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東京盛り場風景|酒井眞人

文学と神楽坂

 酒井眞人氏の「東京盛り場風景」(誠文堂、1930)「神楽坂」です。

      山 手 銀 座
 早慶野球戦後、慶應が勝てば銀座になだれゆき、早稲田が勝てば、神楽坂にその戦捷を祝うのを常としている。いまでこそ山手銀座の名は、新宿にその名を奪われたが、その名の発祥の地はここである。神楽坂は昼より夜一時の盛り場である。しかも市内の他の多くの盛り場が、自動車、電車、自転車等殺人的往来によって、脅威されているのに、この地は灯ともし頃から夜十時すぎまで、車馬一切の通行を禁止される。すなわちこの地の表玄関飯田町の方から入ろうとすれば、道の真中に立標がたてられて、車馬の通行は禁止され、一方裏玄関肴町のところも同じく、入口の両方に立標がたてられて内の人々は安全を保證された、享楽第一のプロムナードとなる。
 夜の神楽坂は人の神楽坂だ。ことに目に立つのは、普段着のまま慢歩する夥しい人の群で、なまめかしい座敷着の芸者が、その人中を縫って、右から左、左から右へ歩む情景は神楽坂ならではみられぬ。坂を上つた左右の横町は紅燈柳影の歓楽境、絃歌ときに恋声を交えてきくのもこの土地らしく。
戦捷 せんしょう。戦勝。戦いに勝つこと。
市内 東京市なので現在にすると「都内中心部」
ともし 灯し。ともし。ともした火。あかり。ともしび。灯火
立標 りっぴょう。警戒標識。暗礁・浅瀬・露岩などの危険な場所に立てる。
肴町 この場合は現在の「神楽坂5丁目」
享楽 きょうらく。楽しみを味わう。思いのままに快楽にふける。「享」は受けるの意味
プロムナード promenade(仏)。散歩。散策。逍遙。そぞろ歩く道。散歩する所。遊歩場。
夥しい おびただしい。非常に多い。
座敷着 芸者や芸人などが、客の座敷に出るときに着る着物。
紅燈柳影 紅灯こうとうは色町のともし火。歓楽街の華やかな明かり。柳影りゅうえいは柳の木影。
絃歌 げんか。琵琶、琴、三味線などの弦楽器に合わせてうたうこと
恋声 こいごえ。愛情の声。愛のささやき。恋の調べ。恋の囁き。

     震災後のこの地
 大震災直後は、幸運にもその火災から免れたばかりに、松屋三越、銀座の村松時計店資生堂、さてはカフェープランタン等、灰燼にかした帝都の中心は、ここに移された如く賑やったものだったが、その後三年四年のうちに、これ等の一時の出店は影をひそめて、昔ながらの神楽坂になってしまった。それのみでない。復興の帝都は、勃然と生気に満ちたを凝し、新生面を開いたが、この地は僅かに坂のわさびおろしを思わせる愉快な補道と、坂上のアスフハルト道が出来たばかり、その他、家並は昔のままで、いまから思えばいっそここも灰燼に帰したなら、更に立派になっているだろうと愚知られる
松屋 不明です。ただし、銀座・浅草の百貨店である、株式会社松屋 Matsuyaではありません。株式会社松屋総務部広報課に聞いたところでは、はっきりと本店、支店ともに出していないと答えてくれました。日本橋にも松屋という呉服店があったようですが、「日本橋の松屋が、関東大震災の直後に神楽坂に臨時売場をだしたかどうかは弊社ではわかりかねます」とのことでした。
灰燼 灰や燃え殻。建物などが燃えて跡形もないこと
勃然 ぼつぜん。急に、勢いよく起こるさま。顔色を変えて怒るさま。思いがけないさま。突然。
 そう。よそおい
わさびおろし わさびをすりおろすための器具。

