成金」タグアーカイブ

記憶の中の神楽坂(3)

神楽坂6丁目辺り

記憶の中の神楽坂(3)6丁目

神祗会館・社殿(神社?)
おばあさんが教祖で、息子が神主さんで、とても趣味が多彩な人だった。
✅ 一代だけの教祖でしょう。

京屋(染物・洗い張り)
神楽坂の名案内人として知られる水野正雄さんのお店。奇しくも神楽坂の名料亭「松が枝」と同じ明治38年の創業。花柳界をはじめたくさんの顧客に惜しまれつつ2003年の大晦日に閉店。
✅ 水野正雄さんは大正9年、神楽坂の染物屋に生まれ、旧制中学を卒業後、昭和15年に中国へ出征。帰国後は染め物洗張りの「神楽坂 京屋」として仕事に励み、その後、新宿区郷土研究会の二代目会長になり、さらに公認タウンガイドの第1号になりました。

戸塚医院(医院)
昭和初期の話だけど、『トツカッピン』いう薬をこの医院でわけてもらって大人たちが服用していた。これを飲むと、あそこがピンと元気になるというのだ。いわゆる精力剤だったのだろう。
✅ 戦後の昭和35年にはなくなっている。それより古い地図では、ありました。下図を。

水野正雄『神楽坂まちの手帖 第3号』(2003年)「新宿・神楽坂暮らし80年②」

白砂(純喫茶)
インベーダーゲーム機が喫茶店にずらりと並んだ頃、よく100円で遊びました。
✅ 2階の喫茶室 白砂 HAKUSAでした。写真左の看板に「日砂 ◯KUSA」と読めます。

新宿歴史博物館「データベース 写真で見る新宿」ID 13227 神楽坂

水文(会席料理)
天丼なら、ここだったね。
✅ 帝都信用金庫よりも神楽坂上交差点に近い場所だったらしい。

田中屋(駄菓子)
あっ、あのころは駄菓子屋って言わない。百日菓子屋って言うの。スコップみたいなので測って百日分入れてくれるの。
✅ 地図から田中屋は昭和47年の「宝石タイヨウ」の場所。現在は薬屋の「ココカラファイン」。時計と宝飾品のタイヨウはビルの上で営業を継続、しかし、令和4年8月31日に閉店

桔梗屋(小間物屋)
女性が使う、つげの櫛やピンどめ。ろうそくなどをご夫婦で売っていた。ご主人は、神楽坂で人気者の幇間だった。
✅ 現在は不動産の「神楽坂商事」。ID 13227の右側には袖看板。下はTVの「気まぐれ本格派」から。

桔梗屋。気まぐれ本格派。1977年。19話

亀十パン(パン・洋菓子)
1960年代、私が小学生だった頃、亀十のサンドイッチを遠足へ持って行けるのが自慢だった。白い紙箱に入っていたハムサンド、ミックスサンドの味が今も思い出せる。コッペパンにピーナッツバターをぬったのもおいしかった。
✅ 現在は「おかしのまちおか 神楽坂」。当時の「亀十」についてはここを

ビストロtaga(フレンチレストラン)
玄関で靴を脱いであがるフレンチの店だった。日差しが差し込むリビングのような空間、カウンターになっていて、出来立てのフレンチをいただくひとときは、幸せだったなあ。誰かのうちでおもてなしされてるような、温かな気持ちになったっけ。
✅ 不明です。

武蔵屋(呉服屋)
店員がたくさんいて、野球のチームをもっていた。
✅ 現在は寝具店の「うらしま」。

武蔵屋呉服店。 気まぐれ本格派。19話。1977年

成金(駄菓子)
「成金横丁」の名前のもとになった、小さな駄菓子屋さん。カタヌキやソースせんべい、親指と人差し指でネチネチと練り合わせて煙を出す昔風の駄菓子があった。
✅ 不明です。「成金横丁」の名前には、加藤八重子氏の「神楽坂と大〆と私」(詩学社、昭和56年)では

成金横丁の謂われとは、聞くところに依ると、余りに逼塞した連中が成金にあやかるように景気のよい名を付けたとか、真偽の程は定かでないが…。

 また、加藤さんの発言を元に地図を作っても「成金横丁」は出てこない。成金はもっと昔?

