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神楽から名づけられた神楽坂|新宿の散歩道

文学と神楽坂

 芳賀善次郎氏の『新宿の散歩道』(三交社、1972年)「牛込地区 1. 神楽から名づけられた神楽坂」についてです。

神楽から名づけられた神楽坂
      (神楽坂1から6丁目)
 飯田橋駅九段口の前に立つ。駅すぐ左手に旧牛込見付門跡の石垣の一部が残っている。そこに牛込御門があってその向うが江戸城内だった。
 九段と反対側が神楽坂である。坂を上り、矢来下、戸塚、高田馬場、下井草駅と続く道早稲田通りである。
 神楽坂の地名の由来にはいろいろあるが、江戸城内の田安にあった筑土神社を今の筑土八幡町に遷座する時、この坂の中途で神楽を奏したことからつけられた(改選江戸誌)というのが信じられている。その筑土神社は、戦後飯田町へ移転した。
 このほか、市谷駅近くの市谷八幡の祭礼時、みこしがこの坂で止って神楽を奏する習慣になっていたとか、江戸中期、坂の中ほどで穴八幡祭礼の神楽を奏するしきたりがあったから(江戸誌)とか、若宮八幡の神楽がここまで聞えるからとか、赤城元町の赤城神社の神楽音が聞えたからとか、いろいろある(江戸名所図会)が、神社の神楽と結びついて名づけられたことにはまちがいない。それだけ牛込には神社が多いということを示している。
 江戸時代には、坂に向って左側に店が並び、右側は武家屋敷と寺院であった。明治になり、早稲田に早稲田大学ができ、今の飯田橋駅九段口に甲武鉄道牛込駅ができると、そこが大学の玄関口となり、神楽坂にはしだいに商店が並んでにぎやかになったのである。
 神楽坂という町名は、以前は外堀通りから上って、大久保通りまでであった。それが、昭和26年5月1日、戦後の発展をめざす神楽坂振興会の音頭とりで、付近6ヵ町を一丸として神楽坂と改称し、赤城神社入口まで、名称が統一されたのである。
九段口 現在は西口。
石垣の一部 旧牛込御門の渡櫓わたりやぐらの土台が残ったものです。
続く道 下図参照。
神楽坂の地名の由来 「神楽坂の由来」を参照
江戸城内の田安 たやす。田安門は九段坂から北の丸に入る門。しかし、筑土神社は一度も城内に入ったことはありません。田安郷(現、千代田区九段坂上)にはありますが。
筑土神社 天慶3年(940年)、江戸の津久戸村(現、千代田区大手町一丁目)に平将門の首を祀り「津久戸明神」として創建。室町時代、太田道灌が田安郷(現、千代田区九段坂上)に移転、以降「田安明神」とも呼ばれた。元和2年(1616年)、筑土八幡神社隣接地(現、新宿区筑土八幡町)へ移転し、「築土明神」と呼ばれた。1945年の東京大空襲で全焼し、1954年、現在の九段中坂の途中にある世継稲荷境内へ移転(住所は千代田区九段北1-14-21)。

改選江戸誌 正しくは「改撰江戸志」。原本はなく、作者も瀬名貞雄と信じられるが、正確には不明。「改撰江戸志」を引用した「御府内備考」では……

市ケ谷八幡宮の祭禮に神輿御門の橋の上にしはらくとゝまり神楽を奏すること例なり依てこの名ありと 江戸砂子 穴八幡の祭禮にこの坂にて神楽を奏するよりかく名つくと江戸 穴八幡の御旅所の地この坂の中ふくにあり津久土の社の伝にこの社今の地へ田安より遷坐の時この坂にて神楽を奏せしよりの名なりといふはもつともうけかたきことなり 改撰江戶志