「補道」が「わさびおろし」のようで愉快だと言っています。中村武志氏は『神楽坂の今昔』(毎日新聞社刊「大学シリーズ法政大学」、昭和46年)で似た話を書いています。

 東京の坂で、一番早く舗装をしたのは神楽坂であった。震災の翌年、東京市の技師が、坂の都市といわれているサンフランシスコを視察に行き、木煉瓦で舗装されているのを見て、それを真似たのであった。
 ところが、裏通りは舗装されていないから、土が木煉瓦につく。雨が降るとすべるのだ。そこで、慌てて今度は御影石を煉瓦型に切って舗装しなおした。
 神楽坂は、昔は今より急な坂だったが、舗装のたびに、頂上のあたりをけずり、ゆるやかに手なおしをして来たのだ。
 つまり、御影石か木を煉瓦型に切って舗装し、その舗装が「わさびおろし」に似ていたのでしょう。
愚知られる ぐちられる。愚痴を言われる。相手が愚痴を言う時に、その内容を聞かされること。

     中心の毘沙門様
 神楽坂といえば、牛込見附の方から、急坂の四五丁の坂から坂上肴町までが、謂わゆる神楽坂であるが何んといってもその中心は、その半ばどころにある毘沙門様である。通から石柵ごしに境内がすっかりのぞかれ、お利益もあらかたに、参詣するもの跡をたたず、毎月寅と午の日には縁日だから、書き入れどきとされてある。この毘沙門様の前あたり、縁日の日でなくとも露店のすし屋が軒をならべ、坂下入口の屋台のすし屋と共に、ここの名物の一つである。
四五丁 距離の単位。一町、1丁は60間で360尺。約109メートル。四五丁は400−500メートル。
石柵 せきさく。石で作った柵。墓石を囲む外柵、神社や寺院の境内の境目の玉垣、庭園や施設の境界線の石フェンスなど

     牛  込  亭
 あまり広くない神楽坂は、普段着のまま散歩する享楽第一のプロムナードといったが、ここを散歩する散歩客の中には、学生、山手のつとめ人。いずれも銀座を散歩する人のように見えもなければ、普段着そのまま気紛れに見てゆこう、聞いて帰ろうという人も所詮多かろう。あまり広くないこの界隈に娯楽機関が五つ六つある。毘沙門様のすこし手前の色もの席牛込亭手踊りや浪花節席の柳水亭は今の勝岡。農災後水谷八重子がたてこもってストリンドべルクの令嬢ニリエなど演じた牛込会館は、いまは白木の支店になっている。その他神楽坂演芸場、映画の文明館牛込館。ここは最近日活館と改称せられているが牛込館の名もなつかしい。
色もの席 色物いろものとは本来の演芸以外の漫才、音曲、奇術、紙切り、曲芸、声帯模写など。本来の演芸とは講談、義太夫、落語、浪花節など。
手踊り ておどり。手だけでおどる踊。 特に、すわって手振りだけでする踊。
ストリンドべルク ストリンドベリ(Johan August Strindberg)。スウェーデンの劇作家・小説家。自然主義的な作品で、イプセンとともに近代演劇の先駆者。小説「赤い部屋」「痴人の告白」など
白木 白木屋。しろきや。1662年(寛文2)日本橋に開業した呉服店白木屋。その後、近代的百貨店に。1956年(昭和31)東京急行電鉄の経営に移り、東急百貨店日本橋店。1999年(平成11)1月に336年の歴史に幕を閉じる。

