と文学 東京の坂道
日夏耽之介 正しくは日夏耿之介。ひなつ こうのすけ。
森田多里 もりぐち たり。美術評論家。早稲田大学文学部英文科とソルボンヌ大学を卒業。西洋、日本美術史の先駆的役割を果し、戦後は岩手県立美術工芸学校長、岩手大教授。西洋美術思潮の紹介、日本近代美術史、民俗芸能の研究を行った。生年は明治25年7月8日。没年は昭和59年5月5日。91歳。
国枝史郎 くにえだ しろう。小説家、劇作家。早稲田大学英文科中退。大学在学中に自費出版「レモンの花の咲く丘へ」。大正3年、大学を中退し関西へ移ると、同年、大阪朝日新聞社で演劇担当記者。6年、松竹座専属の脚本家。9年退社、大衆文学の作家に。『しんしゅう纐纈こうけつじょう』が再評価され、三島由紀夫が「文藻のゆたかさと、部分的ながら幻想美の高さと、その文章のみごとさと、今読んでも少しも古くならぬ現代性に驚いた」(「小説とは何か」昭和47年)と絶賛。生年は明治20年10月10日。没年は昭和18年4月8日。55歳。
三上於兎吉 正しくは「三上於菟吉」。みかみ おときち。
れんながし 小栗風葉の小説。明治31年9月1日、読売新聞で連載スタート。12月1日、70回で中断し、完成は明治33年5月。きん流尺八の天才青年はたじゅんすけとバイオリニストの五十いおずみようの純恋で始まり、売春と一八チーハー博徒(独特な賭紙を用い、大正初めまで盛大だった中国系の賭博)の胴元である銀次も絡み、葉子の自殺、銀次も死亡して終わります。木賃宿、売春という醜い現実も描いています。
神楽坂は、…… 田山花袋の母親が癌で亡くなるまでを描いた「」の一部にこの文章が出ています。
けれどそれは母親を悲しむというよりは寧ろ自己の感情に泣いたのだ。その証拠には、そこに若い細君が帰って来たら、その涙は忽ち乾いていったではないか。その柔かい手を握ったではないか。
 銑之助は自からこう罵った。
   28
 月が段々明るくなって、今日はもう十日だという。街の賑わい、氷店の繁昌、鉢植の草花、神楽坂は毎夜毘沙門の縁日のように雑沓するとの噂。山の手の奥からも白地の浴衣に薄化粧の夫婦連が幾組となく出懸けて行く。
 病人はまだ生きて居た。
 平生後生を願わなかったからという声が彼方此方あちこちに聞えた。だから言はぬことではない、私は御寺参をあれほど勧めたのにと親戚の法華かたまりの老婦が得意そうに言った。

甲武線 明治22年(1889年)4月11日、大久保利和氏が新宿—立川間に蒸気機関として開業。8月11日、立川—八王子間、明治27年10月9日、新宿—牛込、明治28年4月3日、牛込—飯田町が開通。明治37年8月21日に飯田町—中野間を電化。明治37年12月31日、飯田町—御茶ノ水間が開通。明治39年10月1日、鉄道国有法により国有化。中央本線の一部になりました。
サトーハチロー 正しくは「サトウハチロー」
織田一麿 正しくは「織田一磨」
大戸 おおど。家の表の大きな戸
新宿と文学 東京都新宿区教育委員会の『新宿と文学—そのふるさとを訪ねて』(区教育委員会、1968年)は、新宿区内を描写した文学作品や、区内に居住した作家たちを紹介する本。
東京の坂道 ​石川悌二氏『東京の坂道—生きている江戸の歴史』(新人物往来社、​1971年)は、数多くの坂道を一つ一つ取り上げ、それぞれの坂の名称の由来や歴史的背景を取り上げ、江戸時代から続く東京の街並みや人々の営みを紹介する本。​

漱石の東京|武田勝彦

文学と神楽坂


武田勝彦

武田勝彦

  武田勝彦氏の『漱石の東京』(早稲田大学出版部、1997年)です。この伝記はかなりほかの本とは違ったところがあります。つまり、細かいことが重要なのです。特に「それから」の中心は市電です。東京市には市電が市内に縦横に張り巡られていて、したがって、市電を知らないと、この本の問題もよくわからないとなってしまいます。
 武田勝彦氏の生年は1929年5月4日、没年は2016年11月25日。享年は満87歳でした。