都市製図社製『火災保険特殊地図』(昭和12年)。大弓場から俥屋まではあくまでも想像図。正確な地図は不明。

神楽坂・武蔵野館(映画館)
現在のスーパー「よしや」の場所にあった映画館。戦前は「文明館」「神楽坂日活」だったが、戦災で焼けてしまって、戦後地域の有志に出資してもらい、新宿の「武蔵野館」に来てもらった。少年時代の私は、木戸銭ゴメンのフリーパスで、大河内伝次郎や板妻を観た。
✅ 毎日新聞社『1960年代の東京-路面電車が走る水の都の記憶』(写真 池田信、解説 松山厳。2008年)で武蔵野館の写真が残っています。さらに詳しくはここに

神楽坂武蔵野間館

越後屋(呉服屋)
「有明」のところにあった呉服屋。
✅ 6丁目の越後屋は、新宿区立教育委員会の『神楽坂界隈の変遷』「神楽坂界隈の風俗および町名地名考」(64頁)では「缶詰の越後屋」。3丁目の越後屋は「呉服」なので、3丁目と混乱している?
 上の写真の左側に佃煮の「有明家」。渡辺功一氏の『神楽坂がまるごとわかる本』(展望社、2007)によれば、昭和4年、有明家が開店。中屋金一郎氏の『東京のたべものうまいもの』(昭和33年)では

まっすぐあるいて6丁目、映画の武蔵野館のさきに、佃煮の…
『有明家』がある。昭和4年開店。四谷一丁目が本店で、ここの鉄火みそ、こんぶ、うなぎの佃煮をたべてみたが、やっぱりAクラスで、うす塩味の鮒佐とはまたちがったおもむきがある。店がよく掃き清められ、整頓しているかんじ。食べもの屋として当然のことながら、好感が持てる。ここの佃煮をいくら買ってもいいわけだけれど、まあ、鉄火みそ、こんぶだったらそれぞれ50円以上、うなぎは200円ぐらいから、買うのが妥当のようである。

 野口冨士男氏は『私のなかの東京』の中で

老舗のつくだ煮の有明家が現存して、広津和郎と船橋屋の関係ではないが、私も少年時代を回顧するために先日有明家で煮豆と佃煮をほんのわずかばかりもとめた。

カフェー・ダイマツ(カフェー)
昭和12、13年頃、今の100円ショップを曲った路地の右側に、とてもおシャレなカフェーがありましね。いつも中には、キラキラしたようなイブニングドレス姿のきれいな女給さんが7、8人いました。
✅ 不明。100円ストアは最初の地図で橙色で描かれています。

駿河屋(模型・プラモデル)
古く、落ち着いた建物に、模型やフィギュアなども置いてあって、ショーウインドーを覗く楽しみがあった。適度な明るさと、ホッとするような懐かしさが混在していた。閉店前の1カ月は、バーゲンセールで、なぜかロシア製とドイツ製の戦車が売れ残っていたので半額で買いました。でも、まだ組み立てていません。
神楽坂6丁目64番地。以前は蝋燭ろうそく屋だった。蝋燭とは、糸や紙縒りを芯にして、蝋を固めた円柱状の灯火用具。

6丁目。地東京市区調査会「地籍台帳・地籍地図 東京」(大正元年)(地図資料編纂会の複製、柏書房、1989)

かくてありけり③|野口冨士男

文学と神楽坂


 野口冨士男氏の『かくてありけり』(講談社、昭和52年)は、読売文学賞を受賞した自伝的小説です。講談社文芸文庫の解説によれば「幼時や少年時に住んだ土地を訪ね」「時代を写し自らの来しかたを凝視」したもの。作者は芸妓置屋で育ち、母も芸者で、子どもから見た、芸妓置屋の家具や、諸肌ぬぎする芸妓、切り火などを述べています。

 私が母方の祖父母の家から人力車で池本へ連れて行かれたとき、どうも姉はいなかったようにもおもわれる。
 第一次世界大戦の終結は大正7年の11月11日だから、私の静岡からの帰京はちょうどその一年前にあたる。いわゆる成金が続出した大戦景気のさなかであったし、花柳界は景気の好不況をもっとも敏感に反映する社会の一つであったから、母も芸者屋の主人として自立することができたのだろうし、私を引き取ったばかりか、父からもとめられればなにがしかの金も融通できたのだろう。大変な売れっ子だったときく母が座敷へ出ていってしまうと、私は泣きさけんでまわりの者をてこずらせたということだが、それまでとはまったく環境のちがう、見知らぬ者ばかりのなかに取り残されて心ぼそかったからであったに相違あるまい。姉がいたら、そんなこともなかっただろうとおもわれるのである。
 実際、それまでとは見るもの、聞くもののすべてが違っていた。
 まず、一般家庭にないものとしては、縁起棚簿記台と三味線掛けとを挙げねばなるまい。さらに銭湯からもどった芸者たちが、乳房と乳房との二つの隆起のあいだにあるくぼみがはっきり見えるあたりまで着物の襟の部分をひきさげた諸肌ぬぎになって、襟白粉をぬるための鏡台が、窓にむかって幾つもならんでいる。夏になるとその窓が明けはなされるから、ただ道を通るだけで半裸の姿が眼にはいる。それをめあてに路地へ入って来て物蔭で自慰をする男は「かき」と呼ばれていて、みつかると水をひっかけられていた。また、座敷がかった場合に着つけの全身像を映すための、縦に長い姿見とよばれる大きな鏡がある。そして、芸者がお出先といわれる待合へ出て行くときには、そのつど火打石切り火がされる。一日に何度も打たれるから、矩形の火打金は中央部の左右がすっかりくびれていた。
池本 母親の家。赤で囲んだ場所、詳細はここに。