     夜  の  街
 神楽坂は夜一時の街である。灯ともし頃から賑う人の群、ショウウインドの眩さ、半玉がよく足をとめてみる小間物店助六下駄屋三味線屋、など粋な臭いをただよわせるかと思えばそれよりもうるさいほど拡声器に景気を添えているレスラントカフェー。両側にならぶ種々の露店、特に坂上の理髪店の前にあらわれるバナナの叩き売りは、この地に来ってもう十年余になり、これらの元締をなしている若松屋近藤某目貫きの大店は、紙屋の相馬屋、薬屋の尾沢、この店は洋食屋もやっている。また糸屋の麥屋、それに老舗のカグラ屋メリンス店。近頃どこの盛り場にも進出している明治製菓白十字、家庭向の紅谷の喫茶部、この店は山手一流の菓子屋とし、緑茶も出来る。船橋屋はりまや等、坂上の田原屋には、よく文士の影がみられ肴町近くの田原屋果物店は、傍らレストラントを兼ねて、山手では一流の料理を喰せると評判がよい。
半玉 はんぎょく。まだ一人前になっていない芸妓。すう
小間物店 こまものみせ。小間物(日用品・化粧品などのこまごましたもの)を売る店。
レスラント おそらくレストランのこと。
カフェー 本来はコーヒーの意味。コーヒーを飲ませる店の喫茶店になり、客席にホステスをはべらせて洋酒・洋食を供する昭和初期の飲食店になった。
目貫き ぬきは刀ややりの目釘。目抜きは目立ち、中心的であること。
元締 一つに統括して締めくくること。その任にあたる人。たばね役。同業者組合の統括者。
レストラント restaurant。レストラン。西洋料理を客に供する料理店。
麥屋 「麥」は「麦」と同じ。ここではおそらく「ひし」のこと。

     町中に魚屋さん
 しかしなんといっても神楽坂は普段着のすがたである。緋鹿子の半玉にはなくてはならぬよく売り込んだ三好野木村屋、カフェの草分山本等どこまでも平民的である。それと同時にこれ等の町並のなかに魚屋、八百屋等がまた盛んにお惣菜を売っているのも、道ゆく人の肩をこらしめない
 その外芸者の入る店に、末よし、古新、吉熊橋本常盤 古いすしやの紀の善、鰻屋の鳥金などがある。そばやに更科春月やぶ、おでん小料理に赤びょうたん神楽おでん。人の噂も45日、なんといつてもこの辺では恩惠をこうむっている三木武吉の愛妾のはじめた牡丹は、ここからは一寸離れていたがあのしまつ。跡は陶々亭支店になったが、ぼたんの名をかりて先のぼたんの板前が小料理屋を初めている。
鹿子がのこ 深紅色の鹿子絞り。

鹿子絞り

こらしめない 誰かを懲らしめたり、罰したりしない。例は「彼が約束を破っても、私はこらしめない」。「肩をすくめる」は「恥ずかしい思いをしたときなどのようす」
古新 正しくは吉新
三木きち 大正2年、牛込区議。大正6年、衆議院議員。昭和3年の東京市疑獄事件で失脚。昭和20年、鳩山一郎らと日本自由党を結成するも、公職追放。昭和27年、政界に復帰。昭和29年、日本民主党を結成し、鳩山内閣を実現。昭和30年、保守合同を推進、自民党を成立。生年は明治17年8月15日。没年は昭和31年7月4日。71歳
牡丹 三木武吉氏の妾は5、6人いたともいいます。そのうち誰が「牡丹」を建設したのかわかりません。また、どこに作ったのも不明です。綿谷雪氏の「江戸ルポルタージュ」(人物往来社、昭和36年)「水野十郎左衛門あばれる」の料理屋では

牛込門外、神楽坂上り口の左側——坂に面した町屋の1かわ裏で、堀の方の電車道沿いの向かって表口がありました。故代理士三木武吉氏の経営で、一時ロシア美人の女中を置いて騒がれたことがあります。
 ここでしょうか?
陶々亭 東京都日比谷公園前で大正8年から昭和39年までの中華料亭。