   和良店の坂道

 小説「それから」は、明治42年6月27日から10月14日まで、110回にわたって東京・大阪の『朝日新聞』に連載された。初版は春陽堂(明治43年1月1日)から刊行された。この作品の主要な舞台は、牛込台、小石川台、そしてその間を流れる江戸川べりである。また、赤坂台の青山もこの作品の主大公の実家があるので見逃せない。下町では、銀座、木挽町、神田が登場する。また、当時は汐留の新橋停車場が東京の中央駅であったので、主人公もここに足を運ぶことがある。
 主人公長井代助は30歳の高等遊民である。学校を卒業しても定職を持たない。父、得の庇護を受けて生活している。牛込区袋町5番地あたりに家を借りて住んでいる。婆さんを傭い、書生を置く結構な身分である。
 代助の家を袋町と推定したのは、「ところ天氣てんき模樣もやうわるくなって、藁店わらだながりけるとぽつ/\した」との描写があるからだ。江戸から明治にかけて、東京には二つの藁店があった。一つは、金杉の方で、一つは、神楽坂であった。この名称は金杉の場合も、神楽坂の場合も、いわゆる通りの通称であって、地名辞典の類に公式に書き記され、現行町名の丁目や番地を与えられているわけではない。そのために、とかく曖昧である。
 漱石は「僕の昔」と題する談話の中でも、「落語はなしか。落語はなしはすきで、よく牛込の肴町の和良店わらだなへ聞きにでかけたもんだ」といっている。正確には和良店亭で、これが牛込館となり、大正、昭和を通して、牛込、小石川の山の手族に洋画を提供する場となった。場所は袋町三番地と四番地にまたがっていた。


江戸川 神田川中流。昭和40年以前には、文京区水道関口の大洗おおあらいぜきから船河原橋までの神田川を江戸川と呼んだ。
高等遊民 こうとうゆうみん。明治末期から昭和初期にかけて、世俗的な労苦を嫌い、定職につかず、自由に暮らしている人。
牛込区袋町五番地 地図を参照。

昭和5年 牛込区全図

昭和5年 牛込区全図

書生 学問を身につけるために勉強をしている人。他家に世話になって、家事を手伝いながら勉学する人。
藁店 原義は「わらを売る店」。槌田満文編「東京文学地名辞典」(東京堂出版、1997)では「藁店は牛込区袋町(新宿区袋町)と肴町(新宿区神楽坂五丁目)のあいだ、地蔵坂(藁坂)下の狸俗名」
金杉 東京都台東区金杉でしょうか。不明です。なお、至文堂編集部の『川柳江戸名所図会』(至文堂、昭和47年)では「もっとも藁店というのは他にもあって、たとえば筋違橋北詰の横丁も藁店という。それはここで米相場が立っていたからだという」。筋違橋は神田川にかかる万世橋の前身です。
袋町三番地と四番地 正確に言えば、牛込館(現在はリバティハウスと神楽坂センタービル)が建っていた場所は袋町3番地だけでした。

牛込館(リバティハウスと神楽坂センタービル)

牛込館(リバティハウスと神楽坂センタービル)


 代助の借家は藁坂の上の袋町に、三千代の借家は金剛寺坂、または安藤坂を昇り詰めた小石川表町の高台に設定されている。この設定の仕方に注意してみたい。単に漱石が自分の住んだことのある地域を無雑作に選んだと見倣してよいだろうか。現在でも、この二つの地域を結ぶ便利な交通機関は発達していない。山水の形状が、それを阻害している。
 漱石は代助と三千代を両方の高台に住まわせることで、二人の逢う瀬の難しさを高めようとしたのではなかろうか。これは無意識な操作であったかもしれない。特に、心臓の悪い三千代に急坂を登り降りさせ、それで躰に変調を招くことで、代助の同情を深める。
 「それから」の執筆された明治42年の夏から秋にかけて、いわゆる東京鉄道時代の市電は、延長につぐ延長で、市内は刻一刻と便利になっていった。しかし、三千代が代助の家に行く電車は、それほど便利ではなかった。一つは小石川表町から春日町に出る。ここで乗り換え、水道橋まで行く。さらに、外濠線に乗り換え、牛込見附で下車する。ここから神楽坂を昇り、さらに一息ついで、地蔵坂を昇る。か弱い三千代には、かなりの強行軍だ、もう一つの道は、往路だけには便利だと思う。金剛寺坂か安藤坂を降り、大曲まで歩く。ここから市電で飯田橋に行き、乗り換えて牛込見附に出る。あとは徒歩である。戦前の牛込肴町を知っている読者だと、三千代が水道橋か飯田橋から角筈行に乗って、牛込肴町で下車すれば、神楽坂の急坂を避けることができたと思われるかもしれない。ところが、飯田橋-牛込柳町間の市電が開通するのは、大正元年暮のことであって、三千代の頃には工事中であった。