信じられている 現在は信頼度100%のものはありません。
市谷八幡 市谷亀岡八幡宮。市谷八幡町15。文明10年(1478年)に太田道灌が江戸城の鎮守として、鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請
穴八幡 穴八幡宮出現殿。西早稲田2-1-11。康平5年(1062年)、奥州の乱を鎮圧した源義家が当所に兜と太刀を納めて八幡宮を勧請し、東北鎮護の社になった。
若宮八幡 神楽坂若宮八幡神社。若宮町18。鎌倉時代の文治5年(1189年)、源頼朝公が奥州の藤原泰衡を征伐するため、当所で下馬宿願し、鎌倉鶴岡の若宮八幡宮を分社した。

神楽坂の名前の由来。築土明神、市谷八幡宮、穴八幡宮、若宮八幡宮

飯田町 飯田町ではなく現在は九段北1-14-21です。
江戸誌 「江戸志」が正しい。別名は「新編江戸志」。寛政年間に作成。ウェブサイトのコトバンクによれば「近藤儀休編著・瀬名貞雄補訂」。改正新編江戸志では(くずし字は私訳)……

市谷八幡祭礼に神輿牛込御門橋上に暫く留りて神楽を奏しけるよつて此名ありと江戸砂子にみゆ又或説に穴八幡の祭礼にこの坂にて神楽を奏すと[云け]り名付ると也別穴八幡の旅所この坂の上にあり放生寺の持[之]津久戸神社の社伝には今の地へ遷座の時此坂にて神楽を奏すよしといふ

江戸名所図会 神楽坂については以下の通り。なお、割注は()で書いています。

同所牛込の御門より外の坂をいへり。坂の半腹はんぷく右側に、高田穴八幡の旅所あり。祭礼の時は神輿この所に渡らせらるゝ。その時神楽を奏する故にこの号ありといふ。(或いは云ふ、津久土明神、田安の地より今の処へ遷座の時、この坂にて神楽を奏せし故にしかなづくとも。又若宮八幡の社近くして、常に神楽の音この坂まできこゆるゆゑなりともいひ伝へたり。)(斎藤長秋等編「江戸名所図会 中巻 新版」角川書店、1975)

左側に店が並び、右側は武家屋敷と寺院であった 「左側(下)には民家、店と寺院、武家屋敷二軒が並び、右側(上)は年貢町屋を除き全て武家屋敷」

当時(嘉永5年、1852年)の状況

早稲田大学 前身は「東京専門学校」で、明治15年10月21日に創設。20年後の明治35年9月2日、「早稲田大学」と改称。
甲武鉄道 明治22年(1889年)4月11日、大久保利和氏が新宿—立川間に蒸気機関として開業。8月11日、立川—八王子間、明治27年10月9日、新宿—牛込、明治28年4月3日、牛込—飯田町が開通。明治37年8月21日に飯田町—中野間を電化。明治37年12月31日、飯田町—御茶ノ水間が開通。明治39年10月1日、鉄道国有法により国有化。中央本線の一部になりました。
牛込駅ができる 明治27年10月9日、牛込駅が開通しました。
大学の玄関口 現在はJR山手線の高田馬場駅から徒歩20分。東京メトロの東西線早稲田駅から徒歩5分。都バス(学バス)の高田馬場駅から早大正門までバス7分。都電の荒川線早稲田駅から徒歩5分。
 早大正門から神楽坂4丁目までは徒歩約30分。
商店が並んで 明治時代の「新撰東京名所図会」(第41編、明治37年)では、もう商店だけです。
大久保通り 戦前、神楽「町」に終わりを告げるのは、大久保通りではありません。また、戦前、神楽坂4−6丁目はなく、あるのは上宮比町、肴町、通寺町でした。終わりを告げるのは、本多横丁と毘沙門横丁です。

昭和16年、牛込区詳細図

赤城神社入口

昭和56年、新宿区史跡地図

神楽坂の由来は?