     なんぼなんでもね
 その他ここの盛り場は、ほんの僅かの地域に限られているため、肴町をこえて郵便局の方にまで露店も延長され、そち等にもよい店もある、牛乳屋梅原は、早稲田の学生で知らぬものはないであろうし、その先町ほどの勇幸がくやの二軒のてんぶら屋は、一つは食味を自慢し一つは、趣味の店とされている。またその半対側に、有名な公衆食堂、どぶろくや、飯塚質店ともに旧家飯塚家の経営するところ、飯塚家飯塚友治郎氏は坪内逍遥の娘おくにさんの縁家先、同じ横町にはかの芸術座のあとがあり、島村抱月松井須磨子を思う。またその先には明治文壇の雄尾崎紅葉がながく住っていたという。
 一時左傾の出版所をして名をあらわした南宋書院は肴町通り、故有島武郎の親友足助氏の叢文閣、古本屋の竹中、いま盛業をしている盛文堂武田芳進堂機山閣、そことは遠くはなるが新潮社、盛り場をひかえて知識階級者がこの近くにいることを語る。
 更にこことは別に、あの夜の雑踏を他目に9時をすぎると東京物理学校の生徒がなりふりかまわぬさまで帰ってゆくのを見る。
  土曜日なのに夜学校には灯がともっている。
  なんぼなんでもね。
と詠じた木下李太郎氏の詩を想う。
飯塚友治郎 正しくは「飯塚友一郎
おくに 写真家の鹿嶋清兵衛とその後妻・ゑつの間にできた長女「くに」を6歳の時に養女に迎えている。本屋3
東京物理学校 東京理科大学のパンフレットでは
明治14(1881)年に東京大学を卒業後間もない21名の若き理学士らにより「東京物理学講習所」として創立され、2年後に「東京物理学校」と改称。当時から、真に実力を身に付けた学生を卒業させるという「実力主義」を貫きました。その後、昭和24(1949)年に新制大学の発足とともに「東京理科大学」に改組。科学技術の発展とともに幅広い分野の学部が設置され、今日ではわが国私学随一の理工系総合大学に発展しました。

木下李太郎 正しくは木下杢太郎でしょう。

     二つの先端を行くもの
 神楽坂は、坂を中心の盛り場である。ひとしきり肩もます雑踏をこえて坂を下れれば、牛込見附にいでる。昔の御見附どころだけに青松と石崖、外濠の水と、雑沓にひきかえて閑寂たるこころをいだかしめる。しかしここの堀には貸ボートが行われ、モガモボの一組みが涼風を入れている。だがはたしてオールをにぎるモボさん涼しいかしら 汗だくてはなかろうか。ここから離れてはいるが飯田橋の玉置のダンスホールも、この盛り場をひかえての経営として書き添えておく。
肩もます 肩を揉む。肩の筋肉の緊張や凝りをほぐす
モガモボ 「モダン・ボーイ」と「モダン・ガール」。大正デモクラシー時代に流行った先端的な若い男女。
玉置のダンスホール 不明です。大正10年、紅谷菓子店を3階建てに改築し、3階はダンスホールでしたが、震災後は喫茶店になりました。

神楽坂の今昔1|中村武志

文学と神楽坂

 中村武志氏の『神楽坂の今昔』(毎日新聞社刊「大学シリーズ法政大学」、昭和46年、1971年)です。なお、『ここは牛込・神楽坂』第17巻にも「残っている老舗」だけを除いた全文が出ています。余計なことですが、『ここは牛込・神楽坂』の「特別になつかしい街だ」でなく、毎日新聞社には「特殊になつかしい街だ」と書いてあります。(意味は「特別になつかしい街だ」が正しいような気もしますが)
 なお、ここで登場する写真は、例外を除き、毎日新聞社刊の「大学シリーズ法政大学」に出ていた写真です。