金剛寺坂 本田労働会館わきを通って地下鉄丸ノ内線を越え、巻石通り交差点近くに出る狭い道(下図の橙色の坂道)
安藤坂 安藤坂交差点から伝通院前交差点までの道(下図の紫色の坂道)
伝通院、金剛寺坂と安藤坂
小石川表町 伝通院や善光寺あたり一帯を表町と呼んだ。以前は伝通院前表町。

表町

東京都文京区教育委員会編「ぶんきょうの町名由来」(1981年)から

一つ 以下は図を書いていますから、それを参考してください。黒の実線や点線は当時何本があった市電の線路、黄色は徒歩で、赤色の実線は市電で動いた距離。青はそれぞれの借家です。

江本廣一著「都電車両総覧」大正出版、1999年

原図は明治44年の市電。一部を変更。江本廣一著「都電車両総覧」大正出版、1999年

牛込見附 市電の駅です。国鉄(現在のJR)の駅は牛込駅でしたが、1928年(昭和3年)から飯田橋駅にかわりました。
牛込肴町角筈牛込柳町 下図を参照。

日本鉄道旅行地図帳

昭和7年の市電系統図。今尾恵介監修「日本鉄道旅行地図帳」新潮社。2008年

[硝子戸]
[漱石の本]
[漱石雑事]

夏目漱石「それから」|神楽坂

「それから」は明治42年に夏目漱石氏が書いた小説です。
 主人公の長井代助は、悠々自適の生活を送る次男で、その住所は神楽坂。もっと詳しく言うと、地蔵坂、あるいは、藁店わらだなの上で、おそらく袋町に住んでいます。
 藁店など、地名はたくさん出てきても、簡単に忘れてしまいます。なんというか、人間の英知でしょうか。また、この時代の「電車」には、外濠線の路面電車(チンチン電車)と、現在のJR線の中央本線(以前の甲武鉄道)という2つの電車がありました。
 結婚を迫られていますが、本人はその気はありません。ある女性への恋慕がその理由で、まあ、これは大人の恋愛小説ですが、内容について触れるつもりはありません。ここでは問題になるのは場所だけです。
 黄色は普通の注釈、青色の注釈は神楽坂とその周辺のことを表しています。

一の一
 誰かあわただしく門前をけて行く足音がした時、代助だいすけの頭の中には、大きな俎下駄まないたげたくうから、ぶら下っていた。けれども、その俎下駄は、足音の遠退とおのくに従って、すうと頭から抜け出して消えてしまった。そうして眼が覚めた。

一の一 「1の1」、つまり「1章1節」です。
俎下駄 男物の大きな下駄

 これはこの本の最初の文です。「神楽坂」はしばらく鳴りを潜め、初めて出てくるのは八章です。
 なお、ここでは青空文庫を基準として使い、部分的に岩波書店の「定本漱石全集」を使っています。

八の一
 神楽坂かぐらざかへかかると、ひっりとしたみちが左右の二階家に挟まれて、細長く前をふさいでいた。中途までのぼって来たら、それが急に鳴り出した。代助は風がの棟に当る事と思って、立ち留まって暗い軒を見上げながら、屋根から空をぐるりと見廻すうちに、たちまち一種の恐怖に襲われた。戸と障子と硝子ガラスの打ち合う音が、見る見るはげしくなって、ああ地震だと気が付いた時は、代助の足は立ちながら半ばすくんでいた。その時代助は左右の二階家が坂を埋むべく、双方から倒れて来る様に感じた。すると、突然右側のくぐり戸をがらりと開けて、小供を抱いた一人の男が、地震だ地震だ、大きな地震だと云って出て来た。代助はその男の声を聞いてようやく安心した。
 家へ着いたら、ばあさんも門野も大いに地震のうわさをした。けれども、代助は、二人とも自分程には感じなかったろうと考えた。(中略)
 その明日あくるひの新聞に始めて日糖事件なるものがあらわれた。

