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大正期まで市谷田町にあった呉服商「あまざけや」は、福永儀八氏の経営でした。福永氏は明治時代に、外濠の新見附を民間資金で新設した時の代表者です。
あまざけやは江戸期から続く老舗で、紳士録や名鑑などに見られます。古典落語にも登場します。「落語の中の言葉」では……
落語の中の言葉138「あまざけ屋」
実在の「あまざけ屋」は呉服屋で、品揃えが豊富で普通の店では置いていない御殿向の物まで揃えていたという。 「市ヶ谷のあまざけ屋は、御殿向のものが一切揃えてありましたが、あまざけ屋は御用達ではありませんでした。」(三田村鳶魚「御殿女中」春陽堂、昭和5年) 「四谷市ヶ谷にあった呉服の老舗「あまざけ屋」は、店頭に大釜をかけておき、入って来るお客に甘酒を進呈していたことで人気があった。この店の屋号は福永屋であったが、誰もほんとうの屋号を呼ばず「あまざけ屋」で通っていた。(増田太次郎『引札絵ビラ風俗史』青蛙房 1981)」 |
新撰東京名所図会第43編「牛込区の部」下(東陽堂、明治39年8月)33頁に伝説めいた記事があります。
●あまざけ屋
市谷田陶二丁目十四番地、呉服商、福永商店、屋号あまぎけや電話番町一二五。山手の老舗なり、或人云、往時田町の堀端に甘酒売を渡世とする老爺あり、人あり之を憐み、奚すれぞ百年の計を爲さざると、爺、口を開いて笑つて曰く、説くことを止めよ、卿に一女あり、才色優れたりと、幸に愚老に許すあらば請ふ謹んで其誨を聞かむと、其人家に帰り、之を女に謀るに、女頗る喜色あり、即ち之を嫁す、爺少婦を得て同棲し、田町下二丁目に呉服店を開く、日ならずして店頭繁栄し、遂に老舗となれり、是に於てか甘洒屋を屋号とするとぞ。 |
この牛込区の部・下には「市谷田町2丁目通り」の写真があります。この並びにあまざけやがあったと思います。
福永氏は、渋沢栄一会頭時代の東京商業会議所(現・商工会議所)の会員選挙に当選し、委員を務めました。人望もあったでしょう。
一方、あまざけやは明治28年に伊勢丹に買収されましたが、大正期まで事業を続けました。
今紀文のヤケ遊び 没落甘酒屋の主人公 [10・25、都]山の手きっての呉服商甘酒屋が、数日前バタバタと落城せしとの事は前号の紙上に記たから皆さんも御承知でしょうが、今後の様子を聞いて見た処、主人は番町辺へ小見世を出して当地を去ってしまい、其跡へは川越の債権者某が乗込んで来月五日から暖簾は以前のままの甘酒屋で開業する事と分りました。処で此主人先生未だ妻子眷族十人もあって昨日に変わる今日の零落に、まさか内職も出来ず、味噌漉さげての豆腐買は尚更のこと、実に見るさえ気の毒の有様なるが、其等の事には少しも構はず、ヤケのヤン八と出かけて、予て馴染の神楽坂拍子新松葉屋の〆子(17)を始め、五六人の拍子連を取巻に、昨今唄えの大陽気とは、何ら零落しても元が元だと其辺での大評判。 (中山泰昌編「新聞集成明治編年史第9巻」本邦書籍、1982)(明治28年10月) |
暖簾 のれん。おもに商家で紺色の木綿地に屋号などを染め抜いて軒先に掛けた。
眷族 けんぞく。血筋のつながっている者。一族の者。身内の者。親族
零落 れいらく。落ちぶれること
漉す ロク。こす。かすや不純物を取り除くために、布・網・紙や砂などをくぐらせる。
ヤケのヤン八 自棄のやん八。やけのやんぱち。物事が思うようにいかず、捨て鉢になって乱暴な言動をする。
拍子 白拍子のことでしょうか。女性や子供が朗詠を歌いながら舞う芸能
その後、あまざけやにあった「朝日弁財天」は伊勢丹の新宿本店に移され、屋上に祀られているそうです。

屋上の朝日弁財天。(photo: Pochi)
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