昭和12年の神楽坂花街における花街建築の分布。松井大輔、窪田亜矢「神楽坂花街における町並み景観の変容と計画的課題」日本建築学会計画系論文集。77巻第680号。2012年

縁起棚 えんぎだな。芸人の家・料理屋・商店などで、縁起をいわう神だな。
簿記台 ぼきだい。簿記とは経済活動を一定の方法により組織的・継続的に記録・計算する技術。企業が毎日の活動等を帳簿に記録し役立てること,
襟白粉 えりおしろい、襟首から肩にかけてつける濃いおしろい。江戸中期から、上方風の厚化粧をまねて流行した。牡丹ぼたん刷毛はけを使って塗る。
お出先 おでさき。芸者の呼ばれる料亭や待合など。
待合 客と芸者に席を貸して遊興させる所。
火打石 ヒノキ・モミなどの堅い材に細い丸棒をもみこみ、その摩擦熱でおこす火。
切り火 旅立ちや外出などの際、火打ち石で身に打ちかける清めの火。
火打金 ひうちがね。火打ち石と打ち合わせて発火させる鋼鉄片

 さらに、花柳界には水商売という点で相場師や博突打ちに通じるところがあったし、そういう客種もすくなくなかったから、縁起をかついで、たとえばスルというような言葉は絶対に禁句とされていた。味噌のスリ鉢はあたり鉢、スリコギはあたり棒、するめはあたりめ、硯箱はあたり箱、猿はエテ、果物の梨はありのみ、座敷のかからぬことをお茶をひくというので、お茶のことは芸者屋の場合お出、待合の場合はあがりといった。また、博突打ちが一網打尽をおそれるためか網目の図柄の徳利や湯呑みもきらわれていたが、そのほかにも塩は浪の花、爪楊枝は黒文字、金はおたから、蛇は長虫などとよばれて、私は踏み台や階段に腰掛けることを禁じられた。待ち人が来なくなるためだといわれたが、通行の邪魔になったからだろう。
 事実、芸者屋の生活は、第三者がおもうほど呑気なものではない。ひとくちに拭き掃除といっても、火鉢、箪笥、茶箪笥、鏡台の類には艶布巾がかけられる。廊下や階段なども、雑巾がけのあと、卯の花といわれる豆腐のおからを布で包んだもので艶出しされる。前夜の玉代は、朝のうちに出先へさげに行く。三味線や舞踊の稽古、結髪のあとは「いまほどね」とひいき筋の待合へ自身を売りこみに歩く。そして、入浴、化粧と時間に追われて、お座敷のかかりはじめる宵の口からは戦場のような騒ぎになる。踏み台などに腰掛けられていては、たしかに邪魔になった。
エテ 猿。サルが「去る」に通じることから、忌み言葉の言い換えで「得る」を用いた。
ありのみ 梨。ナシが「無し」に通じることから忌み言葉の言い換え。
お茶をひく 暇で用事がない。特に、芸者・遊女などが、客がなくて暇である。茶は暇な日の仕事とした。
あがり 江戸時代の遊郭(花柳界)で使われる言葉で、お茶のことを「上がり花」、転じて「あがり」になったという。
網目の図柄 網のように編まれた模様や形。

網目の図柄

浪の花 塩。一説ではシオは「しおれる」に通じ、忌み言葉の言い換え
黒文字 クロモジの木で作られたものが多かったため、黒文字ともいう
長虫 ヘビ類の俗称。なお、マムシは強毒で、真の虫から「真虫」マムシとなった
艶布巾 イボタろうの液などをしみ込ませた布巾。木製の家具や廊下などをふいて、つやを出すのに使う。イボタ蝋はモクセイ科の植物である「イボタノキ」に寄生するイボタカイガラムシが分泌する蝋で、高級なロウソクの原料のほか、桐タンス・桐箱など桐材の艶出しや、ふすま・障子など建具敷居のすべり剤として用いられる。
卯の花 豆腐のしぼりかす。おから。
玉代 ぎょくだい。芸者や娼妓しょうぎなどを呼んで遊ぶための代金。花代。はな。ぎょく。
さげ 目上から渡されること。官府から支給されること。
いまほど つい先ほど。芸者同志が「今ほど」などと挨拶をかわす。「今日こんにちは」とか「今晩は」に当たる。「会いましょう」と同じ。
ひいき筋 芝居や芸人などを特に目をかけて可愛がってくれる人を、芸人の側から呼ぶことば。