神楽坂 初めて神楽坂が出てきます。新宿区東部の地名。
ああ地震だと 明治42年3月13日に地震が起きました。漱石の日記では

 三月十四日 日[曜]
 昨夜風を冐して赤坂に東洋城を訪ふ。野上臼川、山崎楽堂、東洋城及び余四人にて桜川、舟弁慶、清経を謡ふ。東洋城は観世、楽堂は喜多、臼川と余はワキ宝生也。従って滅茶苦茶也。臼川五位鷺の如き声を出す。楽堂の声はふるへたり。風熄まず、十二時近く、電車を下りて神楽坂を上る。左右の家の戸障子一度に鳴動す。風の為かと思ふ所に、ある一軒から子供を抱いた男が飛び出して、大きな地震だと叫ぶ。坂上では寿司屋丈が起きてゐた。
 今日も曇。きのふ鰹節屋の御上さんが新らしい半襟と新らしい羽織を着てゐた。派出に見えた。歌麿のかいた女はくすんだ色をして居る方が感じが好い。

日糖事件 大日本精糖株式会社の重役と代議士との贈収賄事件。明治42年4月11日から日糖重役や代議士が多数検挙された。新聞でも報道があった。

八の二
 仕舞にアンニュイを感じ出した。何処どこか遊びに行く所はあるまいかと、娯楽案内を捜して、芝居でも見ようと云う気を起した。神楽坂から外濠そとぼりへ乗って、御茶の水まで来るうちに気が変って、森川町にいる寺尾という同窓の友達を尋ねる事にした。この男は学校を出ると、教師はいやだから文学を職業とすると云い出して、ほかのものの留めるにも拘らず、危険な商売をやり始めた。やり始めてから三年になるが、いまだに名声も上らず、窮々云って原稿生活を持続している。

アンニュイ ennui。倦怠感。退屈
外濠線 旧江戸城の外濠を一周する路面電車。明治37年、東京電気鉄道株式会社が開業。
森川町 現在の文京区本郷六丁目の付近

十の二
「それで、奥さんは帰ってしまったのか」
「なに帰ってしまったと云う訳でもないんです。一寸ちょっと神楽坂に買物があるから、それを済まして又来るからって、云われるもんですからな」
「じゃ又来るんだね」
「そうです。実は御目覚になるまで待っていようかって、この座敷まで上って来られたんですが、先生の顔を見て、あんまり善く寐ているもんだから、こいつは、容易に起きそうもないと思ったんでしょう」
十の五
 三千代の頬にようやく色が出て来た。たもとから手帛ハンケチを取り出して、口のあたりきながら話を始めた。――大抵は伝通院前から電車へ乗って本郷まで買物に出るんだが、人に聞いてみると、本郷の方は神楽坂に比べて、どうしても一割か二割物が高いと云うので、この間から一二度此方こっちの方へ出て来てみた。この前も寄るはずであったが、つい遅くなったので急いで帰った。今日はその積りで早くうちを出た。が、御息おやすみ中だったので、又通りまで行って買物を済まして帰り掛けに寄る事にした。ところが天気模様が悪くなって、藁店わらだなを上がり掛けるとぽつぽつ降り出した。傘を持って来なかったので、濡れまいと思って、つい急ぎ過ぎたものだから、すぐ身体からださわって、息が苦しくなって困った。――

伝通院 文京区小石川三丁目にある浄土宗の寺。
電車 路面電車、チンチン電車です
本郷 文京区の町名。旧東京市本郷区を指す地域名
藁店 神楽坂の毘沙門堂の西側から袋町の上に行く通り。藁店横町と同じ。江戸時代から藁や藁細工を売る店があった。