 ◆ 舗装のはしり

 大正十五年の春、旧制の松本中学を卒業した私は、すぐ東京鉄道局に就職し、小石川区小日向水道町の親戚に下宿したから、朝夕神楽坂を歩いて通勤したのであった。だから、私にとっては、特殊になつかしい街だ。
 関東大震災で、市外の盛り場の大部分は灰燼に帰したが、運よく神楽坂は焼け残ったので、人々が方々から集まって来て、たいへんにぎやかであった。
 東京の坂で、一番早く舗装をしたのは神楽坂であった。震災の翌年、東京市の技師が、坂の都市といわれているサンフランシスコを視察に行き、木煉瓦で舗装されているのを見て、それを真似たのであった。
 ところが、裏通りは舗装されていないから、土が木煉瓦につく。雨が降るとすべるのだ。そこで、慌てて今度は御影石を煉瓦型に切って舗装しなおした。
 神楽坂は、昔は今より急な坂だったが、舗装のたびに、頂上のあたりをけずり、ゆるやかに手なおしをして来たのだ。化粧品・小間物佐和屋あたりに、昔は段があった。
 御影石も摩滅するとすべった。そこで、時々石屋さんが道に坐りこんで、石にきざみを入れていた。戦後、アスファルトにし、次にコンクリートにしたのである。

 神楽坂通り(昭和46年)

神楽坂通り(昭和46年)

紀の善(昭和46年)

紀の善(昭和46年)

東京鉄道局 鉄道省東京鉄道局。JRグループの前身。
小石川区小日向水道町 現在は文京区水道一丁目の一部。
関東大震災 1923(大正12)年9月1日午前11時58分、関東地方南部を襲った大震災。
木煉瓦 もくれんが。煉瓦状に作った木製のブロック。
御影石 みかげいし。花崗かこう岩や花崗閃緑せんりょく岩の石材名。兵庫県神戸市の御影地区が代表的な産地。
小間物 日常用いるこまごましたもの。日用品、化粧品、装身具、袋物、飾りひもなど

 ◆ 残っている老舗

 久しぶりに神楽坂を歩いてみた。戦災で焼かれ、復興がおくれたために、今度はほかの盛り場よりさびれてしまった。しかし、坂を上り また下って行くというこの坂の街には、独特の風情がある。
 神楽坂下側から、坂を上りながら、昭和のはじめからの老舗を私は数えてみた。右側から見て行くと、とっつけに、ワイシャツ・洋品の赤井商店、文房具の山田紙店、おしるこの紀の善(戦前は仕出し割烹)、化粧品・小間物の佐和屋、婦人洋品の菱屋、パンの木村屋、生菓子の塩瀬坂本硝子店、文房具の相馬屋などが今も残っている。
 左側では、きそばのおきな庵、うなぎの志満金夏目写真館戦前は右側)、広東料理の竜公亭、袋物・草履の助六、洋品のサムライ堂、果物・レストランの田原屋などが老舗である。まだあるはずだが思いだせない。



とっつけ カ行五段活用の動詞「取っ付く」から。「取っ付く」は物事を始めること。
戦前は右側 戦後は夏目写真館は左側(南側)でしたが、2011年に「ポルタ神楽坂」ができると、右側(北側)の陶柿園の二階になりました。右の写真は「わがまち神楽坂」(神楽坂地区まちづくりの会、平成7年)から。当時は夏目写真館は坂の南側にありました。

◆ 消えたなつかしい店

 戦後か、その少し前に消えたなつかしい店がいく軒かある。左側上り囗に、銀扇という喫茶と軽食の店があった。コーヒー、紅茶が八銭、カレーライス十五銭。法政の学生のたまり場であった。
 坂の頂上近くに、果物とフルーツパーラーの田原屋があった。銀座の千匹屋にも負けないいい店だった。
 毘沙門さんの手前に、喫茶の白十字があった。女の子はみんな白いエプロンをつけ、後ろで蝶結びにしていた。この清純な娘さんと法政の学生との恋愛事件がいくつかあった。
 現在の三菱銀行のところに、高級喫茶の紅谷があった、水をもらうと、レモンの輪切りが浮いていた。田舎者の私はすっかり感心した。
 右側では、頂上から肴町のほうへ少し下ったあたりに、山本コーヒー店があり、うまいドーナッツで知られていた。その先におしるこの三好野があった。芸者さんにお目にかかるために、時々寄ったものだ。