文学と神楽坂

 この神楽(かぐら)坂の由来は区の標柱では

  1. 坂の途中にあった穴八幡旅所(たびしょ)で神楽を奏したから(江戸名所図会、大日本地名辞書)
  2. 津久戸明神(築土明神)が移転してきた時にこの坂で神楽を奏したから(江戸名所図会、新編江戸志)
  3. 若宮八幡の神楽がこの坂まで聞こえてきたから(江戸名所図会、江戸鹿子)
  4. この坂に赤城明神の神楽堂があったから(望海毎談

神楽坂の由来

がありますが、どれがいいのか、江戸時代にもうわからなくなっています。
 江戸名所図会は次の通り。なお、割注は()で書いています。

同所牛込の御門より外の坂をいへり。坂の半腹はんぷく右側に、高田穴八幡の旅所あり。祭礼の時は神輿この所に渡らせらるゝ。その時神楽を奏する故にこの号ありといふ。(或いは云ふ、津久土明神、田安の地より今の処へ遷座の時、この坂にて神楽を奏せし故にしかなづくとも。又若宮八幡の社近くして、常に神楽の音この坂まできこゆるゆゑなりともいひ伝へたり。)(斎藤長秋等編「江戸名所図会 中巻 新版」角川書店、1975)

 望海毎談ぼうかいまいだんは、江戸時代中期に、江戸名所旧跡の伝説を描き、作者は不明。「燕石十種第3」5輯に出ています。以下は「望海毎談」です。

牛込行願寺
牛込通りの行願寺と云る天台宗は東叡山開闢よりはるか古よりの大寺にて今の牛込御堀端より西手は酒井空印の御屋敷邊まで此寺の境内なり神楽坂と云は赤城明神の神楽堂の有し所のよしも赤城明神は行願寺の地守なり今の社地は元の宮所にあらず尤行願寺の持を退たり此寺東叡山の末寺にして香衣の院家の地なり今以て二千餘坪の地面にて借地せし人多し

 江戸志(別名、新編江戸志)を引用した御府内備考では……

市ケ谷八幡宮の祭禮に神輿御門の橋の上にしはらくとゝまり神楽を奏すること例なり依てこの名ありと 江戸砂子 穴八幡の祭禮にこの坂にて神楽を奏するよりかく名つくと江戸 穴八幡の御旅所の地この坂の中ふくにあり津久土の社の伝にこの社今の地へ田安より遷坐の時この坂にて神楽を奏せしよりの名なりといふはもつともうけかたきことなり 改撰江戶志

 ほかにも

  1. 市谷八幡の祭礼に、輿こしは牛込御門前の端の上に止まり、神楽を奏したから(江戸砂子
  2. かる坂にあわせてかくら坂になった(新宿区教育委員会「新宿区文化財」)
  3. 穴八幡の旅所がここに来る以前から、祭礼のときはこの場所で神楽を行っていた。その後、穴八幡の旅所ができて、さらに神楽をおこなうので神楽坂と呼んだ(牛込町方書上)。あるいは
  4. 築土明神あげさかで御輿が重くなり、この地に供物を備え神楽を行い、揚場坂は神楽坂といった(牛込町方書上)
  5. 猿楽練習説(神楽坂界隈20周年記念号、みずのまさを)
  6. 「かぐら」は高く聳えているものを見上げるときに命名する。断崖のこと。(班目文雄「神楽坂は神楽に非ず」『ここは牛込、神楽坂』)
  7. カミクラ坂(カミは神、クラは谷・崖)だったのが江戸弁でミがなくなった。

hatiman ここでたびしょとは神社の祭礼で、祭神が巡幸するとき、仮に輿こしを鎮座しておく場所。神輿が本宮から旅して仮にとどまるところです。穴八幡の御旅所は、毘沙門天とは遠くない場所にありました。(ただし穴八幡の正確な位置は地図によって違います)。この『江戸名所図会』の前半10冊は天保5年(1834)、後半10冊は天保7年に書かれています。
寛政1789寛政1789年
1818文政文政1818年


 ここは渡辺功一氏の後を追いかけ、7番が一番よさそうですが、まあ、どれでもいいですね。