十一の一
 新見付へ来ると、向うから来たり、此方から行ったりする電車が苦になり出したので、堀を横切って、招魂社の横から番町へ出た。そこをぐるぐる回って歩いているうちに、かく目的なしに歩いている事が、不意に馬鹿らしく思われた。目的があって歩くものは賤民せんみんだと、彼は平生から信じていたのであるけれども、この場合に限って、その賤民の方が偉い様な気がした。全たく、又アンニュイに襲われたと悟って、帰りだした。神楽坂へかかると、ある商店で大きな蓄音器を吹かしていた。その音が甚しく金属性の刺激を帯びていて、大いに代助の頭にこたえた。

新見付 しんみつけ。現在の地図は「新見附橋」交差点。牛込見附と市ヶ谷見附との間にあった昔の外濠線の路面電車停留所名。
電車 路面電車(チンチン電車)のことでしょう。
招魂社 現在は千代田区九段の靖国神社
番町 靖国神社の南西地域で、現在は千代田区1番町から六番町にかけての一帯。もと江戸城警護の「大番組」の旗本の屋敷があった。
賤民 身分の低い民。下賤の民。
蓄音器を吹かして 平円盤レコードが輸入され、大きなラッパ式拡声器がつき、再生することを「吹かす」といった。

十三の二
 彼は立ち上がって、茶の間へ来て、畳んである羽織を又引掛た。そうして玄関に脱ぎ棄てた下駄を穿いてけ出す様に門を出た。時は四時頃であった。神楽坂を下りて、当もなく、眼に付いた第一の電車に乗った。車掌に行先を問われたとき、口から出任せの返事をした。紙入を開けたら、三千代に遣った旅行費の余りが、三折の深底の方にまだ這入っていた。代助は乗車券を買った後で、さつの数を調べてみた。

電車 これも路面電車でしょう

十四の六
 津守つのかみを下りた時、日は暮れ掛かった。士官学校の前を真直に濠端ほりばたへ出て、二三町来ると砂土原町さどはらちょうへ曲がるべき所を、代助はわざと電車みちに付いて歩いた。彼は例の如くにうちへ帰って、一夜を安閑と、書斎の中で暮すに堪えなかったのである。ほりを隔てて高い土手の松が、眼のつづく限り黒く並んでいる底の方を、電車がしきりに通った。代助は軽い箱が、軌道レールの上を、苦もなく滑って行っては、又滑って帰る迅速な手際てぎわに、軽快の感じを得た。その代り自分と同じみちを容赦なく往来ゆききする外濠線の車を、常よりは騒々しくにくんだ。牛込見附うしごめみつけまで来た時、遠くの小石川の森に数点の灯影ひかげを認めた。代助は夕飯ゆうめしを食う考もなく、三千代のいる方角へ向いて歩いて行った。
 約二十分の後、彼は安藤坂を上って、伝通院でんずういん焼跡の前へ出た。(中略)
 神楽坂上へ出た時、急に眼がぎらぎらした。身を包む無数の人と、無数の光が頭を遠慮なく焼いた。代助は逃げる様に藁店わらだなあがった。
 ひる少し前までは、ぼんやり雨を眺めていた。午飯ひるめしを済ますやいなや、護謨ゴム合羽かっぱを引き掛けて表へ出た。降る中を神楽坂下まで来て青山の宅へ電話を掛けた。明日此方こっちからく積りであるからと、機先を制して置いた。電話口へは嫂が現れた。先達せんだっての事は、まだ父に話さないでいるから、もう一遍よく考え直して御覧なさらないかと云われた。代助は感謝の辞と共に号鈴ベルを鳴らして談話を切った。次に平岡の新聞社の番号を呼んで、彼の出社の有無を確めた。平岡は社に出ていると云う返事を得た。代助は雨をいて又坂を上った。花屋へ這入って、大きな白百合しろゆりの花を沢山買って、それを提げて、宅へ帰った。花はれたまま、二つの花瓶かへいに分けてした。まだ余っているのを、この間の鉢に水を張って置いて、茎を短かく切って、すぱすぱ放り込んだ。

津守 津之守坂。四谷区四谷荒木町(現在は新宿区荒木町)と三栄町の境にある坂。
士官学校 陸軍士官学校。陸軍の士官教育を行った。現在は防衛省などが入る。
濠端 外濠の淵や岸。ここでは市ヶ谷見附から牛込見附まで。
砂土原町 牛込区(現在は新宿区)市ヶ谷砂土原町。
電車 外濠線と比較しているので、これは現在のJR東日本の中央線の電車(下図は、水道橋付近を走る甲武鉄道電車)。明治41年から電車運転を開始

安藤坂 小石川区小石川水道町、現在の文京区春日町一丁目と二丁目の間にある坂。
焼跡 明治41年12月、本堂の全焼があった。
号鈴をを鳴らして 電話機に付いたハンドルを回してベルを鳴らし、電話交換手に会話が終わったことを知らせた。
花屋 創業1835年の神楽坂6丁目の「花豊」でしょうか?