白十字 神楽坂には白十字に新旧の2つの喫茶店がありました。安井笛二氏が書いた「大東京うまいもの食べある記」(丸之内出版社、昭和10年)では
◇白十字——白十字の神樂坂分店で、以前は坂の上り口にあったものです。他の白十字同樣喫茶、菓子、輕い食事等。

1つは坂の上り口で、1つは毘沙門から大久保通りに近い場所にありました。「毘沙門さんの手前」は坂の上り口を示しているのでしょうか。
三菱銀行のところ 大正6年、3丁目の三菱UFJ銀行のところには川崎銀行がありました(飯田公子「神楽坂 龍公亭 物語り」サザンカンパニー、平成23年)。紅谷は五丁目でした。
 なお、写真の説明としては下の三菱銀行は正しいと言われました。加藤さんが書いていたものを再度引用すると「あと気になったのは「神楽坂の今昔1」で、毎日新聞掲載の三菱銀行の写真がありますが、これは現店舗の建て直し中の仮店舗です。現在の福太郎のある場所ですから、当時の記事は間違っていません」と『4丁目北側最東部の歴史』(https://kagurazaka.yamamogura.com/歴史2/)の欄外に書かれています。
 国会図書館の「住宅地図」には1970年と1773年の2つしかありません。わかりませんでした。もっといろいろ教えてください。ありがとうございました。

三好野|神楽坂4丁目

文学と神楽坂

 三好野(みよしの)は、おしるこなどの甘味屋でした。神楽坂4丁目で、現在は「レディースファッションAWAYA」。左隣は「神楽坂 ワヰン酒場」。場所はここ

 白木正光編の「大東京うまいもの食べある記」(昭和8年)によれば

毘沙門の向ふ側に以前からある、例の三好野式の大衆甘味ホールで、お汁粉、おはぎ等のほかに稲荷ずし、喫茶の類も揃つてゐますが、他に類似の店が尠いので、婦人子供達にも評判がよろしく、毘沙門參詣者の休み場所のやうな形になつてゐます

 三好野は1952年までにはなくなっています。「家は3階建て。遊びに行った時、高そうな鉄道のおもちゃを見せられた」とある私信。

 1960年頃までは「洋品マケヌ屋」、1978年頃までは「阿質屋洋品」、1980年頃からはレディースファッション「あわや」になっています。

「あわや」と「ワヰン酒場」の間に1つ路地があります。けやき舎の『神楽坂おとなの散歩マップ』の地名では「ごくぼその路地」、牛込倶楽部『ここは牛込、神楽坂』平成10年夏号で提案した地名は「デブ止め小路」「細身小路」「名もなきままの小路」。最も狭い路地で、しかし、先には狭い路に面して居酒屋もあります。神楽坂通りに出る方の路地はわずか91cm、四つ角にぶつかる方は122cmでした。(詳細はここで)

「拝啓、父上様」第一回で田原一平は奥からここをすり抜けて毘沙門天で待つ中川時夫に会うエピソードがあります。

神楽坂通り
  ケイタイをかけつつ歩く一平。
一平「動いてないな。ようし見えてきた。後1分だ。一分で着くからな」
ごくほそ1

コインランドリーで洗濯をしていた田原一平は洗濯物を持って「ごくぼその路地」を抜けて毘沙門天で待つ中川時夫に会う

神楽坂|大東京案内(3/7)

文学と神楽坂


 通りで目貫(めぬ)の大店は、酒屋の万長(まんちよう)、紙屋の相馬屋、薬屋の尾沢(おざわ)、糸屋の菱屋(ひしや)、それらの老舗(しにせ)の間に割り込んで日蓮宗(にちれんしう)辻説法でその店(うた)はれるカグラ屋メリンス店。山の手一流の菓子屋紅谷は、今では楼上を喫茶部、家族づれの人達の上りいゝ店として評判が高い。

目貫き めぬき。目抜き。目立つこと。中心的。市街で最も人通りの多い、中心的な通り。
尾沢 尾沢薬局。現在は喫茶店の「Veloce神楽坂店」
菱屋 創業は明治3年(1870)。「菱屋糸屋」という糸と綿を扱う店を開店。「菱屋インテリア」から「菱屋商店」に変わり、現在は「菱屋」で、軍用品、お香、サンダルなどが並んでいます。現在も営業中。
辻説法 道ばたに立ち、通行人を相手に説法すること。カグラ屋メリンス店については、インターネットの「西村和夫の神楽坂」(15)「田原屋そして紅屋の娘」はこう書いています。

古い神楽坂ファンなら忘れてはならぬ店が毘沙門前のモスリン屋「警世文」である。店の主人は日蓮宗の凝り屋らしく、店先に「一切の大事のなかで国が亡ぶるが大事のなかの大事なり」といったのぼりを掲げ、道行く人に「思想困難」とか「市会の醜事実」を商売をよそに論じ、その周りに人だかりができ、暗がりには易者が店を出すといった、神楽坂が銀座や新宿の繁華街と違った雰囲気を持っていた。

 実はこの元がありました。大宅壮一氏が書いた「神楽坂通り」でした。なお、モスリンとは「唐縮緬とうちりめん」です。

カグラ屋メリンス店 5丁目で、神楽屋とも。「カグラ屋メリンス店」は現在の「Paul神楽坂店」です。メリンス店とは「メリノ種の羊毛で織ったところから薄く柔らかい毛織物」
楼上 階上。紅谷の場合、1階は菓子屋、2階は喫茶店。大正10年、3階建てに改築。3階はダンスホールでしたが、大震災後は喫茶店に。

4丁目と5丁目2

火災保険特殊地図 都市製図社 昭和12年

 明治製菓白十字船橋屋はりまや等から、よく売り込んだ()(よし)()()鹿()()半玉(はんぎよく)(ねえ)さんなどになくてならない店。今は店がかりもみすぼらしい山本もこゝでの喫茶店の草分(くさわ)けだ。
 カフエ・オザワ、それから牛込演芸館下のグランド女給のゐるカフエの大どころ。田原屋は果実店の(かたは)らレストランをやつてゐるが、七面鳥とマカロニを名物に一流の洋食を喰はせるので通人間(つうじんかん)に響いてゐる。

明治製菓 白木正光編の「大東京うまいもの食べある記」(昭和8年)によれば

明治製菓の神楽坂分店で相當に大きい構へです

と書いてありました。「明治食堂」の場所は5丁目の白十字の左隣で、現在はパチンコ・スロット「ゴードン神楽坂店」、さらには椿屋珈琲店になりました。
白十字 新宿区教育委員会の『神楽坂界隈の変遷』「古老の記憶による関東大震災前の形」(昭和45年)で大正11年頃から昭和8年は5丁目にあったようです。「大東京うまいもの食べある記」では

白十字の神楽坂分店で、以前は坂の上り口にあったものです。他の白十字同様喫茶、菓子、輕い食事等

と出ています。現在はパチンコ・スロット「ゴードン神楽坂店」です。また、新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」によれば、昭和12年頃は2丁目でした。現在は「ポルタ神楽坂」の一部です。
船橋屋 広津和郎氏の『年月のあしおと』(初版は昭和38年の『群像』、講談社版は昭和44年発行)では

船橋屋本店の名を見つけたので、思わず立寄って見る気になったのである。昔は如何にも和菓子舗らしい店構えであったが、今は特色のない雑菓子屋と云った店つきになっていた。