十六の四
 狭い庭だけれども、土が乾いているので、たっぷり濡らすには大分骨が折れた。代助は腕が痛いと云って、好加減にして足をいて上った。烟草たばこを吹いて、縁側に休んでいると、門野がその姿を見て、
「先生心臓の鼓動が少々狂やしませんか」と下から調戯からかった。
 晩には門野を連れて、神楽坂の縁日へ出掛けて、秋草を二鉢三鉢買って来て、露の下りる軒の外へ並べて置いた。は深く空は高かった。星の色は濃くしげく光った。

門野 代助の書生です。

十六の七
平岡が来たら、すぐ帰るからって、少し待たして置いてくれ」と門野に云い置いて表へ出た。強い日が正面から射竦いすくめる様な勢で、代助の顔を打った。代助は歩きながら絶えず眼とまゆを動かした。牛込見附うしごめみつけを這入って、飯田町を抜けて、九段坂下へ出て、昨日寄った古本屋まで来て、
「昨日不要の本を取りに来てくれと頼んで置いたが、少し都合があって見合せる事にしたから、その積りで」と断った。帰りには、暑さが余りひどかったので、電車で飯田橋へ回って、それから揚場あげば筋違すじかい毘沙門びしゃもんまえへ出た。(中略)
 この前暑い盛りに、神楽坂へ買物に出たついでに、代助の所へ寄った明日あくるひの朝、三千代は平岡の社へ出掛ける世話をしていながら、突然夫の襟飾えりかざりを持ったまま卒倒した。平岡も驚ろいて、自分の支度はそのままに三千代を介抱した。十分の後三千代はもう大丈夫だから社へ出てくれと云い出した。口元には微笑の影さえ見えた。横にはなっていたが、心配する程の様子もないので、もし悪い様だったら医者を呼ぶ様に、必要があったら社へ電話を掛ける様に云い置いて平岡は出勤した。

平岡 代助の同窓生で親友
飯田町 「飯田橋」以前の町名
飯田橋 千代田区の北端、外堀に架けられている橋。飯田橋駅東部地区。
揚場 牛込区(現在の新宿区)牛込揚場町。古くは神田川の舟着き場で、荷揚げを行った。地図ではここ
筋違 斜めに交差している。斜め。はすかい。
三千代 平岡の妻。代助から恋慕を受ける。
襟飾 洋服の襟や襟元につける飾り。ブローチ、首飾り、ネクタイなど。

「一七の三」で最後の文章です。

十七の三
 飯田橋へ来て電車に乗った。電車は真直に走り出した。(中略)
 たちまち赤い郵便筒ゆうびんづつが眼に付いた。するとその赤い色が忽ち代助の頭の中に飛び込んで、くるくると回転し始めた。傘屋の看板に、赤い蝙蝠傘こうもりがさを四つ重ねて高く釣るしてあった。傘の色が、又代助の頭に飛び込んで、くるくると渦を捲いた。四つ角に、大きい真赤な風船玉を売ってるものがあった。電車が急に角を曲るとき、風船玉は追懸おっかけて来て、代助の頭に飛び付いた。小包郵便を載せた赤い車がはっと電車とれ違うとき、又代助の頭の中に吸い込まれた。烟草屋たばこや暖簾のれんが赤かった。売出しの旗も赤かった。電柱が赤かった。赤ペンキの看板がそれから、それへと続いた。仕舞には世の中が真赤になった。そうして、代助の頭を中心としてくるりくるりとほのおの息を吹いて回転した。代助は自分の頭が焼け尽きるまで電車に乗ってこうと決心した。(了)

飯田橋 これは飯田橋駅東部地区でしょう。
郵便筒 郵便ポストのこと