今は「神楽坂FNビル」に変わりました。
はりまや 新宿区郷土研究会『神楽坂界隈』(平成9年)の岡崎公一氏の「神楽坂と縁日市」によれば2丁目にあった喫茶店です。10年ぐらい前には「はりまや」のあった場所には「夏目写真館」でした。しかし夏目写真館も引っ越し、現在は「ポルタ神楽坂」の一部です。
緋鹿ノ子 ひがのこ。真っ赤な鹿()()絞り。鹿の子とは模様が子鹿の斑点に似ているところから来た言葉
緋鹿ノ子
山本 4丁目。白木正光編の「大東京うまいもの食べある記」(昭和8年)によれば

春月の向ふ側にあつて喫茶、菓子、中でもコーヒーとアイスクリームがこゝの自慢です。

現在は「魚さん」。楽山ビルを正面に向かって右隣りです。
カフエ・オザワ 4丁目。一階は女給がいるカフェ、二階は食堂。現在はcafe VELOCE ベローチェに。

牛込演芸館 現在は神楽坂3丁目のコンビニの「サークルK」に。大正12年(1923年)9月1日、関東大震災の頃は貸し座敷「牛込會館」に。同年12月17日、女優、水谷八重子が出演する「ドモ又の死」「大尉の娘」などはここで行いました。水谷八重子は18歳でした。大好評を博したそうです。
グランド 3丁目。白木正光編の「大東京うまいもの食べある記」(昭和8年)では

野球おでんを看板のグランド

と書いています。現在はコンビニの「サークルK」に。
女給 カフェやバーなどの飲食店で客の接待や給仕をする女性

 日本料理では芸者の入る末よし吉新吉熊橋本常盤指折(ゆびを)りの家。寿司屋の紀の善、鰻屋の島金など、なかなかの老舗(しにせ)で芸者も入る。さうでないのは鳥料理(とりれうり)川鉄、家族づれの客にはうつてつけの心持のいゝ家。

末よし 末吉末吉は2丁目13番地にあったので左のイラストで。地図は現在の地図。

吉新 よしん
神楽坂アーカイブズチーム編「まちの思い出をたどって」第1集(2007年)には

相川さん 三尺の路地がありまして、奥に「吉新」という割烹店があった。
佐藤さん ああ、魚金さんの奥の二階家だ。
馬場さん 戦後はね。いまの勧銀(注)のところまでつながっているとこだ。
 (注) この勧銀は現在の百円パーキング

 百円パーキングは今ではなく、PAUL神楽坂店などに変わりました。

吉熊 「東京名所図会」(睦書房、宮尾しげを監修)では

箪笥町三十五番吉熊は箪笥町三十五番地区役所前(当時の)に在り、会席なり。日本料理を調進す。料理は本会席(椀盛、口取、向附、汁、焼肴、刺身、酢のもの)一人前金一円五十銭。中酒(椀盛、口取、刺身、鉢肴)同金八十銭と定め、客室数多あり。区内の宴会多く此家に開かれ神楽坂の常盤亭と併び称せらる。営業主、栗原熊蔵。

 箪笥町三十五番にあるので、牛込区役所と相対しています。

橋本 安井笛二氏が書いた『大東京うまいもの食べある記 昭和10年』(丸之内出版社)では

◇橋本――毘沙門裏に昔からある山手一流の蒲燒料理、花柳の繩張内で座敷も堂々たるもの。まあこの邉で最上の鰻を食べたい人、叉相當のお客をする場合は、こゝへ招くのが一番お馳走でせう。

橋本

 現在は高村ビルで、一階は日本料理「神楽坂 石かわ」です。石かわはミシュランの三ツ星に輝く名店です。

常盤 当時は上宮比町(現在の神楽坂4丁目)にあった料亭常盤です。昭和12年の「火災保険特殊地図」で、常磐と書いてある店だと思います。たぶんここでしょう。上宮比町
紀の善 東京神楽坂下の甘味処。戦前は寿司屋。
島金 現在は志満金。昔は島金。鰻屋で、創業は明治2年(1869)で牛鍋「開化鍋」の店として始まりました。その後、鰻の店舗に転身しました。さらに鰻の焼き上がりを待つ間に割烹料理をも味わえるし、店内には茶室もあります。

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